ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

北アルプスの山麓をゆく … 戸隠神社と小谷温泉の旅(4/4)

2019年11月14日 | 国内旅行…信州

 辻邦生は青春の一時期を旧制松本高校で過ごした。太平洋戦争の戦況が悪化し、やがて終戦を迎えるころである。自分の命が「宙づりになった」ような日々、信濃の風土は限りなく美しく感じられた。そのころのことを次のように書いている。

辻邦生『時刻(トキ)のなかの肖像』から

 「旧制高校に松本を選んだのも、高原や山脈に囲まれたこの町にあこがれたからだった。松本で初めて目覚めた朝、近くの森から郭公(カッコウ)が鳴いていたときの感動は、いまもありありと思い出すことができる。私は幸福感に息がつまりそうだった」。

 「高原の冷たい、新鮮な空気のなかで、4月終わりに咲く桜の花は、まるで花びらの1枚1枚が結晶しているように見えた。青い北アルプスの連なり、城下町のひなびた落ち着き、学問的な瞑想感に満ちた旧制高等学校の校舎 ── こうしたものが、今なお私に残している刻印は深い」。

 「私は、生まれてはじめて高原を這う霧を知った。アルプスに登り、濃い青空に象嵌されたように聳える灰色の山頂を仰いだ。からまつ林の中を歩く旅人の孤独を味わった。牧場では牛の群れが鈴を鳴らしていた。私にとって、現実は、詩の世界さながらに見えた」。

             ★   ★   ★

 朝、山田旅館を出たのは最後のようだった。

 「みなさん、早いですね。雨飾山登山に行かれたのですか??」と聞いてみた。「はい。みなさん、登山です」。

 夕食のときに聞こえてきた会話から、数名のおばさん一行は高校の同窓会グループのように思われた。1人だけ、やや高齢の女性がいたが、多分、彼女たちの担任か、クラブ顧問だった人だ。

 雨飾山には、山小屋がない。一日で頂上まで登って降りてくるには、相当の健脚を要する。早朝に出発するのは、山登りでは掟のようなものだ。今、日本の元気とパワーはおばさんたち。今日はよく晴れて、きっといい山歩きになるだろう。

         ★

木崎湖に思い出すこと >

 今日は、国道148号線(糸魚川街道)を大糸線に沿って南下し、松本駅まで行く。途中で寄り道しながらのんびり走って、松本から午後の適当な時間の「特急しなの」に乗り、名古屋経由で帰る予定だ。

 この大糸線沿線は、若い頃、夏になると、よく訪ねたものだ。

 そのときはたいてい、青木湖、中綱湖、木崎湖の仁科三湖のそばの民宿で1~2泊した。

 三湖のなかで木崎湖がいちばん開けているが、北アルプスの雪解け水をたたえた湖は、7、8月の観光シーズンを終え、青空を映して、昔と少しも変わらぬ静かなたたずまいだった。

  ( 豊かに水をたたえた木崎湖 )

 私がまだ二十代の頃、父はゼネコンに勤めるサラリーマンだった。学歴はなかったが、年齢が年齢だから、それなりのポストにはついていた。

 あるとき、ゼネコンの業界誌から原稿(随想)を依頼された。持ち回りだから、断れなかったようだ。すぐに電話で代筆を頼んできた。年齢も生きている世界もまるで違う男の立場で書くのは不可能だから断ったが、日ごろ文章など書かない父が気の毒で、では自分のこととして書くよ、と言って引き受けた。

 そして、信州の木崎湖にボートを浮かべ、魚釣りを楽しんだという随想を書いて渡した。

 すぐに見破られてしまったと、父は笑いながら話した。同業者の仲間は会社を超えて親密で、息子の作文を提出した父を面白がったようだ。「見かけによらず、ロマンチックですねえ(笑い)」とか、ストレートに「息子さん、文章がうまいですねえ(笑い)」とからかわれたと言い、そういう付き合いを楽しんでいた。原稿料は封したまま、くれた。

 それ以後、父は夏が終わると、信州の湖に行ったか?? と聞いた。退職したら信州の湖に行って魚釣りをしたいと、ずっと思っていたようだった。

        ★

北アルプスの山並みを望む >

 木崎湖からは国道をはずれ、国道と並行して走る野の道に入った。舗装も良く、信号がなく、山並みの見晴らしも良く、快適である。1998年の長野冬季オリンピックのときに造られた道路だ。

 所々で、北アルプスの高山が顔をのぞかせた。

 今はもう登ろうなどという野心は微塵もないが、それでも眺めるのは楽しい。

 ( 北アルプスが顔をのぞかせる )

 後立山連峰の女王と言われる白馬(シロウマ)岳(2932m)には何度か登った。雨の大雪渓を下山したとき、きゃあきゃあ言いながら下る初心者が落とした落石がそばを落下し、肝を冷やしたこともある。

 その南の唐松岳(2696m)には一日で駆け上り、駆け下りた。単独行は緊張もするが、楽しかった。

 常念岳(2857m)、大天井岳(2921m)、燕岳(2762m)は、友人たちと山小屋に泊まって縦走した。上高地の深い谷を隔てて、その向こうに槍・穂高の連峰が聳え、パノラマのようだった。

 一番、心に残った山行は、白馬岳から北へ、雪倉岳、朝日岳と縦走したコースである。白馬岳から南へ縦走する登山者は多いが、白馬岳を北へ入ると、突然、嘘のように人の声が聞こえなくなった。美しいお花畑の中の径をゆき、急斜面の雪渓を緊張してトラバースした。一日歩いて、出会ったパーティーは一組だけだった。夕方、テントを張って、来し方の山並みを振り返り、遥けさを感じた。

        ★ 

海人族・安曇氏の穂高神社へ >   

 大糸線の穂高駅近くに穂高神社がある。神社の現在の住所は、「安曇野市穂高」となっている。かつては安曇郡だった。昔、安曇氏の一族が住み着いた山河である。

 穂高神社は信濃国の三の宮である。一の宮は諏訪大社。

 安曇氏がここに定着したのは、一説に6世紀ごろと言われ、神社の西方には古墳群もあるらしい。

 安曇氏は、海人族である。

 古代、海人族は西日本の各地の海辺にいたが、『日本書紀』の応神天皇の項に、安曇氏を「海人の宗」にしたとある。

 玄界灘の志賀島の志賀海神社が、安曇氏の本拠地である。

 ※ 安曇氏や志賀海神社については、当ブログ「玄界灘の旅」の中の「海人安曇氏の志賀海神社へ行く」を参照。

 それが、いつのころからか、石川県羽咋郡志賀町、滋賀県の安曇川、愛知県の渥美半島、静岡県の熱海など各地に散らばっていった。海づたいに漁場を求め、或いは、物資を運ぶ輸送船を操って活動の場を広げていったのだろう。ただ、その一族が、海とは全く縁のない山国である信濃国の安曇野に定着したのは不思議である。理由はわからない。

 7世紀、唐、新羅の連合軍によって、百済が滅ぼされた。倭国は百済との盟約により、倭にいた百済の皇子を立てて、百済国の再興の救援軍を朝鮮半島に派遣した。前将軍に安曇比羅夫、後将軍に阿倍比羅夫が任じられた。倭軍はよく戦ったが、百済軍のトップに仲間割れが生じ、さらに白村江の海戦で唐の水軍に惨敗して、戦いは終わった。安曇比羅夫はこのとき、戦死したとされる。 

 ( 穂高神社の鳥居と神楽殿 )

 今回、初めて知ったことがある。穂高神社の例大祭は9月27日に行われる。その祭りでは、高さ6m、長さ12mという大きな船形の山車「御船(オフネ)」をぶつけ合うらしい。9月27日は、白村江の戦いで戦死した安曇比羅夫の命日と伝えられている。

   なお、穂高神社の奥宮は上高地の明神池のそばにある。明神池は神社の境内で、神域ということになる。

 また、嶺宮は、北アルプスの雄・奥穂岳(3190m)の頂上に鎮座する。

 ( 穂高神社の拝殿 )

        ★

早逝の彫刻家を記念する碌山美術館 >

 穂高神社から歩いて数分の距離に碌山美術館がある。

 荻原守衛。号は碌山。明治12(1879)年、南安曇郡東穂高村に生まれた。

 10代の終わり頃、近くに嫁いできた2歳年上の相馬良子(黒光)と知り合い、生涯、あこがれ、影響を受けた。

 相馬良子は、仙台藩の儒者の娘・星良子で、美貌で、頭がよく、気が強い女子だったらしい。若き日に東京に出て、ミッションスクールの明治女学校に学んだ。そのころは、「アンビシャス・ガール」と呼ばれていたという。明治女学校には、英語の教師として、まだ20代の島崎藤村もいた。第一詩集『若菜集』を発刊する以前のことである。良子はその後結婚して穂高に住んだが、のち東京に出て、新宿のパン屋・中村屋を経営した。

 碌山は信濃を出て上京し、米国やフランスに学んで、ロダンに傾倒し、彫刻家となった。帰国後、新宿の角筈にアトリエをもち、中村屋に出入りしながら、「デスペア」「女」など何点かの名作を残す。両作品とも、相馬良子がモチーフになっている。だが、明治43(1910)年、突如、喀血して31歳の若さで早逝した。

 年齢や、早逝したこと、惜しまれる才能も、或いは思想的にも、文学の世界の石川啄木に似ている。 

 ( 蔦のからまる碌山美術館 )

 碌山美術館は1958年、碌山の作品と資料を保存・公開するために、県内の子どもや少年を含む多くの人々の尽力によって設立された。

 私が初めてここを訪れたのは、まだ学生時代の8月だった。松本から大糸線に乗り、穂高駅で降りて歩いていくと、信濃の国の稲穂はすでに黄金色に頭を垂れ、その稲穂の波の先に、キリスト教の教会風の瀟洒な煉瓦造りの美術館が見えた。(今は、付近にかなり住宅が建った)。

 美術館の玄関先には日に焼けた子どもたちが数人、元気に遊んでいて、会話したことを覚えている。

 帰りに、村の鎮守の杜のような穂高神社に立ち寄り、駅に向かった。

 駅に着くと、列車が出るところだった。

 当時の大糸線は牧歌的で、機関車に客車は2両だけ。あと貨物車が何両か接続されていた。

 貨物車には、天蓋のないトロッコ風の貨車もあり、客車に坐れなかった旅の学生たちが、勝手に乗っていた。信州の夏の風を受けて走るトロッコ貨車は心地よさそうだ。ゆっくり動き出した列車を追いかけ、プラットホームをダッシュした私も、目の前のトロッコ貨車に跳び乗った。

 のどかな青春の一場面が脳裏に残っている。思い出というのは、言葉ではなく、映像である。

           ★

< 大王わさび農園で昼食を

 その当時、穂高駅より1つ松本寄りの豊科駅で列車を降りて、あぜ道をてくてく歩くと、渓流が分かれて流れる地に、わさび田が開かれていた。

 わさび田のそばを流れる小川は水量豊かで、川底の水藻に樹木が蔭を落とし、水車が回っていた。その先にわさび田が広がり、西には残雪を頂いた北アルプスの山並みも神々しく聳えていた。

 今回、久しぶりに立ち寄ってみようと思い、ネットで調べて驚いた。あのわさび田が、テーマパークのように大きな遊園地になり、観光バスもやってきて、大変な賑わいになっていた。

  ( わさび田 )

 その「大王わさび農園」のレストランで昼食をとった。

 ウイークデイというのに、想像以上の賑わいだった。家族連れが多い。

 高度経済成長期やバブルの時代なら、また信濃の静けさが壊されたと嘆いただろうが、今は地方創成の時代である。レストランやわさび田や遊園地の各所で働く若い男女の姿があった。こうして地方が賑わい、都会に出ていかなくても、仕事があることは良いことである。変わらないことばかりが良いわけではない。

    ★   ★   ★

 松本でレンタカーを返却し、「しなの18号」に乗って、帰途についた。

 一度訪ねてみたかった山深き里にある戸隠五社も、宿坊も、戸隠蕎麦も、姫川の上流の小谷温泉も、とても良かった。

 大糸線沿線が、今も変わらず、静かな美しい信州の風情を見せてくれているのも、なつかしかった。

 わずか2泊3日の小旅行だったが、夏の暑さを何とか乗りきって、思い立って出かけた旅は心に残るいい旅だった。

  

 

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中社で蕎麦を食べ、鬼無里を経て小谷温泉へ … 戸隠神社と小谷温泉の旅(3)

2019年11月09日 | 国内旅行…信州

< 中社の門前で蕎麦を食べる >

 車で奥社から中社まで降りた。

 中社の近辺は宿坊や茶屋があり、戸隠神社で一番賑やかな門前町である。

 ここと、昨夜泊まった宝光社の町並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

 昨夜の戸隠蕎麦が忘れられず、中社のすぐ下の蕎麦屋で昼食をとった。ここも宿坊が経営している店だ。美味しかった。

 ( 中社の蕎麦屋さん )

 中社には知恵の神である思兼(オモイカネ)の命が祀られている。この神さまが知恵を出さなければ、この世は未だに闇のままだった。  

 

  ( 知恵の神さまを祀る中社 )

 境内には、樹齢800年の三本杉がある。800年前というと、鎌倉幕府が開かれた頃だ。

   それとは別に、三つに分かれた古杉もある。これも神木である。

  ( 古杉の音を聴く )

 昨日は2社、今日は3社を巡り、戸隠神社の5社巡りを終えた。

       ★

鬼無里(キナサ)の里のこと >

 車で今夜の宿・小谷温泉を目指す。小雨の中、山の中の県道を走った。すれ違う車はめったにない。

 鬼無里(キナサ)の村で国道406号線の鬼無里街道に合流した。一軒きりの道の駅風の店で休憩をとり、コーヒーを飲んだ。

 「戸隠」という地名もいいが、「鬼無里」は秀逸である。

 名の響きのとおり、ほんものの山里だ。この山里から北へとさらに山中を走れば、奥据花自然園で行き止まりになる。季節になると、山と森に囲まれた湿地に水芭蕉の群落が咲き誇り、アマチュア風景写真家や観光客がマイカーで集まってくる。

 鬼のいない里とは、かつては鬼がいたということである。

 阿倍比羅夫がこの里の鬼を退治したという伝説があるそうだ。阿倍比羅夫は飛鳥時代の人で、朝廷の命を受け、水軍を率いて日本海側を遠征。東北の蝦夷を服属させ、北海道で粛慎と戦った。粛慎についてはよくわからないが、一説にオホーツク海岸にすむ樺太系の民族ではなかったかと言われる。

 また、紅葉伝説もある。こちらは平維茂(コレモチ)が鬼女を退治した。鬼女は、事情あって都を追われた貴女である。平維茂は平安時代中期の武将で、信濃守であった。

 能の「紅葉狩」は、舞台を戸隠の山中に移している。

 維茂が鹿狩りで戸隠の山中に入ると、上臈が侍女たちと紅葉の宴をはっていた。誘われるままに酒を飲み、上臈の美しい舞いを見ているうちに、不覚にも睡魔に襲われる。それを見て、上臈は本性を現し、突如、舞いが激しくなる。そして、夜までそのまま目を覚ますなよと言って消える。

 夜になり、八幡の神が維茂のもとに現れて、鬼神を討ち果たせと、神剣を授ける。

 現れた鬼神と維茂が戦う。雷が飛び交い、炎を吐く鬼神との激しい攻防の末、ついに維茂は鬼神を討ち取る、という話である。

 鬼や、天狗や、土蜘蛛や、雪女や、鬼婆や、河童や、座敷童や、狐や狸は、絶対悪ではない。人間に危害を与えるが、彼らのテリトリーに入らなければ、たいていは悪さをしない。時に人間を助けたり、人間に恋をしたりもする。人間に似て、善心もあれば悪心も起こす。喜怒哀楽の情をもち、ユーモラスでさえある。

 ヨーロッパの先住民のケルトが伝える妖精や、魔女や、魔法使いのお婆さんも、好きだ。「眠れる森の美女」を魔女の側から描いたアンジェリーナ・ジョリーおばさんも魅力的だった。

 「大和よみうり文芸」に選ばれた五條の四葉るり子さんの川柳。

   見ないふり こびとが庭を 横切った

 想像力が面白い。ファンタジックである。お子さんも喜ぶだろう。

 しかし、「紅葉狩」のように、鬼や土蜘蛛は、時に、異界のものとして退治される。その場合の「鬼」とか「土蜘蛛」とは、何だったのだろう??

 箒にまたがって空を飛ぶ魔女たちも、近世に入ると、密告され、裁判にかけられ、異端の者として火あぶりにされた。その数知れず。裁判が司教の下で開かれた場合はまだしも「百叩きにして放り出せ」ぐらいで済んだが、民衆裁判ではたいてい残酷な結果になったらしい。「人民」とか「民衆」という存在も信用できない。

 お化け、妖怪の中でも、嫌いなのは、江戸時代に創造された「幽霊」である。彼女たちには「恨み」の情念しかない。ただ、相手を闇の底に引きずり込もうとする。

 先の能「紅葉狩」は、鬼が本体で、美女の姿をして現れる。当然、活劇ものになるが、一般に能では逆のケースが多い。

 世阿弥の能の多くは夢幻能で、その主人公はこの世のものではない。だが、未練があって、この世にいる。みんな、人間的で、哀しく、美しい。恨みがあっても、恨みよりも愛の方がもっと深い。最後は、旅の僧によって救われ、成仏する。

 

   ( 大槻能楽堂 )

        ★

白馬(ハクバ)を経て小谷(オタリ)温泉へ >

 国道406号線(鬼無里街道)は、長野を通り、山深い道路を白馬に抜ける。峠を越えると、晴れていれば、前方に北アルプス連峰(後立山連峰)が見えるのだが、残念ながら小雨模様の曇天で見晴らしはきかない。

 やがて、後立山(ウシロタテヤマ)連峰の麓の町・白馬に出た。

 ここから国道148号線(糸魚川街道)を北上する。

 国道沿いにJR大糸線が走っている。大糸線は、登山の町・大町と日本海の糸魚川とを結ぶローカル線だ。清流の姫川も日本海に向かって流れている。

 姫川の水源は白馬村の湧き水で、このあたりではまだ渓流と言ってもいい川幅である。

 姫川は糸魚川市に入り、日本海から約2.5キロというあたりの丘の上に、縄文時代の集落がある。長者原遺跡と名付けられ、北陸で最大の縄文集落である。ここで産出され、さらに装飾品に加工された翡翠は、北は北海道の礼文島、南は沖縄からも見つかっている。ちなみに日本列島で翡翠を産するのは姫川だけである。縄文時代の流通網に感心する。

 かつて出雲大社を訪れたとき、大社の博物館で見た翡翠の勾玉の色は本当に美しかった。

 天気予報通り、晴れてきた。明日は良いお天気になる。

 小谷温泉口の標識で、右手の山中に入り、うねうねと登って、小谷温泉山田旅館に到着した。

 ここも、随分昔から訪ねてみたいと思っていた宿である。「日本秘湯を守る会」に所属する一軒宿だ。

 温泉教授の松田忠徳さんは、「平成温泉番付」68湯の1つに挙げている。

 小林威典『正真正銘 五つ星 源泉宿66』(祥伝社新書)には、「江戸時代に建てられた本館を含む6棟が国の登録有形文化財に指定されている」とあり、内湯については、「自噴泉が1m80cmくらいの高さから、とうとうと滝となって流れ落ちる。湯舟の縁を見てまたビックリ。天然の湯垢が何層にも付着している」と書いている。

      ( 有形文化財指定の山田旅館 )

 若い頃この宿のことを知ったのは、温泉巡りをしようとしていたからではない。ここは、「日本百名山」の1つ雨飾山(1963m)登山の起点になる宿として、昔から登山者の宿であった。 

 『百名山』の「雨飾山」の項は名文である。その書き出しの部分。

 「雨飾(アマカザリ)山という山を知ったのは、いつ頃だったかしら。信州の大町から糸魚川街道を辿って、佐野坂を越えたあたりで、遥か北のかたに、特別高くはないが品のいい形をしたピラミッドが見えた。しかしそれは、街道のすぐ左手に立ち並んだ後立山(ウシロタテヤマ)連峰の威圧的な壮観に眼を奪われる旅行者には殆ど気付かれぬ、つつましやかな、むしろ可愛らしいと言いたいような山であった。私はその山に心を引かれた。雨飾山という名前も気に入った」。

 深田久弥が登ったころ、まだ登山道が整備されておらず、3回目の挑戦でやっと頂上に至る。そのときも小谷温泉を起点にした。

 「(頂上にある) 風化し摩滅した石の祠と数体の石仏の傍らに、私たちは身を横たえて、ただ静寂な時の過ぎるのに任せた。古い石仏は越後の方へ向いていた。その行手には、日本海を越えて、能登半島の長い腕が見えた」。

 「あとで越後の人からの知らせによると、古い猟師の話では、頂上の石仏は、糸魚川地方で有名な羅漢上人という坊さんが、自身で石を刻み、それをこつこつと山へ運んだものだそうである。山にウラ・オモテがあるとすれば、雨飾山はやはり越後の方がオモテであろう」。

 食事はごく普通だが、ボリュームがあった。登山者用である。

 温泉は良かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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小雨の中、奥社に参拝する … 戸隠神社と小谷温泉の旅(2)

2019年11月07日 | 国内旅行…信州

この朝、カメラが故障しました。ここからの写真は、ほんもののカメラで撮ったものではありません。虫眼鏡で画質をチェックしないでください

 

深田久弥『日本百名山』から

 「戸隠は、平安朝の初めから神仏混淆となり、その最盛期は平安朝の末から鎌倉時代の中頃までだったと言われ、奥院、中院、宝光院と3つの群落に別れて、それぞれ数多くの大きな寺社が建立され、その栄えは高野や比叡にも劣らなかったという。その後兵火にあって大部分が廃墟になったそうだが、しかし現在でも中社まで行って、厚い茅葺きの屋根が高々と並んでいるのを見ると、昔がしのばれるようである」。

 「それらの家は皆神官の住まいであって、昔は山伏や修験者を泊めたのであろうが、現在では内部を改造して旅館風な作りになっている」。

 「その後兵火にあって」というのは、武田信玄の甲斐の勢力と上杉謙信の越後の勢力による長い攻略戦のことである。

        ★

宿坊の朝拝に参列する >

 朝から小雨模様だった。

 朝食の前に「朝拝」に参列した。

 宿坊「山本館」は昔から、戸隠神社5社めぐりの多くの参拝者を迎え入れてきた。

 宿坊には、その敷地の一郭に、5社から招いた神々を祀る立派なお社がある。神社併設の宿坊なのだ。身体が不自由だが何とかここまではやってきた人、或いは、ここまで来たが病を得てこの先は仲間と行動を共にできない人、そういう人のために設立されたのだ、と説明があった。 

   ( 宿坊のお社 )

   神官でもあるこの宿坊の主人が、神前で毎朝、お勤めをする。

 宿泊者は、希望すれば、その朝拝に参列することができる。

 外から見るよりは奥行きはずっと広く、腰かけも用意されていた。

 正装した神官は、宿坊・山本館のご主人のお父上ではないかと思われる。祝詞を挙げ、我々の名を言って、これから参拝に行くのでお迎えくださいと神様に紹介され、一人ずつ玉串を奉納した。

        ★

 朝食はありきたりでなく、一般の旅館よりも一品一品吟味された品が出されているように感じた。 

         ★ 

往復4キロの奥社に参拝する >

深田久弥『日本百名山』から

 「海抜千米の大きな高原が、こんな山中に広がっているのも珍しいが、ここに巨刹が軒を連ねたのは、おそらく戸隠山があったからだろう。修験者はたいてい岩の険しい山を選ぶ。大峰山、石鎚山、八海山、両神山など皆そうである。屏風のように長々と岩壁を連ねた戸隠山が見逃されるはずはない」。

 雨模様の空で、戸隠山は全く見えない。

 駐車場に車を置く。森の入口に大鳥居がある。大鳥居が大鳥居に見えないくらいに森が鬱蒼と広がっている。

  ( 奥社入口の大鳥居 )

 大鳥居をくぐると、1キロほど先に随神門がある。ここが距離的には半分で、徒歩約15分。随神門から奥社までの残りの1キロは登り道となり、階段もあって約25分かかるとある。後半は結構きつそうだ。

 ( 奥社への参道を行く )

 小雨の降る中、平坦な森の中の参道を行く。森林浴のようで、気持ちが良い。

 左右の深い森が「戸隠森林植物園」である。

 右の森には「ささやきの小径」。左の森の中には、「小鳥の小径」や、「水芭蕉の小径」や、「小川の小径」があり、随神門のあたりから左の小径を辿って下っていけば、やがて中社に達する。ただし、今回は参拝だけが目的なので、同じ参道を引き返す。

 随神門に達した。苔むした茅葺の屋根の赤い門が印象的だ。

 

 ( 行く手に随神門 )

 門の右手をせせらぎが流れていて、以後、ずっとせせらぎの音を聴きながら歩いた。

  

  ( 渓流が流れる )

 随神門からは、樹齢400年という杉並木に入る。慶長17(1612)年ごろに植林されたらしい。高さ30mの杉林の中は鬱蒼として、人も小さく見える。  

 ( 高さ30mの杉並木をゆく )

 やがて登り道になり、一気に汗ばんだ。

 そして、急こう配の270段と言われる階段になる。曲がりながら登る登山道に置かれた石段は、段差もばらばらで、脚への負担が大きく、スクワットをしているようだ。

 傷めていた膝の痛みが再び出てきた頃、やっと奥社が見えた。 

  ( 奥社へあとひといき )

   奥社は怪力の神さま・天の手力雄を祀っている。戸隠神社の本社だから、戸隠神社にお参りに来た以上、険しい参道でもここまで頑張らなければいけない。

  ( 奥社で参拝する )

 すぐ近くに風情のある社があるが、ここが九頭竜社。祀られているのはもともとこの地におられた九頭竜大神である。高天原の神ではない。

  ( 地主神を祀る九頭竜社 )

 奥社のすぐ下にある社務所に、御朱印をもらう人が列をなしていた。ここまで汗をかいて上がっていただく御朱印は値打ちがあるというものだ。

 寺社で御朱印をもらって、御朱印帳を一つ一つ埋めていくことを喜びとする人が増えている。空白の御朱印帳が埋まっていけば、功徳を積むようで、きっと日々の励ましになるだろう。

 私の場合は、一度始めると、数を追うことがノルマになりそうで、やっていない。心に負荷をかけず、自由でいたい。

 ただ、次はこの神社へ、その次はこのお寺へと目的ができるから、若い人が日本の神や仏を大切にするきっかけになれば何よりである。それに、御朱印帳を片手に参拝するのは風情がある。自分の念願を達するための励みになれば、さらに良い。

 日本の神さまは絶対神ではない。ただ、念ずる者に寄り添い、そっと力を添えてくれる。あとは本人の努力である。

 雨の中、こんな山奥まで、外国人もやってきて参拝している。欧米或いは中東系の人は、一目でわかる。それぞれ日本の文化を感じ取ろうとしており、作法もよい。

 社務所の横から戸隠山登山道が出ている。

深田久弥『日本百名山』から

 「奥社の裏から登って、蟻の戸渡りとか、剣の刃渡りとかいう岩場を通って、八方睨み(1911米)に達する。ここが普通、戸隠山の頂上と見られている。そこから更に岩壁の上っぷちの尾根を一上一下しながら、一不動というキレットまで出て、そこから戸隠牧場へ下る」。

 20代の登山をしていた頃、戸隠山も登ってみたい山の1つだったが、今は、体力は別にしても、だんだん高所恐怖症になってきて、絶対に登りたくない。

 ウィキペディアで戸隠山の項を見ると、「山の形状が屏風形であるため、… 幅50cm前後しかない尾根上が登山路となり、両側が断崖絶壁である。『蟻の戸渡り』など危険な場所が多く、毎年のように墜落(滑落ではない)死亡事故が発生している」とある。

 山の気象条件は荒い。度胸があり、体力があっても、一瞬、突風が吹いて、背中のザックがあおられれば、バランスを崩して「墜落」する。20代の頃は未知なるものへの冒険心にかられていたが、今は十二分に分別もついた。早い話、各地に修験道は残っているが、戸隠の修験道は今は行われないようだ。

 さて、下りの石段では本気で膝が痛んだ

 それでも、途中でゆき倒れになることなく、頑張って大鳥居までたどり着いた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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戸隠神社縁起 … 戸隠神社と小谷温泉の旅(1)

2019年11月02日 | 国内旅行…信州

戸隠への旅 >

 今夏の猛暑を何とかやり過ごし、10月の声を聞いて、2泊3日の旅に出た。「戸隠神社と小谷温泉の旅」である。

 新大阪から新幹線で名古屋へ。名古屋で「しなの7号」に乗り換え、長野へ向かった。

 車窓から久しぶりに見る木曽福島の町の眠ったようなたたずまいも、やがて右手前方に見えてくる美ケ原高原のどっしりした山容も、昔と少しも変わらずなつかしかった。

 午後1時前に長野駅に到着。レンタカーを借りて戸隠へ向かった。

        ★

 前回、戸隠高原に行ったのは働き盛りの頃で、5月の連休を利用してのあわただしい旅だった。

 予約もせず、大阪発長野行きの夜行列車に乗った。

 夜行列車に乗ってでも旅に行こうという元気が、その頃はまだあったのだ。

 車内は、連休を利用して上高地から穂高・槍に向かおうという若者や、信州の高原で立原道造の詩集を読もうという学生など、元気と時間はあるがおカネはないという若者ばかりだろうと思い込んでいた。何でおじさんが1人、と思われるのではないか …。

 だが、意外にも、満席の列車の中は登山姿のおじさん、おばさんばかりだった。

 もう登山は流行らない。大学生が夜な夜なディスコで踊るバブルの時代である。山登りにストイックなロマンを感じるのは、自分と同世代の中高年ばかりなのだと改めて知った。

 そういう自分も、仕事に追われて登山もスキーも卒業し、その時の旅はカメラを持っての撮影旅行だった。戸隠高原の湿地の水辺に咲く水芭蕉や、長野市近郊のリンゴ園のリンゴの花を撮影しようという旅だった。あわただしく行き、あわただしく帰ったが、水辺のそこここに咲く幻想的な水芭蕉の白い花、そして、桜の花びらに似てピンクがやや濃い可憐なリンゴの花が、今も脳裏に残っている。

 そのときは、戸隠神社を気にしながら、戸隠森林植物園の水芭蕉だけをたずねて帰った。今回の旅は、秋色の戸隠森林植物園を気にしながら、戸隠神社をたずねる旅である。

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天の岩戸、空を飛んで戸隠山となる >

 戸隠神社は、戸隠山(標高1904m)の山麓にあり、麓の方から上へ向かって順に、宝光社、火之御子(ヒノミコ)社、中社、奥社と九頭竜社の5社から成る。「5社巡り」が正式の参拝である。

 5社は県道36号線沿いにあって、それぞれの社の結界を示す鳥居の駐車場まで車で行くことができる。もっとも、奥社は駐車場から片道2キロの参道を歩かねばならない。

 本来なら、というか昔の人は、遥か下にある戸隠神社の一の鳥居から、宝光社や中社を経て、奥社まで延々と歩いた。そのため、宝光社や中社の周辺には小さな門前町があり、今も何軒もの宿坊が残っている。

 遥か神代の昔 … 。

 高天原では、弟の素戔嗚(スサノオ)の命(ミコト)の乱暴のために、天照(アマテラス)大神が洞窟に隠れ天の岩戸で入口を閉ざしてしまった。そのため、世界が真っ暗になる。高天原の八百万の神々は集まって、相談した。こういうときに知恵を出すのが、知恵の神の思兼(オモイカネ)の命である。この神様の緻密な段取りのことは記述するのを省略して、とにかく神楽の演奏の下、天の鈿女(ウズメ)の命が桶の上で見事なセクシーダンスを踊った。そのまわりを囲む八百万の神々が囃し立てる。天照大神が何事かと岩戸を少し開けた。すかさず怪力の神・天の手力雄(タヂカラオ)の命が岩戸を引き開け、天照大神の手を取って引っ張り出した。作戦は見事に成功し、世界は再び明るくなったという。

 以上は『古事記』にも『日本書紀』にもある神代の記述だが、手力雄(タヂカラオ)の命が岩戸を開けたとき、アマテラスが再び閉じこもらないよう、その岩戸を遠くへ投げ飛ばした。投げ飛ばされた岩戸が地上に着地して戸隠山となった、というのが戸隠神社にまつわるこの地の伝承である。想像力豊かというか、面白い。

 それで、戸隠神社の5社のうち、奥社には手力雄(タヂカラオ)の命が、中社には思兼(オモイカネ)の命が、火之御子社には鈿女(ウズメ)の命が、そして、宝光社には思兼(オモイカネ)の命の息子の表春(ウワハル)の命が、それぞれ祭神として祀られている。九頭竜社は、もともとこの地の地主神であった九頭竜大神が祀られている。

 この伝承がいつごろ生まれたのかはわからない。

 ただ、戸隠山の恐竜の背のようなギザギザした岩尾根や、修験道が盛んになるにふさわしいこのあたりの山深さは、いかにも神秘的で謎めいて、大和の穏やかな風土とはかなり異なる風情がある。

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神仏習合し、修験道さかえる >

 だが、戸隠神社に伝わる縁起は、以上の話と少し異なる。

 奈良時代の終わりごろの849年、「学問」という名の修験僧が、現在の戸隠神社の奥社のあたりで修業を始め、戸隠寺を開いた。

 平安時代の後期になると、この地でも天台密教、真言密教、神道が習合し、修験道はますます隆盛を極め、全国から修験者や参詣者が集まるようになった。宝光院、中院も開かれ、諸坊が連なって、大きな勢力となった。

 神も仏も習合させ、天地自然から真理を感じ取ろうというのが、日本の宗教である。大和の国の山野を翔け巡ったのは役(エン)の行者。その子孫が安倍晴明、空海は経典仏教に飽き足りず、天地の中で修業して、密教を始めた。禅宗が受け入れられたのは汎神論だからである。

 明治に入って、新政府は古代さながら、太政官とともに神祇官も設立し、維新に功績のあった神道系の人々をこの役所に取り込んだ。太政官が多忙を極める中、何の仕事もないこの役所は、神仏分離令を出して廃仏毀釈を進めた。異国の教えである仏教が入る以前の、神国日本に純化しようというのである。

 戸隠も、お上の命令で、寺や仏像が排斥され、純粋な神社となり、僧は還俗して神官となった。

 僧が時流に乗って還俗し神官になったことを、戦後になって批判する学者・論者がいるが、そういう批判する輩も時流に乗っているのは同じである。大きな流れで見れば、日本では長年、神仏は習合しており、日本人のものの考え方は融通無碍なのである。神か悪魔か、善か悪か、白か黒か、キリスト教かイスラム教か、神道か仏教かという二元論は、本来、一神教の世界である。天地自然の中に身を置き、そこに真実を感知しようとする人々が、舶来の仏教をも取り込んで、日本的仏教をつくっていった。左脳でお経を解読するお坊さんも、その左脳で虫の音やせせらぎの音を聞く。だから、「日本」を意識しようとしまいと、結局、彼が解釈する仏教は、年月を経て日本的仏教にならざるをえない。

 左脳で虫の音やせせらぎの音を聴くのは、遺伝子の問題ではない。日本語を母語とする人々の文化的特質である。

  小鳥来る 村に一社と 一寺あり (「読売俳壇」から、日高市/駿河兼吉さん)

 個々の神社と寺が仲が良かろうが悪かろうが、日本人は両方を必要とし、受入れるのである。 

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アメノウズメの踊りはボレロのよう >

 長野駅から車で約1時間、宝光社の門前の宿に着いた。

 宿でチェックインして、早速、火之御子(ヒノミコ)社まで車で行った。

 県道の脇に車2、3台分の小さな駐車場があり、木の鳥居があって、そこから山の方へ少し上がると、お社がある。

  ( 森の中の火之御子社 ) 

 5社のうちでは一番小さい神社である。村の神社の風情で、ひっそりとして、女神・ウズメノミコトを祀るにふさわしいやさしさを感じる。

 他の4社が神仏混淆であった時代も、ここは一貫して神社であったという。 

 話は少し脱線する ……。

 ふとしたきっかけで、シルビー・ギエム、そして、上野水香の踊るバレー・「ボレロ」を映像で見て、感動した。世界のバレーファンが拍手したのも理解できる。

 そして、神代の時代のアメノウズメの踊りも、このようであったに違いないと確信した。

 漆黒の闇の中、松明の火に照らされ、八百万の神々の中央で、汗に濡れて踊るアメノウズメの姿はセクシーである。小泉くん、「セクシー」という言葉はこのような対象に使ってほしい。

 さらに話は飛躍する。

 佳子さまが市民ホールで開かれたダンススクールの発表会で、へそ出し衣装で登場したと週刊誌が書いた。「佳子さまの『へそ出しダンス』を許容する秋篠宮家の教育方針」と題したフライデイの記事も、ネット上で紹介されている。今は、秋篠宮家をたたけば、販売部数を稼げるのだ。

 敬して論ぜず、それが国民の皇室に対するあるべき姿である。

 敬して論ぜず。週刊誌もネットも、常日頃の自らの品位のなさを、まず振り返るべきである。

 平安朝の十二単だけが日本女性の美ではない。古代の神々の時代はもっとおおらかだった。

 令和の時代、皇族の若い女性は、十二単を着こなすためにも、可能ならアスリートのように体幹を鍛えてほしい。令和の時代には令和の時代の女性美があっていい。和歌は詠めるが、英語はしゃべれない女性では、時代遅れなのと同じである。もし佳子さまが上野水香のような強靭でしなやかなボディをつくることができたら、私はあっぱれと拍手を送りたい。

 そのようにして美しくなった佳子さまが、天皇の叔母様、黒田さんのように、伊勢神宮に奉仕する姿をいつか見たいものである。 

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< 神道(かんみち)を歩く >

 さて、お社の横から森の中に参道(山道)が伸び、右へ行けば中社、左に行けば宝光社と、掲示板が出ている。

  ( 社の横から宝光社へ行く参道 )

 宝光社は、門前から参拝しようとすれば、苔むした急な石段を274段、登り降りしなくてはならない。

 それより、この山道を歩いたほうが楽しいかと思って、宝光社まで往復した。山の中の道を片道1.3キロだ。 

 「神道」と書いて「かんみち」と読むらしい。

 最初の写真に見るように、所々に「クマ出没注意」の看板も出ていた。 

 やがて、宝光社に着いた。

 こちらは、手の込んだ彫刻のある堂々たるお社である。 

   ( 立派な造りの宝光社 )

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戸隠蕎麦は絶品でした!! >

 この夜の宿泊は、宝光社門前町の「宿坊 山本館」。

 廊下もすべて畳敷きで、まだ新しく、きれいだった。

 何と言っても、その夜の「蕎麦懐石料理」は美味しかった。一品ずつテーブルに運んで説明付き。決して高級な食材ではなく、土地の素材ばかりだが、安い宿料では申し訳ないくらい、一つ一つ手の込んだ料理だった。そして、何より絶品は戸隠蕎麦。蕎麦が、こんなに美味しい食べ物だとは知らなかった。

 『夕鶴』の中で、つうが与ひょうに作る「そばがき」も食べた。

 翌朝行われる「朝拝」にも参加を申し込んだ。明日は雨模様だ。

 

 

 

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