ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

能登国の一の宮へ … 冬の北陸の旅 (1)

2019年03月27日 | 国内旅行…冬の北陸へ

      ( 雪の残る気多大社 )

 昨秋、能登半島をめぐるツアーに参加した。

 秋も深まり、年を越え、寒さが一段とこたえるようになったころ、寒いときには寒い所へ行くのが一番だと、再度北陸への2泊3日の旅に出た。

 今回の旅の目的は、秋に参加したツアーが素通りした能登の国の一の宮である気多(ケタ)大社に参拝すること。

 あとは、…… できたら、雨晴(アマハラシ)海岸から、冬の立山連峰を望めたらいいなあ。しかし、これは、お天気しだいだから、あまり期待しない。冬の北陸のイメージは、吹雪や大雪だ。

 もう一つある。昔、出張で行って、夜、富山駅前の居酒屋で食べた白エビやブリの刺身がびっくりするほど新鮮で美味しかった。あれをもう一度。「お酒は "熱め" の燗がいい」。

     ★   ★   ★

特急に乗り遅れる >

 1月21日(月)。

 今日は、七尾線の羽咋(ハクイ)駅で下車して、能登一の宮の気多(ケタ)大社に参拝し、そのあと、ローカル線を乗り換え、乗り換え、乗り換えして、雨晴(アマハラシ)駅のそばの「磯はなび」という宿に泊まる。

 ところが出だしでつまづいた。大和路線が遅れ、タッチの差で、大阪発の特急サンダーバードに乗り遅れた。

 今回の旅はローカル線の乗り継ぎが多く、綿密に計画を組んでいたのだが、全て大阪駅のプラットフォームでやり直しに。

 それでも、宿に1時間遅れで着く計画を作り直した。スマホは便利だ。

 当初の計画より30分遅れのサンダーバードに乗った。

         ★

七尾線に乗る >

 琵琶湖の北岸あたりから雪景色になることを期待していたが、積雪はなく、ぽかぽかと暖房の効いた車内で読書して過ごし、早い目の昼飯を食べた。

 12時過ぎ、金沢駅で七尾線に乗り換える。当初の予定なら、ここで特急に乗り換えられるはずだったが、大阪で乗り遅れて、羽咋まで1時間弱かけのんびりと行く。

 ( 七尾線の車中 )

 どこにでもあるローカル線ののどかな車両だが、女子高生が勉強しているのがいい。

 七尾線は、金沢から日本海に沿って北上し、羽咋で方向を変えて、能登半島を西から東へと横断。波静かな七尾湾の和倉温泉まで行く。

 一、二日前に降ったらしい積雪が、薄く田野を覆っていた。

 この曇天では、雨晴海岸からの立山連峰の雄姿は、望むべくもない。だが、それは最初からあまり期待していない。人生、あまり欲張らない方がいい。

  ( うっすらと雪景色の田野 )

        ★

「羽咋」の名のいわれを聞く >

 羽咋駅で下車した。次に乗り継ぐ列車まで1時間足らず。本数の少ない路線バスを待つ余裕はないので、駅前からタクシーに乗って気多大社を目指した。

 

 タクシーの運転手は心得て、運転しながら付近の観光案内をしてくれる。

 それで、ふと、「羽咋(ハクイ)って、ずいぶん珍しい地名ですが、何か名のいわれがあるんですか」と聞いてみた。すると、運転手のおじさんは一呼吸おいて、「こんな風に聞いています」と、話してくれた。

 昔、この地方に巨大な怪鳥が出現し、村人を襲い、凶作が続き、疫病が蔓延して、村は疲弊した。

 このとき第11代の垂仁(スイニン)天皇が、その第10皇子の磐衝別(イワツク ワケノ) 命(ミコト)を派遣した。「岩を衝く」というのだから、勇猛な皇子だったに違いない。

 垂仁天皇は、第10代の崇神天皇とともに、実在した可能性が高いとされる最も古えの大王である。記紀によると、若いときから英名の誉れが高い。

 磐衝別命は供として連れてきた3頭の犬とともにこの怪鳥と戦い、矢で射、剣を振るって、ついに怪鳥を倒した。だが、この戦いのなかで、3頭の犬は死んだ。

 犬は怪鳥の羽に喰らいつき、最期まではなさなかったという。

 羽に喰らいついてはなさなかった犬を称えて、「羽咋」の名が生まれた …… のだそうだ。

 …… 聞いてみるものだ。「ハクイ」という地名が「羽咋」になった。

 磐衝別命はそのままこの地に住み着き、子孫は羽咋君(ハクイノキミ)を名乗って、国造(クニノミヤツコ)になった。

   羽咋駅の近くに羽咋一族の墳墓群があるそうだ。

 そのなかの磐衝別命の墓と伝えられる墳墓は100mの前方後円墳で、陵墓参考地に指定されている。また、犬を弔った水犬塚や、命(ミコト)の剣を埋めた剣塚などもあるとのこと。

 記紀によれば、畿内を掌握した第10代崇神天皇は、叔父や従弟を四道将軍に任命して北陸道、東海道、山陽道、山陰道に派遣した。それに続く第11代垂仁天皇のときにも、不穏な動きのある豪族の制覇行があって、この話もその一つが伝説化したのもしれないと想像したりした。

 山陽道に派遣された吉備津彦命は桃太郎伝説となった。桃太郎はイヌ、サル、キジを率いたが、この地の話で磐衝別命はイヌ3頭を率いた。サルやキジより、現実感がある。

         ★

気多大社に参拝する >

 車は二の鳥居の前に着き、運転手に見送られて参道を歩き、拝殿へと向かう。

 右手に社務所があり、左手に手水舎。正面には安土桃山時代の神門。最近降ったらしい雪が、神門の屋根を白く覆っている。ここが能登の国の一の宮だ。  

   ( 気多大社神門 )

 日陰に残雪が残り、人気のない、しんとした雰囲気のなか、拝殿にて参拝した。

 ( 境内図 … 「入らずの森」 )

 拝殿、本殿の奥は森になっており、森の中に奥社があるらしい。

 だが、この神社の森は「入らずの森」とされ、神官でさえ、年1回、大晦日の夜に松明をもって入り、神事を行うだけだ。

 1万坪の原生林は、タブ、ツバキ、シイ、クスノキなどの常緑広葉樹が密生し、国の天然記念物に指定されている。

  ( 森を垣間見る ) 

 これもタクシーの運転手の話だが、昭和天皇の行幸があったとき、天皇はお迎えした金沢大学の植物学の先生とこの森に入られた。ところが、いつまでたっても出てこられず、石川県警やSPの人たちは、禁断の森の中へ様子を見に入るわけにもいかず、ずいぶん気をもんだそうだ。

 二の鳥居まで戻り、タクシーに乗る。

 参道は二の鳥居からそのまままっすぐ南へ延びて、途中、国道を横切り、海に到る。そこには海に向かって立つ一の鳥居がある。海に開かれた神社なのだ。能登は、そういう所だ。

 祭神は大己貴(オオナムチノ)命。別名、オオクニヌシ。入らずの森の奥社に祀られているのは、スサノオとその妻クシナダヒメ。

 遠い古代において、出雲の政治的影響力は日本海に沿い、北陸に及んでいた。古事記にも、オオナムチが北陸のヒメと結婚する話が出てくる。

 オオナムチ(オオクニヌシ/オオモノヌシ)を祭神とする出雲系の神社の広がりを見れば、茫々とした古代もほんのわずか垣間見ることができるように思う。中部地方の諏訪湖のそばの諏訪大社も、初期ヤマト王権が尊崇した大和の三輪山をご神体とする大神神社も、縄文時代からある神祀りの場だったが、その後のある時期から出雲系の神を祀っている。こうしたことから、出雲の勢力圏の広がりを推測できる。そうすると、ヤマト王権への「国譲り」神話も、何らかの史実の反映ではないかと思われてくる。少なくとも、「国譲り」の「国」は出雲一国のこととは思われない。

 タクシーの運転手は、列車の時間までまだ余裕があるからと、日本海の海岸に寄り道してくれた。

  ( 雪の残る日本海 )

 雪の残る砂浜へ下りていくサーファーがいた。曇天の暗い海だが、意外に波は良いのかもしれない。

         ★

雨晴海岸は曇っていた >

 七尾線で「津幡(ツバタ)」までもどって、とやま鉄道に乗り換える。

 さらに、「高岡」で40分の待ち合せをして、氷見線に乗り換えた。あと少しだ。

 氷見線の車内に、雨晴海岸から望む立山連峰の写真が吊られている。この景色を見ることができたらいいなあ。だが、曇天である。

 

  ( 氷見線の車内 )

 ほどなく列車は富山湾に沿って北上する。

 あっ、見えた。

 

   ( 車窓から )

 だが、すぐに暗い雲に隠れた。

 人けのない「雨晴」駅に着く。

  ( 雨晴駅 ) 

 小さな駅舎を出て、海岸に降りてみるが、小雨まで降ってきた。

 やむなく、宿に電話し、迎えに来てもらう。もう午後5時だ。

        ★

  こ゚の夜泊った「磯はなび」は丘の上にあり、立山連峰は見えなくても、波静かな富山湾と能登の山並みを一望にして、素晴らしい。

 夕食のレストランで、若い女子が飲み物の注文を聞きに来た。「生ビールと燗酒を」「……?? キリンとか、アサヒとかありますが、…… カン酒はありません」「……??」。しばらくやりとりして、「熱カンはあります」「……(笑い)……、では、熱燗を。でも、あまり熱すぎないように」。

 どうも、「缶酒」と思ったらしい。

 日本は日本酒ばなれが進んでいるが、日本酒ほど旨い酒はない。ワインも美味しいが、果実酒は飽きる。それに、体が冷える。日本酒は温めて飲めば、体にもやさしい。温めて飲んで旨い酒は、世界でも限られている。

 しかし、最近、「熱燗」という言葉が使われるようになり、日本酒を知らない居酒屋の女子が、熱湯に近い酒をもってくるようになった。それで、居酒屋で「熱燗」という言葉は使わないようにしている。「燗酒」が通用しないのなら、これからは「お酒を燗にしてください」と言うことに。

 海の幸の食事がとても美味しかった。若い人には量的にもの足りないかもしれないが、私には十分。生きのよい、美味しいものを、少量ずついただくのが良い。

 

 

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海に雪 … 讀賣俳壇から

2019年03月19日 | 随想…俳句と短歌

 讀賣新聞紙上に「讀賣俳壇・歌壇」が載るのは月曜日の朝刊。コーヒーを飲みながら、作品を一つ一つ味わう時間はなかなかの至福の時です。

 作品の出来不出来ではなく、私の心に響いた俳句や歌をメモします。今回は俳句に心ひかれる作品が多くありましたので、紹介します。

   秋の句から、冬、そして春の句へ。

     ★   ★   ★

 最初は秋の句を一つ。

〇 草紅葉 鎮守の森へ 誘へる (「大和よみうり文芸」から)

    (広陵町/山口善美さん)

※ 「讀賣俳壇」は全国版。この作品は、日曜日に奈良県の読者のために作られているローカル版の「大和よみうり文芸」から見つけました。

 私は健康のために、気が向けば近所をウォーキングします。健康のためなら、本当は毎日歩かねばいけません(自戒)。

 そのウォーキングの途中、いつも鎮守の森に立ち寄ります。ですからこの句は、私の日常と重なって、「ここにもひとり月の客」(去来抄)という感じです。

 「草紅葉」も、「鎮守の森」も、「誘(イザナ)へる」も、心地よい言葉のつながりです。

        ★

 次は冬の句を三句。五七五という世界最小の短詩形式は、日本の冬の季節に似合うのかもしれないと、冬の句の一つ一つを味わいながら思ったりしました。   

〇 十二月 八日海上 雲厚し

   (神奈川県/中島やさかさん)

※ 1941(昭和16)年12月8日未明、ハワイ島真珠湾にあった米国太平洋艦隊と基地に対して、日本海軍の航空機及び潜航艇が奇襲攻撃をかけ、壊滅的打撃を与えました。太平洋戦争の始まりです。

 「海上 雲厚し」がただならぬ緊迫感と、その後の日本の命運を予感させるようで、優れた句だと思います。

 私は、その23日後の未明に生まれました。

 戦いは東アジア、南アジア、南太平洋から西太平洋という地球的規模に広がり、やがて日本は追い詰められて、B29による空襲やグラマンの機銃掃射の中を私は生き延びたようです。

 もの心ついたときには、私が育った城下町は、米兵をはじめオーストリア兵やインド兵などの占領軍が街にあふれていました。戦争に敗れ、外国の軍隊によって国土を制圧され、日本国民は小さくなって生きていました。ピストルをぶら下げて街を闊歩する外国の兵は怖かった。日本の歴史の中に、こういうことは二度とあってはならないと思います。

    

◎ いまひとたびの あふこともがな 海に雪

    (北上市/佐々木清志さん)

※ 七七五の変形の句です。上二句の七七は、百人一首のなかの和泉式部の歌、「あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな」の下二句の引用です。

 このとき、和泉式部は重い病に臥せっていました。歌の意は、「私はもうこの世に生きられないでしょう。なので、あの世の思い出に、もう一度だけ、あなたに逢いたい」 ── 恋に生き、恋に死ぬ、恋多き女性、和泉式部らしい歌です。

 作品については、選者の正木ゆう子氏の評に尽きると思います。

 「『もう一度会いたい』という和泉式部の和歌の下句に、『海に雪』を付けただけだが、なかなかの雰囲気。虚構でも、恋句とはいいものだ。平仮名の連続が、雪片を思わせる」。

 私のイメージは、波濤打ち寄せる暗い冬の日本海と、そこに舞う雪です。津軽三味線の響きが絶え絶えに聞こえくるような……。「女の情念」を感じます。

 作者は男性。正木先生がおっしゃるように、虚構の句ですね。切々とした女の情念を歌った石川さゆりの「天城越え」も、作詞は男性ですから。

 「和泉式部の和歌の下句に、『海に雪』を付けただけ」だが、才を感じます。17文字で物語の世界を作り上げています。

 近代俳句の土台をつくった正岡子規は「写生」を唱えました。写生の大切さは承知しているつもりですが、写生ばかりが俳句ではないように思います。俳句の「俳」とは遊び心です。虚構の世界に遊ぶのもまた面白い。しかし、それにはセンスが必要です。なかなか真似しても及ぶものではありません。凡人は、やはり写生からでしようか。

〇 地魚も 地酒も寒く なればこそ

   (枚方市/船橋充子さん)

※ 1月に、石川、富山に行ってきました。地魚も、地酒も美味しかった。酒はもちろん、燗酒です。

        ★ 

 さて、今は春三月。春の句にも、なかなかすばらしい作品がありました。そのなかから三つ。

〇 冴返る 床踏み鳴らす 能舞台 

    (春日部市/岩木弘)

※ 「冴(え)返る」は春の季語。「そろそろ暖かくなりかけたと思うと、また寒さが戻ってくるのをいう。寒さがぶり返すと、ゆるんだ心持が再び引きしまり、万象が冴え返る感じをもつ」(歳時記から)。

 しんと冷え込む空気の冷たさと、シテが能舞台の床を踏みたたく硬質の音とが響きあい、身が引き締まります。これも日本的美の世界ですね。  

◎ 春時雨 四条木屋町 石畳

    (大津市/竹村哲男)

※ 漢字ばかりですが、漢詩ではありません。れっきとした日本の俳句です。

 「はるしぐれ しじょうきやまち いしだたみ」。

 「時雨」は秋の終わりから冬にかけて、降ったりやんだりする冷たい雨のことですが、「春時雨」は春雨ですからもっと明るい感じ。場所は京の四条木屋町。四条大橋を東から西へ、鴨川を渡ったあたり。その石畳に春の雨が降る。しっとりと、艶のある風情で、日本的抒情です。

 この句にも才を感じます。こういう句に接すると、自分も作句してみようという気持ちも萎えてしまいます。

〇 たんぽぽや 島を囲んで 濤(ナミ)寄せる

    (横浜市/矢沢寿美)

※ まさに春の句です。どこの島でしょうか。旅に出たくなりました。

 

  

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