月と歩いた。

月の満ち欠けのように、毎日ぼちぼちと歩く私。
明日はもう少し、先へ。

「頑張れ」という言葉

2017-04-20 | 想い
いつからか世間で「頑張っている人に、『頑張って』と言うのは酷だ」ということが言われるようになった。

正直、なんのこっちゃ、と思う。
鬱病など、本当に精神的に追い詰められている人であればまだしも。
(それも一時期は言われていた説だが、今はそれは関係ないという説もあるようだ)

もし、「もう私は十分に頑張っているんだから、頑張ってなんて言わないでよ!」と怒る人がいたら、その人の想像力を疑う。
もしくは、「言ってくれる人」と「言われている人」の関係性の問題か。

どうして「頑張って」=「あなたはまだ頑張れる余地があるんだから、もっと頑張らないといけない」と捉えるのだろうか?
「頑張って」=「あなたのことを応援している」だろう。

少し前に取材先で5人で飲んでいたときに、そんな話になった。

発端は、ある酒蔵の女性杜氏さんに座右の銘を聞いたら(飲み会の席で)、「頑張る」と答えられたこと。
彼女にぴったりの言葉で、「あああー、わかります!」と興奮し、「私も好きな言葉です」と言ったら、別の人が「頑張ってるときに、頑張ってって言われてもいいんですか?」みたいな質問をしてきたのだ。
そこから先述したような話になった。

私と杜氏さん2人で「全然言いですよー!うれしいじゃないですか!もっとがんばろうと思いますよ!」と答えると、「マジっすか。俺は絶対イヤやわ」と営業さん。

たかが「頑張って」という言葉ひとつで、いろんな捉え方をする人がいるんだなと思った。

小林麻央ちゃんのガンの症状が悪いらしい。
息苦しい、痛い、歩くこともできないと、ブログに書いていた。
短いあの文章を書くだけでもしんどかっただろうなと思うと、それだけで涙が出て来る。

今回の投稿に対してではないけれど、いろんな人のコメントを見ていたときに、「あなたはもう十分頑張っているのだから、頑張らなくていいですよ。もっと力を抜いて」というようなことを書いている人がいて、それはきっとその人の優しさなんだろうけれど(そうやってコメントをするというだけでも労力であり、思いやりだ)、この人はわからないんだろうなぁと思った。
頑張らないと、生きていられないんだということを。

私のような初期のガンですら、気をちょっとでも抜いたら死神に魂を持っていかれるように思った。
自分が今頑張っているから、気力を持って生きたいと思っているから、なんとか生きていられるのであって、力なんか抜いたらすぐ死んでしまうのではないかと本気で思った。
そういう恐怖との闘いだった。

めちゃくちゃ頑張っていたけれど、人に「頑張ってね」と声をかけられたって、「なんでやねん。もう頑張りすぎるほど頑張ってるわ!」とは思わなかった。
ただ、ありがたかったし、うれしかった。

言葉って本当に難しい。
でも、それだけ言葉には「力がある」ということだ。

私もうまくタテマエは使えないにしろ、自分が言葉を発するときには、もう少し想像力をもって、「いろんな言葉の捉え方をする人がいる」ということを知らなければいけないんだなと思う。
自分はうれしい言葉も、人にはツライこともあるのだから。

それが大人(笑)

そうやって思い返してみると、病気のときにいろんな人にたくさんの言葉をいただいて、どれもこれも全部うれしかったし力になったけれど、一番心に残っているのは、「何もできないけど、私も一緒に闘っているつもりでいます」という友達の言葉だった。
私自身は「頑張って」でも十分にうれしく力になるのだけど、誰かを応援する時は、そんな言葉がいいのかもしれないな。
大人になっても、人から学ぶことが本当に多い。

そして、麻央ちゃんが回復することを、毎日心から祈っている。
別にファンでもなかったのに、不思議だなぁ・・・。
ガンという病気を「他人事」ではなく、「自分事」として捉えられるようになったということなのだろう。