ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

流離の将軍を迎えた朽木氏 … 近江の国紀行4

2022年02月27日 | 国内旅行…近江の国紀行

   (旧秀隣寺庭園)

白洲正子『私の古寺巡礼』から

 「それは本堂に向かって左手の片隅にあったが、雑草に埋もれて、わずかに石組らしいものが見えるだけで、ほとんど庭とは呼べないほど荒廃していた」。

   ★   ★   ★

<朽木氏の菩提寺・興聖寺(コウショウジ)を訪ねる>

 琵琶湖岸に立つと広々と開けて風景が明るいが、湖西の西は比良山系が屏風のように連なって、視界を遮っている。今回は、その山並みの西に隠れている「信長の朽木越え」の道を車で走ってみたかった。

 ただ、とことこ走るだけで良かったのだが、1か所だけ寄り道した。

 朽木の村の岩瀬という所にある興聖寺(コウショウジ)という寺である。その境内に「旧秀隣寺庭園」があり、国の名勝に指定されている。

 観光客の訪れない山間の寺だが、司馬遼太郎も白洲正子も立ち寄っている。『街道をゆく』や『私の古寺巡礼』を愛読する者として、ここまでやって来て立ち寄らぬわけにはいかない。

     ★

 (「高聖禅寺」の石碑)

  高く木立のそびえる空き地に車を置き、寺の境内に入った。

 苔が蒸し、古い石垣が残っている。この石垣も穴太衆の手によるものだろうか。人の気配はない。本当に観光客など来ない寺なのだ。

 庫裡で2、3度声を掛けると、中年の女性が出てこられた。

   (高聖寺本堂)

 その方が本堂の扉を開け、中に招じ入れてくれた。

 本尊の釈迦如来(藤原時代の重文)を拝観させていただく。そして、仏像のこと、寺の歴史のこと、朽木氏のあれこれについて、ざっと説明をいただいた。

 かつて流離の足利将軍を慰めたという庭園は、今は水を抜いて修理中とのこと。あとは自由にご見学くださいと言われて、巨木の陰の濃い境内の中をそぞろ歩いた。

 司馬遼太郎は『街道をゆく1』の中で高聖寺について、「かつての朽木氏の檀那寺で、むかしは近江における曹洞禅の巨刹としてさかえたらしいが、いまは本堂と庫裡といったものがおもな建造物であるにすぎない」と書いている。

 その一文が、さっきいただいた案内のしおりに、そのまま引用されていた。

  (高聖寺境内)

       ★

<不遇の足利将軍を迎えた朽木氏>

 時の朽木氏の当主は稙綱(タネツナ)という人だった。信長の朽木越え(1570年)を援けた元綱の祖父に当たる。元綱の父は早く他界したから、ほとんど稙綱からまだ幼かった元綱へ引き継がれた。

 1528年、12代将軍足利義晴は三好の乱をさけて朽木谷へ逃れた。

 義晴も、京都から大原を経て、今日たどった朽木越えの道をやって来たのだろうか??

 朽木稙綱(タネツナ)は将軍を迎え、書院の前に庭を造って、流離の将軍を慰めた。将軍は足掛け3年をここで過ごした。その間に、稙綱は、将軍義晴にとって最も信頼のおける御供衆となった。将軍義晴が京に戻ってからも、稙綱は御供衆として仕え、また、何か事があれば朽木から兵をつれて駆け付けた。

 将軍義晴の嫡子・義輝が将軍職を継ぐと(1546年)、義輝の御側衆としても仕えた。

 大河ドラマ『麒麟がくる』の中では、向井理が13代将軍足利義輝を演じた。明智光秀を主人公にしたドラマだから、将軍義輝はちょい役だった。しかし、将軍職に生まれても当時の将軍に力はなく、向井理が自らの無力に孤高に耐える貴公子の姿を演じて心に残った。

 将軍義輝もまた三好長慶との争いに敗れて、細川藤孝らを供に、朽木稙綱の孫・元綱を頼って朽木谷に逃れた。そして、ここで5年の歳月を過ごす。その後、京の政界に戻ったが、突如、松永久秀や三好三人衆の兵1万に襲撃されて殺害された(1565年)。将軍義輝は剣客だったというが、少数の供回りの侍たちでは抗すべくもなかった。

 そのあと、1568年に織田信長が足利義昭を奉じて上洛する。義昭は、最後の足利将軍となった。

 朽木元綱が信長を援けたのも、将軍義昭を奉じていたからで、その後、信長が義昭を追放すると、元綱も朽木に引っ込んだようだ。

 朽木稙綱(タネツナ)から4世代目の当主は、かつて将軍をかくまった館を秀隣寺という寺に変えた。将軍の庭は寺の庭としてそのまま残される。

 江戸時代、秀隣寺は同じ朽木村の野尻という地に移転し、また歳月を経て、朽木で最も由緒ある高聖寺が大火に遭い、この地に移転してきた。

  (旧秀隣寺庭園)

      ★

<足利将軍を慰めた庭園のこと>

 司馬遼太郎が訪れた時も、白洲正子が最初に訪れた時も、その庭は荒廃して、長く風雪に放置されたままだったようだ。

 「私が最初にこの石組みをみたとき、村の子供10人ばかりが石のかげにかくれたり、石の上へのぼったりして、いい遊び場所になっていた。山から降りてきた村のひとに、『これは庭でしょう』ときくと、『ハイ、ハイ』と、答えてくれて、くぼう様のお庭です、と教えてくれた。荒れて子供の遊び場になっているのがなんともうれしく、室町末期の将軍の荒涼たる生涯をしのぶのにこれほどふさわしい光景はないだろうとおもった」(司馬遼太郎『街道をゆく1』)。…… (さすがに、名文ですね👏)。

 白洲正子は越前や近江の旅の途中に何度かここに立ち寄ったが、そのたびにこの庭が少しずつ修復され、ついに水をたたえた室町庭園に復元されたと書いている。国や県や市の努力に拠ったのであろう。

 だが、今回、私が行ったときは水が抜かれて、復元前のように石組みだけになっていた。その方が良かったかもしれない。

 「いつ行ってみても観光客などいたためしはなく、室町時代の文化を偲ぶには絶好の場所であるが、鳥の声のほか物音一つしない山間の侘び住居は、将軍にとっては寂しい日々であったろう」(『私の古寺巡礼』)。

 寺は段丘上の高台にあり、庭の端に立つと北近江の山あいの景色が広がっていた。今は秋の終わりだが、春になり、草木が萌え出す頃は美しいに違いない。山の麓の林は桜並木だろうか。そのすぐ向こう側を安曇川が流れ、流れに沿って桜が植えられているのだろう。     

 (安曇川に向けて開ける)

 白洲正子も同じことを書いていた。

 「木立を通して比良山の山並みが見渡され、田圃の向こうに安曇川が流れている風景が、いかにもゆったりと気持ちよかった」(『私の古寺巡礼』)

 さらに、…… 専門家はこの時代に「借景」という造園の技法はなかったと言っているが、と続け、「 はたして日本人が庭を造る場合に、完全に周囲の自然から離脱しえたであろうか。前方にそびえる比良山は、古代から信仰された神山であり、それを取りまいて流れる安曇川は、おのずから神奈備(カンナビ)川の様相を呈している。西洋の幾何学的な庭園とはちがって、はじめから自然に似せて構成された日本の庭が、周囲の山水、それも長い歴史と伝統に彩られた風景を、まったく無視することが可能であったかどうか」。

 「木立に囲まれた庭園の、安曇川に面した側だけが開けて、比良山を望めるように造形されているのは、…… これ見よがしに借景風に造った庭園よりも、かえって深い趣があるように思われる」と書いている。

 鳥のさえずりとかすかな風のそよぎ以外に何の物音もしない静かなひと時を過ごして、車に戻った。

     (つづく)

 

 

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朽木(クツキ)街道をゆく … 近江の国紀行3

2022年02月21日 | 国内旅行…近江の国紀行

 (安曇川沿いに国道367号線を北上する)

 京都の街を出て、国道367号線を高野川沿いに北上すれば、やがて八瀬、大原の里へ到る。

 京都~大原間を路線バスが通うようなったのは大正12(1923)年。ただし、戦前も戦後も、昭和の時代のローカルバスは未舗装の凸凹道路を走った。

 京都~大原間が舗装されたのは昭和42(1967)年。「京都 大原 三千院 恋に疲れた女がひとり」がヒットした翌々年である。そして、大原にも観光ブームが訪れる。

 今は、国道367号線は全舗装されて、北陸の若狭まで通じている。

   ★   ★   ★

<比良山系の尾根道から>

 京都大原を出発し、山間の道(367号線)を北上する。

 この道路は一般に「若狭道」と言われるが、古くは「朽木街道」とも呼ばれた。

 もちろん、道幅が広げられ完全舗装された367号線は、旧朽木街道の上をそのままたどっているわけではない。

 進行方向の右手が比叡そして比良の山並み。左手は京都の鞍馬の奥に続く山並みだ。

 現在の国道も、旧朽木街道も、その間の峡谷を行く道であるから、見る景色に大きな違いはないであろう。

 コロナ禍のせいもあるのか、行き交う車は少なく、走りやすい。

 花脊峠へ行く分岐を通り過ぎると、県境を越えて滋賀県に入った。

 いつの間にか高野川の流れも尽きて、見なくなる。

 その名もゆかしい花折峠は、峠の下のトンネルの中を走り抜け、何の風情もない。その昔は峠越えをしたのだろう。

 せせらぎが現れたが、北へ向かって流れている。分水嶺を越えたのだ。安曇(アド)川の上流である。

 車を停めて冒頭の写真を撮った。山裾の、流れが見える所まで枯草を分けて行こうかと思ったが、ズボンが「ひっ付き虫」だらけになるだろうと思ってやめた。(ひっ付き虫は「虫」ではありません。念のため)。

                 ★

 20代の頃、山男の友人に導かれて、一緒に山登りをした時期があった。

 夏、北アルプス、南アルプス、中央アルプスの幾つかの縦走路を歩いた。

 しかし、すでに職を持つ身だから、ふだんは日曜日に、近くの低山を日帰り登山した。暮れから正月の休みには、1、2泊で畿内の冬山に登ったりもした。

 冬の京都・鞍馬の奥の山々は標高千mに足りないが、山が深く、湿気を含んだ積雪で、聳え立つ針葉樹林の暗い山道を黙々と歩いた。

 一方、その東側に聳える比良山系は最高峰が武奈ケ岳の1214mで、やや高山の趣があって好きだった。樹林帯の急峻な山道を登って尾根に出れば、眼下に琵琶湖や遠くの山々を見渡すことができた。無人小屋に泊まって、朝、人けのない積雪の上をアイゼンを付けた登山靴でゆくと、粉雪がギシッギシッと軋む感触が心地よかった。

 その当時、琵琶湖の南岸の浜大津から湖西の近江今津まで単線の江若鉄道が走っていた。この鉄道を利用して、琵琶湖側から比良山系へ登頂し、下山も琵琶湖側に下った。

 だが、琵琶湖の反対側(西側)の峡谷の方へ下山すれば路線バスが通っていることを知っていた。地図を見ると、バスは栃生、坊村、花折峠、途中などというゆかしい名の村落を走り、大原を経て京都市内に到る。そちら側へ下山してみたいと心ひかれたが、尾根から谷筋までの下山にどれくらい時間がかかるかわからない。山道を迷いながらバス停まで下りた時、その日のバスが行ってしまっていたら、野宿しなければならなくなる。明日の勤務を考えれば冒険はしにくかった。

      ★

<信長の朽木越え>

 この山峡の道に、もう一度心ひかれるようになったのは、歴史に興味をもってからである。この峡谷は、信長の「朽木越え」の道だった。

 元亀元(1570)年、織田信長は越前の朝倉氏を攻めようと敦賀に大軍を集結させ、攻撃を開始した。そのとき、北近江を支配する浅井長政の離反を知る。前面に朝倉勢、後方からは浅井勢に挟撃される形になった。信長は全てを放り捨て、湖西の峡谷を通る古道を、ほとんど単騎で走り抜けて京まで逃げ戻った。

 織田信長は中世を終わらせ、近世の扉を開いた人物である。すでに北条早雲や斎藤道三など、古い権威を背負った守護大名を滅ぼしてのし上がった戦国大名たちがいたが、彼らの中から現れた信長が時代を大きく回転させた。

 足利義昭を奉じて上洛して以後の信長は、畿内でも、畿内のさらに向こうの東の世界からも、西の世界からも、幾重もの政治的、軍事的包囲網のただ中に置かれた。それは、並みの人間ならば迫りくるものへの恐怖で、破れかぶれになるほどの孤独な戦いだった。しかし信長は、その死までの十数年の間、あの桶狭間の戦いのような無謀ともいえる突撃戦は二度としなかった。迫ってくる敵の軍勢の足音に耐えながら、鉄砲三千丁を揃え、その後に武田軍団を迎え撃った。1年近くもかけて誰も見たことがない巨大な軍船を建造し、毛利水軍を撃破した。ぎりぎりまでしのいで時を稼ぎ、その間に勝つに必要な準備を積み上げ、合理的、かつ周到な準備してから決戦に出た。どこか異国の香りのする安土城の建設を含め、その精神の孤独な強靭性と合理的な天才性は、日本史の上でも稀有な存在と言えるだろう。

 そして、この朽木越えの逃走劇も、いかにも信長らしい合理主義を感じて興趣深い。

 前後を絶たれ、袋のネズミとなった信長は、即座に決断し、全てを放り捨てて、ほとんど単騎で間道を逃走した。

 その結果が、自分の命を救っただけでなく、信長の軍団をほとんど無傷で退却させることにつながった。御大将を守りながらの退却戦は苦しい。包囲され、じりじりと消耗していき、最後は全滅に到る。ところが、御大将が真っ先に命からがら遁走しているのだから、諸将たちも頑張って良いところを見せる必要はない。それぞれに率いる軍をなるべく戦わぬよう、犠牲少なく、粛々と退却させる、言い換えれば、御大将のように逃げることに専念したらよいのだ。

 以下、司馬遼太郎による。

司馬遼太郎『街道をゆく1』(湖西のみち)から

 「信長のおもしろさは桶狭間の奇襲や、長篠の戦いの火力戦を創案し、同時にそれを演じたというところに象徴されてもいいが、しかし、それだけでは信長の凄味がわかりにくい。この天才の凄味はむしろ朽木街道を疾風のごとく退却して行ったところにあるであろう」。

 「包囲されたとはいえ、信長の側は、圧倒的大軍だったから、たとえば上杉謙信のように自分の勇気を恃(タノ)む者は乱離骨灰(ラリコッパイ)になるまで戦うかもしれず、楠木正成なら山中でゲリラ化して最後には特攻突撃するかもしれず、西郷隆盛なら一詩をのこして自分のいさぎよさを立てるために自刃するかもしれない」。

 「信長は中世をぶちやぶって、近世をまねきよせようとした。時代を興す人間というのは、おのれ一己のかっこ悪さやよさなどという些事に、あたまからかまっていないものであるらしい」。

 「 その魅力の最大のものの一つは、元亀元(1570)年4月、この街道を猛烈な勢いで退却したことにあるのではないか と思うのである」。

 信長に朽木越えの道を進言したのは松永久秀だったらしい。彼は京から若狭へ行くのに「朽木谷」という長い渓谷があり、その谷にひとすじの古道が走っていて、人里もあることを知っていた。

 朽木谷には、朽木元綱(クツキ モトツナ)という領主がいた。松永久秀は元綱とは旧知で、先行して元綱と話をつけた。

 このときの朽木元綱の側に立てば、主従数騎に過ぎない信長を討ち取ることもできたはずだ。

 だが、もともと朽木氏は、近江源氏と言われる佐々木氏の分家筋で、同族の京極氏から北近江を奪った新興の浅井氏に敵対的感情を抱いていた。その上、朽木氏は、小なりといえども、遠く足利尊氏の時代から「足利将軍」への思いが深い一族だった。信長は今、将軍・足利義昭を奉じて戦っているのである。

 剛毅な元綱は即座に決断し、その夜は信長を館に泊め、翌日、京まで落ち延びさせたのである。

 元綱はそれ以後、織田家に直属することになり、信長のあとも豊臣政権に従った。その後、関ヶ原の時には危ない橋も渡ったらしいが、ともかく朽木氏は徳川時代を通じて1万石にやや欠けるこの地の領主として生き延び、明治維新を迎えて、今に至る。(参考 : 『街道をゆく1』の「湖西のみち」)

        ★

<日本遺産の鯖寿司>

 安曇川に沿って走り、比良山系の最高峰の武奈ケ岳の西麓、坊村を過ぎる。もうすぐ朽木の村だ。 

 若狭街道は「鯖街道」とも言われた。日本海の鯖を京都に運んだのである。車のなかった時代、丸一日を要したが、京都に着く頃には塩がしみ込んで食べごろになっていたそうだ。ただし、冬の鯖街道は降雪が深く、危険な道だったらしい。

 2015年、文化庁は日本遺産の最初の18件の一つとして、「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群 ─ 御食国若狭と鯖街道」を選んだ。

 車で走っていると、「鯖寿司」の看板の掛けられた食堂があった。

   山間の道とはいえ国道沿いだから、コロナ下でなければもう少し車の往来もあり、客もいるのだろうが、店内に客はいなかった。

 しかし、ほっぺたが落ちるほど美味かった。安い値段なのに、まさに日本遺産級である。

 ご主人が、うちの裏に旧朽木街道が残っていますよと教えてくれたので、行ってみた。完全舗装された国道ができるまでは、こういうローカルな道だったのだ。

  (元の朽木街道)

 (つづく)

 

 

 

 

 

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建礼門院徳子と寂光院…近江の国紀行2

2022年02月06日 | 国内旅行…近江の国紀行

      (寂光院本堂)

<閑話 : 門跡寺院とは>

 皇族や公家が住職を務める特定の寺院をいう。寺格が高く、特別の礼遇と特権を与えられた。

 宇多天皇(在位877~897)が出家し仁和寺に入って御室御所と称し、御室門跡になったのが始まりとされる。しかし、「門跡」という寺格が制度的に確立したのは室町時代である。

 江戸時代には、宮門跡(親王)、摂関門跡、清華門跡(摂関家に次ぐ7家)、公方門跡(将軍家の一族)、準門跡などが制度化された。

 真言宗では仁和寺や大覚寺、浄土宗では知恩院、天台宗では円融院(三千院)、青蓮院、妙法院、曼殊院、聖護院、奈良の興福寺では一乗院、大乗院など。

 司馬遼太郎は次のように書いている。

 「江戸幕府は、天皇家に親王がたくさんうまれることをおそれた。それらが俗体のままでうろうろしていたりすると、南北朝のころのように『宮』を奉じて挙兵するという酔狂者が出ぬとはかぎらず、このため原則として天皇家には世継ぎだけのこし、他は僧にし、法親王としてその身分を保全したまま世間から隔離することにした。江戸期の宮門跡というものの幕府にとっての政治的性格はそういうものであったろう」。

 「明治政府によって廃止され、宮門跡である法親王たちは還俗させられて、それぞれ浮世の宮家を創設した。

 かれらが出て行った寺のほうはふつうの出身の僧が住職となるようになったが、明治18年、内務省から門跡号を称することをゆるされた。曼殊院の場合、明治後、伝統として天台宗の学問僧のなかからこの寺の門跡が選ばれるようになった」。(『街道をゆく 叡山の諸道』)

   ★   ★   ★

<寂光院への小道をゆく>    

  (三千院付近の呂川)

 三千院を出て、寂光院へ向かった。

 樹間の小道に沿って小川が流れている。呂川(リョセン)と言うらしい。文人墨客風の名である。路傍に「呂川の清流」という説明板が立っていた。

 呂川は比叡山の山並みを源とし、大原川 → 高野川 → 鴨川 → 淀川と名を変えながら大阪湾に注ぐ。源流である大原の里は、きれいな水を保つように努めている、という趣旨のことが書かれていた。土地の人々の思いが感じられる。

 修学旅行らしい男子高校生が、貸衣装の着物を着、マスクをして、ぞろぞろと歩いてきた。私立の男子校なのだろう。みんな大人しい。このコロナ禍、修学旅行を短縮して京都で我慢したのかもしれない。そうだとしても、今は良いタイミングである。

 晩秋の紅葉の木蔭の所々に大原女の石像が置かれ、道案内をしてくれる。それとは別に、長い歳月を経て風化した石仏たちもいる。

     (大原女の石像)

 大学を卒業して大阪に就職した若い頃、大原には2、3度来たことがあった。

 土産物屋が並び観光客が小道にいっぱいの三千院と寂光院の間を、飛ぶように一気に往復した記憶がある。もうあのように速く歩くことはできない。それにしても、あの頃はいつも急いでいた。

 今回の大原再訪で一番楽しかったのは、コロナで訪れる人も少ないこの鄙びた小道を、ぶらぶらと楽しんで歩いた時間だ。

  (大原の里)

 樹間の小道が終わり、空が開けて、国道367号の道路に出た。バス停もある。高野川の清流が国道沿いを北から流れてくる。

 橋を渡って、また小道に分け入った。今度はやや上りの小道で、寂光院の裏山を源とする草生川という小川沿いをゆく。

 やがて、その小道の奥まった所に、寂光院の受付の小さな庵があった。

         ★

<「大原御幸」の寂光院>

 受付を済まし、参道の石段を上る。三千院のような格式の高さはなく、山のお寺の風情が感じられた。

  (寂光院の石段)

 山門をくぐると、苔むした庭があって、正面に小さな本堂が建っていた。

     (本堂)

 本堂は平成12(2000)年に火災に遭い、新たに復元されたそうだ。放火だったと言われる。

 6世紀末に尼寺として創建されたとも、もっとずっと後の創建とも言われる。いずれにしろ、この人里離れた小さな寺の名を今に残したのは、1185(文治元)年に建礼門院徳子が入寺したことによる。

 建礼門院徳子は、平清盛の息女で、高倉天皇の中宮となり、安徳天皇の母となった。国母と呼ばれる女性の最高位である。

 しかし、「治承・寿永の乱 (源平の戦い)」 が勃発した。

 1180年の源頼政の挙兵に始まり、頼朝の挙兵によって乱は拡大。富士川合戦、倶利伽羅峠の合戦、一の谷の合戦を経て、1185年の壇ノ浦の合戦で平家一門は滅亡。まだ幼かった安徳天皇も祖母に抱かれて西海の海に身を投げた。

 徳子だけが海中から助け上げられ、出家して建礼門院となる。そのあとは平家一門とわが子の菩提を弔うため、この人里離れた大原山中の寺に身を置いて、短い生涯を祈りの中に過ごした。

 徳子の変転極まりない悲劇的な運命は『平家物語』によって読み継がれ、古今を通じて寂光院を訪ねる人は多い。

 明治の歌人・与謝野晶子もその一人である。

  ほととぎす治承寿永の御国母三十にして経よます寺 (与謝野晶子)

 「ほととぎす」は5月頃に渡ってくる小鳥で、新緑の中から鳴き声が聞こえてくる。「テッペンカケタカ」と聞こえるというが、古人はその鳴き声を帛(キヌ)を裂くような悲痛な声と聞き歌に詠んだ。晶子もここで、悲痛極まりない徳子の心を思った。晶子はいつも女性の味方である。「よます」の「す」は尊敬の助動詞。 

 徳子が寂光院に隠棲した翌年、後白河法皇が公卿・殿上人らを連れて都から遥々と彼女を訪ねてくる。そのくだりが『平家物語』の中に「大原御幸」として描かれ、能にもなって、コロナ禍の前、私も観賞した。

 後白河法皇は、高倉天皇の父で、徳子にとっては義理の父に当たるが、平家追討の院宣を下した人でもある。

 法王が寂光院に到着した時、徳子は不在だった。「大原御幸」には、お堂や庵のあたりの侘しい様が細やかに描写されているが、寺でいただいたしおりによると、本堂前西の庭園は『平家物語』の当時のままだという。

 後白河法皇の詠んだ歌

    池水に汀(ミギワ)の桜散りしきて波の花こそさかりなりけれ (後白河法皇)

 池のほとりの桜の花が散り、花びらが水の面を覆って、まるで水面が満開のようであるという歌。

  (汀の池)

 留守居をしていた老尼に尋ねると、徳子は仏に供える花を摘みに裏山に行ったと言う。法王は、国母であった人が自ら花を摘みに山に入るのかと憐れまれる。

 庵の中には徳子の作った歌が置かれていた。

 思ひきやみ山のおくに住居(スマイ)して雲井の月をよそに見むとは (建礼門院)

 「雲井」は宮中。数年前には華やかな宮中で多くの人々と趣深く眺めた月を、このような山奥の庵で寂しく見ることになろうとは思いもしなかったという意。後白河法皇の淡々とした歌と比べると、その心は痛切である。そこには

 「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理を顕す」 

という『平家物語』の底流を流れる旋律と通じる。

 (諸行無常の鐘)

 すべてのものは移ろいゆくというのが、日本列島に生まれ、生きる人々のものの感じ方である。人は自然の小さな一部に過ぎず、自然に包まれ、自然とともに生き、そして滅んでいく。

 そういうものだと覚悟を決めることを悟りと言い、そのことを教えるのが日本の仏教である。

 「輪廻」だとか、そこからの「解脱」などという思想はインドの風土から生まれたもので、日本の風土の中では、知識として知っても心になじまない。空海も最澄も、自らの中にある土着的な心を大切にし、仏教と融和させて、日本仏教をつくっていった。

 寂光院の石段を下り、もとの小道に戻ると、すぐ隣接して美しい石段がまっすぐに空に向かって上がっていた。その上に建礼門院徳子の陵墓がある。

  (建礼門院の陵墓)

 五輪の塔の仏教式御陵だが、今は宮内庁の所管である。

 (建礼門院の陵墓の石段)

 陵墓への石段のたたずまいが美しく、印象に残った。

      ★ 

 そのあと、大原から、山あいの国道を北上し、朽木越えの道へと車を走らせた。

 

 

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晩秋の京都大原へ … 近江の国紀行1

2022年02月03日 | 国内旅行…近江の国紀行

     (大原女の里)

 三千院から寂光院へ行く小道に、愛らしい大原女の石像が道祖神のように置かれていた。心ある地元の人々の手によって、大原が大原らしくさり気なく装われている。歳月がいつの日か本物の道祖神のようにしてくれるだろう。

 都の人々が使う木材や薪炭の供給地として、大原は重要な地であった。近代文明の波が押し寄せるまで、煮炊きをし暖を取るために、薪や薪炭は必需品だった。大原女は、毎朝、薪や薪炭を担いで京までの道のりを歩き、街中で売り歩いて、家計を支えた。

    ★   ★   ★

<遠い日の秋色の京都>

  遥かに昔のことで、何十年前のことだったかは忘れてしまったが、大学3年の秋、飛鳥から奈良、京都を2週間ほどかけて巡ったことがある。

 気楽な一人旅ではない。教授同伴のクラス旅行で、卒業単位に組込まれていたから、文字どおりの修学旅行だった。

 行く前は嫌だと思っていたが、2週間もかけて日本文化の核となった奈良や京都の建物、庭園、絵画や彫刻の数々を見てまわったのである。

 初めはたいした興味もなく、飛鳥の野を歩き、奈良とその近辺の寺々を訪ねて仏像を見、住職の話をぼんやりと聴いていたが、3、4日もたつと飛鳥仏だとか、白鳳の仏だとか、平安の仏像だとかが見分けられるようになった。

 寺の宿坊に泊まり、早朝、座禅を組んで、仏教の教える境地を会得しようとした日もあった。

 京都では、一般観光客には敷居が高い京都御所や桂離宮や修学院離宮も見学した。教授の指導の下、係を引き受けた真面目な級友たちが必要な段取りを全部してくれていた。事後にもたくさんのお礼の文を書いたはずだ。

 もちろん詩仙堂や曼殊院、そして、嵯峨野や大原の里なども巡った。

 11月の下旬のことで、目の奥まで紅に染まってしまうような美しい紅葉だった。嵯峨野の庵から庵へと訪ねる山の中の小道は、深紅の落ち葉が深々と積もり、まわりの樹木も目に映じるものは全て紅葉ばかりで、こんなに美しい世界に身を置くことは自分の人生でもう二度とないだろうと思いながら、落ち葉を踏みしめて歩いた。

 当時は観光客も今より少なく、しんとして寂しい大原の里の三千院の阿弥陀三尊も、『平家物語』のヒロインが余生を送った寂光院のたたずまいも心に残った。

  (大原の紅葉) 

 私の京都はここで終わったと言っていい。

 1965(昭和40)年、デューク・エイセスが歌う「京都 大原 三千院 恋に疲れた女がひとり」が大ヒットした。

 1970年代になると、高度経済成長の波に乗って、「ディスカバー・ジャパン」 の大キャンペーンが繰り広げられた。各地に「小京都」が生まれ、国鉄の急行の停まる駅には「銀座通り」ができ、海岸や高原の避暑地も観光客であふれた。目に映じるものは日本の美しい自然景観や歴史的・文化的遺産よりも、安普請で作られた土産物屋や食堂や旅館、そして人々の群れとそのゴミで、かつて出家・隠棲の地であった嵯峨野や大原までが商魂たくましい観光地となった。学生時代に感動したあの嵯峨野の小道も、3年後の秋に再訪したときには垣根が張り巡らされて、もうそこがどこであったか、いくら探しても見つからなくなっていた。所有者が防御策を講じるのは仕方のないことだ。

 しかし、高度経済成長とバブルの時代が終わり、世紀も変わって、今、日本は落ち着きを取り戻してきているように思われる。

 それぞれの地域の歴史、文化、景観が改めて見直され、地元の人々によって環境が再整備され、保存され始めた。例えば、大原の小道に置かれた大原女の石像も、大原を大原らしく保存しようとする取り組みの一つである。

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<晩秋の大原再訪>

 かねてから車で走ってみたかった朽木街道(若狭街道)、そしてその先の湖北の「隠れ里」を訪ねる途中、何十年ぶりに大原の里に立ち寄った。

 鴨川と分かれて、高野川沿いの国道367号線(若狭街道)に入ると、京の街の喧騒はすっと後ろに消えてしまい、北へ向かう一本道になった。

 八瀬(ヤセ)の国道沿いの食堂に寄って、にしん蕎麦を食べた。

 昼食を終えて外へ出、あたりの野の風景を眺めたとき、都を捨ててここまでやって来た都人の感慨を感じた。

 車を走らせて大原の里に入ると、その感は一層深まった。

 大原には里という言葉がよく似合う。ただ、里と言っても、ふつうの農村風景とは違う。鄙びた田舎の景色の中にも、都の雅(ミヤ)びがほのかに感じられる。そこが私の住む大和の風景と違うところだ。

 今は行政的には京都市の左京区だが、遡れば山城国愛宕郡小野郷大原だった。

 小野は八瀬と大原を含む郷で、『伊勢物語』の主人公・在原業平が仕えた惟喬親王(コレタカノミコ)が、思いがけずも出家隠棲した地である。

 「正月にをがみたてまつらむ(拝顔しよう)とて、小野にまうでたるに、比叡の山の麓なれば、雪いと高し」(伊勢物語)。

 大原は比叡山の西麓であるから、雪が降る。そして、比叡山天台宗の領域である。「大原」という地名も、比叡山の円仁が修練道場として開山した大原寺(ダイゲンジ)に由来するのではないかという。円仁は最澄の弟子で、天台教学を完成した人である 。

  (大原の里)

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<京都 大原 三千院  >

 京の梶井門跡とか梨本門跡と呼ばれていた門跡寺院が大原の里へ移って、名も三千院と改めたのは、明治4年である。「大原三千院」としての歴史は、意外に浅い。

 しかし、寺の起源は、天台宗の開祖・最澄が比叡山中に結んだ草庵「円融坊」に遡るという。

 やがて、大津の坂本に本拠を移し (円融院、また、梶井宮とも呼ばれた)、その後、火災や戦乱によって京都市内を変遷した(名も梨本門跡、梶井門跡などと呼ばれた)。

 平安時代の後期には親王が入って住職を務めたりして、後に門跡寺院となった。

 明治4年に門跡制度が廃されたとき、なぜ大原の地が選ばれたかというと、古くからここに当院の政所(事務局)が置かれていたからである。

   (三千院の石垣)

 それにしても、三千院がもと門跡寺院であったという風格は、正門の両側に巡らされた石垣や白壁からも感じることができる。石垣は近江坂本の穴太(アノウ)衆が築いたものである。

 「御殿門」を入り、拝観順路に従って進んだ。

 「客殿」はもと大原寺の政所があった所とか。周囲を池泉観賞式の庭園が囲んで、部屋から庭園を観賞することができる。

 こういう所を訪ねると、自分も当主になったつもりで庭の見える座敷に坐ってみる。この部屋で読書をし、ものを書き、飽きれば庭を眺め、樹木の陰影に自然の気を感じ、茶を飲み、なお無聊であれば庭をそぞろ歩く。そういう日々を想像すると悪くない。春と秋の自然の移ろいは美しく、夏の蝉の声も風情があるかもしれない。だがしかし、冬の寒さは火鉢ぐらいでは防ぎようがなく、相当に耐えがたいだろう

 客殿に続く「宸殿」は当院の本堂に当たる建物で、宮中の紫宸殿を模して造られているとか。宮中で行われていた声明による法要をここに移した。玉座も設えてある。明治の新政府には国粋主義の人たちも幅をきかせていて、宮中から仏教色を一掃した。

 宸殿から庭に出ると、苔の美しい池泉回遊式庭園である。紅葉はすでに盛りを過ぎ、紅はやや茶褐色を帯びてきていた。

 苔と高い樹木に囲まれて、小さなお堂がひっそりと建っている。国宝の阿弥陀三尊を収める「往生極楽院」である。

  (往生極楽院)

 中尊の阿弥陀如来は座像だが、小さなお堂の中で一層大きく見える。左には観音菩薩、右には勢至菩薩が配置され、両菩薩は少し前かがみに跪いた姿勢でわれら衆生を迎えてくれる。

 向かって左側の勢至菩薩の像に触れれば万病が治るとされ、学生時代に訪れたとき、多くの人々にさすられてその豊かな右ひざが光沢を帯びて艶めかしい。事前にそう教授に教えられていたが、本当にそのとおりだったので感動した。今はロープが張られて人々との間が仕切られ、いたずらに埃に黒ずんでいる。

 往生極楽院は、もとは梶井門跡の政所に隣接した、独立した寺院だった。明治4年に梶井門跡が本拠を大原に移転して三千院となったとき、吸収合併されて境内に取り込まれた。

 そう思ってみると、もと門跡寺院として貴族的な風格を感じさせる三千院の中で、ここだけが侘びとか寂びの風情である。 

   往生極楽院から、高々と樹木の聳えるゆるやかな石段を上がっていくと、奥に「金色不動堂」、さらに上に「観音堂」があった。

 境内の散策路を一巡して、最後に収蔵庫の「円融蔵」の中を見学した。ここには往生極楽院の舟底型天井にわずかに残る絵が復元・模写されていた。極楽浄土にもろもろの菩薩が浮かび、天には天女が舞っている光景が、極彩色で描かれていた。

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<日本的な美とは>

 何十年ぶりに三千院を拝観して思うに、京都の寺院の魅力は門跡寺院にあり、それは庭園と一体となった貴族的で洗練された美ではないかと改めて思った。それが日本の美の真髄として認識され、日本人にも外国人にも人気がある。

 だが、司馬遼太郎は『街道をゆく 叡山の諸道』の中で、天台宗系の門跡寺院の一つである曼殊院を見学したあと、このように書いている。

 「…… 寺というよりも、江戸時代の公家の教養人というのは、こういうたたずまいのなかで住みたかったのかということがわかるし、逆算していえば、この建物や庭園にふくまれている思想から、かれらの美意識や教養、人生観などを汲みとることができる」。

 国民的作家と言われる司馬遼太郎は、京の貴族的な美意識に必ずしも共感していないようだ。何しろ、鎌倉武士や、戦国時代の斉藤道三や織田信長、幕末の坂本龍馬や土方歳三のような人を、日本の歴史を彩った人々として語ってきた作家だから。

 私も若い日には京の美に圧倒されたが、今は大和盆地の中の古代の息吹や、大和の諸寺のもつ学問修養的な簡素さ、或いはまた、吉野の山奥の神仏混淆的な修験の世界の方に親しみを感じる。年のせいだろう。

 このあと、寂光院へ向かった。

       

コメント
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