男澤惠一・家系と先祖のBLOG

「先祖を知れば未来が見える」著者、日本家系調査会の男澤惠一が読者様の幸福を願って書いております。

徳川家に流れる家系の法則

2017年04月02日 | 家系鑑定とアドバイスなど
著書で、夫婦関係が崩れた代から三代、四代、七代目が節目であると申し上げましたが、今日は誰もが知っている徳川家からわかりやすく説明します。
徳川家康公は享年七十五歳。当時としては長生きしましたが、正室のほかに側室やそばめという多くの女性がいました。正室の立場は看板みたいなものですから、女性の多くの恨みを買ったことでしょう。

家康の長男信康は若くして父に切腹させられました 。家康が信長に要求された為というより、家康と信康の対立が原因という説が唱えられるようになりました。 また、死んだのは替え玉であるという生存説もありますが、いずれにしても情関係は恩讐の関係です。長男は死んで跡継ぎになれませんでしたから、弟の秀忠が立っていきます。

孫の代の徳川長丸(1600~1602)は長男で夭逝。 そこで次男の徳川家光(1604~1651)が三代将軍になります。家光も多くの側室がいたことで知られています。

四代将軍家綱の父は第三代将軍・徳川家光。母は側室のお楽の方(増山氏)ですが、竹千代(たけちよ)の幼名を与えられ、世子とされました。延宝八年(1680年)五月初旬に病に倒れ、危篤状態に陥った家綱は、堀田正俊の勧めを受けて末弟の徳川綱吉を養子に迎え、将軍後嗣とし、直後の五月八日に死去。享年四十。

しかし、五代将軍綱吉にも世継ぎが立たず、 綱重の子の家宣が六代将軍になっていきます。このへんの代を見ると、男子が立たず、やっと繋いでいる家系であることがありありとわかります。

六代将軍家宣は五十一歳で他界して、いよいよ七代目の代に大きな節目を迎えてしまいます。家宣の子は、正室が生んだ女子も側室が生んだ男子も、次から次と幼死し、残ったのは家継ひとり。四歳で将軍になるも、わずか八歳で他界してしまいます。

御三家のひとつ紀州から吉宗が立ったので、なんとか十五代まで続かせることができたわけです。

異論の方もおられるでしょうが、様々な家系を見ると、統計的に三代、四代、七代という節目があることがわかります。

自分の代は、どの代を歩んでいるのか?苦労や試練が多いと思う人は、きっと、節目に立っているのかもしれません。しかし、あまり心配しても仕方がありません。とにかく、今、私が生きているということは、なんとか必死になって家系を存続させてきたご先祖がおられるわけです。そのご先祖が、どんなことで苦労してきたのか?

家系とは駅伝のようなもので、ご先祖から渡されたタスキを次の代にしっかり渡せる自分になるために、努力していかなければなりません。そのためには、自分の家系の流れをしっかり知ることが大切です。自分の使命や、一番やるべきことが見えてきます!

日本家系調査会
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「先祖を知れば未来が見える」改訂増補版 男澤惠一著

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