男澤惠一・家系と先祖のBLOG

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

家系譜新聞10月号 他人を自分と思え!

2020年09月30日 | 家系鑑定とアドバイスなど
特集:他人を自分と思え!
私はほぼ毎朝、ウォーキングをしています。いつごろから始めたのかあまり覚えていませんが、すれ違う時、知っている人であっても、そうでなくても挨拶をするようにしています。群馬県高崎の市街地から離れるにつれ、挨拶をすることは、この近辺の人は当たり前のようになっています。

ところがこちらが挨拶をしても、まったく返してくれない男性がいました。年のころは同年代くらいか、少し上くらいの人でしょうか。
下を見て歩いているわけでもなく、まっすぐ前を向いて姿勢も良く歩いているのですが、目を合わせようともしません。
初めは気にもならなかったのですが、そのうち、なんとか挨拶を返してもらおうと、挨拶するときのタイミングとか、距離とかを考えるようになりました。次第に声も大きくなっていきました。
ところが全く変化なしです。それから何年も経ち・・・考えたら7年間挨拶を交わさないことがわかりました。

こうなると、「なんと筋金入りなんだろう!」とか、家庭環境が複雑な人なんだろうなとか、考えるようになり興味を持ちました。それでもこちらとしては挨拶をやり続けました。
そんな時、倫理法人会の経営者モーニングセミナーで、誰が語ったのか講師の名前も忘れましたが、「他人を自分と思え!」という言葉が印象に残りました。
「他人を家族と思え」という言葉は聞いたことがありましたが、「他人を自分と思え!」という言葉は初めてでした。衝撃的な言葉です。自分にとっては・・・。
そこで、他人を自分と同じように思う努力からしてみました。家族やお客様に対して・・・。すると、少しずつ変化が出てきたように思いました。会話が進んだり、今まで話してくれなかったことを話してくれたり・・・。
そして散歩道でも実践してみました。いつもの挨拶を返してくれないおじさんがやってきます。
やってきた男性を自分とダブらせ、姿かたちを変えた自分に向かって「おはようございます。」と大きな声で言いました。
すると、小さな声でしたが、はじめて「おはようございます」の声を聞くことができました。この人はこういう声だったのか!想像した通りの声だなあと思い、嬉しさがこみ上げ、今日はなにか良いことが他にもあるだろうなとか、ウキウキして帰宅したことを思い出します。

それからあとはどうなったか?誰でも知りたいところでしょうけれど、それからはなんと、毎日挨拶してくれるようになりました。
そのうち、奥さんも連れて歩くようになり、その後、犬まで連れてニコニコしながら歩く姿を見ることができました。
奇跡のような話です。「他人を自分と思え!」という思いを持った挨拶が他人の人生まで変えたのでしょうか?
自分の中の何かが変わったのです。挨拶の「音声」が変えたのではないと思います。見えない心が伝わったのだと思います。知らず知らずのうちに変わってきた自分の内面が生んだ奇跡かなあと思います。
気持ちが変わると、形に現れる世界も変わる。人間関係も、仕事も、人生も変わる。
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家系譜新聞9月号 喜びの人生を創造するには?

2020年09月01日 | 家系鑑定とアドバイスなど
喜びの人生を創造するには?
喜んでやる
なにごとも「喜んでやる」ことが大切です。不信したり、嫌々行ったり、止めたいなあと思いながらやっていたのでは、良い結果が結ばれません。
引き寄せの法則をご存じでしょうか?ウイリアムWアトキンソン、エスターヒックス、ジュリーヒックスやジェームススキナー他、いろいろな人が唱えています。
「自分の目の前に起きていることは例外なく自分が引き寄せた」といいます。引き寄せが思ったように順調にいっている人と、まったくうまくいかない人との差は何かといいますと、波動の違いです。

「引き寄せ」は語った言葉や思ったこと(頭の中の言葉)に引き寄せられるのではなく、その人の今の感情や波動に相対するのです。言葉で唱えても、結果をもたらすにふさわしくない感情や波動だったり、悲壮感や深刻さがにじみ出ていたり、心が暗くなっていたら、その波動に相対する結果しか引き寄せられません。空回りしてうまくいかないのです。
金銭にかかわること、金銭を引き寄せたいという願いは成就しにくいと言われます。すでに状況や気持ちが深刻になっていることが多いからです。そうした波動からは財運など来るはずもないからです。

基本は明るい気持ちで、喜んで楽しくやることが条件です。楽しくなければやらないという訳にはいかないですが、やるからには喜んでやることが大切です。一瞬たりとも曇らせてはいけないのは自分自身の心です。心配や不安は何の益にもなりません。
笑いのある毎日にしましょう。末期がん患者、よしもと新喜劇のDVDを毎日見続けていたら、がんが消えていた!嘘笑いでも効果があるようです。脳をだます。困難な時ほど笑う。人は何のために生きているか?人生の目的ということです。それは喜びの実現です。

「いま・ここ」の思想
今、ここしかないという思想は神道からきているようです。存在するのは今この瞬間だけです。過去はもう存在してないし、未来はまだ来ていない。明日は未来だが、明日が来るとそれは今になってしまう。過去も未来も存在していません。
それなのに、人はクヨクヨ過去を悔いて、まだ来ていない未来を心配する。いつも少し未来のことを考えています。水の入ったコップを見るとき、飲んでいる場面を考え、飲んでいるときはコップを置くことを考える。人と話をしているとき、話が終わることを考える。何かに取り組んでいるとき、終わった時のことを意識している。相手が人間でも仕事の場合でもそうです。
「今」をおろそかにしています!存在するのは今この瞬間だけなのに、「今」目の前のことや目の前の人を大事にしていない。これが人の人生。未来を心配し続けて人生が終わる。「今」が最も大切な時間、「今」を充実させ、「今」を楽しむ。
人生の目的ってなんだ?と哲学や宗教が説いてきましたが・・・「今」が人生の目的ではないか。「今」のために今までの人生があったのだ・・・と、「エンライトメント・人生の目的」エックハルト・トールという学者が語っています。そして「今」を喜ぶことが大事。未来は今の延長だから。

お墓参りに行きましょう!
最も大切なわが命の根源は両親です。まずは一番近い先祖は両親。父を敬い、母を愛する。両親を通じて先祖に通じる。そして己の生命の根源にさかのぼれば、そこに神仏にかえる。
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真実の愛とは?その2

2020年09月01日 | 家系鑑定とアドバイスなど
真実の愛もあれば、そうでない愛もあるのでしょうが、日本語では「愛」という一つの言葉で表現されています。新約聖書の原語であるギリシア語では次の4つの単語が使われています。

エロース(έρως)
フィリア(φιλία)
ストルゲー(στοργή)
アガペー(άγάπη)

エロースとはどんな愛でしょうか?エロースは、日本語では性愛と訳するのが一番近い言葉と思われます。異性を愛おしく想い、最終的にその相手と結ばれることを求める心です。「恋」に近いかもしれません。エロースの場合に対象になるのは(大抵の場合)異性です。また、最終的な目的は、精神も肉体も相手と結ばれることで、自分も満たされることです。

フィリアとは、日本語ではよく兄弟愛と翻訳されます。血のつながりのある本当の兄弟ではなく、友人や仕事の仲間などを指します。「友情」が最も近いかもしれません。友人や仲間を大切にし、その人たちのために尽くすことが、フィリアです。フィリアの場合に対象になるのは、友人や同僚、スポーツなどのチームメイトなど、性別を問わず、絆がある人や同じ目標を持っている人です。次に説明するストルゲーと似ていますが、違いは血のつながりがあるか、ないかでしょう。

ストルゲーとは、日本語では家族愛と翻訳されます。血のつながった子供や親を大切にし、助け合うことがストルゲーです。親が子供を大切に守り育てることや、逆に子供が親を信頼して尊敬することなどは、みんなストルゲーになります。

最後のアガペーだけは、日本語の中にはピッタリの言葉がありません。強いて言えば、無条件の愛と翻訳されることが多いようです。アガペーの場合は、対象に条件はありません。また、見返りなども全く期待せず、ただ相手の利益になる事だけを考えて行動します。

このアガペーの愛が、どういうものかをイエスが聖書の中で説明してくれています。その一節を紹介します。
・・・すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」ルカによる福音書10章25節~37節

これはいわゆる”善きサマリア人”と呼ばれる、聖書の中でもとても有名な箇所です。このたとえ話の中で、追いはぎに襲われた人と何の関わりも無いにも関わらず、サマリア人は無条件で助けました。しかも、彼は宿代まで負担しました。このような愛がアガペーなのです。

アガペーの対象は、家族や友人を始め、道ですれ違うような人も全て含まれます。相手が赤の他人であっても、自分が忙しかったり疲れている時でも、必要であればその人の利益になることをするのが、アガペーです。「無条件」というのは、とても難しいですね。しかし、友人同士でも、職場の同僚でも、神の前にはすべての人が夫婦や子供、親兄弟だというのです。親が子に尽くすように見返りを期待せず、無条件で尽くす愛がアガペーです。
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