サクラ 2  花の記憶

サクラ 2  花の記憶   2019.04.22.

私の育った信州の中央部では、かなり乾燥するのでお茶をよく飲む。ただしほとんどお茶はできない寒いところであるから、静岡や愛知県から輸送されて来ていたのだと思われる。愛知県に来てみると、お茶はかなり異なった文化であるように思う。まるでお茶の質が異なって、上等なお茶を少し飲むように思われる。おまけにお茶請けとされるものが、信州では野沢菜やタクワン、愛知県ではお菓子である。信州でもお菓子が出ないことはないが、ほとんど日常は漬け物である。また愛知県である小学校に伺った時に、抹茶が出され日常的に飲まれているのにも驚いた。私の育った村では、結婚に関する諸行事の時には茶は出さず、サクラの花を塩漬けしたサクラ湯を出す風習があった。お茶は、「お茶に濁す」、「お茶に流す」などとお茶を飲みながら適当に妥協し、争いを起こさないように理解できる言い伝えがあった。そのために、末永く結ばれるべき結納や結婚式では、サクラ湯であった。サクラ湯はサクラの花を塩漬けにして保存したもので、八重桜(集落に3-4件そのサクラの木がある家があった)が良いとされていた。塩漬けするときに酢を少し入れると、花弁の傷が変色しない。九州の友人が、お茶を生産している家では、自分の家の一番良い木のお茶を結納に使うと聞いて、地方による文化の相違を痛感した。
サクラ湯は、かすかなサクラの香りと塩味がうまかった。

サクラについて書きだしたら、いろいろとお記憶が蘇り、まとまりがつかなくなった。続編は後程。
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サクラ 1  花の記憶

サクラ 1  花の記憶   2019.04.17.

今年のサクラは、3月初めにカワズザクラで幕を開けた。
年のサクラの季節は、今は後半になり八重桜が見ごろになってきた。日本でサクラと言うと、ソメイヨシノが主流であるが、私の記憶は他のサクラが印象深い。
菅平に居た最後の3年間ほどは、北側の須坂市から毎日通っていた。冬は急斜面を登るため、雪道はだいぶ慣れた。春になると、スギやヒノキの植林の中に、大きなサクラの木が点在していて、見事な花を咲かせていた。周囲の緑とサクラの花の白は際立って、春の楽しみであった。我が家の山もそうであったが、私有地の境にあるサクラやケヤキは切り残して目印にするのが一般的である。多分私が通勤で見ていたサクラも、同じような役割を持っていたのであろう。もちろんソメイヨシノではないから、花の時期に葉も出始めていた。多分ヤマザクラと思われるが、近くまで行くのが大変なので一度も確認はしていない。オオヤマザクラも混じっていたのかもしれない。標高差も800メートル以上あるので、あちこちのサクラの開花が少しずれて、長いこと楽しめた。

その後大阪に移ってから、毎年の様にいろいろな教室の皆さんに誘って頂いて、吉野のサクラの見物に出かけた。下、中、上とずれるので、年に2-3回は行っていた。どなたかが弁当などを持って来てくださり、座り込んで酒を飲みながら、楽しい時を過ごした。その時々のいろいろな顔が思い出され、懐かしい。話題が発展してカヌーを作ることになり、夏に川に行ったこともある。

愛知県に来てからは、大学にも近くの公園にも沢山のソメイヨシノがあり、学生と花見をしたこともある。夜遅くまで飲んでいて、かなり寒かったのが印象に残っている。

サクラで印象に残っているのは、新潟で調査していた時に出されたアンニンゴ(ウワミズザクラ、アンニゴと言うこともある)の花の蕾の塩漬けである。マタタビの塩漬けとともに、酒の肴にしていた。わずかに香るサクラの香りと味が微妙で、お土産として買って帰った。


今はオオシマザクラの季節になっている。
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トトキ(ツリガネニンジン)

トトキ(ツリガネニンジン)   2019.04.14.

昨夜採ってきたトトキをお浸しにした。今朝は、胡麻和えにして食べた。味はややアクがあるような気がするが、かなり硬い。山菜を取り歴の長い私は、硬さの程度は分かっていて、採るときの感触で採る場所を決めている。しかしいかんせん全体に繊維が固く、歯ごたえがある。長野県の菅平に居た頃は、宿舎の前の草原に出ると、30センチぐらいの伸びたトトキの頂上部分を10センチぐらい摘んでも、柔らかく美味しかった。昨日採ったのは、せいぜい5センチに満たない。茎も細いし、味まで硬い。菅平で食べられるのは5月の連休が終わって、しばらくしてからであるが。長野県では、「山で旨いは、オケラにトトキ、嫁に食わすは惜しゅうござる」と言う言い伝えがあった。

これは寒い地方では、遅くまで雪があったり、霜があったりするので、温かくなると急に成長する。そのために組織が柔らかく、根に貯めていた養分で味が良くなる。学生時代に白馬岳の猿倉の小屋に居た時には、フキノトウが30センチぐらいになってもほとんど黄色で、柔らかく苦味が無かった。雪解けの脇から芽を出すのは5月で、周囲は温度が高くなっているので、1日に20センチぐらいも伸びる。葉緑素も間に合わず、黄色いままで柔らかく、鎌で刈ってきて、そのまま茹で、鰹節と醤油で食べていた。同じようなことは、北アルプスの鹿島槍の平の集落に居たころ、サワアザミと呼んでいたアザミが同じようであった。河原に出るアザミの群落を、50-60センチぐらいの丈で刈り取ってきて、茹でて食べたり、塩漬けにしたりして冬に食べていた。岐阜県でも食べているところがあるようである。多くの山菜料理としてのアザミは、新芽が主で茎を食べる所は多くない。これは雪の多い地方でないと、茎の成長速度がゆっくりで硬くなるからであろう。

私は八ヶ岳の北、白樺湖の北の谷で育った。母方の祖父が山を熟知しており、山菜をいろいろと教えて貰った。小学校4年のころに亡くなったが、かなり多くの山菜を覚えていた。母も良く知っていて、食糧難であった時代であるから、かなり助かっていた。大学を卒業して菅平に就職したら、初任給が学生時代のアルバイト料よりもかなり少なく、これで食った行けるだろうかと心配したが、山菜や貰い物が多く、おまけに宿舎代がただだったので、何とか無事に過ごすことが出来た。池田首相の所得倍増時代で、毎年かなりの額の昇給があったのも助かった。このころ長野県の調理師会の副会長(会長は県知事で、料理はまるで素人)と山菜の本を書いたことがある。私が山菜の種類と時期、下ごしらえの基本を書き、副会長が料理の仕上げを書いた。100ページに満たない本であったが、評判が良くかなり売れた。最初は3000分ぐらい出したが、最終的には6万分ぐらい売れた。菅平研究会と言う儲からない会があって、いろいろ出版していたが、経費が無くなるとこの山菜の本を増し刷りして、資金を稼いでいた。この本の出版記念に菅平で開いた「山菜の会」は、地元の観光協会が引き継いで、現在まで続いているようである。もう50年以上になるのだが。
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山菜の季節

山菜の季節    2019.04.13.

愛知県でも山菜と言うか野草の季節になってきた。3月の末にはツクシがたくさん採れ、炒めて甘辛く味付けし、昔を思い出した。愛知県に来た約40年前、刈谷の駅前の商人宿に泊まった。愛知県は全く親しみが無く、その時が初めてであった。大阪に勤めていて上司の先生の息子さんが時々刈谷に仕事に来ていたので、紹介してもらった。現在はその宿はなくなってしまったが、駅のすぐ近くで2階建ての木造だった。夕食の時に、食べますかと言っておばあさんが出してくださったのが、ツクシの佃煮であった。子どものころ以来で有ったので、大変懐かしく深く記憶に刻まれて居る。その後学校の宿舎では、時間もなくほとんどなくツクシのことは忘れていた。

現在の場所に移ってから、毎朝の散歩道にツクシが出ている。懐かしくなって年に数回は、採ってきて食べる。場所によって時期がずれるので、かなり長い期間楽しめる。

今日は天気が良かったので、夕方も散歩に出た。朝の散歩とは異なる境川の堤防に出たら、トトキ(ツリガネニンジン)が沢山有った。丁度良い大きさになっていたので、一掴みつまんできて、夕食にお浸しにした。懐かしい味がしたが、菅平で食べていた物とはかなり味が違った。山菜は、気候が地方によって異なるので、かなり味が違う。以前にはタラの芽で、味の違いを強烈に感じた。雪国のものは、一気に成長するので柔らかく味があるが、愛知県のものはあくが伴ってくる。愛知県ではタラの芽よりも、コシアブラの芽の方がうまい。コシアブラは、林の中にあり日陰になりやすいからであろうか。他にも、フキノトウやワラビでも違いを感じたことがある。

山菜は、作っている野菜ほどおいしいものでは無い。確かに個性があって、普段の野菜とは異なり、強烈な印象を残す。多くは懐かしさと食べた状況の思い出とで、美味しく感じているのではなかろうか。学生時代に白馬岳のネブカダイラ(ネブカは、ネギの意味。ネブカ平にはシロウマアサツキが沢山ある)で、当時出始めたインスタントラーメンに、シロウマアサツキを沢山入れて美味しく頂いた。国立公園の中にあり、採集禁止であったが、もう時効であろう。
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