ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

春野行くバス … 読売俳壇・歌壇から

2018年12月28日 | 随想…俳句と短歌

    ( ブルゴーニュの野で )

 今回は、この数か月の間に読売俳壇、読売歌壇に掲載された俳句や歌の中から、手帳に書き留めておいた作品をいくつか紹介したいと思います。

 私は俳句にも歌にも全く素人で、自分で作ったことはありません。ここに取り上げる作品も、作品の良し悪しを基準にして選んだわけではなく、私の感性に響き、私の気持ちや気分を代弁してくれているように感じる作品を取り上げています。作者の皆様には、不躾をお許しください。

     ★   ★   ★ 

春野行く バス一人降り 一人乗り

  (小松市 / 山形 一彰さん)

※ 「春野」「バス」という言葉から浮かんでくるのは、春のブルゴーニュの旅の一場面です。ローカル鉄道もこの先へは行かず、ローカルな大聖堂を訪ねるために、ローカルバスに乗り換えました。

 ブルゴーニュの野を走る小型の乗り合いバスは、日本と同じように人手不足なのか、地元のマダムの運転でした。

 客の少ないそのバスが、林や畑の中の道をまるで野ウサギのごとく疾走し、手に汗を握りました。

 最近、日本でも、大型バスの若い女性ドライバーが次々誕生し、人気を得ているようです。なにしろ制服姿や、大きなハンドルを鮮やかに回す姿がカッコいいのです。

 ローカルバスのこういうのどかな句を読むと、また、「岬めぐりのバスに乗って」、日本の旅に出たくなります。

        ★

〇 奥会津 そのまた奥の 遅桜

  (須賀川市 / 関根 邦洋さん)

※ 選者の評に、「奥会津は雪の多いところだが、そのぶん春が生き生きとしていて、風光に一級品の趣がある」、とありました。

 関西に住む人間にとって、東京より東の地には遥けさを感じます。まして、「奥会津」という語感は、「山のあなたの空遠く」です。しかも、選者が、「雪の多いところだが、…… 風光に一級品の趣がある」と言っておられますから、ますます心ひかれてしまいます。鈍行列車の旅もいいですね。

        ★ 

〇 生涯を 娶らぬ不幸 墓掃除

  (東京都 / 金沢 洋治さん)

※ 「不幸」は、この場合「親不幸」のことでしょう。

 もし優しいお嫁さんがいて、孫たちに囲まれて人生の終わりを迎えることができたら、ご両親はもっと幸せだったでしょう。先祖からの墓を受け継ぐ者が絶えてしまうのも、淋しいことです。

 しかし、ご両親にとって、そういう淋しさは、何とか折り合いをつけることができます。

 ご両親にとって最期まで心配だったのは、この先、一人で生き、そして一人で死んでいかねばならない息子の行く末の淋しさです。そのことを案じながら死んでいかねばならない …… それがいちばん親不幸だったかもしれません。

 子は親にしてあげられなかったことを思いますが、親は子の幸せが気になるのです。

 季語は、「墓掃除」で秋。

        ★

〇 小鳥来る 村に一社と 一寺あり

   (日高市 / 駿河 兼吉さん)

※ 素人ながら、調べました。「小鳥来る」は、「渡り鳥」などとともに秋の季語なのです。

 一般には、春に来て、秋に帰っていく鳥(夏鳥)も、秋にやってきて、春に帰っていく鳥(冬鳥)も渡り鳥ですが、俳句では秋に渡ってくる鳥が「渡り鳥」なのだそうです。夏鳥は群れをなさない。一方、冬鳥が澄んだ空を大群で渡ってくる様は壮観で、季語となったそうです。雁や鴨をはじめ、小鳥ではつぐみ、ひわ、あおじなどです。

 稲刈りも終わった秋の野に鳥たちが渡ってきて、神社の杜が一つと、お寺の森が一つある。その大樹の中は小鳥たちのさえずりでにぎやか。日本の原風景です。 

        ★

〇 ひたすらに 月の出を待つ 団子かな

   (土浦市 / 白田 ノブ子さん)

※ 月の出を待っているのは、もちろん団子ではありません。子どもたちでしょう。擬人法で、ちょっと微笑ましい句です。

 わが家に月見のできる風流な縁側があるなら、「花より団子」ならぬ「月に燗酒」ですね。

 ススキを生け、お団子を供える月見の風習も、今ではほとんど見なくなってしまいました。選者は、「現代のわれわれはなんと沢山のよき風習を失ってしまったのかと思う」と嘆いておられます。

辻邦生『時刻(トキ)の中の肖像』から 

 「1980年にパリ大学で日本文化論をフランス人学生に講義したとき、改めて年中行事の一つ一つを月を追って説明したが、その優雅な生活の色どりに、学生たち以上に、私自身が心を打たれた。新年の若水汲み、お雑煮から始まって、節分、雛祭り、端午の節句、七夕、お月見、そして大晦日の年越しそばに到るまで、私たちの祖先は真に生きることを深く楽しむことを知っていた。それは、西洋では味わうことのできない生の至福の数々なのだ。歳時記に現れた俳句の季語は世界文学の中でも大きな財産といえるものだ」。

 でも、月見のできるような縁側こそ今はありませんが、月は見ます。それも、西洋人やアラブ人とは違った感性で。月の明るい夜には、「雲が少しかかって、風情あるいい月夜だ」と思ったりします。居酒屋の名にも「望月」とか 「十六夜」とか …。そういう感性は日本列島がある限り、日本語を母語とする人々の中にずっとつながっていくと思います。

        ★

〇 元寇も 倭寇も朝の 海市より

  (北本市 / 萩原 行博さん)

※ 「海士(カイシ)」は蜃気楼のこと。春の季語です。「歳時記」によると、蜃気楼は、天候が良く、風の弱い日に起こりやすく、船舶、風景、人物などが空中に浮かんで見えることが多い。富山湾やオホーツク海沿岸が知られる、とあります。

 選者の評に、「どちらも『海市』すなわち蜃気楼から現れたとは、意表をつくとともに、実際にそのように見えたかもしれないと思わせる」とあります。

 たった17音の中に、時を超え、空間を超え、現実と幻の境を超えた世界がとらえられて、夢幻能のように、素晴らしい句だと思いました。

    ★   ★   ★

 志賀島(シカノシマ)神社は、海人族・阿曇一族が綿津見三神を祀った神社です。玄界灘に突き出した長い砂洲の先の小さな島にあります。

 唐・新羅軍の攻撃によって百済が滅亡したとき、救援のおびただしい軍船が船出したのはこのあたりでしょう。その先頭に阿曇の一族がいたはずです。

 鎌倉時代の元寇の時には、このあたり一帯が戦場となりました。

 その報復のために始まったと言われる倭寇の船は、対馬や松浦のほか、このあたりの湊にも出入りしたことでしょう。

         ★

 当ブログ「玄界灘の旅」から「海人・阿曇氏の志賀島へ行く」を参照

  ( 志賀島神社の拝殿 )

 ( 玄界灘を望む遥拝所 )

  

     ( 志賀島神社楼門 ) 

 「拝殿の前で参拝しているとき、突然、目の前に正装した宮司さんが現れて、驚いた」。

 「続いて、宮司さんは玄界灘を望む遥拝所で参拝された」。

 「そして、舞台を去るごとく、楼門から退場された」。

 「2千年の歴史が流れる、人けのない島の神社に起こった、幻のようなひとときであった」。

      ★   ★   ★

 皆さん、良いお年をお迎えください。 

  また、来年も

 

 

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紅葉の奈良散歩 … 興福寺界隈

2018年12月20日 | 随想…散歩道

   ( 再建された興福寺の中金堂 )

司馬遼太郎『街道をゆく24』から

 「興福寺という寺は、よく知られているように藤原氏の氏寺として発足し …… 規模は東大寺よりも大きかった。寺領にいたっては、中世、大和盆地一円を領し、国持大名というべき存在だった。

 私どもが、奈良公園とか奈良のまちといっている広大な空間は、あらかた興福寺境内だったといっていい。たとえば、私はこの期間、奈良ホテルにとまった。明治42年創立のこの古いホテルは、興福寺のなかの代表的な塔頭だった大乗院の庭園のなかに建っているのである」。

        ★

 藤原鎌足の夫人が夫の病気平癒を祈願して、現在の京都市山科に建立した寺を起源とする。山科は中臣氏の本拠地。

 その後、藤原遷都のときに藤原京に移転し、寺名も変えた。

 さらに、710年の平城京遷都とともに、鎌足の子・不比等によって現在地に移転され、名も「興福寺」と改められた。

 藤原氏の私寺だったが、不比等の死後、興福寺の造営は国家の手で進められるようになる。

 鎌倉幕府も室町幕府も、興福寺の武力・権勢をはばかって、大和国に守護職を置くことができず、信長、秀吉が登場するまで興福寺は大和国の実質的な守護であった。

 寺領は広大で、多くの塔頭が甍を競ったが、その中心は猿沢の池の北側、今も五重塔が残る一角である。やや小高くなったこの一角も、兵火に遭ったり、再三の火災に遭って、今、残っている建築物はいずれも創建当時のものではない。

 その五重塔の一角は、全盛期の奈良時代には、南から北へ、建造物が三列に整然と並んでいた。

 中央には、南から北へ、(南大門)、中金堂(今回、再建された)、(講堂)が並んでいた。

 その東側(若草山側)には、五重塔、東金堂、(食堂 ジキドウ)が建っていた。

 西側には、南円堂、(西金堂)、北円堂である。

   (    )は、焼失して、今は存在しない。

 ( 東の列の五重塔と東金堂 )

 東の列の南にある五重塔は、東大寺の大仏様とともに、奈良を代表する建造物である。

 不比等の娘で聖武天皇の妃である光明皇后の発願で創建された。現在の塔は1426年頃の再建。高さは50mで、京都の東寺に次ぐ。

 このように屋根が三重或いは五重にリズミカルに重なる塔のスタイルは、韓国にも中国にも存在しない。日本独特の様式美である。

 東金堂は、聖武天皇が伯母の病気平癒を祈願して創建した。1415年に再建され、国宝になっている。

 食堂(ジキドウ)は今はなく、興福寺の国宝館がある。この博物館に収納・展示されている木造、塑像などの諸像は、有名な阿修羅像をはじめ、日本文化を代表する超一級品である。その一つ一つが、個性的で、見ていて飽きない。

 阿修羅像について、「どう生きたらよいか自己のアイデンティティを求めて悩む天平の青春像」と、昔、読んだ何かに書いてあったように思う。「阿修羅」の仏教的意味はあるだろうが、それだけのものであったなら、普遍性をもって、こんなに現代人を魅了することはないだろう。

 宗教は観念或いは理想から出発し、芸術は生身の人間から出発する。

 真に優れた仏師は、パトロンである宗教を超えて(脱して、ではない)、ついに芸術家となる。

 宗教は神仏に似せて人間を改造せんとし、芸術はありのままの人間に美を見出す。

 古神道の良さは、神々が人を裁かず、人とともにあり、人を支える点にある。

          ★

 話を元に戻して、

 興福寺の中央のラインには、もともと南大門、中金堂、講堂があったが、いずれも焼失した。そのため、興福寺といえば五重塔だけの、何となく草の茫々とした広場という印象があった。

 一番重要な中金堂は、藤原不比等の創建以来、7回も焼失・再建を繰り返し、享保2年(1717年)の焼失後は、仮再建はされたが、本格的な再建はされなかった。それが平城遷都1300年(西暦2010年)を迎えるに当たって、国、県、そして学者らが集まり、再建チームがつくられた。再建に要する費用が集められ、発掘調査や文献調査も行われて、可能な限り当時のままの工法で、2018年に再建された。落慶法要が挙行されたのは、つい先日、10月8日である。

  ( 中金堂 )

 話は遡り、2、3年前のお天気のいい日。今日のように春日大社からJR奈良駅へ向けてぶらぶらと興福寺のこの一角へ歩いてきたとき、「中金堂再建のための勧進のお願い」という看板が目にとまった。一番お手軽は、丸瓦、平瓦が1枚1000円。上は、棟木材1口10万円など。「勧進いただいた方には芳名帳に記載し、後世に伝えさせていただきます」とあった。

 後世に名を伝えたいとは全く思わないが、日本の文化を後世に残す一助になるならと、貧者の一灯をさせていただいた。もちろん、お手軽な瓦を何枚か。

 ところが、思いがけずもこの秋、「この度、落慶法要を行うことになったので、ご出席いただきたい」というご招待をいただいた。

 もちろん、でき上った東金堂を見たいという気持ちはあったが、あの程度の貧者の一灯に畏れ多いという思いもあり、もしかして服装もそれなりに整えなければならないだろうかとか、延々と長時間の読経に付き合わねばならないかもしれないなどと、あれこれ慮って、後日、気軽に見学に行かせていただくことにした。

 それが今日である。

 晩秋の青空の下、藤原不比等による創建当時のお堂が、壮麗に再建されていた。東西36.6m、南北23m、最高高21.2m。

 こうして、この一角が、往時の姿に次第に復元されていくのは、うれしい。

 正面の釈迦如来像は5代目だそうだ。堂内も拝観した。

         ★

 興福寺中金堂の再建に心ばかりでも協力をしようと思ったのは、少し伏線がある。

 10年ほども前だが、一生に一度くらい吉野の桜を見ておきたいものと、吉野山の中の民宿に宿をとった。

 早朝、上の千本の桜を見ながら、そぞろ歩いていたら、小さな神社に出会った。吉野水分(ミクマリ)神社である。

 ミクマリがミコモリとなり、「子守の神様」となった。子授けの神様で、豊臣秀吉も参拝して秀頼を授かったそうだ。事実、現在の社殿は秀頼による再建である。

 もともと、「水分」即ち水を配る神様だった。古くはさらに上流にあったとされるが、雨乞いの神様として、奈良の朝廷からも崇敬された。

 山の中ゆえ、敷地は広くない。そこに、ロの字型に、本殿、楼門と回廊、拝殿、幣殿が囲うように建っている。拝殿で拝むと、背後に本殿があり、神様にお尻を向けて拝んで願い事が届くのかと落ち着かなかった。

 参拝者は少なく、こんもりして、古色蒼然。ひっそりした雰囲気のある神社であった。

 掲示があった。建物が古くなり、雨漏りがひどくなっている。檜皮(ヒワダ)を葺き替えないと建物が持たないが、檜皮は高価ゆえ葺き替えも難しい。ゆえに、ご寄進をいただきたいという趣旨で、檜皮1枚につき〇〇円と書いてあった。豊臣秀頼の創建であるから、すでに相当の年月を経ている。

 朝廷の援助はとっくになく、この山奥では氏子もおらず、このまま世界遺産を朽ちさせてはいけない。この程度では何の役にも立たないかもしれないと思ったが、財布から持ち合わせのお金を出し、檜皮何枚か分を寄付した。

 何年か経ち、すっかり忘れていたある日、お陰様で葺き替え作業が終わりましたという、丁寧な礼状が届き、恐縮した。

 新しい檜皮の良い香りがするような礼状だった。

          ★

 南円堂は、西国三十三所第9番の札所である。

 そのゆえ、この興福寺の一角で、いつも参拝者で賑わっているお堂である。 

 現在の建物は、1789年に再建された。フランス革命の年だ。何のつながりもないが、認知症気味の私でも、覚えていやすい年数だ。

  ( 南円堂 )

 白洲正子『西国巡礼』(講談社文芸文庫)  に南円堂について、次のようにある。

 「弘仁4年(813)藤原冬嗣の創建で、本尊の不空羂索観音は、鎌倉時代の康慶の作である。何度も火災にあったので、現在のお堂は徳川期の建築だが、がっしりとした建築で、興福寺の五重塔が正面に望める」。

 「そういえば、この南円堂にしても、興福寺という、甚だ貴族的な大寺の一部であるとはいえ、藤原冬嗣は、弘法大師の勧めにより、一族の守り本尊だった観音を、一般民衆に開放するため、新たに造ったお堂であるという。当時の貴族としては、ずい分思い切ったやり方だが、冬嗣という人は、そんな風に心の温かい大人物であったらしい」。

 「南円堂は、今は小さなお堂に過ぎないが、嬉々として群れつどう人達を見て、私は『気宇温裕』と呼ばれた藤原の大臣の精神が、いまだにそこに生きつづけていることを知った。そして、この尊敬すべき人物が、弘法大師にまみえた時の、感動の深さを描いてみずにはいられなかった」。

 私の義弟は、四国八十八カ所も、西国三十三カ所もお参りした。

 そのご利益だろうか、大阪のアマ囲碁界の大御所の一人で、今でも、時にプロに勝ち(もちろんハンディを付けてもらってだが)、「自分は年を取ってなお進化している」と喜んでいる。

         ★

 南円堂の北の西金堂は今はなく、その北に北円堂がある。

  ( 北円堂 )

 こちらは年2回しか開帳せず、訪れる人もなく、青空を背景にひっそりと建っている。

 かつて、たまたま開帳の日に行き会わせ、お堂の中に入ったら、ここもまた、素晴らしい仏像が並んでいた。

 現在の建物は1208年の再建で、興福寺に現存している建物のなかでは最も古く、国宝である。

 ここから地面がやや低くなった所に回り込むことができる。すると、かわいい三重塔が、誰からも忘れられたかのようにひっそりと建っている。立地する地面が低いから、よけいに目立たない。

         ★ 

  この一角は全体にやや高台にあり、石段をとんとんと降りると、下に猿沢の池がある。

 その手前の三条通りを歩いてJR奈良駅に向かうのが、いつものコースである。

 遠い昔、小学校の修学旅行で来て、この三条通りのどこかの旅館に宿泊した。その宿ももうない。

 

司馬遼太郎『街道をゆく24』から

 「奈良が大いなるまちであるのは、草木から建造物にいたるまで、それらが保たれているということである。世界中の国々で、千年、五百年単位の古さの木造建築が、奈良ほど密集して保存されているところはないのである」。

 京都も良いが、私には、京都はちょっとよそよそしく感じる。「お邪魔します」という感じだ。

 その点、奈良は、私だけでなく、誰が訪れても、なつかしい感じがするのではなかろうか。

 京都のお寺は、表からはうかがえないが、奥に瀟洒なお庭などがあって、洗練されている。しかし、京都の文化は応仁の乱以後であり、奈良のお寺はずっと古い。

 ヤマトタケルの望郷の歌に出てくる「大和は国のまほろば」の「大和」はここではないのだろうが、「国のまほろば」という感じがするところがいい。

 唐の長安を見たければ、西安よりも奈良に行け、とも言われる。

 まだ観光客の歩いていない、朝、6時とか、7時の奈良が良い。年を経た樹木や石灯篭の間から朝の光が斜めに入り、町の人が打ち水をしたり、店開きの用意をしたりしている。

 そういえば、入江泰吉さんの写真にも、そのような景色があつたような気がする。(了)

 

 

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紅葉の奈良散歩 … 東大寺界隈

2018年12月15日 | 随想…散歩道

 11月の終わりに奈良散歩に出かけた。

 奈良公園は紅葉の名所というほどではないが、今年の紅葉をまだ見ていないので、手向山八幡宮の紅葉を見に行こうと思い立った。

 もう一つある。興福寺の中金堂が300年ぶりに再建され、10月初めに落慶法要があった。享保2年(1717年)に焼失して以来の復元である。遠くに住んでいるのならともかく、JR奈良駅まで電車で30分足らず、これは拝観に行くべきである。

         ★

 JR奈良駅から市内循環バスに乗り、大仏殿の辺りは内外の観光客と鹿センベイを求める鹿でごった返しているであろうと、一つ手前の「氷室神社」で降りた。

司馬遼太郎『街道をゆく24』から

 「 東大寺の境内には、ゆたかな自然がある。

 中央に、華厳思想の象徴である毘盧遮那仏(大仏)がしずまっている。その大仏殿をなかにすえて、境内は華厳世界のように広大である。一辺約1キロのほぼ正方形の土地に、二月堂、三月堂、三昧堂などの堂宇や多くの子院その他の諸施設が点在しており、地形は東方が丘陵になっている。ゆるやかに傾斜してゆき、大路や小径が通じるなかは、自然林、小川、池があり、ふとした芝生のなかに古い礎石ものこされている。日本でこれほど保存のいい境内もすくなく、それらを残しつづけたというところに、この寺の栄光があるといっていい」。

 大仏殿の正面から一本西の小径をスタートし、戒壇院で北へ向きを変え、突き当りの二月堂からは若草山に沿って東辺の小径を歩き、春日大社を南下する … このように大仏様を囲うように歩くのが、私のお気に入りのコースの一つである。

 まずは大仏殿の西側の静かな小径を進む。今は奈良学園所有になっている閑静な和風大邸宅の前を通って、依水園の前に出る。

 依水園は若草山や御蓋山を借景にした池泉回遊式の名庭だ。だが、今日は先を急いで、土塀の残る小径を北へと歩いていく。

 ほどなく写真家・故入江泰吉さんの旧居の前を通る。昔、この辺りが気に入ってよく散策に来ていたころ、入江さんはまだご健在だったから、いつもご自宅の前をちょっと気にしながら通ったものだ。奈良公園で写真撮影しているところを拝見したこともある。その頃に買った『入江泰吉大和路巡礼』という6巻の写真集が本箱にある。

 その旧居に付属している公衆トイレを使わせてもらって、もう少し北へ進むと、戒壇堂に出る。この辺りは、私の特に好きな一隅である。ここまで来る観光客はちらほらしかいない。

 唐の戒律の第一人者とされる鑑真が、波濤を超えて日本にやって来たのは754年(天平勝宝6年)。翌年、鑑真のために、大仏殿の北西の地に戒壇院が建立された。入口で拝観料を払ってもらったパンフレットの「東大寺戒壇院伽藍絵図」を見ると、創建当時は回廊がめぐらされ、金堂、講堂、僧房など多くの建造物が並ぶ堂々たる一角であったことがわかる。だが、その後の三度の大火で全て焼失してしまった。今、残る唯一のお堂・戒壇堂は江戸時代に再建されたものだ。

 小さなお堂の中には、天平彫刻の最高傑作とされる四天王が四隅を固めている。

 「私は、奈良の仏たちのなかでは、興福寺の阿修羅と、東大寺戒壇院の広目天が、つねに懐かしい」(司馬遼太郎『街道をゆく24』から)

 この辺りの東大寺、興福寺にゆかりのあるお堂や博物館をめぐると、四天王像にはあちこちでお目にかかる。いずれも国宝或いは国宝級の傑作であるが、戒壇堂の四天王像は、その中でも最高傑作である。

 特に、広目天。戒壇堂の広目天は、剣や鉾などの武器を持たぬ。周りの三体の激しい「動」に比し、形相も体の動きも相対的に「静」。だが、それだけに、うちに秘めた迫力を感じる。眉を顰めて遠くの敵を凝視するその手には、左手に巻物、右手に筆。私は、阿修羅像よりも、こちらのファンである。

 戒壇堂は布で覆われて工事中。どこもそうだが、堂内の像は撮影禁止。従って、写真はない。

 ヨーロッパでは、美術館内のミロのビーナスでもダ・ヴィンチやミケランジェロの作品でも、或いは大聖堂内のイエスやマリアの絵や彫刻でも、フラッシュをたかなければ撮影できる。

 寺院の側からすれば、仮に仏への信仰心はなくても、せめてはその前に静かに座り、長い歴史の中でこの仏を拝んできた多くの人々のあったことに思いを馳せ、これを造った仏師の力量に思いを致してほしい。ガヤガヤしゃべり、先を争うようにコンパクトカメラで写し、さっさと次の観光先へ去っていく内外の観光客に対して、腹立たしいと感じるのは理解できる。

 対象に対する敬意や愛情がなければ、いい写真は撮れない。写真撮影は祈りの心に近いと思う。

        ★  

 戒壇堂からさらに北へ進めば正倉院に出る。だが、そちらへは行かず、東へ向かう。若草山の方へとゆるい上り坂となり、少しばかり石段もあって、風情のある径である。

 突き当りに二月堂が見えるこのカーブした坂道は、私の好きな径である。私だけでなく、絵の会のメンバーの方々が、よくこの辺りで画架を広げて写生をしている。 

 

司馬遼太郎『街道をゆく24』から

  「私は(東大寺の)この境域のどの一角も好きである。 

 とくに一カ所をあげよといわれれば、二月堂のあたりほどいい界隈はない。立ちどまってながめるというより、そこを通りすぎてゆくときの気分がいい。東域の傾斜に建てられた二月堂は、懸崖造りの桁や柱にささえられつつ、西方の天にむかって大きく開口している。西風を喰らい、日没の茜色を見、夜は西天の星を見つめている」。

 ( 西方の天にむかって大きく開口している )

        ★

 二月堂からまた方向を変え、若草山の山沿いの道を、南へと歩く。

 二月堂の隣は三月堂(法華堂)で、ここの日光・月光菩薩を拝顔したくて、中に入った。

 人っ気はなく、小さなお堂に不空羂索観音像をはじめ、四天王像や金剛力士像が立っている。いずれも国宝である。

 日光・月光菩薩像はなかった。尋ねると、東大寺ミュージアムの方にあるとのこと。

 以前、ここで日光・月光菩薩を拝顔したのはいつだったのだろう。記憶が茫々として、もしかしたら、遠い学生時代だったかもしれない。ただ、いいお顔、懐かしい佇まいだった印象だけが記憶の底に残っている。

 お堂を出て、振り返って見ると、改めて、麗しい建築物だと思った。

 懸崖造りの二月堂はお水取りの行事で有名だが、三月堂は旧暦三月に法華会が開かれる。

 パンフレットによると、このお堂は、聖武天皇が皇太子であった息子の菩提をとむらうために建てたのだそうだ。後継者として期待していた皇子に先立たれて、無念であったに違いない。皇女が皇位を継いで、孝謙天皇になった。東大寺に残る最古の建物だとか。建物も国宝である。

        ★

 私ごとで恐縮だが、この頃、かなり認知症である。初めは人の名や歴史上の人物名などが出にくかったが、今では普通名詞まで出てこなかったりする。ブログを書くときも、パソコンに向かいつつ、そばに辞書・事典代わりのスマホを置いて、しばしば言葉を確認しながら書いている。

 本筋(文脈)は、覚えているのだ。筋は、例えば、「八幡さん」なら、こうなる。

 最初は宇佐八幡という地方の古代豪族の神様としてスタートした。その地方神が、大仏造営の大事業を支持する託宣を出したから、聖武天皇は大いに喜び、この神様を奈良にお呼びして、東大寺境内に手向山八幡宮を創建した。この時から八幡さんは全国区の神様になった。

 都が京都に遷都すると、清和天皇が京都に勧請して石清水八幡宮を創建した。

 清和源氏の頭領・源義家は、石清水八幡宮で元服して、自ら「八幡太郎義家」を名乗った。以後、八幡様の祭神が武神の応神天皇だったから、武士の頭領である源氏の氏神のようになった。義家は前九年の役で東国武将を率いて活躍し、鎌倉に鶴岡八幡宮を勧請した。

 小さな神社だったが、後に、頼朝が鎌倉幕府を開くと、源氏の氏神として立派な社殿を創建した。

 … という筋はわかっているのである。だが、アンダーラインのたった4つの神社名がなかなか出てこない。スマホを見ながら何度も覚えなおしているうちに、ふと、久しぶりに手向山八幡宮を訪ねたくなった … とまあ、こういうわけで、今回の奈良散歩になったわけである。

 三月堂のそばの茶店で昼飯の親子丼を食べ、ビールも飲んで、そのあと、手向山八幡宮に参拝した。

 こうして奈良の寺社をめぐっていると、仏教寺院や仏像は、たとえて言えば漢字の世界であると思う。仏教にも仏像にも、もちろんお経にも、深淵な理屈があり、哲学があって、なかなか難しく、取っつきにくい。

 それに対して、神社はひらがなの世界である。小うるさい理屈はなく、やさしくて、簡素で、時に、艶(アデ)やかでさえある。神社には、舞楽殿で舞う巫女たちの舞や鈴の音がよく似合う。

 予想どおり、紅葉が彩りを添えていた。

 このたびは ぬさもとりあへず 手向山

  もみぢのにしき 神のまにまに

 百人一首に採られている菅原道真の歌である。碑を置くとしたら、ここしかない。

 幣(ヌサ)は、神にささげる絹や布の供え物だが、当時、旅に出る時の風習があった。錦や絹、麻、或いは色紙などを細かく切って、幣袋に入れて携行する。そして、行く先々の峠などに祀られている道祖神の前で、その美しい切片をまき散らして、旅の安全を祈るのである。

 一首の意は、今回はあわただしく京の都を出立したため、幣も携行しませんでした。幣の代わりに、この手向山の美しい紅葉を、御心のままにお受け取りください。

 全山が錦で織られているような紅葉が、風に吹かれてはらはらと散る美しさを、神前にてまく幣にたとえて歌っている。

 漢学者の道真としては、美しい歌である。

 手向山八幡宮を抜け、春日大社の手前から、観光客の多い奈良公園を通って、興福寺へ向かった。

 (次回、「興福寺界隈」へ続く)

 

 

 

 

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神々の山里・かつらぎ山麓を歩く ② … 散歩道(17)

2018年12月11日 | 随想…散歩道

 高天彦(タカマヒコ)神社の社殿は、いかにも山懐深くに建つ神社の風韻がある。 

 主神は高皇産霊神 (タカミ ムスビノ カミ)である。

 『古事記』の神様で、天地が初めてあらわれた時に、高天原に最初に成った三神のうちの一神。「ムス」は生成すること。万物生成の神である。    

 しかし、ここに元から祀られていたのは、「高天彦」というこの地の地主神であるという説がある。8世紀初めにできた『古事記』に登場する神様をムリにあてはめなくても、もっと古くからこの地に伝わってきた伝承に従ったほうがよいと、私も思う。

『この国のかたち五』の「神道」 から

 「神道に、教祖も教義もない。

 たとえばこの島々にいた古代人たちは、地面に顔を出した岩の露頭ひとつにも底つ磐根の大きさをおもい、奇異を感じた。

 畏れを覚えればすぐ、そのまわりを清め、みだりに足を踏み入れてけがさぬようにした。それが、神道だった。

 むろん、社殿は必要としない。社殿は、はるかな後世、仏教が伝わってくると、それを見習ってできた風である」。

 「古神道というのは、真水のようにすっきりとして平明である。

 教義などはなく、ただその一角を清らかにしておけば、すでにそこに神が在す(オワス)」。

 「(伊勢神宮には) 平安末期に世を過ごした西行も 参拝した。

 『何事のおはしますをば知らねども辱さ(カタジケナサ)の涙こぼるる』

 というかれの歌は、いかにも古神道の風韻をつたえている。その空間が清浄にされ、よく斎かれていれば、すでに神がおわすということである。神名を問うなど、余計なことであった」。 

        ★ 

 『古事記』の記す神々もそうであるが、およそ日本の神様は、天地宇宙から、自然に、或いは、自ずから、「成りし」神である。

 私の知るクリスチャンは、キリスト教のGotは天地を創造した絶対神であるから、天地宇宙から生まれ出た日本の神々より格が上である、などと形式論を言う。だが、「天地を創造し、自分に似せて人を作った絶対神」という存在自体が、いかにもウソくさく、不自然である。キリスト教的世界観では、天体も、動物や植物も、「神に似せて作られた人間」より下位の存在になる。

 日本人は、「自然に」「自ずから」という言葉を大切にする。「Nature」の意ではない。神々は、天地宇宙、万物、森羅万象の中から自ずから「成った」のである。人は、森羅万象の中に神を感じる。そして、人もまた、森羅万象に包まれ、森羅万象を構成しているのである。そう考える方が、自然である。

 高天彦神社の祭神である「高天彦」の「高天(タカマ)」も、『古事記』のいう高天原のことではない。ちなみに、『日本書紀』には、高天原という概念は基本的に出てこない。

 『万葉集』に次の歌がある。

   葛城の 高間(タカマ)の草野 はや領(シ)りて

  標指(シメサ)さましを 今ぞ悔しき (雑歌1337)

 武田祐吉博士の『萬葉集全講』によると、「葛城の高間」は、葛城山中の地名。一首の意は、葛城の高間の草の野は、早く知って、私のものというしるしをつけたらよかった。人に手を付けられてしまって残念だ、という意味らしい。それ以上の説明はないが、前後に並ぶ歌から考えると、「草野」は乙女のことかもしれないと思う。

 いずれにしろ、「たかま」はもともとこの辺りの地名のことであり、高天原ではない。その「たかま」という地に住む人々の中に古くから言い伝えられた神様が「タカマヒコ」である。

 この地に社殿ができる以前は、背後の円錐形の山・白雲岳(694m)を神体山として祀っていたそうだ。神体山即ちカンナビである。カンナビ信仰は、遠く縄文時代にさかのぼる可能性がある。8世紀初めの『古事記』などより十数世紀以上も古いのである。

         ★

 『古事記』で、「高天原」は、天照大御神をはじめとする神々の住む世界をいう。一方、人間の住む世界は葦原中つ国で、高天原の乱暴者だったスサノオは、葦原中つ国に追放された。

 江戸時代の偉大な古典研究者である本居宣長は、高天原の所在を天の上だと信じていたそうだ。『古事記』の実証的研究の道を切り開いた学者が、一方でそのような考え方をしたところが、面白い。

 これに対して、幕府の政治顧問を務めた優れた儒学者新井白石は、「高天原」は架空の存在だが、モデルになった地が実際にあったはずだと考え、候補地を挙げた。

 だが、その地として、今、人気なのは宮崎県北部の高千穂町だろう。

 宮崎県の南部の高原町は、背後に高千穂の峰があり、天孫降臨の地ではないかと言われる。

 しかし、朝廷では、中古の時代からずっと高天原は金剛山の山麓、葛城の地であると信じられてきたそうだ。だから、平安時代、高天彦神社は名神大社に列せられ、格式の高い神社として崇敬された。

         ★  

 この日の最後に訪ねたのは高鴨神社。

 金剛・葛城の山懐の奥の奥にある一言主神社や高天彦神社からは、国道24号線の方へ下った地にある。それでも、人里から離れた森のなかだ。 

 鳥居の横に神社の綺麗な境内図があった。

 鳥居を入ってまっすぐ進めば拝殿があり、左手には池がある。池の前には、浄らかな手水舎。

 池に張り出して、奉納用の舞台が設えられている。ここで白装束の巫女が舞う舞の奉納を見てみたいと思う。

 拝殿・本殿は新しく、白木のあとも初々しい。 

 鳥居のそばに掲示されていた当社の説明文に、「当地は少なくとも縄文晩期より集落が形成され祭祀が行われていたことが、近年の考古学調査で明らかとなっています」。

 「高鴨神社は全国鴨(加茂)系の神社の元宮で、古代より祭祀を行う日本最古の神社の一つです」。

 「迦毛(カモ)之大御神(オオミカミ)は、北は青森県から南は鹿児島県に至るまでの約300社でお祀りされており、妹神の下照姫命は全国約150社でお祀りされております」。

 「(県内には) … 名神大社はわずか12社しかありません。そのうちの5社がここ葛城地方にかたまっております」とあった。

 ※5社とは、高鴨神社、高天彦神社、一言主神社、鴨都波神社、葛木坐火雷神社

 葛城氏と並んで、この地には鴨氏がいたという。鴨氏の氏神を祀ったのが高鴨神社である。

 鴨氏については、よくわからない。葛城氏との関係も、よくわからない。

 イハレビコ(神武)を導いた八咫烏(ヤタガラス)の子孫だという伝説もある。イハレビコを大和まで導いて、その後、山城国(京都)に進出したのだという。一方、山城国の上賀茂神社、下鴨神社とは別系統だともいう。

 大和国の葛城の鴨一族はある種の霊的集団で、天文観測や薬学、製鉄、農耕の技術に長けていたのだという。役行者や陰陽道の賀茂忠行(安倍晴明の師)もその子孫とか。

         ★

 このあたりから北を見れば、遠い昔、政治の中心であった大和平野が一望でき、背後には、我が家からは遠くに見える秀峰・金剛山、葛城山が、驚くほど間近に、迫力をもって聳えている。

 遠い昔 … この地に蟠踞した葛城氏は、朝鮮半島まで兵を出し、朝廷に大臣も出し、妃も出した。

 しかし、今は … 少し謎めいた、しかし、簡素・素朴で、清冽な草深い山里である。

 (「かつらぎ山麓」散歩の項 終わり)

 

 

 

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神々の山里・かつらぎ山麓を歩く ① … 散歩道(16)

2018年12月07日 | 随想…散歩道

   ( 唐古鍵遺跡史跡公園の「弥生の楼閣」 )

 奈良県田原本町の「唐古鍵(カラコ・カギ)考古学ミュージアム」の近くに、遺跡の発掘現場が整備されて、「史跡公園」としてオープンしたと新聞に載った。

 10月のある日、車で、「唐古鍵考古学ミュージアム」を訪ねた。ミュージアムなどとハイカラだが、要するに出土品を展示する博物館である。

   唐古鍵遺跡は、弥生時代の前期から中期を経て後期まで、数百年間に渡って存在した日本列島を代表する大きな環濠集落の跡である。

 そこから少し南の桜井市には、卑弥呼の墓とされる箸墓古墳があり、箸墓を含む纏向遺跡が発掘調査中である。唐古鍵の集落は、纏向が突如誕生すると、消滅してしまった。集団移住したのだろうか??

 今は、邪馬台国やヤマト王権につながる纏向遺跡の発掘調査が考古学上の大きな関心事である。

 「唐古鍵考古学ミュージアム」では、ボランティアガイドの方の説明がよくわかり、面白かった。

 その後、近くの「史跡公園」に行ってみた。江戸時代に造られた池のほとりに、発掘された弥生土器に描かれていた絵に基づいて、楼閣が復元されていた。空がやや夕焼けの色を帯びて、いい雰囲気だった。

         ★

 また、別の日、電車に乗って「県立橿原考古学研究所附属博物館」に行った。近鉄橿原線の「畝傍御陵前駅」から歩いてすぐだ。県立橿原考古学研究所は、纏向遺跡の発掘調査のただ中にある。

 この博物館には、大和地方で発掘された旧石器時代から平安時代までの発掘品が展示されており、やはりボランティアガイドの説明があった。だが、肝心の古墳時代に差し掛かったところで、お昼の時間になってしまった。とにかく一回の訪問では無理である。

     ★   ★   ★

 11月初めには、葛城・金剛の山ふところ ── そこは日本の原風景のような山里だが、その山里にある3つの神社を車で巡った。前回訪ねたのは、もう30年以上も前だろうか。その頃から少し古代史の知識も増え、新鮮な目で見て回ることができた。

 まず最初は、一番北にある葛城一言主(ヒトコトヌシ)神社。神社の名が、素朴で、面白い。

 『古事記』にも『日本書紀』にも、葛城山を訪ねた雄略天皇と一言主神とのやりとりの話が登場する。高天原の神々の話ではない。人間の大王と土地の神とのやりとりは、まるでギリシャ神話のようだ。 

 田畑の中に石の鳥居があり、ここから参道が始まる。

 車を置いて、鳥居をくぐるとすぐ、木陰に「蜘蛛塚」の立札があった。

 以前なら、気にも留めず通り過ぎただろう。今は若干の知識があり、以前は見過ごしていたものにも目が留まる。

 土蜘蛛は、『古事記』の神武東征の話の中にも登場する。王権に服従しない異形のものたち。稲作文明を拒み続ける「未開の人々」 … のことであろうか??

 『古事記』の一節 ── 「そこよりいでまして、忍坂(オシサカ)の大室に至りし時に、尾生ひたる土蜘蛛の八十建(ヤソタケル)、その室に在りて、待ちいなる」。

   「室(ムロ)」は窓のない家屋のこと。── イハレビコ(神武)の一行は、宇陀よりさらに進んで、桜井市忍阪の大きな室に着いたとき、室には尾の生えた土蜘蛛という勇猛な者たちが多数、一行を待ち構えて、うなり声を上げていた。

   イハレビコに従う久米の兵士たちによって、土蜘蛛たちは成敗される。

 土蜘蛛は能にも登場する。能は文楽や歌舞伎の派手派手しさがなく、清澄な緊迫感が好きだ。場面が異界に入るときの舞台を切り裂くような笛の音。動き少なく舞うシテの能舞台を独り占めする存在感。謡や澄んだ小鼓の音に交じって打たれる大鼓(ツツミ)の甲高い音は見る者の感情を揺さぶり、物語は悲劇性を帯びつつ展開して、やがて一筋の救いとともに現実世界に戻る。

 『土蜘蛛』という演目がある。

 源頼光は、王都を守って大江山の酒呑童子を退治した源氏の頭領であるが、数日来、病に臥せっていた。深夜、土蜘蛛の精霊が頼光の命を取ろうと寝所に入り込む。気配を察した頼光は危うく刀を抜きはなって斬る。駆けつけた家来たちに、直ちに血の跡を追わせた。それは、かつて頼光によって退治された土蜘蛛の生き残りで、仇を討たんと王都に入り込んだのだ。

 血痕は葛城山まで続いていた。武者たちは山腹に怪しい塚を見つける。塚を崩すと、土蜘蛛が鬼神の姿となって現れた。

 土蜘蛛は幾筋もの蜘蛛の糸を吐き、襲いかかる武者たちをさんざんに苦しめるが、ついに討ち取られる。その間、土蜘蛛の投げる無数の糸(紐)が舞台の上に散乱して、塚も地面も白くおおい、一番前の席にいた私の所にまでとんできた。

 ワキ役者の安田登氏は『異界を旅する能』(ちくま文庫)の中で、演目『土蜘蛛』について次のように語っている。

 「確かに土蜘蛛は最後に退治される。しかし、1時間強の演能時間のほとんどは土蜘蛛の活躍に終始する。活躍して、活躍して、また活躍する」。「目立つだけ目立っておいて、朝廷軍を翻弄するだけ翻弄しておいて、最後に『負けました』と言われても、その活躍は消えない」。「その隠喩は単なる修辞法ではなかった。自分たちの理解者には伝わらなければ意味をなさず、しかし為政者にその意志を見破られれば一族の絶滅に直結するという、生死を賭けたギリギリの修辞『術』だった」。

 能は、人の心の深淵、愛や哀しみや我執を描いて、悲しくも美しい。だが、能をそのような高い境地の芸能に仕上げた室町時代の能楽師たちは、将軍や権力者の前で能を作り演じながら、一方で、自分たち能楽師を「土蜘蛛と同類の者」と意識していたのかもしれない。

 現代の能楽師・安田登氏は、この作品をそのように理解しているのであろう。

 参道を歩き、最後に石段を上がると、手水舎があった。葛城山から流れてくる水はいかにも浄らかである。 

 小高い所にたつ社は鄙びていて、その拝殿の前で参拝する。

 祭神の一言主神は、凶事も吉事も一言で言い放つ「託宣の神」であったらしい。だが、今は、託宣というより、一言で願いをかなえてくれる神さまとして信仰されている。ただし、「ひとこと」は「一事」でもあるから、願いは一つだけ。あれもこれもと欲張ってはいけないことになっている。そこが良い。

 境内に、銀杏の古木。そして、歌碑もある。

 歌の中の「其津彦(ソツヒコ)」は、碑に説明されているように葛城氏の祖。4世紀後半から5世紀初頭の、多分、実在の人で、朝鮮半島に出征した武将である。そのころまだヤマトの国には鉄素材が出ず、半島南部の伽耶(カヤ)から手に入れていた。その伽耶が周辺国から侵攻されそうになったとき、ヤマト政権はこれを援けて出兵した。神功皇后伝説もこの時代のことを伝え、また、歴史的資料としては広開土王碑が残る。

 ソツヒコの娘は磐之媛(イワノヒメ)で、仁徳天皇の妃である。

 ソツヒコのあと、雄略天皇の時代まで、大和川の水運をおさえていた葛城氏は、大王家の外戚として強い政治力をもったようだ。大和川は、難波から瀬戸内海、北九州を経て、朝鮮半島に至る際の重要な河川だった。

         ★

 橋本院という寺院に向かって車を走らせたが、道路がどんどん細くなり、対向車が来ても行き交うことができない道になった。自動車教習所のS字カーブのような所もある。地元の人に迷惑をかけてはいけないから、どこかでUターンして引き返そうと思っていたら、後ろから宅急便のライトバンが迫ってきて、それもできなくなった。

 やっとパーキング用の原っぱに出る。原っぱの先の田んぼの向こうが橋本院だ。

   表に「真言宗高野山 橋本院」とある。今は檀家も少なくなり、普通の住宅のように住みなしていらっしゃるのであろうか??

 宅急便の若い女性が何度も呼ぶが、寺院から人は出てこない。留守である。あきらめきれないのか、なかなか立ち去ろうとしない。遥々とこんな人里離れた所まで届けにやってきて、気の毒である。

 付近を少し散策して、パーキングに戻ると、宅急便のバンの運転席には、さっきの女性。できたら先に行ってもらって後ろを走りたいと思ったが、彼女もそう思っているのか、発進しない。やむを得ず走り出すと、ちゃっかり付いてきた。宅急便といっても、この道にはめったに来ないのだろう。

        ★

 高天彦(タカマヒコ)神社に向かって下りの道路を走っていると、車道から山道に入る入口に、神社の結界を示す注連縄が掛けられていた。ここから高天彦神社の参道が始まるのだろう。そう思って、道路の角に駐車して、山の中に入った。

 失敗だった。山道を延々と登ることになった。

 汗をかき、幾曲がりも回って、山道がやっと平坦になり、林と草やぶの向こうに神社のこんもりした杜が見えたときは、ほっとした。

 神社の鳥居まで来てみると、車道があり、神社のパーキングもあった。折しも小型バスが到着して、10人ほどの古代史好きのおじさん、おばさんたちが、ガイド役らしき土地のおじさん(もしかしたら神主さん)と一緒に降りてきた。

 だが、なにしろここは高天原。汗をかいて登ってきた者に、ご利益も大きいに違いない。(続く)

 

 

 

 

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