馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

異端者 その15 攻防

2011-08-28 18:19:22 | 日記

828日(土)午前中 幕張遊歩道を散歩

前夜の豪雨で涼しい。蝉の鳴くのと秋の虫の声が入り混じる。

まもなく暑さはあっても秋だ。

空と海とメッセ高層ビルが濃淡違いのグレー1色でキャンパスに描いたようだ。

      

民主党の代表戦が始まる。

週刊誌の見出しに 馬鹿野朗出馬とあった。

一人増えてバカヤロウカイ 馬鹿野朗海と呼ぶべきか?

馬鹿野海 馬渕 鹿野、野田 海江田 それに一郎が影で加わる。

本命? 忘れてた。前原は外国人献金を外国人参政権を

前払いで貰ったのかな? 

写真写りが良くない。

全員ハンサムとは言えない。

失礼なことか 各候補が掲げる政策を吟味して評価しないとね。

 

マニフェスト厳守するとか修正するとか、やりあっているが

高速道路無料化、国家公務員人件費削減とか数値目標を立てたが

実際出来ずじまい。

戦略に基づいて決定したのではない。

寄り合い所帯の民主党が全党員賛同するビジョンや戦略があるわけ無く

学生の現実感覚のない夢想ビジョンで実行しようとしたことに無理がある。

目標値の具体的根拠もろくにしていなかったのだろう。

民主党には政治理念とか哲学が欠如しているのだろうか

裁判被告人が首相を決めそうな状況?

 

島田伸介も何が何だか分からない引退。

 

30年前

私も会社辞めた訳が分からないと一般社員から言われた。

公に出来ない犯罪に関わることをして退社したのだと推測されもした。

年配の方は事情を理解して

「上司の不正で飛ばされ、戻ってきたら陰湿人事で辞めさせる」と

言って悲しそうに餞別をそっと渡した。

 

34歳の男が組織の傍流にいて、独りで全てを相手にする

しゃかりきな執念で戦った。

 

傍流にいてこそ会社の全体像を客観的に見ることができた。

会社側も組合役員も私の10代の生き様を想像できなかったので

「破壊者 思想的に問題有り」このようなレッテルを貼り追い出さなければ

ならなかった。

 

私の家庭環境は貧しくはなかったが豊かではなかった。

中学生の頃から働いた。外で働くのが好きだった。

近くの中華料理店で自転車でラーメン出前と鶏がら、豚の足を鍋で出汁をとるバイトをしていた。

高校1年の終わりに父親が怪我で1年半入院、そして弟も病で1年入院した。

働き手は母親だけになった。

兄貴も浪人中だった。

高校を辞めて働こうと思ったが恩師の説得で続けたが1年留年した。

その間、ガソリンスタンド、小学校の給仕、証券会社の黒板書き、

ビルの窓拭きをした。

その時代に大人の世界を垣間見た。

小学校で給仕の仕事で先生と宿直すると

夜は酒を飲んだ、深夜、先生方は便所に行かず

廊下にある手洗い水飲み場で小便をした。

校長先生も同様だった。

翌朝、生徒を校庭に並ばせて、礼儀、挨拶を述べる先生を見て

ショックだったが、大人とはこんなものかと感じた。

証券会社で値動きを表示板にチョークで書くバイトもした。

東京オリンピックが開催されたが証券不況だった。

現在山一證券は倒産して消滅したが

当時も山一證券は倒産して新山一證券として再出発した。

証券マンに厳しいノルマを課せ朝会議で数字を達成できない

社員に罵声と黒板消しが飛んだ。

東京オリンピックが開催され、マラソンで円谷幸吉が国立競技場に2位で入ってきた

 

私は相場情報のトランシーバーで刻々と値動きを聞いていた。

そのアナウンスが止まり2位と3位の激しい争いを放送した。

最後は円谷が追い抜かれ3位になるのだが

相場のアナウンサーの「頑張れ」!の声が響き証券立会場は商いが止まった。

後にも先にも相場実況放送がスポーツ放送をすることはなかった。

 

ノルマ達成出来なくて会社に帰れず公園のベンチでじっとしている

営業マンを見かけた。退社も多かった。

17歳で先生と飲み、新任の女教師と交際した。

証券会社にいるときも高校生ではないと偽って

クラブに証券マンと飲み歩いた。

 

 

48年前 湘南の海辺の小さな町

(今では漫画 スラムダンクの舞台だが)

少年無頼の日々

帰らないあの日あの時の風景

遠い記憶の中に埋もれている、様々な思い出をたぐり寄せる。

 

そうやって本当の社会見学をお金もらってしていた。

1年遅れで恩師の計らいで卒業させてもらった。

大学進学も勉強していないのとお金がないので諦めていた。

学校とバイトの合間に独りで山登りに行った。

精神の高揚を登山で燃焼させないと心身が不安定になるからだった。

 

19歳、中学教科書を取り出し勉強始めた。

教科も私は旧課程だったが入試は新課程になっていた。

私学を受けたが軒並み不合格だった。

頭の回転は他人より格段遅いし覚えも悪かったので

いたし方なかった。

最後の合格発表をどうせ落ちると思い夕方見に行った。

諦めて職探しでもと考えた。

 

発表掲示板の補欠合格から見たが私の番号は無かった。

一応念の為、正規合格の番号をなぞると私の番号があった。

教務窓口で受験票を渡すと合格書類と別封筒を渡された。

自宅で別封筒を開けると 「月額○○円奨学金支給」とあった。

年間にすると1年分の学費相当だった。

こうして大学入学した。

奨学金とビルの窓拭きで一定の学生生活ができるようになった。

清掃会社からビルの窓拭きを下請けで請け負ったのだ。

当時は命綱など無く、手すりに捕まってクレンザーを浸した雑巾で拭き

その後、からぶき雑巾で拭き取った。

 

学生時代の話はひとまずこの辺で終わりにして

この青春時代の経験?が労使交渉で鋼の力となって発揮された。

当時 ポーランドの組合出身ワレサが大統領となり

民主化が始まった。

会社との労使交渉で会社側は一流大学出身の優秀な方々だが

交渉会話、文章作成ではとても適わないが

若さと体力そして現場を熟知していることが対抗手段だった。

10代からの実体験が大人の狡猾とまやかしに対処できるようになった。

その頃から経営側が現場を知らない所謂エリートを育成しだした。

有能で数字には強いが、現場での体験が乏しいため

抽象的理論を最もらしく交渉テーブルで述べるが

個々の現場実情を想像して読み切れて

「なるほど」と言う説得力が欠けている。

だから交渉では怖いとは感じなかった。

本来経営者は優れた指揮官で技術、知識、能力が要求されるべきだが

大企業サラリーマン人事は別要素が重視されるので

自分には適当ではない職務に就かされる。

会社の将来像まで考えて考えて考え抜くことはしない。

目の前の難局を安全と保身を第一義として考える。

 

組織の傍流にいたことにより、自分が属する会社の

全体像を客観的に見ることができた。

背水の構えでなければとても切り抜けられないと思えるような

若い頃の苦境。

 

純粋だった。

 リスクをとってしなければ交渉ごとは成就しない。

しかし私にはこの交渉に対する執念があった。

 

 

逃電、窮電、倒壊TV、吉本

経営者はおろおろ、幹部は現場知らず

実働部隊は下請け任せ!

続く

 

十のもので百の戦いをする力は自分にはない。けれども十のものを十だけに戦い切ることはできそうだ。 

山本周五郎