馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

山岳遭難と救助隊との関係。冬富士遭難。

2020-08-19 05:59:29 | 日記

 

連続 激暑 暴暑、狂暑です。

17日も各地で午前中から気温が上昇し、35度以上の猛暑日を記録する地点が相次いだ。気象庁によると、浜松市で午後0時10分に41・1度を記録し、2018年7月に埼玉県熊谷市で観測された国内最高気温に並んだ。

夕方、高瀬海岸までウオーキング。

夕刻の海風は立秋を告げます。

高瀬海岸1

激暑の時期に

凍える季節のブログをお届けします。

厳冬の雪山経験者には、重い遭難死です。

 

冬富士で現実の滑落を目撃しました。

遭難の顛末詳細処理は知りません。

だが、想像すると事前準備、危険対応が未熟であったのか?

そんな疑問が残ります。

 

ブログを読まれる前に。

 

片山右京さんと富士遭難

 

 

遭難参考記事

クリック↓

https://blog.goo.ne.jp/syokunin-2008/e/6432860a16a6f27d0c73fd7218c0ad58

 

https://youtu.be/ZkdCWZCzn3A

 

 

二つの遭難は、間違った過信から?

 

スキー技術は超一流

 

ドライバーテクニックは世界最高

 

だが、冬富士の現実を知らない。

 

対応の未熟。

 

入念な準備不足。

山行計画書未提出。

 

計画書には

メンバー、氏名年齢、性別、血液型、住所、緊急連絡先記入

更に山岳保険加入。

 

天候、風雪状況確認。

 

上記最低限の冬山登山に欠陥があった。

 

遭難事後処理は不明です。

最終的解決は遺家族が負わざるを得ません。

 


再掲

冬富士遭難

2009年12月23日

 F1ドライバーの片山右京さんら3人パーティが富士山で遭難
二人が滑落凍死という悲惨な報道された。
この方が登山をなさっていたとは思いもせず
南極に挑むための訓練していたと報道されていて驚いています。
軽々しく論評出来ないが冬富士登山は日本では最も危険な登山なのは
確かだ。
私は高校 大学と山岳部に所属 春夏秋冬登山に明け暮れ
大学山岳部では年間160日間、山合宿していた。
数々の困難危険生死の分かれ目を経験実感したが
取り分け、冬の富士山登頂は嫌で行きたくなかった。
今から40年以上前1970年(昭和45年)11月25日
三島由紀夫が陸上自衛隊市谷駐屯地で立てこもり
割腹自殺した。
その時私は大学4年生、富士山で雪上訓練をしていた。
中日テレビが冬富士の青春というドキュメンタリーを
撮影していて私達の山岳部も出演していた。
首筋が痛くなるほど仰ぎ見なければならない氷一直線の頂
青白く太陽を受け照り返すアイスバーン
さえぎる視界無しの強風突風
八本刃のアイゼンは堅氷に食い込まない。
数ミリの刃がかろうじて足を支えピッケルでバランスをとって
頂上に向かうが酸素が薄く荒い呼吸と重さ25キロのザックが
肩に食い込む。一瞬たりとも気は緩めない。
滑落すれば数百メートルを滑落、氷とヤッケの摩擦で焦げるほどの
スピードで溶岩に激突死してしまう。
その日、信じられないグループが冬富士に集団で登ってきた。
スキー板担ぎ靴は布製のキャラバンシューズ、防風衣を着ていたが
防寒着ではなかった。
私達を追い抜いてどんどん登っていった。
スキー滑降をするのだろうが、その行動を横目見てなぜか私は違和感があった。
「こいつら大丈夫なの、富士なめてないか」とそんなことがよぎった。
それから時間は覚えていないが、上から人間が滑落してきたのだ。
それも二人、偶然中日テレビが滑落の瞬間を撮影していた。
当然2名とも死亡。
片山さん達の当時の状況は分からないが
テント設営には強風さえぎるもの無し稜線は雪を深く掘りテントが埋まるぐらいにする。
そして雪上滑落訓練は下に横2列の人員で落下を止める。
それでも滑落をとめられない場合を防ぐため大学バレーボール部の
古いネットを譲り受け魚網のごとく杭で雪中打ち込み滑落を食い止める。
古くから言われているように富士は登るのではなく仰ぎ見るのが
一番美しい。
古い話だが、女優だかタレントだかあいまいだが突然南極に
行きたいとマスコミに発表。
話題になった。「おいおい、そんな思いつきで行ってしまうほど甘くないぜ」思ったが。
その後、南極に行ったことで人気が復活、講演活動や
南極グッズを売っていた。
タレントが冒険家として登場 ヨットで大海原走破
大陸を走り回りそれがニュースとなり商売に結びつける。
私目の率直な感想、46歳過ぎて冬富士に登らない、登れない。
F1ドライバーも主役ではあるがそれを支える多くのスタッフがいてこそ
華々しい活躍が出来る。
登山での団体行動には主役はいない。
経験豊富冷静な判断が出来るリーダーでなければならない。
学生時代、他大学の山岳部が冬の剣で遭難した。
その時のリーダーは友人だったが猛吹雪の中で下級生に自分の衣服を与え
凍死した時はシャツ一枚だった。


私の後輩も冬の北アルプス登山で凍死したが
その時は風も無い青空の天候であった。
樹林帯を登高中は雪面が太陽の照り返しで暖かくシャツ一枚で
登れるのだが、まもなくやって来る低気圧の接近への兆候でもある。
低気圧の接近前、風が止み生暖かくなる。
森林限界線を抜けた辺りで低気圧の猛吹雪に巻き込まれ
視界ゼロの中、山小屋に20メートル付近でシャツ一枚直立不動
「熱い!熱い!」叫び狂死凍死した。


冬富士は安易な事故、遭難を未然に防ぐ訓練場だからこそ
用意周到に装備、天気図作成して気象情報を常にチェック
隊員の健康状態を細心の注意をもって観察する。
片山パーティは5合目まで車で来たが
本来訓練であるななら富士吉田口より歩き出し樹海を抜け
体を対応できるように慣らす5合目で一泊
翌日から最適な場所にテント設営 滑落停止訓練
その後天候判断して頂上アタックとなる。
彼らがどのような計画書があったのか分からない。
予断はやめよう。
三島由紀夫割腹自殺と富士登山をなぜ鮮明に覚えているかというと
無事下山して御殿場のバス停に捨てられていた新聞に
三島事件が大きく報道され、楯の会隊員に私の友人がいたからだ。
あれから40年以上、下界での橋の下 濁流、泥流、急流に抗いながら
やっと河口まで来たが大不況という大風に私は立ちすくんでいる。