ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

安曇川(アドガワ)に沿って高島へ … 近江の国紀行5

2022年03月07日 | 国内旅行…近江の国紀行

   (安曇川)

<閑話 : 近江国の佐々木氏のことなど>

 近江国のことをあれこれ調べていると、近江国の守護であった佐々木氏に行き当たる。

 佐々木氏は、鎌倉時代の初めから、室町時代を経て、戦国時代の織田信長の上洛の頃まで近江国を統治していた。「統治」という言葉は適切ではないかもしれない。とにかく、建て前上「守護職」であった一族だった。

 この世に常なるものはなく、佐々木氏一族もまた、勢いを得たり衰えたりしながらそれぞれの時代を生きている。歴史家ではないから詳しいことはわからないが、歴史の舞台に登場する佐々木一族のことを少し垣間見るだけでも、人間の生について考えさせられる。

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<源平の戦いと近江の守護職>

 平安時代の中期に、宇多源氏の流れを引く源成頼という人が、近江国蒲生郡佐々木庄に住みついた。その子孫が佐々木氏を名乗るようになる。近江源氏とも、佐々木源氏とも言われた。

 「苗字はこの時代の武士たちにとって、所領の誇示でもあった。武士団は、その一人一人が、その所領する村落の長(オサ)だった」(司馬遼太郎『街道をゆく42 三浦半島記』)

 保元の乱(1156)、平治の乱(1159)の時、佐々木秀義は源義朝(頼朝の父)の側に付いて戦い、平治の乱で平清盛に敗れて、東国へ落ち延びた。

   佐々木秀義の4人の子は、源頼朝の家人となり、1180年、頼朝が平家打倒の兵を挙げると、大いに活躍した。平氏打倒後、頼朝の信頼厚く、それぞれ各地の守護職に任じられる。佐々木氏が本領とした近江国の守護職は、嫡子の佐々木定綱に与えられた。

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<承久の乱と佐々木信綱>

 1221年に承久の乱が起きると、定綱の子で近江国の守護であった佐々木広綱をはじめとする佐々木一族は、後鳥羽上皇の側に付いた。

 一方、広綱の弟の佐々木信綱は鎌倉にあって幕府に仕えていたから、鎌倉側で戦った。しかも、信綱は、大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』の主人公・執権北条義時の娘婿でもあった。

 佐々木一族の多くは戦死し、また、佐々木の惣領の広綱らは捕らえられた。信綱は兄の処刑を命じられた。

 乱の平定後、信綱は佐々木氏の新しい惣領となり、近江国の守護職を継いだ。

 信綱は晩年、曹洞宗の開祖・道元に頼んで、承久の乱で死んだ一族の供養のため、朽木の地に興聖寺を建てた。建立当時、七堂伽藍がそろう堂々たる菩提寺であったらしい。信綱の心は、誰よりも兄を弔いたかったのだろう。晩年の信綱は、風光明るい近江国にあって、自ら好んで山村の朽木に隠棲したという。

 信綱は近江国を4人の子に分けた。京に近い南近江の六角氏は4氏を統率する惣領家で、代々、近江国の守護職を引き継いだ。愛知川より北の北近江は京極氏、湖西の高島郡の一部は高島氏、湖北の一部の大原庄は大原氏の所領となった。六角氏、京極氏という苗字は、それぞれ京都の六角と京極に邸があったからである。

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<高島郡の朽木氏>

   朽木氏は、湖西の高島氏から、さらに枝分かれした一族である。

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<足利尊氏とバサラ大名の佐々木堂誉>

 鎌倉幕府の滅亡(1333年)から南北朝の騒乱の時代は、朝廷・貴族、武家が相互に入り乱れて離合集散を繰り返した時代である。足利尊氏は後醍醐天皇に共鳴し、兵を挙げて鎌倉の北条政権を倒した。しかし、やがて後醍醐天皇の理想とする政治の在り方に付いていけなくなる。

 そういう尊氏を支え続けたのが、北近江の佐々木(京極氏)道誉だった。自他ともに認ずる婆娑羅大名。バサラとは、今風に言えば、ロックでしょうか。しかし、その派手な恰好や皮肉なものの言いようにもかかわらず、尊氏がどんなに劣勢になり窮地に陥ろうと、一度も尊氏を裏切らなかった。さらに、尊氏死後は、凡庸な2代目将軍・足利義詮を支えた。

 戦前の皇国史観では、後醍醐天皇と戦った足利尊氏は「朝敵」=悪人であった。

 だが、後醍醐天皇は宋学に傾倒して中国風の専制的な皇帝を理想としていたと言われる。鎌倉幕府を倒した後、天皇親政の政治を実行した。

 しかし、時代は、大和に王権があった古代の「大王」の時代ではない。

 「一所懸命」という言葉がある。「ここは俺の一族が切り開いた土地だ。命を懸けてこの所領は守る」という村落の長(オサ)=武士たちと、「お前たちの所領は俺が命をかけて保証する。その代わり、俺が声を掛けたら馳せ参ぜよ」という武士の頭領との関係によって成り立つ社会が封建制である。

 全国の土地は全て天皇のものだという理屈が、今さら通じる時代ではない。

 ちなみに封建制は、世界史上、ユーラシア大陸の東の果てと西の果て、即ち日本と西ヨーロッパにしかない。中国などは今でも、専制的な皇帝とその手足となる官僚機構に代わって、習近平という専制的な皇帝と中国共産党という人民統治の官僚機構が支配する古代さながらの国家である。

 後醍醐天皇は己が観念上の理想をこの世に打ち立てようとし、しかも、力量のある人だったから一層、南北朝の大きな動乱を招いた。

 以後、天皇は次第に日本国のまとまりを象徴する存在として、何かの時に日本人の心のよりどころとなる存在になっていった。

 さて、少々古いが、大河ドラマ『太平記』では、足利尊氏を真田広之、佐々木堂誉を陣内孝則が演じた。

 後醍醐天皇役の片岡孝夫は、この人を置いてないというはまり役で、品格と威厳のある天皇を演じた。

 私は『太平記』の中では楠木正成が好きである。武田鉄矢が演じたが、質実な人柄、教養もあり、知略に富み、物静かで人望のある楠木正成像だった。尊氏と心を通わせながらも、最期は後醍醐天皇の命に殉じ、寡兵で尊氏の大軍に立ち向かって討ち死にする。

 戦前は、足利尊氏は朝敵、楠木正成は尊王の人だったが、人はみな、矛盾を抱えながら生きる。そして、そこに人間のリアリティがある。薄っぺらい歴史観で歴史を裁いてはいけない。

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<戦国の世になって … 六角氏の滅亡>

 守護大名の六角氏は、応仁の乱を経て、次第に戦国大名化し、都に近い利点を生かして蠢動したが、織田信長が足利義昭を奉じて上洛するとき、織田・浅井軍に粉砕されて滅びた。

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<浅井氏の台頭と滅亡>

 北近江では、小領主の浅井氏が、京極氏の内紛に乗じて北近江を乗っ取る。あと継ぎの浅井長政は、隣国の織田信長の妹・お市の方を迎え、二人の間に三姉妹(茶々、初、江)が生まれた。長政は義兄の信長とともに上洛する。

 だが、信長の越前・朝倉攻めのとき、信長に離反した。この折、近江国の朽木元綱が、窮地の信長を援けた。

 その後、1570年、浅井・朝倉連合軍は、織田・徳川軍と、北近江の姉川で戦って敗れ、浅井長政は山上の城塞・小谷城に籠るが、信長軍に攻め滅ぼされた。

    (近江の姉川古戦場)

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<信長から秀吉、そして徳川政権の近江>

 信長は、小谷城を落とすのに手柄があった羽柴秀吉を、北近江の地に置いた。秀吉は山城を嫌い、湖岸に長浜城を築いて、交易・流通の町をつくる。長浜は今も古い街並みを生かしたオシャレな町づくりをしており、市民は今も秀吉好きである。

  織田信長は、武田軍団を破った長篠の戦いのあと、琵琶湖を望む大天守をもつ安土城を築いた。だが、彼の心は世界の海に開かれ、そのために大坂の地を欲した。

 信長の死後、天下人となった豊臣秀吉は、北近江に石田三成を置いた。光成は佐和山城を築く。

 1600年の関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、近江のおさえとして、徳川譜代のうちでも最も信頼する井伊直政を置き、彦根城を築かせた。

  (彦根城天守)

 このように近江の歴史をたどると、近江国が京都・畿内と東国とを結ぶ、まさに要衝の地であったことがよくわかる。

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<その後の京極氏>

 浅井氏は北近江の覇権を京極氏から乗っ取ったが、北近江を支配するのに名門・京極の名を消滅させることをはばかり、まだ幼かった京極高次を引き取って養育した。

 浅井氏が滅んだ後、成長した高次は、いわば裸一貫で織田信長に仕え、その後は豊臣秀吉に仕えた。

 美青年だったらしい。淀君(茶々)の妹の初姫に見初められて結婚する。

 秀吉のもとで、戦さに出るたびに出世した。他の武将からは姉が秀吉の側室だからと陰口をたたかれたらしい。とにかく出世して、近江高島に数千石をもらう武将になった。

 秀吉の没後、関ヶ原の戦いのときには徳川家康に付き、大津城に籠って、1万数千の毛利の大軍を引き受け、関ケ原に行かせなかった。関ケ原のあと、その功で家康から若狭一国を与えられ、翌年には高島郡も加えられて、小浜藩9万石の大名となった。

 大河ドラマ『江─姫たちの戦国』では、初姫は水川あさみ、京極高次は、ほんのちょい役だったが、若き日の(今も若いですが)齋藤工が演じた。

 京極氏は大名として明治維新まで存続し、維新後、子爵になった。

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<安曇(アド)川に沿って琵琶湖へ出る>

 朽木のあたりは、比良山系の北端に当たる。

 若狭道はなおしばらく北上し、その後日本海へ向かう。

 一方、安曇川は比良山を巻くようにして東へ流れ、支流を集めながら水量を増し、琵琶湖の西岸に豊かなデルタ地帯をつくって湖に流れ込む。

 その安曇川に沿う道路を琵琶湖へと向かった。

  (安曇川)

 現在の行政区画では、湖西の南半分は大津市、北半分は高島市である。

 琵琶湖の対岸は、湖北が長浜市、その南に彦根市、さらに南へ近江八幡市、守山市、草津市、そして大津市となる。

 比良山系を隔てた山あいの村の朽木も、行政区としては高島市に属する。

 高島市の中心部は安曇川が作った平野の中の湖岸で、湧き水でも有名な静かな地域だ。ビルが建ち並び商業地が広がるような現代的な都市ではない。

 だが、茫々とした遠い時代からこの地は開け、文化・文物の流通の要衝であったらしい。

 「海洋民族の安曇(アズミ)氏が住んだのはこの流域で、それとは別に水尾公(ミオノキミ)と呼ばれる豪族の根拠地もあった」。

 「彦主人王(ヒコアルジノオオキミ)の墓(稲荷山古墳)から、新羅の王冠や耳飾りが出土したのは、盛んに交流が行われたことを示している。彦主人は、継体天皇の父で、母は越前の三国氏であった」(白洲正子『近江山河抄』)。

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<湖西から迎えられた大王のこと>

 5世紀末から6世紀初めの頃のこと。

 『古事記』『日本書紀』によると、武烈天皇が亡くなったとき、あと継ぎがいなかった。そこで大和の王朝は、武烈の妹の手白香(タシラカ)皇女のもとに応神天皇の5世の孫である男大迹王(オホドノオオキミ)を迎えて大王とした。この人が継体天皇である。

 オホドの家は皇孫で、湖西の豪族だった。母は越前の豪族。オホドは、越前、近江はいうまでもなく、山城、摂津、河内北部といった木津川・淀川水系まで影響力があった人のようで、朝鮮半島とも交易関係があった。

 考古学上、古墳時代は前期と後期に大きく時代区分するが、後期の初めに位置するのがこの大王である。自らの陵墓を、初めて竪穴式から横穴式に変えた。皇后の手白香の陵墓は、彼女の父祖の地である大和に築かせたが、自らの墓は今の高槻市に造った。今城塚古墳が継体天皇の陵墓ではないかとされている。竪穴式の前方後円墳。墳丘長は190m。

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<海の民・安曇氏のこと>

 「安曇川」のアドは、アズミの変化である。海人族の安曇(アズミ)氏は、全国各地の地名にその名を残しているが、彼らの故郷は九州の博多湾沖合の志賀島である。そのことは、「玄界灘への旅10」の「海人・阿曇氏の志賀海神社へ行く」に書いた。彼らの一部が、日本海から安曇川を経て、この地に住みついた。

 彼らは古代において、大王の輸送船団にもなり、大陸とも行き来したが、本業は漁であった。船と、釣り針、モリがあれば、好漁場を見つけ、どこの湾岸にでも根を下ろして暮らすことができた。

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<高島の木材のこと>

      (琵琶湖・高島付近)

 時代が下がって奈良時代。

 毎年、正倉院の御物の展示が行われるが、正倉院には御物以外に、当時の役人たちが残した公文書類が多く残っているそうだ。今は、触ればぼろぼろと崩れるから、歴史学者といえども見ることはできない。

 その古文書の中に、平城京で使った材木のことが書かれていた。安曇川流域は材木の産地で、木を伐採して筏に組み、安曇川から琵琶湖を経て、平城京まで運ばれたらしい。

 奈良の長谷寺の十一面観音像は身の丈10mを越え、その前に座ると圧倒される。今の十一面観音像は室町時代の作とされるが、初代の観音像(火災で焼失した)は古い。

 白洲正子の『私の古寺巡礼』に伝承が紹介されている。

 継体天皇の頃、近江に大洪水があり、深山の巨大な樟が流されて、琵琶湖の高島の沖に浮かんだ。その巨大さに、祟りを畏れて誰も手を出さず、何十年も湖に浮かんだままだった。大和の人がこの木で十一面観音を彫ろうと念願を起こし、大和の當麻まで運んだが、そこでまた数十年の歳月が過ぎた。その子が一念発起し、初瀬川のほとりまで曳いた。一人の上人がこの神木を十一面観音にしたいと念じ、やがて聖武天皇の勅が出て、作られたという。

 話は、長谷寺の初代の十一面観音が神木によって作られたという「有難い話」で、伝説・説話の類である。だが、高島が登場することに興味をそそられた。長谷寺の初代十一面観音が高島から運ばれた巨木によって制作されたというところは本当だろうと思う。そこに少しずつ尾ひれが付き、長い間に雪だるまのようにふくらんでいった。この場合、ふくらませたのは、信者への話を少しだけ面白くしたいと思ったお坊さんたちだったかもしれない。

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<藤原仲麻呂の乱のこと>

 話は変わって、奈良時代の後期、藤原仲麻呂の乱(764年)があった。

 仲麻呂は人臣を極めた朝廷の実力者であったが、クーデターを起こそうとした廉で孝謙上皇(女帝)に兵を差し向けられた。

 上皇に先手を取られ、仲麻呂の率いる一族郎党は近江から越前に逃れて、そこで態勢を立て直し、逆襲しようと考えたようだ。だが、朝廷軍を指揮する吉備真備にことごとく先を越され、湖西の高島の地で朝廷軍に包囲されて滅んだ。

 この乱の時の天皇は淳仁天皇だった。淳仁は天皇になる前、仲麻呂の身内のようになっていた皇子だったから、乱にかかわったとされて親王に格下げされ、淡路に流されて、その地で亡くなった。

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 淡路で亡くなったはずの淳仁天皇を祀る隠れ里が、湖北にある。

 湖北の最北端に向けて、湖西を北上した。

(つづく)

 

  

 

 

 

 

 

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