いじめ問題 1 本質と対症療法

いじめ問題 1 本質と対症療法  2012.7.23.   金森正臣

 ご無沙汰しました。
 いじめの問題を書き始めて既に一月が過ぎようとしている。書き始めても、疲れてくると進まなくなり、この間に風邪で2週間ほど体調を落とした。多分十分に書く状態になっていなかったであろうと、自分自身で感じている。これはほんの序章で、まだ書き足さなければならないことが多くあるが、次に何時書けるか不明だから、一応この時点で書けているところまでを載せる。
 この間日本から来られた皆さんからも、日本の教育の現状の問題をよく聞かれるが、多くの方がかなり部分的に見ておられて、返答に窮する。確かに部分だけを見ていると、正しい意見が導き出せて、すっきりすることであろう。部分的には誤りではないが、いじめは全体性の問題であって、部分では問題の解決に近づくことはできない。


 昨日(2012.7.22.)NHKの日曜討論で、いじめ問題が取り上げられていた。いつもあまり本質的なことは話されない番組なので、普段は見ていない。偶然つけた時に、いじめ問題が話されていたので、10分ほど見た。しかし、文部科学大臣の発言も、本質には全く触れず、対症療法に終始していた。

 いじめ問題はしばらく無くなることはない。なぜならば、それを引き起こす社会は、すぐには変われないのであるから。いじめは昔からあったことで、今さら始まったことではない。しかしながら、自殺に至るまでになったことは、最近のことで、最初に大きな話題になったのは愛知県の中学である。今から30年ぐらい前のことであった。その時近くでつぶさに見ていると、報道や社会の動きは、本質とは程遠いところで動いていた。日本人の「半官贔屓」の心情からすれば、自殺した側の問題に迫ることは極めて難しい状況になる。しかしながら、物事の本質を理解するには、そのような心情を抜いて、全体像を見なければならない。その様にして、自殺の本質を考えてみると、幾つかの問題が見えてくる。

 アメリカのFBIの人だったと思うが、自殺の研究者がいて論文を読んだことがある。自殺の現象から分析すると、3タイプがあり、自身が自殺を意識している場合に、2つに分けられる。最初の一つは、自殺の意志は強くないが、自殺と言うメッセージを通じて、自分の窮状を周囲に伝えようとする場合。リストカットや薬物使用など、死ぬ確率の低い方法を選ぶ。第二は、自殺の意志か強く、確実な死の方法を選択する。高いところからの飛び降りや首つり、拳銃自殺など死に至ることが多い。その他に本人は自殺を意識していないが、様々な行動に危険が伴い、ついには死に至るケースである。暴走や危険な冒険などが、これに当たる場合が多い。犯罪捜査を担当していると、自殺をこの様に分析してかからないと、犯罪との境目を見分けられない。

 いじめによる自殺は、自分が自殺を意識している場合で、確実な死ぬ方法を選ぶ場合である。この場合には、自殺に様々なメッセ-ジが込められている。自殺の場所なども重要なメッセージで、誰に対したメッセージを発信しているかは明らかな場合が多い。前出の愛知県の場合も、その後に起こった新潟県の場合も、ともに自殺の場所は自宅であった。このことは、両親に向けて最も強いメッセージが発せられていると考えられる。即ち、自殺者本人の中で、両親に対して最も分かって欲しかったことが伝わってくる。今回の場合でも、マンションとなっているが、多分自宅のマンションではなかろうか。とすれば、両親は、毎日その現場を通らなければならない。自殺した中学生からは、毎日両親が自分の苦しかった現実を思い出して欲しいと言うメッセージが伝わってくる。両親はいかに理由をつけて、いじめた友達を追求してみても、自分の子どもからのメッセージから逃れることはできない。以前の場合も、親はその後のいじめの問題に取り組み、全国の子どもたちの相談役になって貢献してみても、自分自身の苦しみから抜け出すことはできなかったであろう。以前の場合も今回も、子どもは多額の金を使っており、親も気付いていないはずはない。しかしながら、その子どもからのメッセージに正面から向き合わなかったことに、自殺に至る重要なカギがある。以前に不登校の子どもの野外塾をしていた時に、親御さんの一人が話してくれたことが、印象に残っている。彼は色々いじめられている子どもを調査していたが、いじめのひどさで不登校は起こらないと言っていた。ひどくいじめられていても、親に話せた子どもは、不登校にならずに回復していると言っていた。多分親に話せた段階で、子どもは親との共同作業になり、次第にエネルギーを回復してゆくことができる。今回の場合も以前の場合も、家から多額のお金を持ち出しており、両親も薄々気が付いていたはずである。しかし、子どものこの様なメッセ-ジに、正面から迎え合えなかったことが、禍根を残すこととなったと思われる。

 いじめられている子どもも、いじめている子どもも不思議にそのグループから抜け出すことができない。愛知県の場合など、良い友達もおりそのグループに逃げることもできたように思われるが、実際にはそのように行動ができない。いじめ、いじめられのグループは、強い刺激を求めている場合が多く、いつ自分にいじめが回ってくるかと言う不安におびえながら、そのグループ内に留まる。暴走族でも同じような現象が起きていると、元暴走族から聞いたことがある。いずれの場合も、本来最も安定が得られる家庭において、自分の居場所がなく、そのことに対する不安が大きい。子どもは家庭に居場所が安定していないと、その続きに来る社会にも大きな不安を持っている。抱える不安から意識を遠ざけておくために、強い刺激を求めて徘徊することになる。その結果、良い仲間との良好な関係では、抱えている不安が顔を出すので、より刺激の強い仲間に惹かれて行く。このような不安を取り除くには、親の関与が不可欠であるが、上手く関係が取れないことがある。子どもとの関係が、病気などを通してしか持てない状態などは、要注意である。

 問題を自殺者側が抱えていたからと言って、いじめた側の責任が減るものではない。いじめる側も同じ問題を抱えているから、抜けることもできないし、より刺激の強いいじめ方に進んでゆく。強い刺激によって、自分の問題を見ないで済むようにしているうちに、追い詰めるところまで行ってしまう。罪の意識を持つほど余裕がなく、自分の不安を追い出すのに必死で、行動がどんどんエスカレートする。多くの仲間が、いつ自分にいじめの対象が回ってくるかと言う不安におびえながら、強い刺激を求めて仲間に加わっている。この場合も、親との関係は希薄で、親は自分の社会的評価に敏感であっても、子どものメッセージは受け取る余裕がない。このような親の多くは、自分自身の成長の過程で、家庭から十分な愛情を受けていない。社会的に成功していても、それによって人格が醸成され、子どもに十分な対応が取れるようにはならない場合が多い。学問の世界でも同じであって、いかに専門の世界で優れていても、そのことによって人格ができるものでは無い。私も多くの立派な先生に接する機会があり、つぶさに拝見していると、その陰に偉大なる母親を感じることが多い。決して有名な母親でも特別な母親でもないが、普通のことが普通でき、子どもに十分な愛情を注いでいる。その愛情によって子どもは、自分の専門ばかりではなく、自分の人格を成長させることに自然に向いて行く。植物生態学者の沼田真先生、霊長類学者の河合雅雄先生、弟で心理学者の河合隼男先生、動物生態学の森下正明先生いずれの方も自分の人格を高めるために、小さい時に母親に刷り込まれた生き方があるように思われる。


 今後・先生や学校の問題、教育委員会の問題、社会の変遷の問題などについて書きたいと思っている。
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