今日のワイコマさんのブログです、
私のコメントでも触れていますが、土曜日曜の二日間は学びの多かったフクシマ行きでした。
何より現地で生の事を運動の中心にいる人から学ぶことの大切さを深めたことで、その一つ政府や自治体の「伝承」ではなく住民自身の運動としての「伝承を!」の立場に立っている、
ここ、「おれたちの伝承館」
そのなかの写真の一枚、
ワイコマさんのブログで能登半島地震、そこからフクシマに続き珠洲市民の原発阻止に思いが飛びました。
今日のワイコマさんのブログです、
私のコメントでも触れていますが、土曜日曜の二日間は学びの多かったフクシマ行きでした。
何より現地で生の事を運動の中心にいる人から学ぶことの大切さを深めたことで、その一つ政府や自治体の「伝承」ではなく住民自身の運動としての「伝承を!」の立場に立っている、
ここ、「おれたちの伝承館」
そのなかの写真の一枚、
ワイコマさんのブログで能登半島地震、そこからフクシマに続き珠洲市民の原発阻止に思いが飛びました。
長く休んでいて、ある日遅れて授業中の教室に入るようなかなり気恥ずかしい気持ち、ある意味では懐かしいような気持ちでブログに指を動かすのもそう悪いものでもありません。
3月2日の「つぶやき」で「緑内障の心配」をつぶやいていますが、逗子駅前の眼科からの紹介で鎌倉小町通りの眼科に2回通っています。どうやら両方とも白内障での手術になるとのこと。もう二十年ぶりかくらいで視力を計って右の1.0は変わっていませんでしたが、左が0.1だったのが0.05になっていました。
何やら近年の健康問題の悪くなる傾向を一手に引き受けていたのが左目だったか、という状況でした。確かにこの一年くらい左目がかすみ、常時三分の一くらい閉じている感じが続いていました。病院ではしっかり開いています、と言われるし鏡をみると確かに開いています。何やら丈夫そうでも内面弱っている身体を象徴しているのかも知れません。
カテゴリーに「Karriの資本論」としています、タイトルも目の話ではありません、あくまでも「この長い休みの言い訳」です。
本題は「資本論」。
まあ、自分の目で読める「最後の資本論です」という思いが無意識のうちに目の話から入ったのかも知れません。
日本共産党発行の雑誌に「月刊学習」というのがあるのですが、その3月号から「独習『資本論』」という連載が始まりました。“不破哲三著『「資本論」全三部を読む 新版』を導きに”と言います。
全国で新学期が始まる4月、4人の孫の最年少が大学進学で入学式の写真がラインで送られて来て3月中旬に会った時の少年顔が、一気に青年顔になっていて驚いたのです。石垣島の孫の兄の方は大学院に進み、妹は奨学金を受けて北京の外国語大学に留学生で行ってます。その子からのLINE電話がうちのばあちゃんの楽しみで、ビデオ電話で40分も話し込んで無料。有り難いことで隣のうちと垣根越しに話している感じです。世界は隣同士だと思える、そういう時代に爺婆として孫世代と共に生きている。
ならば、これからの世界は? どういう世界にしていくのか、して行くことが出来るのか。そういうことになると矢張り『資本論』を頭に入れて置きたくなります。特にこの間『資本論』は、日本共産党の研究を中心に新たな発見を盛り込んで「新版」として刊行されています。更に不破哲三著『「資本論」全三部を読む』も『新版資本論』を受けて「新版」として全7分冊が刊行されました。
「資本論」をめぐる環境の進化に加え、孫たちの各々が新しい日々を歩んでいる息遣いを感じながらなら、「難解資本論」に向かう励みになるというものです。
過日の健診で緑内障の可能性あり、とのことで先日眼科に行って来ました。そこでは緑内障の心配はないが、白内障を気をつけなければいけないので検査し直しましょう、ということになり12日に再検査の予定です。
そんなことで気になり出したのが左目。眼科の検査で右目と左目の視力の桁違いの差に同行していた妻が驚き「私、知らなかった」と。結婚して60年、私がメガネをかけての生活もかなりの年数を共にしていた筈ですが、左右の視力について語り合ったということは無かったわけです。
小学校一二年の頃から視力検査で、右が1.0で左は0.1、渾名がギョロ目とつけられそれが略されギョロ、いつのまにかネコになっていました。目つきがネコ的になっていたのでしょう、妻にそんな話を初めてしました。
もう20年前ほどにメガネをこわし、そのうちつけようとはじめは少し不自由な思いをしていたのですが、段々と慣れて新聞も不自由なく読み同年輩が老眼になっていくのに当方は不自由さがなくなる、ということで目には自信ありと思っていたのです。
その間右目に負担がかかり左目も無理が重なっていたのでしょう、最近は気付くと左目を閉じて物を見ているとか、目ヤニがついて半開きになっていたりしていたのです。
身体全体としてはかなり好調ですので、目にはこれからも頑張ってもらわねばなりません。大事に使えとの暗示と思い再検査まで「つぶやき」を休むことにします。元よりいい加減な「つぶやき」状況ですが、一応休みますと呟いていた方が目にとって良いと思います、悪しからず……。
ワイコマさんのお連れ合い・小松夫人が亡くなられました。
ブログの息子さん娘さんお二人の姿に、我が家で母親である私たち夫婦の娘の手を握って、看取っていた孫の姿を思い出しています。
愛する者の死は、遺された者の人生の芯になってその人を支え続けてくれます、2人の孫の生き抜いている姿でそれを知ることが出来ました。
またワイコマさんのブログを通じて貴女の病身が、私のがんとの闘病を励ましてくれました、有難う御座いました。機会をつくりお墓参りをさせて貰います、安らかにお眠りください、合掌。
今日の「のぞみ会」の話の中心は「自分史づくり」でした。
来年1月1日に葉山町町制100年ということもあり、お互い葉山町に住んでなん年とか、住むようになったきっかけとか話が弾みました。
そのなかで私が開いたのがこの年表です、
昨日の「つぶやき」の「大きな年表」の方ではなくその前に手にした方です、開いたページはここ、1933年(昭和8)です、
この写真の左端「年」欄に「5/7 茂誕生」と鉛筆で記されています。
その場では、本の持ち主本人かなとか、親族の誰かという話になったのですが、その後他の記録もあって本人だと分かりました。この年表だけでも小学校から高校までの入学、就職そして解雇、十五年後に「職場復帰」が記されています。その復帰闘争の記録が、雑誌に記されていることがネットで検索され、名前が◯◯茂でした。
そんなことを通じて年表に自分事のメモを記すだけでも「自分史」の試みになると感じました。
そのパターンを「本」にしたのがこれでしょう、
こちらは↓のようなページ構成で、
左ページは年表、右側に自分史(自分関係史)を記すようになっています。年表ページも事件ばかりでなく、流行り言葉とか映画・流行歌・新商品など世相も含めてその時代への理解が広がる事項が記されています。自分が生まれた時代への理解が幾らかでも広がるでしょう。
「のぞみ会」として、自分史のなかに「のぞみ会と自分」というような内容を入れるようにしたい、と話されました。そして2027年は「のぞみ会40周年」になるので、そこも視野に入れた思いも……、ということになりました。
タカラジェンヌ、なぜストを起こせない
この見出しに「そうだなー」と思い、続きを読みたかったのですが、有料会員ではないので残念と思いつつ……。
年表に出ているかと手近の年表を開いてみました、1933(昭和8)年です、私の生まれる4年前というよりその年の2月20日は小林多喜二が築地署で特高刑事による拷問を受け殺された年です。
その年表には出ていませんでした。
大きな年表を取り出しました、出ていました。
これです、
「労働運動」欄の
6・25 待遇改善を求め大阪松竹座スト、6.27高野山に籠城、7・8解決
とあります、その月の14日には、
6・14 東京の松竹少女歌劇団で解雇・減給反対の争議発生、レビューガール、湯ヶ原に籠城、7・15解決。
昨日に続き、本を⤴️します。
1月1日からもうすぐ2ヶ月が経とうとしてます。
現在は「戦時情報管制下」ではありません、が、
かつてこの本が私たちに教えてくれるような戦争遂行のため、人命無視の情報管制が行われていたのです。
実は先ほどから「つぶやき」ながら以前このブログで、この本を紹介していたことを思い出していました。
これです、
今回本の目次を⤴️しておきます、
ページ数を略して、
母の一生を変えた一人娘の死
「はしがき」にかえて―
二大地震の社会背景と概況
救援よりも国民監視
関東大地震を超えるM8・0
直下型地震の追い討ち
軍機保護法下の新聞報道と学術調査
東南海地震=各県の被害
愛知県—壊滅した軍需工場と勤労学徒の死
静岡県—全滅の歴史を再現した太田川・菊川流域
三重県—大津波荒れ狂う熊野灘沿岸
和歌山県—その他 震央から三〇〇キロの大阪にも被害…. 34
三河地震=各町村の被害
空襲警報下の集団火葬
疎開学童たちの悲劇
ああ、全滅の明治村
最後の天気予報
参考文献と写真出典一覧
あとがき
前回のアップに田村高廣さんの言葉が記されていますが、その最後の部分に大きく共鳴しながらここにも記しておきます。
だから今、『戦争反対』 を口先で叫ぶだけではダメですよ。その戦争をくりかえさないために、どうしなければならないか、もっと考えるべきではではないですか。戦争は人災でしょう。だからこれは政治の姿勢や人の考え方によって防ぐことができる。しかし地震は天災ですから、起こること自体は防げません。だけど今は科学の力でそれを予知できるというでしょう。それなら何百億円もの金を使って戦争の道具である飛行機などの兵器を買うよりは、地震の予知のために必要なコンピューターを買うとか、技術者を配置するようにしたらどうでしょう。たとえばのことです。戦争は、それに人間性もムチャムチャにする、いやですね。そんな体験をみんな、それぞれにしたのですから、戦争反対ということをもっと真面目に考えるべきですよ。ただ言うだけでなしに……
昨日の「つぶやき」については、指先ではなく身体全体の姿勢に問題あり、でした。要は机にiPadを置いて安定させていれば問題なく⤴️されたのです。身体を布団の中に入れ、指先で作業するという怠け者スタイルがまず第一原因。それにもう一つ原因は、Apple Pencil がどこかに置きわすれたままで不器用な指先に頼るからです。
ということで猿的反省して、今日は机上の作業です。
一昨日はこの写真からはじめました、
多分この「つぶやき」に、何回か⤴️されていると思います、そして多分その都度『資本論』を読もうとか学ばねば的なことを「つぶやき」、いくらかそれらしいことをやってきたと思います。一昨日も目も確かなうちに読み終わるくらいのことをしておかねば、というような「つぶやき」で、不破哲三さんの《『資本論』全三部を読む 新版》も開いたりしました。
そして昨日、何となく開いたこの本、
のここに、
昭和十二年を詠み込んだ一首があります、
昭和十二年(1937)に発行された長谷部文雄訳『資本論 第一巻』については、この本のなかで岡本博之氏(元日本共産党中央委員会常任幹部会委員)が、こう書かれています。
もっともこの1939(7)年という年は、日本帝国主義がいわゆる盧溝橋事件をひきおこして全面的侵略を開始した年であり、いっさいの進歩的な言論研究、運動などを圧殺する暗黒政治がつよめられるなかで、長谷部『資本論』は発売禁止の処分を受けました。
昭和十二年(1937)は私の生まれた年で、自ずから関心を持たざるを得ない年です。この年に科学的社会主義理論探究の先達としての長谷部先生が『資本論』(第一巻)の翻訳を遂げ、それに対して国家権力が発売禁止の攻撃をかけて来ていたのです。
改めて自分がどういう時代に生まれたのか、そしてその時代に日本において『資本論』はどう受け止めれていたのか。研究翻訳発行と発売禁止の二つは、自分にとって何を意味しているのか、自問自答の「つぶやき」を始めるべきでしょう。
iPadの不調というより指先不調、昨夜と今夜続けてほぼ「つぶやき」終了直前で全面が消える、チトおかしい!? 昼間落ち着いて「つぶやき」なさいという天の「つぶやき」かも知れません、休みます。