Kaeruのつぶやき

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「昌幸の死」その3・了

2016-09-27 | 「真田丸」

   昨日のブログの終わりが「やがて九度山生活が十年を迎えた頃」でした。このあとは、

【 昌幸は気力も衰え、病気がちになったようだ。食事の味もよくわからなくなった嘆いた手紙を出した頃は、まだ体調もそこそこであったが(No.6)、国元の家臣(略)に送った書状で、当方は何事も不自由であり、病気も再発して散々だ。そこで私のところに馬を一疋送ってほしい。こちらの馬はよそから所望され、やってしまった。昌親のところにある持ち馬から、爪がよい、悍馬をお願いしたいその馬を眺めて病中の慰めにしたいと述べている(No.13)。そして息子信之には、十年を超えた九度山生活で、去年から病中となり非常に苦しい、ぜひ一度会いたいものだと書き送った(No.12)。ところで、通説によると、昌幸と信之父子は第二次上田合戦後、二度と会うことはできなかったといわれている。だが次の文書は、それを否定するものであろう(No.15)。(文中のNoは25日の「九度山時代の真田昌幸文書一覧」表のものです。)】

と書かれて「次の文書」が示されています。

 この文書の内容について平山さんは、

【 真田信之は家臣河原綱家とともに高野山を訪れ、九度山の父昌幸のもとを見舞いに訪れていることがわかる。だが対面は束の間だったようだ。山中のことなので、もてなしもできず、早々に彼らが帰ってしまったことを名残惜しく思うと綴っている。(略)この対面がいつのことであったかは、確認できない。

   その後、昌幸の病状は悪化していった。恐らく慶長十六年のものと推定される三月二十五日付の真田信之宛書状で昌幸は「そちらの様子を久しく承っていないので、青木半左衛門を送った。息災でいるだろうか、ぜひしらせてほしい。こちらは変わりないので安心されたい。但し、この一両年は年老いてしまい、気根(気力)もくたびれ果ててしまった。万事こちらのことは察してほしい。詳細は半左衛門が申し達すことでしょう」と記し、「珍しくもないが、玻璃(ガラス製)の盆ととうさん(唐桟、織物)を送ります」と書き添えてえいる。さらに追而書には「ついでに慮外ながら左衛門佐信繁が伝言を申し入れます。こちらは永い山暮らしで万事不自由であることをお察し下さい。私などは大くたびれの有様です」と記している(No.30)。

   慶長十六年六月四日、真田昌幸は九度山の真田屋敷で逝去した。享年六十五。法名は龍花院殿一翁干雪大居士りゅうかいんでんいちおうかんせつだいこじ。昌幸逝去の知らせを聞いた信之は、父の葬儀を執行するため、その可否を家康側近本多正信に問い合わせた。だが正信は、六月十三日付の書状で、昌幸は「公儀御はゝかり之仁」であるから止めた方がよいと信之を諌め、いつか赦免されるだろうから、それまで自重するようにと述べ、それがあなたのためだと諭している(『信濃史料』21巻68頁)。

   昌幸の遺骸は荼毘に付され、九度山に葬られたが、随行の家臣河野清左衛門が分骨を上田に持ち帰り、長谷寺に葬ったと伝わる(『大日本史料』十二編21巻281頁)。これが現在、長谷寺に父真田幸綱とともに並ぶ昌幸墓所であろう。寺伝では、遺髪と爪が納められているという。】

  平山さんの書かれたものをかなり抜かしましたが長くなりました。昌幸書状を中心として当時の実態が伝わってきます。明日知人が録画した「昌幸」を見る予定ですので、ここらあたりがどう映像化しているのか見てみようと思います。  

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「真田昌幸の死」その2

2016-09-26 | 「真田丸」

   平山さんの『真田信繁』に入る前に、

   今日の「しんぶん赤旗」の草笛光子さんです。「真田丸」のとり役について、【 脚本家の三谷幸喜さんに「草笛さんをイメージして書きます」と言われました。/ 「真田家のルーツ的存在で、おかしなおババでしょう。しっかりしながら、ユーモアもある。皆さんに受けました。三谷さんに私のことをこういうふうに見てくださったんだと、うれしかったです」】と語っています。

   この時代の女性の活躍の記録がどれほど残されているか分かりませんが、ここではドラマ「真田丸」に即してまさに昌幸の母・信之信繁の祖母・とりは真田家のルーツ的であったと思います。記録にあろうとなかろうと当時でも日常生活で、子供らが祖父母から受けた影響はかなり大きかったでしょう。

   現在は爺亡きあと婆の生存が10年前後あるのですから、より大きい影響を与えるのではないでしょうか。我が家の状況で言えば爺生存中から孫に与える影響は圧倒的に婆さんです。一昨夜の新宿のホテルの前で孫と別れる前に爺は握手だけでしたが、婆は握手のあとハグしていました。

 

「真田丸」での昌幸の死に対してネット号泣「昌幸ロス」などという言葉が並べられています。なかには九度山での昌幸の暮しが「衣食住足りて」などと書かれたものがありましたが、昨日載せました昌幸発給の文書が示す生活実態は「生活の困窮と合力の催促」だったのです。

  平山さんの示す生活実態の続きです。

【 信之も父昌幸の窮状を知っており、重臣木村綱茂・原半兵衛に対し、金の準備ができ次第、五枚でも六枚でもいいから送金するように命じている(『信濃史料』21巻51頁)、上田に残った正室山之手殿も信之に頼んで飛脚を仕立ててもらい、高野山へ緊急の届け物を行っている(同50頁)。

   なお、昌幸・信繁父子が収入増をはかるために、「真田紐」なる木綿の紐を作ったとの伝承があるが(『長国寺殿御事蹟稿』)、事実かどうか定かでない。

   昌幸は九度山配流当初、遠からず赦免され故郷に戻れると楽観視していたらしい。兄信綱の菩提寺・信綱寺に宛てた慶長八年三月十五日付の書状では、今年の夏には家康が関東に下るとのことなので、本多正信が恐らく私のことを話してくれることでしょう、そうしたら(赦免されるでしょうから)下山してお目に掛かりゆっくりお話ししたいものですと記している(No.1)。また時期不明ながら、ほぼ同時期とみられる一月三日付の禰津神五郎宛書状では、こちらも変わりはありません、ご安心下さい。年が明けましたので私は下山も近づいてきたと喜んでおります、と書き送っている(No.4)。昌幸のこの口ぶりには、赦免の可能性を伝える情報があったのかも知れない。だが結局、家康が昌幸を許すことはなかった。一向に下山の知らせも来ることもなく、時期だけが過ぎていった。】

  こうして「やがて九度山生活が十年を迎えた頃」と続くのですが、明日にします。

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「真田昌幸の死」その1

2016-09-25 | 「真田丸」

  平山さんの『真田信繁』の第4章が「九度山での雌伏」で、その1 父昌幸の死、その2が大坂入城、になってます。「父昌幸の死」には、真田父子の雌伏、父子の明暗、九度山へ、仕送りに頼る生活、昌幸の晩年、という各節に分けられています。

  「父昌幸の死」はドラマの「昌幸」と対応しているのでしょうが、生憎所用で外出見逃しました。よってドラマをまったく離れて、『真田信繁』の内容です。

   これは『真田信繁』に紹介されている「九度山時代の真田昌幸文書一覧」です。31通で年月日、署名、宛所、備考、内容摘要、出典の順です。

 

  平山さんの記述中この文書に触れている部分を抜書きしておきます。

【(昌幸信繁等の)台所事情は苦しかったようだ、そのために昌幸は高野山周辺から多額の借金をしていた。昌幸らの頼みは、国元からの贈答などであったらしい。このことは、九度山時代に発給された真田昌幸文書を検討するとはっきりとわかる。

  九度山時代の昌幸文書は、生活の困窮と合力(金銭・品物をめぐむこと)の催促、そして気鬱を訴え、家臣の来訪や贈答品を喜ぶもので満ち溢れている。宮下藤右衛門に宛て、いろいろと不自由なので毎年の合力を早く送ってくれるように求めたり(No.9)、借金が多くて難渋しているため、息子昌親(信之・信繁に実弟)から臨時で四十両を用立ててもらい、そのうち二十両を受け取ったが、それでも足りず、残りの二十両を一日でも早く届けてほしい、今年の合力分のうち十両は春のうちになんとか頼む、用意でき次第、五両でも六両でも構わないと申し入れている(No.5)。

  またしばしば飛脚を出したり、随行家臣の池田長門守、河野清右衛門を江戸に派遣したりしている(No.7、9、18)。国元の重臣木村綱茂にも、信之と昌親に取り成しを依頼する書状を送っており(No.21)、これらはいずれも合力(金子)を要請するものだったと考えられる。】

  九度山での謀将昌幸の生活実態はまだまだ続くのですが、今夜はここまで……で。

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爺婆世代と孫世代の世界。

2016-09-24 | kaeruの孫録

   石垣島の孫と爺婆が夜の新宿から神田神保町に出かけてきました。

   新宿の宿泊先で引率の先生にお会いし伺ったところでは、全国の高校の物理関係の自主研究グループの発表会で、50位のグループ代表と教師が集まるそうです。

   何を発表するのか、自動車の構造に関する名を言われました。よく聞く物でしたので覚えているだろうと思っていたのですがでてきません。孫が入学する前から学校としてはグループによって研究してきたことだそうです。何れにしても爺婆が聞いてもまったく分からん話だったでしょう、それでも聞いてみたいとはおもいましたが……。

   先生の許しを得て食事をということに、肉を食べたいというので雨の新宿から地下街へ、地下鉄に乗ってみよう(沖縄には電車がありません)、どこへ、神保町という名前が目につきました。学生街なら安くて旨い店があるだろうと、向かいました。

   雨の街角で焼肉屋はどこか、大通りにはなさそう、私のスマホで見つけ画面のリードで向かい出しました、方向がよく分かりません、孫に手渡して歩き出しましたがやはりダメ、孫が自分のスマホを使いだすと……確実にリードされて焼肉屋に着きました。

   孫のスマホといっても今回の上京のために、というより爺婆と連絡を取り合える様に母親が買え与えたものです。学校では90%がスマホなり携帯を持っているが彼は持っていなかったのです、特に不便を感じなかったというが、スマホの扱いは慣れたもので友人のスマホで身につけたのでしょう。

   焼肉屋で食べながら、自動運転自動車は実現するかね、と聞くと「できます」とひとこと。多分彼らの研究は自動運転自動車を頭にいれながら行われているのか、と思いました。16歳の少年の頭には近未来が現実になっている、爺婆としては彼らから刺激をうけながら未来を見せてもらい、将来を託すことができる、誠に嬉しい時間を過ごせました。

最後に過去現在未来の一体写真を。

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桐一葉落ちて……天下の秋は

2016-09-23 | 本のひと言

   弟の義母が亡くなったのメールが入りました、98歳、100歳まで元気だろうと弟は言っていたのですが……。弟は結婚して義母と一緒に暮らしてきましたので、夏の兄の死去もあっていっそう気を落としていることでしょう。

   家族葬だということで、電話でのお悔みですませ、いずれ折をみてと妻と話したことです。実は昨夜弟と会うつもりでいたのでしたが、100歳近いという日々には予測をこえる急変があるのだと思わせられます。

   妻が病院の診察を終えて帰宅、眼底出血の検査が必要で近くの眼科に行かなければと言います。それで兄の葬儀はいつだった? と聞かれました、家の玄関の外灯のガラスの覆いが落ちてきて頭に当たった時期を確認したい、私が留守中のことだったというわけです。あれは7月?いや6月だろう、そんな時はブログが記録してます、6月はじめでした。

   兄の死からすでに四ヶ月経ったのかと、思い返したのでした。

   そんな話の続きですので、この本です、

このなかの二行、

【ほとんどの人がまず最初に「自分も死ぬ存在である」ことに気づくのは、…… 、肉親の死からであろう。】

 確かに、と思います。


   さて死の他方には成長があります。本当は生があります、孫がもう一人と言いたいのですが、それは望めないでしょう、ならば成長する者の姿を。

   明日石垣島の孫が東京にやってきます。高校一年生で、先輩の幾人かと先生に引率されての「研究発表会」への参加と聞いていたのですが、結局彼と先生ということになったそうです。

   何を発表するのか会場で聞きたいのですが、と伺ってもらったらそういう設定にはなっていないとのこと、残念ですが孫から聞かせてもらい勉強しようと思います。

   今夜のタイトルには散る葉の表すものは、地に落ちて土になる何万という葉の先触れをも表していると言いたいからです。天下の秋は実りの秋でもあります。

   桐一葉落ちて実りの秋の貌     kaeru

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