青森県むつ市の市長の発言

青森県むつ市の市長の発言

青森県のむつ市長が新型コロナウイルスの最中に、政府がGo Toキャンペーンを始めることについて、これで感染が拡大すれば人災だと発言して、テレビで大きく報じられている。

 

今から40年ほど前に、下北半島の先の大畑に調査に行ったことがある。大畑に基地を置くイカ釣り漁船のネズミ駆除が目的であった。4-5日いてガスによる駆除を行った。薬研温泉に泊まって、カタクリの花を見た記憶があるから6月頃だったように思われる。

 

その頃陸奥湾に放射能漏れを起こした原子力船「むつ」が漂流していて、どこも漁業が全くできない状況であった。とくに養殖漁業は壊滅的打撃を受けた。下北半島を北上する陸奥湾沿いの街道には、おおくのホタテやホヤの養殖業者があり、育った収穫物が全く売れない状況になった。昼食に寄った食堂では、ホタテやホヤが全く売れないからと食べられるだけ食べてくれと、山盛りに殻付きホタテが出された。ホヤも数個調理してもらった。一緒に行った相手が千葉大の薬学部の出で、住友化学の嘱託をしていたように覚えているが、二人で1-2日沢山食べても何の問題も起こらないと話しながら、ホタテの刺身を沢山食べたことを覚えている。

 

今のむつ市の市長さんは、その頃中学生ぐらいで、次々に消えて行く養殖漁業の人々を身近で見ていたであろう。政府の方針で始めた原子力船は、大きな傷跡を残して消え去ったが、政府は十分な責任を取らなかったように覚えている。今回の新型コロナウイルスに対する発言も、地方の人口密度の少ないところは、政府が十分な責任を取らないこと痛感している人の発言の様に思われる。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

山菜 コシアブラ

山菜 コシアブラ

 

最近新聞やネット上で、山菜のコシアブラが話題になっている。山梨県で採集された物などで、放射能が有ると言う。福島の原発の事故による、空中を漂ったものであろう。植物の種類によって放射能の吸収に差があり、残っている期間も異なる。

 

コシアブラは山菜としてはあまり有名ではないが、ウコギ科の植物でタラの芽と同じ仲間である。味もかなりよく似ている。暖かい地方に来るとタラの芽はあまり美味ではないが、コシアブラの方が味が良いように思われる。あまりあくが無いので、天ぷら、お浸し、味噌汁などに適している。

 

色々な動物がコシアブラを好きで、サルやカモシカ・ウサギは枝まで食べてしまう。枝の中は柔らかい組織で、食べやすいのかもしれない。5-6メートルになった木などは、冬には枝先の皮をむいてサルなどが食べている。かなり美味しいのであろう。

 

それぞれの味は、食べる人の経験によって異なる印象を持つことになる。最近テレビなどで、グルメ番組が流行っているが、経験による味の異なることはほとんど無視されている。多分、本当に味わって食べたことのない人が製作するとこの様になるのであろう。単に珍しい、或いは美味しいと言われている食材がもてはやされるだけで、本当の味は伝わってこない。一方大食い番組も盛況で、食に対する感謝や重要さは忘れられている。いよいよ日本も末期症状かと思われる。

一方、以前にも書いたと思うが原子力はまだ人間は使えるようになっていない。取り出すエネルギーよりも、その後に管理するエネルギーの方が膨大である。また福島の原発事故で明らかになったように、原子炉は取り崩すにも大きなエネルギーが必要である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

今日も雨

今日も雨

雨が続き各地で被害が出ている。川の濁流を見ていると、学生時代のことが思い出される。伊勢湾台風の時、大学1年であったと思うが、わが村も洪水が起こり多くの家屋が流された。

 

次の、年であったと思うが山岳部の夏の合宿で、黒部川の上ノ廊下にいた。今は黒部ダムの底に沈んでいるが、場所は薬師岳の下で、赤牛岳との間に当たる。当時はまだ電波事情が悪く、谷の中に入るとラジオもほとんど聞き取れなかった。

ルートは黒部ダムの底の「平の渡し」からではなく、薬師沢を下って黒部の谷底に降りた。低気圧が来ていることは天気図を書いて理解していたから、テント場は河原の岸辺にした。ところが夜になった雨が降り出し、増水の危険を感じて川岸の崖の上にテントを移した。それから3日間ほど降り続き、黒部川は濁流になった。テントまで川を流れる岩がぶつかり合う地響きが聞こえ、時によるときな臭い臭いがした。昼間見る川は異常な光景で、数トンもある岩が、川の表面を流れていた。地理の専門で信州大学の教授になった先輩に聞くと、底にも岩が流れており、従って大きな岩が浮き上がるのだと言う。時々鉄砲水が出るらしく、急に増水することもあった。

 

結局黒部の「上ノ廊下」は諦めて、4-5日後に薬師沢を登って薬師岳の稜線にテントを張った。8月2-3日ごろだと覚えているが、次の朝周囲に霜柱が立っており、これは初霜か、遅霜かと話題になった。後で調べたら、その夏の最高気温がすでに出ているか、後から出るかで、初霜か遅霜かが決まると言うことであった。

 

川の濁流の映像を見ていると、遠い昔の記憶が蘇る。言葉ではなく体験したことは、長く体に残っている。ドイツの哲学者シュタイナーの目指した教育は、この様な身体にめり込んだ知識(教育学者太田堯氏の言葉)を目指したと思われる。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )

七夕の思い出

七夕の思い出

七夕には強い思い出が残っている。カンボジアにいた2007年7月7日の夕方、夕食に出かけて交通事故にあった。若者2人が乗ったバイクにぶつけられ左足の脛の下を複雑骨折した。バイクは逃げてしまったが(カンボジアでは普通。ほとんど捕まらない)、付近にいた高校生が助け起こしくれた。道路の脇でパーティーをしていた家族も手伝ってくれ、近くのベトナム系の病院に運び込まれた。高校生が英語が出来たので助かった。

病院の近くでコショウの店を出していた倉田さんに連絡が付き、すぐ来てくださった。手術室に連れて行かれて天井を見たらカビだらけ。これはダメだと言うことになって、国際医療のSOSに移動することになった。SOSからタイの病院に予約して、移動することに。処がこれがなかなか大変。払える証明が無いと飛行機の予約も取れない。如何せん支払いができることが明らかにならないと、救急車が来ても倒れている患者を載せることはない国であるから。倉田さんにお願いして、私の自宅から、パスポートやら財布やらを持って来て頂き、カードの条件を見たら出国から3月までは保証があるが、1週間ほど過ぎている。そこでカード会社に問い合わせて80万ほどの預金があるかチェック(これは、タイまでの飛行機代と付き添う医師の代金。医師が同行しないと飛行機に乗れない。何にもできない医師だったが)。このチェックに20時間ほど要したので、翌7月8日の夕方の便でようやくタイへ。この間に日ごろ交流のあった青年海外協力隊員が集まってきて、骨折している足を観察。内出血しているので太ももまでパンパンに肥大。痛さもしびれているようで感覚が変になっている。
タイの病院は、アラブ諸国のオイルマネーなどを当て込んだ高級病院で、全て個室。ホテル並みで、シャワー付き、長いソーファなどがついている。しかし足が不便で使うことが出来ない。9日の明け方になって、全身麻酔で手術。目を覚ましたのは病室で昼頃。診察には医師の居る階まで車いすで運ばれる。レントゲンを見せられたら、腓骨の先がずれていて、これでは自分でした方がましかと思ったが、ここはタイ、何ともならない。複雑骨折の場所をステンレスでつなぎ、半年ほどそのまま。年を取っていると回復も遅い。

不思議に不安はなかったが、かなりお金と時間がかかった。飛行機に通常の乗り口の反対側の食事などを積む口から乗る貴重な経験もした。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )