天地わたるブログ

ほがらかに、おおらかに

声を出せば景色が変わる

2016-10-01 18:06:17 | 身辺雑記


大きなことではないが初夏から<声を出す>ことを意識してきた。きっかけは通勤の自転車である。
車道を行くと右へ曲がるときが面倒で右側の歩道を走るようになって久しい。歩道だから歩行者がいる。
こちらは通らせてもらっている身分ゆえ歩行者に当ってはいけないし、脅威を与えるのもよくない。
けれど歩行者はスマホに熱中していたり、そうでなくても下を見ていることが多く、自転車になかなか気づいてくれない。
最初はリンリンと鳴らしていた。

しかしこの音は無機質で冷たいのではと思い、声を出すことを考えた。
「じてんしゃ、とおりまーーす」
である。すると歩行者が鮮やかによけてくれるのがわかった。
ずっと発声練習に凝っている。句会で大勢の前で話すことが多いのでいつもはっきり聞こえるような声を保ちたい。
あえいうえおあお、かけきくけこかこ、となりのきゃくはよくかきくう……などと口を動かしいていたが、発声のための発声は興に乗れない。
実利主義者のぼくは歩行者に向けて実際に声を発して、いちばんよく響く声色はなにか、相手が喜ぶ音響はなにかを追求するようになった。
歩行者の後ろ何メートルで声をかけるのがいいのかも。
いろいろ考えた。
高齢者にあまり大きな声を出すとびっくりしてよろけることもあった。まずい。
「じてんしゃ、とおりまーーす」と一度いったくらいでは聞こえていないケースもある。
二度声をかけるとき、最初を大きくいうのがいいか二回めを大きくいうのがいいかなど考えることは多々ある。

9月奈良へ鷹の全国俳句大会へ出席した。近鉄奈良駅からバスに乗ったが下車する「奈良春日野国際フォーラム」があるのか、いつやって来るのかわからない。
同乗していた鷹の若手も不安そうだがもじもじしていているだけ。
しかたないのでぼくが、
「なんとかフォーラムはどこですか」と前の運転手さんに声をかけた。
バスじゅうに響いたのか全員の視線がぼくに来た。
鷹の若手は自分のことのようにはにかんでいた。情けない。
わからないときは大きな声を出して聞けばいいのだ。
話す場でない公共の空間であっても困っているときは声を発していいのではないか。わけもなく叫ぶのではない。
発声によって自分の置かれている景色が変わる。

痴漢冤罪事件を取り上げた「それでもボクはやっていない」という映画(周防正行監督)がある。
ここで女性は男に対してこの人が間違いなく犯人ですと告発するがそれが正しくない。
このケースでは「わたしのからだを触らないでください」
あるいは、
「わたしのからだから手を引いてください」とまず大きな声を発するのがいい。
いま自分が置かれている事情を公衆に訴えるのがスマートな手立てであろう。
それでだいたいの痴漢は撤退するだろう。
しかし女性はなかなか声を出せない。声を出すのは勇気が要る。

込んだ車両に乗っていて下りにくいとき「下りまーす」ということから始めるのがいい。
これで勇気を涵養する。
ぼくは「じてんしゃ、とおりまーーす」を何十回もいっているうちに、「「下りまーす」は何も考えずに出るようになった。
妻がいると、なにもそんな大きい声を出さなくても、という顔をして、この人私の連れではありません、みたいによそよそしい態度を取る。情けない。

声を出す人を称える世の中であってほしい。
声を出すことによって自分の置かれている風景は確実に変わる。自分自身が変わるし、世の中全体が明朗闊達になるのではなかろうか。
コメント
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