ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

湯島の白梅(湯島②)…東京を歩く3

2023年06月26日 | 東京を歩く

  (湯島天神の境内)

 湯島天神は、湯島の聖堂のすぐ北にある。湯島聖堂を見学したついでに、湯島天神へと歩いた。

 遠い昔、学生の頃、この天神社を一度訪ねたことがある。

<「湯島の白梅」>

 私の少年時代はまだテレビがなく、ラジオからよく流行歌が流れていた。聞くともなく耳にしているうちに、いつの間にか覚えてしまった歌もある。

 そういう一つが「湯島の白梅」。

 どんな歌詞だったかとネットで検索してみた。すると、ちゃんと出てきた。まだカラオケで歌う人がいるようだ

 歌の題もなかなか粋(イキ)である。

 歌手は小畑実と藤原亮子。その1番と3番の歌詞。

1 湯島通れば 想い出す/お蔦主税(チカラ)の 心意気/知るや白梅 玉垣に/残る二人の 影法師

3 青い瓦斯(ガス)燈 境内を/出れば本郷 切り通し/あかぬ別れの 中空に/鐘は墨絵の 上野山

  (境内の瓦斯灯)

 歌詞から、境内に瓦斯灯があったことがわかる。

 歌の当時のものではないだろうが、今も瓦斯灯はあった。

 司馬遼太郎『街道をゆく』から、

 「木々のなかに、瓦斯(ガス)灯もあった。瓦斯灯は、明治の文明開化の象徴というべきもので、街路や公園の夜をあかるくしていた。説明によると、湯島天神の境内にも何基かあったそうである。瓦斯灯があればこそ主税(チカラ)はお蔦をここへよび出せるのである」。

      ★

<湯島天神の境内で>

 もう一つ、遠い日の記憶がある。

 学生の頃、文京区の大塚にあった大学の教室で、近代文学史の講義を聴いていた。少壮気鋭の先生の話は活力があって面白く、話が明治の文学者・泉鏡花に及んで、少々脱線して、婦(オンナ)系図』の有名なシーンにふれられた。

 有名な、と書いたが、「湯島の白梅」の有名なシーンを、大学生の私はそのとき初めて知ったのだ。

 泉鏡花の『婦系図』が発表されたのは明治40(1907)年。翌年には、新派劇として演じられ、大いに評判を呼んだらしい。

 新派劇は歌舞伎に対する「新派」で、題材を現代に取り、人々の哀歓や情緒を描いた大衆的な演劇である。

 『婦系図』の主人公は、新進のドイツ文学者の早瀬主税(チカラ)。柳橋の芸妓お蔦と2世を契る仲になっていた。ところが、大恩ある大学教授酒井に知れ、別れろと言われる。孤児であった主税は酒井教授にひろわれ、今日まで息子のように育ててもらった。酒井教授は主税の将来を思い、また、主税と兄妹のようにして育った娘が主税を慕っているのを知っていたのだ。主税は先生の命に抗しがたく、お蔦に別れ話をする。

 新派劇では、お蔦をよび出した場所が、湯島天神の境内ということになっている。もちろん菅原道真を祀る神社だから梅の木がある。特に白梅の名所だった。

 別れ話を切り出したとき、初めお蔦はこう言う。「別れろの、切れろのは、芸者のときに言うものよ」。

 大学の講義の中で先生の話がお蔦のセリフに及んだ時、私の頭の中には、講義の本筋よりもこのシーンが鮮やかに残ってしまった。

 湯島天神、早春に咲く清楚な白梅、「別れろの、切れろのは、芸者のときに言うものよ」 …… 江戸文化の「粋(イキ)」とは、こういうのを言うのだろうか。

   そして、別の日に、大学からそう遠くないこの神社に行ってみた。行ってみると、当たり前のふつうの神社だった。主税とお蔦をわずかに想像して帰った。

 今回初めて訪ねた湯島聖堂のついでに、湯島天神を再訪した。

 境内に泉鏡花の筆塚があった。

 筆塚とは、寺小屋や家塾の師匠の死後、弟子たちがその遺徳をしのんで建てた記念碑のことだそうだ。碑の作成にかかわった文学者らの名も刻まれていた。

 (境内にある鏡花の筆塚)

      ★

<日本人の心の中の美>

 『婦系図』(湯島の白梅)は、戦前、戦中、戦後、5回も映画化されている。

 初回は昭和9(1934)年で、女優は田中絹代。 

 2回目は、太平洋戦争が始まってまだ戦勝気分の昭和17(1942)年。主演は長谷川一夫と山田五十鈴。大作だったようだ。このときに、主題歌「湯島の白梅」も作られた。

 3回目は戦後の昭和30(1955)年。主演は鶴田浩二と山本富士子。美男美女である。

 昭和37(1962)年の市川雷蔵主演を最後に、映画化はされていない。さすがに、話の筋が時代遅れになり、人々を映画館に呼び寄せられなくなったのだろう。

 実は私も泉鏡花の『婦系図』を読んでいないし、映画も観ていない。私の世代では、話の筋にちょっとついていけない。

 あらすじを読むと、このあと、二人はきっぱりと別れる

 そういう二人の心の芯にあるものは何だろう?? 「義理」を大切にする心。或いは、「(江戸っ子の)心意気」??

 作者の泉鏡花には、当時の結婚制度に対する怒りがあったのかもしれない。

 ただ、主人公がお蔦と別れた後の展開は相当に奇想天外で、最後は悲劇的な大団円を迎える。あまりリアリティはない。

 だが、それでも湯島天神、白梅、お蔦と主税は、粋である

 別れるか、別れないか、どちらが正しいかという「正しさ」のことではない。それは時代によって変わってくる。現代を基準にして、彼らの選択を非難してもあまり意味はない。

 ただ、このシーンを美しいと感じる美的感覚は今もなお日本人の心の中に緒を引いて残っているようにも思われる。

      ★ 

<神名を問うなど>

 「いうまでもなく湯島の社(ヤシロ)は、菅原道真をまつる天神の社である。文和4(1355)年、郷民によって建立されたという。文和4年といえば室町幕府初代の足利尊氏のころで、南北の争乱のさなかだった」。

 司馬遼太郎はこう書いているが、社伝によれば創建は遥かに古い雄略天皇の2年で、天之手力雄命(アメノタヂカラヲノミコト)を祀った神社だったそうだ。その後、1355年に菅原道真を合祀したとする。ゆえに、祭神は、天之手力雄命と菅原道真の2柱である。

 武蔵の国は鎌倉武士団の国だから、高天原(タカマガハラ)の一番の力持ちであるタヂカラヲノミコトの方がふさわしいかもしれないと、勝手なことを考えた。

 祭神については、以前も当ブログに引用したが、司馬遼太郎のエッセイ集『この国のかたち』の第5巻に「神道1~7」がある。

 「神道に、教祖も教義もない。たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根(イワネ)の大きさをおもい、奇異に感じた。畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である」。

 また、伊勢神宮について書いた項に、次のような1節がある。

 「何事の おはしますかは 知らねども 辱(カタジケナ)さの 涙こぼるる 

という彼 (注:西行) の歌は、いかにも古神道の風韻をつたえている。その空間が清浄にされ、よく斎(イツ)かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことであった」。

 そのように考えれば、タヂカラヲノミコトとか菅原道真という人格神よりも、「昔からこの地におわす神様」とか、「湯島の神様」と言って手を合わせた方が清々しいように思う。

 ただし、これは私の感性であって、信心はそれぞれの心のままにである。

      ★

<歴史の中の菅原道真のこと> 

 湯島天満宮、通称湯島天神は、江戸、そして東京における代表的な天神社である。

 醍醐天皇の御代の901年、右大臣菅原道真は左大臣の藤原時平らの讒訴によって、太宰府に左遷されたという。(→現代の歴史学では、誰の意図で、なぜ左遷されたかについて、時平或いは藤原氏の謀略説には疑問が出されている)。そして、903年、道真はその地で没した。

 909年、左大臣の藤原時平が39歳の若さで病死。

 その後から、時平の死は、讒訴された道真の怨霊のせいだという噂が、どこからか広がった。(→もちろん、現代の歴史学は怨霊のせいにはしない。病死である。時平家をつぶすために意図的に流されたという説もある)。

 923年、醍醐天皇の東宮・保明親王が薨去し、これも道真の怨霊のせいではないかと人々は恐れた。(→もちろん、怨霊のせいではない)。そのため、朝廷は、死せる菅原道真を右大臣に復して、彼の名誉を回復した。

 だが、930年、宮中の清涼殿に雷鳴とともに落雷があり、死傷者も出た。人々は道真の怒れる怨霊のせいだとし、それを気に病んでか、醍醐天皇までも薨去した。(→もちろん、落雷は自然現象であって、怨霊のせいではない)。

 947年、朝廷は菅原道真を北野天満宮に神として祀った。また、その後、正一位太政大臣の位を贈って、道真の神格化を一層進めた。天の神、天神の誕生である。

 私たちの世代は、「894年、菅原道真、遣唐使廃止。その結果、国風文化が興る」とならった。しかし、現代の歴史学では、遣唐大使に任じられていた道真が、唐に内乱が勃発したことを知り、遣唐使の「延期」を奏上しただけだとする。その後、唐は滅亡し(907年)、遣唐使はなし崩し的に廃止された。そもそも、遣唐使を廃止したから国風文化が興ったという因果関係も疑問視されている。

       ★

<変遷する神様> 

 太古の昔から、日本人は自然の中に神々を感じ、祀ってきた。川には水の神様、田を守り、豊作を願う神様、海には海人の神様、航海の目印になる岬や無人島にも神は祀られた。

 台風をもたらす風の神や水害を起こす雷の神も、これを鎮めるために全国津々浦々に祀られていた。

 そこへ、都から「天神」という人格神的な、皇室も恐れる神の話が伝わってきた。

 そこで、今まで風の神や雷の神を祀っていた神社は、祭神を天神に変えて北野天満宮の傘下に入っていった。「このことが天神信仰を全国化させた」(武光誠『知っておきたい日本の神様』)のである。

 初め、天神は祟る神、怒る神、雷の神として全国に広がった。天災を起こす神であり、また、鎮めて五穀豊穣を願う神であった。

 ところが、江戸時代になり平和が続くと、学問が盛んになる。すると、菅原道真が学者の家系であったことが思い出され、学問の神様として尊崇されるようになっていった。

 特に湯島天満宮は湯島聖堂のお膝元。多くの学者や文人、学問を志す若者が参拝するようになった。

 江戸時代は商業も盛んになった。都市部では近くの天神社に商人・町人の参拝者が増えていき、次第に商売の神様になっていった。天神祭りで有名な大坂の天満宮などは、町人たちの手で発展した神社である。

 そして、今、学問の神様は、学問成就よりも前に、受験の神様となった。湯島天神の参拝者は子どもから受験生の親まで、全体に平均年齢が若いように思う。修学旅行生も参拝に来るそうだ。

 もともと温厚な人柄の菅原道真は、祟(タタ)る神、怒る神、雷の神とされていたとき、ずいぶん迷惑であり、不本意であったろうと思う。 

 今は学問の神様となり、受験の神様になって、喜んでいらっしゃるに違いない。

      ★

<湯島天満宮に参拝する> 

  (湯島天神の門前)

 『街道をゆく』によると、江戸時代、門前には岡場所があったそうだ。

 鳥居は銅製で、江戸時代前期の造り。

   (銅の鳥居と拝殿)

 「この神社は幕府から社領をもらわず、そのかわり"富くじの興行をゆるされ、経費をそれでまかなっていた」。

 「岡場所といい、富くじといい、いわば江戸の大衆性が反映して、社殿につややかさを加えているのかもしれない」。

    (右が拝殿、左奥が本殿)

 今回、何十年ぶりに参拝していちばん驚いたのは、合格祈願の絵馬の数の多さである。

 

 (おびただしい合格祈願の絵馬)

 全国のどこの神社でも、たとえば我が家の近くの龍田大社でも、秋口からだんだんと合格祈願の絵馬が増えていくが、これほどの圧倒的な数は見たことがない。高校、大学の合格祈願だけでなく、中学校や小学校の合格祈願もある。

 神様、どうか寄り添ってあげてください。

      ★

<旧岩崎邸のこと>

 湯島天神のすぐ北に旧岩崎邸がある。

   (旧岩崎邸)

 本郷台の東縁で、東京大学のすぐ南に隣接する。

 建てたのは、岩崎弥太郎の嫡男の久弥(1865~1955)。

 戦後、米占領軍に接収され、その後、財産税の物納により国の財産になった。

 「設計は、神田のニコライ堂を設計した英国人ジョサイア・コンドルである」。木造2階建ての上にドームが載っている。「浮薄でなくてぜんたいに華やいでいるあたり、コンドルにとって会心の作だったにちがいない」。

 「"和館"とよばれている書院造りの建物もあり、… 明治の記念建造物であるにふさわしい」。

 なお、この地には幕末まで榊原家の江戸藩邸があった。大河ドラマ『どうする家康』に登場する徳川四天王の一人、榊原康政の子孫である。

 

 

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昌平坂学問所(湯島①)…東京を歩く2

2023年06月14日 | 東京を歩く

  (孔子を祀る大成殿)

 以下も、司馬遼太郎の『街道をゆく37 神田界隈』を引用しながら書いていきます。

      ★

<神田の「地の利」は湯島の聖堂>

 「江戸の地形で言うと、本郷台が小さな起伏をくりかえしつつ南にのび、湯島台にいたり、神田川に足もとを削られている」。

 神田川が流れているのは、湯島台と神田駿河台の間を深く削った人工の渓谷で、深い渓に清流が流れ、その風景は江戸名所の一つとなっていた。

 「江戸の昔は、昌平橋 (今の架橋場所より、やや上流) ひとつが、湯島神田駿河台をむすんでいた」。

 (聖橋が架橋されて、2つの台地が最短距離でむすばれたのは、関東大震災のあとである)。

 神田駿河台を下り、昌平橋を渡って、昌平坂を上がると、湯島の聖堂があった。

 そこは、初め、将軍に侍講した儒学者・林家の私塾であった。

 幕府の学問所になった (つまり官設になった) のは、江戸時代も後半に入ってからである。高校の日本史で「昌平坂学問所(昌平黌)」とならった。今の日本史の教科書に登場するのかどうかは知らない。

 「湯島に聖堂があったればこそ、神田川をへだてた神田界隈において学塾や書籍商がさかえたのである」。

 そういう地の利が神田にはあったのだ。

      ★

[将軍家の侍講にすぎなかった] 

 戦国を生き延び天下をとった徳川家康は学問するゆとりはなかった。その分、2代将軍秀忠には、儒学者の林羅山を侍講させて勉強させた。

 3代将軍家光のとき、林家は今の上野公園の一角に屋敷地を与えられた。林家はその地に学問所を開き、孔子を祀る廟も建てた。

 ただし、これはあくまで林家の私塾である。徳川幕府は幕臣(旗本・御家人)の教育を各家に任せていたから、諸藩における藩校のようなものは開設しなかった。

 林家は将軍のいわば家庭教師のような存在に過ぎなかった。 

[湯島の聖堂の誕生]

 世の中が安定した元禄の時代、好学の将軍5代目綱吉は、林家に湯島の地6千余坪を下賜して、孔子廟を建てさせ、自ら「大成殿」と名づけた。

 林家はこの湯島の地に家塾を移し、学寮も興した。

 江戸の人々はここを「湯島の聖堂」と呼ぶようになる。

[官学の学問所の開設]

 1790年、11代将軍家斉のとき、湯島の聖堂は敷地が倍に広げられて、幕府の官学所となり、昌平坂学問所(昌平黌)と名づけられた。

 林家は既に学問が衰えていたから、教授陣には全国から指折りの朱子学者が迎えられた。

 「昌平」という名は、孔子(BC551~479)がうまれた郷村の名である。

    朱子学を幕府の官学としたのには、政治的背景があった。老中松平定信による寛政の改革である。

 改革と言っても世の流れに逆行する改革で、実際、失敗に終わった。

 松平定信は前任の老中田沼意次の商業主義的な改革を批判し、商いやカネを悪とする極端な農本主義政策をとって、人々に質素倹約の生活を要求した。定信は優れた読書人であったが、彼にとって読書・学問はまず儒学であったから、紀元前5、6世紀の孔子が思い描いた「村落国家」を世の理想として描いていたのかもしれない。理想主義者は往々にして観念のなかで理想を強化し、ついにはそれを強引に実現しようとする。

 定信は、学問の分野においても「寛政異学の禁」(1787年)を出した。「異学」とは朱子学以外の儒学のこと。

 信長や秀吉は城下町を整備して商いを奨励した。徳川の世になり、世の中が治まると、商いは一層盛んになる。すると、人々は物事をモノやコトに沿ってありのままに見、とらえようとするようになる。

 儒学の世界でも、元禄の頃から一種の人文科学的な思考と方法をとる荻生徂徠の古文辞学派などが興ってきた。

 定信はこれらを排斥して、道学的な朱子学を官学としたのである。

 かくして、湯島の聖堂と昌平坂学問所は、幕末に到るまで、長く日本の漢学の最高権威であり続けた。

      ★ 

<湯島の聖堂を見学する> 

 湯島の聖堂のある一角は、明治以後、今も国有地である。

 古風で重厚な練り塀に囲まれた敷地内は、古木が生い茂り、森閑としていた。

   (練り塀)

 練り塀の一部が開けられて門となり、入り口に郭内の見取り図が掲示されていた。出入りは全く自由のようだ。

  (郭内絵図)

 郭内は大きく2分されている。東側の斯文会館では、今でも儒学や史学などの漢学の講義が行われるらしい。私が学生であった昔、大学に、著名な漢学者であった鎌田正教授がいらっしゃったが、こちらの講師陣でもあったことを、今回、『街道をゆく』で知った。

 斯文会館の方は見学せず、西の大成殿の方へ向かった。

  (練り塀と石畳の通路)

 訪れる人や見学者にも、めったに出会わない。東京の都心の一角とは思えないほど、しんとした別世界である。

 入徳(ニュウトク)門をくぐる。

   (入徳門)

 「高々とした石段をのぼって、杏壇(キョウダン)門に入り … 」。

  (石段の先に杏壇門)

    (杏壇門の奥に大成殿)

 「やがて孔子をまつる大成殿の前に出た」。

 

  (孔子を祀る大成殿)

 日本の神社などと違って、全体が墨を塗ったような色で、壮大で、威圧的な建物だった。

 論語の中で弟子たちと問答する孔子は、もう少し知的で、やわらない人物ではないかと思う。あるいは、孔子廟と言っても、朱子好みの建造物かも知れないと勝手なことを思った。

 今日は入れないが、曜日によって中にも入れるようだ。

 江戸時代の建物は関東大震災で焼失し、昭和10年に再建された。今は鉄筋コンクリート製だが、木造風の感じに再建されている。

 現在、大成殿と斯文会館の区画しか残っていないが、かつての昌平坂学問所の敷地は広大で、「大成殿を中心として学舎があり、また学寮があり、べつに文庫があり、さらに教官の住宅があった」という。

 「学生は原則として幕臣の子弟だった。別に書生寮があり、諸藩の者や浪人などを入学させた。俊才の多くはここから出た」。「当時すでに公開講座も併設されていたらしく、町の者も受講した」。

 とにもかくにも、江戸時代の日本の儒学の最高権威であった風韻がしのばれる一角だった。

      ★

<明治後の湯島の聖堂>

  幕末期、幕府は湯島の昌平坂学問所のほかに、神田に、二つの学問所を開設した。洋学の「開成所」と、西洋医学の「医学所」である。

 明治維新があり、それらは明治政府が接収し、引き継いだ。

 変遷ののち、「開成所」は東京大学の法・理・文の3学部に、「医学所」は東京大学医学部に発展した。

 東大の場所は、湯島のすぐ北、文京区の本郷台である。

 一方、昌平坂学問所は紆余曲折の末に廃止された。もともと朱子学では新時代において飛翔のしようがなかった。

 湯島の聖堂の敷地には、一時期、文部省、国立博物館、東京師範学校(のち、東京高等師範学校)、東京女子師範学校(のち、東京高等女子師範学校)が設置された。

 その後、文部省は霞が関へ、国立博物館は上野へ、東京高等師範学校と東京高等女子師範学校は文京区の大塚の地へ、それぞれ移転していった。

 東京高等師範学校(東京教育大を経て筑波大学)の宣揚歌の歌詞に「人も知る茗渓の水」という一節が登場し、また、東京高等女子師範学校が大塚の地にありながら、のちにお茶の水女子大学の校名を持つようになるのも、発祥の地が神田川の茗渓を前にした湯島の地であったことによる。

 なお、広大な跡地は、現在、東京医科歯科大学のキャンパスが大きく占めている。

        

 

 

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聖橋(ヒジリバシ)からニコライ聖堂へ(神田) … 東京を歩く1

2023年06月06日 | 東京を歩く

  このブログ、春には再開するとしていたのに、もう6月。そろそろ再開しなければと思っているうちに、4月、5月と月日は流れ、夏になってしまいました。

 ぼつぼつと書き進めていきますので、またご愛読のほどよろしくお願いします

 さて、今年の桜は早く、日本各地で3月中に満開を迎えました。

 桜が散った4月早々、司馬遼太郎の『街道をゆく36 神田界隈』『街道をゆく37 本郷界隈』の2冊をバッグに入れ、小さな東京旅行に出かけました。

 東京に在住の方には今さらと思われる内容ですが、東京に住んだことのない方、或いは私のように、遠い昔、学生生活を4年間だけ過ごしたが、その間も改まって東京見物などしなかったという方へ向けて、ささやかな東京紀行です。

 それにしても、2泊3日のうち歩いたのは真ん中の1日だけでしたが、ヨーロッパ旅行のときと同じく、てくてくと、よく歩きました。

   ★   ★   ★

<神田の古本屋>

 「神田」という地名を聞くと、私より少し年下の世代なら、フォークソングの「神田川」(南こうせつ)が思い浮かぶかもしれない。

 「貴方はもう捨てたのかしら/24色のクレパス買って/貴方が描いた私の似顔絵/巧く描いてねって言ったのに/いつもちっとも似てないの/窓の下には神田川3畳1間の小さな下宿 /貴方は私の指先見つめ/悲しいかいってきいたのよ」。

 私の学生時代は、この歌より10年ほども前。その頃は、まだ東京・大阪間の新幹線も通じていなかった。地方から出てきた学生にとって、「遠さ」の感覚は、今の学生がニューヨークとかロンドンに留学するのと変わらないぐらいだったかもしれない。

 時間がかかるというだけでなく、貧乏学生の身には旅費が大変で、それで一度上京するとなかなか帰省できなかった。「ふるさとは遠きにありて思ふもの」である。

 「3畳1間の小さな下宿」だから、歌の主人公たちも貧しいが、私の時代の日本はさらにもう少し貧しかったと思う。安月給のサラリーマンの親が、財産は残してやれないが、せめて学歴だけはつけてやりたいと、月々、無理して送ってくれた仕送り。あとはアルバイトの収入で学生生活はかろうじて成り立っていた。手元に明日の食費(外食だった)がなくなり、授業をサボってアルバイトで日銭を稼いだこともある。新宿の繁華街はよく歩いたが、ポケットにお金がなかったから、青春の鬱屈を抱えながらただやみくもに当てもなく歩いた。

 だから、彼女と同棲したり、「24色のクレパス買っ」たりする余裕はなかった。

 それに、世の風潮ももう少しバンカラというか、ストイックだったように思う。

 「神田」と聞いて浮かぶイメージは、「古本屋の街」。と言っても、おカネのなかった私には縁遠い街だった。学者や作家が神田の古本屋巡りをしたというようなことをエッセイに書いているのを読んで、そういう人生の楽しみ方もあるのだと知った。

 それでも、大学3年の終わりごろ、神田の古本街の1軒で『国木田独歩全集』7巻を見つけ、知人に借金して思い切って買い求めて、卒論を書いた。卒業するためには卒論を提出する必要があった。

 あれから何十年もの歳月が流れ、今、改めて司馬遼太郎の『街道をゆく 神田界隈』を読むと、あの頃、たとえ貧しくとも、もう少し知的好奇心をもって東京という町を歩いておくべきだったと、自分の青春に忸怩たる思いも生じる。

 しかし、それも今の年齢になって思うことだなとも思う。

 さて、今回の小旅行は司馬遼太郎の文章を追体験してみようというのが目的だから、以下に書くことのほとんどは上記『街道をゆく』の2冊からの引用或いは要約である。本文中の「」も司馬遼太郎の文章の引用である。  

 引用は引用として明記して出典を明らかにすること。また、参考にした文献があれば、それも明記すること。こういうルールも、卒論を書くなかで学んだことだ。

      ★

<漢学者が気どって名付けた茗渓(メイケイ)>

 神田川は「三鷹市の井之頭池で湧き出た水を水源としている」。

 「上流が飲み水(上水)としてつかわれ、さらには江戸城の濠(ホリ)も満たした」。「家康の命で、いわゆる『神田上水』を工事したのは、大久保忠行である」。

 「家康入国以来、江戸でおこなわれつづけた土木工事は大変なものであった。一例をあげると、『神田御茶ノ水掘割(ホリワリ)』である。

   いま聖堂のある湯島台地(文京区)と、神田山(神田台・駿河台)とはもとはつづいた台地だったが、ふかく濠(ホリ)を掘ってこれを切りはなし、その人工の渓(タニ)に神田川の水を通したのである。

 現在の聖橋(ヒジリバシ)は、関東震災後、昭和3年にかけられた橋で、湯島台と駿河台をむすんでいる」。

  (神田川を渡る聖橋)

 「下はふかぶかと渓をなし、神田川が流れている。この掘削は江戸初期の工事である。施工いっさいは、仙台の伊達政宗がうけもったという」。

 「完工したのは約40年後の万治2年(1659)という大工事であった。…… 工事が終わって、歳月を経てみると、意外に美しい景観であることが人々にわかった。

 ふかく削られた崖には草木が生い茂り、人工の谷に清流が流れ、のちに建てられる湯島の聖堂がみえ、水道橋ちかくは石垣が組まれ、川に上水懸樋(カケドイ)とよばれた屋根付きの木橋が架設されている。いわば当時の都市美というべきものだった。

 やがて江戸名所の一つになり、多くの絵師によって描かれた。漢学者は気どって崖下を流れる神田川の人工渓谷を賞し、茗渓などと名づけた」。

 さて、引用はこれくらいにして ── 東京駅から中央線に乗って新宿方面へ向かうと、聖橋のある御茶ノ水駅を過ぎ、水道橋駅を通り過ぎるあたりに、「当時の都市美」の名残を見ることができる。

 ちなみに学生時代の私は、新宿の先の中野区、杉並区に下宿していたから、電車が水道橋駅のあたりにさしかかると、いつも、大都会の中にあって風光明媚な一角だと車窓の景色を眺めていた。勉強はしなかったが、風景を見るのはこの頃から好きだった。

 「茗渓」という言葉は、私が卒業した大学の宣揚歌にも登場し、また、同窓会名にもなっている。「漢学者が気どってそう名付けた」と司馬遼太郎は書いているが、戦前の旧制高等学校等の宣揚歌、逍遙歌、寮歌、応援歌などはみな漢語の多い七五調で、内容は唯我独尊、悲憤慷慨、そして星菫(セイキン)派的(星やスミレを愛する少女趣味的)な歌詞である。青春とはそういうものだ。

 青春は、私も含めてそれぞれに一生懸命なのだが、少し離れて見ると可笑しみがある。

       ★

<二つの聖堂を結ぶ聖橋(ヒジリバシ)>

 西から流れてきた神田川は、千代田区と文京区の境界をつくり、最後に台東区を横切って隅田川に注ぐ。

 千代田区の駿河台とその北の文京区の湯島台とを結ぶ橋が聖橋である。

 橋の名は公募で決められたという。

 橋の南側の神田駿河台の上にニコライ聖堂があり、橋を北に渡ると孔子を祀る湯島聖堂がある。この2つの聖堂を結ぶということから、「聖橋」と名づけられた。

(御茶ノ水駅ホームから聖橋のアーチ)

 関東大震災後の昭和2年(1927)に開通した。全長79.3m。鉄筋コンクリートのアーチ橋。

 江戸や大坂の街の中を流れる川も、ヨーロッパの都市を流れる川の多くも、かつては運搬船が行き来していた。鉄道が発達し、道路網ができる近代以前、物資の輸送は陸路よりも河川だった。

 神田川も船が航行していた。それで、船から見上げたときに最も美しく見えるようにデザインされたという。

 今、そのアーチを見るにはJR御茶ノ水駅のホームからが良いと何かに書いてあった。

 写真の橋の右手に緑がのぞく。湯島台に続く緑である。

 「JR御茶ノ水駅あたりから、聖橋をあいだに置いて湯島台をみると、丘を樹木がおおっている。梢がくれに湯島聖堂のいらかが見えるから、安藤広重の絵がしのばれぬでもない」。

 「しのばれぬでもない」というとおり、湯島の聖堂の杜も、林立するビルの中にあって緑はあまり目立たない。それでも、ないよりはずっと良い。宗派が何であれ、「鎮守の森」は貴重である。

 湯島の聖堂は明日歩くことにして、JR御茶ノ水駅を出て南へ、神田の街をニコライ聖堂の方へと向かった。

      ★

<文と武の学びの街だった神田界隈>

 「神田界隈は、世界でも有数な(あるいは世界一の)物学びのまちといっていい。

 江戸時代からそうだった。維新後もそうで、多くの私学(明治大学、法政大学、中央大学、日本大学、東京理科大学、共立女子大学など)が神田から興ったことでもわかる。

 その理由は、江戸に、圧倒的多数の武士が居住していたというほかに、見当たらない。旗本8万騎と俗称される幕臣とその家族が、江戸住まいだった。それに300大名の藩邸がこのまちにあり、定府・勤番の家来が住んでいたから、100万をこえる江戸人口の半分近くが武士か、武家奉公人だった。

 かれらの子弟は、当然ながら学問と武芸を学ばねばならない。さらに地方から修学や練武のために江戸をめざしてくる者が多かった。

 それらの私塾がとくに神田に集中したのは、地の利によるものだったにちがいない。

 武のほうでいえば、江戸末期、神田於玉ケ池(オタマガイケ)にあった千葉周作の玄武館が代表的なものだったろう。流儀は、周作みずから編んだ北辰一刀流で、こんにちの剣道の源流のひとつになった」。

 「かれは剣術に、体育論的な合理主義をもちこみ、古来、秘伝とされてきた技法のいっさいを洗いなおして、万人が参加できる流儀を編み出した。剣術史上の周作の位置は、明治初年に柔術の諸流を再検討してあらたに柔道を興した嘉納治五郎に似ている」。

 「明治5年から10年ぐらいの時期までの塾の一覧表をながめていると、いまでもそこに通いたいような塾がある」。

 司馬遼太郎が、たとえば、として挙げているのは、中江兆民の仏学塾である。「兆民は官立の東京外国語学校校長であるかたわら、塾をひらいたのである」。

 実用のものとしては、「測量のしかたを教える普通測量学校や簿記を教える学校、あるいは顕微鏡のつかい方を教える学校があって、新しい時代の "手に職" という分野だったといえる」。

 「医師試験の予備校がふえてくるのは、明治15年ごろからである」。

  (神田の街)

 さて、今の神田は、大東京の一角を占める普通のビル街に思えるが、こうして由緒を知って歩くと、それなりにどこか洗練された趣が感じられる。

 神田駿河台2丁目にある「丸善」のお茶の水店で、ノートを買った。家の近所のスーパーの文房具売り場で見つからなかった手ごろなノートがあった。

 近くの喫茶店のテラス席でコーヒーを飲んで一服した。

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<東方正教会のニコライ聖堂>

 ニコライ聖堂はキリスト教の正教会(東方正教会)の教会である。正式名称は「東京復活大聖堂」というそうだ。

 西ローマ帝国の都ローマを本拠に、西ローマ帝国滅亡後も、西欧から中欧へかけて勢力圏を拡大していったのがカソリック(普遍的の意)教会。

 それに対して、東ローマ(ビザンチン)帝国の都コンスタンティノープル(今はトルコのイスタンブール)を本拠に、東ヨーロッパ諸国に広がっていったのが正教会(オーソドックス)。

 日本においては、幕末、函館のロシア領事館付きの司祭として来日したニコライ(のち大主教)によって初めて布教された。彼は、函館から東京に出て、明治17年にこの聖堂を起工した。

 「ニコライ大主教は、明治の日本人から好かれた。日露戦中も日本に踏みとどまり、露探などという低いレヴェルの中傷にも耐えた」。

 聖堂は関東大震災で大きな被害を受け、昭和4年(1929)に大改修されている。

 1962年に国の重要文化財に指定された。

  (ニコライ聖堂)

 高さ35mのタマネギ型のドーム屋根をもつビザンティン様式の聖堂。レンガ造り。駿河台の高台に建つ。

 これまでヨーロッパ旅行をし、行く先々でカソリックの大聖堂を見学した。また、ギリシャやトルコでは東方正教会の中にも入って拝観した。

 ヨーロッパの旅で、私が心ひかれたのは第一に街並み(風景としての街、街のたたずまい)。その次にその町の中心にある大聖堂。人々を含めてその建物の内部の雰囲気。

 お城や、王侯貴族の宮殿・邸宅なども見学したが、むやみに巨大であったり、永遠を誇ったり、豪華絢爛であったりする美学には、日本人である私には馴染めなかった。

 私は、どんな普遍的な宗教でも、或いは、普遍的であるためには、伝播されたその土地の風土や人々のものの見方、感じ方、考え方を取り入れていく必要があると考える。それは元のものからは大なり小なり変容するということだが、そうしなければ異郷の地に根付くことはない。

 今、日本人がイメージするキリスト教は、ヨーロッパに根付き、ヨーロッパ化した「キリスト教」である。それは、南欧や、中欧や、北欧の風土やその地の民俗に彩られたキリスト教である。そして、ヨーロッパ化されているからこそ、日本人には受け入れやすいのだ。

 同じように、今、日本に根付いたキリスト教も、日本人のキリスト教徒が意識しているかいないかは別にして、日本人のものの見方、感じ方、考え方で受けとめられた「キリスト教」である。欧米化されたままのキリスト教であるはずかない。

 明治の初めに多くの有能な人材を輩出した札幌農学校は、また、日本の初期プロテスタントの発祥の地であった。その地で、アメリカ人教師のクラークは生徒たちに「gentlemanであれ」と教えた。生徒たちはこれを「武士たれ」と理解したという。gentlemanは武士とイコールではない。だが、その精髄において、相呼応している。相呼応しながら似て非なるものである。

 普遍性をもつということは、こういうことである。

 そういう意味で、日本に根付いた東方正教会のニコライ聖堂に入って、その中を拝観してみたかった。

 だが、コロナの影響もあって、ミサの時以外は公開されていなかった。残念。

 ウィキペディアによると、リトアニア領事館領事代理として、ナチスから逃れるユダヤ人たちに多くのビザを発給したことで知られる杉原千畝は正教徒だったそうだ。また、西南戦争のときに兄に与せず、新政府中枢で活躍し続けた西郷従道の長男も正教会の信徒だったという。

      ★

 本郷通りに面するホテルに泊まり、夜、食事がてら聖橋から御茶ノ水駅あたりを歩いてみた。

  (夜の聖橋)

 聖橋の上から、JRと地下鉄の列車が上下3段に交差して走る様子が見え、面白かった。

 昼間、桜の花びらの筏を並べていた神田川は、闇の底に沈んでいた。

   (聖橋の上から)

 

 

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