遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『海と月の迷路』  大沢在昌  毎日新聞社

2015-12-19 09:16:57 | レビュー
 長崎県の端島は通称「軍艦島」と呼ばれる。1974年(昭和49)に閉山となったが、明治から昭和にかけては海底炭鉱の拠点だった。今年2015年、世界文化遺産の登録をめぐり様々な論議があった。結果的に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成要素の一つとして、この軍艦島が内包された形で世界文化遺産に登録されている。
 この作品は、連絡船が来なければ海の中に孤立した空間であるN県H島を設定し、そこでの事件を扱う警察小説である。その島のモデルが「軍艦島」なのだ。著者は「後記」として、この小説が著者の想像の産物であり架空のものであると記している。

 平成7年3月、18歳でN県警察に奉職し、N県警察学校校長で、四十余年の警察官人生に別れを告げようとしている荒巻正史警視の若かりし頃の回顧談という形をとった小説である。
 退職送別会の終盤で、要職にある警察官の多くが中座し退席した後、30人近い人間が席を立とうとしない。警察官になった人間には捜査のことが未だ何ひとつわかっていない時代がある。「誰だってそういう時代がある。失敗や試行錯誤をくりかえして一人前になっていく。ただ警察官には、許される失敗と許されない失敗がある。そこを常に考えて仕事にあたらなければならない」と荒巻が発言したことで、N県警刑事部長の遠山警視正が、荒巻にその宴席に残った若い警察官たちに荒巻のH島での話をしてやって欲しいと懇請する。荒巻は、わずかに顔をゆがめ、後悔と追憶が混じり切なげにすら見える表情を浮かべる。
 遠山「他ではしとらんでしょう」
 荒巻「しとらんね。忘れたわけではなし、忘れようとしても忘られんことだしね」
 そして、荒巻は36年前、荒巻24歳のときH島派出所勤務に赴任した当初の経験を語り始める。1960年頃の話として語られる。それがこの小説である。エピローグで荒巻はいう。事件は解決したのだが、若気の至りとはいえ、何もかもひとりでおこなおうとした結果が招いた事実として、自分にとっては忘れられない失敗だと。

 H島は海底炭鉱の拠点として順次周囲を埋め立てて規模を拡大して行った結果、外観が軍艦のように見える形となった島である。荒巻が赴任した当時、5,000人程の人がその小さな島に住んでいた。H島に住む人は、すべて何らかの形で島の地下数千メートル以上に掘られた炭鉱からの採炭に関わる存在だった。一企業が運営するこの炭鉱業に関わって、小さい島に一つの都市機能がすべて凝縮しているのである。
 鉱山会社の炭鉱施設。鉱長用木造二階建一軒家。木造の社宅、低階層コンクリート製の社員用社宅がある。職員は130人。鉱員約1,400人とその家族が住む五、六階建てコンクリート製のアパート群、鉱山の周辺業務に携わる下請の組夫の住むアパート、そしてそこに、郵便局、共同浴場、商店街・食堂、映画館・麻雀荘・スナックなどの娯楽設備、そして小・中学校の校舎・体育館・運動場・プール、神社・寺・病院施設と隔離病棟などが凝集している。病院や体育館まで入れると70号棟まであり、さらに下請の人々用の住宅がある島である。
 その5,000人余が住むH島に警察官の常駐は2人だけである。先人は岩本巡査であり、荒巻はそこに独身警察官として赴任する。

 警察官2人体制でいけるのは、鉱山会社に外勤という生活指導係の組織と事務所があり、島内のもめごとの大半は住民どうしの解決と外勤の担当者により解決されてしまうからなのだ。岩本巡査は赴任してきた荒巻に企業を讃美する言葉を口にする。荒巻は最初それを奇妙に感じる。岩本巡査はあまり警察官の出番はないという。外勤事務所との連絡を密にしているのだ。

 そんな環境の中で、岩本巡査の妻・千枝子は島の子供たちのために書道教室をやっている。その教室の生徒の一人、浜野ケイ子が行方不明となる。千枝子夫人の体調が悪くていつもより30分ほど早く教室を切り上げて終えた日、帰りづらくしていたケイ子の行方が知れなくなるのだ。勿論、外勤担当者や居住区の人などが手分けしてくまなく島中を捜索したが発見出来なかった。島に魚の干物の行商に来た漁師夫妻が来る途中で偶然に土左衛門を引き揚げた。それが浜野ケイ子の遺体だった。病院の若い外科医師が岩本巡査の依頼を受け検死する。そのとき、荒巻は立ち会い、検分する。検死後のケイ子の遺体の措置を担当した看護婦がふと何事かに気づいたのだが黙ってしまうのを目にした。検死結果は事故死と判断される。
 立ち合った荒巻は後日、ケイ子の遺体の世話をした看護婦に尋ねてみる。看護婦はケイ子の髪の毛のほんのひとにぎりが切りとられていたことに気づいていたのだ。
 事故死と判断されたものの、釈然としない荒巻はケイ子の死因を一人で調べ始める。ケイ子の母親が、鉱員の父親が勤務で山に入って居る時間帯に売春をしていることがあるという噂を耳にする。ケイ子が早く帰りづらくしていたのはそれが関係しているのか。男の出入りがケイ子の死にかかわるのではないかという疑いを持つ。一方、看護婦からの聞き込みで、8年前に似たような13歳の少女の事故死(水死)があったことを知る。そして、そのことは今は島を離れて本土の市民病院の看護婦をしている人が知っているという。
 何の証拠もないところから、独りで捜査をおこなおうとする荒巻の苦闘のプロセスが展開していく。

 この作品には2つの視点があると思う。軍艦島という一鉱山会社の運営する島が一つの自治的都市機能を持ちながら、ムラ的風土を形成している特殊な環境に荒巻が投げ込まれる。荒巻が公務員・警察官という目で眺め、この島の人間関係と日常生活の構造、鉱山という組織構造、軍艦島の社会風土や暗黙の慣習・不文律の存在などを徐々に深く理解していくというプロセスである。一種社会学的視点で、軍艦島という閉じられた社会構造の複雑さが描き込まれて行く。それが事件とどういう風にかかわるかである。
 著者は想像の産物というが、かつて現実にあった軍艦島の社会構造・風土をアナロジー的に描きだしているのではないかというリアル感がある。それは必ずしも軍艦島に限らず、比較的閉ざされた本土のムラ社会にも通底していく日本の風土的側面を描いているのだと感じる。
 また、軍艦島の各種施設の配置や住宅の立地と構造、建物群のつながり状態などが、荒巻の観察として描き出される。その描写は、現在廃墟状態で存在する軍艦島の外観や建物群の映像などと重ね合わせると、想像しやすく、いっそうリアル感が強化される。

 もう一つは、まだ捜査の何たるかがわかっていない荒巻が独りで始めた捜査活動の試行錯誤、顛末、そのプロセスでの葛藤と自覚、生長を描き出すという側面である。
 検死の結果、事故死と判断され、浜野ケイ子は荼毘にふされてしまう。検死自体も綿密なものではなかった。その結果、何の証拠も残っていない。岩本巡査はあまり疑うことなく事故死で処理してしまい、この件は落着したものとするので、荒巻は相談すらできない。鉱山会社寄りのスタンスを取る岩本巡査を荒巻は頼れないのだ。
 漁師夫妻が引き揚げた土左衛門を一旦資材倉庫の一隅に移し、そこから検死のために病院に運ぶことになる。そのためのリヤカーを引いてきた組夫は、現場に呼ばれて来ていた医師に死因を尋ねる。そこに居た外勤の片桐はそれを咎めるが、組夫は海に浮かんだから溺れ死んだとは限らないと言い返す。その組夫は長谷川と名のる。後日、長谷川が荒巻に声を掛けてくる。そして、浜野ケイ子が行方不明と騒いでいた前夜が満月だったこと。満月だったことから浜野ケイ子が何者かに殺されたのかもしれないと言う。荒巻は、この長谷川自身が不審な人物に見え始める。長谷川の素性を調べ始める。
 事故死の処理手続きをした後に、荒巻の心に湧く疑問から始まる捜査は、派出所の正規の勤務外の行動とならざるを得ない。岩本巡査にも知られることなく独自にしなければならないということで、如何に時間を捻出し、何からどのように始めるか・・・・、不審な長谷川の素性もまずどのように調べるか・・・・。隠密裡に進める荒巻の私的捜査が克明に描き出されていく。試行錯誤の連続、その中で長谷川についても意外な事実が判明する。この捜査活動のやりかたのプロセスは、捜査が何たるかをしらない警察官の時代の経験談なのだ。その捜査の有り様、プロセスから、逆に荒巻が捜査について体験を通して学んでいく。このプロセスと荒巻の心理・思考の描写が興味深いし、読みどころにもなる。

 世界遺産に登録され、脚光を浴び始めえいる軍艦島なので、その写真や映像も増えていることだろう。これらの写真・映像を参照しながら、この小説を読み進めると、おもしろいかもしれない。
 
 ご一読ありがとうございます。

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軍艦島について、ネット検索してみた。一覧にしておきたい。
端島 (長崎県)  :ウィキペディア
軍艦島を世界遺産にする会 公式 WEB

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『獣眼』  徳間書店
『雨の狩人』  幻冬舎


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