校則の問題と先生の力量 観察や思考の変化

校則の問題と先生の力量 観察や思考の変化  2018.04.25.

スマートフォンの普及・ゲーム機など

数年前にカンボジアから中部空港へ昼頃に戻った。電車に乗ったらほぼ全員が席に座っていたが、ほとんどがスマートフォンを操作していた。その時感じたのは、日本人はゆっくり思考する時間があるのだろうかと言う事であった。思考する時間が少ないことや観察がなされないことは、ある一面に過ぎないが重要な問題を含んでいると思われる。今では、ほとんどの高校生が、スマートフォンを持っている様だ。私の時代には(昭和30年頃)、乗り物に乗るときは良く思考の時間にしていた。通学バスに1時間半ほど乗っていたので、いろいろ考えるには丁度良かった。そのころ「死」について興味を持っていたので、かなり考え込んでいた覚えがある。分からないながらも、哲学の本を読んだりして、繰り返し考えていた。教科書以外の本を買えるほど豊かではなかったし、アルバイトで忙しかったので、わずかな時間に図書館で読んでいた。忙しい方が、真剣に向き合えるように思ったことも覚えている。

最近体調を崩し、10日間ほど入院していた。憎まれっ子世に憚るで、幸い大きな問題はなく、無事退院して散歩などを楽しんでいる。入院中は暇であるから自然といろいろ観察することになる。入院している科の病棟に30人ぐらいの看護師さんが働いていて、よく面倒を見て頂いた。ちょうど新人が入ってきた時期で、先輩に連れられていろいろ研修していた。
その時気になったのが、新人の行動である。明らかにいろいろが見えていない。真剣に取り組んではいるが、いろいろなことが見えていない。
これは最近の先生たちにも言えることで、周囲の物事を認識できていない。また観察眼が、かなり衰えている。このために児童生徒とのコミュニケーションが十分に取れなくなってきていると思われる。
新任の看護師さんに聞いてみたところ、高校生時代からスマートフォンをかなり使っていたようである。先の電車の中での観察でもそうであるが、スマートフォンなどを使っていると、周囲を観察することもないし、思考を練ることもない。これでは物事の認識方法が狭くなり、周囲で必要としていることを認識することはできない。

以前にも書いたが、良いコミュニケーションの基本は観察から始まる。相手を見ながら、状態に合わせて話の内容を決めなければならないし、間も取らなければならない。ところが十分に観察ができないと、自分勝手に話しているだけで、相手には通じないことが多い。

高等学校で茶髪の問題が生じたことがある。学校側は、黒髪を要求し、生徒側は生まれて以来の色であるから、このまま認めよと言う。なぜこのような問題が起こるか、出発点を考えてみよう。制服やソックスの問題も同じであろう。
そもそも校則は何のためにあるのであろうか。確か生徒の服装や行動が、あまり乱れないためにあることは理解できる。しかしその校則を使うのは先生である。先生に説得するだけの力量があると、あまり厳しい校則は必要がない。しかし先生にあまり説得力が無くなると、自然と校則で縛るようになり、不思議な校則が強制される。先生が自分の指導力ではなく、校則に頼るようになるからである。
先生の説得力は、観察力に依存するところが大きい。観察ができて相手がどのような状況にあるのかを理解できると、説得の方法が生まれてくる。もちろん簡単ではなく、時間も労力もかかることはある。またすぐには理解してもらえないこともある。しかしもとになる観察力がないと、論外である。
ではどのように観察力をつければよいのであろうか。多くの若者がその具体的方法を理解できていない。研究を始めたころに経験したことであるが、観察をしたことを記録することから始める。例えば日常の生活の中で、通勤なり食事の時でもよい。起こった物事を忘れないように、毎日記録することから始める。毎日多くの時間は割けないから、5-15分ぐらいでもよい。繰り返しているうちに次第に観察したことを、連続的に思い出せるようになる。こうなると観察の入り口に入ったことなる。500時間ほど観察すると、次の段階に入れるようになる。これはカウンセラーの面接の訓練でも同じで、500時間ぐらいすると、1時間の面接をほぼ正確に再現できるようになる。
観察ができるようになると、その問題点は自然と見えるようになる。しかし生徒などを説得するときに重要なことは、こうすれば良いと思うような浅知恵は、すぐに行動に移したり相手を説得したりしないことである。そのことを相手が自然に気付くまで、気長に待つことである。

 私は、小さい時から八ヶ岳の自然の中に一人で遊びに行き、クマやマムシから身を守るために、周囲を常に注意して育った。従って、状況を観察することは得意であった。また小学校4年生ぐらいからいろいろなアルバイトをしていたので、相手の気持ちを読み、必要な行動に出ることは身についていた。このことは、学生の指導にも途上国での生活にもいろいろと役立った。現在の社会では望むべくもない、恵まれた環境であったと思われる。

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教科としての道徳の問題 

教科としての道徳の問題   20181.04.23.

道徳が教科となり、教科書が検定を済ませて3月27日に発表された。戦前には、修身として国の価値観に従うように定められた。森友問題の中心をなす問題点は、教育勅語を児童に教え込むような学校である。教育勅語は、修身の道徳観の基本をなす思想であった。道徳は、社会を構成するうえで重要な課題ではあるが、教科として教えられるようなものであろうか。いじめ問題と絡んで、道徳教育の重要性を力説する人もいるが、見当違いのように思われる。
現在日本で進められている道徳は、ある戦前の思想を基本とする団体によって押し進められており、新しい教科書を作る会や日本会議などと関係が深い。首相などもこの団体と深い関係があり、森友問題などもその関係で複雑さを見せている。森友関連の幼稚園で、教育勅語が教えられていたこととも関係している。


道徳とは何であろうか。人間だけではなく、社会性を持つ動物には、社会を維持するために
守るべきルールが存在し、これが道徳の起源と考えられる。動物が社会を作る以前は、ルールは存在せず、何をしようと制限はなく個体の生存の責任は個体の責任であった。社会ができると、餌や性の相手をめぐって当然のように争いが起きる。この争いを最小限に抑える方法が、ルールの起源であろう。

では、道徳性はどのように学習されるのであろうか。ヒトにおいての道徳性は、単にルールを守るだけでなく相手を思いやることに重要な意味がある。この相手を思いやる心は、教えることのできるものではなく、乳児期に十分に保護者から愛される必要がある。この経験がないと、言葉や頭では理解できても、行動が伴わない。いじめの中などでは、頭で理解できていても、行動に移れない子どもが多い。
カンボジアに居た頃に書いた、働く子どものブログは、親から愛されて育てられた子どもは、自分から親の手助けをしたがることを示している。貧富の差はほとんどない。この点については、このブログの「カンボジアから金森正臣(2006.01.13.)カンボジアの子ども達 4 小さな時から働く メコンの岸辺にて」を見て頂ければある程度理解頂けると思われる。また、他にも「カンボジアから金森正臣(2005.12.15.)カンボジアの子ども達 子どもの成長1」、「カンボジアから金森正臣(2005.12.17.)カンボジアの子ども達2 子どもの自己形成」などを見て頂くと、子どもの自己形成の過程がある程度理解頂けると思われる。

上に述べたようなことを考えると、道徳を教科として教えても実行ができるかは大いに疑問になる。

道徳性はヒトになる以前から、社会性を持った動物に普遍的にみられる行動様式である。

途上国における道徳には、かなり高い倫理観がある
アフリカでの調査中に、人里離れた原野の中で、1人で生活している山姥のようなおばさんに会ったことがある。連れていた現地の数人の案内人に、シャーマンかと聞いてみたところ、多分夫婦げんかをして家出して来たのだろうとさして気にかけていなかった。彼女は、倒木の燃えている近くで生活しており、かなり貧しいことは明らかであった。アフリカの乾燥地の乾季には、倒れた木が10日ぐらいは燃え続けている。ある日の夕方彼女がテントを訪ねてきて、塩をくれと言う。何も持っていなかったので、コンビーフの空き缶に塩を入れて渡した。次の日の夕方、彼女はコンビーフの空き缶を返しにテントを訪れた。私にしてみれば、缶詰の空き缶は捨てるしかなく何の価値もない。しかし何も持っていない彼女にしてみれば、便利で大切な財産に見えたのであろう。
また各地でキャンプをしていても、スリッパや簡単な道具などを取られたことはない。貨幣経済に巻き込まれている場所は別であるが、チンパンジーのいるような奥地に入ると、盗難の心配はほとんどない。彼らは、学校も遠く通ったことなどないと思われる。学校などで教えなくても、十分に道徳的である。

それではなぜ先進国で道徳観が薄れたのであろうか。多分、個人主義と経済主義に振り回されて、共に生きるという社会の基本価値観が薄れてきたからであろう。またマスコミの価値観は、見た眼を中心とした価値観になり、人格の内容に及ぶことは少ない。親の道徳観が薄れると、子どもの道徳も希薄になる。そのような社会において、学校で道徳を教えても、知識は増えるが、行動規範にまで及ぶことは少ないであろう。このような点を文部科学省などは理解できていないために、基本政策が誤っていると思われる。
自己形成が十分にできていない人が集まると、道徳観が薄れるのは当然であろう。
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いじめの問題 7  自己肯定感の追加

いじめの問題 7  自己肯定感の追加    2018.04.10.

自己肯定感の成長は、幼少期の親との関係だけで形成されるわけではない。他の重要な要素として、自分の中の遺伝子が持っている能力を十分に発現させる必要がある。

ヒトは、社会が複雑になったために、遺伝子上の情報だけでは社会に適応できない。遺伝子上にあるきっかけを使いながら、様々なことを学習して行く。例えば、男女間の関係も社会の中で複雑になっており、ゆっくりと成長しながら学習してそれぞれの社会に合った方法を学んでゆく。そのために性ホルモンの発現も、小学校中学年から始まり、22歳ごろまで順次増加して行く。他の動物では、性ホルモンの増加はもっと短時間に起こり、それで十分に間に合う社会である。

身体能力にしても、近縁の動物に比べ長時間をかけて獲得して行く。これは直立2足歩行という大きな変化を含んでいるためもあるが、指や腕の使い方が複雑で、成長につれて学習する様々な段階がある。

社会性の獲得についても、幼児時代、子ども時代、青年期などと分けられているように、それぞれに異なった課題がある。親以外と関係を持ち始める幼児期には、それなりの課題があり、親だけで育てられるものではない。子ども時代、青年期なども同様で、親が全てを育てられるわけではない。学校も同じである。教えれば何でも学習すると考えるのは無理がある。

自分の能力の中でも、観察力や相手の状態を読む力は、それぞれの時代に様々な人と接触ることによって獲得するものである。現在のように、子どもたちに自由がなく、常にだれかから管理されている状態では、生きる力になる観察力などは育たない。自分自身を振り返ってみても、自然の中に一人で出ることによって養われた観察力は、いつまでも使える。マムシやクマに出会う恐ろしさは、自然と観察力を養ってくれた。音、気配、臭いなどあらゆるものを動員して自分を守ることが、生きるために必要な力になる。相手の観察にしても、貧しかったので、新聞配達、炭焼きや木こり、土方の手伝いなどあらゆる場面で相手の必要とすることを見極めることが、次の仕事を得るための重要な要素となる。このことは外国に行くようになって、様々な国で言葉も通用しないまま仕事をするときに大きな助けとなった。

自分の能力を育てることが、自分の肯定感に大きく関係している。前回報告した国立青少年教育機構が調査した結果の評価として、他人の目や評価を気にする結果、自己肯定感が低くなっているのではないかとする考え方は、ものの見方としてはいささか浅いように思われる。日本の教育では、動物の社会などとの比較はほとんどなされない。しかしヒトは、動物の進化の上に乗っており、それることはできない。もっと広い視野でものを見る必要があるように思われる。
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いじめの問題 6  自己肯定感 

いじめの問題 6  自己肯定感    2018.04.04.

NHKの4月3日のニュースで、国立青少年教育機構が調査した高校生の自己肯定感に関する、アメリカ、中国、韓国との比較結果を報じていた。自分は価値のある人間だと答えた割合は、日本では44.9%であり、ほかの3国が80%以上と比較して著しく低い結果であった。

さてこの結果に関する評価が、国立青少年教育振興機構は「集団生活の体験が減って、他人の評価を気にする若者が多くなっていることが原因ではないか」としている。

この問題の原因の追究が、見当はずれのように思われる。前回のいじめの問題5で報告したように、自己肯定感は幼少期の親との関係にかかわることが多い。国立青少年教育機構のような専門機関が、このように見当はずれの視点では、国の教育行政は当てにならない。文部科学省も当然ながら、いじめ問題に関する根本を探ろうとしない姿勢は明らかである。

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