ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

リンドスのアクロポリスと群青の海① … わがエーゲ海の旅(8)

2019年07月27日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

リンドスのこと >

 リンドスは、ロードス島の北端の町ロードスから、東海岸を55キロ南へ下がった所にある。

 路線バスで行けば1時間20分だが、船で行くことにした。片道2時間弱の船旅だ。

 リンドスの歴史は古い。古代において、ロードスは新興都市だった。

 リンドスのアクロポリスは、海面からの高さが116m。要塞のようにそびえる岩山の上にある。

 遠い昔、ドーリア人によって建設されたらしい。

 丘の上のアテナ神殿が壮麗な大理石造りになったのは、BC300年ごろである。

 

 その後、ロードス島の中心は、徐々に新興都市ロードスの方に移っていったが、ヘレニズム時代、ローマ帝国時代にも、リンドスのアクロポリスには相次いで新しい神殿が建設され、発展を続けた。

 たが、東ローマ帝国の時代になると、ロードス島は辺境の地となり、ヨーロッパ世界の支配的な宗教もキリスト教になったから、この丘はすっかり顧みられなくなっていった。

 時は流れて1309年、エルサレムから追い出された聖ヨハネ騎士団がロードス島にやってきた。彼らは本拠をロードスに置き、その出先として、リンドスのアクロポリスも要塞化して、海をわずかに隔てた小アジアに君臨するオスマン帝国と対峙したのだ。

 今、海上からアクロポリスの丘を見上げると、そこが神々のすむ聖なる地であり、また、天然の要害であったことがよくわかる。

 丘の上に立つと、古代ギリシャ時代、ヘレニズム時代、ローマ帝国時代、さらに聖ヨハネ騎士団の時代の遺跡が重なりあっており、群青のエーゲ海を見下ろすことができる。

 石の廃墟と紺青の海のコントラストは美しい。

 丘の麓には白い家々が集落をつくり、白い壁の間を縫うように石畳の道を上がっていけば、自ずからアクロポリスの丘に到達する。

 白い家々の下の海岸には透明度の高い海があり、海辺には、貸パラソルと寝椅子がぎっしりと並んで、遺跡なんかどうでもいいというふうに、若者や家族連れが人生のひと時を楽しんでいた。

 

     ★   ★   ★

マンドラキ港から船に乗る >

 5月16日(木)。

 ロードス島へ着いたのは昨日。

 着いてすぐに、新市街にあるホテルから、旧市街の一角を経て、南北に連なる2つの港のあたりを散策した。

 随分、よく歩いたと思った。

 ところが、今朝、ホテルを出てからマンドラキ港の北端に建つエヴァンゲリスモス教会まで数分もかからなかった。目と鼻の先なのだ。

 そういえば、昨夜、ホテルの部屋のテラスから、エヴァンゲリスモス教会の塔がすぐ近くに見えていた。 

 初めての道は、遠く感じる。一度歩いてみると、近くなる。

 一人で、犬と散歩する人がいる。

 昨日までいたアテネと比べると、なんという違いだろうと思う。朝の空気は爽やかで、海が広がり、気持ちがのびやかになる。

 昨日の午後、多くの観光客で賑わっていたマンドラキ港沿いのプロムナードも、まだ人影が少ない。

 ヨーロッパの観光客は、日本人のようにあくせくしない。せっかく旅に出たのだからと、宵っ張りの朝寝坊。目が覚めても、ホテルでゆっくりとおそい朝食を楽しむ。

 プロムナードを歩いて、ほどなく、昨日予約したリンドス行の船が繋留されている場所に着いた。名前を確認して乗船。

 乗客は30人余りだろうか。夫婦、アベック、子どもを含めた家族づれ。西欧系、中東系の人ばかりで、日本人はいない。

                     ★

リンドスへの船旅 >

 9時、出航。

 船がゆっくりと港を進んでいくと、昨日とは違った角度と高さから、ロードス・タウンを眺めることができた。

 埠頭の端に2頭の鹿のブロンズ像を載せた塔があり、ギリシャ海軍の軍艦も、大型フェリーも、たくさんのヨットも停泊し、セント・ニコラス要塞が朝の光の中に陰影をつくっていた。    

 聖ヨハネ騎士団がロードス島にやってきてから200年。この間にオスマン帝国は膨張し、1453年にはビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルが陥落した。その直後、ロードス島は勢いに乗るオスマン帝国軍の攻撃を受けたが、聖ヨハネ騎士団はこれを撃退している。

 今やロードス島は対オスマン帝国の最前線であった。

 2度目のオスマン帝国軍のロードス侵攻は、帝国の最盛期をつくったスレイマンが皇帝になったときである。

 攻防戦は、周到に準備を進め、城塞を包囲した10万のオスマン帝国軍の砲撃から始まった。1522年8月1日であった。

 すさまじい戦闘は6か月に及び、双方、多くの死傷者を出して、ついにヨハネ騎士団はスルタン・スレイマンの「名誉ある撤退」の勧告を受け入れて降伏する。降伏文書の調印は12月25日に行われた。

 年が改まった1月1日、生き残った騎士団と、たとえ難民となってもオスマン帝国の支配下に生きたくないと決めた5千人のロードス住民が、船に乗って、当時ヴェネツィア領であったクレタ島へ向かった。

 「1523年1月1日、大気は肌に厳しかったが、空は蒼く晴れわたっていた」。

 「旗艦につづいて、他の船も1隻ずつ、船着き場を後にする。ロードスの城壁の内からは、誰が鳴らすのか、教会の鐘がいっせいに鳴りはじめた。

  船着場を離れていく各船の帆柱の上には、三角の形をした、赤い白十字の聖ヨハネ騎士団の戦闘旗が風にはためいている。船べりには、これも赤字に白十字の騎士たちの楯がずらりと並ぶ。その背後に、大槍を手にした騎士たちが立つ。

 これも、戦場に向かうときの、騎士団のやり方だった。

 堤防の上に並ぶ風車が、カラカラと乾いた音をたてていた。

 旗艦を先頭にした船の列が、軍港の入口をかためる聖ニコラスの要塞の前を通りすぎようとしたときだった。要塞から、砲音がひびきはじめた。スレイマンが命じた、礼砲だった。

 騎士たちは、無言で、離れていくロードス島を見つめていた。誰もひとこともなく、船上に立ちつくしていた。

 200年の間彼らの棲家であった、バラの花咲く島から、今去って行こうとしている。サンタ・マリア号の船尾に立つラッパ手が、鐘の音と礼砲にこたえて奏しはじめた。ラッパの音は、高々と、海面を伝わって流れていった」。( 塩野七生『ロードス島攻防記』から )

 島を退去していく騎士たちが船上から見た風景は、こういう角度からであったろう。

 聖ニコラス要塞も、風車も、昨日まで自分たちが寝起きした城塞の建物も、そして多くの戦死した仲間たちの遺骸も、無念の思いとともに、そこに残したのだ。

 「ただ、『蛇たち』の中でも、特別に猛毒をもった若い一匹の蛇を、フランス貴族をもしのぐ騎士道精神を発揮したあげく逃してしまったことに、その時はまだ、28歳の勝利者は気づいていなかった」。(同) 

 その後、彼らはシチリア島の先に浮かぶマルタ島に行き、マルタ騎士団と呼ばれるようになる。

 彼らは、歴史と文明のあるロードス島と違って、未開のマルタ島を一から要塞化していかねばならなかった。

 彼らがロードス島を去ってから、40年あまりの歳月がたった。

 あのとき、「28歳の勝利者」であつたスレイマンは、大帝と呼ばれるようになっていたが、1565年、地中海の覇権を握ろうと再び大軍をマルタ島に差し向けた。

 これを迎え撃った騎士団長は、ロードス島包囲戦を生き残り、無念の思いを持って島を去る船に乗っていた当時28歳のフランス人騎士ラ・ヴァレッタだった。「『蛇たち』の中でも、特別に猛毒をもった若い一匹の蛇」も、スレイマン同様、既に60代後半になっていた。

 40年後の戦いでは、10万の大軍をもってしても、この一戦のために完全に要塞化されたマルタ島を落とすことはできず、マルタ騎士団の完勝となった。

 その後の歴史の変遷の中で、騎士団はマルタ島から去り、今、マルタはマルタ共和国という小国として、世界から観光客が集まる島国として生きている。その首都の名は、ヴァレッタである。

       ★ 

海上からアクロポリスを見る >

 船中で、「エーゲ海1日クルーズ」のような余興はなく、乗客は船室やデッキで思い思いに過ごしていたが、群青色の海と、次々現れる小さな島々を眺めているだけで十分に楽しかった。

 島々は上空から見たように、灌木がまだらに生えているだけで乾燥していた。小さな無人の島が多いが、中にはリゾート用の施設のある島もあった。 

 

 退屈することもなく2時間が経ち、遠くにリンドスのアクロポリスの丘と白い家々が見えてきた。

 船はどんどん近づき、やがて奇怪と言っていいような岩山の上に、城壁や神殿の趾らしいものも見えてきた。

 神々の降臨する丘である。

 そして、古代や中世の時代であれば、ここを要塞化されたら、攻めようという気になれない天然の要害である。

 埠頭に船が着けられた。海岸に大きな石を落とし込んで固めただけの素朴な埠頭桟橋に上陸した。

       ★

アクロポリスの丘へ >

 貸しパラソルと寝椅子がぎっしりと並ぶ海岸の横を通り、白い家々の方へと上がっていった。

 

 ロバ・タクシーがあった。

 実は旅行前、5月とはいえ暑いアクロポリスの丘を登っていくのは自分の年齢では大変かと思い、ロバに乗ることも考えた。だが、読んだブログの1つに、不安定なロバの背からふり落とされて大ケガをしても、馬子のおじさんには何の保証をする力もないだろうと書かれていた。確かに!! 旅行保険にはもちろん入っているが、ロバタクシーから落ちて、打ちどころ悪く大けがをしたとき、保険会社はどう判断するのだろうなどと考えて、やはり自分の足で歩くことに決めた。

 子どもが2人、2頭のロバに乗って、先に行った。お母さんは、子どもだけ、と思っていたのだろうが、当然のことのようにロバのおじさんによって乗せられた。相撲取りに負けないぐらいの体重がありそうなお母さんだった。

 ロバは重過ぎてその場を動けないように見えた。もしかしたら、重さに反抗して動かなかったのかもしれない。(先に行った子どもと比べたら、こちらはひどすぎるよ)。動かないロバの背で、お母さんは、降りる、降りると1オクターブ高い声を出したが、ロバのおじさんはせっかくの6ユーロを失うわけにはいかないから完全無視。ただただロバを叱りつける。だが、重いお母さんを乗せた華奢なロバが、この狭い石畳のかなりきつい坂道を上がるのは、素人目にも容易でないと思われた。

 賢いお母さんは、そこを通りかかる各国の観光客の非難の眼が、痩せたロバでも、ロバのおじさんでもなく、すべて自分に向けられていることを察知し、降りる、降りると叫ぶが、ロバのおじさんはその訴えを全く無視し、ロバを叱りつけて動かそうとしていた。

 これはお母さんがかわいそうだと思ったが、そのあと、どうなったかは知らない。

 集落の中に入ると、狭い石畳の道にお土産屋さんやタベルナが並び、小道は曲がりながら高度を上げていく

 そして、いつしか土産屋やタベルナもなくなり、白い壁の道を、汗を拭きながら上がっていった。  

 

 相当に汗をかいて、見晴らしがよくなった。 

 

< 次回の②へ つづく >     

 

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薔薇の花咲く島・ロードス島へ … わがエーゲ海の旅 (7)

2019年07月20日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

塩野七生『ロードス島攻防記』から

 「ロードスの最も輝かしい時代は、アレキサンダー大王の死後からはじまったと言ってよいだろう。エジプトとの間の密接な通商関係が、この東地中海の小さな島に、エジプトのアレキサンドリアやシチリアのシラクサと並ぶほどの繁栄をもたらしたのである。古代世界の七不思議の一つとされる、ロードスの港の入口をまたいだ形の、巨像がつくられたのもこの時代だった。

 この銅製の巨像は、西暦227年(ママ)のすさまじい地震で崩壊してしまうが、古代世界の七不思議とは、エジプトのピラミッドをはじめとして、人間技では不可能と驚嘆された巨大な建造物であったから、ロードス島も、当時の最高の技術水準をもっていたにちがいない。

 今ではルーブル美術館にある『サモトラケのニケ』は、紀元前2世紀のロードス人の作といわれているし、… 今日でもロードス島の美術館には、古代ギリシャの香りを伝える芸術品がいくつか残っており、2000年の間に各地に散った作品がいかに多かったかを納得させてくれるのだ」。 

         ☆ 

2頭の鹿のブロンズ像 >

 日本では「世界の七不思議」と言われるが、これは英語の「Seven Wonder of World」の誤訳らしい。

 もともとは、BC2世紀の人フィロンが書いた「世界の7つの景観」のこと。フィロンの言った「世界」とは、古代の地中海世界である。当時、「世界」に存在していた7つの巨大建造物のことだ。

 現存するのは、ギザのピラミッドだけで、あとの6つは完全に消滅したか、或いは、遺跡がかろうじて遺っている。  

  その1つが、ロードス島にあった。「ロードスの巨像」と呼ばれる。

 エジプトのプトレマイオス朝の時代、ロードス島は大軍に包囲されたが、エジプトからの援軍が来るまで耐え抜いた。巨像は、戦勝記念として、リンドスのカレスという人が、大軍が残していった青銅の武器・武具を使って、12年の歳月をかけBC284年に完成させた。

 太陽神のへーリオスの像(或いはアポロ像)であったという。台座を含めると50m。ニューヨークの自由の女神像に匹敵する大きさだった。

 だが、建設から60年もたたないうちに、ロードス島を襲った地震で膝から折れて倒壊した。エジプトが再建の援助を申し出たが、王は断り、像の残骸はそのままにされた。

 その800年後のAD654年に、残骸はスクラップにされてすべて売り払われたから、今は痕跡も残っていない。

 今、マンドラキ港の入口には、2本の突堤が伸びていて、それぞれの突堤の先端に2頭の鹿のブロンズ像が立っている。鹿はロードス島のシンボルだそうだ。

 その2頭の鹿の位置に、巨像の両足があったとされ、長く信じられてきた。当時、入港する船舶は、この巨像の股をくぐらなければロードス港に入ることができなかった。

 この伝説は長く信じられてきたのだが、現在の研究では、その姿勢で立つには全長が大きくなりすぎて、到底、建設はできないとされている。

 それでも、2頭の鹿は、今もロードス島の人気スポットの1つである。

      ★   ★   ★

アテネ空港で >

 5月15日(水)。

 今朝は少しゆっくりし、アクロポリスの丘を眺めながらホテルの最上階で朝食をとった。

 そして、シンタグマ広場を9時50分発の空港バスに乗った。

 この旅に出るとき、不安なことが2、3あった。

 その1つは空港の往復だったが、安く、安全、かつ、時間もほぼ正確に行き来できた。ただし、これはホテルが空港バスの停留所に近かったことが大きい。

 アテネのタクシーも利用しにくかったが、昨日、歩き疲れて、ついに乗った。その経験では、悪評を克服しようとしているように思われた。乗車する前に行き先を聞かれ、運転手の方から値段を提示してくれた。ぼったくりはしませんということだ。その値段がいやなら、乗らなければいい。

 一番心配していたのは、アテネ ─ ロードス島間の飛行機。今まで、個人旅行でヨーロッパのローカル線に搭乗したことはない。

 関空からアテネへの直行便はないが、ルフトハンザ航空でチケットを買えば、関空 ─ ミュンヘン ─ アテネのチケットが買える。ミュンヘン ─ アテネ間は、ヨーロッパのローカル線との共同運航だが、当方はあくまでルフトハンザの客である。

 だが、アテネ ─ ロードス島間は、その間を運航するローカル線の航空チケットを自分で買って、搭乗しなければならない。

 それで、ネットの旅のブログを頼りに、アテネ ─ ロードス島間を運航する航空会社は、ギリシャ系の「Aegean Airline」であると知った。それで、航空券はそのホームページに入って購入した。席の番号まで確保したから、まず間違いないだろう。搭乗するとき飛行機に預けるパッケージの料金も取られた。

  Aegean Airlineは LCC (Low Cost Carrier) ではないが、競争の激しいヨーロッパの航空会社は低コストに抑えるために、効率化を徹底している。それで、人間だけでなく、機内預けの荷物にもお金がかかるのだ。逆に言えば、手荷物だけの人は、その分安くなる。

 ただし、無料で機内持ち込みできる手荷物の大きさや重量も、搭乗のときに厳しくチェックされ、少しでも基準を超えれば機内預けに回される。当然、その料金のほかに手数料も取られる。

 さらに、アテネ空港は狭く、チェックイン・フロアが混雑し、大行列ができるそうだ。その原因の一つは、エーゲ海の島々に飛ぶ飛行機がしばしば遅れるかららしい。異国の空港の人ごみの中で、電光掲示板を見ながらあてもなく緊張を強いられるのは、かなりイヤだ。

 さらに、自分でチェック・イン機を操作し、チェック・イン機から搭乗券とともに印刷されて出てくる荷札のタグも、自分でパッケージに貼って、窓口まで持って行かねばならない。とにかく、余裕をもって、2時間前には空港に行け、と書いてある。

 ── かなり気が重かったが、チェック・イン機の操作は何とかうまくいき、搭乗券も印刷されて出てきた。だが、 …… たぶん、パッケージへの荷札タグの貼り方を間違えたのだろう。荷物預けカウンターではねられた。

 それから右往左往して、結局、チェックイン・カウンターでやり直してもらって、何とかチェック・インできた。

 ただ、正確に言えば、右往左往したのではなく、させられた。

 空港のチェックイン・カウンターや、列車の窓口、ホテルのカウンターなどには、比較的若い女性が働いていることが多い。我々のような旅人が、訪問した国で触れ合うとしたら、まずこういう人たちだ。本人たちは意識していないだろうが、旅行者にとって、その国の看板のような存在である。

 実際、花のように美しい笑顔で、優しく、親切に応対してくれる人もいる。こういう人に、最後に「ボンボヤージュ」などと言って送り出されると、ほっこりして、心楽しい旅になる。

 ビジネスウーマン、という感じの人もいる。アフリカ系の女子などに多いタイプだ。たぶん、しっかり勉強して、このポストに就いたのだろう。ダークスーツをパリッと着こなし、てきぱきぱきと処理する。お愛想はなく、ビジネスライクだが、自分の仕事に誇りを持っている。

 そして、時々、いるタイプ。最初からふくれっ面して、不機嫌で、ぶっきらぼう。面倒くさそうで、質問しても無視される。どうしてこんな女子を、客の応対をするカウンターに置いているのかと思う。日本なら、「店長を呼べ!!」と怒鳴りつけられるだろう。まあ、日本の窓口にはいない。だが、異邦人の旅人としては、そんないやな「お嬢様」でも、仕事をしていただかなければならない。

 Aegean Airlineのチェックイン・カウンターで出会った1人も、このタイプに近かった。面倒くさそうに適当にあしらう。言われたようにしても、うまくいかない。「適当に」言っているだけだから。

 とにかくカウンターの人を変えて、やっとチェックインできた。

 あとは「薔薇の花咲く島」と呼ばれたロードス島へ。小さな飛行機で、1時間の空の旅だ。

        ★

 エーゲ海を飛ぶ >

 遥か上空を行く飛行機と海との間に薄く雲がかかっていた。すかっと晴れ渡った青い空と、その下の青い海と、島々の景観を期待していたが、ちょっと残念である。

 だが、瀬戸内海と違うことはわかった。

 群青の海の色は、瀬戸内海のものではない。灌木がまだらに生えるだけの乾燥した島々は、潤い多い日本の島々とは異質の世界だ。

 ウィキペディアによると、エーゲ海は、地中海を8つの海域に分けたなかの1つである。

 北と西はバルカン半島(ギリシャ)、東をアナトリア半島(トルコ)に囲まれた入り江状の海域。南には、その入り江に蓋をするように、クレタ島が横に(東西に)伸びている。

 トルコの沿岸まで、エーゲ海は、ギリシャの海である。

 古くは「多島海」とも呼ばれたそうだが、大小2500の島々が浮かんでいる。

 火山島が多く、クレタ島のような面積の大きな島には肥沃な耕地が広がるが、多くの島は農業に適さない。

 地中海性気候で、まばゆい太陽が輝く夏には、ヨーロッパの太陽に恵まれない地方から多くの観光客やリゾーツ客が訪れる。

        ★

塩野七生『ロードス島攻防記』から

 「エーゲ海の東南、小アジア(注 : トルコ) にいまにもくっついてしまいそうな近さに位置するロードス島は、南西から北東に向けて、まるでラグビーのボールを置いたような感じで浮かぶ島である。

   全島の面積は、1500㎢に及ばず、島の最も長いところを計っても80キロ、幅は、これもまた最も長いところで38キロしかない。島には背骨のように山脈が走っているが、高い山でも1200mが一つあるだけだ。

   耕地には、あまり恵まれていない」。

 「古代から、理想的な気候の地として有名だった。街中では、最も寒い2月でも、気温は10度を切ることはなく、最も暑い8月に入っても、陰であれば25度を越すことはまれだ」。

 「薔薇の花咲く島、という意味からロードス島と呼ばれるようになった」。

 「良港は、島の北から東にかけて集中していた。その中でもとくに、島の最北端にあるロードスと、島の東側の中頃に位置するリンドスが、古代の主要港とされてきた。首都はロードスである」。

        ☆

 ホテルを予約したとき、タクシーも予約した。空港バスは本数が少ない。タクシーは空港に常駐していない。田舎の空港なのだ。

 ドライバーが私のローマ字名を書いた画用紙を持って、待ってくれていた。

 ドイツやオランダやフランスは、地方もまた美しい。ある地方は小麦畑や牧場が広がり、別の地域ではブドウ畑が広がって、森や林があり、湖や川がある。

 空港からロードス・タウンへ向かう途中に見るロードス島の印象は、首都のアテネがそうであるように、どこかうらぶれて、荒れた感じで、景色に豊かさや潤いがない。耕地が少ないせいかもしれない。道路沿いには、小屋掛け風の食べ物屋や土産物店が点々とある。海沿いには、リゾート風のホテルも見える。

 「薔薇の花咲く島」は、ローズとロードスの語感の近さから、ヨーロッパ人が勝手に言い出した呼称のようで、バラが咲いているわけではないようだ。

 ただ、太陽の光や、心地よい風や、遥か古代から繰り広げられた数々の歴史は、ブナやモミやカラマツが鬱蒼とした寒い地方の森の民にとって、あこがれ以外の何ものでもなかったのだろう。

        ★

ロードス・タウン(新市街、旧市街)と2つの港周辺を歩く > 

 旧市街に車は(タクシーも)入れないので、変哲のないショップが並ぶ新市街の通りに面したホテルを予約した。ホテルから旧市街まで徒歩で10分ほどかかる。

 夕方までの時間、明日と明後日の行動のために確認したいこともあり、街の散策を兼ねて出かけた。自分で歩いてみなければ、異国の街の方向感覚や距離感はつかめない。

 まず旧市街入口近くにある観光案内所を探した。それらしい建物の入口は見つかったが、予想したとおり、まだ夏のシーズン前で、オープンしていない。

 次に、明日のリンドス行きのために、バスの発着場を探し、時刻表をもらった。

 本当は船で行きたいのだが、どこから船が出ているのか、或いはまだシーズンオフなのか、そういう情報も観光案内所で得たかったのだが、仕方ない。

 続いて、明後日のコス島へ行く船の乗船場とオフィスを確認するためにコマーシャルハーバー(商港)へ向かった。

 ロードス・タウンの東側に、2つの港が南北に並んである。

 旧市街の東にあるのがコマーシャルハーバー(元商港)。その北、新市街の東にあるのがマンドラキ港(元軍港)である。

 コマーシャルハーバーへ行くため、一旦、城壁の中、旧市街に入った。 

 突然、アラブ風の街が現れた。これが旧市街だ。20世紀の初めまでオスマン帝国の統治下にあったのだから、パリやウィーンとは全く違う。 

 小さな土産店やタベルナがぎっしりと軒を連ね、各国からの観光客が歩き、黒い衣をまとったギリシャ正教の神官もいる。この中世風の街並みが世界遺産である。

 旧市街から港の方へ出る城門を2つくぐった。城壁が二重になっているのだ。 

  広々とした港(海)側に出ると、旧市街を囲む城壁がよく見える。

 城壁の内側には、深い空堀もある。

 コマーシャルハーバーの埠頭に、「Dodekanisos Seaways」のオフィスを見つけた。

 コス島へ行く船は、オフィスの前の岸壁に着岸するので、それに乗ったらよいということも確認。

 これで、明後日の行動もOKだ。ホテルから船のオフィスまで、徒歩で15分はかかりそうだ。余裕をもって、ホテルを出る必要がある。  

   ホテルの方へ、海岸沿いの道を歩いて帰った。賑やかなプロムナードになっている。

 歩いていると、停泊している一艘の船の前で、若者が、明日、リンドスへ行く船のチケットの予約販売をしていた。

 こんな所に、あった 早速、説明を聞き、予約した。

 ロードス島の旅の記録を綴ったいろんな人のブログを読んだが、みんなリンドスへバスで行っている。そんななか、一人の女性のブログに、船で行ったという記事があった。

 ブログの中身も愉快だった。

 お母さんとのふたり旅なのだが、そのお母さんがなかなか活動的な人で、リンドス行の船もお母さんが見つけてきた。

 翌日、船に乗っていて、お母さんがいないと探していると、なんと操舵室の窓の中、船長さんといつの間にか意気投合して、横に坐って操舵の舵を握っていた!! まことにたくましいお母上で、読みながら笑ってしまった。ギリシャ語はわからなくても、意思疎通はできるのだ。

 予約した船は、明朝の9時に出航する。リンドスには2時間で到着。自由に3時間過ごして、船に戻る。帰りは風光明媚な2カ所の海岸で停泊する。わずかな時間だが、泳いでもらってもいい。午後5時30分に、ここに帰ってくる。

 OK!! これで、明日、1日の行動も決定だ

 マンドラキ港の景観は、なかなか印象的だった。

 突堤に、赤い屋根の3つの風車が並んで、景観に彩りを添えている。石造りの立派な風車だ。

 その先の海上には、不沈戦艦のように浮かぶセント・ニコラス要塞がある。オスマン軍は、この要塞の内側に入ってこられなかった。

 そして、2つの突堤の端と端の塔の上に、2頭の鹿のブロンズ像。

 突堤の陸側の付け根は、マンドラキ港の一番北端で、ギリシャ正教の教会と塔があった。

 エヴァンゲリスモス教会。エヴァンゲリスモスは、受胎告知のことらしい。

 教会の祭壇の位置までは入れなかったが、壁に描かれた幾枚かのフレスコ画の色合いが美しい。 

 その夜は、ホテルのレストランで夕食をとった。ビュッフェ形式だから、楽だ。宿泊者には値引きもあった。

 部屋のテラスから見ると、エヴァンゲリスモス教会の塔と、海が見えた。手前の建物も、国旗が掲げられているから、史跡なのだろう。

 今日の歩数は6000歩。

 とにかく、今日は、ローカルな航空会社の小さな飛行機に乗って、無事、エーゲ海の東の端の島までやってきた。  

      ★   ★   ★

< 閑話 : ウィキペディアについて > 

 「ウィキペディア」を、自分の百科事典として使っている。インターネットの良さの1つはウィキペディアですぐに調べられることにある。

 このブログを書くときも、家のパソコンを使いながら、横にスマホを置き、疑問に思ったことはすぐにスマホで調べる。その際、最も多用するのはウィキペディア。ウィキペディアがなければ、ものは書けない。

 以前は、ウィキペディアを簡単に信用してはいけないと言われたが、今はそんなことはない。

 各項目の記述者によって、記述の根拠となる参考文献・出典も明示されている。資料・出典が不十分な場合は、その旨、ウィキペディア側が明記して、誰か書き直してほしいと要請文が掲載される。何よりも、内容が不偏不党、穏当で、事典にふさわしい。

 ただし、外国人が書いたものを日本語に翻訳した中には、日本語として十分にこなれていない文章もある。

 もちろん、100%の信用を置くわけではないが、高いお金を払って買った百科事典も、今の時代、すぐ古くなる。100%の信用ができないのは、どんな学者の書いた本でも同じだ。その間合いを計るのが、使い手の力量というもの。

 一切、広告収入を得ずに運営している。だから、メールで寄付の依頼があると、1年~2年に1回くらいだが、2000円寄付する。百科事典をそろえることを思えば、安い使用料である。

 ウィキペディアを運営しているスタッフのみなさんには、頑張ってほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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エーゲ海1日クルーズ (サロニコス諸島) … わがエーゲ海の旅 (6)

2019年07月14日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

 今日は「エーゲ海1日クルーズ」に参加。アテネに近いエーゲ海のサロニコス諸島の3島を巡る。

 船に乗っていればいいのだから、気楽な一日だ。

   いつも緊張している個人旅行だから (そこが、いいのだが)、こういう1日はありがたい。

 クルーズ船には、いろんな国からの観光客が乗っていて、みんな陽気に楽しんでいた。日本からも旅行会社の異なるツアーが3組も乗船していて、個人旅行の日本人と知り、珍しいものに出会ったかのようにあれこれ聞かれた。

 船旅のつれづれを紛らわすため、音楽バンドが出てきて演奏し、女性の歌手が歌った。リズミカルな明るい音楽で、たぶんギリシャかバルカン半島あたりの民謡調の曲なのだろう。

 しばらくすると、船客のおばさんたちが2人、3人とフロアーに出てきて、たちまち10人くらいになり、曲に合わせ適当な振り付けで踊りだした。年齢に関係なく、リズムに合わせて体を動かすことが身についているのだ。

 すると、さっきまで船内のコーナーで貴金属のアクセサリーを販売していた品のいい長身の美女が踊りに参加した。美女のダンスはプロフェショナルだった。こういう場面でおばさんたちとダンスするのも、彼女の職務のうちなのかもしれない。おばさんたちは、彼女の動きを真似て、手足を動かしている。

 日本からのツアーのおばさんたちも1人、2人が参加して、みなさん楽しそうだ。

 しかし、男性はついに誰も参加しなかった。日本人は内弁慶と言われるが、日本人のおじさんだけでなく、各国の男性たちもまた、ただ見ているだけだった。

 世界の大統領、首相も、国際機関のトップも、今に全員、女性になる日が来るに違いない、と思った。

     ★   ★   ★ 

早朝のピレウス港へ >

 日本から持ってきたカップヌードルをホテルの部屋で食べ、朝、7時過ぎ、宿泊するホテルから徒歩5分の大型ホテルのロビーに集合した。

 アフリカ系の若い女性が時間どおりに迎えに来て、ロビーに集合していた数名とともにバスに案内された。すでに何人かの先客が乗っていて、途中、さらに3、4カ所のホテルで客を拾いながら港へ向かった。西欧系の人たちだけでなく、中東系の家族や、アフリカ系のアベックもいる。東アジア系はいない。早朝のバスの中は、お互いに、異国の空気である。

 ピレウス港に着くと、バスが十数台も並び、バスから降りた大勢の人並みの向こうに、クルーズ船が何艘か着岸していた。

 迷い子にならないように、バスのグループにくっ付いて、乗船した。

 ここまでは慣れないことゆえ緊張したが、乗船してしまえばもう安心だ。一日、エーゲ海を楽しもう。

         ★

 サロニコス諸島はアテネに最も近いエーゲ海の島々である。ピレウス港から南へ、ペロポネソス半島に沿って、小さな島が連なっている。

 そのうちのエギナ島、ポロス島、イドラ島の3島を巡る日帰りクルーズは、エーゲ海を手軽に楽しめる現地ツアーとして、アテネを訪れた観光客に人気がある。それで、私も日本からネットを通して申し込んだ。

 最初に一番遠いイドラ島まで行き、そこから順に、ポロス島、エギナ島と寄って、ピレウス港に引き返してくるというコースだ。

 イドラ島までは、3時間少々かかる。

 3時間は退屈するかと思ったが、日本からのツアー参加者の中のご夫婦に話しかけられ、ご主人と話がはずんだ。退職後、「弥生時代」に興味があって、一人の考古学の先生の講義を聞きに行くのが楽しみなのだそうだ。私も似たようなものだから、話がはずんだ。

 デッキに出て海を眺めたり、朝からワインを飲んだり、音楽演奏とおばさんたちのダンスを見たりしているうちに、あっという間に時間が過ぎた。

 

海上交易で栄えた豪商の島・イドラ島 > 

 イドラ島の岸壁が近づくと、ロバの列が荷を運んでいた。

 この島は車もバイクも禁止。島内の水のきれいな入り江に遊びに行くにはモーターボートがあるが、内陸部の荷の運搬はロバが頼りだ。 

 桟橋に着いて船を降りた。自由時間は1時間半。

 各自で島内を散策した後、時間厳守で船に帰ってきてください。遅刻すると、明日、再び船がやってくるまで、島で過ごさなければならなくなりますよ、と船の日本語ガイドの注意があった。

 これだけの大人数、点呼などせず、出航するのだろう。

 

 島内には見学しなければならないような名所・旧跡、遺跡があるわけではない。ただぶらぶらと文字どおり散策する。

 島の唯一の「繁華街」は、船の着くイドラ・タウン。

 船を降りると、海岸沿いの小道には土産物店やタベルナが軒を連ねて、船から降りてくる大勢の客に声をかけてくる。

 ただ、この島はアーティスト、職人たちが集まる島だそうで、土産物店といっても、銀や銅の彫金細工のアクセサリー、七宝の絵皿、モダンな工芸品なども並んでいた。 

 そういうショップが軒を連ねているのもしばらくの間で、イドラ・タウンを抜けると、あとは静かな海沿いの石畳の小道である。 

  「18世紀から19世紀にかけて、イドラの商人たちは海上貿易で成功をおさめ、巨万の富を得た。1821年からのギリシャの独立戦争で、彼らは自分たちの持ち船を武装させ、海戦で大活躍する。ギリシャでは有名な話で、現在でもイドラ島はギリシャ人たちの間で英雄的な島として人気が高い。島に並ぶ大邸宅は、ほとんどがこの商人たちによって建てられたもの」(『地球の歩き方』から)。

 ギリシャ人は、(今のギリシャ人とは遺伝的には相当に違うだろうが)、古代から海洋民族だった。紀元前の何百年という、気の遠くなるような時代から地中海に漕ぎ出し、各地に植民都市を建設した。

 イタリアの長靴の先に位置するシチリア島には、シラクサをはじめいくつかのギリシャ系古代都市の遺跡があり、アテネのアクロポリスの丘に負けないくらいの遺跡が遺っている。

 対岸のアフリカ大陸には、当時の地中海の覇者カルタゴがあった。カルタゴはフェニキア人の植民都市で、ギリシャ人の植民都市をつぶしにかかる。民族間の激しい戦いは、この時代から繰り広げられていた。(当ブログ「シチリアへの旅」参照)。

 古代だけではない。ギリシャの産業を支えているのは、今も観光業のほかには海運業である。

 ただ、その海運業は、近年、中国の一帯一路政策によって、乗っ取られようとしている。

 3島の中でも、イドラ島の海の透明度は高いそうだ。

 今、我々クルーズ船の観光客が歩いているのは島のとっかかり部分に過ぎない。もっと奥へ行けば、水の澄んだ美しいビーチがいくつもあり、そこはリゾート客の世界である。

 適当に歩いて、休憩して、もと来た道を引き返した。

 島に置き去りにされてはいけない。 

      ★

時計塔のポロス島とギリシャ国旗 >

 ボロス島へ向かう1時間ほどの航海の間に、船の中でビュッフェ形式の昼食をとった。

 テーブルで隣り合わせた一人旅の日本人男性と、ヨーロッパのことや中国のことなどを話す。

 どこかの会社のヨーロッパの出先で働いていたそうだ。今は退職して日本で暮らしているが、当時知り合ったギリシャ人に、遊びに来ないかと誘われた。だが、今日は休みが取れないので、このクルーズに参加せよと言われたそうだ。

 旅先で、日本人と長話をした経験はない。今日は2度も話してしまった。

 ボロス島は小さな島で、見学するほどのものはない。丘の斜面にびっしりと建つ家の路地を上がって行けば、時計塔がある、と船のガイドが言う。それだけのようだ。

 それで、船を降りた人たちは時計塔を目指した。旅人は誰でも、高い所へ上がりたがる。

 しかし、急坂のうえ、道もよくわからず、行き止まりになっていたりして、途中でやめようかと思ったが、若い人の後についていくうちに、何とかたどり着いた。

 なぜここに時計塔があるのかわからない。おそらく、中世の時代には、海賊対策の物見の塔だったのではなかろうか。

 塔の横に、ギリシャ国旗が風に翻っていた。 

 古代都市国家アテナイの歴史は古いが、ギリシャという国土と国民を持つようになってからの国の歴史はまだ浅い。

 BC146年に、アテネを含むアッティカ地方はローマの属州となり、AD395年のローマ帝国の分裂以後は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)に所属した。しかもその一辺境の地にあったから、スラブ民族が多数流入し、ラテン民族に続いて、スラブ民族との混血が進んだ。

 1453年、ビザンチン帝国はオスマン帝国によって滅ぼされ、以後、イスラム教徒の支配下に入る。ただ、オスマン帝国は、ギリシャ正教の信仰を容認した。

 19世紀、ロシアやヨーロッパ列強の攻勢の前にオスマン帝国が弱体化するなか、独立運動が興って、1829年に異教徒の支配を脱し、ギリシャの独立が成った。

 ただし、その後も、クレタ島やキプロス島を巡ってトルコとの戦争は続いたから、今もエーゲ海を隔てた隣国との関係は悪い。

 話はギリシャの国旗に戻るが、青は、空と海の青である。白は純潔を表し、十字はギリシャ正教を表す。また、白と青の9本の縞模様は、トルコとの独立戦争時の合言葉であった「自由か死か」の9音節を表すそうだ。 

 そういうことはともかくとして、青と白の旗は、いかにもギリシャらしくていい。なかなか秀逸の国旗だと思う。

 時計塔から眺めた港の景色である。

        ★

古代にはアテナイと張り合ったエギナ島 >

 エギナ島はピレウス港から30キロ。サロニコス諸島の主な島の中では、アテネに最も近い。

 人口はサロニコス諸島で最も多く、1万3千人少々。

 古代には独立したポリスとして栄え、アテナイと張り合っていた。

 国立考古学博物館で見た「ポセイドンのブロンズ像」は、この島出身の彫刻家オナタの作とされる。

 船を降りて、エギナ・タウンから、ガイドとともにバスに乗った。

 島の畑や野の道を上へ上へと上がること30分ほど。

 丘の上に、アフェア神殿の遺跡があった。

 ここもまた、エーゲ海を見下ろす高台である。

 アフェア神殿はアテナイのパルテノン神殿より50年ほど古く、BC6世紀後半からBC5世紀初めに、この島で採れる石灰岩で建造された。

 2階建ての神殿で、周囲に祭壇の跡や神官の家の敷石の跡も残っている。 

 遺跡としての風韻のようなものが感じられて、なかなかいいと思った。

 アフェアとは、「目にみえない」「姿を消す」という意味があるそうで、エギナ島の女神だそうだ。 

        ★

 バスに戻って、しばらく山を下っていき、途中、聖ネクタリオス修道院に寄った。

 まだ新しい、大きな、美しい修道院である。

 聖ネクタリオスは、19世紀の半ばから20世紀の初めに生きた人で、死後、ギリシャ正教の聖人に列せられた。晩年、この島で過ごし、遺骸がここに葬られている。

 回廊も美しく、祭壇はイコンで飾られていた。

 バスが平地を走るようになると、ピスタチオの畑があった。この島の特産らしい。 

        ★

 帰りのクルーズ船の中では、舞台のある船室で民族舞踊が披露された。

 クルーズ船がピレウス港に帰り、行きと同じバスに乗ってアテネの中心部に向かう頃には、日もすっかり暮れた。

 バスを降りたその足で、ホテル近くのレストランへ。午後8時を回っていた。

 早朝から日が暮れるまで、今日も1日、よく活動した。船に乗っている時が多かったが、それでも今日の歩数は9500歩だ。

 明日は、いよいよロードス島へ向かう。

     ★   ★   ★

閑話 : 一帯一路政策とピレウス港 

 ピレウス港は、古代ギリシャの時代から、アテナイの軍船や商船が出入りした天然の要衝であった。ピレウス港あっての都市国家アテナイの繁栄であった。

 近代に入っても、ヨーロッパ世界への入口・ピレウス港は、ヨーロッパを代表する港湾として、ギリシャ産業の根幹である海運業を支えてきた。

 ギリシャはEUに加盟して急成長を遂げ、ユーロバブルに酔ったが、政府と国民による放漫財政の結果として、2009年に政府の財政赤字の隠蔽が明らかになった。

 EUとIMFはギリシャに対して超緊縮財政を強いた。

 その結果、国内総生産は落ち込み、失業率は23%となり、アテネだけでもホームレスは2万人を超え、さらに難民がやってきた。

 疲弊するギリシャに甘い手を差し伸べたのが中国である。

 中国の国有企業であるコスコ(中国遠洋海運集団)が、ピレウス港の管理、整備、開発の権利を買い取った。習近平の肝いりで、スペインのバレンシア港とともに、中国と西欧を結ぶ一帯一路政策の一環である。

 国有企業がなぜ他国の企業を買収し、支配するのか?? こういう中国に「おかしい!!」とはっきり言うのはトランプだけである。オバマもメルケルも、国内の人権問題では声が大きいが、中国には口ごもる。

 ピレウス港を手に入れた中国資本はたちまち大幅な利益を上げ、さらにクルーズ船の新ターミナル、4つのホテル、ショッピングモールなどの大開発計画を打ち上げている。また、ピレウス港とハンガリーとを結ぶ鉄道の建設も始めている。

 ピレウス港が中国海軍の欧州進出のための軍港になるのではないかという懸念もあった。その懸念はあっさり現実化した。

 2015年、中国海軍の大型揚陸艦がピレウス港に寄港し、地中海で、何とロシアと、初めて海上合同演習を実施した。

 こういう中国の侵出については、今更、驚くことはない。

 それよりも、EUとはそもそも何だったのだろう … と思う。

 経済はドイツの一人勝ちだが、ギリシャも、スペインも、ハンガリーも、最近のニュースではイタリアも、やすやすと中国に切り崩されていく。イギリスは離脱。

 長年、ヨーロッパに目を注いできた私には、メルケルとEU官僚の失政は明瞭であるように思われる。とっくに時代についていけなくなっている。

 

 

 

 

   

 

 

 

 

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アテネの博物館 … わがエーゲ海の旅 (5)

2019年07月09日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

都市国家アテナイの起源伝説 > 

 新アクロポリス博物館は、アクロポリスの丘のパルテノン神殿から直線距離で280mの所にある。

 ここに、パルテノン神殿を飾っていた彫像やレリーフ(浮彫)、或いは、あのエレクティオンの6体の乙女像のうち5体(1体はイギリスに持ち去られた)、また、ペルシャ戦争のときに破壊されて埋もれていたBC5世紀以前の遺跡も、発掘されて、展示されている。

 こうした発掘品のほとんどは、破損され、或いは断片であったりするが、新たに復元され、在りし日の姿がわかるように再現され、展示されているものもある。

 充実していて、一日、おにぎりでも持って、ここで過ごしてもよいぐらいだった。

        ★

 上の写真 (ケースのガラスが光っているが) は、パルテノン神殿を再現した模型である。神殿の東側(正面)の写真で、西側も同じ構造になっている。

 8本の巨大な柱の上、屋根部分との間の横に長い長方形部分、ここをメトーブという。ここには、神話やアテナイの歴史をテーマにしたレリーフが90枚もあった。

 メトーブの上に、横長の平べったい三角形部分がある。ここを破風(ハフ)(ペディメント)という。ここには大きな彫像があった。

 上の写真が、その破風の彫像群を再現したもの(写真はその中央部)で、都市国家アテナイの守護神アテナが誕生した場面である。

 女神アテナは、なんとゼウスの頭から、黄金の鎧をまとって生まれてきたそうだ。横に坐っているのが父のゼウス。ゼウスの頭を斧で殴ったのは、右側にいる火と鍛冶の神ヘファイストスだ。

 アテナは手に槍を持つ戦いの神でもある。しかし、戦いを好む神ではなく、知恵と純潔の神でもある。

 冒頭の写真は、パルテノン神殿の西側の破風の中央部である。

 群像によって描かれているのは、都市国家アテナイの起源神話。 

 アテナイの守護神の地位を、知恵の女神アテナと海神ポセイドンが争った。

 ポセイドンはゼウスの兄弟で、いつも三叉の鉾を持っている。海、河、泉の神で、怒りっぽい。

 彼は、アテナイ市民を従わせようと、鉾で地面を突き、海水を湧き出させた。

 それに対して、アテナは、地にオリーブの木を生い立たせた。

 初代国王以下、人々はオリーブの木を選び、女神アテナの名を、国の名とした。

 どこの国、民族も起源伝承をもつが、これがアテナイの起源神話である。

     ★   ★   ★

 新アクロポリス博物館を見学した後、地下鉄のアクロポリス駅からシンタグマ駅までの1駅だけ地下鉄に乗り、ガイドのソフィアさんにアテネの地下鉄の券売機の使い方や地下鉄の乗り方を教えてもらった。

 

 さらに、シンタグマ広場から少し歩いた所にあるレストランを紹介してもらって、別れた。

 レストラン「ELLA」はリーズナブルで、緑に囲まれた綺麗なテラス席があり、落ち着けた。

        ★

国立考古学博物館へ >

 昼食後、国立考古学博物館へ向かった。

 タクシーに乗ってぼったくられるよりは、スリに気を付けた方が良いかと思い、地下鉄で行った。

 シンタグマ駅から1駅行き、乗り換えて2駅目のビクトリア駅で降りた。

 外務省の安全情報に、ビクトリア駅の1つ手前のオモニア駅付近は治安が悪いから気を付けるようにと書いてあったが、帰国後、テレビニュースが、アテネのビクトリア駅からオモニア広場周辺でテロ事件・暴動があったと報じた。

 国立考古学博物館は、ギリシャ各地で発掘された考古学上の文化財を収納・展示する博物館である。

 建物のファーサードも、実に堂々としていた。

 

 左側の垂れ幕を見ると、今、ローマ帝国時代の5賢帝の一人、ハドリアヌス帝の特集をやっているようだ。そういえば、アクロポリスの丘の上から、ハドリアヌスの門だとかハドリアヌスが建てさせたというゼウス神殿が見えた。帰国してから、アテネとハドリアヌスの関係を調べてみよう。

        ★

 館内の展示品は、大きな時代区分で分けて展示されていた。その数は膨大で、日本の考古学の発掘品と比べると遥かに文明度が高く、私の基準では現代美術などよりもずっと美しく、旅人が1~2時間で見て回って終わりにするにはもったいない博物館だった。

 それでも、急ぎ足でざっと見て回った。

 以下、印象に残ったものを7点だけ紹介する。

 もちろん、考古学的観点から選んだものではない。ただ直感的に、わが感性に響いたものを撮影し紹介するに過ぎない。

 考古学的、或いは、歴史学的視点に立てば、ここにあるものは全て私の想像を遥かに超えた遠い遠い世界のものである。

                ★

 粘土のフィギアー

 

 ギリシャ東部のテッサリア地方で発掘された新石器時代の粘土のフィギアー。BC6500~5300の頃のものと説明のプレートに書かれている。日本の縄文時代だ。

 見た瞬間、わが縄文時代のフィギアーの土偶と同じだと思った。時代も同じ時期だ。

         ★

ボクシングをする少年たち

 BC17世紀の火山の大爆発で火山灰に埋もれてしまったサントリーニ島のアクロティリ遺跡から出土した壁画である。

 女の子かと思ったら、「少年」となっていた。 

 「赤絵式の陶器の壺」 

 黒絵式の陶器を発展させた赤絵式陶器の壺は、BC530年頃のアテナイで生まれた。

 絵付けの段階で、画像の部分だけ残して地を塗りつぶす。細部は筆で描くそうだ。絵の多くはギリシャ神話などを題材にしている。

 日本の弥生時代に、アテナイではこれほど繊細優美な壺が作られるようになっていた。卑弥呼の7、800年も前のことだ。

         ★

ポセイドンのブロンズ像

 アテネのすぐ東、エーゲ海のエヴィア島の海底から偶然に発掘された。

 BC5世紀のエギナ島の彫刻家オナタの作品とされ、ポセイドン像ともゼウス像とも言われる。海神ポセイドンだとすれば、手に持っていたのは例の三叉の鉾だ。

 エギナ島には、明日、現地1日ツアーで行く予定。

        ★

アンティキセラの青年

 ペロポネソス半島からエーゲ海に出て、エーゲ海の南端の大きな島・クレタ島へ向かう途中に、アンティキセラ島という島がある。その海から発見された。BC4世紀の作品とされる。

 気品がある。右手に何を持っていたのかわからない。

         ★

 馬に乗る少年

 の「ポセイドンのブロンズ像」と同じく、エヴィア島の沖で発見されたブロンズ像だが、こちらはヘレニズム期のBC140年頃の作とされる。

 疾走する馬と馬上の少年がカッコいい。私の一番のお気に入り。

   2枚目の写真(馬のうしろ姿)の左隅の像は、「アタランテのヘルメス」。アタランテは地名。ヘルメスはオリンポス12神の1人で、神々の使者、また、旅人の守り神とされる。左肩からマントを垂らし手に巻き付け、右手には伝令の杖を持っていた。マントの着方が粋である。

         ★

傷ついたガリア人

 ヘレニズム期のBC100年ごろの作品。ミコノス島のそばのディロス島で見つかった。ディロス島は小さな島で、今、人は住んでいないが、島全体が世界文化遺産だ。

 ガリアは今のフランス。この時代、地中海世界の人々にとって、彼らはヴァーバリアン(蛮族)だった。そのガリアの若い戦士だろう。右肩から袈裟懸けに斬られ、重傷を負っている。かわいそうだ。右手は剣か槍を握って体を支えているのだろうか?? 上方に挙げられた左手はどうなっていたのだろう?? それがわかれば、何を叫んでいるかもわかるかもしれない。

    ★   ★   ★

ミトロポレオス大聖堂の前の広場 >

   朝からよく歩いた。博物館を出るとタクシーがあったので、値段交渉してからホテルまで乗った。

 やや年配のドライバーは、教会の横を通るとき、丁寧に十字をきった。今まで何度もヨーロッパの旅でタクシーに乗ったが、教会のそばを通るとき、このような態度をとった人は初めてだ。ギリシャ正教の世界では、今もこのように敬虔な人が多いのだろうか。 

 ホテルで一休みした後、もう一度街に出て晩御飯を食べ、そのあと街を散策してミトロポレオス大聖堂の前の広場に出た。

 アテネの街の中心はシンタグマ広場だが、交通の要衝でもあるから落ち着かない。

 ミトロポレオス大聖堂の広場は、日本でガイドブックを読んだ時から私のお気に入りの広場になると思っていたが、そのとおりだった。樹木が多く、緑が濃い。ベンチもあって、気持ちが落ち着く。

 大聖堂の中も、のぞいてみた。ギリシャ正教の大聖堂だから、中にイコンがあった。

 

 大聖堂に隣り合わせて、アギオス・エレフテリオス教会がある。

 大聖堂よりずっと古い教会だが、大きな大聖堂の横にこじんまりとして、野の花の趣がある。

 教会の前で、少女がボール遊びしていた。 

   饗庭孝男の『石と光の思想』に、「神はなくとも信仰は美しい」というボードレールの言葉が引用されていた。「神はなくても」は、私はキリスト教徒ではないが、という意味だろう。

 かつてステンドグラスの美しさにひかれてゴシック大聖堂をめぐる旅をした。また、ロマネスクの素朴な大聖堂をめぐる旅もした。巡礼の到着地である冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラにも行ってみた。

 そういう旅ではなくても、ヨーロッパの旅で、行く先々、教会があれば中をのぞいた。

 日曜日の朝のミサにも、聖夜の礼拝にも、片隅で参加させてもらったことがある。

 「原罪」や「裁きの日」はおどろおどろしいが、人々の喜びや哀しみ、憤りや希望が祈りとなるとき、それは人の生そのものである。だから、美しい。  

 広場には、「カフェ・メトロポール」がある。老舗のカフェだ。 

 写真の右に立つおじさんは、たぶん、この名カフェを背負っている人だ。

 そばを歩いていると、メニュを持った若い女性に、食事はどう?? と勧められた。残念ながらもう食べた、… お茶だけでもいい?? と聞くと、どうぞと言う。それで、樹木に囲まれたテラス席に座って、ギリシャコーヒーを頼んだ。旅に出る前から、飲んでみたいと思っていた。

 エスプレッソやメランジュとは全く違う。トルココーヒーに似ている。こってりしていて、私にはとても美味しかった。病みつきになりそうだが、日本にはない。 

 

 時は宵。アテネの街をショッピングする観光客たち。道端の屋台ではおばさんが何か売っている。 

 今日は、17000歩も歩いた。

           ★

 閑話 : アテネと皇帝ハドリアヌスのこと >

 第14代皇帝ハドリアヌス(在位AD117~138)は、偉大な前皇帝トラヤヌスに従ってバルチア国に遠征中、前皇帝が発病して死去。トラヤヌスの養子であったハドリアヌスは直ちに帝位を継いだ。41歳だった。

 すぐに遠征軍を率いてローマに帰還し、帝国の統治に携わった。ローマ帝国は、トラヤヌス帝のとき、ローマ帝国史上、最大の版図になっていた。

 4年後、彼は帝国内の大視察旅行に出る。

 人にはそれぞれの流儀がある。たぶん、広大な帝国の各地からもたらされる報告や、皇帝の判断・指示を求める声にこたえるには、ローマで元老院議員たちの修飾の多い美文調の演説を聞いていたのではだめだと考えたのだろう。

 以後、帝位にあった足掛け22年間のうち、実に14年間を費やして、彼は広大な帝国内を騎馬で歩き続けたのだ。

 少数の供をつれ (当時のローマ帝国内の治安がいかに良かったかがわかる)、気候の良い春も、酷暑の夏も、日の落ちるのが早い秋も、州都から地方の町へ、軍団基地からその出先へと、ひたすら広大な帝国領内を視察して回った。そして、ライン川やドナウ川の防衛上の不備を発見してメンテナンスし、政治、経済にかかる諸問題を自分の眼で見て、現地の役人や人々の声も聴きつつ、解決して歩いたのである。

 塩野七生は、『ローマ人の物語Ⅵ 賢帝の世紀』の中で、この14年間の旅によってハドリアヌスは心身ともに疲れ果てたのだろうと、書いている。62歳で死去するまでの最後の4年間はローマに帰り、ローマ郊外に建てた豪壮なヴィラに閉じこもって、極めて不機嫌な老人として過ごしたようだ。

 ヤマザキマリの『テルマエ・ロマエ』に登場するハドリアヌス帝は、このころの彼である。

 養子には、後に哲人皇帝と言われるマルクス・アウレリウスを迎えていた。

 さて、そのハドリアヌスが視察旅行中のある冬、アテネに滞在した。寒く、日没の早い冬は、ローマ人に限らず、例えば戦争をしていても休戦に入るのが当時のならわしである。

 AD121年から123年にかけての彼の足取りをたどれば、

 ガリア(現フランス) → ライン川の防衛線 → スペイン<ここで冬越し> → シリア → 小アジア(現トルコ) → ドナウ川防衛線 → アテネ<ここで冬越し> となる。

 以下、塩野七生からの引用。

 「ハドリアヌスは、ローマ軍の最高司令官でもある皇帝として、ライン河とドナウ河という、帝国の2大防衛線の視察をすべて成しとげたわけであった。

 冬も迫る季節になってようやく、皇帝は南に足を向けたようである。アカイヤ州の州都でもあるアテネで、冬を越すつもりでいた」。

 「48歳になってはじめて、憧れの地を自分の眼で見た人の想いはどうであったろう」。

 ── ローマ人、特にそのリーダー層の家では、都市国家時代のギリシャの文化に対して敬意をもち、子弟の多くは若い頃にギリシャに留学して勉学した。彼らはみな、ラテン語とギリシャ語のバイリンガルだった。しかし、一方で、ローマ人は、古代ギリシャの音楽や演劇などの文化を軟弱として嫌った。このような軟弱な文化が、繁栄するギリシャの国力を弱めたと考えたのだ。

 遺っている彫像に見るように、ギリシャの神々や英雄・哲人たちは、みんな豊かな髭をたくわえている。ところが、ローマの皇帝たちやリーダーの像は、ある時期までみんな髭を剃っている。こざっぱりする。無用なオシャレはしないのが、ローマの男たちなのだ。

 第5代皇帝ネロ(在位AD54~68)は、在位中から極めて評判の悪い人だったが、その悪評の一つは、彼がギリシャ文化を愛し、市民たちを招待して自ら音楽堂に出演し音楽を演奏したり、劇場で役者を演じたりしたことにある。それは、ローマの一般市民にとっても奇妙な姿だった。ローマで、皇帝とは、オリエントの皇帝のような絶対専制君主を言う言葉ではない。兵士たちが総司令官をリスペクトして言うときに「エンペラー」と叫んだのだ。つまり、一旦、国家緊急の時には、全軍を率いる総司令官なのだ。だから、ネロのやっていることは、江戸時代に徳川将軍が歌舞伎の舞台に立って町人の前で役者を演じるようなものである。「真面目に自分の仕事をやれっ、バカ殿め!!」ということになる。

 ネロの時代とハドリアヌスの時代では、価値観も少しは変わってきた。それでも、将来は皇帝になる身である。養父トラヤヌスは、少年のハドリアヌスのギリシャ好きを心配し、スペインに留学させたりした。彼は少年の頃からギリシャにあこがれていたのである。

 成人して、偉大なトラヤヌスの下で様々な職務を経験させられるが、彼はストイックによく働き、一つ一つ職務をこなして、周囲からも認められていった。養父が死に、42歳で皇帝位に就いて以後も、任務に対してきわめてストイックで、都ローマにも還らず、良き統治のために帝国内を14年間も歩き続けたのである。

 「このときのハドリアヌスのアテネ滞在は、冬越しどころか6カ月にもおよぶことになる」。

 そのハドリアヌスが、このとき初めて、半年間をアテネで過ごしたのである。アテネは全盛期から既に6世紀が経ち、今や帝国内のローカルな一地方都市に過ぎなかった。かつての栄光の跡は、今、名所旧跡となって遺っているだけである。彼は、現在の我々と同じように、それらの遺跡を見て回ったのである。 

 そして、たった6カ月間だが、彼はあくまで皇帝として、アテネの復興のために尽くした。今は名所旧跡になった建造物を修理復元させ、アテネの経済復興のために壮麗な市場を建てた。また、新たにゼウス神殿や図書館を建てさせ、旧市街と新市街の境界にアーチ門を建設させたのである。

 だから、…… アテネ市民は今でもハドリアヌスが好きなのだ。メルケルやマクロンとは違うのである。

 なお、ハドリアヌスは、豊かな髭をたくわえた最初のローマ皇帝であった。 

 

 

 

 

 

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アクロポリスの丘にあがる … わがエーゲ海の旅(4)

2019年07月03日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

 アクロポリスの丘から、アテネの街並みの先に海が見えた。エーゲ海だ ……。

 都市国家アテナイは海上交通の要路に位置し、BC8世紀頃にはアクロポリスの丘を中心とする海運都市国家として、ギリシャ世界のなかで先進的な地位を確保していた。

 一般に、アクロポリスは、高い丘の上につくられた町のこと。古代のアクロポリスは、ポリス(都市国家)の守護神を祀る神殿が建てられ、祭祀が営まれる神聖な場所だった。また、戦いの際、市民が最後に立てこもる砦となるよう城壁で囲まれていた。

 アテナイのアクロポリスは、海抜150mの平らな石灰岩の上にあり、三方が断崖絶壁になっている。

 丘の上は、東西が270m、南北が156m。アテナイの守護神である知の女神アテナを祀ったパルテノン神殿が建っていた。

 ホテルから見るアクロポリスの丘は、北東からの眺望である。 

     ★   ★   ★

アクロポリス眺望 >

 今日は5月13日(月)。

 朝、7時。ホテルの最上階の朝食会場に入ったとき、思わず嘆声が口をついて出た。

 広間の整えられたテーブルの向こうは前面ガラス張りで、街並みの上に、何のさえぎるものもなく、アクロポリスの丘があった。

 その丘の真ん中にパルテノン神殿が建ち、折しも朝の光に照らされている。

 早朝の光と空気が似合う丘だ。

    ( アクロポリスの丘 )

   ( 丘の上にはパルテノン神殿 )

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 今日、午前中は、現地の日本語ツアーに参加することにしていた。ガイドに付いて、アクロポリスの丘とアクロポリス美術館を見学する。

 午後は自力でアテネの街を歩く。ガイドと別れる前に、国立考古学博物館への行き方を聞いておかねばならない。

 アテネに着いた翌日の午前から『地球の歩き方』の小さなマップを見ながら悪戦苦闘するのもどうかと考え、出発前、現地ツアーに入ることにした。ガイドに案内されながら、まず、この街の空気に馴染み、土地勘を身につける必要がある。

 それに、事前に読んだブログによると、アクロポリスの丘に入る入場券を買うのに長蛇の列ができる可能性がある。何しろ世界有数の名所旧跡だ。現地ツアーに入れば、ガイドがチケットを事前に確保してくれるから、並ぶ必要はない。

 それに、事細かな知識や専門的な説明は要らないのだが、簡単でも説明はあった方が良い。というのも、『地球の歩き方』その他で一応事前に予習しても、年齢とともに活字がなかなか頭に入らなくなった。では現地で読めば、ということになるが、現地に立つと、その場で本を出して活字を追う気にはなれないものである。それより写真撮影になってしまう。その結果、帰国してから、あれやこれやと見落としたことに気づく。

 そういうわけで、日本でネットをとおして、現地の半日ツアーを予約した。

 ガイドにはソフィアさんという方がやってきた。午後には保育園に子どものお迎えに行かなければいけないそうだ。日本人とのハーフの感じのいい女性だった。

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 三方が断崖絶壁のアクロポリスの丘は、西側にしか登り口がない (ということも、初めて知った)。 

 西側の麓はオリーブの林になっていた。よく手入れされて、樹木がみずみずしい。

 オリーブ油は好きではないが、オリーブの実の漬物は美味しい。白ワインのアテにいい。

 その林の中の小道を登っていくと、やがてチケット売り場に出た。列に並ぶことなく、ソフィアさんからもらったチケットを入口の検札機にかざして、入った。

 古い石段を一歩一歩上がっていく。2500年も前の石の階段だから、足元は危うい。長い歳月、人に踏まれて凹凸ができ、欠け、段差もいろいろで、つるつるに磨かれてうっかり足をのせると滑る石もある。ここは革靴ではムリだ。

 まだ5月だが、汗ばんでくる。

 夏になると、強い日差しと、世界中からやってくる観光客の人いきれで、熱中症の人が続出し、突然に入場ストップして、休憩に入ったりするそうだ。

AD3世紀のブーレの門

 ブーレの門は、ポリス時代の建造物ではない。ローマ帝国時代の3世紀に、防御のために新たに造られた門である。

 3世紀のローマ帝国は、5賢帝の時代も過ぎ、パクスロマーナからの衰退がはじまっていた。突然、異民族の騎馬隊がライン川、ドナウ川の防衛線をくぐり抜け、ローマ帝国の奥深くまで侵入して荒らしまわる、そういう事態が起こるようになっていた。もう安全は保障されていない。

 三方が断崖だから、ここをおさえれば、一応の防御はできる。

 ブーレは、19世紀にこの門を発掘したフランス人の名。  

 ブーレの門が額縁のようになって、石段の先に、ポリス時代の門であるプロビュライアが見えた。

 門をくぐり、プロビュライアへの階段で振り返ると、麓の林の向こうにアテネの街が広がっていた。 

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聖域との結界を示すプロピュライア >

 プロビュライアは、神殿に通じる前門のこと。防御用というより、「ここから先は聖地」という、聖域との「結界」を示す門である。日本では、鳥居とか注連縄がそういう機能をもつ。

 アテナイの黄金期のBC437年に建設が始まり、432年にほぼ完成した。

 6本の柱によって構成された中央楼と、その左に北翼、右に南翼がある。今は柱のみでイメージがわかないが、ベルリンのブランデンブルグ門やミュンヘンのプロビュライア門は、この門を模したそうだ。だから、そちらを見たらイメージがわくだろう。

 えーっ!! 柱がズレている。

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 プロビュライアをくぐれば、もうそこはアクロポリスの丘の上だ。

ローマ時代のイロド・アティコス音楽堂 >

 丘の西側、登ってきた直下に、古代の音楽堂が見下ろせた。

 イロド・アティコス音楽堂という。まだパクスロマーナの5賢帝の時代にそういう名の大富豪がいて、AD161年に建設し、アテネ市に寄贈したそうだ。

 観客席は6000人分。石の席が上へ上へと、かなりの急斜面に造られている。

 最近修復され、夏の間、演劇や、オペラ、古典劇、コンサートなどが開かれるそうだ。星の瞬く夜空の下、古代遺跡で催される音楽や演劇は、なかなかの趣であろう。もちろん、一流のアーチストグループでないと出演できない。彼らも一度はこういう所でやってみたいに違いない。

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パウロがスピーチしたアレオパゴスの丘 >

 ガイドのソフィアさんが、音楽堂の向こうのあの岩山は「パウロの岩」だと言う。えっ? パウロって、あのパウロ?

 イエス亡き後にキリスト教と出会い、ペテロ、ヨハネなどの直弟子たちとともに伝道した。キリスト教神学の土台はこの人によってつくられたと言われる。あの新約聖書に登場するパウロが、この岩山の上で …… 。

   この丘のことは、『地球の歩き方』には、何も書いていない。

 帰国後に調べてみると、ポリス時代から、ここで評議会が開かれたり、裁判が行われたりしたらしい。

 AD1世紀、伝道のためにアテネを訪れたパウロが、「あなたの話をもっと聞きたい」という哲学好きの市民たちによってここに連れてこられ、岩山(丘)の上でスピーチした。そのことが、新約聖書の使徒行伝17章16節から34節に書かれている。

   「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。『アテネのみなさん、…… 』」。

 紀元前5世紀のアテナイのスター・ペリクレスと聞いても、私にとっては世界史の教科書の中の人に過ぎない。だが、それから400年ほど時代が下って、新約聖書のパウロと聞くと、あのパウロがこの岩山の上で … と、遠い人が肉体をもって現れるような気がする。

 これは西洋史に対する私の中の知識の偏重によるのかもしれない。

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知の女神アテナを祀るパルテノン神殿 >

 ペルシャ戦争(BC499~449)のとき、この丘の上の建造物はことごとく破壊され、略奪された。

 アテナイやスパルタの連合軍がペルシャの大軍を撃退し、戦争に勝利したあと、アテナイはペリクレスの指導の下、黄金期を迎える(BC460~BC430)。

 この聖なる丘も、かつてあった状態を遥かに超える壮麗さで再建されていった。今、我々が見る遺構はペリクレス以後のものである。

  

   ( 神殿の正面 )

   ( 神殿の側面 )

 丘の中心をなすパルテノン神殿は、15年の歳月をかけて築かれ、BC432年に完成した。

 神殿の正面側は幅31m、側面側は70m。基礎部分(土台)の上に立つ柱自体の高さは10m。その上に屋根の構造物がのっていた。

   建設当時、神殿は彩色され、全体が彫像やレリーフ(浮彫)で飾られていたそうだ。

 神殿の内部には、アテネの守護神である知の女神アテナの像が安置されていた。

 高さが12mの巨像だったという。(… とはいえ、東大寺大仏殿の大仏様は、坐っておられても15mだ ── ついでに調べてみました)。

 パルテノン神殿の「パルテノス」は、若い娘、処女の意で、女神アテナを指す。ゆえに、アテナの神殿の意になる。聖母マリアに捧げられた大聖堂が、ノートル・ダム(われらの貴婦人)大聖堂と呼ばれるのに似ている。

 似た名前に、ローマの「パンテオン」がある。アグリッパによって造られ、ハドリアヌス帝によって再建された。巨大な円錐形(ドーム型)建造物だ。

 「パン」は「汎」。パンテオンは、すべての神々のための神殿である。円形をしているのは、上座や下座がないということ。ローマ帝国は信仰の自由を認め、すべての民族の神をリスペクトした。他者の神を尊重するのは、高貴な精神である。ローマでは「寛容」と言った。

 一神教のキリスト教がヨーロッパ世界をおおったとき、他の宗教はもちろん、キリスト教の中でさえ異端のレッテルを貼られると迫害された。本来、一神教と信仰の自由は両立しない。

 パリの5区にもパンテオンがある。18世紀創建のパリのパンテオンは、フランス革命を経て、神々ではなく、フランスが誇る偉人たちを祀る霊廟になっていった。例えば、キューリ夫妻、ヴィクトル・ユーゴー、ヴォルテール、ゾラといった人たちである。 

 話は戻って、パルテノン神殿のそばに公衆トイレがあり、そのあたりに腰を下ろして一休みした。バッグを置いてパルテノン神殿の写真を撮り、休憩が終わってエレクティオンの方へ歩きかけたとき、バッグを忘れたことに気づいた。あわてて取りに行ったら、休んだ石の上にバックはぽつんとあった。(水とか、ガイドブックとか、ちょっとした衣類だけで、貴重品は入っていない)。

 ガイドのソフィアさんから、「よくありましたね。ちょっとでも目を離すと、もう絶対に戻らないから、気を付けてください。この丘もスリがいます」と言われた。(もしかしたら、スリも、中身を素早くのぞき、置いていったのかもしれない)。

 ソフィアさんは、さらに、自分のスマホを開いて、20歳ぐらいの2人組の女子の写真を示し、「ガイド仲間で情報を交換し合っています。この2人はスリのチームです。午後からアテネの街を歩かれるときも、十分に注意してください」と言われた。

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 < 6人の乙女像が人気のエレクティオン >

 アクロポリスの丘の遺跡の中で、パルテノン神殿に次いで観光客に人気があるのはエレクティオンである。

 パルテノン神殿と同様、ペルシャ戦争のあと、BC408年に再建された。

 エレクティオンという名の由来については、アテナイの伝説上の王・エリクトニオス王に捧げられた神殿だからではないかという。

  観光客の撮影ポイントは、建物の南側に張り出した柱廊の柱である。柱が6人の乙女像によってできている。(ただし、ここにあるのはレプリカ。本物はアクロポリス美術館にある)。

 このセンスは、確かに素晴らしい。

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 アテナイの町は、アクロポリスの丘を中心にして発展した。

 丘の上からは、眼下に、いくつもの遺跡を見下ろすことができる。先に挙げたイロド・アティコス音楽堂やアレオパゴスの丘もその例である。

 <古代アゴラ >

 その中でも、丘の北東に位置する古代アグラは、アテナイ市民にとって、特別に大切な場所であった。

 80年ほど前には、ここに300軒あまりの民家があったそうだ。それを全部、移転させた。その跡地の、今は林になった中に、古代アゴラの礎石や石柱が遺っていて、発掘調査が今も続いている。

 アクロポリスの丘がアテナイ市民の精神的、宗教的、そして防衛上の心の拠り所だとすれば、アテナイ市民の政治的・経済的・文化的諸活動の中心が「アゴラ」だった。

 紀元前5世紀ごろ、この広場では、アテナイの評議会が開かれた。120mの柱廊があり、毎日、そこで市が立った。神殿も音楽堂もあった。別の柱廊の下では、ソフィストたちが盛んに議論を交わしていた。

 アテナイ市民が集う街の中心がアゴラであった。

 林の中に、1つだけかなり原型をとどめた神殿が見える。パルテノン神殿とほぼ同時期のBC450~440年ごろに建てられ、ヘファイストスに捧げられた神殿とされる。

 ヘファイストスはオリンポス12神の一人で、火と鍛冶の神。背が低く、醜男で、足も悪いが、愛と美の女神アフロディテ(古代ローマではビーナス)を妻とした。創意工夫に富み、武具も装飾品も宮殿もつくった。勤勉でまじめな性格だったそうだ。

 愛と美とエロスの女神アフロディテが結婚した相手として、意外の感はあるが、なかなか堅実な選択でもある。

 このヘファイストス神殿のすぐ北隣(写真では上)にも柱廊があった。そこはソクラテスが友人たちと集い、哲学論議をした場所だそうだ。

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リカヴィトスの丘 >

 アクロポリスの丘から北西の方向にリカヴィトスの丘がある。アクロポリスの丘の上は平らだが、この丘は、おそろしく尖がっている。海抜273m。アクロポリスの丘の2倍近い高さだ。麓からケーブルカーも出ている。

 頂上には高級レストランがあって、アクロポリスの丘やアテネの夜景を見ながら食事ができるそうだ。しかし、私のヨーロッパの旅には、食文化の探究はない。  

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アドリアノス門とゼウス神殿 >

 アクロポリスの丘をはさんで、古代アゴラの反対側(東南側)に、アドリアノス門、そして、ゼウス神殿の柱が見える。

  アドリアノス門は、写真の左下に小さく見えるが、高さは18m。AD131年に完成した。当時、旧市街と新市街を分ける門だった。

 ゼウス神殿は、オリンポス12神の最高神ゼウス(古代ローマではジュピター)に捧げられた神殿で、128年に完成した。

 104本の柱が並ぶ堂々たる神殿だったが、今は15本しか残っていない。それでも、そばで見ると、その威容に圧倒されると書いてあった。ローマ帝国内で最大級の神殿だったそうだ。

 いずれも、ローマ帝国の5賢帝の一人であるハドリアヌス帝が、アテネを訪れたときに建てさせたものである。近くにアドリアノス図書館も遺っている。彼は、ローマのリーダー層には珍しく、ギリシャ文化のファンだった。

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 ディオニソス劇場 >

 アクロポリスの丘の上をほぼ一巡すると、最初に眼下に見たイロド・アティコス音楽堂のすぐ東側に、ディオニソス劇場があった。

 ディオニソスはオリンポス12神の一人で、古代ローマではバッカス。葡萄酒と演劇の神である。

 この劇場はローマ時代に大改修されたそうだが、古代ギリシャ最古の劇場とされる。最前列は貴賓席で、15000人の観客を収容できたそうだ。         

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 ざっとだが、アクロポリスの丘を見て回ることができた。

 もと来た道を引き返し、プロビュライアの門、ブーレの門をくぐって、天上の世界から下界に降りた。

 来たときと比べて、観光客が増え、まだぞくぞくと上がってきており、チケット売り場は長蛇の列ができていた。

 現在のパルテノン神殿について私の感想を言えば、そばで見るより、遠くから、丘の上の雄姿を眺めていた方が美しい。その方が、品格があるように思えた。

 しかし、プロビュライアの門やエレクティオンの6人の乙女を間近に見、また、アクロポリスの丘を囲むアテナイの数々の建造物の姿を眺めることができたのはとても良かった。

 続けて、新アクロポリス博物館へ行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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