冥土への道

冥土への道  2018.11.24.

最近色々な報道で、死に場所や尊厳死などが話題になっている。しかし肝心の死に行く本人に何が大切であるかは、ほとんど議論されていない。これこそ現代医療も含めて、本質を見誤った議論であり、混迷を深めるだけである。

人の死は、本人がどのように冥土に行くかが肝心で有って、その他のことはどうでも良いことである。死に場所が、病院であろうと家であろうと、ほとんど関係のないことである。死ぬときに本人が、人生に感謝し、喜んで冥土に行ければ、他に望むことはないであろう。病院か家かなど何処で死ぬか、尊厳死を選ぶかなどは、この本質から外れた議論である。延命措置などは、本人が満足を得るために必要な時間であれば、意味があろう。しかし、多くの延命措置は、このような状況にはないことは、医師は普通認識している。しかし医師の意志が弱かったり、本質を捉えていなかったりしていると、付き添いの家族などの意向をくんで延命措置などを行っている。これは本来の医療が、道を間違えて結果であろう。だいたい多くの医師が、死に行く本人に引導を渡すだけの力量がないことが多い。これでは真の医療にはならない。医師は歴史的にみると、シャーマンや坊主から出ており、死者に引導を渡すのが本来の一つの重要な役目である。近代の西洋医術は、病気の部分だけを見て、人間を見ていない。一般に西洋の学問は、部分の法則性によっており、全体を見ることに欠けている。人生において病がどのような役割を持っているかをほとんど理解できていない。このために周囲の状況に左右されて、本質から外れている。

死後の墓についても同様で、様々な議論を呼んでいる。お寺では葬式と墓守で運営している所もあるが、仏教を開いたお釈迦様の教えとは程遠い。お釈迦様は、葬式をせよともお墓を守れとも言ってはいない。お墓を大切にしたからと言って、先祖を大切にしていることにはならない。先祖を大切にするのであれば。その意思を尊重することこそ大切である。時々に反省し、教えに沿うことは意外に大変で、多くの人が実行していない。墓参りをして、形だけ整えた方が、楽なのである。

冥土が近くなると、いろいろなことを考えるものである。本質を間違えると、冥土への行き方も間違える。生きたようにしか、死ねないのであるが。
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地獄の沙汰

地獄の沙汰    2018.11.22.

どこかの車屋の会長が、高額脱税で逮捕された。ベルサイユー宮殿で結婚式を挙げたこともあるとか。各地に豪邸を持ち、外見的には幸せそうであるが、内面はどうであったであろうか。

一遍上人は、この世に生まれてきたのは魂を磨くために来たと考えていた。「物をほしがる心根は、餓鬼の果報にたがはざる」(一遍上人語録 岩波文庫 321-1)と述べ、地獄の中にいると示している。

江戸時代に静岡に住んだ、白隠禅師は、訪ねてきた武士が地獄を怖がることをあざ笑い、武士が怒ったのを見て、「それが地獄」と教えている。地獄は、あの世のことではなく、この世の現実の中に存在することは、仏教では昔から常識である。

即ち自分自身の心の持ち様が、地獄を生み、その世界に溺れることになる。今日本人は、昔からの知恵を忘れつつあるが、日本の伝統的知恵は、忘れない方が人生は豊かになると思われる。
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見かけと競争の社会 

見かけと競争の社会   2018.11.07.

現在の日本社会は、見かけと競争で満ち溢れている。これにはマスコミの影響が大きい。
テレビの報道が始まったころに評論家の大宅壮一氏が、一億総白痴化だと言ったが、まさにそのようになってきている。

人生はそれぞれ自由であるが、自分の人生は自分自身で守らなければ、だれの責任でもない。インターネットもテレビも、見ている間はほとんど十分に考えることは行っていない。そのまま時間だけは過ぎ、人生の部分が失われてゆく。そのことにあまり気付かないまま、人生を消失する。人生の終わりが近くなると、そのことが重要な意味を持つことに気が付く。特に死を見つめるようになると、一層である。私は幸いに30年ほど前から、自分の人生を見つめる機会を得たので、それほど焦りはない。

テレビや新聞を見ていると、その見かけだけの内容に驚くことが多い。いろいろな広告も、ほとんど見かけを意識したものが多く、自分がいかに見えるかに終始している。テレビの人気者も、見かけだけで、ほとんど人生の内容を感じることは少ない。年を取ると老いるのであって、若く見える必要はない。多くの広告が、若く見えることを主体としている。例えば白髪染めで若く見えたからと言って、人生の内容が若くなるわけではない。髪を増やして若く見えても、その人生が充実するわけではない。若い人たちに授業をしていた時も、人から褒められてもけなされても、自分のやったことが変わるわけではないことを常に意識するように話していた。

人生の締めくくりは「死」である。この問題が、人生の集大成としての課題になる。そのことに気づくのが早ければ、少しは対応する方法が生まれる。しかし死の直前であると、対応の仕方が無くなる。この問題は、人からの評価では何の解決にもならない。自分自身でしか対応できない。このくらい明白な問題はないのだが、意外に多くの方が真の意味に付いて語らない。多分語る内容が無く、語れないのであろうと思われる。有名な作家の方で仏教者を自任しておられる方も、大変な人気を集めているのであるが、あまりにも貧弱な内容で参考にはならない。多分得度した時の指導者が十分ではなく(この方も立派な僧籍の方であったが)、本来の修業が出来なかったのであろう。良い指導者に合うことは、現在の日本ではかなり難しい。

この様な社会の状況を反映したか、現在の日本は競争に明け暮れている。スポーツばかりでなく、文学や芸術、果てはレストランまで、様々な賞等を設けてランク付けを行っている。これは上に述べた、自分の課題に向き合っていない真実の価値が理解できない人々によって、人の評価に頼ることに依存する結果の現象と思われる。もともと芸術や文学などは、個人の感性によるものであって、各自の受け方が基本のものである。このことは、民芸なる言葉を広げた柳宗悦の著書「南無阿弥陀仏」(岩波文庫)を読んでみると良く理解できる。

各個人の自立があって成り立つ部分を、競争などのランク付けで目を奪われるのは、自己の存在が危ういことを示している。この様な自立を損なっている現代の社会では、全てが人の評価に頼って判断していると思われる。親がこの様な状態であると、子どもも自己の確立が難しく、自殺などが起こりやすくなると思われる。このことを十分に理解していないと、人生を誤ることになる。友人の早稲田の教授は、アジアの国々と比べて日本の若者は踏み出す勇気がないことを嘆いていたが、このような現象を反映している。
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