ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

旅のはじめに…観光バスでまわるフランスの旅1

2022年04月24日 | 西欧旅行…フランス紀行

   (モナコの街の風景)

<「観光バスでまわる」とした意味>

 10年以上も昔のことになるが、2010年10月、旅行社企画のフランス旅行のツアーに参加した。

 今回はその旅の記録である。「観光バスでまわるフランスの旅」という題にした。

 「観光バスでまわる」としたのは、少々の否定的な気持ちも込められている。

  「もっとじっくり見たい」とか「この町で1泊して、歴史や文化や町の雰囲気を味わいたい」と思う場所も、「こんな所はパスしようよ」と思う見学先もあるが、そういう個人的な思いとは関係なく、旅行社のツアーは、客を観光バスに乗せて、定番とされる観光スポットを目まぐるしく連れまわす。

 だが、そういうことはツアーに申し込むときからわかっていた。それでも  、もの足りないことはわかっていても、フランスという国をざざっと、駆け足で見て回るのには、こういうツアーは便利なのだ。

 一度、自分の目で見ておくと、ガイドブックを読んでも、さらにその地の歴史や文化を知ろうと本を読んでも、よくわかるのだ。

 一度も実際を見ずに、ガイドブックや歴史の本を読んでも、活字を追うばかりでなかなか頭には入ってこない。

 以前、このブログに「早春のイタリア紀行」を書いたが、この旅も、はじめ旅行社のイタリアツアーに参加して、そのあといろいろと勉強して、何を見たいかが明確になって、自分で計画を立てた旅だった。

      ★

<パリでカメラを盗られたこと>

 なお、前回の終わりにも書いたが、私がフィルムカメラからデジタルカメラに変えたのは、世間から相当に遅れて、2009年のことだった。

 実は、旅行中、パリでカメラを盗られた。

 個人旅行でプラハとパリへ行った最後の夜、シャンゼリゼを歩き、その後、エッフェル塔を見に行こうと、凱旋門で地下道に降りた。そして、世界からやってきた観光客で混雑する地下鉄の改札口で、4人組の若者たちにバッグからカメラを抜き盗られた。カメラは一眼レフで、ズームレンズも装着していたし、さらにその日に撮影したフィルムも入っていた。

 強奪されたわけではない。パリにはもう何度も来ていたから、シャンゼリゼや凱旋門のあたりは世界一、スリの跋扈する所だと十分に知っていた。だが、巧妙なチームプレイに鮮やかにやられてしまった。その手口を詳述すれば、これからヨーロッパ旅行に出かけようと思っている人の参考になると思うが、長くなるのでここでは書かない。だが、彼らが狙っていたのはカメラではない。さらに財布を盗ろうとしたので、私も気づいた。気づかれたと知ると、彼らは脱兎のごとく地下道を走って逃げた。そのとき、若い4人組だとわかった。

(フィルム写真から/シャンゼリゼと凱旋門)

 ホテルのフロントでも、警察に行くタクシーでも、警察署でも、「犯人を見たか??」と聞かれた。「見た」と答えると、誰もが「アラブか??」と言った。アラブだろう、と確信を持っている。多分、パリの人たちは、そういう話をたくさん、見聞きしているのだろう。

 EUが難民を受け入れることを大変美しいことのように思っている日本人は多い。だが、日本人が思うほど、移民・難民が大切にされているわけではない。

 私が目撃した若者たちは、パリに多い黒人の若者たちではなく、また、中東系の若者たちでもなく、10代の終わりぐらいの白人の若者たちだった。多分、もとからのフランス人やパリっ子ではないだろう。人は白昼、自分が生まれ育った地元で、スリやかっぱらいを働いたりはしないものだ。

 EUは拡大し、しかも地続きだから、人々はいくらでも豊かな方へ流入してくる。EU内ならパスポートも要らない。しかし、流入してきても、フランスやドイツの社会の基盤(中流以上)は、日本以上に固定化している。フランスやドイツで3Kの仕事をしている人の多くは、EU内の貧しい国からやってきた労働者、そして、「アラブ」や、旧植民地からやってきた黒人などの移民、難民たちである。技術もなく、言葉も話せず、ツテもなければ、生きていくのは難しい。

 あるとき、パリの旧市街から郊外へ向かう地下鉄に乗った。日本の小学校で言えば、4、5年生ぐらいと思われる白人の細身の男の子が、器を持って車内を回ってきた。乗客の3人に1人ぐらいがコインを入れていた。駅に着いてドアが開くと、男の子は車両からホームへ出た。窓から見ていると、ホームの反対側に行き、器の中から小銭(セント)を選り分けて、ポンポンと線路に投げ捨てた。1ユーロコインや2ユーロコインだけを残したのだろう。そして、発車間際に隣の車両に乗った。今度は隣の車両を回るのだ。その子の無表情な顔つきや機敏な動作を見ていて、多分、同年齢の日本人のどんなガキ大将でも、この子と喧嘩したらやられるだろうな、と思った。

 日本には、地下鉄の車両で器を回す小学生はいない。

 ヨーロッパや日本の知的エリートが書いた本を読んで、ヨーロッパを理想化して思い描いている人がいる。だが、そういう本とは別の現実もあるのがヨーロッパだ。

 ただし、優しい人、親切な人、見ず知らずの老人を手助けする人、一日が明るくなるような優雅な挨拶をしてくれる人、そういう人にも出会えるのがヨーロッパである。

 さて、カメラを盗られたあとの経緯。

 翌朝は、帰国の飛行機に乗らねばならなかった。それでも、とにかくホテルから保険会社のパリ支店に電話した。すると、「〇〇警察に行け」という指示。もう夜も遅かったし、そもそも持っているガイドブックのマップには警察署の位置まで書かれていない。それで、ホテルでタクシーを呼んでもらった。その警察署がどこだったのか、今でもわからない。

 警察署では、若い警察官たちは、私が東洋人であることを見て、みな尻込みした。それを見て、彼らの上司である中年の穏やかな警察官が、「私がやろう」と言って聴取してくれた。彼は英語ができた。こちらは少しばかりの英語と身振り手振りで説明して、何とか調書を書いてもらった。終わったら、午前0時を回っていたので、警察官にタクシーを呼んでもらってホテルに帰った。心身ともに疲れ果てていたが、それから帰国の荷づくりをし、シャワーを浴びて、寝た。

 しかし、パリの警察署が作ってくれた調書のお陰で、盗られたカメラと同レベルの、しかも、新品のデジタルの一眼レフとズームレンズを買うお金が、保険会社から送金されてきた。

 というような経緯で、私もデジタルカメラになった。この事件がなければ、未だにフィルムカメラにこだわっていたかもしれない。

 2012年にブログを始めたが、デジタル写真のお陰でブログに写真も簡単に入れることができた。

 ブログ開始以前のヨーロッパ旅行の写真も、2009年以降のものはパソコンに残っているから、2009年10月の「ドイツ・ロマンチック街道の旅」と、2010年3月の「早春のイタリア列車の旅」は既に当ブログに書いた。

 そのあとに続くのが、今回の2010年10月の「フランス紀行」である。

  ★   ★   ★

<これまでのフランスの旅>

 フランス旅行は、今回のツアー参加が初めてではない。

 最初は1995年。視察研修旅行でドイツとフランスへ行った。

 フランスの視察先はルマンという中都市だった。日曜日の1日、研修仲間でバスをチャーターし、ロワール河畔のお城巡りをした。 

 もちろん、研修の最終日にはパリ観光もした。

 だが、ロワールのお城よりも、花の都パリよりも、私はフランスの大地(或いは風土)に感動した。

 当時の私の記録から ── 「なだらかな丘陵はあるものの、緑の牧草地や黒っぽい耕作地は地平線まで続き、その中を道路はどこまでも延びている。車窓から遠くに見える農家の家々は、古い石づくりだ。日本では夕日は山の向こうに沈み、フランスではどこまでも続く畑の向こうに沈む。夕日を背にして、教会の尖塔とそれを取り巻くような村のシルエットが地平に望まれる」。

       ★

 初めてのパリは、大阪や東京とたいして変わらぬ大都会だと思った。

 その後、パリには、フランス語は言うまでもなく、英語もできないのに、個人旅行で4回も行った。そして、訪ねるたびに、次第にパリの美しさがわかるようになっていった。

 特にセーヌ河畔は、端正で美しい。

 パリとシャルトル、パリとヴェネツィア、パリとウィーン、パリとプラハというふうに、パリを起点にして、ヨーロッパ個人旅行の経験を広げたいった。

 そして、フランスの全体を、ざっとでよいから、一度見て回りたいと思うようになり、今回の旅行社のツアーに参加したのである。

       ★

 それにしても、コロナになってこの2年。ヨーロッパはすっかり遠くなってしまった。

 さらにその上、プーチンが戦争を始めた。

 オランダ航空やドイツ航空やフランス航空で、シベリアの上を延々と飛んでヨーロッパに到る、そういうことは、もうかなわなくなってしまった。

 ウクライナは自分たちの「根っこ」の地を守ろうとしているだけだ。根を張る土壌さえあれば、そこから新しい命が芽吹く。

 だから、この戦いは簡単には終わらない。

   ★   ★   ★

<旅の行程> 

 「自由」とは、道に迷ったり、時にスリの被害に遭ったりしても、心のままに、自由に、どこへでも、行けること。

 また、いつか、そういう世界になってほしい。

 さて、この旅の行程は、以下のようであった。     

第1日>  (10月5日)

 関空→フランクフルト

 →ニース(泊)

第2日> (10月6日)

 カンヌ─ニース─モナコ

    ニース(泊)

第3日> (10月7日)

 ニース→アルル→ゴルド

 →アヴィニョン(泊)

(アヴィニョンの橋)

第4日> (10月8日)

 アヴィニョン→ボンデュガール

 →カルカッソンヌ(泊)

  (カルカッソンヌの城)

第5日> (10月9日)

 カルカッソンヌ→ロカマドール

 →トゥール(泊)

第6日> (10月10日)

 トゥール→ロワールの古城

 →モン・サン・ミッシェシェル

 モン・サン・ミッシェシェル(泊)

(車窓からモン・サン・ミッシェル)

第7日> (10月11日)

 モン・サン・ミッシェシェル

 →パリ(泊)

第8日> (10月12日)

 パリ→ベルサイユ→パリ(泊)

 (夕暮れのパリ)

第9日> (10月13日)

 パリ→フランクフルト→関空

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

菅浦の国宝文書と景観 … 近江の国紀行8/8

2022年04月14日 | 国内旅行…近江の国紀行

   (波除けに守られる菅浦の集落)

 周囲の山々が風を遮るから菅浦の入り江は穏やかである。だが、一旦悪天候になると、強風とともに高波が押し寄せるそうだ。そのため、湖に沿う集落を守るために防波堤がつくられている。

 人間にとって自然はやはり脅威なのだ。

      ★

<国宝の菅浦文書(モンジョ)のこと>

 ここまで、「かくれ里・菅浦」の人々が伝えてきた伝承や祭祀のことを書いてきた。

 だが、菅浦は白洲正子の『かくれ里』には書かれていない一面をもつ。そして、そちらの方が菅浦の表の歴史かもしれないと思う。

 菅浦は日本の中・近世史の研究において学術的に貴重な文書(モンジョ)と絵図を伝え提供した。

 その文書と絵図は、須賀神社の「開けずの箱」(他郷の者には見せない箱)の唐櫃に納められていた。

 大正時代に京都帝国大学の教授らによって世に出され、大正、昭和と研究されて、今は滋賀大学の資料室に保管されている。

 〇「菅浦文書(モンジョ)」65冊

 〇「菅浦与大浦下庄堺絵図」(菅浦と大浦下庄との境を示す絵図)1幅

である。

 昭和51年に国の重要文化財に指定され、平成30年には国宝となった。

 国宝指定の際の文化庁の報道機関への発表資料には、以下のように記されている。

 「菅浦は、琵琶湖の北岸から突き出た岬にある村落で、①中世から自らの掟(オキテ)を持つなど、村落の自治が発達していた。堺絵図は、②隣庄の大浦と境界を争ったことにより作成したもの。中世村落史研究上、我が国で群を抜いて著名な資料群である」(数字とアンダーラインは筆者)。 

① 日本の中世の村落では、自立的・自治的村落共同体の「惣村」が発達した。菅浦文書は、「惣村」が実際にどのようなものであったかを具体的に教えてくれる貴重な文献資料である。

② その文書の相当部分は、隣村の大浦との150年以上に及ぶ土地争いの訴訟のために作成された。絵図も、その境を絵画的に描いた一種の「地図」である。

 隣の大浦との間に棚田があった。山と湖しかない民にとって、米は貴重であった。この棚田の領有をめぐって隣村と延々と争い続け、その過程で自治的村落共同体として成長していった。訴訟で争ったから、その内容は文書化され、かつ、大切に保存されてきた。

 前回も書いたが、菅浦は今も地域を東と西の2組に分けている。

 中世においては、この東と西の各組から10人ずつの「乙名(オトナ)」が選ばれ、その下に「中老」、「若衆」からなる組織があった。

 掟もあった。例えば、人を罰するには私的な関係を優先することなく、証拠を重視し、乙名による合議制の裁判によることと定められているそうだ。

 中世において、北近江の京極氏の支配は菅浦にも及んでいたが、守護大名の統治能力はまだ小さく(官僚組織や軍事組織がまだ未発達だった)、支配は緩やかなだった。逆に言えば、守護大名はあまり当てにならず、様々なことに自分たちで対処しなくてはならなかったのだ。

 戦国大名の浅井氏が台頭すると村の自治権は奪われていき、やがて豊臣秀吉の検地・刀狩(兵農分離)、さらにこれを受け継いだ江戸幕府の統治で、近世的な村落に移行していった。

 しかし、日本の村落には、近世以後も、農漁業の営みや祭祀に関して、寄合いで話し合い、協力・協同するという村の自治は残されてきた。

  ★   ★   ★

<菅浦の湖岸集落を歩く>

 須賀神社参拝のあと、山ふところにある神社から湖の方へと、参道とは別ののどかな小道を下って行った。

  (須賀神社からの小道)

      ★

 菅浦には現在、4寺院があるらしい。

 集落のちょっと小高い場所に「淳仁天皇菩提寺長福寺跡」の説明板が立っていた。

 「淳仁天皇は、舎人親王の皇子で、天平宝字2年(758)に即位。天平宝字8年(764)9月、藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱により流されて亡くなる。淳仁天皇の配流先は淡路島とされるが、淡海の菅浦に流されたという伝説があり、須賀神社の祭神として祀られ、長福寺を菩提寺とする 長浜市」。

 長福寺は今、阿弥陀寺という寺に併合されているようだ。

      ★

 湖岸に沿って、つづらお崎の先端の方へと歩いて行った。

  (石積み・石垣で囲われた菅浦の家々)

 入り江に沿う家々は、強風・高波から家々を守るために石積みや石垣で囲っている。

  (大銀杏の遠望)

 大銀杏が見える。その横に、石の大鳥居がのぞいている。鳥居と比べると、大銀杏はいかにも大きい。

      ★

 入り江になっているから、菅浦の里から竹生島は見えない。

    しかし、つづらお崎の先端から、竹生島は近い。

(海津大崎あたりから見たつづらお崎と竹生島)

 平安時代の末ごろには、菅浦は、比叡山の傘下にあった竹生島弁財天の荘園的存在だったこともあるようだ。

      ★

 さらに歩いて行くと、東の四足門があった。西の四足門より古く、江戸時代に再建されたものらしい。

   (東の四足門)

 扉がなく、他郷との出入りを禁じる機能を果たせたのか疑問だが、村の内外の領域を象徴的に示したかったのかもしれない。「ベルリンの壁」よりずっと人間的だ。

      ★

 岬の突端はまだ先だが、よく歩いた。もうこのあたりで引き返そう。山のあなたへどこまでも行って見ようという年齢ではない。

   (菅浦の遠景)

 ここからも須賀神社の大銀杏が見える。

 こうして見ると、山々が湖岸まで迫っているのがよくわかる。日本は山国である。

 菅浦は「菅浦の湖岸集落景観」として、「国の重要文化的景観」の一つに指定されている。

 その選定理由には、

〇 菅浦の景観は、奥琵琶湖の急峻な地形に生業と生活によって形成されてきた独特のものである。

〇 それは、中世の『惣』に遡る強固な共同体によって維持されてきた文化的景観であり、『菅浦文書』等により集落共同体の姿を歴史的に示す稀有な事例である。

などと記されている。(牛のよだれのように続く漢語の多い官僚的文書を簡潔に言い換えるのはなかなか難しい)。

 また、その後、菅浦は、「琵琶湖とその水辺景観 ─ 祈りと暮らしの水遺産」の構成要素の一つとして、「日本遺産」に認定されている。

 人間の営みのある風景や景観を、伝承や文化財を含めて守る …… 戦後の大量生産・大量消費の時代から、日本もやっと、成熟した、質の高い国への第一歩を歩みを始めたようだ。

  ★   ★   ★

<再び菅浦の伝承について>

 帰路は奥琵琶湖パークウェイへ入り、途中、つづらお展望台から琵琶湖を望んだ。長浜の町、その向こうに伊吹山が少し霞んで高くそびえている。

 若い頃なら、ただ、きれいな景色だと思うだけだったろう。

 今は少し違う。長浜は壮年の日の秀吉が音頭を取って、交通の要衝に新しくつくった城下町だ。それまで近江には山城しかなかった。だから、今も長浜の人々は秀吉好きなのだ、などという歴史も思いながら眺める。

 

  (つづらお展望台から)

 伊吹山は、昔々、遥かに遠い昔だが、東征を終え、草薙ぎの剣を尾張のミヤズヒメのもとに残して大和へ向かったヤマトタケルが、この山中で伊吹の神と素手でたたかった。氷雨に遭い、一旦は気を失い、体力を喪失したヤマトタケルは、故郷を目指して必死に前に進もうとするが、やがて力尽き、望郷の歌を詠んで、命を落とす。そして、白鳥になって大和へ向かって飛んでいったという。

 「やまとは国のまほらば たたなづく青垣こもれる やまとし麗はし」。

 伊吹山を遥かに望むとき、この伝承を抜きに見ることはできない。

      ★

 藤原仲麻呂の乱の最後の決戦は、高島だった。その戦いでかろうじて生き残った仲麻呂の一族の数人が、湖岸伝いに菅浦の里まで逃れてきて、村に隠れ住んだのかもしれない。もともと尊王の心のあった菅浦の村人たちは彼らを受け入れ隠し続けた。

 そのように考えるなら、実際は遠い淡路で悲劇的な最後を遂げた淳仁天皇を、菅浦の人々がこの地で祀り続けてきたことも理解できるような気がする。

      (了)

  ★   ★   ★

<次回以後の内容について>

 コロナになって、ヨーロッパ旅行に行けなくなった。海外旅行どころか、国内旅行もままならず、感染状況を見ながら、県内や近県を巡るようになった。

 そうしているうちに、改めて大和国、近江国をはじめ、河内国・和泉国、紀伊国などのことを知り、どんどん興味がわいた。転んでもただでは起きなかったことは、自分を褒めてあげたい。

 そういうことで、例えば「かくれ里・吉野の川上」など、まだまだ書きたいことがある。

 だが、コロナの前から、やり残し、気になっていたこともある。

 フィルムカメラの時代のことは置いておくとしても、デジタルカメラになってから(世間が、ではなく、私がデジタルカメラになってから)のヨーロッパ旅行の記録を2回分、まだブログに書いていない。

 このブログを書き始めたのが2012年だから、それ以前の旅である。

 2009年10月の「ドイツ・ロマンチック街道の旅」と、2010年3月の「早春のイタリア列車の旅」は書いた。

 そのあとに続く2つの旅である。2010年10月の「フランス周遊の旅」と、2011年5月の「ドナウ川の旅」。

 もう10年以上も前の旅の記録になるが、このブログの表題「ドナウ川の白い雲」に到るこの2つについては書き残しておきたい。

 まず、2010年10月の「フランス周遊の旅」。これは旅行業者のツアーに参加した旅だが、次回からこの旅のことを書きたいと思う。

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

塩津菅浦 今かこぐらむ … 近江の国紀行7/8

2022年04月08日 | 国内旅行…近江の国紀行

      (大銀杏と須賀神社の鳥居)

<菅浦の大銀杏>

 琵琶湖の湖岸の地形は単調だが、北端部まで来ると、山の尾根は半島となって湖へ流れ落ち、入り江が入り組んで、美しい静かな景観をつくり出している。

 深い入り江の奥にある大浦の里からつづらお崎へ向けて、つづらお半島の西岸を走った。道路は、つづらおの山が湖のそばまで迫っていて、湖岸を切り開いて付けられた道路だ。

 コロナのせいもあるのだろう。前方にも後方にも、車の影はない。

 やがて、左手の山側に「奥琵琶湖パークウェイ」の標識が立つ分岐。

 湖北の西側の高島から、東側の長浜へ抜けるには、この山の中の道を行くしかない。カーブが多く、急峻な登り降りがあり、鹿、イノシシが出そうな道路だが、春は桜の名所だそうだ。「つづらお展望台」からの眺めは、春であろうと、秋であろうと、絶景である。

 分岐に入らず、そのまま湖岸の道を進むと、まもなく道路は尽きる。道路の終点に「広場」のような空間が広がる。ここが菅浦の集落の玄関口である。 

 (須賀神社前の大銀杏)

 「広場」も「玄関口」も、勝手にそう感じたということで、長浜市の観光案内の菅浦の説明にそう書いてあったわけではない。

 大銀杏が印象的だ。大銀杏の向こうに、黒い屋根瓦の家々がのぞいている。

 「広場」の右手は琵琶湖の湖畔で、湖畔に立つと、楕円の入り江に沿って菅浦の家並みが連なるさまが眺望できる。

 外来者(観光客)用の小さなパーキング・スペースと公共のトイレがある。

 ただし、ここにも、集落の中にも、売店とか、喫茶店とか、コンビニその他の店舗はない。コロナになる前は、民宿と割烹のお店があったようだが、今は開いていない。

 正面の大銀杏と左手の大銀杏との間に、石の鳥居が見える。この神社が、菅浦の中心である須賀神社である。

       ★

<夢幻能の世界のような>

 銀杏の落ち葉が散り敷いて、ベンチが置かれている。近くに西の四足門も立つ。

 大鳥居の前に立つと、目の前に山が迫力をもって迫ってきた。

  (鳥居と参道)

 このまま参道を進めば、鬱蒼とした山の中へ吸い込まれていくのではないかという気がする。現実と異界が交差する「夢幻能」のワキになったような気分だ。

 しかし、そんなはずもなく、ゆっくりと参道を進んでいく。

 前方に、二つ目の石の鳥居が見えた。

 (二つ目の鳥居)

 人の気配は全くなく、依然として「山の入口」へ向かって進む感じだ。

      ★

<遥かなる菅浦の歴史>

 振り返ると、一の鳥居のすぐ向こうは、湖が入り込んだ入り江である。入り江の向こうは、つづらおの突端の岬だ。

  (振り返れば湖)

 地形から言えば、菅浦の集落は大きな琵琶湖の最奥部の小さな入り江にへばり付くようにして存在する。

 しかし、現代社会から見れば、世間から隔絶したようなローカルな集落だが、その歴史は遥かに古い。

 つづらお崎の湖底からは縄文遺跡が出ている。菅浦の裏山の山腹からは弥生時代の集落跡が見つかった。

 この参道の入口の脇に、立派な石造りの歌碑が建てられている。

 「高島の あどのみなとを 漕ぎ過ぎて 塩津菅浦 今かこぐらむ」(小弁 『万葉集』巻9)

 「あど」は安曇川の「安曇」。

 高島の安曇川の河口にある港を漕ぎ過ぎて、今は塩津、菅浦のあたりを漕いでいるのだろうか。

 小弁という人がどんな人かはわからない。あるいは、地方官名かもしれない。歌の部立は「雑歌」。恋の歌ではない。

 万葉の頃には、舟が湖上を行き来し、菅浦は琵琶湖の舟どまりの一つであった。

 歴史研究者によると、菅浦は贄人(ニエビト)が定着した集落ではないかと言う (網野善彦「湖の民と惣の自治 ─ 近江国菅浦」)。

 贄人とは、天皇に魚介などの特産物を貢納した民で、律令時代以前から存在したという。律令以前というと、飛鳥時代とか、さらに遡れば古墳時代になる。そういう民であったから、天皇(大王)に対する特別の親近感があったのかもしれない。

 奈良時代の淳仁天皇は、平城京から琵琶湖岸の保良(ホラ)宮に出かけて滞在されたという。歴史家は保良宮の場所は湖南(大津市)ではないかと言うが、確たる文献証拠や発掘があったわけではない。菅浦の人たちは、ここ、即ち、須賀神社のある場所に保良宮はあったと伝えてきた。

      ★

<須賀神社にお参りする>

 参道の最後の石段の下に、手水舎があった。

  (手水舎)

 ここより先は履物を脱ぎ、裸足で石段を上がって、参拝することになっている。

  (拝 殿)

 長浜市の説明板があった。それによると、

 拝殿の奥に東本殿と西殿の2社がある。東本殿の祭神は淳仁天皇。

 そして、その背後には、淳仁天皇の墓と伝える舟形御陵が残っているそうだ。

 しんとした、秋の日差しの差し込む神前で、参拝した。

       ★

<今、菅浦の祭祀はどのように行われているか>

 今、須賀神社の祭祀はどのように行われているのだろうか??

 ネットを検索すると、長浜市地域おこし協力隊員として2015年から活動されているという植田淳平さんの記事が見つかった。かつて須賀神社の氏子総代を務めらておられた須原伸久氏へのインタビュー記事である。

 以下、その内容から、ポイントだけ。

 2013(平成25)年に、淳仁天皇の1250年祭が行われた。50年ごとに行われる祭祀で、菅浦にとって最大のイベントである。菅浦に生まれても、一生に一度かかわるだけ。うまくいけば2度目は体験者として、経験を伝える貴重な古老となる。

 毎年の祭祀もある。4月の第1週の土、日に「須賀神社例祭」が取り行われる。(今年は4月2日、3日)。このお祭りには神輿を出す。昔は曜日に関係なく行われていたが、今は土曜、日曜に設定しないと人手が足りないそうだ。

 「新嘗祭」は11月。午前2時に本殿に行き、供え物をして、作法に従って参拝する。

 こういう祭祀が年4回ぐらいはあるが、それ以外にも、毎月1回、お参りして祝詞をあげる。

 もちろん、日頃から社の鍵を管理したり、周辺の清浄を保つ必要もある。

 そういう祭祀を誰が執り行うのだろう??

  菅浦では、遠い昔から、地域を東西の2地区に分けている。この2地区が1年交代の当番で神事に当たってきた。

 専任の神主さんはいない。当番の地区は、「神主」として9人を選び、氏子総代(複数)とともに神事を担う。

 神主は世帯の順番制。氏子総代は1期3年で、村人全員による選挙で選ぶ。

 神主の9人は3人1組で4か月ごとに交代し、4月の例祭のほか、上記のような数々の神事を執り行う。そのときは、ふだん菅浦を離れている人も帰省して役目を果たす。

 いずこも同じだが、今、人口減と子供がいないことが最大の問題のようだ。神輿を担ぐ人の数も少なくなって、祭りの日に戻ってこられる人の数によって、3台のうち何台の神輿を出すか決めなければならない。

 インタビューに応じた須原氏は、氏子総代のとき、後世に残すために祭事の写真集を作られたそうだ。 

       ★

 「淳仁の みかどの伝え 今に尚 人々親しも 菅浦の里」

 菅浦だけではない。何百年、或いは、千年以上も前から伝えられ、残され、世代を経て続けられてきたことが、近代社会の「進歩」の中で、特に戦後のスクラップ・アンド・ビルドの大変動によって、失われていった。変化の速度は幾何級数的に速くなっている。

 便利になったこと、良くなったことも多いが、失われてはいけなかったモノやコトも多いように思う。

 私たちの世代は、この激変を見てきた。

 今は世の片隅で、ただ、ため息をつくばかりだ。

   ★   ★   ★

 上記のこととは関係ないのですが、先日、読売歌壇に掲載されていた歌の中から1首を紹介します。

すきとおる 水をあらわす 「露」という

   うつくしい字を 血で染めないで 

      (上尾市/関根裕治さん)

 【ことば(詩歌)】だけでは、命や平和や人間の尊厳は守れませんが、【ことば】もまた、人間の「真実」を伝えるものとして大切です。そういうことを教えてくれる1首だと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

湖北の「隠れ里」再訪 … 近江の国紀行6

2022年04月02日 | 国内旅行…近江の国紀行

    (湖北の夕景)

 湖北でも、東側の尾上のあたりから西を見ると、琵琶湖の最北端部から細長い半島が伸びているのがよくわかる。

 この半島の向こうは深い入江になっていて、入江の最奥部に大浦の集落がある。

 半島のとん先は葛籠尾(ツヅラオ)崎という。菅浦の集落は、このみ崎のすぐ裏側の小さな入り江にある。

 現代の地名では、滋賀県長浜市西浅井町菅浦。

 2015年における菅浦の世帯数は72、人口は177人。ローカルで、小さな集落である。ちなみに江戸時代の1792年は、戸数は102、人口は477人だった。

 白洲正子の紀行集『かくれ里』にも取り上げられている。独自の伝承をもち、祭祀を行い、自治を続けてきた「かくれ里」である。

   ★   ★   ★

<菅浦との出会い>

 「近江の国紀行5」の続きとして書いている ── 大原から朽木を経て、安曇川沿いに高島へ出たあと、琵琶湖の西岸の道を北へ北へと走る。今日の目的地は最北端の菅浦。

 菅浦を訪れるのは、今回が3度目になる。

 1度目は、予期せぬ出会いだった。 …… もう30年以上も前になるだろうか?? 記憶はぼんやりしている。

 北陸道を湖北まで走り、余呉湖に出て、さらに「賤ケ岳古戦場」の案内を横に見ながら、カーブの多い道路を走った記憶がある。

 運転に倦み、遥々と遠くまで来たと思い始めた頃、菅浦という鄙びた漁港に出た。

 ローカルな、ありふれた漁村だと思った。観光客の姿は全くなかった。

 集落の入り口と思われる所に茅葺屋根の門が立っていた。門の横に説明板があった。「四足門」と言うらしい。説明を読んだが、その内容は理解できなかった。

 

  (西の四足門)

 今も長浜市が設置した「西の四足門」の簡潔な説明板が立っている。

  (西の四足門の説明)

 「四足門」は集落の東西に立っている。もとは「四方門」とも呼ばれ、集落の四方に立てられて、集落の領域と外界を区切っていた、とある。

 最初に訪れた時の説明板は、もう少し詳しかったような気がする。

 この集落は、四方に門を立て、よそ者を警戒し、外界と自分たちを区切ってきた。長くそういう歴史を保持してきた。

 今はそれほど閉ざされていないかもしれないが、自分のような外来者が集落の中に入って、小さな、静かな里の中を、好奇の目で見て回ってはいけないと思った。そう感じてそのまま引き返した。

 そのときのドライブのことはほとんど忘れてしまったが、琵琶湖の最北端の小さな鄙びた漁村のことは、ずっと頭の片隅に残った。

      ★

<2度目は「琵琶湖周遊の旅」>

 2度目の菅浦訪問のことは、当ブログ「琵琶湖周遊の旅」の4「湖北、賤ケ岳と菅浦」(2021,1,19)に書いた。

 2泊3日で琵琶湖を1周しようという旅の動機の一つとして、菅浦を再訪したいという思いがあった。そう思うようになったのは、白洲正子の『かくれ里』の中の一文、「湖北 菅浦」に心ひかれたからである。

 ちなみに、紀行集『かくれ里』の中の圧巻は、「吉野の川上」だと思う。その次が「湖北 菅浦」。

 「琵琶湖周遊の旅」の1日目は、船で竹生島をお参りした。

 長浜から竹生島へ渡る船の、船上から眺める琵琶湖の風景は広やかで明るく、竹生島に上陸して見学し、また、寺社に参拝をすると、遠くから写真の点景としてとしてしか見ていなかった島が、それ以後、意味のある島として眺められるようになった。

 この前方後円墳のような形をした小さな島を、おそらく2千年以上も前から、人々は信仰の対象にしてきたに違いない。日本の風景とは、そういうものだと思う。

 (海津大崎あたりからの竹生島)

 「琵琶湖周遊の旅」の2日目の予定は、反時計回りに、長浜を出発して、湖北、そして、湖西をひた走り、湖南の石山にもう1泊する計画だった。

 ところが、「付録」のようなつもりで計画の冒頭に組み入れていた賤ケ岳古戦場からの湖北の眺望があまりに美しく、ついついそこで時間を過ごしてしまった。琵琶湖第一の眺望かもしれない。

 結局、計画は緒戦で大きくくずれ、時間がなくなって、本命の菅浦も立ち寄っただけになってしまった。

 そういうことで、今回は菅浦へのリベンジのドライブ旅行である。

       ★

<高島から菅浦へ向かう>

 高島から海津港を過ぎて、桜で有名な海津大崎へ。海津大崎のとん先から竹生島の写真を撮った。竹生島は目の前で、季節になればここから竹生島へ遊覧船が出るようだ。

 海津大崎と葛籠尾(ツヅラオ)崎の二つの半島の間が大浦の入り江である。入り江は奥が深く、その最深部に大浦の集落がある。

 

  (大浦の町)

 入り江の最深部の大浦の集落を過ぎると、葛籠尾(ツヅラオ)崎の半島に付けられた道路を南下していく。

 人里からはどんどん遠くなり、すれ違う車もなく、走るにつれて湖畔の道は神秘的になっていった。

  大浦と菅浦の間に道路が開通したのは1966(昭和41)年である。道路は自衛隊が切り開いた。それまで、菅浦の里は船でしか行き来できない陸の孤島だった。

 以下は白洲正子『かくれ里』からである。

 「この辺に来ると、人影もまれで、湖北の中の湖北といった感じがする。特に大浦の入江は、ひきこまれそうに静かである」。

  (大浦の入り江)

 「菅浦は、その大浦と塩津の中間にある港で、岬の突端を葛籠尾(ツヅラオ)崎という。…… 街道から遠くはずれる為、湖北の中でもまったく人の行かない秘境である」。

        ★

<菅浦の住人が語り伝えてきた伝承>

  (菅浦の里)

 菅浦は長く交通不便な僻地だったが、それだけではない。「(この村は) つい最近まで、外部の人とも付合わない極端に排他的な集落であったという」。

 「それには理由があった。菅浦の住人は、(自分たちを)淳仁天皇に仕えた人々の子孫と信じており、その誇りと警戒心が、他人を寄せ付けなかったのである」。 

 淳仁天皇とは?? …… 話は奈良時代の後期に遡らなくてはならない。

 仏教への帰依の心が篤かった聖武天皇と后の藤原光明子との間に生まれた男子は幼くして亡くなり、第1皇女の阿倍皇女が帝位を継いだ。孝謙女帝である。  

 聖武天皇の亡き後、光明皇太后の下で、皇太后の甥の藤原仲麻呂が頭角を現し、政務の中心になっていく。

 皇太子には、大炊王(オオイノミコ)が立てられた。

 大炊王は舎人親王の第7子。舎人親王は、天武天皇の皇子の一人だが、天武・持統の直系ではない。元正女帝や聖武天皇をよく補佐し、また、『日本書紀』編纂の総括者として歴史に名を残し、生前の功績から没後、太政大臣に叙せられている。

 しかし、舎人親王の子の大炊王は、皇太子位に就く前、藤原仲麻呂邸に住んで仲麻呂の娘婿のような存在であった。大炊王が皇太子となり、やがて天皇になれば、藤原仲麻呂の権力基盤はさらに盤石になる。

 ほどなく、孝謙女帝は退位し、大炊王が淳仁天皇となった。

 だが、平和は続かなかった。孝謙上皇の母であり、藤原仲麻呂の叔母でもあった光明皇太后が亡くなると、孝謙上皇と、太政大臣になっていた藤原仲麻呂との仲が悪化した。

 764年、「藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱」が勃発。

 仲麻呂が目の上の瘤のような孝謙上皇を排除しようとクーデターを企図したとされるが、真相はわからない。

 孝謙上皇は先手を取り、「仲麻呂反乱」を宣言をして、直ちに三関を固めた。

    仲麻呂は一旦、影響下の近江国へ、さらに越前へ脱れて再起を図ろうとするが、朝廷軍を率いた吉備真備に悉く先手を打たれ、湖西の高島へ引返して決戦となるも、一族悉く殺された。

 乱平定後、淳仁天皇も捕らえられ、親王に降格されて、淡路島の高島に幽居された(淡路廃帝と呼ばれる)。現代の歴史研究者は、淳仁天皇は仲麻呂の乱にかかわっていなかったと見ている。

 一方、孝謙上皇は重祚( チョウソ )して(帝位にかえりさいて)、称徳天皇となった。

 孝謙上皇(称徳天皇)は女性とはいえ、天武天皇から聖武天皇へと続く天武直系の皇統。仲麻呂は若い頃から光明皇太后に目をかけられ、己を恃むところ強く、女性と思って甘く見たのだ。しかも、吉備真備のような天才を上から目線で軽く見ていた。勝ち目はない。

 その後の歴史。

    重祚して一旦は称徳天皇となったが、いずれ皇族の中から男子を選び、皇太子を立てる必要があった。しかし、女帝は、父の聖武天皇以上に仏法によって世を治めるべきという思いが強く、僧道鏡に帝位を譲ろうとした。これは和気清麻呂らによって阻止される。そして、女帝死後、臣下一致して道鏡を退け、思い切って天智系の子孫である白壁王を天皇として迎えた。光仁天皇である。既に61歳の、人格円満、政務に通じた帝だった。平安京へ遷都した桓武天皇の父帝である。

 一方、仲麻呂の乱の翌年、淳仁廃帝は淡路島からの脱出を試みるが捕らえられて、翌日、不明の死を遂げた。

 以上が、正史である。

 ところが、菅浦には別の伝承が伝わっている。

  「菅浦の言い伝えでは、その『淡路』は、『淡海』のあやまりで、高島も、湖北の高島であるという。菅浦には、須賀神社という社があるが、…… 祭神は淳仁天皇で、社が建っている所がその御陵ということになっている」(白洲正子『かくれ里』)。

 そして、先に引用したように、「菅浦の住人は、(自分たちを)淳仁天皇に仕えた人々の子孫と信じており、その誇りと警戒心が、他人を寄せ付けなかった」というのである。

 集落の4つの門は、そういう意味をもつ。

 また、菅浦では、淳仁天皇の没後、50年ごとに法要が営まれてきたという。1863(文久3)年に1100年祭。1963(昭和38)年に1200年祭。2013(平成25)年には1250年祭が行われた。

      ★

 今回は須賀神社にも参拝し、菅浦の集落も歩いてみるつもりである。

 (あと、1回、続きます)

 

 

 

      

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする