散日拾遺

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5月16日 林子平、著書『海国兵談』のため蟄居を命ぜられる(1792年)

2024-05-16 03:54:16 | 日記
2024年5月16日(木)

 1792年(寛政四年)5月16日、著書『海国兵談』などで海防の重要性を説いた江戸後期の経世家、林子平は幕府から禁固の刑を申し渡された。『海国兵談』16巻の版木・製本はことごとく没収され、仙台の兄宅に蟄居を命ぜられたのである。
 この時に子平が詠んだ「親も無し妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」という歌は有名である。これ以降、子平は「六無斎」と号し、屋敷から一歩も出ず、頑なに蟄居を守り、一年後に没している。
 林子平は『海国兵談』の中で、「江戸の日本橋より、唐、オランダまで、境なしの水路である」と論じ、国内戦より対外戦に備えることが急務であると訴えた。これが幕府により、事実無根の売名行為という烙印を押されたのだが、果たせるかな、同年の九月にはロシアの使節ラクスマンが根室沖に現れている。林子平の先見の明は確かだったのだ。
 後に『海国兵談』は広く伝写されるようになり、尊王攘夷の志士を大いに刺激・啓発する書となる。幕府もその価値を認め、死後50年後に嫌疑が解かれ、初めて林子平の墓が作られている。1856年には、『海国兵談』の再版が許可されるまでになった。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.142

林 子平
元文3年6月21日(1738年8月6日) - 寛政5年6月21日(1793年7月28日)

 父親は岡村良通という幕臣だった。この父がゆえあって浪人したため家族は苦労を舐めたが、次姉がすぐれた女性で仙台藩主の目にとまり、次の藩主の側室に抜擢された。その縁で子平らの養父である林従吾が同藩の禄を食むことになる。子平は次男、部屋住みの気楽さで北は松前から南は長崎まで行脚するにつれ、自ずと海外から吹き寄せる風に目覚めたらしい。
 「およそ日本橋よりして欧羅巴に至る、その間一水路のみ」~ 「一衣帯水」と言い「陸は隔て海は結ぶ」と言う、島国日本のわきまえの基本である。

 林子平の画像をインターネットで探していたら、こんなサイトが引っかかってきた。
 "North Star Forever!" と題するのは Dr. Nyri A. Bakkalian なる研究者のホームページとあり、その名で検索すると下記にたどり着く。
 アルメニア系アメリカ人にしてフリーランスの女性研究者、そしてなぜか日本、それも仙台を中心とする東北の歴史を主たる関心事としているらしい。いろんな人がいるものだ。
 おいそれと蓋を開けて良いのかどうか分からないが、まずはその Friday Night History - Episode27:Coast Defense and International Learning の末尾が、次のように明快に結ばれていることを転記しておく。

 And in short, Hayashi Shihei walked so people like Mamiya Rinzo and Otsuki Jukusai could run.

Ω

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