ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

第2波に備えて必要なことは、非難ではなく、謙虚さと助け合い

2020年06月28日 | エッセイ

  (パンデミック下の松尾寺)

 「ロマンチック街道と南ドイツの旅」を中断して、新型コロナウイルスについて書くのは3回目だ。少々、気が引ける。

 しかし、私が生まれる1か月前に真珠湾攻撃があり、太平洋戦争が始まった。物心ついたときには、空爆による焼け跡の残る街を、占領軍の兵士がわがもの顔に歩いていた。

 そして、人生の終盤にパンデミックが起きた。世界の感染者数は900万人、死者は47万人。まだまだ増えている。経済の落ち込みも大恐慌以来という。

 こういう歴史的な出来事に遭遇したのだから、一市井の名もなき人間も、多少、思うところを書いていいだろう …… と思うことにした。

 「2度あることは3度ある」とか「3度目の正直」とか言う。もうこれでおしまいにしたい。

   ★   ★   ★ 

< 第1波が通り過ぎて>

 第1波が過ぎて、日本中がとりあえずほっとしている。第2波への警戒心をもちながらも、経済活動に戻り始めている。なりわい = 生業。感染症も怖いが、なりわいがなければ人は生きていけない。

 日本の場合、経済的衝撃の大きさはともかく、パンデミックの第1波は小さかったと言っていい。毎年、インフルエンザで亡くなる人は約3千人と言われる (アメリカでは1万人)。それを思えば、津波が来るぞと警戒警報が出て緊張が走ったが、高さ1~2mほどの津波でおさまったという感じだ。

 この間、テレビの映像をとおして、最初は武漢、続いて欧米諸国の痛ましい光景を目にしてきた。

 例えば、ロックダウンされたイタリアのフィレンツェでは、毎日、男性のオペラ歌手が、定時になると、自宅の窓から外へ向かって朗々とオペラの一節を歌い上げ、町の人々を励ました。家々の窓という窓が開けられ、連帯の拍手が起こった。

 しかし、事態は深刻を極め、医療崩壊した町の中に軍隊のトラックがやって来て、亡くなった人々の遺体を運ぶようになった。肉親も埋葬に立ち会えず、どこへ埋葬されるのかさえわからない。こういう悲惨を目にするようになって、オペラ歌手はもう歌うことができなくなった …… 。

 集中治療室もエクモも日本の2倍の準備があると言われたドイツでさえ、ロックダウンしたにもかかわらず、死者は既に9千人に迫ろうとしている。

 こういう事実を知るにつけ、日本は本当に幸いだったといってよいと思う。

 それでも、集中治療室で死を覚悟しながら奇跡的に生還することができたという方の手記を読み、ただ粛然となり、言葉を失った。今も体は元に戻らず、夜は眠れず、朝、目覚めて、「自分はまだ生きているんだ」と感じる日々だという。「病院の名誉にかけて、あなたを死なせないから」と励ましてくれた医師や看護をしてくれた看護師さんたちのことも書いておられる。

       ★

<未知のウイルスに対して、非難ではなく助け合いを>

 この間、新型コロナウイルスを巡ってさまざまな報道番組があった。しかし、それはしばしば、出演者が不信と不安を煽るだけの内容だった。

 そういう番組が多い中、NHKの報道番組はおおむねきちんとした内容のものが多く、中でもノーベル賞の山中伸弥先生のBS1スペシャル「ビッグデータで闘う」、それに続くNHKスペシャル「山中伸弥が聞く…3人の科学者+1人の医師」は、今年のテレビ大賞を差し上げても良いと思う優れた番組だった。

 この2つの番組を見て、素人である私が得心できたことは次の点である。

 この新型コロナウイルスに関して、世界の専門家・臨床医が発表した論文は既に5万本以上になる。専門家と言えども、これほどの数の論文を読んで活用することは不可能である。

 山中先生はチームを作り、AIを駆使して、このビッグデータを解析した。

 その結果、こういうことがわかった。

 この新しいウイルスについて、3月頃、世界の学者・専門医は、(山中先生も)、人の肺を壊す病気だと認識していた。

 だが、ビッグテータの解析を通じてわかったことは、このウイルスは血管を壊し、その結果、肺だけでなく、体内のいろんな個所や臓器を破壊していく病気だったということだ。

 先生は言う。3月の知見はもう古い。私たちは間違っていたと認めることにやぶさかであってはいけない。私たちは未知のウイルスを相手にしているのだ。知ったかぶり、分かったつもり、偉そうな言い方はやめよう。未知に対して対処するには、「まず謙虚でなければならない」と。

 「まだまだ分からないことが多い。しかも第2波がくる可能性もある。大切なことは、批判や非難ではなく、助け合うことだ」。

      ★

<「怒りと恐怖のウイルス」も感染拡大していく>

 第1波が通りすぎて、頭を一度クールダウンして思うことは、わが国がこの未知のコロナウイルスに対して、相当にうまく対処したということだ。

 もちろん、政府・厚生省、その他の省庁も、地方自治体も、医療機関も、保健所も、あれやこれやと不十分さや失敗があり、かなりよれよれになっていたことは間違いない。しかし、それでも、この未知の相手に対して、よく凌いだと評価すべきであると私は思う。

 客観的事実から出発しよう。このコロナウイルスによる各国の死者数である。

 [ 新型コロナウイルスによる各国の死者数 ] (讀賣6/16の数字)

    ※ (    )は10万人あたりの死者数

 日本 933人(0.74人) / ダイヤモンドプリンセス 13人

 米国 11万5732人(35.4人) / 英国 4万1783人(62.9人)

   イタリア 3万4345人(56.7人)  /フランス 2万9407人(43.9人)

    ドイツ 8804人(10.6人) /スウェーデン 4874人(47.7人)

 ブラジル 4万3332人

 南アフリカ 1480人 / エジプト 1575人

   イラン 8837人 / インド 9520人

   韓国 277人(0.53人) / 台湾 7人(0.30人)

   ベトナム  0人

 第1波に関して、この数字から言えることは明快である。

 ベトナム、台湾、韓国、日本が、新型コロナウイルスの押さえ込みに成功したということである。

 日本が押さえ込みに成功したと言われると腹が立つ人は、一度、議論の外に出てクールダウンすべきである。山中先生の言う「謙虚さ」を失っているからである。

 ビッグデータを使った山中先生の研究チームの1人は脳学者の方で(お名前は忘れた)、その研究成果も紹介されていた。それは、いま、SNSなどで発信されている無数の投稿が、どういう「感情」から発信されているかを分類したものだ。

 その結果、最も多かった感情は、「怒り」の感情であった。

 脳学者の方の解説は次のようなものであった。

 「怒り」の感情は、脳の中の扁桃体という最も原始的な箇所が刺激されて起きる感情で、「怒り」の裏側にある感情は「恐怖」。付属して、「急いで対処せよ!!」というスピード感を求める感情がある。

 だから、山中先生は言う。ウイルスに感染する前に、「怒りと恐怖のウイルス」に感染してはいけない。「怒りと恐怖のウイルス」もまた、どんどん感染拡大していくのだからと。

 政府が緊急事態宣言を発したあと、マスコミの世論調査があった。その問いの中に、「宣言」を出すタイミングが早かったか、遅かったか、ちょうど良かったかを尋ねる問いがあった。

 世論調査の結果は、多数が、「遅い!!」だった。

 「恐怖」と「怒り」の感情はスピードを求める。謙虚さを失い、自分が絶対正しいと思うようになり、怒りっぽくなり、自分の中の矛盾にも気づきにくい。

 もしこの世論調査で私が答えを求められていたら、「わかりません」に〇をしただろう。私ごとき一市井の人間にわかるはずがない。

 しかし、今の時点で聞かれたら、躊躇なく「グッドタイミングでした!!」と答える。

 他国の「ロックダウン」と比べ、わが国の「宣言」は何の強制力も罰則もないのである。「宣言」を出しても、一定数の国民に鼻であしらわれたら、効果がないどころか、もう何の打つ手もなくなるのだ。

 この「宣言」を効果あらしめるためには、手綱を引きに引いて、国民のほぼ全員が「早く出せ!!」と、そのつもりにならなければ意味がないのだ。

 しかし、それは他方で、オーバーシュートの危険性も伴う。タイミングを失すると、悲惨な結果を招く。

   だから、結果的には、これ以上ないという絶妙のタイミングだった。

 人と人との接触を80%減少させるという目標もすごかった。

 首相も最初は躊躇って「70%以上に」と言ったし、自民党の幹事長は「できるわけがない」とつぶやいた。マスコミも本音はそうだったろう。

 だが、80%に近い数値を達成して、短期に収束まで持って行ったのだから、良くやったと褒めてあげるしかないだろう。 

      ★

<韓国や台湾の成功と欧米先進諸国の失敗>

 だが、新型コロナウイルスに対して、政府(厚生省)に準備できていなかったことは明らかである。この間、PCR検査能力はずっと不十分だったし、マスクも消毒液も不足した。医療従事者の防護服も医療用マスクも不足した。

 病院はクラスターの発生場所となり、保健所は手いっぱいで、かなり危機的な状況になっていた。

 それに対して、韓国や台湾はうまく押さえ込んだ。

 ただ、…… WHOで活躍されている進藤奈邦子さんは、こう言っている。

 「中国武漢で新しい感染症が発生したというニュースが流れたとき、サーズやマーズを経験した韓国や台湾では、政府というよりも、国民の反応が素早かった」。

 ということは、サーズやマーズの恐怖にさらされた経験のある国々と比べたら、わが国の政府・厚生省だけでなく、それを批判する国民自身も、…… いや、日本だけではない。欧米諸国も、皆、同様に危機感が薄かったのだ。

 初め、首相も、厚生大臣も、役所の次官ぐらいも、「まあ、関係の部局に任せておけばよい」と考えていたのだろう。実際、サーズやマーズは、日本に上陸しないうちに鎮火してしまったのだから。

 それは他の先進国も同様で、フランスの大統領も夫人と観劇に出かけ、「外出を控える必要はない」「マスクに感染予防の効果はない」「学校は閉鎖しない」と言っていたと、エマニュエル・トッド氏は書いている (讀賣5/31)。 

 だが、上の死者数の数値を見れば、欧米先進諸国は、ブラジルを除くどの発展途上国よりも悲惨な状況になった。まるでアフリカのように。

 最も憂慮されたアフリカは、今のところだが、欧米よりはかなり感染を押さえられている。

 理由はある。第一に、感染症に慣れていること。第二に、日本人医師を含め、感染症対策に慣れた外国人医師団が活躍していること。しかし、一旦、広がれば、医療体制は脆弱である。

 アメリカは早々に中国をシャットアウトし、鮮やかな水際作戦に見えた。日本の有識者たちも、米国の戦略的な危機対応に学ぶべきだと声を高くして言った。一方、日本政府のやり方は兵力の逐次投入の小出し戦法。話にならないと。

 しかし、その米国も、ヨーロッパ経由のウイルスの水際作戦に失敗し、あたかも不意打ちを食らったように対応が泥縄になっていった。今回わかったことは、米国の医療体制が極めて脆弱なことだ。

 いずれにしろ、全世界を危機に陥れた今回の問題の「根底」にあるのは、突貫工事で超大国化を目指して突き進む中国社会のひずみ・矛盾である。ひずみ・矛盾を覆い隠し超大国化に向けて突き進む理由は、中国共産党独裁体制が崩壊し、人民によって自分たちが処断される日がくるのを恐れるからである。民主主義を否定する国の権力者の永遠の恐怖である。

 今回の問題の「背景」には、欧米先進諸国が進めてきた急速なグローバル化がある。しかも、中国が推し進める一帯一路政策の終着駅は西洋だ。武漢ウイルスはヨーロッパを直撃した。

 人の移動が自由で激しくなれば、感染症のウイルスもたちまち移動する。このようなウイルスをとりあえず封じ込めるには、人の移動を止めるしかない。それで、町から出るな、家も出るなと言わざるを得なくなり、EUの基本精神に反して、国境もロックダウンした。

 だが、その時点ではもう手遅れだったのだ。このウイルスの特徴は、極めて見えにくいことである。気づいたときには、もう遅い。

            ★

<「検査!! 検査!! 検査!! 」が良かったのか??>

 ヨーロッパで最初の感染者が発見されたのは、イタリアのローマだった。春節で観光に来ていた無数の中国人観光客の中に体調を悪くした夫婦がいて、調べたら新型コロナウイルスに感染していた。

 中国人観光客の感染者は他にも見つかったが、彼らが本国の命令で引き揚げた後、イタリアは一瞬、静けさに包まれた。

 ところが、突然、イタリア北部の人口1万6千人の町コドーニョに感染者が出た。それから、北部の各地に、とびとびに、次々と、感染者が出た。イタリアの北部はイタリア経済の先進地で、最もグローバル化が進んでいる地域である。

 イタリア政府は非常事態宣言を発し、感染者が出た町や地域を次々とロックダウンした。PCR検査も虱潰しに行っている。対応は早く、徹底しているようにみえた。

 ただ、PCR検査で陰性の結果が出た陽気なイタリア人は、安心して行動した。経済を止めてはならないし、人生を楽しむことも大切だ。

 その一方で、PCR検査の膨大な実施のため、医療従事者は疲弊していった。

 3月頃のイタリアの状況について、ニューズウィークは「検査のし過ぎと、楽天的な国民性と、緊縮政策の結果だ」と報じている。

 メルケルによって押し付けられた「緊縮財政」のため、脆弱な医療体制はすぐに崩壊し始めた。

 感染は抑えられず、北部の中心都市ミラノと北イタリア全部のロックダウンが決まった。

 その朝、多くの人々が一斉にイタリアの中・南部へ向けて移動した。政府はすぐに気づき、各地の飛行場や列車の駅に網をかけたが、遅かった。イタリア全土に感染が広がった。

 政府は、全土をロックダウンし、家を出るなと命じ、やっと国民は政府の言うことを聞くようになった。しかし、医療体制が崩壊すると、もう手の施しようもない。燃え広がる炎の自然鎮火を待つだけとなった。ただ、「家から出るな!!」である。

 イタリアの炎上を対岸の火事と思っていたスペインに引火し、続いて炎はヨーロッパ全土に広がった。

 その波は、米国へ、そして日本には武漢に次ぐ第2矢として飛んで来た。

       ★ 

<ゲルマンの森深くに進軍したローマ軍団の悲惨>

 欧米の大統領や首相の多くは、ロックダウンして「家から出るな」と言った。スウェーデンでは集団免疫獲得戦略という大胆不敵なやり方を取った。

 欧米諸国は民主主義の国ではあるが、いざというときには強いリーダーシップが発揮され、リーダーは家父長的になる。国民も、また、それに従う。

 それはいかにも「戦略的」に見えたし、PCR検査も十分に行った。物量作戦だ。だが、欧米先進諸国はどの国も医療崩壊を起こし、多くの人々が自宅や高齢者施設で成すすべもなく亡くなった。

 先進国である欧米の惨状を映像で見ていると、皇帝アウグストゥスの時代、ライン川を越えてエルベ川までを制圧しようと軍事行動を行っていたローマ軍が、ゲルマンの深い森の中に誘い込まれ、待ち伏せに遭って、精鋭3個軍団を含む3万5千の大軍が全滅した事件を連想する。もし、この時、ゲルマンが大攻勢をかけていたら、ローマ軍は残された2個軍団でライン川を死守しなければならなかった。

 この事件を契機に、ローマの防衛線は、かつてユリウス・カエサルが定めたとおりにライン川まで後退し、エルベ川への制圧作戦は放棄された。

 カエサルは、なぜゲルマンの深い森の手前、ライン川を防衛線にしたのか。その理由が『ガリア戦記』に書いてある。

 「ローマ軍伝統の、軍団旗を先頭にしての堂々たる行軍方式をつづけるならば、ゲルマニアの地勢は、彼ら蛮族の味方でありつづけるだろう」。

 「身を守れそうなところならどこにでも、樹々の間に隠れた谷あいでも、昼なお暗い森の奥の空き地でも、追跡もむずかしい沼地でも、どこでもいいのだ。彼らは、そのような場所に入ったとき、はじめて逃げるのをやめる。これらの場所は、土地の人間である彼らしか知らない」。

 「地勢を味方にする彼らは、たとえ小規模の群れであっても、待ち伏せして襲う勇気には欠けていないし、本隊から離れた部隊を見つけるや、包囲して攻め殺すのなど朝飯前なのである」。(以上、塩野七生『ローマ人の物語Ⅵ パクス・ロマーナ』から)。

 深いゲルマンの森の中に潜み、「本隊から離れた部隊を見つけるや、包囲して攻め殺すのなど朝飯前」 ── このウイルスは、暗い谷や深い樹林の木陰に潜み、次々とクラスターを発生させ、じりじりと敵を消耗させ、追い詰めて、ついには3万5千の精鋭を全滅させるのだ。

 このようなウイルスに対して、欧米のやり方は、力任せの単純でマッチョなやり方だった。鮮やかに制圧して見せようと高をくくって進軍し、全滅してしまった、あのアウグストゥス時代のローマ軍のようだった。

 未知の相手への「謙虚さ」が足りなかったのだ。

   ★   ★   ★

<わが国の取り組みは繊細だった> 

 わが国が、韓国や台湾のようには準備ができていなかったにもかかわらず、第1波をかわすことができたのはなぜだろう?? 

 多くの識者は、よくわからないが、「国民性」のせいだと言う。麻生大臣は「民度が高いから」と言って批判されたが、確かに「国民性」は大きい。

 しかし、それだけで自然にこういう結果になったわけではないだろう。「国民性」という説明で納得し、思考停止してしまうと、謙虚さを失った国民になる。

 厚生省も、他の省庁も、地方自治体も、今回の緊急事態に対して高い能力を発揮したとはとても言い難い。

 だが、日本には、幸いにも世界に誇る感染症対策の専門家たちがいた。

 WHOの最前線で指揮を執ってきた経験豊かな人たちである。

 未知のウイルスが発生すれば、治療薬とワクチンができるまで、感染をできるだけ防ぎとめなければならない。実際、サーズのときも、マーズのときも、ワクチンや治療薬ができる前に鎮火させてしまったのだ。

 未知のウイルスに対しては、今までのやり方では対応できない。それは、「未知」だからである。ペストやスペイン風邪について蘊蓄を垂れても、目の前のウイルスには役に立たない。サーズやマーズも、既に「過去のウイルス」なのだ。

 日本の取り組みを振り返ってみると、欧米諸国とは全く対照的だったことがわかる。未知のウイルスに対して、「ゲルマンの森の奥深く」に踏み込んだ賢い指揮官のように、力まかせにならず、注意深く、繊細に対応した。

 人々が待ち伏せに遭う場所を「三密」という言葉で表現した。この言葉は、今や国際語になりつつある。

 ドイツは他のヨーロッパの国と同様に、多くの検査でコロナを封じ込めたとされる韓国のやり方を参考にした。

 だが、日本経済新聞(5/30)によれば、ドイツのウイルス学の第一人者で、ドイツ政府のコロナ対策に大きな影響力をもつクリスティアン・ドロスデン氏は、今後、第2波を封じつつ経済活動を行っていく上で、日本がロックダウンなしに感染を押さえ込んだやり方を「手本にしなければならない」と語っている。

 ドロスデン氏は、スーパースプレッティングと呼ばれる一部の感染者から爆発的に感染が広がる現象を取り上げ、日本のクラスター対策が感染の第2波を防ぐ決め手になるという考えを示したのだ。 

 或いはまた、別のドイツの研究機関の調査では、比較的早くから公共交通機関や商店でのマスク着用を義務付けた都市と、マスク着用義務が遅れた他の多くの都市とを統計的に比較し、マスク着用は新型コロナウイルスの拡大を4割抑制できると発表した。

 一方、わが国では、早くから、NHKが専門家の協力を得て、マスクなしで発声した場合の飛沫の飛び方と、マスクをして発声した場合の飛沫の飛び方を映像として可視化して見せた。国民にとって、テレビの飛沫の映像は、研究機関の調査報告などより遥かに説得力があった。

 また、その飛沫が、ドアのノブや机やパソコンにいかに残存しているかも、映像化して見せた。

 単純にロックダウンして「外に出るな」というマッチョなやり方と比べて、きめ細やかさが全く違うのである。

 ロックダウンしても、食材を買いにスーパーマーケットに行かねばならない。そこではソーシャル・ディスタンスを取る。しかし、私には欧米人が買い物から帰った後、すぐに家で手を洗っているとは思えない。彼らは、日常、シャワーもたまにしかしないし、下着も替えない。

 日本では、石鹸を付けて、指の間から爪先まで、30秒くらいかけて、こんな風に丁寧に洗わなければならないと、テレビが映像として見せてくれる。お陰で私も、この間、外出から帰ると、石鹸を付けて丁寧に指の1本1本まで洗うようになった。

 「お願い」しかできない特別措置法という伝家の宝刀をここしかないというタイミングで出したのも、実に繊細なタイミングであった。「戦略的」な識者は「遅い!!」と叫んだが、士官学校やエコノミストの初級教科書に書いてある戦法は「過去の戦法」に過ぎない。そのとおりにやっていたら、「全滅する」可能性もあった。

        ★

<韓国とイタリアの違いは何か??>

 韓国の成功が多くのPCR検査によるものだという認識を、私は間違っているのではないかと思い始めている。

 もう一度、WHOの進藤奈邦子さんの言葉を思い出してみよう。こうであった。

 「中国武漢で新しい感染症が発生したというニュースが流れたとき、サーズやマーズを経験した韓国や台湾では、政府というよりも、国民の反応が素早かった」。

 ベトナムや台湾や韓国において、サーズやマーズはそれほど遠い過去のことではない。その恐怖は人々の記憶の中に刻み込まれている。

 ニュースを聞いて、これらの国の人々の中に恐怖が走った。誰に言われるまでもなく、人々はあの当時の行動様式にすばやく戻っていったのだ。

 詳しいことは知らないが、多分、人々は人ごみを避け、人との接触を少なくしようとした。可能な範囲で「自粛」生活に入っていったのだ。人と会っても握手やハグはしない。外出するときはマスクを付け、手洗いもする。大勢の人が触れる物にはうかつに触らない。

 実は、そういうことが決定的に大切だったのではないかと、私は考える。

 検査、検査というが、PCR検査は、ワクチンではないのだ。

 コロナウイルスに対して日本同様に未経験だった欧米では、大量の検査がかえって人々を安心させ、行動抑制とは逆の方向へ向かわせた。

 イタリアをはじめいわゆるラテン系の社会には、おしゃべりが大好きな人が多い。或いは、ハグをし、キスをする。よくホームパーティを開く。カフェなどのテーブルとテーブルの間隔も狭い。それに、ふだんから、冬でも半袖の若者をよく見かける。つまり、「強さ」へのあこがれが強い。アメリカの強いリーダーを意識するペンス副大統領は、人前に出るときマスクをしなかった。ウイルスごときに負けることはないという気概が強すぎるのだ。しばしば手洗いする人は、欧米では神経質な弱虫と思われるだろう。

 もちろん、「人はそれぞれ」を尊重するのが欧米人だ。それでも、そういう傾向があることは確かだ。

 そういう傾向をもつ人々に対しては、きめ細かで具体的な啓発活動が必要だ。だが、欧米の政府や各機関は、このウイルスに対処する行動様式の変容を促す啓発活動をしてこなかった。だから、ウイルスは、人々の中に易々と侵入し、あちこちでオーバーシュートを起こした。事態が深刻化してから、政府や自治体はマスクの着用を義務付けたりした。もっと大切なのは手洗いだ。 

       ★

<第2波に備えて>

   第2波は来るだろう。

 なぜなら、欧米諸国は、明らかに収束を図れないまま経済活動の再開に踏み切った。これ以上、経済がもたないという気持ちはわかる。しかし、これで第2波が来なかったら、よほど幸運に恵まれたと言っていい。

 ただ、幸いにも、経済活動を再開したヨーロッパで、感染者数の増加が抑えられてきている。その要因は、マスクをはじめ、人々の生活様式が変わってきたからではないかと言われている。

 米国の大統領は、相変わらずマッチョだ。

 最初から火事を消そうとさえしないブラジルのような国や、インドのような文化の国もある。

 世界全体から見れば、ウイルスは衰えを見せていない。再度、日本に上陸する可能性は十分にある。

 その時に備えて、研究者の研究も進められているようだ。 

 橋下徹氏や吉村大阪府知事が、最近、阪大の先生が提唱した「K値」を取り上げている。

 K値とは、「最近1週間の感染者数」を「累積の感染者数」で割るというだけの極めて簡単な数式で、計算は小学生でもできる。

 最初の週に5人の感染者が出たとすれば、累計も5人だから、K値は1.0。次の週も5人だったとしたら、分母は10人だから、0.5となる。

 分母はどんどん大きくなるから、K値はどんどん小さくなっていく。グラフは右肩下がりにゼロへと近づいていく。

 そのグラフの傾き具合(下がり具合)で赤信号の判定ができるというのだが、いろいろ試算してみても、得心できなかった。

 極論すれば、1週間に1万人の感染者が出ても、累計がブラジル並みに100万人になっていれば、K値は0.01。即ち1%。グラフはほとんどゼロに近づいている。

 「1万人も感染者は出ていますが、グラフはどんどん下がり、ほぼゼロですから、もう収束しますよ」と、知事は府民に説明するのだろうか?? 

 しかし、週に1万人も感染者が出るということは、クラスターが全国のあちこちで発生しているということであり、国内において、いつ、どこで大爆発が起きるかわからないと考えるのが常識というものだ。もちろん、感染者累計100万人ということは、人口1億人の1%だから、スウェーデン流の「抗体の壁」にもほど遠い。

 もし日本が大統領制だったら、次の大統領に当選するかもしれないほど人気絶頂の知事だが、文系の私にはK値の意味は全くわからなかった。 

 しかし、「讀賣」6/27には、こうあった。

 大阪モデルについて、「府幹部の一人は『科学的な根拠はなく、最後は「えいや」で作った』と打ち明けた」。「だから、修正を余儀なくされる」。

 山中伸弥先生「結果を見てから基準を決める。科学でこれをすると、信頼性が揺らぎます」。

 吉村知事「大阪モデルは科学ではなく、政治判断の基準です」。

 なるほど。気負ってますね。

 今、諸外国に台頭してきているポピュリズム(大衆迎合)型の強権政治家にならないように。

 それよりも、東京大学をはじめとする幾つかの大学の先生の協同で、下水のコロナウイルスの検出量の増減から、危険信号(第2波)を予測する研究が進められているという報道もあった。

 この「猶予期間」には、数字のマジックではなく、こういう確かな根拠のある科学的手法で、このウイルスの「未知」を「既知」へと変えていってほしい。

 とにかく、コロナ騒動が遠くへと去っていき、心穏やかに燗酒を楽しみたいですね。

      ★

「読売歌壇・俳壇」から

〇 測量を せずにトンネル 掘り進む ごとし「緊急 事態宣言」   (成田市/原田浩生さん)

   政治家とは、測量をしても、測量をしても、日々、「測量をせずにトンネルを掘り進むような」仕事だと思います。ただ、そういう人材も尽きようとしているのではないかと危惧します。

〇 時は今 止まったように 流れてく 日毎に赤い 隣家のいちご  (和歌山市/尼寺恵子さん)

 春ののどかな日々。時は 止まったように流れていました。

〇 紫陽花の マスク縫ひたり 紫陽花の 咲く頃にまた 授業できるか (さいたま市/佐藤弥生さん)

選者評) 「授業を再開し、生徒たちと会いたい。その思いを胸に、ウイルス感染予防のマスクを縫う」。

 「紫陽花」のリフレインが印象的です。

    

 (梅雨入りする)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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アルペン街道をゆく … ロマンチック街道と南ドイツの旅(10)

2020年06月14日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

 (アルペン街道をゆく … 車窓から)

 ノイシュヴァンシュタイン城から、ルートヴィヒ2世の2番目の城、リンダーホーフ城までは約50キロである。

 バスに乗って新白鳥城から野の方へ下っていくと、城のテラスから見た赤い屋根の小さな教会があった。玉ねぎ型の青いキャップをかぶった白い塔が寄り添っている。

 相当な数の人々が教会の周辺に集まっているが、いったい何事だろう?? そう言えば、今日は日曜日である。

 絵に描いたような牧歌的な光景だった。 

 (日曜日の小さな教会)

 『地球の歩き方』に、読者の投稿としてこの教会が紹介されていた。聖コロマン教会という名らしい。投稿した旅人も、新白鳥城とは一味違う牧歌的な野の教会が印象に残ったのだろう。

   バスはアルペン街道をゆく。

 険しくそそり立つ岩山があり、小さな集落があり、小さな教会がある。

        ★

<リンダ-ホ-フ城と王の孤独>

 リンダーホーフ城は、城というよりも王の別邸という感じだ。「△△城」という名にこだわりがあったのだろうか?? 「城」のもつ戦い、或いは、防御のイメージとは無縁で、こじんまりした優美なたたずまいである。

 ノイシュヴァンシュタイン城に遅れて竣工し、4年後に完成した。ルートヴィヒ2世が生きている間に完成した唯一の城で、実際にしばしば滞在したそうだ。 

 (リンダーホーフ城)

 庭園は、アルプスの山々や森を借景に取り入れつつ、あくまでヨーロッパ的である。

 邸宅の前には32mの高さに水を噴き上げる海神ネプチューンの泉があり、風の向きによって霧状の水が飛んできた。

 前方と後方に展望用の丘が造られ、写真は前の丘のテラスから撮影したもの。邸宅の後ろにも緑の丘があり、鳥籠のような形の緑のテラスが見える。

 敷地内には、「ヴィーナスの洞窟」や「ムーアのキオスク」など、ワーグナーのオペラに登場する伝奇的な施設もあるようだが、ルートヴィヒの奇怪好みにはついて行けないので、ゆっくり庭園を散歩した。しかし、同行の皆さんの半分以上は、何でも見てやろうと見学に行っていたようだ。

   ドイツ語のルートヴィヒは、フランス語ではルイ。

 彼は、ルイ14世を偉大な王として尊敬していた。食事は、深夜に、一人でとることが日常になっていたが、しばしばルイ14世らを食事に招いて、目の前にいるかのように挨拶をし、語りながら食事をしたという。好きな時に招待し、好きな時にお引き取り願えるから、このやり方がいいと言っていたそうだ。

 給仕人は入れない。完全に一人で食事ができるよう、調理室からテーブルをせり上げる装置が造られていた。

 孤独な人である。

      ★

<オーバーアマガウのメルヘンの壁画>

 リンダーホーフ城のあと、またバスに乗り、オーバーアマガウへ向かった。

 オーバーアマガウは人口5千人ほどの小さな町だが、町はずれの民家のメルヘンの壁画が有名なのだ。

 近くの路上にバスを停めて、遠慮がちに短時間、見学した。

 そういえば、このあたりの民家から抗議の声が上がっていると何かで読んだことがある。観光バスで大勢の外国人観光客が民家の周りに押し寄せ困っているというのである。

 この旅の2009年当時、観光バスで押し寄せるのは日本人しかいない。欧米人は基本的に個人旅行だ。中国人が日本やヨーロッパに押し寄せるようになるのは、もう少し後である。

 日本の海外ツアーは、高度経済成長時代の「〇〇会社」や「△△農協」の国内温泉旅行が発展したもので、多分に殿様気分の物見遊山のツアーとしてスタートした。

 わが一行のおばさんたちの中には、庭に入り込んで写真を撮っている人たちもいた。

 日本の週刊誌に一言。個人主義とは、プライベートを尊重し、人の家の中を覗かないということだ。仮に見ても、見ざる、聞かざる、言わざるが人間としての品性というもの。

 

 (赤ずきんちゃんの壁画)

  民家の外壁に描かれた壁画は、南ドイツ、オーストリア、スイス、イタリアの北部などアルプス地方に見られるそうだ。

 紅山雪夫さんの『ドイツものしり紀行』に、ガイドブックなどでこれらの民家の壁画を「フレスコ画」としているが、それはまちがいだとある。「セッコ」という絵画らしい。実際、『地球の歩き方』も、このツアーの「旅のしおり」にもフレスコ画となっていた。

 フレスコ画は漆喰が乾かないうちに一気に仕上げる必要があり、一度描いた箇所は修正がきかない。だから、フレスコ画を描く画家は相当高度な技術の持ち主で、制作に当たっては何度も下絵を描き、事前のトレーニングをして臨む。セッコは、乾いた壁に塗り、上塗りの修正もできるそうだ。

 この町を有名にしているものがもう一つある。以前、テレビで見た。

 10年に1回、町を挙げて、キリスト受難劇を行うのだ。最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、エルサレム入城、十字架刑上の死、そして復活。

 1632年のペストの大流行のとき、この村は奇跡的に被害を免れた。それ以来、10年ごとに、30年戦争の最中にも絶えることなく続けられてきたという。

 出演者は町の全員。開催の年は年間102回の公演がある。1回の公演は5時間半。仕事を休むことも意に介さない。

 観客は、全世界からやって来る。

 主役のイエスの役に選ばれたいと思った若者は、10年後を目指して、ヒゲを伸ばし、髪も伸ばし、節制して痩せ、相貌がだんだんとイエスに似てくる。もちろん12使徒や母マリアも花形だ。そういう町の様子をとらえたテレビ番組だった。

         ★

 日が少し傾いた午後、バスはミュンヘン郊外のバイエルン王家の夏の離宮を目指して走った。

 

 

 

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ノイシュヴァンシュタイン城とルートヴィヒ2世 … ロマンチック街道と南ドイツの旅(9)

2020年06月10日 | 西欧旅行…南ドイツの旅

  ( この項も、紅山雪夫さんの『ドイツものしり紀行』を大いに参考にさせていただきました。紅山さんの本は、私の知的好奇心にこたえ、とても面白くてよくわかる。ヨーロッパを旅する人にとって、最良の手引書です。感謝!!)。

       ★

<アルペン街道を走る>

 10月11日、フュッセンのホテルを8時に出発。

 今日の一日も、盛り沢山である。

 まず、この旅のハイライトであるノイシュヴァンシュタイン城を見学。

 そのあと、同じルートヴィヒ2世が建てたリンダーホーフ城へ。

 さらに、オーバーアマガウで、民家の壁画を見る。

 そこから州都ミュンヘンの郊外へと北上し、バイエルン王国の夏の離宮を見学する。

 その後、ミュンヘンに入り、旧市街の中心部を歩く。

 以上、5カ所の見学を終えると、さらに夜の8時からホフブロイショーを見ながらの夕食である。

 毎日、何も考えずにバスに乗り、つまみ食いするように次々と見学しながら移動。盛り沢山で何となく満腹感だけは残る。

 そして、最終日には「まだまだ素敵な企画が沢山ありますから、別のツアーにもご参加くださいね、またお目にかかりましょう」と、まあ旅行社の企画ツアーはこんな感じだ。

       ★   

 2日間かけて走ったロマンチック街道は、ヴュルツブルグから南下してバイエルンアルプスの山懐の町フュッセンに到る街道である。アルプスが国境となり、その向こうはオーストリアだ。

 そのロマンチック街道を、レンタカーを借り、おとぎ話のような町を訪ねながらやって来た人も、自転車で走破した若者も、終点のフュッセンまでやって来て、ここで旅は終わりと思う人はいない。

 フュッセンの町からもう少しだけバイエルンアルプスに分け入った山塊に、ひっそりとそびえる白亜の城ノイシュヴァンシュタイン城がある。この美しい城を見たいと思って、人々はロマンチック街道を南下してくる。ロマンチック街道の本当の終点はノイシュヴァンシュタイン城なのだ。

 そして、そこはもう、「ドイツ・アルペン街道」に位置している。

 「アルペン街道」は、ドイツとオーストリアを分ける北東アルプス山脈のドイツ側を、西から東へと、岩塊や、湖や、牧草地や、童話的な小さな町を縫いながら450キロを走る街道で、北から南下してきた「ロマンチック街道」とはフュッセンで交わっている。

 ということで、このツアーの最後の2日間は、「ドイツ・アルペン街道」の旅である。

   ★   ★   ★

<白鳥の騎士とノイシュヴァンシュタイン城>

 フュッセンのホテルを出るとすぐに樹間の上り道となり、バスは少しずつ高度を上げながら、山懐深くへ入っていく。

 すると、牛の群れが草を食む緑の野と、その上に聳える峩々たる岩峰が現れ、その中に白亜の城が見えた。突然で、こういう形でこのお城と出会うとは思わなかった。

  (白亜のノイシュヴァンシュタイン城) 

 城の立地する地は一見緑に覆われた丘に見えるが、ここもまた屹立する岩塊の上である。

 「ノイ」は新しい。「シュヴァーン」は白鳥。「シュタイン」は石(城のこと)。「新白鳥城」である。そう思ってみれば、優雅な白鳥の姿も連想させる城のたたずまいである。

   よく知られるように、新白鳥城はバイエルン王ルートヴィヒ2世が19世紀に建てた城である。

 もちろん彼は、歴史学に興味があって、中世の城をリアルに再現しようとしたわけではない。また、ただ白鳥のように美しい城をつくりたいと思ったのでもないようだ。

 この城は中世の伝説上の英雄・白鳥の騎士ローエングリンの話をイメージして、長い歳月をかけて建設された。王がここに実現したのは中世の「伝説の世界」であり、王自身の「夢の世界」の現実化であった。

 騎士ローエングリンの父は、アーサー王の円卓の騎士の一人である。アーサー王も、円卓の騎士も、中世というより、さらに茫々とした歴史の彼方のケルト神話に登場する伝説上の英雄たちである。

 ローエングリン伝説には沢山のパターンがあるようだが、例えば、白鳥に引かせた小舟に乗って騎士ローエングリンがやって来る。そして、苦境にある姫を助け、悪人を倒して姫と結婚する。ただ、結婚に際して、自分がどこの何者であるかを尋ねないという約束があった。二人の幸福な時間は過ぎ、やがて姫はその約束を破って尋ねる。ローエングリンは自分の素性を明かして、姫の許を去っていく、という話が一般的である。

 日本の民話「夕鶴」(鶴の恩返し)に少し似ている。鶴と白鳥。約束とその破棄と、その結果としての別れ。

 また、フランスの文学者は、日本神話の英雄ヤマトタケルが伊吹山で死んだ後、白鳥となって故郷の大和へ向けて飛び去った話を提示しつつ、遠い昔のユーラシア大陸に共通する「白鳥伝説」の存在を想定した。

 19世紀、ドイツの音楽家ワーグナーは、この伝説を素材としてオペラ『ローエングリン』を作った。(ちなみに、かつて結婚式などでよく演奏された「結婚行進曲」は、ローエングリンと姫との結婚式の時の曲である)。

 青年ルートヴィヒ2世は、ワーグナーを生涯、敬愛した。

       ★  

<ロマン主義思潮の高揚と中世へのあこがれ>

 観光バスを降りて、乗り合いの小型バスに乗り換える。

 小型バスは欧米系の観光客らとともに、樹林の急峻な山道を上って行った。

 もうこれ以上、車では行けないという終点で降り、そこからさらに徒歩で山道を分け入る。

 その先に、深い峡谷に架けられた橋があった。マリエン橋である。

 橋はノイシュバンシュタイン城をドローンで眺望するような位置に架けられていた。

 これぞ、ノイシュヴァンシュタイン城!

 カレンダーやガイドブックの写真でお馴染みの新白鳥城の絶景ポイントだ。

 しばらくこの美しい景色に見とれ、写真を撮った。

 城のこちら側は残念ながら修理中のようだ。それでも、黄葉のまじる緑の中に聳える新白鳥城は、まさに一幅の絵である。こうして見ると、この城が岩山の頂に建てられた城であることがよくわかる。ディズニーの映画『シンデレラ姫』のモデルになったと言われる。ディズニーはドイツ系アメリカ人である。

 新白鳥城の向こう、バイエルンアルプス地方の緑の野や湖も素晴らしい。この背景があってこその新白鳥城である。

 雪の日の写真を見たことがある。四季を通じて、美しい。

 復路は、小型バスに乗らず、三々五々、欧米系の観光客らと相前後しながら、樹林の中を歩いて下った。20分も歩くと、自ずから城の入口にたどり着いた。

       ★

 ノイシュバンシュタイン城の入場は、時間を決めた予約制だ。夏の観光シーズンは終わり、すでに秋も深まっているが、この名城を訪れる観光客は絶えることがない。夏には長蛇の列になるという。予約時間になるまで、城の入口のテラスで待った。

 テラスからの眺望も素晴らしく、飽きることがなかった。城内の見学はいいから、ずっとここにいたいと思った。

 先ほど、この城の全景を俯瞰した峡谷に架かるマリエン橋も遠望できた。あのような危うい所に立って、夢中になって写真を撮っていたのだ。

( 城のテラスから望むマリエン橋)

 テラスを移動して、別の方角を眺めると、峰々の間から立ち上る霧が晴れて、遥か下方にホーエンシュヴァーンガウ城が見えた。

 あの城の下あたりから、小型バスに乗り換えて、樹間の山道を上ってきた。

 (ホーエンシュヴァーンガウ城)

 ルートヴィヒ2世の父マクシミリアン2世によって再建された古城だ。

 城内の壁にはローエングリンをはじめとする中世の伝説を題材にした壁画が描かれていて、ルートヴィヒ2世は幼少の頃からそういう絵画を見て、想像の世界の中で育ったらしい。

 紅山雪夫さんの『ドイツものしり紀行』によると、こうした中世の城の再建は、18世紀の後半に始まったロマン主義思潮が背景にあるという。

 ロマン主義については、遠い昔、学生の頃に勉強した。この新しい文芸思潮を明治の日本に紹介したのは北村透谷。ロマン主義を実際の作品として結実させたのは、島崎藤村の詩集「若菜集」、与謝野晶子の歌集「みだれ髪」。

 「浪漫的」とは、現実でないものにあこがれる心情。

 実利的な現実世界よりも、凛々しい騎士が美しい姫を助ける騎士道物語にあこがれる心情。煩わしいこの地よりも、「山のあなたの空遠く」にあこがれる心情。孤独な放浪の旅にあっては、「兎追ひしあの山、小鮒釣りしかの川」を恋しく思う心情。そういう心情は、忘れられようとする民話や伝説、民俗的な音楽や舞踊、野の花のような工芸品などを発掘し、他民族に支配された地域では滅びかけているわが民族の言語を発掘しようとする取り組みにもなっていった。

 紅山氏は、19世紀になって、ドイツの各地で中世の城を修復したり、歴史的な城の址に新しく中世的な城を造ったりするようになったのは、こういうロマン主義の思潮が背景にあったというのである。

 そういう心情は、ドイツやチェコやハンガリーでは、ドイツ民族、チェコ民族、ハンガリー民族としての民族意識の高揚となり、ドイツでは祖国の統一、チェコやハンガリーでは民族の独立を願う思想へと発展していく。

 ドイツの場合、皇帝といっても今は名ばかりで、中世的な領国支配と都市国家が割拠していたため、近代的な国民国家となったフランスのナポレオンが率いる大軍に攻め入られたとき、ひとたまりもなく制圧されてしまった。

 こうして、ドイツの再統一を求める歴史的なうねりが起きている中、父の死によってわずか18歳のルートヴィヒ2世は王位に就いたのである(在位1864~86)。

 王位に就いても、ルートヴィヒ2世は中世的な空想の世界を夢に見ている若者であった。敬愛するワグナーを招き、惜しげもなく財政的援助を与え続けた。

 そして、人里離れた岩山の上に自分のためだけの城 ── この世のものならぬ中世的な夢の城 ── を造り始めたのである。

 ノイシュバンシュタイン城は着工から8分どおりの完成までに、実に17年間を要した。切り立った断崖の上に城を築くのは大変な難工事で、莫大な工費がかかった。

 にもかかわらず、彼は、王室財政を破綻の淵に追い込むほどの財力を傾けて、その生涯で、新白鳥城を含む3つの城を相次いで建造しようとした。

       ★

<ドイツ統一とルートヴィヒ2世の死>

 入場を待つ間、城の高いテラスから見た牧歌的な景色は素晴らしかった。

 緑の野が広がり、その中を径が行き交い、集落があって、その先に湖と山並みがひらけていた。

 赤い屋根に白壁の小さな教会も見えた。ささやかな塔があって、教会であることがわかる。

 教会の周りに大勢の人々が集まっているのが、芥子粒のように見えた。

 程なく順番が来て、城の中に入り、ガイドの説明を聞きながら、見学した。

 「玉座の大広間」をはじめ、王の日常生活のためのいくつかの部屋。そういう部屋には中世の伝説を題材にした壁画が描かれている。伝説の中に登場するという人工の鍾乳洞の部屋などもあった。

 それだけのものであった。

 外観の美しさに比して、内側の世界は、少々異常で奇妙な世界であった。

 それだけに、テラスから眺めたアルプス山麓の美しい景観が心に残った。

       ★

 若い日のルートヴィヒ2世は、身長が192cmもあり、颯爽とした姿だったという。

 だが、21歳の時に、婚約していた美しい姫との結婚式を直前にして、突如、婚約を破棄してしまった。お似合いだっただけに、臣下たちも民衆も驚いたが、「そんなに急いで結婚しなくても、あんなにカッコいい王様だから、これからいくらでも良縁があるよ」と、みんな鷹揚に受け止め、意に介さなかったらしい。

 しかし、その頃、すでに彼の行動は異常になっていたようだ。

 紅山雪夫氏の『ドイツものしり紀行』によると、死後に遺されていた王の日記から、彼が同性愛者であり、そのことに対する罪の意識と王にあるまじきという自己嫌悪感に苦しんでいたことがわかるという。

 そういうことがあるとすれば、その後の彼の人格の崩壊も納得できるように思う。単に、狂気の王、では痛ましい。

 王は次第にミュンヘンの王宮にも寄り付かなくなり、大事なセレモニーもすっぽかし、アルプス山麓地方に引きこもるようになっていった。

 1866年、ルートヴィヒ2世が20歳の時には、ドイツ統一の主導権をめぐって、プロイセンとオーストリア(ハプスブルグ家)が戦争した(普墺戦争)。バイエルン王国は縁の深かったオーストリアの側に立ったが、プロイセンが完勝した。

 ちなみにオーストリア王妃のエリーザベトはバイエルン王家の出身で、ルートヴィヒより7歳年上。2人は幼馴染で、ルートヴィヒが、生涯を通じてただ一人心を許して話せる人だったという。

 2人ともそれぞれの王家の中で不幸な生涯を送り、不幸な死に方をした。

 1870年、ルートヴィヒ2世が24歳の時、プロイセンと、ドイツの統一を阻止しようとするフランスとの間に普仏戦争が起きた。このときバイエルンは、大軍を送ってプロイセン軍を助けた。

 1871年、この戦争に勝利したプロイセンのヴィルヘルム1世が、ドイツの23の君主国、3つの自由都市を連邦とするドイツ帝国の皇帝となった。日本の明治維新の3年後である。普仏戦争に大軍を送ったバイエルンは皇帝位を交代制にしようと持ち掛けたが、鉄血宰相ビスマルクに一蹴された。プロイセンは鉄と血のリアリズムによってドイツの統一を成し遂げたのだ。

 ルートヴィヒはノイシュバンシュタイン城の建設にかかってから5年目に、並行して、第2の城、リンダーホーフ城の建設を始めた。

 さらにその4年後には、第3の城、ヘレンキームゼー城の建設を始める。ヘレンキームゼー城は、ルイ14世のヴェルサイユ宮殿と庭園を真似しようとしたもので、その工費はノイシュバンシュタイン城の3倍以上が見込まれた。

 ルートヴィヒは昼夜が逆転し、日没後に起きて真夜中に昼食を取るようになっていた。食事の後は、夏は金ぴかの馬車、冬は金ぴかの橇に乗り、夜の田舎道を疾駆したらしい。

 ただ、農民たちとは気さくに話をする良き王であったという。

 40歳になったころの王は、もはや若い頃の姿はなく、太って、歯も抜け、言語不明瞭で、なおも城の建設に国家財政を傾けていた。

 首相以下は決断し、王を拘束し、シュタルンベルク湖のそばのベルク城に連行した。

 王は朝、散歩に出たいと言った。お付きの医師の他に、見え隠れに警備兵が付いた。夕食前にまた散歩を希望し、今回は周囲は安心して医師一人だけが付いて出た。雨が降っていた。夜8時半になっても王は帰らず、大騒ぎとなり、捜索が始まった。午後10時過ぎ、医師が湖畔に倒れた状態で発見された。引っかき傷やあざができ、首を絞められて死んでいた。さらに捜索して王は湖上に遺体となって発見された。解剖の結果、溺死ではなく、急病死と発表された。

 事故死説、自殺説、他殺説がある。

 私は首相以下の謀殺ではないかと直感的に考えたが、紅山雪夫氏は他殺説は根拠に乏しいとする。実際、次の王の予定者は王家の中から既に準備されており、引退、必要なら幽閉すればよく、殺害する必要はない。

 王が自殺を考えた形跡はあるが、彼は泳げるから、入水自殺を企図したとは考えにくいと言う。

 事故死説では、王は逃走しようとしたのかもしれないと、氏は言う。長年の不摂生で不健康な体であり、偶発的とはいえ医師と争って死なせてしまったショック。冷たい雨と湖水。

 この夜、ルートヴィヒがただ一人信頼する幼馴染の王妃エリザベートが、湖畔のホテルに滞在していたのは確かだそうだ。オーストリア、或いはハンガリー、またはスイスへ、亡命させたかったのかもしれない。

 とにかく、ルートヴィヒ2世は、国家財政を傾けるほどの散財をした。その結果、ディズニーの『シンデレラ姫』のモデルとなる美しい城を遺した。

 この白鳥城を見るために、今では世界中から観光客が押し寄せる。普段でも1日に2千人。夏のシーズンには1万人を超えるそうだ。バイエルン地方に落とされるカネはいかほどであろう。

 歴史とは皮肉なものである。一生懸命、民のために善政を施そうとした王が、後世から見て、必ずしも良き王であったとは限らない。ルートヴィヒ2世がバイエルンのために図らずも大きな財産を遺したことは確かである。

 

 

 

 

 

 

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