遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『百枚の定家』 梓澤 要  新人物往来社

2011-09-09 22:14:20 | レビュー

1998年11月に出版されたこの本は藤原定家が晩年に作ったという『小倉色紙』についての物語だ。ご存じのとおり定家は『百人一首』を選んだ人と言われている。また、それ以前に定家は『百人秀歌』を選定している。この百人一首の歌を一首ずつ一枚の色紙に書かれたものが『小倉色紙』だ。勅撰和歌集の選者である定家が百人一首を選んだ。しかしその選ばれた歌には秀歌と凡作が交じっていて、その凡作と評価される作者がもっと良い歌を詠じているのに定家がそちらをとりあげていない事実が謎とされる。そこから、この百首の歌によって定家がその背後に、何らかのメッセージ、謎を潜めさせたのだという見方がある。百人一首の鑑賞ガイドブックや研究書以外に、この謎解きのジャンルがあり、幾つもの本が出版されている。
例えば、『百人一首の秘密 驚異の歌織物』(林直道・青木書店)、『絢爛たる暗号 百人一首の謎を解く』(織田正吉・集英社文庫)、『百人一首の魔方陣 藤原定家が仕組んだ「古今伝授」の謎をとく』(太田明・徳間書店)、『QED 百人一首の呪』(高田崇史・講談社文庫)などがある。この本の著者は、歌そのものではなく、百首の歌が認められた百枚の色紙に潜む謎を追究する。小倉色紙をその真作贋作判定および殺人事件を絡めたミステリー仕立てにした。色紙というユニークな切り口から語られた646ページの長編だが、面白く読み進めることができた。副次的に学ぶ点も多く、教養小説的な側面を興味深く読んだ。

著者はあとがきに、「運命に翻弄され、知識人や文化人、それに権力者の俗物根性にもてあそばれ、さまざまな毀誉褒貶にさらされてきた百枚の色紙--。その生の声を聞きたい、それが私がこの物語を書きたいと思った動機でした」と記している。定家の死後、『小倉色紙』はそれを入手した人々の思惑や欲望の渦の中で翻弄され、動き、はては贋作すら生み出されていく。なぜそうなったのか。結局、生の声とは色紙に関わる人間達のぎらぎらした生の姿なのだという思いがした。

プロローグは連歌師宗祇が死に臨む場面の描写から始まる。虚空に定家卿の姿を見ているかの如く訴えかける。「あの色紙は、あれは・・・・、拙者が作ったのではござりませぬ。拙者はただ・・・・」「拙者はただ、あなたさまを・・・・」。次に、古田織部の京屋敷でのただならぬ動きを南隣の屋敷主の目で描く場面、および一老人が十一枚の墨痕も鮮やかな色紙形をしみじみと眺めた後、不動明王の台座の下に箱ごと押し込むに至る経緯と場面が重ねられていく。この相互に無関係な三つのエピソードは何? これがまず関心を引き起こす。

この物語、都心から1時間圏内にある磯崎市立武蔵野美術館の開館記念展の企画・準備の物語として展開されていく。関西のある私立美術館での仕事を辞め、この新設美術館に転職した中世美術史を専門とする学芸員・秋岡渉が主人公だ。この美術館に戦後の書壇の最高峰に君臨した書家・宇田川皐楓のコレクションが、未亡人から寄贈される。秋岡はこの収蔵品の調査・分類・研究を担当することになる。その収蔵品の中に、1枚の小倉色紙が含まれていた。一方、ニューヨークのサザビーズで行われたセカンド・オークションで、東京の画廊経営者・海野が藤原定家の真筆とみられる小倉色紙を競り落として帰国する。それは、これまで行方の知られなかったうちの1枚とみられるものだ。そしてこの1枚が武蔵野美術館に持ち込まれてくる。美術館はこの1枚を購入し、美術館の目玉作品にすることを決断する。これら2枚の色紙は真作なのか、はたまた世に数多流布されている贋作なのか、秋岡はその究明をせざるを得なくなる。一方、この色紙2枚が契機となり、小倉色紙を中核にした開館記念展の企画が浮かび上がってくる。つまり、小倉色紙を所蔵する全国の美術館・博物館および個人所蔵家を洗い出し、出展依頼をして、書の記念展を開催するというアイデアだ。『百枚の定家 - 小倉色紙の謎』という企画が進行し始める。

色紙の真贋問題は、書跡研究の大家に判定を依頼するという手順が必要となる。そこで秋岡は、真贋究明に奔走する。そうこうしている間に、海野を通じて、郡上八幡で10枚の色紙が見つかったという話が伝わって来る。その色紙の所在を確認し、その真贋を確かめて出展依頼に持ち込むこと、さらに場合によれば美術館がそれら色紙の購入を検討するという話に進展する。ますます、真贋問題が重要な緊急課題になっていく。一方で、記念展の準備のために既知の所蔵先に出展依頼の交渉を進めていかなければならない。記念展を成功させるためには、カタログの準備、会場のデザイン、集客の為の宣伝媒体など様々な要素が同時並行に推し進めていくことが必要になる。その過程で小さな美術館が様々な悩みや施設トラブルに直面していく。海野に色紙10枚を持ち込んだ郡上八幡の骨董屋・曽根とのコンタクトが全くとれないという秋岡の悩みが重なっていく。色紙の所有者に直に故事来歴を確認にでかけたり、曽根の知人を探し出し、曽根の消息を探らざるを得なくなる。一方、真贋判定を依頼し、美術展に協力を願う想定をしていた大家・大河内が静養に出かけた那須郡の黒髪温泉で持病の心臓病が原因で死去してしまう。様々な問題が次々と発生してくるのだ。
喫緊の小倉色紙の真贋問題、国内外で今まで行方が知られなかった色紙が見つかったことに対する謎の究明をストーリーの軸に据えながら、美術展企画準備の裏方話が様々な局面で展開していき、それらが企画展開催に収斂していく。
小倉色紙がどのような経緯で作成されたのか、その色紙がなぜそれほど重視されたのか、色紙がどういう役割を果たしたのか、百枚の色紙がどのように分散し、行方知れずになっていったのか、なぜ贋作が数多く作られるようになったのか・・・・・その謎が語られ、解き明かされていく。

副次的こんな知識を学ぶことにもなる。私には興味深い事項ばかりだった。
*美術展の企画・準備の過程がどんなものかという流れが理解できる。
*御子左家の系譜と定家の人物像
*小倉色紙の装丁形式について
*小倉色紙茶会使用一覧
*連歌師宗祇の人物像と宗祇関連年譜
*二条歌学系譜と古今伝授、冷泉家の成立
*定家流、定家様の起こりと広がり、定家の末裔と定家様の書き手の系譜
*当時の公家日記の役割
*小堀遠州の人物像
最後に、著者が「小倉色紙一覧(伝来の現存状況)」をまとめている。この一覧によると、100枚中49枚は記録に一度も現れず、行方が不明のままだという。

このようにいろいろ学びながらも、真贋問題の推理を味わえ、大河内の死、秋岡自身が美術館内で燻蒸ガスの残留する収蔵室に閉じ込められる事故、骨董屋・曽根の他殺というミステリーの謎解きが重なってくる。

百人一首に対しての関心は以前からあったが、この小説を読んで、定家や宗祇にも興味を抱くようになった。そこで、少しネット検索を試みた。

ウィキペディアには、関連項目が結構載っている。
藤原定家

御子左家

二条派

冷泉家

宗祇

連歌、連歌師

百人一首:概要の中に、小倉山莊色紙について触れている。

明月記

冷泉家時雨亭文庫

式子内親王



東京国立博物館 小倉色紙

五島美術館 書跡:小倉色紙

茶道百字辞典 小倉色紙



筆跡鑑定

古文書、古文書学



宝生流謡曲 定家

謡蹟めぐり 定家(ていか):「謡蹟めぐり 謡曲初心者の方のためのガイド」より

花 定家葛

能面 深井(ふかい):「定家」に使われる女系の面



たまたま見つけた番外編
謡曲「定家」のイメージを現代風にした動画とか(YouTubeより)



ご一読ありがとうございます。


付記
以下、本書を読んで気づいた点である。上記新人物往来社の第1刷発行版による。
(現在発行の幻冬舎文庫版では訂正が加わっているかもしれない。)

1. 420ページ 1行目 「その訴えによって土佐に流罪になり、その地で没した。」
  これは法然上人源空についての記載箇所だ。
  『法然 十五歳の闇』(下)(梅原猛・角川ソフィア)の巻末所載法然年譜によれば、1212年(建暦元年)11月17日、帰洛を許され、20日、東山大谷の禅房に住す。
 1212年(建暦二年)1月25日、死去。 となっている。
 『法然上人絵伝』(下)(岩波文庫)135ページによれば、
 「同(注記:建暦元年)十一月十七日彼卿を奉行として花洛に還帰あるべきよし。烏頭変毛の宣下をかうふり給ぬ。則廿日上人帰洛し給ければ、一山徳をしたひ、・・・・」そして、141ページに、「建暦二年正月廿五日午の正中なり。春秋八十にみち給。釈尊の入滅とおなじ。」
  つまり、法然は京都で死去している。著者の思い違いであろう。

2. 438ページ 10行目 「連歌師から古典学者に域にまで成長したのは、・・・」
 ここは、やはり「連歌師から古典学者の域にまで成長したのは・・・・」の校正もれだろう。(「に」ではなく「の」であろう)

3. 559ページ 3行目 「・・・写本類は、ほとんどのこの打紙なんですがねえ」
 この箇所、「ほとんどこの打紙・・・」ではないだろうか。(「の」不要)あるいは、「ほとんどはこの打紙・・・・」かもしれない。校正もれだと思う。



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