散日拾遺

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5月12日 母の日ママの日 / 伊藤博文、井上馨らがイギリスを目指して横浜から密出国(1863年)

2024-05-12 03:25:36 | 日記
2024年5月12日(日)

 金曜日に出勤の電車内で、液晶ニュースに思わず微笑んだ。


https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240509/k10014444181000.html

> 今月12日の母の日を前に、千葉県市川市にある「市川真間駅」では駅の名前が期間限定でカタカナの「ママ」に変更され、駅名を書いた看板がかけ替えられました。京成電鉄の「市川真間駅」では、5年前から毎年この時期に、真実の「真」に「間」と書く「ママ」の表記をカタカナに変更しています。駅のホームや改札、それに駅前のバス停など合わせて51か所の看板が、カーネーションやハートマークなどがあしらわれた特別なデザインのものにかけ替えられました。

 実はこれ、懐かしい地名である。医大の教養部が市川にあり、JR総武線の駅からバスで向かう途中で京成線のそのあたりを横切るのだった。万葉の読者なら「真間」と聞けばピンと来る。「真間の手児奈(てこな)」の、あの真間である。

 古に 在りけむ人の しつはたの 帯解き交へて 伏屋立て 妻問しけむ 葛飾の 真間の手兒名が 奥津城を こことは聞けど 真木の葉や 茂くあるらむ 松が根や 遠く久しき 言のみも 名のみも吾は 忘らえなくに 
(万葉集 巻の三・431) 山部赤人

 葛飾の 真間の井見れば 立ち平し 水汲ましけむ  手児奈し思ほふ
(万葉集 巻の九・1808)高橋虫麻呂

 手児奈堂(手児奈霊神堂)という社が真間にある。天平年間の737年に行基がこの地を訪れ、手児奈伝説に感じて「求法寺」を建立したのが「弘法寺」となって現在に至るのだが、文亀元年(1501)年に同山住職の夢に手児奈が顕現して以来、良縁・安産の守り神として地元の尊崇を集めているのだという。

 市川は他に伊藤左千夫の『野菊の墓』文学碑などもあり、気候の良い時節にのんびり散歩するには良いところだった。矢切の渡しで江戸川を越えれば、そこは御存じ葛飾柴又、帝釈天に御挨拶し団子を食べて帰るという次第。
 話題が逸れた、今日すべての母親に恵みと祝福がありますように!

***

> 1863年(文久三年)5月12日、長州藩士伊藤博文、井上馨、井上勝、遠藤謹助、山尾庸三の5人は、英国海軍の実情視察などを目的として、横浜港から密かに出国した。鎖国中の日本から海外に出るには密出国しかなかったとはいえ、まことに大胆な冒険である。
 ロンドンに到着した一行はロンドン市内に下宿し、日本の近代化に必要と思われる知識を学んだ。滞在中に米英仏蘭四か国連合艦隊による下関攻撃計画を知り、翌年6月24日に伊藤博文と井上馨は急ぎ帰国した。あまりにも大きな国力の差を見て、藩主に開国論を進言するためだったという。
 彼らの英国滞在の足跡が、ロンドンのイングランド銀行本店に残っている。140年前の見学者名簿に五人の署名があるのだ。1864年1月22日付けで、造幣技術を見学した折に署名したものだという。遠い国からやってきた五人の若者は「長州ファイブ」という名で当時の新聞にも紹介された。
 五人の興味は造幣技術や軍備だけでなく、科学知識や造船技術、鉄道敷設などにも及んだ。彼らの得た知識は、明治に入ってから存分に生かされることになる。
 実際に外国を見て開国論に転じた伊藤は、帰国後、連合艦隊と長州との講和に奔走した。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.138

長州五傑。上段左から遠藤謹助、野村弥吉(井上勝)、伊藤俊輔(博文)
下段左から志道聞多(井上馨)、山尾庸三

 鎖国ボケも重症だったであろう幕末の日本人の中に、短期間で現実に目覚め得た者が少なくなかったのは、どういう力動に依るものだったか。同種のセンスが、いま是非とも必要とされているのに。

Ω



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