遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『遊戯神通 伊藤若冲』  河治和香   小学館

2017-12-11 15:57:32 | レビュー
 本書は3部構成の歴史小説である。実在した事実の空隙を虚構で繋ぎ、事実情報を詳細には知らない読者にはどこが虚構か判別できない形で巧妙に仕上げられている。形は3部構成だが、内容で見るとⅠ部が明治36・37年で、Ⅲ部が大正8年以降という形で両者が「近代」の時点において登場人物が若冲と関わるストーリーとして繋がっている。Ⅱ部が宝暦13年(1763)~天明8年(1788)という期間で若冲の後半生のストーリーである。若冲の後半生が、近代の次元のストーリーにサンドイッチ型で組み込まれるというおもしろい構想である。若冲の末裔から、若冲に関する意外な話を聞くという形で展開していく。

 若冲100回忌の3年後という明治36年からストーリーが始まる。主な登場人物は、図案家神坂雪佳と日本郵船の三原繁吉という実在の人物である。そこに若冲の末裔・富田屋玉菜が関係する。著者は若冲没後100年時点で、ごく一部の美術愛好者と京都の呉服業界を除けば、若冲の名は忘れられつつあったという。明治の廃仏毀釈のあおりを食らい困窮していた相国寺に、若冲の『動植綵絵』全三十幅を買いたいという外国人からの申し出があったという。相国寺はこれらを明治天皇に献納する形で、その見返りとして宮内省から金1万円を下賜されて、命脈を保ったというエピソードを著者は紹介している。私はこの箇所を読み、法隆寺のケースを連想した。
 ここでは、日本郵船がセントルイス万博の自社パビリオンで若冲作品の織物化などにより「若冲の間」を作るという企画をストーリーに描き込む。若冲を見直す機運づくりへの仕掛けが描き込まれる。その仕掛人となる三原が大阪の藤田傳三郎の邸宅網島御殿で、若冲の末裔・富田屋玉藻を雪佳に引き合わせる。玉藻は図案家の雪佳に着物の下図を描いて欲しいということと、伏見の油掛にある祖母の家に一度来てほしいと言う。
 雪佳は玉藻の案内で、彼女の祖母の家に赴く。玉藻が取り出してきた古裂の束を雪佳は眺めつつ、玉藻が語る美以と言う名の祖母の話に耳を傾けることになる。その話がⅡ部の若冲の後半生のストーリーに転じて行く。

 このストーリー展開のおもしろいところを取り上げてみる。
1. 伊藤若冲展などで購入した図録で紹介されている若冲は一生独身を貫いた人物という。それに対し、ストーリーは、青物問屋「枡源」の主人である若冲が丹波にしばらく隠棲して不在と世間に説明していた時期があるとし、それは世間体を繕う言い方だったと記す。若冲はその期間実は絵を学ぶという目的で長崎に行っていたいう。そして、その間に交わりをもった女性がいたとする。その女性が思わぬ人間関係の柵の形で登場して来る。

2. 若冲が京に戻った後で、年月を経てから、平賀源内が若冲の子(男の子)を預かって連れてくる。その子は若冲の末弟という形で育てられる。

3. 大阪で薬種問屋を営む吉野五運が、美以つまり玉藻の語る祖母を、大阪から枡源まで連れてきた。枡源の店の続き、ずんと奧に「独楽?」という若冲が絵を描く建物がある。その庭で鶏をはじめ様々な鳥たちが放し飼いにされている。その鳥たちの餌の世話などをする女衆(おなごし)として美以が役に立つのではというのが五運の意図だった。
  美以は体から芳香を発する娘という不思議な特徴を持っていた。その匂いに気づいた若冲は美以に生まれはどこかと尋ねる。若冲は長崎かどこか西国の方ではないかと想像したのだ。異国の匂いがしたと感じたのだ。そこに一つの伏線が織り込まれていた。ストーリーの展開プロセスで、その意味が明らかになる。

4. 青物問屋「枡源」の内情-人間関係、商売の実態、店の主人と使用者の関係など-がかなり克明に描き込まれていく。その環境を通して、若冲がなぜ絵の世界に没頭できたかが見えてきて興味深い。若冲は弟の白歳に家督を譲り隠居すると宣言する。それ以前から白歳夫妻が枡源の商売を実質的に運営していた。一方、奉公人の美以を末弟宗右衛門に妻合わせると言う。末弟というが、実は若冲の子ということを白歳は知っている。一方、宗右衛門も知らされてはいないが感づいている。宗右衛門の妻となった美以の過去及びその後の生き様が若冲との関わりの中で展開されていく。美以の人生遍歴がこの小説のサブテーマでもあると思う。宗右衛門は美以を娶る以前と同様に、美以を妻とした後も、毎夜遊郭通いを突然の死まで続ける行動を取る。

5. 明和5年(1768)に、東町奉行所が錦市場の差し止め通達を出してくる。錦市場のはじまるころから存在した枡源は、町年寄りからも頼られる存在である。この晴天の霹靂のような錦市場の死活問題について、具体的に描き込んでいる。それは枡源の統領と言うべき若冲の生き方に大きな影響を投げかける。そして、このストーリーでは、宗右衛門の死がそこに絡んでくる。錦市場の差し止め事件の経緯が大きなエポックメーキングとなる。
6. 若冲の人生に光を当てたこの小説に若冲の作品が大きく関わるのはあたりまえの展開である。著者は特に、若冲の人生の緯糸として、長い時間軸でいくつかの作品群を継続的にストーリー展開に絡めていく。頻繁にでてくる作品群名を列挙しておこう。
  『動植綵絵(どうしょくあいえ)』、『乗興舟(じょうきょうしゅう)』、『玄圃瑤華』、『群獣図』、『花鳥版画』、五百羅漢像

7. 若冲の人生史を描けば、当然ながら若冲に関わった人物群が若冲という鏡に写る人物として登場する。若冲の人生のある局面に興味深く織り込まれて行く実在の人物名を幾人か挙げておこう。
  大典禅師(相国寺の僧)、吉野五運(寛斎:大坂の薬種問屋の主人)
  松下烏石(石摺りの名人)、平賀源内

8. サンドイッチ型のストーリー構成という仕掛けの「近代」時点に目を転じると、それは若冲の伝記小説ストーリーに対する、ビフォー、アフターという関わりであるが、そこにも実在の人物のある局面が鮮やかに描き込まれる。
 神坂雪佳 2003年に京都国立近代美術館で「神坂雪佳」展という回顧展があった。
      それを鑑賞した折に、購入した図録が手許にある。そこには、
      「琳派の継承・近代デザインの先駆者」というサブタイトルが付いている
      この小説の中ではその雪佳が黒子のような形で登場していておもしろい。  三原繁吉 この実業家の存在を私は初めて知った。若冲再発見者だったとは。
 藤田傅三郎 現在の藤田美術館創設の基となる実業家。逸話がおもしろい。
 橋口五葉 この人の存在も初めて知った。漱石本の装丁を手掛けた図案家。浮世絵研究者
 

 著者が「あとがき」に書いていることから、2つご紹介しておきたい。
 一つは、三原繁吉が浮世絵愛好者として本文に記されている。その三原コレクションは戦後リッカー美術館に入り、現在平木浮世絵財団に所蔵されている。その中に『花鳥版画』があり、六図がここに所蔵されそれ以外の存在は確認されていないという。調べてみると、「平木浮世絵美術館」が東京ベイエリアの豊洲に開館されている。
 もう一つは、この小説の種明かしをいくつか書き込んでいることである。その冒頭の種明かしに今興味を持っている。「若冲は妻子がいなかったことになっていますが、その筆塚を没後の三十三回忌に建立した清房という人物が、なぜか若冲の孫と名乗っていること」と記している点である。石峰寺に若冲の墓があり筆塚が建立されていることも当寺を訪れた時に知った。しかし、そういう文言が記されているところまで、確かめなかった。再訪したときは、その記載があるのか、一度確認してみたい。ところがである、ネット検索していて、この人物の研究をしている人が居て、筆塚の建立者が「若冲の弟の白歳の孫」と判明したと2012年9月時点の報道にあったというブログ記事を見つけた。これまた、おもしろいものである。この小説は2016年9月に初版が出版された。

 明白な史実に、記録に残る文言の解釈、そこからの想像の膨らみを虚構として織り交ぜて、虚構を積み重ね一つの作品世界が生み出される。「若冲の孫」という記述を種の一つにしたこの作品の面白さは想像世界としては揺らがない。ストーリーを楽しめるのはまちがいない。そこから逆に、若冲の残した作品に関心を寄せていく契機にもなれば、読者にとっては一石二鳥でもある。また、若冲の作品を見知っていても、その作品群のストーリー中の織り込み方、著者の解釈や描写を楽しめる。事実私は楽しくかつ興味深く読んだ。時折、手許の展覧会図録を参照してみたりもした。
 
 ご一読ありがとうございます。

人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。

本書からの関心事項としてネット検索した事項を一覧にしておきたい。
伊藤若冲   :ウィキペディア
NHKスペシャル 若冲  :「NHK]
伊藤若冲の作品画像コレクション  :「NAVER まとめ」
伊藤若冲の秘密を画家が暴露! 印刷と実物でまったく異なるように感じる本当の理由
    :「トカナ 知的好奇心の扉」
相国寺について   :「臨済宗相国寺派」
石峰寺と伊藤若冲  :「石峰寺」
宝蔵寺と伊藤若冲  :「宝蔵寺」
若冲忌 2012-09-11  :「ふろむ京都山麓」
若冲筆塚  :「daily-sumus2」
神坂雪佳  :ウィキペディア
神坂雪佳 京都ゆかりの作家  :「京都で遊ぼうART」
橋口五葉  :ウィキペディア
平木浮世絵美術館  ホームページ

インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


人気ブログランキングへ
↑↑ クリックしていただけると嬉しいです。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿