ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

日本海の幸に生きる … 能登半島バスの旅(2/2)

2018年11月13日 | 国内旅行…能登半島の旅

    ( 白米の千枚田 )

 読売俳壇(2018、10、29)に、こんな句が掲載されていた。

 「千の田に千の水口水落とす」(輪島市 大向稔さん) 

 宇多喜代子氏の選評「よく知られた輪島の千枚田。いま観光客の目を集めているが、そもそもは一粒でも多くの米をと造られた田だ。観光田んぼならぬ稲作のための田んぼの句」。

     ★   ★   ★

 この旅の間、あちこちで「能登立国1300年」という幟を見た。まるで能登国が1300年前に日本国から「独立」したかのごとくだが、もちろん、そういうことではない。

 石川県は、旧「加賀国」と旧「能登国」によって構成されている。

 加賀と言えば「前田百万石」という言葉に象徴されるように、城下町の金沢は兼六園や九谷焼、加賀友禅、金沢箔、和菓子などなど、いかにも雅やかである。

 それに対して、能登というと、草深い果ての地というイメージが、なくはない。

 しかし、「能登国」が「越前国」から4郡を分離して「国」に昇格したのは、今から1300年前の718年である。

 畿内の中央政権にとって、能登半島は未だまつろわぬ蝦夷に対しても要衝の地であり、また、大陸に向き合って、例えば8~9世紀、能登国の志賀町の福浦港は渤海使受入れの玄関口となった。

 こうした積極的な理由で、能登が一国として昇格した一方、加賀地方は依然として「越前国」の一部として残された。

 ちなみに、加賀が「加賀国」になったのは、「能登国」に遅れること100年以上を経た823年で、令制国の最後に建てられた国である。その理由も、「越前国」の国司が、加賀地方は国衙から遠く、それを良いことに郡司をはじめ勝手なことが多くて手に負えない。よって、分割して、別の国司によって直接に統治されるべき、と中央政府に意見書を出したからである。実は、当時の加賀地方はまだ草深い湿地帯で、加賀平野が本格的に開拓され豊かになるのは中世以後のことである。

 とにかく、古代においては、能登の方が先進地域だったのだ。

 さらに遡れば、能登国の一の宮の気多大社の祭神は大己貴命(オオナムチノミコト)で、大国主命のことである。出雲系の神社は、山陰の出雲→伯耆→因幡から、北陸の越前→能登、さらに諏訪地方にまで広がっている。このことは、遠い昔、ヤマトに畿内政権が生まれる前に、日本海文化圏が存在した可能性を想像させる。

 能登半島は日本海に大きく突き出して、岬や断崖や磯が多く、内陸部は丘陵地帯で、平地は極めて少ない。だが、対馬海流に乗ってやってくる豊富な回遊魚を追って、人々もまたやってきた。入り組んだ地形を生かして、小さな漁港があちこちにできた。

 昨日、羽咋(ハクイ)駅から迎えのバスに乗り、「志賀町」の日本海に近いホテルに一泊した。

 この「志賀」の本家本元は、九州の福岡だろう。博多湾を囲うように玄界灘に伸びた細長い砂洲(「海の中道」)。その先端にある島が「志賀島」である。そこに「志賀海神社」がある。海人族・阿曇氏が祀る綿津見神の総本社である。(参照 : 当ブログ『玄界灘の旅』の10「海人・阿曇氏の志賀海神社へ行く」)。

 滋賀県にも琵琶湖の西岸に「志賀」があって、海人族の痕跡を残している。

   能登半島の「志賀」もこうした一連のもので、対馬海流に乗って日本海を行き来した海に生きる人々の姿がうかがわれる。

 中世においても、能登半島は、日本海側海上交易の根拠地であり続けた。

 江戸時代になると、能登半島の海に生きる民は、大坂に拠点をもち、北前船を経営する近江商人の「雇われ船頭」として、輸送を委託されるようになる。彼らは蝦夷地と大坂とを結ぶ航海を任され、次第に商いのやり方を身につけて、やがて自分の持ち船を持つようになっていった。

         ★

 

   ( 日本海に沈む夕日 )

 だが、弥生時代から江戸時代まで、日本はずっと稲作を中心に生きてきた民である。能登半島は稲作には向かない。どうしても稲を作り、畑の作物を食べたいなら、棚田や段々畑を作るしかなかった。

 バスは今日の最後の見学地、奥能登第7景の「白米(シロヨネ)の千枚田」へ向かっている。

 バスの車窓から、海に沈む夕日が見えた。

 ライトアップされた千枚田を見るのだから、早く着きすぎてもいけない。バスの運転手と添乗員の行程管理の腕の見せ所である。

        ★

 太陽は海に落ちて、あたりはなお明るい。

 しかし、空気は刻一刻と冷え、上着を着て、ライトアップを待つ。

 この棚田は輪島市の中心部から北へ13キロ。行政的には輪島市に入る。地図を見ると、町名を名舟という。

 今は70戸ほどの半漁村だが、「御陣乗太鼓」の発祥の地として知られている。今も夏の大祭のときには、小さな村を挙げて取り組む。

 1576年、上杉謙信は、七尾城に拠る守護大名の能登畠山氏を攻略し、余勢をかって奥能登平定に駒を進めた。そのとき、名舟村の村民は、木の皮で恐ろしい面を作り、海藻を頭髪として、太鼓を激しく打ち鳴らしながら、鎌や斧を手に上杉勢に夜襲をかけて退散させた。

 NHKBSに「新日本紀行」という優れた番組がある。そこで「能登」が取り上げられたとき、御陣乗太鼓も紹介された。漆黒の闇にかがり火の明かり、この世のものならぬ形相の面をかぶり、奇怪な仕草で太鼓を打ち鳴らす姿は、文字どおり「鬼気迫る」迫力があって、人の情念を揺さぶる。

 日本の文化のなかから生まれた鬼とか天狗とか物のけという存在は、天国だとか地獄だとかを説くキリスト教のゴッドや仏教の仏と違って、人間に近く、人の世の闇に棲みつき、どこか愛嬌もあって、好ましい。日本のよき理解者である小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が愛した世界でもある。

 海も田も、夜の闇に包まれてくると、既に灯されていた無数の光が次第にくっきりと鮮やかになっていく。

    ★   ★   ★

 昨夜は和倉温泉に泊った。温泉らしい温泉の泉質は、年齢とともに、きついと感じる。

 旅の第3日目の朝、和倉温泉からバスを走らせ、輪島の朝市に行く。奥能登の第2景である。

 とりとめもなく朝市を歩き、せめて輪島塗の箸を買った。

 能登国の内海側の中心は古来から七尾で、「ノト」という地名も律令以前から能登氏という豪族が七尾のあたりにいたことによる。

 一方、輪島は、奥能登、或いは、外海の中核の町で、中世には日本を代表する港である三津七湊の一つであった。北前船の時代になると、その寄港地としていっそう豊かになる。

        ★

 奥能登七景の最後の見学地は、出発点の志賀町に戻り、第1景の「ヤセの断崖」(能登金剛)だが、先ごろの台風の影響で道路が通行止めになって、代わりに「千里浜なぎさドライブウェイ」を走ることになった。能登金剛は、松本清張の『ゼロの焦点』の舞台になった場所だ。残念!!

    

         ★

 能登半島の東の付け根の氷見市の「ひみ番屋街」で、各自、おそい昼食をとる。注文したおまかせ定食は、富山湾の幸が美味であった。

 さらに南下して、高岡市に入り、国泰寺という臨済宗の寺に寄った。寺のガイドの女性から1時間も説明を受ける。主に、この寺と、後醍醐天皇及び山岡鉄舟とのかかわりについて。

 能登にはもっと歴史的な寺もあるが、近頃、映画『散り椿』のロケがこの寺で行われた。映画はもちろん観た。

 

        ★

 旅の最後の見学地は雨晴(アマハラシ)海岸。前回のブログで、氷見市と書いたが、氷見市から続く海岸で、ここは高岡市に入る。

 ちょっと趣のある踏切を渡って、海岸に出る。

 3000m級の立山連峰は、富山湾の遥か向こうに、シルエットとなって横たわっていた。

 海岸を歩いていると、一瞬、宮沢りえかと思う美女が風景写真を撮っていた。連れの女性との会話から中国人だとわかる。中国人も韓国人も、化粧も服もまるで映画スターのようにストレートで、さりげないオシャレ、という感覚はない。

 福岡や大阪や京都ばかりでなく、今や、日本海側の石川、富山、能登半島にも、東アジア系の外国人が、こうして個人旅行する時代になった。

 バスのベテランドライバーに、ここ(氷見の海岸)に来るのに一番良い季節はいつかと聞いてみた。冠雪の立山連峰が青空に映え、しかも、富山湾の幸が美味しいのは1~3月だという。東京や関西の人は雪を心配するが、豪雪は新潟のことで、石川県はそう心配することはないとのこと。ただし、旅行中、晴れて絶景が見られるかどうかは運次第。その日のことはわからない。

 かつて、早春のころ、出張で富山に来て一泊し、夜、道路に雪の残る富山駅近くの居酒屋に入ったら、寒ブリの刺身が驚くほど旨かった。あの旨さは忘れられない。

 しかし、もう一度来るとしたら、富山湾の幸よりも立山連峰を優先して、やはり4~5月かなあ。

 少し高台の道の駅から展望すると、海岸沿いに道路が続き、旅情を誘った。

 稜線の中央部のごつごつと聳えているあたりが剣岳だそうだ。ということは、その横の薄く白雪が残っているように見えるのは、立山だろうか。

        ★

 金沢を午後7時の特急に乗った。家には随分おそく着いた。 

 能登半島は、荒々しい風景もどこかやさしく、豊かで、文化があり、日本らしい繊細さがあって、良いところだと思った。 

 

 

 

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能登半島の最北端の岬へ … 能登半島バスの旅 ( 1/2 )

2018年11月05日 | 国内旅行…能登半島の旅

  ( 能登半島の最北端の禄剛崎灯台 )

     ★   ★   ★

 10月24~26日。能登半島をめぐるツアーに参加した。ツアーのサブタイトルに「奥能登7景」とある。

   ちなみに能登半島は、その先端から根元に向けて、「奥能登」、「中能登」、「口能登」と呼ばれてきた。

 ただ、地図の上だけでは、どこまでを能登半島の根元とするか、難しい。「能登国」は「加賀国」とともに、今は石川県だが、地図上、能登半島の東側の根元と言っていい氷見市、高岡市は、旧国名で「越中国」、今、富山県に入る。 

 奥能登7景のうち、能登半島の最北端の禄剛崎灯台は、かねてからぜひ行ってみたかった。岬と灯台は私の旅のテーマの一つだ。「禄剛」は、ロッコウと読む。ちょっと読めない。

 今回のツアーコースに入っている雨晴(アマハラシ)海岸は、富山湾越しに立山連峰が見える名勝の地である。ここもかねてから行きたかった所だが、先ほど述べた富山県側だから、実は「奥能登」でも、能登国でもない。それでもツアーのコースに入っているのは、参加者を増やすためだろう。

 もっとも、立山連峰が雪を冠して青空に映えるのは5月ぐらいまでだろうから、今回、絶景は期待できない。

 もう一つ、これも奥能登ではないが、能登の国の一の宮である気多大社に参拝したいとかねてから思っていた。JR羽咋(ハクイ)駅から、歩いていくには少し遠いという距離にある。古代、この地方の国司として赴任した大伴家持も参拝したはずだ。能登国に入る以上は、まずここを参拝しなければならない。しかし、残念ながらこのツアーのバスは、気多大社の横を2度も通りながら素通りした。案内のアナウンスさえない。能登国で最も古い歴史と文化を伝え、今も生きる文化遺産だが、毎度のことながら旅行社と自分との価値観の相違は如何ともしがたい。自分で富山湾越しの冠雪の立山連峰を見に行く機会があれば、そのときにコースに入れよう。

 2泊3日のツアーだが、第1日目は大阪を昼前に出発し、金沢で各駅停車に乗り換えて羽咋へ。羽咋駅から迎えのパスに乗り、志賀町のホテルに夕方早く着いた。

 実際の観光は第2日目からである。

         ★

 旅の始まりは七尾湾に沿って走る「のと鉄道」の旅。

 和倉温泉のある七尾市のあたりは古代から能登国の中心で、律令時代には国衙が置かれ、国分寺も建てられた。JR西日本が、金沢と七尾・和倉温泉の間を結んでいる。

 「のと鉄道」は、七尾駅からさらに北へ、穴水駅までの8駅を結ぶ鉄道である。その途中の「能登中島駅」までバスで行き、「穴水駅」までの25分間だけローカルな列車の旅を味わおうという趣向だ。料金の割には、少しずつ、いろいろと見学・体験させてくれるのが観光ツアーの特色で、こうして個人で行く旅との差別化を図っている。

 出発駅の「能登中島駅」は、和倉温泉に近く、乗降りする人もほとんど観光客だけののどかな駅だ。近くに知る人ぞ知る(私は知らなかったが)、「能登演劇堂」がある。駅舎には、今まで上演された仲代達也主演の演劇のポスターがたくさん貼られていた。地方に文化があることは良いことだ。

 

  ( 能登中島駅 )

 のどかな秋晴れのお天気の下、列車は七尾湾に沿って走る。沿線の駅には桜の木が多く、春に訪れたら楽しいだろう。

 車窓から見る民家の屋根は、能登瓦という光沢のある漆黒の瓦で葺かれていて、江戸時代、北前船による交易で豊かに潤っていた能登国の経済力がしのばれた。

  ( 七尾湾の車窓風景 )

         ★

 穴水は、もう奥能登である。

 先回りして待っていたバスに乗って、七尾湾の北側の小高い丘にあるワイナリーを訪ねた。

 周りはブドウ畑で、ワイン工場のなかを見学して、無料でワインの試飲をした。

  ( ブドウ畑の中のテラスで )

 ここで造られるワインはほとんど石川県内で消費され、我々の口には入らないそうだ。

 我が家の近くにもブドウ畑が広がり、輸入もののワインに劣らないみずみずしさで、「河内ワイン」として知られているが、多分、全国に出回るほどの生産量はない。

        ★

 バスはさらに北上して、能登湾にさしかかった。ここはもう能登半島の最先端の珠洲(スズ)市である。

 砂浜近くの林に停車すると、見附(ミツケ)島があった。

 写真で見たとき、こんなものをわざわざ見に行かなくても、と思ったが、近くから見るとそれなりに迫力があった。周囲400m。高さは28m。てっぺんには小さな社があるらしい。奥能登7景のうちの第3景。

 折しも干潮で、浜から島まで一筋の道ができていた。

  ( 見附島 )

 近くに看板が立っていて、伝説が紹介されていた。

 このツアーには現地ガイドが乗り込まず、添乗員は行く先々について説明らしい説明をしないから、面倒でも自分で勉強するしかない。

 弘法大師は唐で修業し、師の恵果からただ一人、宗派の伝承者と認められて、三杵(サンショ)を授けられた。帰国のとき、三杵を奪おうとする唐の僧たちに追われ、「我を待つべし」と三杵を東方の空に向かって投げた。

 帰国後、三杵を探し求めて佐渡から能登沖を船で通っていると、法華経を読む読経の声が聞こえてきて、その声に導かれ、この島に接岸した。そして、三杵の一つを見つけることができた。

 見附島(ミツケジマ)という名の由来である

   島までできた道を歩いてみた。ツアーの皆さんのなかにも挑戦する人がいたが、だれも暫く進んで、事の困難さを悟り、あきらめた。わが心にも、「やめておきなさい」と、弘法大師様の声。真言宗は我が家の宗派である。

 岩から岩へ跨ぎながら進まねばならない。時には濡れて滑る岩もある。思い思いに並ぶ岩だから、足元が不安定で、バランスをくずしてひっくり返ったら、岩角で怪我をする。島近くまでたどり着いていたのは、どうやら見知らぬこの若者二人だけ。かつてはたいして苦労せずできたことも、年とともに、いつの間にかできなくなる。

         ★

 昼食は古民家でカニ丼をいただいた。この家の奥さんが料理されたそうだが、ご主人が挨拶に出てこられた。笑いをとりながら、スマートに話される。

 6代前から、北前船を経営していた。

 北前船は、近代に入るまで、日本列島各地の経済を動かす大動脈だった。「一航海で千両稼ぐ」と言われたが、千両は今のお金ではざっと1億円だ。

 「その時代に生まれていたらよかたのですが(笑)」とご主人。

 北前船は廃業され、お父さんの時代から珠洲(スズ)焼を始めた。

 北前船で全国に売られた能登の名産といえば輪島塗だが、珠洲焼も古代からの伝統産業である。ご主人は東京の大学を出て、東京でサラリーマンをしていたが、帰郷して焼き物を焼くようになった。風合いが備前焼に似ていて、備前焼ほど濃淡は出ず、全体に黒っぽい。

 最初、玄関から大部屋に入ったとたん、高い天井の下の巨大な神棚に圧倒された。

 なにしろ畳1帖分ぐらいはあり、注連縄が堂々としている。神棚は社の形になっていて、ちゃんと階段まで付いていた。その下に言葉を書いた紙を貼るのが習わしだそうだ。今は「瑞気集門」とある。

  ( 珠洲の神棚 )

         ★

 さらにバスに乗って、いよいよ能登半島の最先端の珠洲岬だ。奥能登の第4景。

 このあたりの集落名は「狼煙」というらしい。いかにも奥能登らしい勇壮な響きがある。

 ツアーの日程表には「珠洲岬 … 日本三大パワースポットのひとつ『青の洞窟』と空中展望台『スカイバード』」とある。それで、イタリアのアマルフィ海岸やカプリ島の「青の洞窟」のような景観をイメージしたが、期待は裏切られた。

 空中展望台「スカイバード」とは、飛び込み競技の飛込板のように崖に突き出した橋状の施設で、もちろんしっかり手すりも付いてスリルはない。お金を出して数m進まなくても、手前の崖の上からの眺望で十分だ。

 ( よしが浦温泉「ランプの宿」 )

 崖の下には有名な「ランプの宿」が見えた。かつては廻船問屋だった。千石船も出入りしたそうだが、今は最高の立地を生かして、旅館業で大成功している。

 カプリ島の「青の洞窟」は、世界から集まってきた観光客が、小舟に乗り換えて海から洞窟の中に入っていくと、海水が驚くほど透き通ったブルーで、舟も空中に浮いているようだから、こう名付けられた。

 ここは、海水に浸食された自然の洞窟に横からトンネルを通して、観光客が歩いて入れるようにした人工的な施設だ。洞窟の中にいくつかの仏像が置かれ、洞窟全体を青色にライトアップしている。青色でライトアップして、「青の洞窟」と名付ける商魂のたくましさ。さらに、願い事を一つだけ唱えればかなうパワースポットだという。

 せっかくの奥能登に、こういうセンスのない観光施設をつくるのはやめてほしい。

         ★

 少し先で、またバスを降り、徒歩で山の中へ入っていく。

   ( ススキの山道 )

 ひとしきり登って汗ばんだ頃、登り道が平らになり、草むらの向こうに期待の禄剛(ロッコウ)崎灯台が現れた。ここが能登半島の真の最北端。奥能登の第5景。

 環境庁・石川県の看板が立っていた。

 「ここは、能登半島の最北端で、ちょうど外浦と内浦との接点にあたるところです。『海から昇る朝日』と『海に沈む夕日』が同じ場所から眺めることができることで有名です。また、晴れた日には、立山連峰や佐渡ヶ島が見渡せます。

 この高台に建つ灯台は、明治16年にイギリスの技師が設計したものです。現在も禄剛崎のランドマークとして、この地の壮大なロマンを感じさせてくれます」。

 能登半島の形は、東にしなって傾いている。「内浦」というのは、半島の東側で、南に富山湾を抱え、懐に七尾湾があって、美しい景観を誇るおだやかな海だ。一方、「外浦」は、半島の西側の反りかえった方で、荒々しい日本海に直面している。

 かわいい灯台だ。だが、灯台の建つ崖が高く、48mの高所から海を照らす。「日本の灯台50選」の一つ。

 良く晴れて、雲も浮かび、野原の中の白亜の灯台は、のどかで気持ちが良い。ここに来たかった

        ★ 

 午後の時間もおそくなり、太陽が傾いた能登の西海岸(外浦)に沿って南下する。海はおだやかだが、磯が続いて、日本海らしい風景だ。

 奥能登第6景「すず塩田村」に着いた。

 子どものころに、小学校の遠足で瀬戸内海の塩田の見学に行った記憶がある。

 このツアーは行く先々でサービスがあるが、ここでは蒸した塩味のジャガイモが配られた。塩味がなかなかの美味である。

 塩作りの過程を映した映像を見て、さらに外で説明を受けた。

   朝、砂の上に海水を均等に撒く。午後、塩分を含む砂を集めて、塩分の濃い海水を取り出す。

 海水を撒く作業の実演を見た。ねらった所に見事に散布され、見学している我々の足元にも撒かれるが、しぶきがかかることはない。朝ドラの『まれ』で田中泯がこの役を演じたそうだ。私は朝ドラは見ないが、そういえば、この人、どこか田中泯の雰囲気がある。

  ( 塩田の作業 )

         ★

 バスは、今日の最後の見学地、「白米の千枚田」へ向かう。

 太陽の光が赤みを帯び、夕刻が近づいた。(次回に続く)

 

 

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