ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

アテネにて (旅の終わりに) … わがエーゲ海の旅 (15/15)

2019年08月29日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

< ロードス島からアテネへ >

 5月19日(日) 

 ロードス空港へ向かうため、朝、8時、ホテルの前でタクシーを待ったが、来ない。

 日本からネットでホテルを予約したとき、同時にタクシーの予約もしたつもりだった。

 往路はロードス空港にちゃんと迎えに来てくれていた。

 だが、どうも帰路の予約ができていなかったようだ ── なにしろ英語のネット画面を見ながらの作業。飛行機やホテルの予約と違って、つい雑になったようだ。

 結局、ホテルのフロントで呼んでもらった。往路だったら、ローカルな空港に降りてタクシーがなく、ちょっと途方に暮れたかもしれない。

        ★

 ロードス空港を9時50分発の飛行機に乗り、1時間のフライトでアテネ空港に着いた。窓からエーゲ海の島々が見えた。

 アテネ空港のインフォメーションで、明日乗るミュンヘン経由関空行の飛行機のチェックインの場所を調べてもらう。

 ── レベル1(2階)の140番から147番の間です。

   過去の旅で、帰国の時、大勢の団体客が行列をつくる空港のどこに並べばよいか、戸惑ったことが何度かあった。提携するローカルな航空会社のデスクでチェックインする場合もある。とにかくこれで安心だ。

 空港バスに乗って、シンタグマ広場へ。

 明朝は早いので、降りたバス停の窓口で、明朝のバスの時刻表を写す。午前5時20分発のバスに乗れば、多少何かあっても余裕があるだろう。

 これで明日の段取りはついた。ホテルへ向かう。前と同じホテルだ。

        ★ 

ミトロボリオス大聖堂の前の広場 >

 

 少しばかりお土産を買ったあとは、もう行きたい所もなく、街の中をぶらぶら歩く。

 屋台のパン屋のおじさんが、今日も同じ場所で店を開いている。

 

 アレオス通りに出ると、アクロポリスの丘が見えた。紀元前の昔には、麓の町のどこからでも、こうして聖なる丘を仰ぎ見ることができたのだろう。右前方の丘の下が、当時、人々が集った古代アゴラだ。 

村上春樹『遠い太鼓』(講談社文庫)から

 「アテネといえば人口300万を数えるギリシャ随一の都会 (これは実にギリシャの総人口の三分の一近くに相当する) ではあるけれど、観光客が通常 動きまわるエリアに限って言えば、それほど大きな町ではない」。

 「この街は大昔のポリスのまわりに、まるで磁石に鉄屑がくっつくように近郊住宅地が付着して、そのまま無定見にぼわぼわと発展したような都市だから、観光客にとって興味のある場所ははっきりと中心部に限られている。だって近郊住宅地部分なんか見に行ったってしかたないから、…… 普通の人はアクロポリスに登って、プラーカでレッツィーナを飲んでムサカを食べて、町をぶらぶら歩いて、土産物屋をのぞいて、シンタグマ広場でお茶を飲んで、リカヴィトス山からアテネの夜景を見て、その後時間と興味のある人は国立考古学博物館を見学して、それでおしまいである」。

  アクロポリスも国立考古学博物館も行った。リカヴィトス山にはまだ行っていないが、億劫だ。

 海に臨むロードス島で、聖ヨハネ騎士団長の居城や病院、空堀の向こうに連なる城壁と城門、それからマンドラキ港の満月、リンドスの群青の海の上のアクロポリスの遺跡、「ママ・ソフィア」の海の幸など … それらと比べると、アテネの街は観光客ばかりで、スリに気を使い、雑然として、風情がない。パリやイスタンブールのような美しい街ではない。

 そのアテネの街のお気に入りの一角。

 ミトロボリオス大聖堂の前の緑の木蔭の広場へ行って、時を過ごそう。

 『地球の歩き方』に、「アテネいちの大聖堂だけあって、重厚な趣がある。古代の乾いた遺跡を見慣れた目には、久しぶりの生きた見どころ」とあるが、… 確かに、遺跡だけでなく、街もそうだし、バルカン半島の風土そのものが乾いている感じだ。

 そんな街の中で、この一角だけ、樹木がこんもりと木蔭をつくり、涼しさが通りぬける。

 それに、大聖堂と隣り合わせたアギオス・エレフテリオス教会が、野の花のようで可愛い。

 「カフェ・メトロポール」の木蔭のテラス席でギリシャコーヒーを飲んだ。

 コーヒーを飲んでいると、周囲からギリシャ語が聞こえてくる。何をしゃべっているのか全くわからないが、男も女も早口で、まるで小鳥の囀りのようだ。いくら母国語でも、こんな早口でしゃべり合って、よく聞き分けられるものだと思う。

        ★

旅の最後の夜 >

 今日は日曜日。日曜の夜、このホテルでは、最上階の一面ガラス張りのフロアが、宿泊客以外も利用できるバー・コーナーになるようだ。

 一杯の白ワインを飲みながら、アクロポリスの丘のパルテノン神殿のライトアップを楽しんだ。漆黒の夜空に浮かび上がって、古代の遺跡は印象的だった。

    ★   ★   ★

アテネ空港から関空へ >

 5月20日(月) 

 夜明け前のシンタグマ広場からバスに乗った。

 アテネ空港では、セキュリティ検査のフロアーでも、搭乗前も、何人かの警察官と空港職員の眼が一人一人の顔に注がれた。重要犯の国外脱出を見張っているのだろうか??

   8時35分、アテネ出発。

 ミュンヘンには現地時間10時20分に到着(時差あり)。

 アテネは快晴だったが、ミュンヘンは雨。天気予報を見ると、これから先、数日、ミュンヘンは雨模様のお天気だ。

 2時間の待ち時間だが、あとは関空行に搭乗するだけ。ここまで帰れば、ほとんど日本に帰ったようなほっとした感がある。

 ミュンヘン空港でも、警察官と空港係員が乗客の顔を一人一人確認していた。テロの情報があるのだろうか。

 12時15分に出発。

 飛行機が飛び立ち、まだ地上と雲との間を飛んでいるとき、窓から下界を眺めると、赤い屋根に白い壁のメルヘンチックな家々が小さく見え、その先には区画された黒っぽい土と緑の畑が広がり、その向こうに森がある。

 何とみずみずしく潤いのある風景だろうと思う。ギリシャとは、風土がこんなに違う。白っぽい岩だらけのギリシャと、黒っぽい土と緑が広がるドイツ。

 これから東へ東へと飛び、地球は西へ回る。やがて、夜明けを迎えに行くように飛んで、日本時間の朝6時過ぎには、関空に着く。

    ★   ★   ★

旅の終わりに >

 おだやかで、心楽しい、とてもいい旅だった。

 この頃、海外旅行のことでネットを見ると、例えば、ギリシャの人気観光スポットのランキングとか、アテネの人気レストランのランキングとか、ランキング流行りだ。参考になることもある。

 それで、今回の「エーゲ海の旅」の中から、私の「良かった!! 印象度ランキング」をつくってみた。旅の思い出として残しておこう。

<第1位> リンドスの群青の海と、海から聳えるアクロポリスの丘。丘の上の古代遺跡や聖ヨハネ騎士団の城壁 …… それに白い街も。リンドスまでの船旅も良かった。とにかくリンドスは印象的でした。 

        ★

< 第2位 > ロードスの聖ヨハネ騎士団団長の居城、病院(考古学博物館)、空堀と城壁・城門 …… この旅のメインテーマ。『ロードス島攻防記』の舞台を実際に目で見て、感じることができました。

           ★

< 第3位 > ロードスのマンドラキ港の巨像が立っていた場所という2頭の鹿の像、風車、セント・ニコラス要塞、そして満月 …… ロードス島滞在中、毎日、見た絵葉書のような景色。心に残る風景、私のエーゲ海です。

        ★

< 第4位 > ロードスの旧市街の黄色い石積みの家々とレストラン「ママ・ソフィア」…… ソティリスさんの日本語による温かいもてなしと新鮮な魚介料理。心に残りました。この旅の画龍点睛です。

        ★

< 第5位 > アテネのアクロポリスの丘 …… パルテノン神殿よりもエレクティオン。そして丘の上から見下ろした遺跡の数々も印象に残りました。ホテルの最上階から見た丘も、良かったです。

                    ★

< 第6位 > アテネの国立考古学博物館とロードスの考古学博物館 …… 国立考古学博物館には、教科書に出てくるような彫刻がたくさんありました。また、「ロードスのビーナス」も気に入りましたね。私は、ミケランジェロやロダンより、古代ギリシャ・ローマ時代の彫刻の方がすっきりして好きです。

          ★

< 第7位 > サロニコス諸島一日クルーズ …… 現地ツアーに参加して、のんびりした1日でした。

        ★

< 第8位 > 聖ヨハネ騎士団の出先の城塞があるコス島 …… 結局、地震でクローズでしたが、この日もお天気で、のどかなエーゲ海の1日を過ごしました。 

        ★

< 第9位 > ロードスのアクロポリス …… 目立たない遺跡でしたが、ここが古代ロードスの中心だったのだと、感慨がありました。「滅びしものはなつかしきかな」。

        ★

< 第10位 > 名前がわからないがロードスの旧市街の大樹の木蔭のカフェ … 地元の人も集う、素朴で、涼しく、心地よいカフェでした。疲れが癒されました。

        ★

< 第11位 > アテネのミトロボリオス大聖堂の前の広場と「カフェ・メトロポール」 … 私にとって心落ち着かないアテネの街の中のオアシスでした。アギオス・エレフテリオス教会は野の花のようで、「カフェ・メトロポール」はアテネの名カフェです。

 以上です。なかなか順位をつけるのは難しい。

        ★

※ 帰宅して、このブログを書きながら、ツタヤで借りたギリシャ映画『タッチ・オブ・スパイス』をみました。テッサロニケ国際映画祭で作品賞、監督賞以下、数々の受賞に輝いた作品です。

 キプロス紛争下のギリシャとトルコ、国と国との厳しい対立を背景にして、アテネとイスタンブールの町を舞台に、トルコ人の祖父とギリシャ人の孫の愛情、そして、幼い日に別れた初恋の人との再会と別れが、ちょっとコミカルに、でも、ちょっと切なく描かれて、見終わった後、とても美しい映画をみたという印象が残りました。機会があれば、ご覧ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ロードスのアクロポリスへ … わがエーゲ海の旅 (14)

2019年08月25日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

 BC10世紀ごろというから、ほとんど神話的な時代のことだが、ドーリア人がロードス島に侵攻してきて、初めにリンドスを建設した。

 ロードス市の建設はBC5世紀ごろで、古代においては新興都市であった。

 ロードス島の中心はリンドスからロードスへ移っていき、ヘレニズム時代に最も栄えた。「世界7不思議」の1つの巨像もつくられる。

 ローマ時代には、「アテネと並び称された哲学の最高学府があり、キケロもカエサルもブルータスも、そして二代目の皇帝になったティベリウスも、若い頃にここに学びに訪れた」 (『ロードス島攻防記』) という。

 古代のロードス市の中心は、今の「旧市街」ではない。世界遺産になっている現代の「旧市街」は、聖ヨハネ騎士団の時代の「中世都市」である。

 古代ロードスのアクロポリスは、『地球の歩き方』の小さなマップを見ると、旧市街から南西方向へ、新市街のさらに向こうの郊外の丘(山)である。

 『地球の歩き方』には、「スミス山 ─ 古代ロードスのアクロポリス」という表題で、わずか数行の説明があるだけだ。 

 「ロードスに残るわずかな古代遺跡」。

 「馬蹄形をした古代スタジアム小さな古代劇場、そしてアポロン神殿がある」。

 「敷地内にアクロポリス資料館があり、…… 頂上からは島の先端やエーゲ海が見渡せ、美しい夕日が見られることでも有名」とある。

  だが、この時期、日没は午後8時頃。昼間でも行きにくい人里離れた遺跡の丘へ、そんな時間に行くのはムリと、「夕日」は早々にあきらめた。

 それにしても、なぜ「スミス山」などという無粋な名が付けられたのだろう。この遺跡の発見者の名だろうか??

 ネットで調べても、ウィキペディアも含め、この遺跡についての学術的な説明はほとんどない。

     ★   ★   ★   

ロードスのアクロポリスを歩く >

 『地球の歩き方』には路線バスもあるように書いてあるが、期待できない。たぶん、地震で「アクロポリス資料館」はクローズ。ゆえにバス路線もそこを通っていない。

 旧市街から歩くと30分という情報もあった。それは道を知っている若く元気な人の場合だろう。

 歩くとしたら、帰路。往路で土地勘もでき、それに、帰りは下りの道だから多少は楽。往路はタクシーにしよう。

 タクシーが住宅街を抜けると交差点はなくなり、ただ一本の道路が、木々と雑草の生い茂る中を蛇行しながら斜面を上がっていく。

 「この左手のあたりだよ」と、運転手は車を止めた。道路の左手は、樹木の生えた草むらがあるばかり。道を尋ねても、運転手も詳しいことは知らないようだ。

 来る途中、「帰りが大変だよ。待っていようか」としきりに誘われたが、「歩いて帰る」と断った。

 草深い丘(山)の上の遺跡で、どれくらい時間を要するか、見当がつかない。それでも、せっかく訪ねたのだから、そこがどういう所かということは見て、納得してから帰りたい。待たれていると、気持ちが落ちつかない。

 「徒然草」に、石清水八幡宮に参詣に行って、山上に本宮があるとは知らず、麓の寺社だけ参拝して帰った仁和寺の法師の話がある。帰ってから、周りの人に、「話に聞いていたより尊く立派な神社だった」と言ったという。── わざわざ日本からやってきたのだから、仁和寺の法師にはなりたくない。

 車を降りた所は、草山の中腹の上部で、人けもなく躊躇したが、とにかく草の中に細い道があったので、分け入った。

 するとほどなく小高い所に出て、下を高校生ぐらいの生徒たちが歩いていた。歴史学習だろうか?? 

 目の前にあるのは、石の観客席だ。

 アテネのアクロポリスの丘から眼下に古代の劇場(音楽堂)を見下ろしたが、あの劇場を小ぶりにしたような施設だ。これが「小さな古代劇場」だろう。

 そして、古代劇場のすぐ下、生徒たちが歩いているところが「馬蹄形をした古代スタジアム」だ。

   両方ともなかなかしっかりした遺跡である。ギリシャ時代のものだろうか?? ローマ時代のものかもしれない。

 そこまで降りてみようかと思ったが、それは帰りでよいと考えて、もう少し上へ上がってみた。

 登りの斜面の草むらの中を1人、或いは、2、3人連れで歩いている見学者もいる。人のことは言えないが、もの好きな歴史愛好者はどこにでもいるものだ。

 すぐに見晴らしの良い所に出た。 

 「小さな古代劇場」と「馬蹄形のスタジアム」の先には、オリーブや樫の木のこんもりした原っぱが続き、その向こうに町があり、さらにその向こうは海と空。

 古代の人々は、こういう海を望む丘の劇場で、観劇を楽しんだのだ。

 その後、西欧を支配したキリスト教的な世界観・人生観からは生まれてこない文明の姿だ。

 さらに登ると、奇妙な塔のようなものが立ち、礎石がまわりに広がっていた。

 ここが、「アポロン神殿」の跡だろう。リンドスのアクロポリスほどに海に屹立しているのではないが、ここもまた、海を望むアクロポリスの神殿である。

 塔のように見えたのは、幾本かの神殿の石の柱だ。

 柱を囲っている鉄骨状のものは、工事用ではない。石柱が倒れないように、こうして支えているのだ。遠くない過去に、地震で崩壊しそうになり、人工的に支えているのだ。

 イスタンブール(コンスタンティノープル)のアヤ・ソフィアがそうだった。夢枕獏の『シナン』を読んで、「神を感じることのできる場所」を期待して行ったアヤ・ソフィアだったが、側廊の半分近くが鉄骨の骨組みによって支えられていて、正直、がっかりした。

 アヤ・ソフィアはともかく、長い時間のなか、かろうじて残ったアポロン神殿の2、3本の石柱を、こうまでして立たせておかねばならないのだろうか、と思った。これでは、古代の神殿の威厳というものが全く感じられない。

 倒れて草むした石をそっと撫でてあげる方が、古代の神殿にふさわしい遇し方ではないだろうか。

   アテネの遺跡のことであるが、饗庭孝男は『石と光の思想』(勁草書房)にこのように書いている。

 「アクロポリスの丘の上には、タンポポの黄色い花が、廃墟の白い石柱の崩れた破片の蔭に咲き乱れ、その花のあいだを褐色の小さな蝶が飛び交い、パルテノン神殿の壮大な世界の上には、限りなく広い空が拡がっていた

 私はまた、ゼウスの神殿の前の青草に寝て、絶望的なほどにまで青くみえる空を眺め、カミュが、自然の世界はつねに歴史に勝つことに終わると述べた言葉を思い出していた。… 」。 

 「廃墟に白い花のごとく見える神殿の石柱の破片を今もなお人間の意志のあらわれと見ることができるだろうか?

 それらは半ばもはや自然の中に帰り、人間の痕跡を目に見えない形で風化させてゆく時間の歩みに埋没してしまっている。

 はるかな歴史の遠近法の中では、これらは死者の意味をもつよりも、もはや自然の意志 ── 人間の痕跡の奥にひそみかくれていた永遠ともいうべき ── のあらわれのようにさえ思われた。

 にもかかわらず、石の表面に、今はおぼろげにしかうかがわれない模様が私の魂をとらえて離さないのである。」(同上)  

         ★

 この丘に残る3つの遺跡を全部見ることができたので、海のそばの「中世の町」まで歩いて帰ることにする。

 「小さな古代劇場」の横を降りると、「馬蹄形をした古代スタジアム」に降り立つ。

 ローマのチルコ・マッシモやトルコのアフロディシアス遺跡の古代スタジアムなどと比べると、小ぶりで、「ベン・ハー」の戦車競技を行うのは無理かもしれない。しかし、人間のランナーが走るトラックとしてなら、現代の競技場としても遜色ない。観客席もある。

 スタジアムの下は、オリーブの木が植えられた原っぱだ。  

 遺跡のある場所にはオリーブの木を植えて、開発不可の公有地であることを示すのが、ギリシャのやり方のようだ。

 それにしても、人工の痕をとどめた石がごろごろと置かれているだけで、このあたり一帯にどのような建物が並んでいたのか、今は想像することもできない。

 一番高い所に神殿があり、その下に市民が集う劇場やスタジアムがあり、さらにその下に人々の住む街があって、海に臨む一つの都市を形成していたのだろう。

 ユリウス・カエサルも、ティベリウス皇帝も、若い日にこの町を訪れた。だが、それは遠い昔のことであり、今は茫々とした廃墟である。

 「かたはらに 秋草の花 語るらく 滅びしものは なつかしきかな」(若山牧水)

 古代ギリシャやローマの廃墟を見るたびに感じる感覚を、散文として書き表せば饗庭孝男の『石と光の思想』になるし、それを1行で言い表せば若山牧水の歌になる。

 日本列島に生まれた私たちにとって、山も、川も、樹木も、そしてまた、人間も、大きな「自然」の中のごく小さな一部に過ぎない。私たちは、「自然に(自ずから)~なった」という表現をする。全ては「自然」から生まれ、「自然」に帰していく。 

 緑のある遺跡の原っぱは心地よかったが、やがて原っぱが尽き、住宅街の中の道路を延々と歩くことになった。暑い日差しの中を歩きながら、これは年不相応の過酷なウォーキングだと思った。だが、他に手段はなく、ただ歩いた。

 途中、ご近所のおばあさんに、旧市街はこっちの方向でいいか聞いてみた。おばあさんは、とても丁寧で、やさしかった。土地の人々は、一般的な日本人と比べて貧しげだったが、秋草の花のようにやさしかった。

 旧市街の南側の、外城壁と外堀の外周道路にたどりつき、もう一度、旧市街の城門をくぐって、街の中へ入った。

         ★

木陰のカフェで微風に >

 世界遺産の町とはいえ、騎士団長の居城やメインストリートのある町の北の賑わいと比べると、町の南の路地はさびれている。シーズンに入れば、もっと賑やかになり、店々も繁盛するのだろうか??

 イスラム教のモスクの手洗い場だったと思われる井戸の付近に、大きな樹木が生い茂って、涼しげな木陰をつくる広場があった。

 

 そこに、カフェ・レストランがあった。ここでひと休みしよう。

 「街の中では、どんな小路(コウジ)でも、いつもさわやかな微風が吹きかよう。汗をかいても、そうと気づく前に乾いてしまうのだった」(『ロードス島攻防記』)。

 この小さな広場の大きな木陰は、そういう場所だった。

 古びた黄色っぽい石積みの建物が、ロードスの旧市街の特徴だ。

 その建物の中がレストランだが、誰も屋内に入らない。

 それはそうだ。木陰のテラス席は本当に快適で気持ちがいい。時が過ぎるのを忘れるぐらいだ。

 もしわが家の近くにこんな気持ちの良い木陰のカフェがあれば、毎日、そこまでウォーキングして、1杯のギリシャコーヒーを注文し、1時間はうとうとと微風にあたっているだろう。仕事をしていた頃は仕事が面白かったが、今は、そういう生もあると思う。

 

 頑固そうなご主人が一人でテーブルクロスを替え、テーブル上に皿やさじを置いていく。にもかかわらず、小肥りの奥さんは椅子にでんと座って、…… 本を読んでいるのだろうか、スマホを見ているのだろうか? 手元から目を離さない。

 しかし、遠くからちゃんとお客に気を配っていて、追加の注文やお勘定や建物の中のトイレに行くときには、客の素振りだけでちゃんと反応する。プロフェショナルなのだ。

 1時間ものんびりと時間を過ごし、汗もすっかりひいた。

        ★

ママ・ソフィアで夕食を >

 ほど良い時間になり、一昨夜の「ママ・ソフィア」で夕食を食べた。 

 今夕も、ソティリスさんの暖かいもてなしを受け、料理も美味しかった。

 店の名の「ソフィア」はおばあさんの名前。祖父母が店を開いたときは、ごくごく小さなタベルナだったそうだ。2人は懸命に働き、店を大きくしていった。

 2人の息子たちのうち長兄が跡を継いだが、弟も一緒にこの店をもりたてた。一族経営でやってきたのだ。

 年配のおじさんが愛想よく注文を聞き、料理を運んでいるが、この人がソティリスさんの伯父さんらしい。

 3代目世代の中では、一番年長のソティリスさんが跡継ぎのマスターである。「私が跡継ぎです」と、そのときだけはちょっと誇らしげだった。

 「奥さんが日本人なんですね」「はい。1年、日本に留学して、そのとき引っかけられました」(笑い)。

 奥さんの顔を見ないが、来る前に見た他の人のブログでは、奥さんもとても感じの良い人らしい。

 「日本人の方は、ロードス島にはあまり来られません」。「ツアーではなく、個人でやってきて、このお店にも寄るような日本人は、私もそうなのですが、塩野七生という作家の『ロードス島攻防記』を読んでやってきた人たちが多いと思いますよ」。「そうなんですか。知りませんでした」。

 「明日はアテネに戻り、明後日の飛行機で日本に帰ります。今までヨーロッパをあちこち旅してきましたが、こんなに美味しいと思ったレストランはありません。… もう年ですから、ロードス島に来ることはないでしょう。どうかお元気でお店を繁盛させてください」。「そんなことおっしゃらないで、また、お元気なお顔を見せてください。お待ちしていますから」。

 「ママ・ソフィア」を目指してロードス島にやってくる日本人のリピーターもいるようだ。こんなに親しく迎えられ、しかも美味しいのだから、遠い日本からのリピーターがいるのもわかる気がする。

 今日も、美しいお辞儀で見送られた。この薔薇の花咲く島へ、そして、「ママ・ソフィア」へ、もう一度来れたらいいなあ、と心の中で思った。 

 

      ★

今宵もまた月の海 >

 旧市街の北の城門を見ながら、今日もまた海沿いに歩いてホテルへ向かった。

 黄昏の時間帯の空は、今宵も美しい。

 あれっ!! 今日も満月だ。エーゲ海の満月は3日も続くのだろうか??

   少女が2人、家族から離れて、ウサギのように月に戯れている。

 西欧の若い女性は、すでにこの年齢で、動作の1つ1つがモデルみたいだ。写真を撮るときなども、どういう角度で、どういうポーズをとったら自分が魅力的かをよく知っていて、すっとポーズをとる。そういうとき、テレとかハニカミはない。

 読売俳壇の選者の正木ゆう子さんの句から

  「水の地球 すこしはなれた 春の月」

   私も、真似をして駄作を。

  「ビーナスの 生まれし海に 春の月」

       ★

 明日はアテネまで戻り、明後日の早朝の飛行機に乗って、ミュンヘン経由で帰国する。

 今日はよく歩いた。なんと2万2千歩!! しかも腰痛も膝痛もほとんどなく、なかなかである。   

 

 

 

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『ロードス島攻防記』の舞台を歩く②(古戦場) … わがエーゲ海の旅(13)

2019年08月19日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

  ( 城門を出る )

 騎士団長の居城を出て、昼食をどうしようかと思っていたら、レストランの呼込みのマダムに声をかけられた。

 ついて行ったら、ご主人らしい人が待っていて、ソクラトゥス通りを見下ろす良い雰囲気の席に案内された。

 白ワインでのどの渇きをいやし、オムレツを食べた。

        ★

城壁の外、古戦場を巡る > 

 聖ヨハネ騎士団は、オスマン帝国との決戦に備えて、現在の旧市街の周囲を、内城壁 ─ 内堀 ─ 外城壁 ─ 外堀と、二重の城壁と堀で囲っていた。

 堀は空堀だが、城壁は10mの厚さがあり、また、広い外堀の中には各国騎士団の砦もあって、敵の砲弾や地雷攻撃や総攻撃に耐えられるよう頑強に造られていた。

 騎士団が予想したとおり、オスマン帝国軍は海側(軍港側)からの攻撃を避けた。よって、ロードス島攻防戦の主戦場となったのは、町の西側と南側の全面、南側から回った東側の一部、即ち陸側だった。

 そのあたりを歩いてみよう。

 騎士団長の居城の西、旧市街の北西の角から、2つの城門と堀に架かる2つの橋を渡って、旧市街の外周を巡る道路に出た。

 10万の大軍でロードスの町を包囲したオスマン帝国軍は、1522年の8月1日に戦端を切った。

 その日以後、連日、町の西と南の外堀の向こうから、外城壁に向けて、大砲と臼砲と地雷による物量にまかせた、すさまじい攻撃が繰り返された。

 写真は、町の西側の外堀と外城壁の一部である。その向こうに騎士団長の居城がそびえている。

 大砲は空堀のこちら側に並べられ、10mの幅のある外城壁を崩そうと、直径20~30センチの石の砲丸が撃ち込まれた。

 さらに、空堀の下をくぐって坑道が掘られ、外城壁の下に地雷が仕掛けられた。坑道が掘られている地点がわかれば、計算して逆方向から坑道を掘り地雷を仕掛けて敵の坑道をつぶす。だが、人海戦術で掘る坑道の数が多くなると、その発見も対応も困難になった。

 大砲と地雷攻撃の間隙を縫って、オスマンの軍勢が殺到し、城壁に取り付き、攀じ登ってきた。

 そうした攻撃が毎日繰り返され、1か月半近くになった頃のことを、『ロードス島攻防記』は次のように描いている。

 「9月も半ばとなると、トルコ軍の撃ってくる砲丸は日に100発を越え、臼砲は、1日平均12砲が、イタリア、プロヴァンス、イギリス、アラゴンの各城壁に落下する。防衛軍の死傷者の数も、トルコに比べれば少ないにしても、じわじわと数を増しつつあった。アラゴンとイギリス城壁前の外壁の破損はとくにひどく、もはやそこに守りの兵をおくことは不可能になっていた」。(同)

 イタリア、プロヴァンスの守備位置は、商港 (コマーシャル・ハーバー)に続く町の東側から南側にかけてのあたり、イギリス、アラゴンの守備位置は、それに続く町の南側と西側の一帯だ。このあたりが一番の主戦場となった。

 

 「それでも堀の中に張り出している砦は5つとも健在で、城壁にとりつこうとする敵兵を、騎士団独特の新兵器を駆使してそぎ落とす。新兵器とは、… 原始的な火炎放射器と言ってよいものだった。」。(同)

 9月も下旬に差し掛かったころ、敵の攻撃は一挙に激しさを増した。

 「あの夜から始まった3日間、ロードスの城壁は、これまでついぞ見なかったほどの、砲弾と地雷を浴びることになったのである」

   「コス島とポドルㇺの基地を守っていた騎士たちも、船を駆って様子を見に来た。海上から眺めると、ロードスは、まるで海の上に突如あらわれた火山ででもあるかのように、煙と爆音でおおわれていた、と彼らは言った。この3日間を通して、1500発の弾丸が撃ち込まれ、12の地雷が爆発した。

 誰もが、砲撃の終わった後に襲ってくる、トルコ軍の総攻撃を予想した」。

 「西欧最強の君主とされるカルロスでさえ、投入できる戦力が2万という時代、10万を軽く集められるトルコの主として、はじめて可能な戦法であった」。(同)

 カルロスとは、神聖ローマ帝国皇帝カール5世、スペイン国王としてはカルロス1世である。大航海時代の真っただ中、新大陸からアジアにまたがる帝国を築き、「太陽の沈まない国」と称せられた。

 9月24日、総攻撃は、非正規軍団(オスマン帝国支配下のキリスト教徒の軍勢)の総攻撃に始まり、これを撃退すると、休む間もなくオスマン帝国の正規軍団5万の攻撃を迎え撃たねばならなかった。

 この戦いで、ついに砦や城壁上の白兵戦となり、イギリス砦とスペイン砦の一帯の防衛が崩れ始めた。

 とみるや、オスマン帝国の最精鋭部隊である1万5千のイェニチェリ軍団が投じられた。

 「その日の戦闘は、6時間がすぎてようやく終わった。ロードスの城壁は、ついに持ちこたえたのである。敵兵が引き上げた後の堀は、死体で埋まっていた。トルコ軍の損失は、死者だけでも1万といわれる。防衛側は、死者350、負傷者は500に達した。

 まだ陽光を浴びている堀の中では、トルコ兵たちが、死者や負傷者を運び出す作業をはじめていた。防衛側からは、それに対し、矢一本射られなかった。城壁の上でも砦の上でも、激闘を終えたばかりの騎士や兵たちが、死んだように横たわったままの姿で動こうとしなかった。その中の誰一人、勝利の喜びを叫ぶ者はいなかった」。(同)

 だが、スレイマンにとって、これは想定外の結果だった。

 用意周到に計算された2か月に渡る連日の攻撃と、その上での3波の総攻撃によって決着がつくはずだった。だが、そうはならなかったのだ。

 それでも、スレイマンは、不退転の意志を持って、その後も一層激しい攻撃を続けた。

 砲丸は夜の間もさく裂しつづけ、城壁の修復を行うことは不可能になってきていた。さらに地雷も爆発した。

 2回目、3回目と総攻撃も繰り返され、もはやその回数は、騎士団の誰も覚えられないほどになった。人海戦術によって外堀は埋められ、砲丸や地雷によって外城壁は破壊されつづけた。

 「アントニオ(主人公の騎士)は傷も治り、11月のはじめにはすでに戦線に復帰していた。戦線にもどった若者の見たものは、いまや半ば崩れた外壁に陣どって、そこから砲撃を加えてくるようになった敵であった」。(同)

 11月には外城壁も制圧され、そこに大砲が据えられていたのだ。

 それでも、聖ヨハネ騎士団の騎士たちとその配下の兵士、そしてギリシャ人の志願兵たちは不屈に戦い続け、町の住民たちも町の防衛のために働いた。

 攻撃開始から5か月目の12月に入ると、スレイマンから、最初はギリシャ人住民に向けて降伏せよとの脅しの矢文があり、次には騎士団長あてに再三に渡って降伏要請の文書が届けられ、使者が送られてきた。

 騎士団長は拒否を貫いたが、12月の下旬になって、島民代表も入れた騎士団幹部の会議を開き、ついに降伏を決定した。

 このとき、騎士600人中、生き残っていた騎士は180人だったといわれる。

 しかし、何よりも島民は今の有利な条件による降伏を望んだ。守る側は時間とともに消耗していき、戦いに希望はなく、特に異教徒との戦いの最後は、残虐な殺りくと奴隷として売られる運命が待つのがこの時代のならいであった。

 過去のオスマン帝国との戦いで、敗者の側がこれほど有利な条件で降伏したことはなかっただろう。 

 「スレイマンは、開城するならば、次の条件厳守を約束する、と言ってきたのである。

1 騎士団は、持って出たいと思うものすべてを、聖遺物も軍旗も聖像もすべて、島外にもち出す権利を有する。(「ヨハネ騎士団」という組織の保障)

2 騎士たちは、自らの武具と所持品ともども、島外に退去する権利を有する。(武装解除せず名誉ある撤退)

3 これらの運搬に騎士団所有の船だけでは不足の場合、トルコ海軍は、必要なだけの船を提供する。(退去に必要な援助の申し出)

4 島外退去の準備期間として、12日間を認める。(休戦)

5   その期間中、トルコ全軍は、戦線より1マイル(1609m)後退することを約束する。(安全の保障)

6   この期間中、ロードス以外の騎士団の基地をすべて、開城する。(コス島等の出先の扱い)

7   ロードス住民の中で、島を去りたいと希望する者には、向こう3年間に限り、自由に退去を許す。(住民の生命・進退の自由保障)

8  反対に残留を決めたものには、向こう5年間にわたって、トルコ領下の非トルコ人の義務となっている、年貢金支払いを免除する。(住民に与える優遇措置)

9 島に残るキリスト教徒には、完全な信教の自由を保障する。」 (住民の信教の自由の保障)

 降伏文書の調印は12月25日に行われた。

 翌年1月1日、生き残った騎士たちは、島を脱出することを望んだ5千人のギリシャ人とともに、島を去った。

 このあと、オスマン帝国による統治と、それに続くイタリア支配からロードス島が解放されるのは、400年以上のちの1947年のことであった。

※ エーゲ海の小さな島の城塞に立て籠もって、当時最強の帝国の大軍を迎え撃った遠い昔のロードス島の戦いのことを書きながら、頭の片隅で、香港市民の闘いがずっと気になった。香港に自由を。そして、台湾に独立を。 

        ★

城壁の中・旧市街に戻る >

 歩き疲れ、町の南側の門をくぐって、 もう一度、旧市街の中に戻った。

  

 

 どこか涼しいカフェでひと休みして、美味しいギリシャコーヒーを飲み、元気を取り戻したら、ロードスのアクロポリスに行ってみよう。

 

 ( つづく )

 

 

 

 

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『ロードス島攻防記』の舞台を歩く ① … わがエーゲ海の旅(12) 

2019年08月16日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

   ( 聖ヨハネ騎士団長居城 )

5月18日(土)

 ロードスに滞在していながら、リンドス観光やコス島行きが先になってしまった。

 今日は土曜日。まる1日かけて、ロードスのヨハネ騎士団の要塞やアクロポリスを見学する。

聖ヨハネ騎士団の病院 >

 旧市街の北側の一帯は、騎士団長の居城、各国騎士団の館、騎士団の経営する病院などが並んで、イスラム圏のバザールのように商店やタベルナがぎっしりと身を寄せ合う旧市街の中では、西欧の風が感じられる一角である。

 そのとっかかりに考古学博物館がある。ここが今日の見学の出発点だ。今は博物館だが、もとは聖ヨハネ騎士団の病院だった建物である。

 「医療事業は、聖ヨハネ騎士団の看板である。ロードス島にととのえられた病院も、騎士団長居城に次いで立派なつくりで、… 」(塩野七生『ロードス島攻防記』)

 …… というわけで、私としては展示品よりも、聖ヨハネ病院騎士団の病院として、建物やその内部の様子に興味があった。 

 入口から見る建物は、古めかしく、頑丈そうで、中世的だった。

 13世紀末に、西欧のキリスト教勢はパレスチナの地から一掃される。

 だが、しばらくすると、エルサレムへの聖地巡礼は再開された。イスラム教徒のほうも、巡礼の落とすカネに無関心でいられなかったのだ。

 だが、西欧各地からの巡礼の途中、遠い異郷の地で大ケガをしたり、病に倒れる巡礼者も出てくる。

 そのような巡礼者にとって、イスラム圏からわずか20キロの距離にあるロードス島の病院は、いざというとき最も安全で、しかも、最も高度な治療を期待できる施設であった。

 この時代の南欧風の邸宅がみな、そうであったように、門を入ると中庭があり、中庭から2階の回廊へと直接に上がる階段がある。

 そのわきには、オスマン帝国軍の大砲の丸い石の砲弾が無造作に置かれていた。

 中庭を見下ろす2階の回廊も、質実にして静謐の趣がある。

 この雰囲気は、キリスト教の修道院のそれに似ている。

 聖ヨハネ騎士団の騎士には、修道院の僧と同じ規律が課せられていた。病院の建物も自ずから僧院の趣があるのだろう。

 病人が収容され、治療を受けた大部屋がある。

 「専属の医師団は、内科医2人と外科医4人で構成され、看護人は、1週に1日の病院勤務を義務付けられている騎士たちが受けもつ」。(同)

 「天井が高く広々した大部屋には、個人ベッドが並び、100人まで収容することができた。各ベッドのまわりには、カーテンを引けるようになっている」。

 「治療費は、患者の貧富に関係なくすべて無料で、個室でも部屋代はとられない。食事も、これまた全員平等で、しかも無料で、白パンに、葡萄酒もつく肉料理に、煮た野菜というコースで、当時ではなかなか豪勢なものであった。そのうえ、麻の敷布と銀製の食器も使える。これらは死去した騎士たちの遺物なので、敷布も銀食器も、西欧有数の名家の紋章で飾られている」。(同)

 聖ヨハネ騎士団は、西欧貴族の子弟によって構成されている。息子を騎士団に送った親は、息子を気遣って多額の寄進をする。親ばかりではない。劣勢であった対イスラムの最前線に立って戦う貴族の子弟に感動し、多くの貴族が多額の寄進をした。

 騎士団は金融業者にその資金の運用を委ねたから、彼らの資金は王もうらやむほどに豊かだった。

 21世紀の今も聖ヨハネ騎士団には8千人が所属し、国土なき国家として国連のオブザーバー国にもなっている。ただし、「聖戦」はやっていない。その豊富な資金を使って、今も医療行為や医療研究が行われている。

 大部屋の壁には小さな出入口が連なり、その中は小部屋になっていた。墓室のようだった。

 博物館としては、絵画、陶器、彫刻、墓碑などいろいろの展示品があったが、この博物館の一番の人気は通称「ロードスのビーナス」と呼ばれるビーナス像だ。

 

 

 英語版の説明によると、「アフロディーテの沐浴の小さな像」とある。

 BC3世紀の彫刻家Doidalsasの作品をBC1世紀に複製したものらしい。複製されたのはローマの共和制の時代である。このようなやや小型の彫刻は個人の邸宅に置かれたと書かれている。

  美の女神アフロディーテ(ビーナス)の像として最も有名なのは、エーゲ海のミロ島で発見された「ミロのビーナス」だろう。今、パリのルーブル美術館にある。

 だが、ミロのビーナスは端正すぎて、私などには面白みがない。私がこれは美しいと感動したのは、彫刻ではなく絵画だが、フィレンツェのウフィツィ美術館にあるボッティチェリの「ビーナス誕生」だ。美人でなく、美女。エレガンスな女性像である。

 「ロードスのビーナス」は、可愛い。ロードスのビーナスか、ミロのビーナスか、どちらかを差し上げましょう、と言われたら、躊躇なくロードスの方をいただいて、わが邸宅に飾りましょう。

 回復してきた病人が2階にある病室からそのまま足を運べるよう、趣の異なる小さな庭園もあった。

        ★

< 改めて、聖ヨハネ騎士団の略歴 >

 「いまだイェルサレムが、イスラム教徒の支配下にあった9世紀の中頃、イタリアの海洋都市国家アマルフィ、ピサ、ジェノヴァ、ヴェネツィアの中で、最も早く地中海世界で活躍し始めていたアマルフィの富裕な商人マウロが、イェルサレムを訪ねる西欧からの聖地巡礼者のために、病院も兼ねた宿泊所を建てた。

 その後聖ヨハネ騎士団の紋章になり、現代でも使われている8つの尖角をもつ変形十字は、もとはといえばアマルフィの紋章であったのである」。

 その後、1099年、第一次十字軍が、艱難辛苦の末にエルサレムを陥落させて、「エルサレム王国」を建設する。その激戦の過程で、アマルフィの商人の病院は、西欧貴族の子弟による軍事組織に変質していった。

 1103年、時の法王はこの組織を「宗教と軍事と病人治療に奉仕する宗教団体として認可した。これより、『聖ヨハネ病院騎士団』と称されるようになる」。(同)

 「聖ヨハネ病院騎士団」が正式名称。その後、法王から赤字に白の十字架を縫いとりした軍旗を授けられる。どこの国王にも貴族にも大教会にも所属しない、法王直属の自治的な組織であった。

 だが、「エルサレム王国」はイスラム勢の攻勢によって次第に追い詰められ、建国200年後の1291年に、最後まで戦い続けた聖ヨハネ騎士団も含めて、パレスチナの地から地中海へ追い落とされた。

 1308年、聖ヨハネ病院騎士団は、弱体化していたビザンチン帝国からロードス島を奪取して、ここを本拠とした。小アジアからわずか20キロ弱の距離で、キリスト教徒の対イスラムの最前線であった。

 イスラム圏ではオスマン・トルコが勢力を増し、スルタン・メフメット2世の1453年にはビザンチン帝国を滅亡させる。このあとメフメット2世は、ロードス島に10万の大軍を送って聖ヨハネ騎士団をせん滅しようとしたが、聖ヨハネ騎士団は3か月の籠城戦の末これを撃退した。

 1522年、オスマン帝国は最盛期を迎えようとしていた。若きスルタン・スレイマンは再び10万の大軍をもって自ら出陣し、ロードスを包囲する。 

       ★

騎士通りから騎士団長居城へ

 聖ヨハネ騎士団の病院を出て、西へ、小石を敷きつめたゆるやかな登り坂を行く。騎士団長の居城に向かう通りで、いつの頃からか「騎士通り」と呼ばれていた。

 

 「騎士通り」と呼ばれるのは、「イタリアとドイツ、そして普通はフランスとだけ呼ばれるイル・ド・フランス、それにアラゴンとカスティーリアが同居しているスペイン、最後にプロヴァンスと、各国の騎士館が道の両側に並び建っているからである」。

 「他に、病院の正面と対しているイギリス騎士館と、造船所に近いオーヴェルニュ騎士館があるが、2つともひどく離れたところにあるわけではなく、ために、市街では最も高所に建つ騎士団長の居城を中心としたこの一帯に、騎士団の主要建物が集中しているといえた」。(同)

 人気のない「騎士通り」のゆるやかな坂道を登りきると、騎士団長の居城の正面に出た。

 騎士団長は、騎士による選挙によって選ばれた。選ばれた歴代の騎士団長は、百戦錬磨、年齢とともに騎士たちの信望を集めるようになったベテラン騎士である。騎士たちの選挙によって選んだが、選んだあとは、騎士団長が下す判断、命令には絶対的に服従した。「服従」は騎士団の3つの徳目のなかの1つであった。

 居城の前の広場に立って、騎士団長居城の正面を見上げれば、その威容に圧倒されるばかりである。

 建物最上部には胸間城壁を備え、正門は堂々たる2つの円筒櫓によって守られている。      

 「この門をくぐりぬけると、一隊が丸ごと収容できそうな玄関になっており、その向こうに明るい陽光のふりそそぐ広い中庭が眺められた」。

 中庭から建物の中に入ると、有名な大階段がある。騎士たちが報告や連絡のために、ここを上り降りしたのであろう。また、各国騎士団の長らを集めて会議が開かれた大部屋もあり、さらに、それに続く各部屋も、置かれている調度類も、絢爛豪華であった。 

 

   ただし、この居城も、ロードス島のイタリア統治時代に修復され、ムッソリーニが別荘にしたという。皇帝気取りだったのだろう。

 だから、少なくとも、今、見ることのできる内装や調度品は、聖ヨハネ騎士団長の居城をそのまま伝えているとは言えない。

      ★

 各室をざっと見て回って、外に出ると、5月の明るい太陽がふりそそぐ旧市街があった。

 商店やタベルナが連なる街並みは観光地そのもので、騎士の鎧や兜や大槍も、今はコマーシャルベースである。

  世界のどこの観光地でも、土産屋にはその類のミニチュアの玩具が並んでいる。

 パリに行けばエッフェル塔のミニチュアが店頭に並び、奈良に行けば五重塔や鹿のミニチュアがあり、京都に行けば新選組の衣装のミニチュアがショーウインドーを飾っている。

 さて、次の行動の前に、とりあえず、どこかで昼食を食べなければならない。

 ( ②へ つづく )

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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フェリーに乗ってコス島へ … わがエーゲ海の旅(11)

2019年08月11日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

  ( コス島の聖ヨハネ騎士団の城壁 )

塩野七生『ロードス島攻防記』から

 「コスはレロスよりよほど大きな島だが、この島の守りもロードス島同様、島の端にある港に接した城塞に集中している。

 このコス島の港から対岸に迫る小アジアの西端までは、わずか10キロの距離しかない。だが、この10キロの間に横たわる海こそ、コンスタンティノープルからエジプトやシリアへ向かう船が、よほどの大船でもないかぎり、絶対に通らざるを得ない海峡なのだった」。

 ロードス島とその出先のコス島は、「イスラム教徒にとっては、蛇のねぐらであった。この『蛇たち』を、つまり海賊化した騎士たちを、古代からの伝統であった航海術によって助けたのが、ロードス原住のギリシャ人である」。

        ★

ドデカニサ諸島のこと >

 時代は下って18世紀以後 …… オスマン帝国下のギリシャに、新市場を求めてヨーロッパの商人たちがやってくるようになる。交易をすれば大きな富を蓄えるギリシャ人も出てくる。古代からギリシャの国民性は海上交易を得意とした。富を蓄え豊かになったギリシャの貿易商たちは、やがて「反オスマン帝国」で立ち上がっていった。

 海上貿易で巨万の富を得たサロニコス諸島のイドラの商人たちも、自分たちの持ち船を武装させて、1821年に始まったギリシャ独立戦争に参戦した。(「エーゲ海1日クルーズ」の項参照)。

 1830年、オスマン帝国の弱体化をねらう列強国の介入もあって、ギリシャは建国する。

 しかし、オスマン帝国の支配下に取り残された地域も多く、しかも、弱体化していくオスマン帝国の領土をねらうロシア、イギリス、フランスなど列強の思惑もあって、ギリシャの内政は混乱し続けた。

 1908年には、小アジアからわずか10キロ少々の距離で南北に連なる「ドデカニサ諸島」も、オスマン帝国に反旗を翻して立ち上がった。

 「ドデカニサ」とは、12の島という意味らしい。ドデカニサ諸島の一番南に位置する大きな島がロードス島である。島はもっとたくさんあるのだが、オスマン帝国に反旗を翻した島々が12島であったから、こう呼ばれるようになった。

 だが、オスマン帝国の支配の後も、列強の思惑もあってドデカニサ諸島はイタリアに支配された。

 ロードス島を含むドデカニサ諸島がギリシャに返還されたのは、12の島が立ち上がって約40年後の1947年のことである。

         ★

聖ヨハネ騎士団のコス島へ >

 ドデカニサ諸島を巡る定期便は、1日1便、一番南に位置するロードス島から出ている。運営しているのは「Dodekanisos Seaways」という船会社である。

 ロードスのコマーシャル・ハーバーを朝8時30分に出航し、シミ島、コス島などを経て、パトモス島まで行く。パトモスで折り返した船は、同じ港に寄港しながら再びロードスまで帰ってくる。ロードスに帰り着くのは午後6時30分だ。

 折り返しのパトモス港を含め、それぞれの港での寄港時間はわずか5分。だから、どの港であろうと、一度船を降りたら、戻ってくる船を待つしかない。

 パトモス島は昨年の「トルコ紀行」にも書いたが、12使徒のうちイエスの最も若い弟子ヨハネが「黙示録」を書いたという島である。ちょっと心ひかれる島だが、観光するには1泊しなければ無理である。

 それで、今回の旅の本来のテーマに戻って、聖ヨハネ騎士団の出先の城塞があるコス島へ行ってみることにした。

 ロードスを8時30分に出て、シミ島を経てコス島には10時55分に着く。

 帰りの船がコス島に着くのは、午後4時だから、その間の5時間をコス島で過ごすことになる。

 「Dodekanisos Seaways」には、ネットで予約した。

 一昔前なら大手の旅行業者に頼んでも断られたかもしれないエーゲ海のローカルな島の船会社に、個人で簡単に予約できてしまうのだから、世界のグローバル化の勢いはすさまじい。 

     ★   ★   ★

フェリーに乗る >

 今日は、5月17日(金)。

 8時30分出航だから、昨日より早い。しかも、北のマンドラキ港ではなく、南のコマーシャル・ハーバーからだから、少し早起きしてホテルを出た。

 今日も朝からいいお天気だ。   

   コマーシャル・ハーバーの船会社のオフィスで予約を確認してもらい、繋留していた船に乗船する。

 船はフェリーで、車もすでに2、3台載っていた。

 昨日のリンドス行の船は、ロードス島の海岸に沿って東海岸のリンドスまで行くツアーボートだったが、今日は島から島へと言わば外洋を行く定期便だから、昨日の船よりかなり大きい。

 船室も広々としていた。

 とりあえず船室に坐って、出航を待った。

 フェリーは動き出した途端、上下に激しく揺れた。こんな調子でコス島まで行くのかと驚いたが、すぐに静かに進みだし、ロードスの街を離れていく。

 

 船室の座席数と比べて、乗客はかなり少なかった。5月はエーゲ海の島々にとって、やっとシーズンインしたばかりなのだ。

 観光客だけでなく、ロードス島に働きに来て、1週間ぶりに故郷の島に帰るといった感じのジャンパーを着た体格のいいおじさんたちも乗っていた。

                ★

美しいパステルカラーのシミ島 > 

 ロードスから北へ約24キロ。1時間足らずでシミ島に着いた。 

 船上から眺めるシミ・タウンは、パステルカラーの美しい街だった。

 一昨日、マンドラキ港を歩いていたとき、リンドス行のツアーボートの予約を受付るテーブルを見つけたが、同じようにシミ島行きのツアーボートの予約をとっているテーブルもあった。

 こんなに美しい街なら、ツアーボートが出ていても不思議でない。

 ただ、シミ島は、リンドスのアクロポリスのような観光すべき遺跡があるわけではなく、この小さな港町を出ると、あとは透明度の高い入り江や素朴な漁村しかないらしい。

 フェリーの観光客は、みんなデッキに出て、夢中になってこの美しい街を撮影していた。

        ★

聖ヨハネ騎士団の城塞 >

 ロードスから2時間半。コス島の埠頭に着いた。

 10数人ばかりの観光客と、労働者風の地元の人も降りた。

 エーゲ海の中でも、ローカルなロードス島よりさらに田舎のコス島にやってくるのは、何が目的??

   訪れる人々の多くは、西欧系のリゾート客だ。今はまだ訪れる人は少ないが、夏のシーズンに入れば、船の着くコス・タウンと各ビーチの間を頻繁にバスが行き来するらしい。自然のままのエーゲ海が魅力なのだ。

 ただ、コス島にも規模はごく小さいが、古代ギリシャ時代の遺跡も残っている。

 コス・タウンのすぐそばに、「古代アゴラ」の跡がある。古代のコスの町の中心街の跡だ。

 また、この島は、「西洋医学の父」と呼ばれるヒポクラテスが生まれた島だ。お医者さんなら誰でもその名は知っているのだろうが、BC5~4世紀ごろの人である。

 今回行くつもりはないが、コス・タウンから4キロほど奥に入ると、「アスクレピオンの遺跡」がある。そこはヒポクラテスが創建した病院兼医学校があった所とされ、また、医療の神アスクレピオスを祀った神殿や柱廊の遺跡がわずかだが残っているそうだ。アスクレピオスを祀った神殿は、昨年訪ねたトルコのベルガモにもあった。

 そして、コス島の3つ目の魅力が、聖ヨハネ騎士団の城塞である。

 フェリーが着いた埠頭のすぐ目の前に、城壁が続いていた。

 この島に城塞が築かれたのはビザンティン帝国時代で、オスマン帝国への脅威からだった。

 しかし、オスマン帝国は、1453年にビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させ、さらにビザンティン帝国を構成していた諸国を制圧していった。

 1480年にはロードス島にも、10万の大軍が遠征してきたが、聖ヨハネ騎士団は3か月に渡る攻防戦の末に撃退した。

 オスマン帝国がこのまま引き下がるとは思えず、騎士団はロードスの城塞を大砲の時代にふさわしく近代化し、また、コス島の城壁の外側に、より頑丈な外壁をめぐらせて二重の城壁にした。

 1517年には、オスマン帝国はエジプトを征服し、その結果、イスタンブールとエジプトを結ぶ商航路がつくられる。それは、オスマン帝国が東地中海をわが内海にすることでもあった。

 この商航路に立ちふさがったのが、ロードスとその出先のコスに根城を置くいわば海賊化した聖ヨハネ騎士団だった。 

        ★

 城壁の中に入れば、少し高い所から海や街を望むことができるらしい。まずは、城壁の中に入りたいと思って、城壁に沿っててくてくと歩くが、入場口が見つからない。

 コス・タウンの観光案内所に行って尋ねてみようと思ったが、案内所もまだオフシーズンで、閉鎖されているようだ。

 歩き疲れ、どうしたものかと思っていると、にぎやかなコス・タウンの道路わきから観光トレインが発車しようとしていた。

 とりあえず、これに乗って、町の主な見どころを一巡りしてみよう。

 何か興味をひくものがあれば、あとでもう一度見学にきたらよいと思ったのだが …… 観光トレインから見るコスの町の景色は、ローカルな商店街や住宅街ばかり。住宅街の一角に小さな遺跡があったりするが、いずれも雑草の中に礎石や大きな石がごろごろと置かれているだけで、よほどのマニアでない限りわざわざ見学に来るような所ではなかった。

 30分ほどかけて町をトコトコ走り、コス・タウンに戻ったとき、車掌の女性に騎士団の城塞の入口はどこかと聞いてみた。

 すると、2017年の地震で崩れて、危険なのでクローズになっている、という答え。

 ギリシャもトルコも地震の多い国なのだ。ロードスのあの巨像も地震で倒れた。

 日本で見たネットでも、ローカルなエーゲ海の小島の情報は少なく、こういう状況になっていようとは全く知らなかった。

   さっきフェリーが着いた埠頭から、入り江になってコス・タウンの港があるが、繋留されている船はあっても、出入りしている船は全くない。この港もクローズ状態なのかもしれない。

        ★

 やむをえず、観光客で賑わっているコス・タウンのタベルナに入って、おそい昼食をとった。

 ウエイターの若者との会話。

 どこから来たの?? ── 日本から。

 日本はすごいね。ドイツと並んで、世界のトップクラスの技術立国だ ── いや、今では中国や韓国に追いつかれているよ。

 そんなことはない。日本の自動車や電気製品は素晴らしい。まだ追いつかれていないよ。料理はこの店が一番だけどね。(笑い)

 華やかなサントリーニ島などと違って、ローカルなロードス島や、さらにローカルなコス島には、中国人観光客も押し寄せて来ない。

 しかし、ギリシャが世界に誇ったアテネのピレウス港は、既に中国の国有企業に買い取られている。ヨーロッパを席巻しているサムスンの製品は、この若者も知っているだろう。

 日本びいきなのかもしれない???

        ★

コス島散策 >

 昼食後、コス・タウンの周辺を散策してみることにした。 

  歩いていると、「ヒポクラテスの木」があった。

 プラタナスの年老いた巨木だが、昔、この木の下で「西洋医学の父」と言われるヒポクラテスが人々に医学を説いたのだという。

 ちなみにヒポクラテスはBC460年ごろに生まれたとされるから、そうなると、この木の樹齢は2500年以上になる!!??

 その真偽はともかく、日本の著名な大学の医学部や大学病院などにも、この木の子孫が植えられているそうだ。医学の世界では、伝説上の木なのだろう。

 ヒポクラテスという人は、初めて医術を迷信や呪術から切り離して、臨床と観察を重んじた人らしい。また、弟子たちに「ヒポクラテスの誓い」をさせた。そこには、医療に当たって自由人と奴隷とを差別してはいけないとか、往診した家で知った秘密を他に漏らしてはいけないなどという医師の倫理が書かれている。

 しかし、ヒポクラテスの前にヒポクラテスはないのだが、ヒポクラテスの後にもヒポクラテスはなかったらしい。つまり、中世を過ぎ、ルネッサンスに至らなければ、ヨーロッパにヒポクラテスの医学を継承する者は出なかった。

 ただし、それはヨーロッパ世界のことで、ヒポクラテスの医学を含め、古代ギリシャ・ローマ文明を継承したのは、イスラム圏であった。

木村尚三郎『西欧文明の現像』(講談社学術文庫)から

 「ギリシャ・ローマ文化と西欧世界との間には、本来きわめて深い断絶があった」。

 「西ヨーロッパがプラトンやアリストテレスの著作を知ったのは、12世紀のことであり、それもイスラム教徒を介してのことだった。

 すなわち、8世紀のはじめから10世紀はじめまで、ヨーロッパで最も高い文化をきずきあげていたのは、イスラム教徒によるスペインの後ウマイヤ朝であった」。

 「… 首都コルドバは人口50万から80万、…… 図書館数70にのぼったといわれる。そしてカリフ図書館の蔵書数40万~60万巻、蔵書目録だけでも44巻もあった。

 当時のコルドバは、もちろんヨーロッパ一の大都会であり、道路は舗装され、夜は街灯がともっていたという」。

         ★

 ヒポクラテスの木から、「古代アゴラ」と呼ばれる遺跡のある一角へ入った。

 『歩き方』には、ヘラクレスの神殿の跡とかアフロディテの祭壇の跡があると書いてある。

 

 しかし、見る人が見れば面白いのだろうが、素人にはいささか殺風景な遺跡だった。英語の説明版もあったが、ちょっと読めない。

 「古代アゴラ」の一角を抜けると、ピンクのドームと白い壁のギリシャ正教の教会があった。説明版があったから、何か由緒のある教会なのだろう。

 ギリシャに来て思うのは、イタリアやフランスの聖堂と比べると、こちらの方がずっと小さいことである。

 オスマン帝国の支配の下、キリスト教信仰は許されてはいても、西欧圏のカソリックのような巨大な権力・財力を持つことは到底許されなかったのだろう。

 だが、オスマン帝国からの独立戦争を戦うアイデンティティの一つとなったのはギリシャ正教である。今、ギリシャ正教は国教で、国民の98%が信者である。

 カソリックやプロテスタントと違って、教義に「原罪」はないらしい。人はみな善なる存在として生まれてくるのだそうだ。オスマン帝国の圧政に加えて、教会からも「お前たちは罪びとだ」などと責められたら、人々は救われようがない。

 教会の先は、道路を隔てて、海。

 たいして見学する所もないので、エーゲ海のほとりでのんびり時間を過ごした。

 海岸で遊んでいる家族がいた。子どもはよく日焼けしていた。 

 ドデカニサ諸島の中でも、ここはトルコとの距離が最も近い島の1つである。向こうに見えるのは、トルコかもしれない。

 見るべき何もない島で、半日、のんびり過ごした。ツアーの場合は言うまでもないのだが、個人の旅でも、私も日本人だから、対象はしぼりつつも結構、見学して歩く。

 海外旅行に来てこんなにのんびりしたことはないが、これはこれで楽しかった。── ここはエーゲ海なのだから。

         ★   ★   ★

 マンドラキ港と月 >

 午後6時半、コマーシャル・ハーバーの岸壁に着いた。

 海沿いの道を歩いて、マンドラキ港の北の端まで帰る。

 黄昏時のマンドラキ港の景観は印象的だった。

 鹿の像とセント・ニコラス要塞、海の色、空の色、すべてが絵のようだ。 

 風車の上空に、今日も月がかかっている。今日が満月なのかもしれない。或いは、十六夜の月だろうか。

 

 やがて太陽も完全に沈み、セント・ニコラス要塞の灯台が明かりを灯した。

 いつまでも去りがたい景色だった。

        ★

 今日は、コス島の中を散策したから14000歩。

 明日は、ロードス島最後の1日だ。1日かけて、ロードス・タウンの旧市街と聖ヨハネ騎士団の要塞を見学する。

 時間があれば、ロードスのアクロポリスにも行ってみたい。そこも、コスの遺跡と同じように、寂れて、ほとんど顧みられなくなった遺跡なのだが、中世の前には、古代があった。古代はロードス・タウンの外である。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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旧市街と「ママ・ソフィア」と満月

2019年08月03日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

世界遺産の旧市街 >

 マンドラキ港から海沿いの道を歩いて旧市街に入った。海と海沿いの城壁の間をたどる気持ちの良い道だ。

 城壁で囲まれた旧市街は、中世ヨーロッパ都市の例証として世界遺産になっている。

 だが、我々が想像するようなヨーロッパ風の街 ──  例えばドイツのローテンブルグのようなメルヘンチックな街 ── ではない。

 小店舗が並んだ街並みとその雰囲気は、イスラム圏のバザールに似ている。

 大阪でいえば、「北」ではなく「南」、「南」というより通天閣界隈の庶民的な雰囲気に近いかもしれない。

 ただし、海に囲まれた世界遺産の小さな町だから、昭和40年代の通天閣界隈のように「こわい」お兄さんに話しかけられたり、いかがわしい店があるわけではない。

           ★

時計塔へ上がる > 

  メイン・ストリートのソクラトゥス通りを歩き、その先の時計塔に上がってみた。

 

 通りから狭くて急な階段を上がると、喫茶風のテラスになっていて、さらにその上に時計塔が建っていた。

 入場料に喫茶代も入っているというので、グラスワインを注文した。快い疲れと、お腹もすいていて、ほんのりとほろ酔い気分になった。今日は、中身の濃い充実した1日だった。遥々とやって来た甲斐がある。

 時計塔の階段は高くはないが、窮屈で、緊張した。もともと物見の人が昇っていた階段だろう。小さな窓からカメラを構えるのも容易ではなかった。

 聖ヨハネ騎士団の城塞の向こうに薄く見える山並みは、小アジア、即ちトルコ共和国に違いない。

 時計塔のそばにあるスレイマン・モスクは、今は使われていない。国旗の青と白の十字が示すように、この国はギリシャ正教の国である。それが、オスマン帝国から独立するときのアイデンティティの一つだった。

        ★

タベルナ「ママ・ソフィア」

 『地球の歩き方』は重宝しているが、本に掲載されているレストランに行くことはない。そもそも『歩き方』のレストラン情報は古い。

 ただ、『ギリシャ』編のロードス島の項に載っている「タベルナ・ママ・ソフィア」は、ネットのブログにも登場する。家族経営の奥さんが日本人で歓待してもらったとか、生ウニがとても美味しかったとか … とても評判がいい。とにかく新鮮な海の幸が食べたくて、行ってみた。

 ちなみに『地球の歩き方』には、「ママ・ソフィア」についてこんな風に書かれている。

 「時計塔の真向かいにある1967年創業の老舗タベルナ。現在は創業者ソフィアさんの息子と孫が中心になって営業している。孫のソティリスさんは日本留学経験もあり、妻の智子さんもいるので日本語もOK。毎年通っているファンも多く、味は定評がある」。

  2世代の家族が働いていた。そのなかのソティリスさんだろうか? 40歳ぐらいの男性が、流ちょうな日本語で丁寧に話しかけてくれた。

 それで、年とともに少食になって、レストランの食事の量の多さにいつも困っている。申し訳ないが量を少なくしてほしいと言ってみた。すると、よくわかります。料理を注文していただいたら、量は私の方で調整します、と言ってくれた。それで、メニューを見ながら、2、3の注文をした。

 グラスワインを注文すると、それは、「私からのサービス」にさせていただきますと言う。「店」ではなく、「私」だった。

 まるで一族の中の年配者に対するように親しみと敬意をもって接してくれているのがわかる。 

 料理は、本当に美味しかった!! 何度もヨーロッパの旅をしてきて、こんなに「美味しい!!」と思ったことはない。

 レモンをしぼって食べた生貝の皿は、最高だった。これだけでも、この店に来た甲斐があった。

 料理の量も腹8分目。個人旅行でヨーロッパのレストランに入って、こんなに完食して満足したことはない。

 最後にメニューを見ながらデザートを注文しようとすると、デザートも私からのプレゼントとして用意していますから、おまかせくださいと言う。そして、幾種類ものジェラードやケーキを美しく盛り合わせた皿が出された。

 ギリシャコーヒーも美味しかった。

 サービスしてもらった分は、チップをプラスした。それでも、驚くほどリーズナブルだった。

 最後に、美しいお辞儀とともに送り出されたが、本当に気持ちの良い接待だった。「明後日、もう一度来ます」と言って別れた。

 入った時にはほとんどだれもいなかったテラス席も、食事が終わるころにはほぼ満席になっていた。        

        ★

ロードス島の満月 >

 時刻は黄昏時。ますます賑わう通りに出て、さてホテルに帰るには右か左かと、一瞬、方向感覚がわからなくなって立っていたら、西洋系の上品なマダムに突然、話しかけられて驚いた。誰だっけ??

 笑顔で、顔を上に向け、指さして、こちらに何か言っている。

 あっ、満月だ。ちょうど、我々の立つ位置から見ると、暮れる前の美しい濃紺の空をホリゾントにして、モスクの尖塔の真上に満月がかかっていた。

 歩いていたマダムはそれに気づき、感動して思わず立ち止まり、たまたま横にぼっと立っていた私に教えたのだ。

 満月を見ながら海辺の道を帰った。

  ホテルのテラスから月は見えなかったが、すっかり暗くなった夜空に、黒い海と教会の塔が見えた。暗くて無理かと思いつつ、昨日と同じ角度でシャッターを押したら、何とか写っていた。立派なカメラなのだ。

 教会の塔が、アニメのお化けの顔みたいだ。

 今日の歩数は10000歩。適度な運動だ。

 ただし、船の中はのんびりしたが、汗をかいて丘を登り、最後は駆けるように丘を下った。

 明日はロードス島を出る。コス島まで、また、日帰りの船の旅だ。 

 

 

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つづき> リンドスのアクロポリスと群青の海② … わがエーゲ海の旅(9)

2019年08月01日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

 オスマン帝国がロードス島に大軍を侵攻させる直前、聖ヨハネ騎士団長は、出先であるコス島の砦に決戦前の最後の指令を伝える軍船を派遣した。

 派遣されたアントニオ、オルシーニら若い騎士たちは、コス島を守備する同僚たちとの打合せを終え、ロードス島への帰路についた。

 「アントニオとオルシーニを乗せた快速ガレー船は、帰途も終わりまぢかになって漕ぎ手も勢いづいたのであろう。西の水平線に姿をあらわしたロードス島が、ぐんぐんと大きさを増す。

 船はアントニオも聴いて知っているリンドスの神殿跡を望む頃には、舵を北に切った。このままロードス島の沿岸を航行して首都の港に入るのが、東からくる船の常の航路になっている。

 リンドスの丘の上に白く輝く古代ギリシャの円柱の下には、騎士団の城塞があるが、そこで勤務することは自分にはもうなさそうだと思いながら、アントニオはそれを見上げるのだった」 (塩野七生『ロードス島攻防記』から)。

     ★   ★   ★

古代遺跡と群青の海 >

 白い家々の中の道を抜け、岩場に造られた石の階段を上がっていくと、アクロポリスの丘の「入場口」があった。入場料を払い、いよいよ丘の上へと登っていく。

 しばらく行くと、狭い階段の横の岩壁に彫られた三段櫂船のレリーフがあった。

 

   エーゲ海の北端の島、サモトラケ島から出土した「サモトラケのニケ像」と同じ作者が刻んだものではないかと言われている。

 ニケは、現代オリンピックのメダルの表側に描かれる勝利の女神である。スポーツ用品店の会社「ナイキ」も、ニケのことだ。

 「サモトラケのニケ像」は、今は、パリのルーブル美術館にある。

 個人的好みでいえば、ルーブル美術館の中で、「ミロのヴィーナス像」よりも、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」よりも、この作品がいい。

 2階から1階へ階段を降りていると、サモトラケのニケ像は、まるでスター登場というふうに、少し離れた中2階のテラスに姿を見せる。1階のフロアからも、大勢の人たちがこの「スター」を見上げている。

 像の高さは2.75m。台座の三段櫂船が2.01m。土台が0.36m。テラスに一人立つ姿は、圧巻である。

 多くの研究者は、「サモトラケのニケ像」の船と土台部分がロードス産の大理石で、ロードス島で制作されたと考えている。だが、ざくっと彫られた船の部分と違い、繊細な衣の襞を含む女神像も、ロードス島の同一の制作者によるものなのかどうか、その確証がないらしい。

        ★

 アクロポリスの丘を囲む城壁が現れ、岩場に造られた階段を上っていく。

 天気は極めて良く、ひと休みしたいが、その陰もない。

 まもなくアクロポリスの丘の上に出た。

 さらに、石の大階段を上がって、丘の上の一段高い所、これより上は空という所まで上がった。

 この礎石や石柱群によって囲われた一角が、BC300年ごろに建設されたアテーナ・リンディアの神殿の趾であろう。かつて神殿の中にはアテーナ女神像が祀られていた。

 アテーナ神殿の位置からも、群青の海が見える。

 

 神殿から石の大階段を降りると、海を見下ろす柱廊がある。見学者たちが列柱の下、遺跡の石の上に一列に腰かけて、海を眺めて休んでいた。

 振り返ると、降りてきた大階段があって、アテーナ神殿へと導かれるようになっている。

 海面から116m。そそり立つ岩山の上に造られた聖なる古代空間である。

 エーゲ海の昼の日差しは明るく、遺跡群と、遺跡の下に広がる青い海は、時の流れの中にできたエアポケットに封じ込められたように静かだった。

 丘の上には、他にも神殿の趾や、廃屋となった中世のキリスト教教会や、聖ヨハネ騎士団の城塞の一部などがあった。

 

 城壁の角から見下ろすと、入り江がハート形になっているのが見える。それで、人気の撮影スポットのようだが、無理な姿勢で撮影しようとすると、危ない。 

 ロードス島は、オスマン帝国の400年に渡る支配の後、1912年から45年にかけて、イタリアに支配された時期がある。ムッソリーニの時代とも重なる。

 このとき、リンドスのアクロポリスの復元作業が行われた。アテーナ・リンディア神殿もこの時に復元された。今、建っている柱廊や柱も、多くはその時に復元されたものだ。

 だが、ウィキペディアに、「現代の基準からすると、この復元は出土したものに関する十分な検証もせずに行われており、損害を与える結果になっている。近年、ギリシャ文化省の監督の下で、国際的な考古学チームが正しい復元と保護のために働いている」とある。

 イタリアは、向こうの遺跡の石をこっちの石とつなぎ合わせたり、コンクリートを使って復元作業をしたりしたという。

 そのころのイタリアは、ローマ帝国の後継者を夢見ていたのかもしれない。

 ゆえに、今の神殿の姿や柱廊の姿が、ギリシャ時代、ヘレニズム時代、ローマ帝国時代の本当に正確な再現だと思って見ない方がいい。

 ただ、私のような見学者は、考古学上の興味があるわけではなく、これがA神殿の趾、ここがローマ時代のB遺跡などと、いちいち確認したいわけでも、こと細かな細部に興味があるわけでもない。

 ただ、ここに、悠久の人間の歴史のあとを感じ取ることができれば十分である。

 だから、遺跡の一部を復元することによって、太古の姿を生き生きとイメージできるようになったのはうれしいが、それは象徴的な「遺跡の一部」だけでよい。

 たとえ、できうる限りの検証をしたうえであっても、埋もれた礎石を掘り起こし、倒れて遥かな歳月を経た石の柱をもう一度立たせることにどれほどの意味があるだろう。「復元」が、考古学の最終目的であるのはおかしい。

 「シチリアへの旅」の「牧歌的な古代遺跡セリヌンテ」にも引用したが、

 かたはらに/秋草の花/語るらく/

  滅びしものは/なつかしきかな

   (若山牧水)

である。

 ひとしきり丘の上を歩いているうちに、エーゲ海の風に吹かれて汗も引いた。

 船に戻る前に昼食を取らねばならない。それに … 体内の水分は汗で出てしまったとはいえ、トイレにも行っておきたい。

 丘を少し下りかけると、かつては丘を囲繞していた聖ヨハネ騎士団の城壁が現れて、壮観だった。

 来るときは白い家々の中の道をたどったが、帰りは海を見下ろしながら歩く海側の道を下った。

 海側の道は、野の道である。   

 野の道は、ロバが歩く道でもあるようだ。海とともに絵になる。

 おシャレなレストランがあったので、ここでおそい昼食をとることにした。

 海を見下ろすテラスのテーブルには、可憐な野の花が一輪。

 鄙(ヒナ)には稀なハイカラなレストランだと思ったが、メニューはギリシャ語だけで全くわからなかった。

 注文を聞きに来た若者と片言の英語で話しても、全く通じない。

 やむを得ず、隣のテーブルの人が食べているものと同じものをと頼んだが、それもなかなか通じなかった。

 待っても、なかなか料理が出てこない。通じているのかどうか心配になる。出航時間が迫ってきて、焦った。

 あわただしく食べ、急ぎ足で下って、なんとか出航の時間に間に合った。 

   行きの家々の白い壁の間を抜ける小道も良かったが、帰りの野の道は、また違った趣があって、楽しかった。

      ★

ロードス・タウンへ >

  

 船はリンドスの埠頭を離れた。ロードス・タウンへと進路を北へ取る。

 遠ざかって行くアクロポリスの丘。

 その下の白い家並みの左端の建物が、食事をしたレストランだ。

 遺跡として、アテネのアクロポリスほどには整備されていないが、その分、リンドスの丘の方が遥かな歴史の趣のようなものを感じることができた。

 何といっても、遺跡群から海を見下ろすところがいい。 

        ★

 途中、2カ所の海岸で短時間、停泊した。

 そのうちの1つの小島の断崖は、映画「ナバロンの要塞」のロケ地であったという。そういえば、嵐の夜、海から岩壁をよじ登る場面があったが、それにしては規模が小さいと感じた。

 海岸近くで、船から梯子が下ろされ、待ちかねたように、船中の男女が海で泳いた。

 ヨーロッパの人たちは、太陽の光や海が大好きなのだ。

 船には更衣室も、シャワーもない。船に上がると、椅子に腰かけて、塩水の付いた肌を水着ごと乾かしている。

     ★   ★   ★

 ロードスの城塞が見え、船はマンドラキ港の、朝、繋留していた場所に戻った。

 まだ、午後5時半。

 日没は8時だ。ホテルに帰るには早すぎる。旧市街に行ってみよう。

 ( このあと、次回へ )

 

 

 

 

 

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リンドスのアクロポリスと群青の海① … わがエーゲ海の旅(8)

2019年07月27日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

リンドスのこと >

 リンドスは、ロードス島の北端の町ロードスから、東海岸を55キロ南へ下がった所にある。

 路線バスで行けば1時間20分だが、船で行くことにした。片道2時間弱の船旅だ。

 リンドスの歴史は古い。古代において、ロードスは新興都市だった。

 リンドスのアクロポリスは、海面からの高さが116m。要塞のようにそびえる岩山の上にある。

 遠い昔、ドーリア人によって建設されたらしい。

 丘の上のアテナ神殿が壮麗な大理石造りになったのは、BC300年ごろである。

 

 その後、ロードス島の中心は、徐々に新興都市ロードスの方に移っていったが、ヘレニズム時代、ローマ帝国時代にも、リンドスのアクロポリスには相次いで新しい神殿が建設され、発展を続けた。

 たが、東ローマ帝国の時代になると、ロードス島は辺境の地となり、ヨーロッパ世界の支配的な宗教もキリスト教になったから、この丘はすっかり顧みられなくなっていった。

 時は流れて1309年、エルサレムから追い出された聖ヨハネ騎士団がロードス島にやってきた。彼らは本拠をロードスに置き、その出先として、リンドスのアクロポリスも要塞化して、海をわずかに隔てた小アジアに君臨するオスマン帝国と対峙したのだ。

 今、海上からアクロポリスの丘を見上げると、そこが神々のすむ聖なる地であり、また、天然の要害であったことがよくわかる。

 丘の上に立つと、古代ギリシャ時代、ヘレニズム時代、ローマ帝国時代、さらに聖ヨハネ騎士団の時代の遺跡が重なりあっており、群青のエーゲ海を見下ろすことができる。

 石の廃墟と紺青の海のコントラストは美しい。

 丘の麓には白い家々が集落をつくり、白い壁の間を縫うように石畳の道を上がっていけば、自ずからアクロポリスの丘に到達する。

 白い家々の下の海岸には透明度の高い海があり、海辺には、貸パラソルと寝椅子がぎっしりと並んで、遺跡なんかどうでもいいというふうに、若者や家族連れが人生のひと時を楽しんでいた。

 

     ★   ★   ★

マンドラキ港から船に乗る >

 5月16日(木)。

 ロードス島へ着いたのは昨日。

 着いてすぐに、新市街にあるホテルから、旧市街の一角を経て、南北に連なる2つの港のあたりを散策した。

 随分、よく歩いたと思った。

 ところが、今朝、ホテルを出てからマンドラキ港の北端に建つエヴァンゲリスモス教会まで数分もかからなかった。目と鼻の先なのだ。

 そういえば、昨夜、ホテルの部屋のテラスから、エヴァンゲリスモス教会の塔がすぐ近くに見えていた。 

 初めての道は、遠く感じる。一度歩いてみると、近くなる。

 一人で、犬と散歩する人がいる。

 昨日までいたアテネと比べると、なんという違いだろうと思う。朝の空気は爽やかで、海が広がり、気持ちがのびやかになる。

 昨日の午後、多くの観光客で賑わっていたマンドラキ港沿いのプロムナードも、まだ人影が少ない。

 ヨーロッパの観光客は、日本人のようにあくせくしない。せっかく旅に出たのだからと、宵っ張りの朝寝坊。目が覚めても、ホテルでゆっくりとおそい朝食を楽しむ。

 プロムナードを歩いて、ほどなく、昨日予約したリンドス行の船が繋留されている場所に着いた。名前を確認して乗船。

 乗客は30人余りだろうか。夫婦、アベック、子どもを含めた家族づれ。西欧系、中東系の人ばかりで、日本人はいない。

                     ★

リンドスへの船旅 >

 9時、出航。

 船がゆっくりと港を進んでいくと、昨日とは違った角度と高さから、ロードス・タウンを眺めることができた。

 埠頭の端に2頭の鹿のブロンズ像を載せた塔があり、ギリシャ海軍の軍艦も、大型フェリーも、たくさんのヨットも停泊し、セント・ニコラス要塞が朝の光の中に陰影をつくっていた。    

 聖ヨハネ騎士団がロードス島にやってきてから200年。この間にオスマン帝国は膨張し、1453年にはビザンティン帝国の首都コンスタンティノープルが陥落した。その直後、ロードス島は勢いに乗るオスマン帝国軍の攻撃を受けたが、聖ヨハネ騎士団はこれを撃退している。

 今やロードス島は対オスマン帝国の最前線であった。

 2度目のオスマン帝国軍のロードス侵攻は、帝国の最盛期をつくったスレイマンが皇帝になったときである。

 攻防戦は、周到に準備を進め、城塞を包囲した10万のオスマン帝国軍の砲撃から始まった。1522年8月1日であった。

 すさまじい戦闘は6か月に及び、双方、多くの死傷者を出して、ついにヨハネ騎士団はスルタン・スレイマンの「名誉ある撤退」の勧告を受け入れて降伏する。降伏文書の調印は12月25日に行われた。

 年が改まった1月1日、生き残った騎士団と、たとえ難民となってもオスマン帝国の支配下に生きたくないと決めた5千人のロードス住民が、船に乗って、当時ヴェネツィア領であったクレタ島へ向かった。

 「1523年1月1日、大気は肌に厳しかったが、空は蒼く晴れわたっていた」。

 「旗艦につづいて、他の船も1隻ずつ、船着き場を後にする。ロードスの城壁の内からは、誰が鳴らすのか、教会の鐘がいっせいに鳴りはじめた。

  船着場を離れていく各船の帆柱の上には、三角の形をした、赤い白十字の聖ヨハネ騎士団の戦闘旗が風にはためいている。船べりには、これも赤字に白十字の騎士たちの楯がずらりと並ぶ。その背後に、大槍を手にした騎士たちが立つ。

 これも、戦場に向かうときの、騎士団のやり方だった。

 堤防の上に並ぶ風車が、カラカラと乾いた音をたてていた。

 旗艦を先頭にした船の列が、軍港の入口をかためる聖ニコラスの要塞の前を通りすぎようとしたときだった。要塞から、砲音がひびきはじめた。スレイマンが命じた、礼砲だった。

 騎士たちは、無言で、離れていくロードス島を見つめていた。誰もひとこともなく、船上に立ちつくしていた。

 200年の間彼らの棲家であった、バラの花咲く島から、今去って行こうとしている。サンタ・マリア号の船尾に立つラッパ手が、鐘の音と礼砲にこたえて奏しはじめた。ラッパの音は、高々と、海面を伝わって流れていった」。( 塩野七生『ロードス島攻防記』から )

 島を退去していく騎士たちが船上から見た風景は、こういう角度からであったろう。

 聖ニコラス要塞も、風車も、昨日まで自分たちが寝起きした城塞の建物も、そして多くの戦死した仲間たちの遺骸も、無念の思いとともに、そこに残したのだ。

 「ただ、『蛇たち』の中でも、特別に猛毒をもった若い一匹の蛇を、フランス貴族をもしのぐ騎士道精神を発揮したあげく逃してしまったことに、その時はまだ、28歳の勝利者は気づいていなかった」。(同) 

 その後、彼らはシチリア島の先に浮かぶマルタ島に行き、マルタ騎士団と呼ばれるようになる。

 彼らは、歴史と文明のあるロードス島と違って、未開のマルタ島を一から要塞化していかねばならなかった。

 彼らがロードス島を去ってから、40年あまりの歳月がたった。

 あのとき、「28歳の勝利者」であつたスレイマンは、大帝と呼ばれるようになっていたが、1565年、地中海の覇権を握ろうと再び大軍をマルタ島に差し向けた。

 これを迎え撃った騎士団長は、ロードス島包囲戦を生き残り、無念の思いを持って島を去る船に乗っていた当時28歳のフランス人騎士ラ・ヴァレッタだった。「『蛇たち』の中でも、特別に猛毒をもった若い一匹の蛇」も、スレイマン同様、既に60代後半になっていた。

 40年後の戦いでは、10万の大軍をもってしても、この一戦のために完全に要塞化されたマルタ島を落とすことはできず、マルタ騎士団の完勝となった。

 その後の歴史の変遷の中で、騎士団はマルタ島から去り、今、マルタはマルタ共和国という小国として、世界から観光客が集まる島国として生きている。その首都の名は、ヴァレッタである。

       ★ 

海上からアクロポリスを見る >

 船中で、「エーゲ海1日クルーズ」のような余興はなく、乗客は船室やデッキで思い思いに過ごしていたが、群青色の海と、次々現れる小さな島々を眺めているだけで十分に楽しかった。

 島々は上空から見たように、灌木がまだらに生えているだけで乾燥していた。小さな無人の島が多いが、中にはリゾート用の施設のある島もあった。 

 

 退屈することもなく2時間が経ち、遠くにリンドスのアクロポリスの丘と白い家々が見えてきた。

 船はどんどん近づき、やがて奇怪と言っていいような岩山の上に、城壁や神殿の趾らしいものも見えてきた。

 神々の降臨する丘である。

 そして、古代や中世の時代であれば、ここを要塞化されたら、攻めようという気になれない天然の要害である。

 埠頭に船が着けられた。海岸に大きな石を落とし込んで固めただけの素朴な埠頭桟橋に上陸した。

       ★

アクロポリスの丘へ >

 貸しパラソルと寝椅子がぎっしりと並ぶ海岸の横を通り、白い家々の方へと上がっていった。

 

 ロバ・タクシーがあった。

 実は旅行前、5月とはいえ暑いアクロポリスの丘を登っていくのは自分の年齢では大変かと思い、ロバに乗ることも考えた。だが、読んだブログの1つに、不安定なロバの背からふり落とされて大ケガをしても、馬子のおじさんには何の保証をする力もないだろうと書かれていた。確かに!! 旅行保険にはもちろん入っているが、ロバタクシーから落ちて、打ちどころ悪く大けがをしたとき、保険会社はどう判断するのだろうなどと考えて、やはり自分の足で歩くことに決めた。

 子どもが2人、2頭のロバに乗って、先に行った。お母さんは、子どもだけ、と思っていたのだろうが、当然のことのようにロバのおじさんによって乗せられた。相撲取りに負けないぐらいの体重がありそうなお母さんだった。

 ロバは重過ぎてその場を動けないように見えた。もしかしたら、重さに反抗して動かなかったのかもしれない。(先に行った子どもと比べたら、こちらはひどすぎるよ)。動かないロバの背で、お母さんは、降りる、降りると1オクターブ高い声を出したが、ロバのおじさんはせっかくの6ユーロを失うわけにはいかないから完全無視。ただただロバを叱りつける。だが、重いお母さんを乗せた華奢なロバが、この狭い石畳のかなりきつい坂道を上がるのは、素人目にも容易でないと思われた。

 賢いお母さんは、そこを通りかかる各国の観光客の非難の眼が、痩せたロバでも、ロバのおじさんでもなく、すべて自分に向けられていることを察知し、降りる、降りると叫ぶが、ロバのおじさんはその訴えを全く無視し、ロバを叱りつけて動かそうとしていた。

 これはお母さんがかわいそうだと思ったが、そのあと、どうなったかは知らない。

 集落の中に入ると、狭い石畳の道にお土産屋さんやタベルナが並び、小道は曲がりながら高度を上げていく

 そして、いつしか土産屋やタベルナもなくなり、白い壁の道を、汗を拭きながら上がっていった。  

 

 相当に汗をかいて、見晴らしがよくなった。 

 

< 次回の②へ つづく >     

 

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薔薇の花咲く島・ロードス島へ … わがエーゲ海の旅 (7)

2019年07月20日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

塩野七生『ロードス島攻防記』から

 「ロードスの最も輝かしい時代は、アレキサンダー大王の死後からはじまったと言ってよいだろう。エジプトとの間の密接な通商関係が、この東地中海の小さな島に、エジプトのアレキサンドリアやシチリアのシラクサと並ぶほどの繁栄をもたらしたのである。古代世界の七不思議の一つとされる、ロードスの港の入口をまたいだ形の、巨像がつくられたのもこの時代だった。

 この銅製の巨像は、西暦227年(ママ)のすさまじい地震で崩壊してしまうが、古代世界の七不思議とは、エジプトのピラミッドをはじめとして、人間技では不可能と驚嘆された巨大な建造物であったから、ロードス島も、当時の最高の技術水準をもっていたにちがいない。

 今ではルーブル美術館にある『サモトラケのニケ』は、紀元前2世紀のロードス人の作といわれているし、… 今日でもロードス島の美術館には、古代ギリシャの香りを伝える芸術品がいくつか残っており、2000年の間に各地に散った作品がいかに多かったかを納得させてくれるのだ」。 

         ☆ 

2頭の鹿のブロンズ像 >

 日本では「世界の七不思議」と言われるが、これは英語の「Seven Wonder of World」の誤訳らしい。

 もともとは、BC2世紀の人フィロンが書いた「世界の7つの景観」のこと。フィロンの言った「世界」とは、古代の地中海世界である。当時、「世界」に存在していた7つの巨大建造物のことだ。

 現存するのは、ギザのピラミッドだけで、あとの6つは完全に消滅したか、或いは、遺跡がかろうじて遺っている。  

  その1つが、ロードス島にあった。「ロードスの巨像」と呼ばれる。

 エジプトのプトレマイオス朝の時代、ロードス島は大軍に包囲されたが、エジプトからの援軍が来るまで耐え抜いた。巨像は、戦勝記念として、リンドスのカレスという人が、大軍が残していった青銅の武器・武具を使って、12年の歳月をかけBC284年に完成させた。

 太陽神のへーリオスの像(或いはアポロ像)であったという。台座を含めると50m。ニューヨークの自由の女神像に匹敵する大きさだった。

 だが、建設から60年もたたないうちに、ロードス島を襲った地震で膝から折れて倒壊した。エジプトが再建の援助を申し出たが、王は断り、像の残骸はそのままにされた。

 その800年後のAD654年に、残骸はスクラップにされてすべて売り払われたから、今は痕跡も残っていない。

 今、マンドラキ港の入口には、2本の突堤が伸びていて、それぞれの突堤の先端に2頭の鹿のブロンズ像が立っている。鹿はロードス島のシンボルだそうだ。

 その2頭の鹿の位置に、巨像の両足があったとされ、長く信じられてきた。当時、入港する船舶は、この巨像の股をくぐらなければロードス港に入ることができなかった。

 この伝説は長く信じられてきたのだが、現在の研究では、その姿勢で立つには全長が大きくなりすぎて、到底、建設はできないとされている。

 それでも、2頭の鹿は、今もロードス島の人気スポットの1つである。

      ★   ★   ★

アテネ空港で >

 5月15日(水)。

 今朝は少しゆっくりし、アクロポリスの丘を眺めながらホテルの最上階で朝食をとった。

 そして、シンタグマ広場を9時50分発の空港バスに乗った。

 この旅に出るとき、不安なことが2、3あった。

 その1つは空港の往復だったが、安く、安全、かつ、時間もほぼ正確に行き来できた。ただし、これはホテルが空港バスの停留所に近かったことが大きい。

 アテネのタクシーも利用しにくかったが、昨日、歩き疲れて、ついに乗った。その経験では、悪評を克服しようとしているように思われた。乗車する前に行き先を聞かれ、運転手の方から値段を提示してくれた。ぼったくりはしませんということだ。その値段がいやなら、乗らなければいい。

 一番心配していたのは、アテネ ─ ロードス島間の飛行機。今まで、個人旅行でヨーロッパのローカル線に搭乗したことはない。

 関空からアテネへの直行便はないが、ルフトハンザ航空でチケットを買えば、関空 ─ ミュンヘン ─ アテネのチケットが買える。ミュンヘン ─ アテネ間は、ヨーロッパのローカル線との共同運航だが、当方はあくまでルフトハンザの客である。

 だが、アテネ ─ ロードス島間は、その間を運航するローカル線の航空チケットを自分で買って、搭乗しなければならない。

 それで、ネットの旅のブログを頼りに、アテネ ─ ロードス島間を運航する航空会社は、ギリシャ系の「Aegean Airline」であると知った。それで、航空券はそのホームページに入って購入した。席の番号まで確保したから、まず間違いないだろう。搭乗するとき飛行機に預けるパッケージの料金も取られた。

  Aegean Airlineは LCC (Low Cost Carrier) ではないが、競争の激しいヨーロッパの航空会社は低コストに抑えるために、効率化を徹底している。それで、人間だけでなく、機内預けの荷物にもお金がかかるのだ。逆に言えば、手荷物だけの人は、その分安くなる。

 ただし、無料で機内持ち込みできる手荷物の大きさや重量も、搭乗のときに厳しくチェックされ、少しでも基準を超えれば機内預けに回される。当然、その料金のほかに手数料も取られる。

 さらに、アテネ空港は狭く、チェックイン・フロアが混雑し、大行列ができるそうだ。その原因の一つは、エーゲ海の島々に飛ぶ飛行機がしばしば遅れるかららしい。異国の空港の人ごみの中で、電光掲示板を見ながらあてもなく緊張を強いられるのは、かなりイヤだ。

 さらに、自分でチェック・イン機を操作し、チェック・イン機から搭乗券とともに印刷されて出てくる荷札のタグも、自分でパッケージに貼って、窓口まで持って行かねばならない。とにかく、余裕をもって、2時間前には空港に行け、と書いてある。

 ── かなり気が重かったが、チェック・イン機の操作は何とかうまくいき、搭乗券も印刷されて出てきた。だが、 …… たぶん、パッケージへの荷札タグの貼り方を間違えたのだろう。荷物預けカウンターではねられた。

 それから右往左往して、結局、チェックイン・カウンターでやり直してもらって、何とかチェック・インできた。

 ただ、正確に言えば、右往左往したのではなく、させられた。

 空港のチェックイン・カウンターや、列車の窓口、ホテルのカウンターなどには、比較的若い女性が働いていることが多い。我々のような旅人が、訪問した国で触れ合うとしたら、まずこういう人たちだ。本人たちは意識していないだろうが、旅行者にとって、その国の看板のような存在である。

 実際、花のように美しい笑顔で、優しく、親切に応対してくれる人もいる。こういう人に、最後に「ボンボヤージュ」などと言って送り出されると、ほっこりして、心楽しい旅になる。

 ビジネスウーマン、という感じの人もいる。アフリカ系の女子などに多いタイプだ。たぶん、しっかり勉強して、このポストに就いたのだろう。ダークスーツをパリッと着こなし、てきぱきぱきと処理する。お愛想はなく、ビジネスライクだが、自分の仕事に誇りを持っている。

 そして、時々、いるタイプ。最初からふくれっ面して、不機嫌で、ぶっきらぼう。面倒くさそうで、質問しても無視される。どうしてこんな女子を、客の応対をするカウンターに置いているのかと思う。日本なら、「店長を呼べ!!」と怒鳴りつけられるだろう。まあ、日本の窓口にはいない。だが、異邦人の旅人としては、そんないやな「お嬢様」でも、仕事をしていただかなければならない。

 Aegean Airlineのチェックイン・カウンターで出会った1人も、このタイプに近かった。面倒くさそうに適当にあしらう。言われたようにしても、うまくいかない。「適当に」言っているだけだから。

 とにかくカウンターの人を変えて、やっとチェックインできた。

 あとは「薔薇の花咲く島」と呼ばれたロードス島へ。小さな飛行機で、1時間の空の旅だ。

        ★

 エーゲ海を飛ぶ >

 遥か上空を行く飛行機と海との間に薄く雲がかかっていた。すかっと晴れ渡った青い空と、その下の青い海と、島々の景観を期待していたが、ちょっと残念である。

 だが、瀬戸内海と違うことはわかった。

 群青の海の色は、瀬戸内海のものではない。灌木がまだらに生えるだけの乾燥した島々は、潤い多い日本の島々とは異質の世界だ。

 ウィキペディアによると、エーゲ海は、地中海を8つの海域に分けたなかの1つである。

 北と西はバルカン半島(ギリシャ)、東をアナトリア半島(トルコ)に囲まれた入り江状の海域。南には、その入り江に蓋をするように、クレタ島が横に(東西に)伸びている。

 トルコの沿岸まで、エーゲ海は、ギリシャの海である。

 古くは「多島海」とも呼ばれたそうだが、大小2500の島々が浮かんでいる。

 火山島が多く、クレタ島のような面積の大きな島には肥沃な耕地が広がるが、多くの島は農業に適さない。

 地中海性気候で、まばゆい太陽が輝く夏には、ヨーロッパの太陽に恵まれない地方から多くの観光客やリゾーツ客が訪れる。

        ★

塩野七生『ロードス島攻防記』から

 「エーゲ海の東南、小アジア(注 : トルコ) にいまにもくっついてしまいそうな近さに位置するロードス島は、南西から北東に向けて、まるでラグビーのボールを置いたような感じで浮かぶ島である。

   全島の面積は、1500㎢に及ばず、島の最も長いところを計っても80キロ、幅は、これもまた最も長いところで38キロしかない。島には背骨のように山脈が走っているが、高い山でも1200mが一つあるだけだ。

   耕地には、あまり恵まれていない」。

 「古代から、理想的な気候の地として有名だった。街中では、最も寒い2月でも、気温は10度を切ることはなく、最も暑い8月に入っても、陰であれば25度を越すことはまれだ」。

 「薔薇の花咲く島、という意味からロードス島と呼ばれるようになった」。

 「良港は、島の北から東にかけて集中していた。その中でもとくに、島の最北端にあるロードスと、島の東側の中頃に位置するリンドスが、古代の主要港とされてきた。首都はロードスである」。

        ☆

 ホテルを予約したとき、タクシーも予約した。空港バスは本数が少ない。タクシーは空港に常駐していない。田舎の空港なのだ。

 ドライバーが私のローマ字名を書いた画用紙を持って、待ってくれていた。

 ドイツやオランダやフランスは、地方もまた美しい。ある地方は小麦畑や牧場が広がり、別の地域ではブドウ畑が広がって、森や林があり、湖や川がある。

 空港からロードス・タウンへ向かう途中に見るロードス島の印象は、首都のアテネがそうであるように、どこかうらぶれて、荒れた感じで、景色に豊かさや潤いがない。耕地が少ないせいかもしれない。道路沿いには、小屋掛け風の食べ物屋や土産物店が点々とある。海沿いには、リゾート風のホテルも見える。

 「薔薇の花咲く島」は、ローズとロードスの語感の近さから、ヨーロッパ人が勝手に言い出した呼称のようで、バラが咲いているわけではないようだ。

 ただ、太陽の光や、心地よい風や、遥か古代から繰り広げられた数々の歴史は、ブナやモミやカラマツが鬱蒼とした寒い地方の森の民にとって、あこがれ以外の何ものでもなかったのだろう。

        ★

ロードス・タウン(新市街、旧市街)と2つの港周辺を歩く > 

 旧市街に車は(タクシーも)入れないので、変哲のないショップが並ぶ新市街の通りに面したホテルを予約した。ホテルから旧市街まで徒歩で10分ほどかかる。

 夕方までの時間、明日と明後日の行動のために確認したいこともあり、街の散策を兼ねて出かけた。自分で歩いてみなければ、異国の街の方向感覚や距離感はつかめない。

 まず旧市街入口近くにある観光案内所を探した。それらしい建物の入口は見つかったが、予想したとおり、まだ夏のシーズン前で、オープンしていない。

 次に、明日のリンドス行きのために、バスの発着場を探し、時刻表をもらった。

 本当は船で行きたいのだが、どこから船が出ているのか、或いはまだシーズンオフなのか、そういう情報も観光案内所で得たかったのだが、仕方ない。

 続いて、明後日のコス島へ行く船の乗船場とオフィスを確認するためにコマーシャルハーバー(商港)へ向かった。

 ロードス・タウンの東側に、2つの港が南北に並んである。

 旧市街の東にあるのがコマーシャルハーバー(元商港)。その北、新市街の東にあるのがマンドラキ港(元軍港)である。

 コマーシャルハーバーへ行くため、一旦、城壁の中、旧市街に入った。 

 突然、アラブ風の街が現れた。これが旧市街だ。20世紀の初めまでオスマン帝国の統治下にあったのだから、パリやウィーンとは全く違う。 

 小さな土産店やタベルナがぎっしりと軒を連ね、各国からの観光客が歩き、黒い衣をまとったギリシャ正教の神官もいる。この中世風の街並みが世界遺産である。

 旧市街から港の方へ出る城門を2つくぐった。城壁が二重になっているのだ。 

  広々とした港(海)側に出ると、旧市街を囲む城壁がよく見える。

 城壁の内側には、深い空堀もある。

 コマーシャルハーバーの埠頭に、「Dodekanisos Seaways」のオフィスを見つけた。

 コス島へ行く船は、オフィスの前の岸壁に着岸するので、それに乗ったらよいということも確認。

 これで、明後日の行動もOKだ。ホテルから船のオフィスまで、徒歩で15分はかかりそうだ。余裕をもって、ホテルを出る必要がある。  

   ホテルの方へ、海岸沿いの道を歩いて帰った。賑やかなプロムナードになっている。

 歩いていると、停泊している一艘の船の前で、若者が、明日、リンドスへ行く船のチケットの予約販売をしていた。

 こんな所に、あった 早速、説明を聞き、予約した。

 ロードス島の旅の記録を綴ったいろんな人のブログを読んだが、みんなリンドスへバスで行っている。そんななか、一人の女性のブログに、船で行ったという記事があった。

 ブログの中身も愉快だった。

 お母さんとのふたり旅なのだが、そのお母さんがなかなか活動的な人で、リンドス行の船もお母さんが見つけてきた。

 翌日、船に乗っていて、お母さんがいないと探していると、なんと操舵室の窓の中、船長さんといつの間にか意気投合して、横に坐って操舵の舵を握っていた!! まことにたくましいお母上で、読みながら笑ってしまった。ギリシャ語はわからなくても、意思疎通はできるのだ。

 予約した船は、明朝の9時に出航する。リンドスには2時間で到着。自由に3時間過ごして、船に戻る。帰りは風光明媚な2カ所の海岸で停泊する。わずかな時間だが、泳いでもらってもいい。午後5時30分に、ここに帰ってくる。

 OK!! これで、明日、1日の行動も決定だ

 マンドラキ港の景観は、なかなか印象的だった。

 突堤に、赤い屋根の3つの風車が並んで、景観に彩りを添えている。石造りの立派な風車だ。

 その先の海上には、不沈戦艦のように浮かぶセント・ニコラス要塞がある。オスマン軍は、この要塞の内側に入ってこられなかった。

 そして、2つの突堤の端と端の塔の上に、2頭の鹿のブロンズ像。

 突堤の陸側の付け根は、マンドラキ港の一番北端で、ギリシャ正教の教会と塔があった。

 エヴァンゲリスモス教会。エヴァンゲリスモスは、受胎告知のことらしい。

 教会の祭壇の位置までは入れなかったが、壁に描かれた幾枚かのフレスコ画の色合いが美しい。 

 その夜は、ホテルのレストランで夕食をとった。ビュッフェ形式だから、楽だ。宿泊者には値引きもあった。

 部屋のテラスから見ると、エヴァンゲリスモス教会の塔と、海が見えた。手前の建物も、国旗が掲げられているから、史跡なのだろう。

 今日の歩数は6000歩。

 とにかく、今日は、ローカルな航空会社の小さな飛行機に乗って、無事、エーゲ海の東の端の島までやってきた。  

      ★   ★   ★

< 閑話 : ウィキペディアについて > 

 「ウィキペディア」を、自分の百科事典として使っている。インターネットの良さの1つはウィキペディアですぐに調べられることにある。

 このブログを書くときも、家のパソコンを使いながら、横にスマホを置き、疑問に思ったことはすぐにスマホで調べる。その際、最も多用するのはウィキペディア。ウィキペディアがなければ、ものは書けない。

 以前は、ウィキペディアを簡単に信用してはいけないと言われたが、今はそんなことはない。

 各項目の記述者によって、記述の根拠となる参考文献・出典も明示されている。資料・出典が不十分な場合は、その旨、ウィキペディア側が明記して、誰か書き直してほしいと要請文が掲載される。何よりも、内容が不偏不党、穏当で、事典にふさわしい。

 ただし、外国人が書いたものを日本語に翻訳した中には、日本語として十分にこなれていない文章もある。

 もちろん、100%の信用を置くわけではないが、高いお金を払って買った百科事典も、今の時代、すぐ古くなる。100%の信用ができないのは、どんな学者の書いた本でも同じだ。その間合いを計るのが、使い手の力量というもの。

 一切、広告収入を得ずに運営している。だから、メールで寄付の依頼があると、1年~2年に1回くらいだが、2000円寄付する。百科事典をそろえることを思えば、安い使用料である。

 ウィキペディアを運営しているスタッフのみなさんには、頑張ってほしい。

 

 

 

 

 

 

 

 

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エーゲ海1日クルーズ (サロニコス諸島) … わがエーゲ海の旅 (6)

2019年07月14日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

 今日は「エーゲ海1日クルーズ」に参加。アテネに近いエーゲ海のサロニコス諸島の3島を巡る。

 船に乗っていればいいのだから、気楽な一日だ。

   いつも緊張している個人旅行だから (そこが、いいのだが)、こういう1日はありがたい。

 クルーズ船には、いろんな国からの観光客が乗っていて、みんな陽気に楽しんでいた。日本からも旅行会社の異なるツアーが3組も乗船していて、個人旅行の日本人と知り、珍しいものに出会ったかのようにあれこれ聞かれた。

 船旅のつれづれを紛らわすため、音楽バンドが出てきて演奏し、女性の歌手が歌った。リズミカルな明るい音楽で、たぶんギリシャかバルカン半島あたりの民謡調の曲なのだろう。

 しばらくすると、船客のおばさんたちが2人、3人とフロアーに出てきて、たちまち10人くらいになり、曲に合わせ適当な振り付けで踊りだした。年齢に関係なく、リズムに合わせて体を動かすことが身についているのだ。

 すると、さっきまで船内のコーナーで貴金属のアクセサリーを販売していた品のいい長身の美女が踊りに参加した。美女のダンスはプロフェショナルだった。こういう場面でおばさんたちとダンスするのも、彼女の職務のうちなのかもしれない。おばさんたちは、彼女の動きを真似て、手足を動かしている。

 日本からのツアーのおばさんたちも1人、2人が参加して、みなさん楽しそうだ。

 しかし、男性はついに誰も参加しなかった。日本人は内弁慶と言われるが、日本人のおじさんだけでなく、各国の男性たちもまた、ただ見ているだけだった。

 世界の大統領、首相も、国際機関のトップも、今に全員、女性になる日が来るに違いない、と思った。

     ★   ★   ★ 

早朝のピレウス港へ >

 日本から持ってきたカップヌードルをホテルの部屋で食べ、朝、7時過ぎ、宿泊するホテルから徒歩5分の大型ホテルのロビーに集合した。

 アフリカ系の若い女性が時間どおりに迎えに来て、ロビーに集合していた数名とともにバスに案内された。すでに何人かの先客が乗っていて、途中、さらに3、4カ所のホテルで客を拾いながら港へ向かった。西欧系の人たちだけでなく、中東系の家族や、アフリカ系のアベックもいる。東アジア系はいない。早朝のバスの中は、お互いに、異国の空気である。

 ピレウス港に着くと、バスが十数台も並び、バスから降りた大勢の人並みの向こうに、クルーズ船が何艘か着岸していた。

 迷い子にならないように、バスのグループにくっ付いて、乗船した。

 ここまでは慣れないことゆえ緊張したが、乗船してしまえばもう安心だ。一日、エーゲ海を楽しもう。

         ★

 サロニコス諸島はアテネに最も近いエーゲ海の島々である。ピレウス港から南へ、ペロポネソス半島に沿って、小さな島が連なっている。

 そのうちのエギナ島、ポロス島、イドラ島の3島を巡る日帰りクルーズは、エーゲ海を手軽に楽しめる現地ツアーとして、アテネを訪れた観光客に人気がある。それで、私も日本からネットを通して申し込んだ。

 最初に一番遠いイドラ島まで行き、そこから順に、ポロス島、エギナ島と寄って、ピレウス港に引き返してくるというコースだ。

 イドラ島までは、3時間少々かかる。

 3時間は退屈するかと思ったが、日本からのツアー参加者の中のご夫婦に話しかけられ、ご主人と話がはずんだ。退職後、「弥生時代」に興味があって、一人の考古学の先生の講義を聞きに行くのが楽しみなのだそうだ。私も似たようなものだから、話がはずんだ。

 デッキに出て海を眺めたり、朝からワインを飲んだり、音楽演奏とおばさんたちのダンスを見たりしているうちに、あっという間に時間が過ぎた。

 

海上交易で栄えた豪商の島・イドラ島 > 

 イドラ島の岸壁が近づくと、ロバの列が荷を運んでいた。

 この島は車もバイクも禁止。島内の水のきれいな入り江に遊びに行くにはモーターボートがあるが、内陸部の荷の運搬はロバが頼りだ。 

 桟橋に着いて船を降りた。自由時間は1時間半。

 各自で島内を散策した後、時間厳守で船に帰ってきてください。遅刻すると、明日、再び船がやってくるまで、島で過ごさなければならなくなりますよ、と船の日本語ガイドの注意があった。

 これだけの大人数、点呼などせず、出航するのだろう。

 

 島内には見学しなければならないような名所・旧跡、遺跡があるわけではない。ただぶらぶらと文字どおり散策する。

 島の唯一の「繁華街」は、船の着くイドラ・タウン。

 船を降りると、海岸沿いの小道には土産物店やタベルナが軒を連ねて、船から降りてくる大勢の客に声をかけてくる。

 ただ、この島はアーティスト、職人たちが集まる島だそうで、土産物店といっても、銀や銅の彫金細工のアクセサリー、七宝の絵皿、モダンな工芸品なども並んでいた。 

 そういうショップが軒を連ねているのもしばらくの間で、イドラ・タウンを抜けると、あとは静かな海沿いの石畳の小道である。 

  「18世紀から19世紀にかけて、イドラの商人たちは海上貿易で成功をおさめ、巨万の富を得た。1821年からのギリシャの独立戦争で、彼らは自分たちの持ち船を武装させ、海戦で大活躍する。ギリシャでは有名な話で、現在でもイドラ島はギリシャ人たちの間で英雄的な島として人気が高い。島に並ぶ大邸宅は、ほとんどがこの商人たちによって建てられたもの」(『地球の歩き方』から)。

 ギリシャ人は、(今のギリシャ人とは遺伝的には相当に違うだろうが)、古代から海洋民族だった。紀元前の何百年という、気の遠くなるような時代から地中海に漕ぎ出し、各地に植民都市を建設した。

 イタリアの長靴の先に位置するシチリア島には、シラクサをはじめいくつかのギリシャ系古代都市の遺跡があり、アテネのアクロポリスの丘に負けないくらいの遺跡が遺っている。

 対岸のアフリカ大陸には、当時の地中海の覇者カルタゴがあった。カルタゴはフェニキア人の植民都市で、ギリシャ人の植民都市をつぶしにかかる。民族間の激しい戦いは、この時代から繰り広げられていた。(当ブログ「シチリアへの旅」参照)。

 古代だけではない。ギリシャの産業を支えているのは、今も観光業のほかには海運業である。

 ただ、その海運業は、近年、中国の一帯一路政策によって、乗っ取られようとしている。

 3島の中でも、イドラ島の海の透明度は高いそうだ。

 今、我々クルーズ船の観光客が歩いているのは島のとっかかり部分に過ぎない。もっと奥へ行けば、水の澄んだ美しいビーチがいくつもあり、そこはリゾート客の世界である。

 適当に歩いて、休憩して、もと来た道を引き返した。

 島に置き去りにされてはいけない。 

      ★

時計塔のポロス島とギリシャ国旗 >

 ボロス島へ向かう1時間ほどの航海の間に、船の中でビュッフェ形式の昼食をとった。

 テーブルで隣り合わせた一人旅の日本人男性と、ヨーロッパのことや中国のことなどを話す。

 どこかの会社のヨーロッパの出先で働いていたそうだ。今は退職して日本で暮らしているが、当時知り合ったギリシャ人に、遊びに来ないかと誘われた。だが、今日は休みが取れないので、このクルーズに参加せよと言われたそうだ。

 旅先で、日本人と長話をした経験はない。今日は2度も話してしまった。

 ボロス島は小さな島で、見学するほどのものはない。丘の斜面にびっしりと建つ家の路地を上がって行けば、時計塔がある、と船のガイドが言う。それだけのようだ。

 それで、船を降りた人たちは時計塔を目指した。旅人は誰でも、高い所へ上がりたがる。

 しかし、急坂のうえ、道もよくわからず、行き止まりになっていたりして、途中でやめようかと思ったが、若い人の後についていくうちに、何とかたどり着いた。

 なぜここに時計塔があるのかわからない。おそらく、中世の時代には、海賊対策の物見の塔だったのではなかろうか。

 塔の横に、ギリシャ国旗が風に翻っていた。 

 古代都市国家アテナイの歴史は古いが、ギリシャという国土と国民を持つようになってからの国の歴史はまだ浅い。

 BC146年に、アテネを含むアッティカ地方はローマの属州となり、AD395年のローマ帝国の分裂以後は東ローマ帝国(ビザンチン帝国)に所属した。しかもその一辺境の地にあったから、スラブ民族が多数流入し、ラテン民族に続いて、スラブ民族との混血が進んだ。

 1453年、ビザンチン帝国はオスマン帝国によって滅ぼされ、以後、イスラム教徒の支配下に入る。ただ、オスマン帝国は、ギリシャ正教の信仰を容認した。

 19世紀、ロシアやヨーロッパ列強の攻勢の前にオスマン帝国が弱体化するなか、独立運動が興って、1829年に異教徒の支配を脱し、ギリシャの独立が成った。

 ただし、その後も、クレタ島やキプロス島を巡ってトルコとの戦争は続いたから、今もエーゲ海を隔てた隣国との関係は悪い。

 話はギリシャの国旗に戻るが、青は、空と海の青である。白は純潔を表し、十字はギリシャ正教を表す。また、白と青の9本の縞模様は、トルコとの独立戦争時の合言葉であった「自由か死か」の9音節を表すそうだ。 

 そういうことはともかくとして、青と白の旗は、いかにもギリシャらしくていい。なかなか秀逸の国旗だと思う。

 時計塔から眺めた港の景色である。

        ★

古代にはアテナイと張り合ったエギナ島 >

 エギナ島はピレウス港から30キロ。サロニコス諸島の主な島の中では、アテネに最も近い。

 人口はサロニコス諸島で最も多く、1万3千人少々。

 古代には独立したポリスとして栄え、アテナイと張り合っていた。

 国立考古学博物館で見た「ポセイドンのブロンズ像」は、この島出身の彫刻家オナタの作とされる。

 船を降りて、エギナ・タウンから、ガイドとともにバスに乗った。

 島の畑や野の道を上へ上へと上がること30分ほど。

 丘の上に、アフェア神殿の遺跡があった。

 ここもまた、エーゲ海を見下ろす高台である。

 アフェア神殿はアテナイのパルテノン神殿より50年ほど古く、BC6世紀後半からBC5世紀初めに、この島で採れる石灰岩で建造された。

 2階建ての神殿で、周囲に祭壇の跡や神官の家の敷石の跡も残っている。 

 遺跡としての風韻のようなものが感じられて、なかなかいいと思った。

 アフェアとは、「目にみえない」「姿を消す」という意味があるそうで、エギナ島の女神だそうだ。 

        ★

 バスに戻って、しばらく山を下っていき、途中、聖ネクタリオス修道院に寄った。

 まだ新しい、大きな、美しい修道院である。

 聖ネクタリオスは、19世紀の半ばから20世紀の初めに生きた人で、死後、ギリシャ正教の聖人に列せられた。晩年、この島で過ごし、遺骸がここに葬られている。

 回廊も美しく、祭壇はイコンで飾られていた。

 バスが平地を走るようになると、ピスタチオの畑があった。この島の特産らしい。 

        ★

 帰りのクルーズ船の中では、舞台のある船室で民族舞踊が披露された。

 クルーズ船がピレウス港に帰り、行きと同じバスに乗ってアテネの中心部に向かう頃には、日もすっかり暮れた。

 バスを降りたその足で、ホテル近くのレストランへ。午後8時を回っていた。

 早朝から日が暮れるまで、今日も1日、よく活動した。船に乗っている時が多かったが、それでも今日の歩数は9500歩だ。

 明日は、いよいよロードス島へ向かう。

     ★   ★   ★

閑話 : 一帯一路政策とピレウス港 

 ピレウス港は、古代ギリシャの時代から、アテナイの軍船や商船が出入りした天然の要衝であった。ピレウス港あっての都市国家アテナイの繁栄であった。

 近代に入っても、ヨーロッパ世界への入口・ピレウス港は、ヨーロッパを代表する港湾として、ギリシャ産業の根幹である海運業を支えてきた。

 ギリシャはEUに加盟して急成長を遂げ、ユーロバブルに酔ったが、政府と国民による放漫財政の結果として、2009年に政府の財政赤字の隠蔽が明らかになった。

 EUとIMFはギリシャに対して超緊縮財政を強いた。

 その結果、国内総生産は落ち込み、失業率は23%となり、アテネだけでもホームレスは2万人を超え、さらに難民がやってきた。

 疲弊するギリシャに甘い手を差し伸べたのが中国である。

 中国の国有企業であるコスコ(中国遠洋海運集団)が、ピレウス港の管理、整備、開発の権利を買い取った。習近平の肝いりで、スペインのバレンシア港とともに、中国と西欧を結ぶ一帯一路政策の一環である。

 国有企業がなぜ他国の企業を買収し、支配するのか?? こういう中国に「おかしい!!」とはっきり言うのはトランプだけである。オバマもメルケルも、国内の人権問題では声が大きいが、中国には口ごもる。

 ピレウス港を手に入れた中国資本はたちまち大幅な利益を上げ、さらにクルーズ船の新ターミナル、4つのホテル、ショッピングモールなどの大開発計画を打ち上げている。また、ピレウス港とハンガリーとを結ぶ鉄道の建設も始めている。

 ピレウス港が中国海軍の欧州進出のための軍港になるのではないかという懸念もあった。その懸念はあっさり現実化した。

 2015年、中国海軍の大型揚陸艦がピレウス港に寄港し、地中海で、何とロシアと、初めて海上合同演習を実施した。

 こういう中国の侵出については、今更、驚くことはない。

 それよりも、EUとはそもそも何だったのだろう … と思う。

 経済はドイツの一人勝ちだが、ギリシャも、スペインも、ハンガリーも、最近のニュースではイタリアも、やすやすと中国に切り崩されていく。イギリスは離脱。

 長年、ヨーロッパに目を注いできた私には、メルケルとEU官僚の失政は明瞭であるように思われる。とっくに時代についていけなくなっている。

 

 

 

 

   

 

 

 

 

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アテネの博物館 … わがエーゲ海の旅 (5)

2019年07月09日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

都市国家アテナイの起源伝説 > 

 新アクロポリス博物館は、アクロポリスの丘のパルテノン神殿から直線距離で280mの所にある。

 ここに、パルテノン神殿を飾っていた彫像やレリーフ(浮彫)、或いは、あのエレクティオンの6体の乙女像のうち5体(1体はイギリスに持ち去られた)、また、ペルシャ戦争のときに破壊されて埋もれていたBC5世紀以前の遺跡も、発掘されて、展示されている。

 こうした発掘品のほとんどは、破損され、或いは断片であったりするが、新たに復元され、在りし日の姿がわかるように再現され、展示されているものもある。

 充実していて、一日、おにぎりでも持って、ここで過ごしてもよいぐらいだった。

        ★

 上の写真 (ケースのガラスが光っているが) は、パルテノン神殿を再現した模型である。神殿の東側(正面)の写真で、西側も同じ構造になっている。

 8本の巨大な柱の上、屋根部分との間の横に長い長方形部分、ここをメトーブという。ここには、神話やアテナイの歴史をテーマにしたレリーフが90枚もあった。

 メトーブの上に、横長の平べったい三角形部分がある。ここを破風(ハフ)(ペディメント)という。ここには大きな彫像があった。

 上の写真が、その破風の彫像群を再現したもの(写真はその中央部)で、都市国家アテナイの守護神アテナが誕生した場面である。

 女神アテナは、なんとゼウスの頭から、黄金の鎧をまとって生まれてきたそうだ。横に坐っているのが父のゼウス。ゼウスの頭を斧で殴ったのは、右側にいる火と鍛冶の神ヘファイストスだ。

 アテナは手に槍を持つ戦いの神でもある。しかし、戦いを好む神ではなく、知恵と純潔の神でもある。

 冒頭の写真は、パルテノン神殿の西側の破風の中央部である。

 群像によって描かれているのは、都市国家アテナイの起源神話。 

 アテナイの守護神の地位を、知恵の女神アテナと海神ポセイドンが争った。

 ポセイドンはゼウスの兄弟で、いつも三叉の鉾を持っている。海、河、泉の神で、怒りっぽい。

 彼は、アテナイ市民を従わせようと、鉾で地面を突き、海水を湧き出させた。

 それに対して、アテナは、地にオリーブの木を生い立たせた。

 初代国王以下、人々はオリーブの木を選び、女神アテナの名を、国の名とした。

 どこの国、民族も起源伝承をもつが、これがアテナイの起源神話である。

     ★   ★   ★

 新アクロポリス博物館を見学した後、地下鉄のアクロポリス駅からシンタグマ駅までの1駅だけ地下鉄に乗り、ガイドのソフィアさんにアテネの地下鉄の券売機の使い方や地下鉄の乗り方を教えてもらった。

 

 さらに、シンタグマ広場から少し歩いた所にあるレストランを紹介してもらって、別れた。

 レストラン「ELLA」はリーズナブルで、緑に囲まれた綺麗なテラス席があり、落ち着けた。

        ★

国立考古学博物館へ >

 昼食後、国立考古学博物館へ向かった。

 タクシーに乗ってぼったくられるよりは、スリに気を付けた方が良いかと思い、地下鉄で行った。

 シンタグマ駅から1駅行き、乗り換えて2駅目のビクトリア駅で降りた。

 外務省の安全情報に、ビクトリア駅の1つ手前のオモニア駅付近は治安が悪いから気を付けるようにと書いてあったが、帰国後、テレビニュースが、アテネのビクトリア駅からオモニア広場周辺でテロ事件・暴動があったと報じた。

 国立考古学博物館は、ギリシャ各地で発掘された考古学上の文化財を収納・展示する博物館である。

 建物のファーサードも、実に堂々としていた。

 

 左側の垂れ幕を見ると、今、ローマ帝国時代の5賢帝の一人、ハドリアヌス帝の特集をやっているようだ。そういえば、アクロポリスの丘の上から、ハドリアヌスの門だとかハドリアヌスが建てさせたというゼウス神殿が見えた。帰国してから、アテネとハドリアヌスの関係を調べてみよう。

        ★

 館内の展示品は、大きな時代区分で分けて展示されていた。その数は膨大で、日本の考古学の発掘品と比べると遥かに文明度が高く、私の基準では現代美術などよりもずっと美しく、旅人が1~2時間で見て回って終わりにするにはもったいない博物館だった。

 それでも、急ぎ足でざっと見て回った。

 以下、印象に残ったものを7点だけ紹介する。

 もちろん、考古学的観点から選んだものではない。ただ直感的に、わが感性に響いたものを撮影し紹介するに過ぎない。

 考古学的、或いは、歴史学的視点に立てば、ここにあるものは全て私の想像を遥かに超えた遠い遠い世界のものである。

                ★

 粘土のフィギアー

 

 ギリシャ東部のテッサリア地方で発掘された新石器時代の粘土のフィギアー。BC6500~5300の頃のものと説明のプレートに書かれている。日本の縄文時代だ。

 見た瞬間、わが縄文時代のフィギアーの土偶と同じだと思った。時代も同じ時期だ。

         ★

ボクシングをする少年たち

 BC17世紀の火山の大爆発で火山灰に埋もれてしまったサントリーニ島のアクロティリ遺跡から出土した壁画である。

 女の子かと思ったら、「少年」となっていた。 

 「赤絵式の陶器の壺」 

 黒絵式の陶器を発展させた赤絵式陶器の壺は、BC530年頃のアテナイで生まれた。

 絵付けの段階で、画像の部分だけ残して地を塗りつぶす。細部は筆で描くそうだ。絵の多くはギリシャ神話などを題材にしている。

 日本の弥生時代に、アテナイではこれほど繊細優美な壺が作られるようになっていた。卑弥呼の7、800年も前のことだ。

         ★

ポセイドンのブロンズ像

 アテネのすぐ東、エーゲ海のエヴィア島の海底から偶然に発掘された。

 BC5世紀のエギナ島の彫刻家オナタの作品とされ、ポセイドン像ともゼウス像とも言われる。海神ポセイドンだとすれば、手に持っていたのは例の三叉の鉾だ。

 エギナ島には、明日、現地1日ツアーで行く予定。

        ★

アンティキセラの青年

 ペロポネソス半島からエーゲ海に出て、エーゲ海の南端の大きな島・クレタ島へ向かう途中に、アンティキセラ島という島がある。その海から発見された。BC4世紀の作品とされる。

 気品がある。右手に何を持っていたのかわからない。

         ★

 馬に乗る少年

 の「ポセイドンのブロンズ像」と同じく、エヴィア島の沖で発見されたブロンズ像だが、こちらはヘレニズム期のBC140年頃の作とされる。

 疾走する馬と馬上の少年がカッコいい。私の一番のお気に入り。

   2枚目の写真(馬のうしろ姿)の左隅の像は、「アタランテのヘルメス」。アタランテは地名。ヘルメスはオリンポス12神の1人で、神々の使者、また、旅人の守り神とされる。左肩からマントを垂らし手に巻き付け、右手には伝令の杖を持っていた。マントの着方が粋である。

         ★

傷ついたガリア人

 ヘレニズム期のBC100年ごろの作品。ミコノス島のそばのディロス島で見つかった。ディロス島は小さな島で、今、人は住んでいないが、島全体が世界文化遺産だ。

 ガリアは今のフランス。この時代、地中海世界の人々にとって、彼らはヴァーバリアン(蛮族)だった。そのガリアの若い戦士だろう。右肩から袈裟懸けに斬られ、重傷を負っている。かわいそうだ。右手は剣か槍を握って体を支えているのだろうか?? 上方に挙げられた左手はどうなっていたのだろう?? それがわかれば、何を叫んでいるかもわかるかもしれない。

    ★   ★   ★

ミトロポレオス大聖堂の前の広場 >

   朝からよく歩いた。博物館を出るとタクシーがあったので、値段交渉してからホテルまで乗った。

 やや年配のドライバーは、教会の横を通るとき、丁寧に十字をきった。今まで何度もヨーロッパの旅でタクシーに乗ったが、教会のそばを通るとき、このような態度をとった人は初めてだ。ギリシャ正教の世界では、今もこのように敬虔な人が多いのだろうか。 

 ホテルで一休みした後、もう一度街に出て晩御飯を食べ、そのあと街を散策してミトロポレオス大聖堂の前の広場に出た。

 アテネの街の中心はシンタグマ広場だが、交通の要衝でもあるから落ち着かない。

 ミトロポレオス大聖堂の広場は、日本でガイドブックを読んだ時から私のお気に入りの広場になると思っていたが、そのとおりだった。樹木が多く、緑が濃い。ベンチもあって、気持ちが落ち着く。

 大聖堂の中も、のぞいてみた。ギリシャ正教の大聖堂だから、中にイコンがあった。

 

 大聖堂に隣り合わせて、アギオス・エレフテリオス教会がある。

 大聖堂よりずっと古い教会だが、大きな大聖堂の横にこじんまりとして、野の花の趣がある。

 教会の前で、少女がボール遊びしていた。 

   饗庭孝男の『石と光の思想』に、「神はなくとも信仰は美しい」というボードレールの言葉が引用されていた。「神はなくても」は、私はキリスト教徒ではないが、という意味だろう。

 かつてステンドグラスの美しさにひかれてゴシック大聖堂をめぐる旅をした。また、ロマネスクの素朴な大聖堂をめぐる旅もした。巡礼の到着地である冬のサンチャゴ・デ・コンポステーラにも行ってみた。

 そういう旅ではなくても、ヨーロッパの旅で、行く先々、教会があれば中をのぞいた。

 日曜日の朝のミサにも、聖夜の礼拝にも、片隅で参加させてもらったことがある。

 「原罪」や「裁きの日」はおどろおどろしいが、人々の喜びや哀しみ、憤りや希望が祈りとなるとき、それは人の生そのものである。だから、美しい。  

 広場には、「カフェ・メトロポール」がある。老舗のカフェだ。 

 写真の右に立つおじさんは、たぶん、この名カフェを背負っている人だ。

 そばを歩いていると、メニュを持った若い女性に、食事はどう?? と勧められた。残念ながらもう食べた、… お茶だけでもいい?? と聞くと、どうぞと言う。それで、樹木に囲まれたテラス席に座って、ギリシャコーヒーを頼んだ。旅に出る前から、飲んでみたいと思っていた。

 エスプレッソやメランジュとは全く違う。トルココーヒーに似ている。こってりしていて、私にはとても美味しかった。病みつきになりそうだが、日本にはない。 

 

 時は宵。アテネの街をショッピングする観光客たち。道端の屋台ではおばさんが何か売っている。 

 今日は、17000歩も歩いた。

           ★

 閑話 : アテネと皇帝ハドリアヌスのこと >

 第14代皇帝ハドリアヌス(在位AD117~138)は、偉大な前皇帝トラヤヌスに従ってバルチア国に遠征中、前皇帝が発病して死去。トラヤヌスの養子であったハドリアヌスは直ちに帝位を継いだ。41歳だった。

 すぐに遠征軍を率いてローマに帰還し、帝国の統治に携わった。ローマ帝国は、トラヤヌス帝のとき、ローマ帝国史上、最大の版図になっていた。

 4年後、彼は帝国内の大視察旅行に出る。

 人にはそれぞれの流儀がある。たぶん、広大な帝国の各地からもたらされる報告や、皇帝の判断・指示を求める声にこたえるには、ローマで元老院議員たちの修飾の多い美文調の演説を聞いていたのではだめだと考えたのだろう。

 以後、帝位にあった足掛け22年間のうち、実に14年間を費やして、彼は広大な帝国内を騎馬で歩き続けたのだ。

 少数の供をつれ (当時のローマ帝国内の治安がいかに良かったかがわかる)、気候の良い春も、酷暑の夏も、日の落ちるのが早い秋も、州都から地方の町へ、軍団基地からその出先へと、ひたすら広大な帝国領内を視察して回った。そして、ライン川やドナウ川の防衛上の不備を発見してメンテナンスし、政治、経済にかかる諸問題を自分の眼で見て、現地の役人や人々の声も聴きつつ、解決して歩いたのである。

 塩野七生は、『ローマ人の物語Ⅵ 賢帝の世紀』の中で、この14年間の旅によってハドリアヌスは心身ともに疲れ果てたのだろうと、書いている。62歳で死去するまでの最後の4年間はローマに帰り、ローマ郊外に建てた豪壮なヴィラに閉じこもって、極めて不機嫌な老人として過ごしたようだ。

 ヤマザキマリの『テルマエ・ロマエ』に登場するハドリアヌス帝は、このころの彼である。

 養子には、後に哲人皇帝と言われるマルクス・アウレリウスを迎えていた。

 さて、そのハドリアヌスが視察旅行中のある冬、アテネに滞在した。寒く、日没の早い冬は、ローマ人に限らず、例えば戦争をしていても休戦に入るのが当時のならわしである。

 AD121年から123年にかけての彼の足取りをたどれば、

 ガリア(現フランス) → ライン川の防衛線 → スペイン<ここで冬越し> → シリア → 小アジア(現トルコ) → ドナウ川防衛線 → アテネ<ここで冬越し> となる。

 以下、塩野七生からの引用。

 「ハドリアヌスは、ローマ軍の最高司令官でもある皇帝として、ライン河とドナウ河という、帝国の2大防衛線の視察をすべて成しとげたわけであった。

 冬も迫る季節になってようやく、皇帝は南に足を向けたようである。アカイヤ州の州都でもあるアテネで、冬を越すつもりでいた」。

 「48歳になってはじめて、憧れの地を自分の眼で見た人の想いはどうであったろう」。

 ── ローマ人、特にそのリーダー層の家では、都市国家時代のギリシャの文化に対して敬意をもち、子弟の多くは若い頃にギリシャに留学して勉学した。彼らはみな、ラテン語とギリシャ語のバイリンガルだった。しかし、一方で、ローマ人は、古代ギリシャの音楽や演劇などの文化を軟弱として嫌った。このような軟弱な文化が、繁栄するギリシャの国力を弱めたと考えたのだ。

 遺っている彫像に見るように、ギリシャの神々や英雄・哲人たちは、みんな豊かな髭をたくわえている。ところが、ローマの皇帝たちやリーダーの像は、ある時期までみんな髭を剃っている。こざっぱりする。無用なオシャレはしないのが、ローマの男たちなのだ。

 第5代皇帝ネロ(在位AD54~68)は、在位中から極めて評判の悪い人だったが、その悪評の一つは、彼がギリシャ文化を愛し、市民たちを招待して自ら音楽堂に出演し音楽を演奏したり、劇場で役者を演じたりしたことにある。それは、ローマの一般市民にとっても奇妙な姿だった。ローマで、皇帝とは、オリエントの皇帝のような絶対専制君主を言う言葉ではない。兵士たちが総司令官をリスペクトして言うときに「エンペラー」と叫んだのだ。つまり、一旦、国家緊急の時には、全軍を率いる総司令官なのだ。だから、ネロのやっていることは、江戸時代に徳川将軍が歌舞伎の舞台に立って町人の前で役者を演じるようなものである。「真面目に自分の仕事をやれっ、バカ殿め!!」ということになる。

 ネロの時代とハドリアヌスの時代では、価値観も少しは変わってきた。それでも、将来は皇帝になる身である。養父トラヤヌスは、少年のハドリアヌスのギリシャ好きを心配し、スペインに留学させたりした。彼は少年の頃からギリシャにあこがれていたのである。

 成人して、偉大なトラヤヌスの下で様々な職務を経験させられるが、彼はストイックによく働き、一つ一つ職務をこなして、周囲からも認められていった。養父が死に、42歳で皇帝位に就いて以後も、任務に対してきわめてストイックで、都ローマにも還らず、良き統治のために帝国内を14年間も歩き続けたのである。

 「このときのハドリアヌスのアテネ滞在は、冬越しどころか6カ月にもおよぶことになる」。

 そのハドリアヌスが、このとき初めて、半年間をアテネで過ごしたのである。アテネは全盛期から既に6世紀が経ち、今や帝国内のローカルな一地方都市に過ぎなかった。かつての栄光の跡は、今、名所旧跡となって遺っているだけである。彼は、現在の我々と同じように、それらの遺跡を見て回ったのである。 

 そして、たった6カ月間だが、彼はあくまで皇帝として、アテネの復興のために尽くした。今は名所旧跡になった建造物を修理復元させ、アテネの経済復興のために壮麗な市場を建てた。また、新たにゼウス神殿や図書館を建てさせ、旧市街と新市街の境界にアーチ門を建設させたのである。

 だから、…… アテネ市民は今でもハドリアヌスが好きなのだ。メルケルやマクロンとは違うのである。

 なお、ハドリアヌスは、豊かな髭をたくわえた最初のローマ皇帝であった。 

 

 

 

 

 

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アクロポリスの丘にあがる … わがエーゲ海の旅(4)

2019年07月03日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

 アクロポリスの丘から、アテネの街並みの先に海が見えた。エーゲ海だ ……。

 都市国家アテナイは海上交通の要路に位置し、BC8世紀頃にはアクロポリスの丘を中心とする海運都市国家として、ギリシャ世界のなかで先進的な地位を確保していた。

 一般に、アクロポリスは、高い丘の上につくられた町のこと。古代のアクロポリスは、ポリス(都市国家)の守護神を祀る神殿が建てられ、祭祀が営まれる神聖な場所だった。また、戦いの際、市民が最後に立てこもる砦となるよう城壁で囲まれていた。

 アテナイのアクロポリスは、海抜150mの平らな石灰岩の上にあり、三方が断崖絶壁になっている。

 丘の上は、東西が270m、南北が156m。アテナイの守護神である知の女神アテナを祀ったパルテノン神殿が建っていた。

 ホテルから見るアクロポリスの丘は、北東からの眺望である。 

     ★   ★   ★

アクロポリス眺望 >

 今日は5月13日(月)。

 朝、7時。ホテルの最上階の朝食会場に入ったとき、思わず嘆声が口をついて出た。

 広間の整えられたテーブルの向こうは前面ガラス張りで、街並みの上に、何のさえぎるものもなく、アクロポリスの丘があった。

 その丘の真ん中にパルテノン神殿が建ち、折しも朝の光に照らされている。

 早朝の光と空気が似合う丘だ。

    ( アクロポリスの丘 )

   ( 丘の上にはパルテノン神殿 )

        ★

 今日、午前中は、現地の日本語ツアーに参加することにしていた。ガイドに付いて、アクロポリスの丘とアクロポリス美術館を見学する。

 午後は自力でアテネの街を歩く。ガイドと別れる前に、国立考古学博物館への行き方を聞いておかねばならない。

 アテネに着いた翌日の午前から『地球の歩き方』の小さなマップを見ながら悪戦苦闘するのもどうかと考え、出発前、現地ツアーに入ることにした。ガイドに案内されながら、まず、この街の空気に馴染み、土地勘を身につける必要がある。

 それに、事前に読んだブログによると、アクロポリスの丘に入る入場券を買うのに長蛇の列ができる可能性がある。何しろ世界有数の名所旧跡だ。現地ツアーに入れば、ガイドがチケットを事前に確保してくれるから、並ぶ必要はない。

 それに、事細かな知識や専門的な説明は要らないのだが、簡単でも説明はあった方が良い。というのも、『地球の歩き方』その他で一応事前に予習しても、年齢とともに活字がなかなか頭に入らなくなった。では現地で読めば、ということになるが、現地に立つと、その場で本を出して活字を追う気にはなれないものである。それより写真撮影になってしまう。その結果、帰国してから、あれやこれやと見落としたことに気づく。

 そういうわけで、日本でネットをとおして、現地の半日ツアーを予約した。

 ガイドにはソフィアさんという方がやってきた。午後には保育園に子どものお迎えに行かなければいけないそうだ。日本人とのハーフの感じのいい女性だった。

        ★

 三方が断崖絶壁のアクロポリスの丘は、西側にしか登り口がない (ということも、初めて知った)。 

 西側の麓はオリーブの林になっていた。よく手入れされて、樹木がみずみずしい。

 オリーブ油は好きではないが、オリーブの実の漬物は美味しい。白ワインのアテにいい。

 その林の中の小道を登っていくと、やがてチケット売り場に出た。列に並ぶことなく、ソフィアさんからもらったチケットを入口の検札機にかざして、入った。

 古い石段を一歩一歩上がっていく。2500年も前の石の階段だから、足元は危うい。長い歳月、人に踏まれて凹凸ができ、欠け、段差もいろいろで、つるつるに磨かれてうっかり足をのせると滑る石もある。ここは革靴ではムリだ。

 まだ5月だが、汗ばんでくる。

 夏になると、強い日差しと、世界中からやってくる観光客の人いきれで、熱中症の人が続出し、突然に入場ストップして、休憩に入ったりするそうだ。

AD3世紀のブーレの門

 ブーレの門は、ポリス時代の建造物ではない。ローマ帝国時代の3世紀に、防御のために新たに造られた門である。

 3世紀のローマ帝国は、5賢帝の時代も過ぎ、パクスロマーナからの衰退がはじまっていた。突然、異民族の騎馬隊がライン川、ドナウ川の防衛線をくぐり抜け、ローマ帝国の奥深くまで侵入して荒らしまわる、そういう事態が起こるようになっていた。もう安全は保障されていない。

 三方が断崖だから、ここをおさえれば、一応の防御はできる。

 ブーレは、19世紀にこの門を発掘したフランス人の名。  

 ブーレの門が額縁のようになって、石段の先に、ポリス時代の門であるプロビュライアが見えた。

 門をくぐり、プロビュライアへの階段で振り返ると、麓の林の向こうにアテネの街が広がっていた。 

             ★

聖域との結界を示すプロピュライア >

 プロビュライアは、神殿に通じる前門のこと。防御用というより、「ここから先は聖地」という、聖域との「結界」を示す門である。日本では、鳥居とか注連縄がそういう機能をもつ。

 アテナイの黄金期のBC437年に建設が始まり、432年にほぼ完成した。

 6本の柱によって構成された中央楼と、その左に北翼、右に南翼がある。今は柱のみでイメージがわかないが、ベルリンのブランデンブルグ門やミュンヘンのプロビュライア門は、この門を模したそうだ。だから、そちらを見たらイメージがわくだろう。

 えーっ!! 柱がズレている。

         ★

 プロビュライアをくぐれば、もうそこはアクロポリスの丘の上だ。

ローマ時代のイロド・アティコス音楽堂 >

 丘の西側、登ってきた直下に、古代の音楽堂が見下ろせた。

 イロド・アティコス音楽堂という。まだパクスロマーナの5賢帝の時代にそういう名の大富豪がいて、AD161年に建設し、アテネ市に寄贈したそうだ。

 観客席は6000人分。石の席が上へ上へと、かなりの急斜面に造られている。

 最近修復され、夏の間、演劇や、オペラ、古典劇、コンサートなどが開かれるそうだ。星の瞬く夜空の下、古代遺跡で催される音楽や演劇は、なかなかの趣であろう。もちろん、一流のアーチストグループでないと出演できない。彼らも一度はこういう所でやってみたいに違いない。

        ★

パウロがスピーチしたアレオパゴスの丘 >

 ガイドのソフィアさんが、音楽堂の向こうのあの岩山は「パウロの岩」だと言う。えっ? パウロって、あのパウロ?

 イエス亡き後にキリスト教と出会い、ペテロ、ヨハネなどの直弟子たちとともに伝道した。キリスト教神学の土台はこの人によってつくられたと言われる。あの新約聖書に登場するパウロが、この岩山の上で …… 。

   この丘のことは、『地球の歩き方』には、何も書いていない。

 帰国後に調べてみると、ポリス時代から、ここで評議会が開かれたり、裁判が行われたりしたらしい。

 AD1世紀、伝道のためにアテネを訪れたパウロが、「あなたの話をもっと聞きたい」という哲学好きの市民たちによってここに連れてこられ、岩山(丘)の上でスピーチした。そのことが、新約聖書の使徒行伝17章16節から34節に書かれている。

   「パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。『アテネのみなさん、…… 』」。

 紀元前5世紀のアテナイのスター・ペリクレスと聞いても、私にとっては世界史の教科書の中の人に過ぎない。だが、それから400年ほど時代が下って、新約聖書のパウロと聞くと、あのパウロがこの岩山の上で … と、遠い人が肉体をもって現れるような気がする。

 これは西洋史に対する私の中の知識の偏重によるのかもしれない。

        ★

知の女神アテナを祀るパルテノン神殿 >

 ペルシャ戦争(BC499~449)のとき、この丘の上の建造物はことごとく破壊され、略奪された。

 アテナイやスパルタの連合軍がペルシャの大軍を撃退し、戦争に勝利したあと、アテナイはペリクレスの指導の下、黄金期を迎える(BC460~BC430)。

 この聖なる丘も、かつてあった状態を遥かに超える壮麗さで再建されていった。今、我々が見る遺構はペリクレス以後のものである。

  

   ( 神殿の正面 )

   ( 神殿の側面 )

 丘の中心をなすパルテノン神殿は、15年の歳月をかけて築かれ、BC432年に完成した。

 神殿の正面側は幅31m、側面側は70m。基礎部分(土台)の上に立つ柱自体の高さは10m。その上に屋根の構造物がのっていた。

   建設当時、神殿は彩色され、全体が彫像やレリーフ(浮彫)で飾られていたそうだ。

 神殿の内部には、アテネの守護神である知の女神アテナの像が安置されていた。

 高さが12mの巨像だったという。(… とはいえ、東大寺大仏殿の大仏様は、坐っておられても15mだ ── ついでに調べてみました)。

 パルテノン神殿の「パルテノス」は、若い娘、処女の意で、女神アテナを指す。ゆえに、アテナの神殿の意になる。聖母マリアに捧げられた大聖堂が、ノートル・ダム(われらの貴婦人)大聖堂と呼ばれるのに似ている。

 似た名前に、ローマの「パンテオン」がある。アグリッパによって造られ、ハドリアヌス帝によって再建された。巨大な円錐形(ドーム型)建造物だ。

 「パン」は「汎」。パンテオンは、すべての神々のための神殿である。円形をしているのは、上座や下座がないということ。ローマ帝国は信仰の自由を認め、すべての民族の神をリスペクトした。他者の神を尊重するのは、高貴な精神である。ローマでは「寛容」と言った。

 一神教のキリスト教がヨーロッパ世界をおおったとき、他の宗教はもちろん、キリスト教の中でさえ異端のレッテルを貼られると迫害された。本来、一神教と信仰の自由は両立しない。

 パリの5区にもパンテオンがある。18世紀創建のパリのパンテオンは、フランス革命を経て、神々ではなく、フランスが誇る偉人たちを祀る霊廟になっていった。例えば、キューリ夫妻、ヴィクトル・ユーゴー、ヴォルテール、ゾラといった人たちである。 

 話は戻って、パルテノン神殿のそばに公衆トイレがあり、そのあたりに腰を下ろして一休みした。バッグを置いてパルテノン神殿の写真を撮り、休憩が終わってエレクティオンの方へ歩きかけたとき、バッグを忘れたことに気づいた。あわてて取りに行ったら、休んだ石の上にバックはぽつんとあった。(水とか、ガイドブックとか、ちょっとした衣類だけで、貴重品は入っていない)。

 ガイドのソフィアさんから、「よくありましたね。ちょっとでも目を離すと、もう絶対に戻らないから、気を付けてください。この丘もスリがいます」と言われた。(もしかしたら、スリも、中身を素早くのぞき、置いていったのかもしれない)。

 ソフィアさんは、さらに、自分のスマホを開いて、20歳ぐらいの2人組の女子の写真を示し、「ガイド仲間で情報を交換し合っています。この2人はスリのチームです。午後からアテネの街を歩かれるときも、十分に注意してください」と言われた。

        ★         

 < 6人の乙女像が人気のエレクティオン >

 アクロポリスの丘の遺跡の中で、パルテノン神殿に次いで観光客に人気があるのはエレクティオンである。

 パルテノン神殿と同様、ペルシャ戦争のあと、BC408年に再建された。

 エレクティオンという名の由来については、アテナイの伝説上の王・エリクトニオス王に捧げられた神殿だからではないかという。

  観光客の撮影ポイントは、建物の南側に張り出した柱廊の柱である。柱が6人の乙女像によってできている。(ただし、ここにあるのはレプリカ。本物はアクロポリス美術館にある)。

 このセンスは、確かに素晴らしい。

          ★

 アテナイの町は、アクロポリスの丘を中心にして発展した。

 丘の上からは、眼下に、いくつもの遺跡を見下ろすことができる。先に挙げたイロド・アティコス音楽堂やアレオパゴスの丘もその例である。

 <古代アゴラ >

 その中でも、丘の北東に位置する古代アグラは、アテナイ市民にとって、特別に大切な場所であった。

 80年ほど前には、ここに300軒あまりの民家があったそうだ。それを全部、移転させた。その跡地の、今は林になった中に、古代アゴラの礎石や石柱が遺っていて、発掘調査が今も続いている。

 アクロポリスの丘がアテナイ市民の精神的、宗教的、そして防衛上の心の拠り所だとすれば、アテナイ市民の政治的・経済的・文化的諸活動の中心が「アゴラ」だった。

 紀元前5世紀ごろ、この広場では、アテナイの評議会が開かれた。120mの柱廊があり、毎日、そこで市が立った。神殿も音楽堂もあった。別の柱廊の下では、ソフィストたちが盛んに議論を交わしていた。

 アテナイ市民が集う街の中心がアゴラであった。

 林の中に、1つだけかなり原型をとどめた神殿が見える。パルテノン神殿とほぼ同時期のBC450~440年ごろに建てられ、ヘファイストスに捧げられた神殿とされる。

 ヘファイストスはオリンポス12神の一人で、火と鍛冶の神。背が低く、醜男で、足も悪いが、愛と美の女神アフロディテ(古代ローマではビーナス)を妻とした。創意工夫に富み、武具も装飾品も宮殿もつくった。勤勉でまじめな性格だったそうだ。

 愛と美とエロスの女神アフロディテが結婚した相手として、意外の感はあるが、なかなか堅実な選択でもある。

 このヘファイストス神殿のすぐ北隣(写真では上)にも柱廊があった。そこはソクラテスが友人たちと集い、哲学論議をした場所だそうだ。

        ★

リカヴィトスの丘 >

 アクロポリスの丘から北西の方向にリカヴィトスの丘がある。アクロポリスの丘の上は平らだが、この丘は、おそろしく尖がっている。海抜273m。アクロポリスの丘の2倍近い高さだ。麓からケーブルカーも出ている。

 頂上には高級レストランがあって、アクロポリスの丘やアテネの夜景を見ながら食事ができるそうだ。しかし、私のヨーロッパの旅には、食文化の探究はない。  

        ★

アドリアノス門とゼウス神殿 >

 アクロポリスの丘をはさんで、古代アゴラの反対側(東南側)に、アドリアノス門、そして、ゼウス神殿の柱が見える。

  アドリアノス門は、写真の左下に小さく見えるが、高さは18m。AD131年に完成した。当時、旧市街と新市街を分ける門だった。

 ゼウス神殿は、オリンポス12神の最高神ゼウス(古代ローマではジュピター)に捧げられた神殿で、128年に完成した。

 104本の柱が並ぶ堂々たる神殿だったが、今は15本しか残っていない。それでも、そばで見ると、その威容に圧倒されると書いてあった。ローマ帝国内で最大級の神殿だったそうだ。

 いずれも、ローマ帝国の5賢帝の一人であるハドリアヌス帝が、アテネを訪れたときに建てさせたものである。近くにアドリアノス図書館も遺っている。彼は、ローマのリーダー層には珍しく、ギリシャ文化のファンだった。

        ★

 ディオニソス劇場 >

 アクロポリスの丘の上をほぼ一巡すると、最初に眼下に見たイロド・アティコス音楽堂のすぐ東側に、ディオニソス劇場があった。

 ディオニソスはオリンポス12神の一人で、古代ローマではバッカス。葡萄酒と演劇の神である。

 この劇場はローマ時代に大改修されたそうだが、古代ギリシャ最古の劇場とされる。最前列は貴賓席で、15000人の観客を収容できたそうだ。         

        ★

 ざっとだが、アクロポリスの丘を見て回ることができた。

 もと来た道を引き返し、プロビュライアの門、ブーレの門をくぐって、天上の世界から下界に降りた。

 来たときと比べて、観光客が増え、まだぞくぞくと上がってきており、チケット売り場は長蛇の列ができていた。

 現在のパルテノン神殿について私の感想を言えば、そばで見るより、遠くから、丘の上の雄姿を眺めていた方が美しい。その方が、品格があるように思えた。

 しかし、プロビュライアの門やエレクティオンの6人の乙女を間近に見、また、アクロポリスの丘を囲むアテナイの数々の建造物の姿を眺めることができたのはとても良かった。

 続けて、新アクロポリス博物館へ行く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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アテネ (古代ギリシャ語ではアテナイ) へ … わがエーゲ海の旅(3)

2019年06月26日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

  ( アクロポリスの丘からリカヴィトスの丘を望む )

 アテネ ── 古代ギリシャ語ではアテナイ Athenai。現代ギリシャ語の口語ではアシナ Athinaというらしい。英語ではAthens。

 空港の電光掲示板は、英語表記の「Athens」だ。だが、都市アテネは、イギリスという国や英語という言語より、遥かに古い。なれない英語表記にはちょっと抵抗があった。日本語のアテネは、ラテン語からきているそうで、悪くはない。

 語感としては、やはりアテナイが良い。知の女神アテナの町だ。 

 リカヴィトスの丘は、アクロポリスの丘と向かい合うようにそびえ、市内で一番高い。街のどこからでも望むことができた。

    ★   ★   ★

ミュンヘン空港で >

 ルフトハンザ航空が、関空発、ミュンヘン経由のアテネ行きを設定したのは、たぶん、最近のことだ。このルートを見つけたときは、問題が一つ解決した、と思った。

 これまで、関空からアテネへ行こうと思うと、深夜発の中東系の飛行機に乗るしかなかった。しかも、乗り継ぎのために、アラビア半島の空港のロビーで、現地時間の深夜から明け方までの数時間を過ごさねばならない。ツアーの一員としてならまだしも、バックパッカーの若者ではないのだから、そういうちょっと危険で、体力勝負の旅はしたくない。

 だから、ルフトハンザが関空とアテネを結ぶルートをつくらなければ、今回の旅はなかっただろう。

 現地時間で午後1時半。ミュンヘンは小雨だった。肌寒い。日本はこのところ晴天で、5月らしい陽気が続いていた。乗り継ぎ時間は1時間半だ。

 空港のWi-fiにアクセスしようとしたら、ミュンヘン空港のほか、ハーウェイが2つも候補に出た。いずれも名前やメールアドレスを登録する必要がある。それで、やめた。

 たまたま2、3日前に見たテレビで、メルケル首相が、ハーウェイについては慎重に対応すべきだと言っていた。しかし、続けて登場したドイツの産業界の人物は、中国政府が世界の人々の個人情報を収集しようとしている確たる証拠がない限り、我々は安い方を使う、と言った。それなら、この空港も、ハーウェイと契約しているかもしれない。ハーウェイの側は、法に則ってやるから大丈夫だ、我々は中国政府とは一線を画すと言っているが (それは、そう言うでしょう)、法の上に君臨するのが、昔なら皇帝、今は中国共産党だ。ハーウェイのトップ(元人民軍の大物)以下幹部諸氏が中国共産党員でないという確たる証拠を示さない限り、不安は除去されない。近未来において、世界中の人々の詳細な個人情報が中国のスーパーコンピュータに積みあげられ、習近平に把握されているということになるかもしれない。そうなると、もうSFの世界だが、そういうSFの世界へ向かっているのが現代だ。

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アテネ到着 > 

 ミュンヘン空港の出発は40分遅れ、アテネ空港には現地時間の午後7時30分に着いた。日本との時差は6時間だから、日本ではもう日が代わって午前1時半。にもかかわらず、まだ起きて、活動している。旅に出ると、若返らざるをえない。

  いつも空港からはタクシーに乗る。重いスーツケースを持って駅の階段を上がり降りしたり、石畳の道路を歩くのは大変だから。

 だが、ガイドブックを見ても、ネットの情報を見ても、アテネのタクシーはぼったくりが多いから気を付けろと書いてある。しかも、どう気を付けたらよいかは、書いてない。乗るなら、それを覚悟せよ、ということだ。ギリシャの経済危機が世界に報道され、世界の株価を下げたことは、まだ記憶に新しい。ギリシャはEUの中でも最も貧しい国なのだ。

 地下鉄もあるが、スーツケースを持っての乗り降りは大変で、車内もまたスリが多いらしい。現地の人でさえ、被害に遭うという。これはパリも同じだ。

 そういうネットの情報の中に、アテネ観光の中心・シンタグマ広場に行く空港バスの切符の買い方、乗り方まで、写真入りで詳しく書いてくれているブログがあった。空港バスはなんと24時間運行し、15分ごとに出発する。終点のシンタグマ広場から、ホテルは近い。しかも、6ユーロというのだから、安い。路線バスと違って、席も確保され、混雑していないからスリも乗ってこない。

 コピーしてきたそのブログの指示どおりに行動し、無事、国会議事堂のあるシンタグマ広場に着いた。午後9時。日没は午後8時30分だから、こちらではまだ宵の口だ。 

 この広場はアクロポリスの丘のすぐ麓で、最も観光客が多いところだ。だから、スリも多い。子どものスリグループもいる。歩いていても気を付けろと書いてあった。これも、パリと同じだ。ただ、今回は大きなスーツケースを押しながらだから、少し気を使った。気を使っているつもりだが、なにしろ長旅の疲れが大きく、頭はぼんやりしている。日本はもう午前3時だ。

 アテネで一番の繁華街だから、観光客がいっぱい歩き、レストランやショーウインドウも軒を連ねている。

 だが、パリやウィーンのどこかオシャレなレストランやカフェはなく、また、ショッピングに関心のない私でも心が浮き立つような、センスの良いショーウィンドウも並んでいない。

 紀元前の古代アテネと違って、現代のアテネは、EU圏のかなり端っこに位置するローカルな町なのだ。その上、経済危機のどん底にある。

 広場からホテルまでは徒歩で5分少々。ただし、道に迷ったから、15分ぐらいかかった。道を尋ねると、みんなとても丁寧で親切だった。

  ( アテネの街 )

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パルテノン神殿のライトアップ >

 ホテルの部屋はネットで入念に調べ、パルテノン神殿を望む部屋を確保した。高級ホテルではない。しかし、こういうこと(ホテルの窓からのビュー)には、多少ならお金を使う。一期一会の旅なのだから。

  今までの旅で、ホテルの窓からの景色が最も感動的だったのは、ハンガリーの「ホテル・インターコンチネンタル・ブタペスト」だ。ドナウの川べりに立地するこのホテルの窓からは、ドナウ川に架かるくさり橋と、対岸の王宮と、その右手にマーチャーシュ教会がライトアップされて一望でき、いつまで見ても見飽きないほど美しかった。

 パルテノン神殿のライトアップは、そのようなきらびやかさはないが、夜空に自らの存在感を示していた。  

  

   ( 夜空に浮かぶパルテノン神殿 )

 

 

 

 

 

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旅のサブテーマ … わがエーゲ海の旅(2)

2019年06月21日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

    ( セント・ニコラス要塞と満月 ) 

   ロードス島滞在中に、月が満月になった。マンドラキ港に昇った月下の埠頭で、少女が二人、兎のように跳びはねていた。

 もうすぐ大人よ、と言いたげなおしゃまな二人でした。

  ( マンドラキ港の埠頭 )

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神々の伝説の海・エーゲ海 >

 前回述べたように、この旅のメインテーマは、ヨハネ騎士団のロードス島。

 だが、それとは別に、サブテーマが2つある。

 ロードス島に行くと決めてからいろいろ調べているとき、これをサブテーマの1つに、と思うようになったのが、「エーゲ海」。

 エーゲ海の海。エーゲ海の島々ではなく、海そのもの。

 かつて、ベネツィアに行ったとき、わざわざリド島を歩いて横断しアドリア海を見に行った。オーストラリアのパースに行ったときは、列車に乗ってインド洋を見に行った。スペインでも、ポルトガルでも、大西洋を見に行った。

 海は海だが、それぞれに感じるものは異なる。

 そうはいっても、日本人だけでなく世界の旅行者にとって、エーゲ海のイメージは、紺碧の海、そして、白い壁の家々がびっしりと並ぶサントリーニ島やミコノス島の景色であろう。

 私もこの旅の計画を立てはじめたとき、ロードス島以外にもう一つ、サントリーニ島かミコノス島に寄ってみたいと考えていた。

 だが、例えば、エーゲ海の島の中で一番人気のサントリーニ島は、イアの断崖から夕日を見ようと世界中の人々がやってくる。そのため、夕方のイアの断崖の上は、まるでPLの花火大会のようだ。夕日が沈み、日が暮れて、ホテルに帰るときには、路線バスに乗るのも大変らしい。…… そういうことを知るうちに、もともと人の多いところに行くのが苦手な私は、そんなにまでして見る価値のある夕日って、あるのだろうか?? と疑問に思いはじめた。海に沈む夕日の名所は、日本にもいくらでもある。名所のそばには、鄙びた温泉もある。

 それに、…… 今回はツアーに入らない自力の旅だから、『地球の歩き方』だけではとうてい情報不足で、ネットを開いて多くの旅人たちの旅のブログを参考に読んだ。読んでいると、サントリーニ島は、最近、白い家々の路地という路地を中国人観光客がぞろぞろ歩き、青いドームの小さなチャペルで結婚式を挙げているのも中国人カップル。景色を写真に写しても、カメラを構えて互いに撮り合う中国人観光客が入ってしまう、と書いてある。何しろ彼らは、周りの人に気を使うということをしない。

 今は、パリもウィーンもアムステルダムも中国人観光客だらけだ。最近、讀賣新聞に、アムステルダムの住民の中には、「ここはもうアムステルダムではない。通勤に時間がかかっても仕方ない」と、別の小都市に住居を移す人が出てきたという記事が載っていた。中国の人口はEUの人口の2倍を遥かに超える。豊かになった中国人が旅をしていけないわけではない。しかし、こちらも、中国人旅行者を見るためにヨーロッパを旅行するわけではない。

 そういうことで、他の島によることはあきらめて、ロードス島にしぼることにした。その結果、アテネとロードス島にゆっくりと連泊する、気分的にのんびりした旅になった。

 ロードス島は、日本人にとってもローカルな島である。ブログ(複数形)によれば、欧米からの観光客やリゾート客は多いが、中国人はいうまでもなく、日本人観光客にもほとんど会うことがないらしい。

 今、世界的にクルーズツアーが大流行だから、日本からのこの方面へのツアーも、サントリーニ島やミコノス島やクレタ島に寄港し、中にはロードス島にも寄る「エーゲ海クルーズ」を組み入れたツアーもある。だが、それも、朝、ロードス島に入港して、日中、ざっと観光し、夕方にはもうフェリーに戻って、夜、次の島へ向けて出航する。

 だから、わざわざロードス島を目指して訪れる数少ない日本人のほとんどは、『ロードス島攻防記』を読んだ塩野ファンらしい。ブログを読んでいると、そういうこともわかってきた。 

 私がサブテーマの1つを「エーゲ海」としたのは、奇岩絶景のエーゲ海でも、気候温暖なリゾートとしてのエーゲ海でもなく、ヨーロッパ文明の発祥の地であった歴史的な海、古代ギリシャからヘレニズム時代を経て古代ローマへと続く文明のあけぼのの海、神々の伝説の海を、ただ自分の目で見たかったからである。

 それで、旅のプランの中に、船でエーゲ海を行く日を3日間も入れた。 

 アテネの2日目、アテネに近いサロニコス諸島を船でめぐる現地の1日ツアーに参加することにした。

 また、ロードス島の2日目は、島の東海岸、路線バスで1時間半のリンドスの遺跡を見に行くことにしていたが、ロードス・タウンのマンドラキ港からリンドスを往復する船が出ているというブログが1つだけあった。現地に行ってみなければよくわからないが、古代の人々も、中世のヨハネ騎士団も、リンドスは船で行って船着場に上陸したはずだ。もし船があれば、路線バスより、船旅の方がずっと楽しい。

  ( 海からリンドスの丘を望む )

 そして、ロードス島の3日目は、ヨハネ騎士団の出先の要塞があるコス島へ、ロードス・タウンのコマーシャル・ハーバーから1日1往復の定期船に乗って、片道2時間半の船旅をすることにした。

  ( コス島の海 )

 太平洋や、大西洋や、日本海や、瀬戸内海とは違う海。トロイ戦争の後、帰国するオデッセウスが次々と危難に遭遇した神話の海。その海を訪ねよう。 

         ★

アテネのパルテノン神殿 >

 旅のサブテーマの2つ目は、定番だが、アテネのオリンパスの丘のパルテノン神殿である。 

 今まで、ツアーに参加して、古代の遺跡はいくつか見る機会があった。

 シチリア島では、セリヌンテ、アグリジェント、そしてタオルミーナの遺跡。(当ブログ「シチリアへの旅」)

 トルコのツアーでは、エーゲ海沿岸部を北から南へ、トロイ、ペルガモン、エフェソス、アフロディシアス、パムッカレと見て回った。(当ブログ「トルコ紀行」)

 世界最大級の古代都市遺跡といわれるエフェソスの遺跡はさすがに印象に残った。

 しかし、より心に残ったのは、イオニア海に臨む断崖絶壁の棚にできた町タオルミーナ。そこには、眼下に紺碧の海を見下ろす古代劇場があった。これは、素晴らしい!!

 そして、それらより規模は小さいが、それだけに牧歌的なセリヌンテの遺跡。海を見下ろす丘の原っぱに神殿の一部がかろうじて立ち、地面には石柱が思い思いに横たわって、その石と石の間には野の花が咲き、風に吹かれていた。その石に坐って微風に吹かれていると、永遠の中に抱かれているようで不思議に心が和んだ。

 だから、古代遺跡はもう十分に見た、という思いもあったのだが、アテネのパルテノン神殿は古代文明の今に残る原点のようなものだから、できれば見ておきたい。

 辻邦生は、作家を志してパリに留学していたころ、パリからアテネに旅行し、次のように書いている。

辻 邦生『言葉が輝くとき』(文藝春秋)から

  「そのあと、ギリシャに行って、パルテノン神殿を見た。すごく美しかった。この神殿も、今いったような意志の力によって、美というものを地上に実現していた。その美しさはただたんに美しいだけではない。みじめに生きている人間が、そのみじめさにもかかわらず、良きものを意志することができる。人間には、ああいう高みにまで昇ってゆく意志力と、目標とすべき一段と高い秩序が与えられているのだ。そのことを、ここにある建物をとおして見てご覧なさい、とでもいうかのように、神殿の建物がそこに置かれている。事実、パルテノン神殿を見ていると、一種の高揚感といいますか、魂が燃えあがって、一日一日、もっとよく生きようという気持ちになる。宗教的な感じにも似ていますけれども、宗教とはもちろん違います。私はそういうものを根底に置いて、文学の目的にしようと考えたのです。それはまさに一つの出会いだったと思います」。

 若いときには感動した文章だが、今は少々息苦しい。

 そういう時代の記念としても、見ておきたいと思った。

 

 ( ホテルの最上階から望むパルテノン神殿 )

 

 

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旅のテーマは『ロードス島攻防記』 … わがエーゲ海の旅(1)

2019年06月16日 | 西欧旅行 … エーゲ海の旅

   上の写真は、ロードス島の海港に臨む城壁。

   ホテルから旧市街へと歩く途中にある。昨日もここから写真を撮った。

 今日も写真を撮ろうと思ったら、先客がいた。数秒で終わると思ったが、試行錯誤して終わらない。待ちくたびれて、パチリと1枚。

 そのあと撮った風景写真が下。

 思いがけず、どちらも気に入っている。 

     ★   ★   ★

アテネへ >

   2019年5月12日(日)、乗客全員の搭乗を終え、ルフトハンザ743便は予定の時刻より20分も早く、 午前8時35分に関空を出発した。

 今日は、ドイツのミュンヘンで乗り継いで、ギリシャのアテネまで行く。

 アテネに3泊し、そのあと移動してエーゲ海のロードス島に4泊、帰りにアテネでもう1泊する。

 今回はツアーではない。自力の「わがエーゲ海の旅」である。

         ★ 

ロードス・タウン >  

 旅のテーマは、塩野七生『ロードス島攻防記』の舞台となった歴史の地を逍遥すること。

 ロードス島は、塩野さんが、「エーゲ海の東南、小アジアにいまにくっついてしまいそうな近さに位置する」と書いているように、トルコから18キロしか離れていない。天気のいい日には、トルコを望むことができるそうだ。

 地図を見ると、島は、右上から左下へ、やや斜めに置かれたさつま芋の形をしている。その北東部から南西部へかけての一番長いところで80キロ。幅は、一番長いところで38キロである。

 この島の最北端に良港がある。今もエーゲ海クルーズの巨大なフェリーが大勢の客を乗せて寄港する。

 ヨハネ騎士団の時代、港は、北側が軍港(マンドラキ港)、南側は商港(コマーシャルハーバー)だった。

 この港に臨む旧市街は、島と同じ名前で、ロードス・タウンと呼ばれる。今もぐるっと城壁に囲われている。

   ( 港から城壁を抜けるとロードス・タウン )

 城壁の中の街は、ヨハネ騎士団が撤退した後、長い年月オスマン帝国の支配下にあったから、イスラム圏のバザールを思わせる。庶民的な食堂や土産を売る店がびっしりと軒を連ね、入り組んだ路地を観光客や避暑客がぞろぞろと歩いている。住民はギリシャ正教系のギリシャ人である。

 頑丈そうな石造りの館が並ぶ騎士団通りは街の北端にあり、その先に騎士団長の宮殿が聳えて、このあたりだけヨーロッパの風が吹いている感がある。

         ★

聖ヨハネ騎士団 >

 16世紀、ロードス島からわずか18キロ先の小アジア(現在のトルコ)を支配していたのは、ビザンチン帝国を滅ぼした(1453年)オスマン帝国だった。帝国の支配は、北は小アジアからバルカン半島全域を越え、南は北アフリカ一帯まで広がって、西欧キリスト教文明に対峙していた。

 帝国の都イスタンブールから、北アフリカの政治的・経済的・文化的要衝の都市アレキサンドリアへ向かう航路上に、ロードス島はあった。

 ロードス島に陣どったヨハネ騎士団は、この航路上に立ちふさがり、オスマン帝国の商船を襲いまくったのだ。オスマン帝国にとって、ロードス島はキリストの「蛇の巣窟」であった。

 1522年、オスマン帝国はついにロードス島の攻略を決意する。

 決意したのは、父の死によってオスマン帝国のスルタンを継承したばかりのスレイマンである。この若いスルタンはその後長く帝位にあり、信望厚く、幾度か遠征して、北はハンガリーまでを攻略し、一度はハプスブルグの都ウィーンを包囲した。オスマン帝国の最盛期をつくりあげたスルタンとして、スレイマン大帝と呼ばれる。

 他方、ロードスの城壁に籠ってオスマン帝国を迎え撃ったのは、600人足らずのヨハネ騎士団であった。

 ヨハネ騎士団の歴史は、AD1099年の第一次十字軍による聖地エルサレム攻略と王国の建設の頃に遡る。

 その起源をたどれば、もともとイタリアのアマルフィーの富裕な商人が、聖地エルサレムに巡礼するキリスト教徒のために建てた病院組織であった。それが、第1回十字軍がイスラム勢力と戦ってエルサレムを攻略し、ここに王国を建てる過程で、軍事組織としての一面を強くもつようになり、宗教騎士団となっていったのである。

 ローマ教皇から与えられた正式名称は「聖ヨハネ病院騎士団」。教皇に直属し、どこの国からも独立している。なお、騎士団の名称となった「聖ヨハネ」は、人々の病を癒し、福音を伝え、イエスに洗礼を施した「洗礼者ヨハネ」のことで、12使徒のヨハネではない。

 鋼鉄の甲冑の上に、赤地に白十字の胸当てとマント、手に楯と長槍を持つ。もう一つ、同時期に設立された宗教騎士団として、「テンプル(聖堂)騎士団」があるが、その違いは、ヨハネ騎士団は病院を経営したこと、そして、貴族の子弟しか入団できなかったことであった。しかし、ともに、人数は少なかったが、キリスト教軍の最強・最精鋭の軍事組織であった。

 フランスの貴族出身者が比較的多かったらしい。もちろん、イタリア、スペイン、イギリス、ドイツなどの出身者もいて、それぞれの国ごとに部隊を構成する多国籍軍であった。

 騎士団長は、騎士による選挙で選ばれた。若い頃からいかなるときにも沈着冷静で、かつ、勇猛果敢。さらに多くの戦いを経て経験を積み、年齢とともに知恵と人望を増した人物が選ばれた。選んだあとは、全員がその指揮下に入る。

 彼らは、修道僧と同じで、妻帯は許されない。週1回は僧服を着て、看護師として病院で勤務した。戦死しても、それはキリストのしもべとしての死であり、名はどこにも残らない。使っていた遺品、例えば、高価な金銀宝石類は騎士団の財政に、衣服や食器類は病院に寄付された。

 この時代、優秀な医師のほとんどはユダヤ人だったそうだ。騎士団の病院の医師もそうであったろうという。

         ★

ロードス島の攻防 >

 ヨハネ騎士団600人足らずは、その配下の1500人ばかりの兵と、ロードス島の住民兵3000人ばかりを率いて、スレイマンの10万を超す大軍と対峙した。戦いは1522年の8月1日に始まり、12月の末までの5か月間に渡った。 

 塩野七生が『コンスタンティノープルの陥落』に描いた戦いから70年後のことである。コンスタンティノープルの戦いの経験から、攻城戦は大砲の時代に入っていた。

 この時代の砲弾は丸い石。直径20センチぐらいだろうか。この砲弾を、戦いが厳しくなると昼夜を問わず何千発も撃ち込んで、城壁を破壊していく。昼夜を問わないのは、心理戦の効果もねらったからである。

  ( 石の砲弾 )

 もう一つの方法は、地下道を掘り進めて、城壁の下に爆薬を仕掛け、城壁を破壊するという攻撃法である。

 守る側の城塞建築も対大砲用に進化していた。コンスタンティノープルの城壁のように高く聳える城壁ではなく、高さの代わりに壁の厚みが大幅に増した。その最たるものが、対イスラムの最前線に築かれたヨハネ騎士団のロードス島の城壁で、壁の幅は10mもあった。

 騎士団側の武器は、火薬を使って、今の鉄砲に似たもの、或いは、今の手榴弾に似たものであったらしい。

 だが、最後は結局、物量と、時間が決する。

 ヨーロッパのキリスト教国の王が互いに牽制し合って誰も救援軍を送らなければ、物量に任せた攻撃の前に、守る側は消耗していくだけだ。どんなに分厚い壁も次第に破壊されていく。日々、修繕するが、追い付かない。壊れて防備の弱くなった壁を大軍がよじ登り、10mの壁の上で、剣や槍を振るっての白兵戦となる。

 スレイマンの計画では、大砲と地雷で外壁を破壊した後、9月の総攻撃で決着がつくはずだった。だが、10万の兵を動かし、数時間に及んで、3波に渡った総攻撃にも、騎士団側は耐え抜いた。

 10月、11月と砲弾が撃ち込まれ、壁の下に仕掛けられた地雷が爆発し、何度も総攻撃が繰り返されても、ヨハネ騎士団は頑強に守り続けた。

 雨の降る冬の季節に入って、ついにスレイマンは、騎士団長とロードス住民に条件を提示し、名誉ある撤退を呼びかけた。騎士団もすでに多くの犠牲者を出していたが、オスマン帝国側の死傷者もすでに数万人になっていたという。 

  ( ヨハネ騎士団長の宮殿 )

         ★

 ── そこへ行ってみたい。塩野さんの本が、私の旅心を誘い続けた。

 だが、なかなか踏ん切れなかった。旅は未知に向かって一歩踏み出すまでは、大きな冒険でなる。

 行ってみようと思ってあれやこれやと調べていくと、日本ではあまり知られていないエーゲ海の島への旅は、もう若くはない私にとって、不安を覚える事柄が次々と出てくる。ツアーに入らなければ、全て自力でやり、何事が起こっても自力で処理するしかないのだから。

 長い月日を経ての逡巡の後、こういう旅ももうこれが最後かもしれないという思いが、私をつき動かした。

 そうして、思い切って出かけてみると、のどかで、心楽しく、行ってよかったと心から思える旅になった。

 以下は、その旅の記録と、写真である。

 

 

 

 

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