散日拾遺

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レモン&コアオハナムグリ

2024-05-17 14:36:40 | 花鳥風月
2024年5月17日(金)


 GW滞在中の、この一枚。
 レモンの開いた花弁は純白なのに、つぼみはこの通り薄く紫がかっている。訪問者はコアオハナムグリというものらしい。

 コアオハナムグリ Oxycetonia jucunda Faldermann はコガネムシ科の昆虫の1つ。いわゆるハナムグリの仲間では日本本土でもっとも普通な種である。
 本種は個々の場合において単一種の花を集中して訪れる一貫訪花を行うことが示されている。また移動の際にはある程度の距離を一気に移動する傾向も見られる。このようなことから本種は花粉媒介に関しては同種の花粉を離れた花まで運ぶ性質があり、花粉媒介者として有効で、特に自家不和合性の強い植物にとっても有用なものと考えられる。
 本種の成虫は花蜜や花粉を食べるが、花に来た場合には雌しべの子房に傷をつける場合があり、特に柑橘類では生長した果実の表面に筋状の傷が入る傷害果となってしまうため、農業害虫として扱われている。ただし温州ミカンでは傷のある果実は落下するので被害が出ない。

 一長一短というところか。レモンにときどき「筋状の傷」があるのは、君の仕業みたいだね。どうぞお手柔らかに。

Ω

 

5月17日 森鴎外の代表作『渋江抽斎』の新聞連載完結(1916)

2024-05-17 03:50:10 | 日記
2024年5月17日(金)

> 1916年(大正五年)5月17日、森鴎外が「東京日日新聞」と「大阪毎日新聞」で連載していた『渋江抽斎』が119回をもって完結した。『渋江抽斎』は、鴎外の史伝小説の第一作でありながら、鷗外の全作品中の傑作として評価の高い小説である。
 『渋江抽斎』は幕末期の弘前藩の儒医で、1858年(安政五年)に53歳で没している。鷗外が生まれる四年前に世を去ったことになる。作品中で鴎外は「抽斎仲は医者であった。そして官吏であった」と書いており、医者であり陸軍省医務局長を務めた鴎外と相通ずる経歴の持ち主であった。
 鷗外は歴史小説を書くにあたり、江戸時代の武鑑(武士年鑑)の蒐集を進めていたが、集めた武鑑の中に渋江抽斎の蔵書だったものが多く見つかったことから、この人物に興味を持ったのが、執筆の発端だった。つまり、武鑑の蒐集にも抽斎との共通点を見出したのである。
 鷗外は、抽斎の息子の保から父親に関する資料を提供され、これに沿う形で淡々と抽斎の生涯を描き出していった。作品の後半では、その縁者たちが王政復古や明治維新の動乱期をいかに切り抜けていったかにまで筆が及んでいる。
 なお永井荷風の『下谷叢話』は、鷗外の『渋江抽斎』に刺激されて書かれた作品だと言われている。
晴山陽一『365日物語』(創英社/三省堂書店)P.143


> 渋江 抽斎(澀江抽齋)、文化2年11月8日(1805年12月28日) - 安政5年8月29日(1858年10月5日)
 江戸時代末期の医師・考証家・書誌学者。弘前藩の侍医、渋江允成の子として江戸神田に生まれる。儒学を考証家・市野迷庵に学び、迷庵の没後は狩谷棭斎に学んだ。医学を伊沢蘭軒から学び、儒者や医師達との交流を持ち、医学・哲学・芸術分野の作品を著した。考証家として当代並ぶ者なしと謳われ、漢・国学の実証的研究に多大な功績を残した。
 蔵書家として知られ、その蔵書数は3万5千部といわれていたが、家人の金策や貸し出し本の未返却、管理者の不注意などによりその多くが散逸した。1858年、コレラに罹患し亡くなった。
 後に森鷗外が歴史小説『澀江抽齋』を発表し、一般にも広く知られた。なお鷗外に資料提供したのは抽斎の七男の渋江保である。

 幕末の日本で三度のコレラ流行があった。
 文政5年(1822年)8月~10月、西日本とりわけ大坂で被害甚大
 安政5年(1858年)夏、長崎から広まり、江戸だけで死者3~4万人
 文久2年(1862年)夏、麻疹の流行も加わり、江戸の死者は7万とも20万超とも

 渋江抽斎は安政、本因坊秀策は文久のコロリの犠牲者である。

Ω