前川喜平氏の講演問題 校長先生の対応に賛辞

前川喜平氏の講演問題 校長先生の対応に賛辞     2018.03.20.

前文部事務次官の前川喜平氏を、名古屋の八王子中学校が講師として呼んだ問題で、文部科学省から様々な質問が入ったと新聞やテレビで報道があった。上井靖校長先生や市の教育委員会の対応は、見事であった。

この問題にはいくつかの側面がある。名古屋市長が、意見したように文部科学省の目的は、前川氏に自由に話されたら困る問題を抱えているからであろう。加計学園の獣医学部は進行しているが、いまだに大学の承認過程に問題が残り神経質になっていることが伺える。また現在国会で論争になっている、森友問題も関係しているように思われる。森友問題は、表面の問題点とは別に、「教育勅語」を良とする戦前教育に復帰しようとする勢力が、糸を引いている。籠池さんなどはその被害者に近い。日本会議などをバックとする勢力におだてられて、教育勅語などを復活させる学校を計画し、あるところまで進んだところで野党に暴露されて、梯子を外されたと見ることもできる。これは現在財務省の問題になっているが、与党勢力に忖度した行政・官僚機構の問題である。前川氏の問題でも、自民党の文部科学部会に属する議員から、文部科学省に問い合わせがあったという。政権与党としてはなりふりかまわぬ、ごり押しであろう。

もとをただせば、政権が力を持つ政府内に、各省庁の上級官僚の人事権を置いたことに始まる。このために生き残りをかけて官僚は、政府の意向に従わなくてはならなくなる。これが忖度の本質である。

私は、終戦後の次の年に小学校に上がった。教科書がなく、戦前の教科書の不都合な部分は墨を塗って使っていた。田舎の小学校で教科書が配布され始めたのは、3年生ぐらいからで、それも十分にはなく、くじ引きで配布していた。先生も代用教員が多く、小・中学校で18名ぐらいいた先生のうち、正規の教員は校長先生を含めて3-4名で、高校を卒業したばかりの先生もいた。大学に進学してから、先生の養成が戦前の師範学校から大学に移った理由も理解できた。時の政権や各省庁によって、教育が曲げられないようにする仕組みも戦後のものである。これは戦争に向かわないための重要な仕組みである。

今回の名古屋市の中学校の件は、この問題と深く思い起こさせる。名古屋市の教育委員会や校長先生の対応は、私が大学で受けた「教育の自立」を体現するもので、教育が健全であることを実感するものであった。
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いじめの問題 5  児童虐待の問題

いじめの問題 5  児童虐待の問題      2018.03.20.

学校における「いじめ」については、先生方が多くの労力をかけているのに、なかなか解決しない問題である。その背景には、あまり理解されていない幾つかの問題がある。それらの問題を理解したからと言って、すぐに問題点が改善できるわけではないが、精神的疲労感はかなり軽減されるように思われる。

最近全国の警察が、昨年一年間に児童相談所に通告した虐待を受けた子どもたちが、65,000人以上であったことが報道された。13年連続で増加しており、初めて6万人を突破したと言う。この件数は、警察が把握していた件数で、氷山の一角に過ぎない。

虐待にもいろいろの段階があり、日常の生活の中でも見かけることは多い。例えばスーパーなどで買い物していても、関係の良い親子と関係の悪い親子はすぐに気が付く。中には親が自分の意志の通りに従うまで、関係が持てない親もいる。これも一種の虐待の始まりで、子どもはおびえながら行動している。あるいは𠮟つけて従わせる親もおり、より強い方向に向いていると思われる。しかしこの段階程度では、警察の扱う範囲には入ってこないために、通報されている数百倍程度は存在するように思われる。
このように警察に通報されない程度であっても、子どもは人間関係が難しくなり、親からいじめられているようにしか友達と付き合う手段を持てない場合も多い。

虐待を受けていると、人間関係を築くのが難しい。親との最初の出会いがうまく行かず、その後の人生で相手を信用できない状況に陥っている。また、親との関係がうまく行かない子どもは、自分への肯定感が薄く、常に外部からの評価に左右されやすい。周囲から認められるために、目立ちやすい行動に出る場合もある。

虐待する親は、自分の成長期に虐待を受けていることが多く、なかなか他のモデルがもてない。従って、抜け出すことが難しい。頭では理解していても、行動レベルでは相手を刺激する行動が出てしまう。

ストレスが多くなると、虐待が起こる可能性が高い。親が社会的ストレスを感じていると、そのはけ口が弱い立場の子どもに向かう場合も多い。人間関係が上手に持てない子どもは、先生から注意されても改善はなかなか難しい。まして相手を思いやるようになるには、人から愛された経験が重要になる。

しかし現在の状況が悪いからと言って、その人の人生がずっと悪いかと言えば、決してそうではない。菊池寛の「恩讐の彼方に」、明恵上人の襲い掛かった人を弟子にした話、親鸞聖人の襲撃者を弟子にした話など、人はいつどのように変わるか分からない存在で、今悪いからと言って生涯悪いままとは決まっていない。

さて子どもたちにはどの様に接したら良いのであろうか。簡単な解決方法はない。しかしながら、自分がどのような気持ちで子どもたちに接しているかを、常にチェックすることはかなり重要なことである。これには二つの側面がある。一つは自分自身の成長であり、自分の人生をよりよくするために必要不可欠な方法である。自分が子どもと接しているときに、何を考えているかは、自分の特性をよく表しているからである。他の一つは、自分を成長させながらいると、不思議と子どもたちへの圧迫が少なくなり、相手の理解が進みだす。私の経験したところでは、自分を見つめていると学生も反発しながらもどこかに接点ができてくる。また自分がどのような状況にあるかを常に見ていると、かける言葉が自然とかなり制限される。今話しても通じない、無理があるなどと考える場合も多い。しかしながら不思議なもので、必要なことはまた機会が巡ってくる。

自分を見つめ直すには、かなり難しい問題がある。自分一人では、ほとんど進まない点である。私は偶然の機会に「内観」を経験することができ、自分を見つめ直すきっかけになった。同じころ夢分析も行っており、相乗効果もあった。しかしながら最終的には、仏教の修行によって、その奥深さに悪戦苦闘している。その他にもいろいろな方法はあるであろう。自己分析やカウンセリングなど、自分に合った方法を探す必要がある。すぐに自分に適した方法が見つかるわけではないが、常に心掛けてアンテナを張っていると、いつか自分の方法が目の前に現れる。これは人生をよりよく生きるために重要な方法である。

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