ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ドナウ川の白い雲 … ドナウ川の旅1

2022年08月27日 | 西欧紀行…ドナウ川の旅

 (ドナウ川の白い雲/パッサウ)

 南ドイツの5月は晴天の日が多く、光があふれて、空気に透明感がある。その分、陰も濃く、自動で写真を撮ろうとするとコントラストが強すぎた。

 ドナウ川の川岸の森の緑が白っぽく見える。樹木に、目立たないが、小さな白い花が咲いて、ウイーンのような都会の街路を歩いていても、風が吹くと白い花びらが舞いながら無数に散り落ちてきた。

 マロニエ?? プラタナス??  ニセアカシア?? 植物のことはよくわからない。 

        ★   ★   ★ 

<読者の皆さまへ ── ドナウ川の白い雲>  

 このブログを書き始めたのは2012年の夏でした。今年で、なんと!! 満10年。我ながらよく続いたものです。これも読者の皆さまのお陰です。どなたが読んで(見て)いらっしゃるのか、私の方からはわかりません。わかるのは、前日の読者の数だけです。その人数も、人気ブログと比べると2桁も3桁も少ないのですが、それでも、PRもしていないのに、この地味なブログを読んで(見て)いただいている方がいらっしゃるということに励まされて、今日まで続けてきました

 このブログを始めた年の前年の2011年5月に、「ドナウ川の旅」に行きました。その旅の感動が残っていて、ブログの名前を「ドナウ川の白い雲」としました。

 ブログがスタートしたのは、「ドナウ川の旅」から1年以上も後でしたから、これまでこのブログに「ドナウ川の白い雲」のことは一度も出てきませんでした。

 その旅から11年もたってしまいましたが、今回、旅の様子と写真を残したいと思います。

   ★   ★   ★

 <ドナウ川の旅の行程 ─ レーゲンスブルグからブダペストまで ─ > 

 「ドナウ川の旅」と言っても、リバークルーズの優雅な旅ではありません。

 西ヨーロッパをリバークルーズで旅行するという企画は、コロナの前、欧米でも日本でもパック旅行として盛んに売り出されるようになっていた。長いものだと、アムステルダムから、ライン川、マイン川、ドナウ川を経て黒海までの3週間の旅とか。

 しかし、海であれ川であれ、クルーズ船の旅は、私にとって贅沢にすぎ、それに、もの足りない。人生1回だけの「リタイア記念旅行」とか「還暦記念旅行」ならそれも良いだろうが、私はもっとヨーロッパのことを知りたい。クルーズ船の旅は、船にいる時間が長すぎる。

 その地を自分の足で歩き、見て、歴史や文化を感じとりたい、そのためには、観光バスから下車し、或いは、船から下船して、ちょこっと見学して、また次の観光地へ向かうという旅ではなく、できたらそこに1、2泊したい。

 ということで、私の旅は列車で移動する。

 出発点はいろいろ考えた。もっと上流のシュヴァルツヴァルト地方の黒い森とか。ドナウ川の最初の1滴はどこなのかも調べた。しかし、結局、ドナウ上流はカットした。探検の旅ではない。

 「ロマンチック街道と南ドイツの旅」の折、ネルトリンゲンからアウグスブルグへ行く途中、観光バスでドナウ川を横切った。一瞬だったが、まだ大河のイメージではなかった。

 滔々と流れるドナウ川のイメージならこのあたりからでよかろうと、ドイツのレーゲンスブルグで最初の2泊をすることにした。

 そこから、ドナウの流れに沿ってローカル列車でパッサウへ。パッサウはドナウ川の川中島の町で、オーストリアとの国境だ。

 オーストリアに入って、ドナウ川の本流からは少し逸れて、2度目のザルツブルグへ行くことにした。

 実は、以前、パック旅行で「秋色のオーストリアの旅」に参加した。その折、ザルツブルグにも行ったが、リンツのドナウ河畔のホテルに1泊した。翌朝、一人で散歩に出て、流れ来て流れゆくドナウ川を眺めた。霧の中、河畔をランニングする人や犬を散歩させる人がいて、旅情を感じた。

 そのパック旅行では、ウイーンの少し上流のメルクとデュルンシュタインにも立ち寄った。ドナウ川は大きく湾曲しながら滔々と流れていた。メルクもデュルンシュタインも、ドナウ河畔の、中世風の、小さな美しい町だった。

 ということで、それらを端折って、ザルツブルグからは、オーストリア国の誇る特急列車に乗って、これも2度目のウイーンへ。

 パック旅行の時と違うのは、オーストリア周遊ではなく、ドナウ川に沿って旅すること。そして、自分で列車に乗り、ホテルにチェックインし、自分の足で主体的に歩くということだ。

 ウイーンからは、急行列車に乗って国境を越え、ハンガリーの美しい首都ブダペストで流れゆくドナウ川を見送って、この旅を終える。

 そこから先は、ドナウ川に沿って走る列車はない。

 調べれば、大きく迂回しながらも、列車や路線バスを乗り継いで、黒海の河口付近まで行けるのかもしれない。だが、それはもう若い人のバックパッカーの旅になる。列車が通らぬ地は、私にとって、「未開の地」である。

 ちなみに、ドナウ川は、全長2850キロ。ヨーロッパではヴォルガ川に次いで長い大河である。

 (流れゆくドナウ川/ブダペスト)

 旅の具体的な行程は以下のようであった。

第1日>  (5月23日)

 関空 () フランクフルト

 () ニュールンベルグ

 () レーゲンスブルグ(泊)

第2日> (5月24日)

 レーゲンスブルグ観光(泊)

第3日> (5月25日)

 レーゲンスブルグ () パッサウ

 パッサウ観光 (泊)

第4日> (5月26日)

 パッサウ () ザルツブルグ

 ザルツブルグ観光 (泊)

第5日> (5月27日)

 ザルツブルグ () ウイーン

 ウイーン観光 (泊)

第6日> (5月28日)

 ウイーン観光 (泊)

第7日> (5月29日)

 ウイーン () ブダペスト

 ブダペスト観光 (泊)

第8日> (5月30日)

 ブダペスト観光 (泊)

第9日> (5月31日)

 ブダペスト () フランクフルト (

第10日>  (6月1日)

  () 関空

      ★

<なぜ?? ── そこに立ちたいから>

   塩野七海の『ローマ人の物語』は1年に1巻ずつ書き下ろされ、最後の15巻目が刊行されたのは2006年の暮れだった。毎年、本屋で新しい巻を見つけるのが楽しみだった。

 江戸時代以前、日本の知識層は基礎教養として中国史を読んだ。

 明治以後、攘夷思想の変容として、欧米に追い付き追い越せと、西欧文明の修得に励んだ。しかし、西欧知識人の基礎教養であるローマ史まではなかなか手が回らなかった。

 もし、明治以後の日本人が、日本史や中国史やヨーロッパ近・現代史だけでなく、古代ローマ史を学んでいたなら、近代日本の内政も、対外政策も、もう少し違ったニュアンスのものになっていたかもしれないと思う。欧米知識人は、少年の頃、わくわく胸躍らせながらローマの英雄たちの歴史物語を読み、自分の血とし肉とした。為政者の統治と市民との融和、議会におけるスピーチのあり方、異民族との戦争と講和の仕方、植民政策のやり方とグローバリズム、パクス・ロマーナ … 。成熟したおとなになるための基礎教養の欠如が、日本の近代史の不幸の要因の一つであったかもしれないと思う。

 その長大なローマ史が、塩野七海という女性作家の手によって、日本語の歴史文学として完成した。これは称賛に値する。日本近代文学は「私小説」だけではない。早速、韓国でも、中国でも翻訳された。中国史には、このような歴史はない。

 『ローマ人の物語』の最終巻の末尾の1節は、「歴史」への向かい方を教えてくれる。

 「盛者は必衰だが、『諸行』も無常。これが歴史の理ならば、後世のわれわれも、襟を正してそれを見送るのが、人々の営々たる努力のつみ重ねでもある歴史への、礼儀ではないだろうか」。

 ドナウ川は、ローマ帝国の北の防衛線であった。

 「バーバリアン(蛮族)」との間に国境はない。ドナウ川はローマ帝国の北の防衛線であり、最前線だった。ローマ人にとってそこは辺境の地であり、文化果てる地でもあった。

 『ローマ人の物語』を読みながら、そこに立ってみたいと思った。

 もちろん、「ローマ帝国の遺跡」などは残っていない。ローマの巨大な遺跡を見たければ、イタリアや南仏やスペインに行けばよい。

 レーゲンスブルグも、パッサウも、ウイーンも、ブダペストも、ローマ軍の辺境の駐屯地が置かれた所だ。今は、中近世の美しい歴史の街として人々を魅了しているが、ローマの遺跡は痕跡ほどしかないし、わずかな痕跡を探して旅をしてもつまらない。

 ただ、遥かに遠い昔、銀色に輝く兜に赤いマントをなびかせたローマ軍の士卒が、滔々と流れるドナウ川の河畔をパトロールした。

 そこに自分も立って、自分の目で眺めたい。これがこの旅の動機である。

三木清「旅について」(『人生論ノート』から)

 「旅はすべての人に多かれ少なかれ漂泊の感情を抱かせる」。

 「旅の心は遥かであり、この遥けさが旅を旅にするのである」。

 

 

 

 

 

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よみがえれ!! ノートル・ダム大聖堂 … 観光バスでフランスをまわる12/12

2022年08月13日 | 西欧旅行…フランス紀行

   (パリ発祥の地・シテ島/2015年撮影)

<ルーブルはノルマンディ公国への備え>

 この項は、紅山雪夫氏の『フランスものしり紀行』を参考にした。

 パリの街を囲む城壁が初めて造られたのは12世紀のこと。築かせたのはフィリップ2世(在位1180~1223年)。

 費用は、セーヌ右岸はセーヌ川の河川交易で繫栄していた商人たちに負担させた。セーヌ左岸はサン・ジェルマン・デ・プレ修道院などの修道院や大学の街だったから、王が出費した。

 それにしても、12世紀のパリの街はまだ小さかった。城壁で囲った範囲は、おおよそ、東はサン・ルイ島の東端、西はシテ島の西端まで。それでも、南北には田野も含まれていたという。

 フィリップ2世が仮想敵として備えたのは、あのノルマンディ公国。

  フランス王と言っても、フィリップ2世が王位に就いた時、フランス王の所領はイル・ド・フランスの範囲だった。王と主従の封建関係になってはいるが、フィリップ2世よりも遥かに大きな領地を支配する領主がフランス各地に盤踞していた。ノルマンディ公国もその一つ。いや、ノルマンディ公国はすでにイギリス王を兼ねていたのだ

 ノルマンが攻めてくるとしたら …… 必ず多数の軍船でセーヌ川を遡ってやってくる。そう考えたから、フィリップ2世は、町を囲む城壁の西側に砦も築いた。それが元祖ルーブルである。ルーブルとは砦という意味ももつらしい。

 フィリップ2世は「尊厳王」と呼ばれる。在位期間も長かったが、リアリストで、戦略に優れ、生涯かけて王権を拡大し、最後には今のフランス全土をほぼ支配した。最強の敵だったのはあの獅子王リチャード。彼の死後、リチャードの弟のジョン王はフィリップ2世に手玉に取られた。だから、ジョンは英国で「失地王」と呼ばれる。

 その後、英仏百年戦争(1339~1453)の時、フランス王シャルル5世がパリの城壁を広げた。その結果、ルーブルは城壁の中に位置することとなり、砦の役目を終えて、庭園付きのルーブル宮殿へと造り変えられた。

 もっとも、今のような立派な規模になるのは、ずっと後のことである。

   (ルーブル美術館)

    ★   ★   ★

<⑷ ストライキのヴェルサイユ宮殿>

10月12日 晴れ

 今日は、このツアーの最終日。今日の予定は、午前中、ヴェルサイユ宮殿を見学。午後は自由行動。

 朝、バスに乗り込むと、ガイドのムッシュが「今日は、サルコジ大統領の年金法案に反対するストライキが予定されています。もしストライキに突入すれば、ヴェルサイユ宮殿の研究員や職員もストライキに入ります。その場合、ヴェルサイユ宮殿はロックアウトされ、見学はできません。時間ギリギリまで交渉が行われ、まだどうなるかわかりませんので、とにかく開館時間に間に合うようにヴェルサイユへ向かいます」とのこと。

  (ヴェルサイユ宮殿の正面)

 イタリアとフランスはストライキが多い。

 1995年の視察研修旅行の時は、我々の帰国便がシャルル・ド・ゴール空港を飛び立った1時間後に、フランス全土がゼネストに突入した。ゼネストは長期間に及び、帰国後、日本でもその様子が日々、ニュースで流れた。もし1時間早くゼネストが始まっていたら、飛行機は言うまでもなく、列車も、地下鉄も、市営バスもストップし、我々は帰国の手段を失い、日常品も手に入るかどうかもわからず、ホテル代ばかりが嵩むところだった。

 2002年の個人旅行の時には、シャルル・ド・ゴール空港職員のストライキがあり、行きも帰りも空港が大混雑した。往路はロス・パッケージになり、帰国便は半日遅れで成田回りになった。同じ帰国便で席が隣り合せになった京都の人は、観光ではなく仕事でパリに来ていた。前日が帰国の予定で、空港にやって来たが、搭乗予定の便は「キャンセル」。空港のチェックイン・カウンターにいた空港職員と交渉・抗議したが、「組合がストライキをしているのであって、私たちに責任は取れない」の一点張り。仕方なく、自費でパリに戻って1泊したという。「今日もどうなるかわからなかったが、成田回りでも帰国できてうれしい」と言っていた。

 案の定、ヴェルサイユ宮殿は閉鎖していた。開場とともに入場しようと早起きしてやってきた観光客たちが、門扉越しに中を覗き込んで、やがて諦めて帰って行く。

 空は雲一つない青空なのに。

 (ロックアウトのヴェルサイユ宮殿)

 1995年の研修旅行の折にヴェルサイユ宮殿は一度見学していたから、私自身はもう十分だった。絢爛豪華だとは思ったが、2度も見学したいとは思わない。団体旅行なので、おつきあいで来ただけだ。

 フランス語に「シック(chic)」という言葉がある。粋(イキ)なさま。上品でおしゃれ。「シックな装い」など。

 ヴェルサイユ宮殿はやり過ぎ。シックなどというレベルではない。つまりは、ダサい。王も(領主も、教皇も)、質実剛健に徹している間は「われらが王」であることができる。限りなく贅を尽くし、絢爛豪華を追い求め出したら、おしまいだ。

 しかし、ツアーの一行の中には、今回のツアーで一番期待していたのはヴェルサイユ宮殿なのにと、嘆いている人が何人かいた。いろいろな物語やアニメの舞台になっているから、期待度も高く、気の毒だった。

 庭園はのぞくことができた。

 (ヴェルサイユ宮殿の庭園)

 こういう幾何学的で、人工的な、しかも、おそろしく広大な庭園では、マリー・アントワネットも心が癒されることはなかったろうと思う。実際、庭園の森の中に小屋を建て、好んでそこへ行ってお茶をしていたらしい。

 ガイドのムッシュが、時間があるからと、ヴェルサイユ宮殿の近くのノートル・ダム寺院に寄ってくれた。ふだん、観光の対象になる教会ではない。

 (ノートルダム教会)

 それでも、扉を開けて中へ入ると、外界の喧騒と切り離された静寂の空間があった。青を基調としたステンドグラスも美しかった。

       ★

<⑸ 邸宅の美術館>

 バスでパリへ戻り、免税店に寄って、そのあと遅い昼食。

 そして、各自、自由行動となった。

   パリにはもう何度も来ているので、新たに見学してみたいという所はない。だが、見学しようと思えば、いくらでも見所があるのがパリ。観光客には懐の深い街だ。

 1か所ぐらいは新しい所へ行ってみようと、地下鉄に乗って「ジャックマール・アンドレ美術館」へ。

  (パリの地下鉄)

    銀行家であったアンドレと画家であった妻のジャックマールが、19世紀に貴族趣味の邸宅を建てて、絵画、彫刻などの美術品を収集。それらを瀟洒な各部屋や廊下や階段の踊り場に飾っていった。今は、その子孫によって、そのままの姿で私立の美術館になっている。ポッティチェリやルーベンスなどの絵画の数々、彫刻、陶器、タピストリー、そして、邸宅そのもの、各部屋のしつらえや調度品なども鑑賞し楽しめるようになっている。

 以前、パリのマレ地区にあるピカソ美術館に行ったことがある。美術館の建物はサレ館と呼ばれる17世紀の貴族の邸宅で、そこに200点以上のピカソの絵画、彫刻、絵皿、版画などが飾られていた。

 貴族の邸宅に飾られたピカソの作品の数々を見ながら、…… ピカソのあの超現実的な作品が、伝統的でクラッシックな貴族の邸宅の部屋や廊下に見事に調和し、シックであることに驚き、目が覚めるような気がした。

 このことは、日本で催される「ピカソ展」の展示場に架けられたピカソを見ていたときにはわからないことだった。中世のノートル・ダム大聖堂のステンドグラスの美は、各時代の美術家たちによって引き継がれ引き継がれて、そういう流れの一つとしてピカソの絵も生まれてきた。

 伝統の中から、新しいものが生まれてくる。ピカソの絵も、ヨーロッパの美の伝統の中にあるのだ。

       ★

<⑹ シテ島とノートル・ダム大聖堂>

 ジャックマール・アンドレ美術館を出ると、もう予定は何もない。あれも見学しなければ、これも見逃してはいけないなどという強迫観念はない。あとは何度でも訪れたい自分のパリを歩くだけだ。

 まずは、パリ発祥の地のシテ島、そして、そこに建つノートル・ダム大聖堂へ。

 (ノートルダム大聖堂)

 この大聖堂前の広場に、星印のプレートが埋め込まれている。そこがパリのゼロ地点。そこを0として、パリの住所は時計回りの渦巻きで、1区、2区、3区 …… と定められている。

 BC3、4世紀頃には、ケルトの一族のパリシイ人が、セーヌ川の中の島であるシテ島に集落をつくり、船に乗って河川を使った交易業を営んでいた。それがパリという大都市の原点。パリ(paris)は、パリシイ人(parisii)に由来する。

 ちなみに、ヨーロッパの川は日本のように急流ではないから、河川を使った物流・交易は、19世紀に列車が走り、さらにトラック輸送が盛んになるまで、ずっと主流だった。フランス、ドイツ、オランダなどには、河川と河川をつなぐ運河も張り巡らされている。

 BC52年、ユリウス・カエサルのローマ軍団がやってきて、セーヌ川の左岸にローマ風の町を建設した。

 今も、セーヌ左岸はラテン地区と呼ばれる。中世から近世に到るまで、左岸はパリ大学や修道院の街で、ヨーロッパ各地から集まってきた学生や聖職者たちの間ではラテン語が共通語だった。フランスの普通科高校(リセ)で、ラテン語が必修科目から外されたのは第二次世界大戦のあとのことである。

 18世紀に、ノートル・ダム大聖堂の内陣の下から、ローマのユピテル神に捧げた石柱が発見された。その石柱は、セーヌ川の船乗りたちが、第2代ローマ皇帝ティベリウスに奉献したものだった。皇帝ティベリウスの在位はAD14~37年である。

 この発見は、キリスト教文明(ヨーロッパ文明)が、ローマ文明の上に築かれたということ、さらにその古層にケルトの文明があったことを象徴的に表している。

 そのキリスト教文明の精華は、10世紀に始まり12、13世紀に盛期を迎えたロマネスク大聖堂とゴシック大聖堂(だと私は思う)。

 そのゴシック建築の精華がパリのノートル・ダム大聖堂。そして、その窓に輝くステンドグラスの美。

 (ノートル・ダム大聖堂のステンドグラス)

       ★ 

<⑺ セーヌ左岸>

 大聖堂から、ポン・ヌフを渡って、セーヌ左岸へ。

 セーヌの川沿いに、右岸のルーブル美術館を見ながらしばらく歩き、左折して国立美術学校とフランス学士院の間の石畳の小道へ。

 美術学校御用達の文房具店、アンティーク・ショップ、アトリエ兼美術商店、小さなカフェやプチホテルなどが並ぶ小道を行くと、これも小さなドラクロワ美術館があり、その先に大修道院長の館が現れる

 (大修道院長の館/2015年撮影)

 この小さな広場と、樹木の形、そして大修道院長の館の色彩が、気に入っている。

 その先が、サン・ジェルマン・デ・プレ教会。中世のパリでは、左岸を代表する老舗の大修道院だったが、今は塔と礼拝堂しかない。

 その前の小さな広場をはさんで「カフェ・ドゥ・マゴ」。背中合わせに「カフェ・ド・フロール」がある。

 「カフェ・ドゥ・マゴ」の窓際の席に座ると、ガラス張りの向こうにサン・ジェルマン・デ・プレ教会のロマネスクの古い塔を眺めることができる。

     (サン・ジェルマン・デ・プレ教会)

   「かつてジャン・ポール・サルトルがシモーヌ・ド・ボーヴォアールと連れ立ってあらわれ、時には執筆もしたという「カフェ・ドゥ・マゴ」にすわり、夕暮れからの冬の風景を眺めていると、戦後の思想と文学、そして風俗の中心であったこの界隈のおもかげがうかんでくる。服装はみすぼらしくとも、その思想はさわやかで颯爽としていた」(饗庭孝男『フランス四季暦』から)。

 日が暮れる。もう晩飯の時間だ。

 すぐ近くに、外観がアール・ヌーボーのレストラン「ル・プチ・ザンク」がある。この界隈を歩くと気になったが、お高そうで敬遠していた。思い切って入ってみた。

 前菜に生ガキを注文。

 フランスへの視察研修旅行でル・マン市に滞在した折、添乗員氏に魚介類専門のレストランに連れて行ってもらった。その時食べた生ガキが、忘れられないほど美味しかった。

 パリのレストランでは、生ガキは料理のうちに入らない。レストランの入口の外に、おじさんが産地から運んできた新鮮な生カキを置いて立っている。客がレストランの店員に注文すると、店員は外に出てカキ屋さんから生ガキを買ってきて、ざら氷を盛った皿に殻の付いたままのカキを載せ、レモンを添えて出してくれる。白ワインによく合う。

 お会計は意外に安く、まあ、敬遠するほどのことはなかった。

       ★

<⑻ エッフェル塔のライトアップ>

 旅のフィナーレはエッフェル塔のライトアップを見よう。

 サン・ジェルマン・デ・プレから地下鉄を乗り継いだ。

 (イエナ橋と瞬くエッフェル塔)

 ライトアップされたエッフェル塔は、定時になると、暫くの間、チカチカチカと瞬く。周囲から歓声が上がる。パリは夜も楽しい。

 堪能し、タクシーでホテルまで帰った。

      ★

10月13日

 午前、パリのシャルル・ド・ゴール空港を離陸し、ドイツのフランクフルトで乗り換えて、午後、関空へ向かった。

 日没に追いかけられ、追い越されて、夜明けの日本を迎えに行く。(了)

  ★   ★   ★     

   2010年のこのツアーの後、個人旅行で、2013年に「フランス・ゴシック大聖堂を巡る旅」へ。

 2015年には「陽春のブルゴーニュ・ロマネスクの旅」へ行った。

 それらは既にこのブログに書いている。

 …… その後、ノートル・ダム大聖堂が火災で半焼した。

 今、長い修復の時に入っている。

 再びよみがえったノートル・ダム大聖堂を私が目にすることはないと思うが、再生の日の早く来ることを心から願う。

 

(2013年撮影。曇天のセーヌ川とエッフェル塔。右端はシャンゼリゼ通り)

(2013年撮影。ノートル・ダム大聖堂東側)

(2015年に撮影。ノートル・ダム大聖堂西側)

 

     

  

 

 

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「たゆたえども沈まず」 … 観光バスでフランスをまわる11/12

2022年08月07日 | 西欧旅行…フランス紀行

 (ポン・デザールとルーブル美術館)

 10月11日 晴れ

 朝、モン・サン・ミッシェル近くのホテルを出て、バスでパリへ向かった。パリまで360キロ、4時間半。長時間のバスの旅も、これが最後だ。そして、この旅も、パリの2日間だけとなった。

 パリでは、昼食にエスカルゴが出た。かたつむりは初めてだ。

 食べてみると、コンガリとしてなかなかの美味。 しかし、自分から注文して食べようとまでは思わない。

      ★

<⑴ 車窓観光 ─ パリの景観>  

 昼食後、観光バスでパリの「車窓観光」。初めてのパリの定番コース。

 中年のムッシュがガイドとして乗車してきた。流暢な日本語で体育会系のあいさつ。「私、若いころ、日本に留学いたしまして、京都の同志社大学を卒業しました。在学中は応援団に所属していました。皆様の中には、同窓の大先輩のマダムやムッシュがいらっしゃるかもしれません。ご無礼があるかもしれませんが、今日と明日、何卒よろしくお願いいたします」(笑いと拍手)。

 面白いが、控えめで、知的なものも感じさせて、駆け足のパリ観光にはもったいないガイドさんだった。

   観光バスは、セーヌ河畔、ノートル・ダム大聖堂、コンコルド広場、凱旋門、シャンゼリゼ通りなどを車窓から眺めながら、パリの街を走る。

  (セーヌ河畔の二人)

 そして、定番通り、エッフェル塔で下車観光。

 ショイヨー宮のテラスからエッフェル塔とパリの景色を眺望する。季節も良く、空は晴れて、心地良かった。「(シャンソン) パリの空の下、セーヌは流れる」。

    (ショイヨー宮のテラスからエッフェル塔)

 エッフェル塔が単独で聳えているのではない。私たちが今いるのはショイヨー宮。眼下前方にセーヌ川とイエナ橋。橋を渡ればエッフェル塔が聳えている。その先は整然と広がるマルス公園、そのさらに先にはアンヴァリッドと士官学校の建物が見える。それらが一直線に配置されている。

 パリの美しさは、構成美、端正な美しさ。人工の美。そういう端正な街並みをつくり上げようという強い意志。

 神が自然をつくり、また、神は自らに似せて人をつくられた。故に、人間は自然に対するとき、神に近い存在となる。万能の人間。

 日本では、まず自然がある。人は自然から生まれて自然の中に返っていく。「自然に~なる」とか「自ずから~なる」と言う。この場合の「自然」は、西洋人の「Nateur」の意ではない。「Nateur」は万能の人間の対象物。「自然に」とか「自ずから」は、人間を超えるものを意識している。人も自然の一部に過ぎない。人が集まれば、「自ずから」町ができる。

 構成美だけではない。エッフェル塔自身も、まるで絹のレースのよう。

 ただし、「パリだ 」「エッフェル塔だ 」と、心が浮き立っていると … このテラスにも観光客にまじってスリがいる。ここは日本ではありません。

                     ★

<⑵ ルーブル美術館のカメラのフラッシュ>

 バスはエッフェル塔からルーブル美術館へ。

 ガラスのピラミッドから入場し、広大な美術館をガイドのムッシュの案内で短期決戦の芸術鑑賞。

(ルーブルのガラスのピラミッドの中)

 数限りない展示室を素通りし、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」とか、ダヴィッドの「ナポレオン1世の戴冠」とか、「ミロのヴィーナス」とかの前で説明してくれる。

 (ミロのヴィーナス)

  (サモトラケのニケ)

 私は「サモトラケのニケ」が好きだ。展示場所も、中2階の踊り場に1体だけ。かっこいい。ミケランジェロやロダンのどの彫刻よりも素晴らしいと思う。

 「サモトラケのニケ」以外では、今回は案内されなかったが、フェルメールの「レースを編む女」かな。小さな絵だし、オランダの画家だから、ルーブル美術館の扱いは「その他大勢」。

 かつて、欧米の観光客はカメラを持っていなかった。カメラをぶら下げて観光しているのは日本人だけだった。「カメラを持って旅をしているのは日本人だけだ。私たちは、自分の目で見、見たものを心に残しながら旅をする」などと言う西欧人もいて、そうかもしれない、カメラを持った旅は旅ではないのかもしれないとたじろいだ。

 ところがコンパクトカメラが普及し始め、欧米の観光客も爆発的にコンパクトカメラを持って旅行するようになった。最初は男性よりマダムやマドモアゼルが多かった。コンパクトカメラは安価。その上、絞りもピントもカメラが勝手に合わせてくれる。ファインダーを覗いてシャッターを押せば、誰でも思い出のシーンを切り取ることができる。

 欧米人観光客の中での爆発的なコンパクトカメラ普及に気づいたのが、このルーブル美術館だった

 フランスの美術館は、フラッシュを焚かなければどこでも撮影できる。欧米のマダム、マドモアゼルも、もちろん日本人のマダムたちも、有名な作品の前に群がって撮影する。ところが、室内だからフラッシュが自動発火する。「フラッシュは禁止よ」と、係員が怒って飛んでくる。ところが、あちらでも、こちらでも、フラッシュが光る。いつもは部屋の片隅に腰掛けてひっそりしていた係員が、あちらへ走り、こちらへ叱責の声。血相を変えている。ところが、どうも彼女たちは、日本人も含めて、シャッターを押す以外のカメラの操作法を全く知らないのだ。少しカメラをいじっているが、相変わらずあちらでも、こちらでも、フラッシュが光る。

 この時期のフランスの美術館の係員は、ふだんの10倍のストレスで、不眠症になったのではなかろうか??

 帰国した後のことだが、フランスの美術館が写真撮影を禁止したという報道を見た。

 それでも、1、2年で撮影禁止は解除された。さすがに自分のカメラのフラッシュを自動発火させない方法を身に付けた人が増えたのだろう。

 それに、コンパクトカメラはすぐに廃れ、誰もが旅先でアイパットやスマホのカメラで撮影する時代になった。だが、今でも、著名な美術館の不朽の絵画の前でフラッシュを光らせる観光客は結構多い。

 かつて、「写真に写すのではなく、心で旅をせよ」と批判していた西欧人も、今は皆、写真をバチバチ撮りまくっている。そして、SNSに投稿する。

 SNSが第一義で、旅はその手段になっていませんか 

      ★

<⑶ セーヌ川河畔の景観は世界文化遺産>

 ルーブル美術館の後はセーヌ川クルーズ。 

 私は個人旅行で行く海、湖、川のどこでも、遊覧船があれば乗る。それも、船室に入ることはない。デッキに立ちっぱなしで、水の上から景色を眺めるのが好きだ。

 セーヌ川の水上から見上げるパリも美しい。そもそもパリが美しいと感じるのは、セーヌ川の流れがあるからだ。

 東はサン・ルイ島に架かるシュリ橋から、西はエッフェル塔のそばのイエナ橋まで、セーヌ河岸一帯の景観は、世界遺産に指定されている。それだけの価値があると思う。

 遊覧船も各種あるが、安く上げようと思えば水上バス(バトー・ビュス)もある。遊覧船と同じコースを1周するし、乗り場も要所要所にある。1日券を買えば、乗り放題だ。ただし、遊覧船のように、天井が開いている、或いは、総ガラス張りの観光用の船ではない。まあ、市内バスと同じだから。それでも、狭いデッキはあるから、舳か艫に立てば展望は開けるし、写真も撮り放題だ。

  (サン・ルイ島)

 セーヌ川には中の島がある。まずパリの発祥の地のシテ島。その東側に小さな橋で接続して、小ぶりのサン・ルイ島。

 いつかサン・ルイ島のマンションに住みたいとあこがれているパリっ子は多いらしい。ちなみに、パリに一戸建て住宅はない。大統領でもマンション暮らしだ。

 「私はいつもポン・マリのたもとから狭い石段を下りて河べりに出る。そこには幅12、3mの散歩道があり、プラタナスの並木が河岸よりにある。石畳のこの道を私はゆっくりと歩いてゆく。秋の日、金色の落葉がすでに石畳を埋めている。ここにもベンチがあり、時折本を抱えて私はすわり、前の河をゆく遊覧船を眺めたり、本を読んだりした」(饗庭孝男『フランス四季暦』から)。

 (セーヌ河畔で考える人)

 (オルセー美術館)

 オルセー美術館はもともと、1900年のパリ万博に合わせて、花のパリの万博に押し寄せる世界の観光客を受け入れようと建てられた鉄道の駅舎だった。設計者はセーヌ川左岸にある国立美術学校の教授。オシャレなパリの街に溶け込む瀟洒な駅舎だった。

 今は、対岸のルーブル美術館と並んで、印象派を中心とした人気の美術館だ。

 私は絵もさることながら、この美術館の上階から眺めるセーヌ川の景観、そして遠くモンマルトルの丘のまでの眺望が、最高に素晴らしいと思っている。そういうことを目当てに入館する人はあまりいないから、結構、景色を堪能できる。

 (ボン・デザールの下をゆく遊覧船)

 「ポン・デザール」は、「Pont des Arts (芸術橋)」。フランス学士院や国立美術学校がある左岸の文教地区から、右岸のルーブル宮殿(美術館)へ徒歩で渡れるように架けられた橋。車は通れない。鉄骨の橋だが、床は全て木の板。途中に木のベンチも置かれ、木の枠組みの花壇もある。

 パリの街は自分の足で歩いて見てほしい、疲れたらカフェのテラス席でぼんやりと街並みを眺めてほしい。

 そういう街づくりがいい

 京都を歩いていて古都の落ち着きが感じられない理由の一つは、三条の大橋にしろ、五条の大橋にしろ、歩いて渡る人専用の橋がないこと。大阪には、京都にあってもおかしくないような、人専用の風情のある近代的な橋が幾つかある。ただし、京都と比べると、川が濁っている。

(セーヌ川からエッフェル塔を見上げる)

 エッフェル塔は1889年(フランス革命100年)のパリ万博のために建てられた。エッフェルは、設計・建設者の名。

 「歴史ある美しい町・パリに鉄塔を建てるとは何事か」と、反対運動が燃え上がり、著名な知識人・文化人たちもこぞって反対したそうだ。

 万博が開催されると、世界からやってきた人々が、連日、最新のエレベータで一気に上がって、パリの眺望を楽しんだ。

 万博の20年後には取り壊される段取りだった。

 しかし、エッフェル塔は、石造りの街並みの中に美しく軽やかに調和し、今では「花のパリ」を象徴する。

 そもそも、知識人とか文化人とか、大衆とか、世論などというものは、その程度のものだ。

 我々も、テレビとか、ネットニュースとか、世論だとかに一喜一憂するのは、もうそろそろやめた方が良い。泰然自若。ただし、覚悟も必要。

 パリ市の紋章には、かつてセーヌ川を行き来した帆掛け船が描かれ、ラテン語の銘文が添えられている。

 「たゆたえども沈まず」

 シテ島を根城にし、河川交易で栄え、パリの原型をつくった船乗りたちの心意気を表す。いかに風雨が荒れ、船が揺れても、我らの船は沈まない。

 まずはこういう心意気と覚悟。

       ★

 夜、9時にホテルに着き、それからホテルで晩飯。つまみ食いの盛りだくさんの行程だった。高校生の修学旅行でも、もう少しゆったりしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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