トルコと北欧2国

トルコと北欧2国

 

スエーデンとフィンランドのNATO加盟をめぐって、トルコが異議を申し立てている。日本に居ると見えにくい。これはトルコ国内の事情による。

 

トルコの西側半分には、クルド人が多く住んでいる。クルド人は、遊牧を主な仕事としてきたので、定住していなかった。だから貯蓄することもできなく、子どもの教育も十分ではなかった。クルド人は、トルコ、イラク、イラン、シリア、中東などを中心に3500万人~4500万人が居るとされている。国を持たない最大の民族と言われ、最近ではクルドの国を作ろうとする動きが活発である。あちこちで国を作る活動が始まり、トルコ国内でも独立運動が盛んになっている。トルコはこの運動を嫌い、クルド人の土地を自国の領土とするために、独立運動を弾圧している。フィンランドやスエーデンには、独立派のクルド人が逃げ込んでいる。トルコは、シリアなどに居る独立派との連携を弾圧するために武力攻撃をしているので、北欧のフィンランドやスエーデンは、人権問題としてトルコに武器輸出などの禁止措置をして居る。これらのもめごとが、今回のNATO加盟不承認のもとになっている。

 

40年ぐらい以前に、友人がクルド人の研究をしており、面白そうだったので数年前に見に行ってきた。ヒツジを中心とした放牧は、貧弱な草地で生きるための文化であることが理解できた。5000メートルを超す山もあり、冬と夏の放牧地を移動する生活は優れた土地の文化である。多分トルコの西側の文化とは、かなり異なるであろう。

 

今回のトルコの主張は、クルド人の生きている土地までも自国のお領土としようとする我欲の様な気がする。

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オオヨシキリ

オオヨシキリ

 

朝の散歩のときに、川の堤防を歩く。川岸に生えているヨシの間から、オオヨシキリの声が聞こえる。オオヨシキリの体は小さいが、大きな声でなく。ギョギョシ・ギョギョシと聞こえ特徴があるので、すぐに分かる。

 

20年ほど前にカンボジアの支援を始めたころ、メコン川の川岸に有ったホテルに滞在していた。3月ごろのことであったが、ホテルと川の間にあったプールで休んでいた。突然オオヨシキリの声がして、プールの脇のヨシノ原に目をやった。オオヨシキリがヨシにつかまって声を張り上げていた。日本では姿を見ることは難しいが、カンボジアでは普通に良く見られた。

 

これから日本まで長旅をして、繁殖期を迎えると思うと、小さな体なのにとただ感心するばかりであった。

 

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野菜の味

野菜の味

 

サヤエンドウの話を書いたが、昨年は夏野菜を頂いた。ナス、キュウリ、ピーマンなど。

 

驚いたのは70年も前の、自分で作っていたころの味を思い出したことだ。現在スーパーなどで買ってくる野菜は、温室育ちなのか味が異なる。キュウリに味噌をつけて食べた時に、昔の味を思い出して懐かしかった。ピーマンも太陽の下で十分に育ち、懐かしい味がした。

 

味は自分の体験と、強く結びついている。美味しいと思うものは、その思い出とともに蘇る。それこそが味であり、思い出である。決して豊かではなかった時代でも、深い懐かしさとともに思い出す味は、人生の豊かさの様な気がする。

 

珍しいものを食べて、感激することもある。旨いと思う物も数知れない。しかし思い出とともに蘇る味は、人生の豊かさである。

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サヤエンドウ

サヤエンドウ

 

先日安城の会で、サヤエンドウをたくさん頂いた。

 

私には、サヤエンドウに特別な思い出がある。貧しかった小学生の頃、近所にサヤエンドウを上手に作るおばあさんがいた。住んでいたところは標高が高く、山間部でサヤエンドウは貴重品であった。

 

ある時ウサギの餌を担いで山から下りてくると、おばあさんがエンドウ畑に居て、サヤエンドウを持たせてくださった。朝の味噌汁に入れると格別の味で、大好きな食べ物になった。もう70年も過ぎるが、今でもその味が忘れられない。

 

食べ物にはそれぞれの思い出があり、味は思い出とともに美味しさを増す。

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沖縄本土復帰50年

沖縄本土復帰50年

 

沖縄は、本土復帰50年になると言うが、依然大きな問題を抱えている。私が最初に訪れたのは、45年ほど前である。その時の衝撃がまだ忘れられない。皆さん栄養不足から体形が貧弱で、本土との違いを一番感じた部分である。

 

さて50年しても、基地の占領面積は本土と比べ物にならない。国の平等の原則について考えるべき国会議員で、きちんと意見を述べる人はいない。皆自分に降りかからないと、なるべく避けて通。

 

最初に訪れた時に、嘉手納基地のフェンスの外の狭い空き地に、近所の人が並んでいるように見えたのは、狭い土地にへばりついて僅かな野菜を作っているからであった。基地に土地を奪われ、やっと生きている人々の姿を見た。

 

現在の基地の分布からみると、未だに改善されたとは言い難い。本土の人間は、この現実を直視しなければならない。

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二元対立の問題点 2

二元対立の問題点 2

 

二元対立の問題点は、人生全体を見た時に誤りを生じやすい点にある。人生は複雑で、二元対立的思考では理解しえない世界が含まれる。

 

現代科学を学んだ人は、科学の知識は正しく、その延長上で全てを理解しようとする。そしてそれが誤ってはいないと確信する。確かにそれは誤ってはいないのであるが、全体は捉えられていない。そのために思わぬ落とし穴にはまる。

 

人生では、二元対立的思考では理解ができないことが起こる。二元の中間やその範囲を超えた現象が起こる。例えば、皆さんが怒りを覚えると、それを鎮めるのに苦労する。理屈では分かっていても、感情は理解の範囲を超える。男女の仲もそうであるが、理屈の世界を超える。体調が悪くなると、消化も悪くなるし、気分もコントロールが難しくなる。

 

私も若い時には、無宗教であり、宗教などは必要ないと思っていた。しかし年を取って仏教を学んでみると、思っていたのとは全く異なり、自分の探求であることが理解できた。自己の探求なくして、人生を幸せに過ごすことは難しい。

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二元対立の問題点 1

二元対立の問題点 1

 

西洋科学は、基本的に二元対立の思考で進める。

一般的にもこの思考が普及し、物事は分かりやすくなった。しかし大きな問題を抱えていることは、あまり問題にされない。何故かと言うと、分かりやすくて、分かったつもりになるのでそれから志向が進まない。

 

二元対立の思考が悪いと言っているのではない。その特性をよく理解し、分かっているのが部分であることを理解しておく必要がある。最近、正義の味方のように正論を述べ、他を非難する人が多い。これが二元対立の思想の問題点でもある。分かりやすいので、自分では全てを理解しているような錯覚に陥り、相手の非を論破する。しかし人生はそんなに簡単なものではなく、もっといろいろな要因が含まれている。正義の味方的な論調は、十分に注意する必要がある。

 

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