ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

のどかな古代の競技場跡に立つ… トルコ紀行(7)

2018年07月31日 | 西欧旅行…トルコ紀行

          ( 神殿の入口の門・テトラビロン )

第4日目 5月16日  

   昨日、バスの中で、ガイドのDさんが、明日の日中は35度を超える暑さになるようですよ、と言った。

 今朝も晴れだ。それでも、白い雲を見るのは久しぶりのような気がする。

 今日から、エーゲ海を離れて、東へ東へと走る。今夜のホテルは185キロ先のパムッカレだ。

ファッションショーを見る >

 バスに乗ってしばらく走り、出発してまだ何も観光していないのに、早くも革製品の高級品店でショッピング・タイムとなる。

 お買い物の前に、まず全員でファッションショーを見学した。

 音楽に乗って、姿の良いお兄さんやお姉さんが颯爽と歩く。なかなか楽しい。

 途中、わがツアー一行の中から、男性モデルに指名された「美女」3人も舞台にあがり、レザージャケットを着て、男性モデルにエスコートされ花道をカッコよく歩いた。若いイケメンにサポートされて、関西のおばさまらしく、楽しんでいらっしゃった。

 ( ファッションショー )

 昼食後は、昨年、世界遺産に登録されたばかりのアフロディシアス遺跡へと向かう。

          ★

トルコの土産屋のこと >

 近年、ヨーロッパのどこを旅行しても、中国人観光客でいっぱいだ。

 評判はあまり良くない。

 ヨーロッパでは(トルコでも)、国のガイド試験をパスして正規のガイドと認められたプロでないと、その町の文化財(自然遺産も含む)について、団体旅行者に説明してはいけないことになっている。日本人の添乗員が、自分の一面的な知識ややり方で説明したり、ガイドをすることは許されないのだ。本当は、大勢の外国人観光客が来るようになった日本でも、早くこの制度を取り入れるべきだと思う。

 2015年の秋、スロベニア、クロアチアなどアドリア海を巡るツアーに参加したとき、行く先々の町で、現地ガイドたちは一様に、「今日は日本人の案内でうれしい」と言った。最近増える一方の中国人観光客は、「傍若無人に大声でしゃべって、ガイドの説明を聞かない。注意したことを守ろうとしない。グループがすぐばらばらになって、自分勝手に行動し、点呼のとき探しに行かねばならない。気を付けていないと、貴重な文化遺産・自然遺産を傷つけたり、持って帰ろうとする」というのである。プロのガイド資格を持つ以上、責任も伴い、特に中国人観光客を相手にするときは神経をすり減らすようだ。

 さて、話を今回のトルコツアーに戻して、以下は、ガイドのDさんのバスの中での話である。

 近年、トルコは経済的に随分苦しい時期を過ごしてきた。私の父も、自分の半生のなかで、こんなに苦しい時期はなかったと言っている。トルコは200万人の難民を受入れようとした。ヨーロッパが受け入れているのは若い労働者だけだが、トルコは困っている人々を助けたいと思って取り組んだから、女性も老人も受け入れた。そこへ500万人が押し寄せた。経済は窮迫し、治安が悪くなった。テロ事件も起きた。これまでトルコに一番たくさん観光に来てくれたアメリカ人、その次のヨーロッパ人、その次の日本人も、パタッと来なくなってしまった。

 苦しい歳月だったが、今、やっと、曙光が見えたと私たちは期待している。回復への第一歩を踏み出したと、感じている。

 ただそういう苦しい時も、中国人だけは少しも減らなかった。来続けてくれた。

 それはとてもありがたいのだが、中国人観光客は、行く先々で、買い物のときに値切る。高価な物だけでなく、わずか千円のお菓子も値切って半値にさせる。トルコの観光地の小さな店はどこも閑古鳥が鳴いて苦しかったから、半分に値を下げても売った。それでは儲からないから、品質を落とした。

 例えばよくお土産にされるロクムというトルコの伝統的な菓子がある。日本の柚餅子(ユベシ)に似た菓子で、蜂蜜が使われている。ところが、今は、品質を下げ、砂糖や甘味料で甘くしている。それはもうトルコの伝統的な菓子のロクムではない。似て非なる菓子だ。中国人は、それをお土産に買って帰る。私たちが行く、行く先々の土産店や露店の多くは、哀しいことに、今、そういう商品を売っている。

 トルコ政府からガイドの資格を得、今もトルコ政府の研修を受けている私たちは、日本人にそういう物を買ってほしくない。本物の伝統的なロクムを買って帰ってほしいと思っている。ですから、私は本物のロクムを売る店に案内する。少し高いが、できたらそこで買ってください。

            ★

古代都市アフロディシアスを見学する >

 アフロディシアスはBC2世紀~AD6世紀に栄えた古代都市である。名前のとおり、愛と美の女神アフロディーテ(ヴィーナス)に捧げられた町だ。

 近隣に大理石の採掘場があったため、アフロディーテを祀る神殿、浴場、競技場なども、大理石の彫刻やレリーフで飾られた。

 ローマ時代も晩期になると、キリスト教が勢力を増し国教化して、アフロディーテ神殿はキリスト教の教会に変えられ、町の名も変えられた。

 7世紀の2度の大地震で大きな被害を受け、12世紀のセルジュークトルコの侵略によって衰退した。

 この都市遺跡の簡単な歴史である。

          ★

 遺跡は、広々とした野っ原の中にある。

 昨日のエフェソス遺跡のように古代都市遺跡として凝縮しておらず、広々とのどかで、気持ちが良い。

 ただし、今日もエーゲ海地方は晴天で、湿度は低いが、日差しは日本の真夏の日差しだ。さえぎる木陰も建物もない。

 青空の下、かつてこの辺りにあった壮麗なアフロディーテ神殿は跡形もなく、神殿の庭の入口の門として行事の時に使われたというテトラビロンだけが残っていた。(冒頭の写真も)。

           ( テトラビロン )

   テトラビロンから気持のよい野の中の小道をたどって行く。花の咲く草むらの中のそこここに、遺跡や遺構が残っていた。まだまだ発掘中で、いつまでかかるか、わからないという。

  ( 遺跡の小道 )

 やがて、古代の競技場の遺跡に出た。

 AD1~2世紀に造られたローマ式のスタジアムである。

 長さ262m、幅59m、3万人の観客を収容する階段状の客席が残っている。

 現代のローマにも、フォロ・ロマーノの向こうに広大な競技場が残っていて、映画『ベン・ハー』を思わせるが、この競技場のように客席まできちんと残っているのは珍しいそうだ。

 競技場を飾っていた数々の彫像も付属の博物館にあり、整備し直せばローマ式スタジアムが再現できるほど、全体の保存状態は良い。

  ( 保存状態がいいローマ式競技場 )

 ただし、再現するより、今のままの方がいい。再現したら、ディズニーランドか、ハリウッド映画のセットのようになってしまう。それは興覚めだ。 

 遺跡の入口近くに戻り、「アフロディスィアス博物館」に入館した。 

 アフロディスィアスで発掘された彫像やレリーフや石棺などが数多く陳列されていた。

 残念ながら教養不足で、一つ一つの像の意味は分からない。下の写真は、人間に火を与えてゼウスの怒りを買い、山頂に鎖でつながれたプロメテウスの像だろう。

  ( アフロディスィアス博物館 )

                      ★

 議事堂や劇場の遺跡の見学は割愛した。さらに、このあと、パムッカレに行き、ヒエラポリス遺跡と石灰棚を見学する予定であったが、それらの見学も明日に延期した。ツアー一行の一人の女性が熱中症で体調を崩したのだ。他人ごとではないと感じた人も多いに違いない。

 バスはパムッカレのホテルに直行した。

  ( 車窓風景 : モスク )

 ホテルの医者に診てもらい、病院に運ばれたが、翌日以後はまったく元気に観光された。

 このホテルには石灰棚があり、温泉水が流れていて、水着を着て温泉に入ることができる。旅行の出発前に、温泉に入りたい人は水着を持ってくるようにと言われていたが、温泉なら日本の方が良いに決まっていると思って、要するに面倒くさいので、持ってこなかった。

 それでも、久しぶりにホテルでゆっくりできて、良かった。

 

 

 

 

 

 

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世界最大級の古代都市遺跡エフェソスを巡る … トルコ紀行(6)

2018年07月26日 | 西欧旅行…トルコ紀行

  (古代世界で三大図書館の1つとされたケルスス図書館の遺跡)

5月15日 午後  バスは走る

 昼食後、トルコ石のショップへ寄った。買うつもりはなかったが、退屈なので「ショーケース・ショップ」をする。これはエレガントだ、と思うトルコ石の指輪の値段を店員に聞いてみたら、日本円で60万円だった。そうでしょう。良い物を見る鑑識眼はある。

 それにしても、トルコツアーに入れば土産物店に連れていかれるのは仕方がないと思っていたが、ガイドのDさんが連れて行く店は高級品店ばかりだ。

 エフェソスへ、バスで2時間半。

 途中、人口360万。トルコ第3の都市イズミールを通った。

 日本の都市と違って、なお伸びていこうとする大都市のエネルギーを感じる。

  ( 車窓風景 : 現在のイズミールの町 )

 トルコでは、住んでみたい町のナンバーワンだとか。海に近く、明るく、暮らしやすい。国立大学が2つもあり、若者の街でもある。周辺のエーゲ海岸は古くからリゾートとして開発され、ヨーロッパからも人々が大勢やってくる。ベルガモンやエフェソスの遺跡観光の拠点としても人気がある。

   ( 車窓風景 : エーゲ海に臨むリゾート )

   「イズミールはトルコの経済発展を象徴するような活気ある港湾都市だが、何とこれが古代都市スミルナの現代の姿なのであった」(辻邦生)

 古代に栄え、今は廃墟になった都市が多いが、例外もある。    

        ★

 トルコの高速道路沿いは、花が絶えない。

 そうでなければ、豊かな田園地帯だ。

 この季節、ピンクの花をつけた灌木をよく見かけた。夾竹桃に似ているが、そばで見ると違う。

  ( 車窓風景 : 快適な高速道路を走る )

        ★

< 「聖母マリアの家」へ

   見学の都合上、まず、「聖母マリアの家」へ向かった。

 「要らん(イラン)」という言葉がある。私的には、今回のトルコツアーは、「要らん」所に、ぎょうさん寄る。しかし、仕方ない。個人旅行では、トルコはちょっと無理なのだから。

 「聖母マリアの家」も、本当は私にとっては「要らん所」だ。

 イエスの母マリアは、イエスの死後、どこで暮らし、どこで没したのか。古来から、キリスト教会にとって、強い関心事だった。

 新約聖書を子細に読めば、1世紀の使徒たちを中心としたキリスト教会の動向はある程度推論でき、伝説上からも、母マリアが余生を送った地はエフェソス、或いはその周辺ではないかと言われてきた。

 そして … 、ここからが私が後ろを向きたくなるところなのだが、18世紀末に、一人のドイツ人の尼僧が、自分では全く行ったこともないトルコのエフェソスの近く、サモス島を見下ろす丘の上の小さな石造りの家に、聖母マリアが最後の日々を暮らしている幻を見た、と言ったのだ。

 聖母マリアが現れたとか、聖母マリアの顕現した泉の水で病気が癒されたという話は、ヨーロッパのカソリック圏にはあちこちにあり、今も多くの信者が押し寄せている。まあ、それはそれでいい。

 ただ、そういう、いかにも素朴で、ある意味、なまなましい宗教上の場に、日本の観光ツアー(日本だけではないが)が名所見物の一環として立ち寄るということに、私には抵抗がある。アンタッチャブル、そっとしておきなさい、と言いたくなる。

 さて、ドイツ人の尼僧の話の続きだが、19世紀に彼女の言葉(証言)を頼りに探索が行われた。そして、19世紀末、これから見学する建物の下に、1世紀と4世紀の建物の壁の跡、そして7世紀に聖堂として建て替えられた跡が発見されたのだ。

 もちろん、1世紀のものが重要で、そのあと、1度建て直され、さらに言い伝えられて、7世紀に聖母マリアを記念する聖堂になったというのである。

 しかし、それだけで、そこが母マリアが暮らした跡であるというには、根拠が薄弱である。まちがいないことは、そこにローマ時代の石壁が残っていた、さらに7世紀の聖堂があったということだけである。

 今ある「聖母マリアの家」は、18世紀の尼僧の証言を基に、1951年に再現された小さな石造りの建物である。ローマ教皇も訪れ、教皇の代理が毎年、表敬訪問し、今は信者たちの巡礼の地となっている。

 ── だが、と思い直す。現代に生きる「聖母マリア信仰」を思うから抵抗がある。

 史実として、人間イエスには当然母がいて、その母マリアが多分、使徒ヨハネとともに、つまりこの辺りで、余生を送っただろうということに異を唱えるつもりはない。

 これまで20年もヨーロッパの歴史と文化をめぐる旅を続けてきたが、ヨーロッパ文明と、古代、中世のキリスト教世界との対立葛藤、ダイナミズムは、ヨーロッパ文明を理解するうえで避けて通ることはできず、また興趣尽きないものがあった。

 特にここエーゲ海沿岸の地は早くにキリスト教が伝えられ、初期のキリスト教会の動向を知るうえで必須の地である。なかんずく古代都市エフェソスは、12弟子の一人である使徒ヨハネが担当した教区と言われる。そこに、おそらく、母マリアもいた。

 それなら、その時代の息吹を少しでも感じ取るために、「要らん」は棚上げしよう、と考え直した。

        ★

 その場所は、エフェソス遺跡から7キロほど離れた、人家もない山中である。バスは、「聖母マリアの家」を訪れる人々のためにわざわざ造られたと思われる山中の道路を、カーブを繰り返しながら高度を上げていった。

 駐車場から徒歩でさらに行くと、開けた明るい空間に小さな小屋があった。近くには、病が治るという聖水が湧いている。小屋には父ヨセフと母マリアと、生まれたばかりのイエス。バチカンが贈呈したそうだ。

 その横の石段を上がると、「聖母マリアの家」だ。

 

  ( 聖母マリアとイエス )

        ★

使徒ヨハネと聖母マリアのことなど >

 世界地図帳の中東の地図を開いて見る。

 トルコは四角形をしており、東西に長い。

 東西に長いその北側は、ヨーロッパ(中欧、東欧)。

 東西に長いその南側は、地中海が西側の半分を占め、地中海の東側は、紛争の国、シリアとイラク。

 シリアのすぐ南に、イスラエルとヨルダンがある。

 現在のトルコ共和国の苦しさは、その地政学上の位置にあると言えるが、それはさておき、イスラエルは、もちろんキリスト教の発祥の地だ。そして、(トルコの)エーゲ海沿岸部には近いのだ。

 西暦1世紀のころのトルコ、シリア、イスラエル、ヨルダン、そして地中海の南側へ回ってアフリカ北岸も全て、ローマの支配下にあり、平和で、繁栄していた。人々が信じる宗教については、非人道的な(例えば、人間を生贄にするといった)もの以外は、全て互いに認め合い尊重しあう世界であった。

 このようなローマ世界の片隅のイスラエルのベツレヘムにイエスは生まれ、そして、エルサレムで処刑された。

 使徒をはじめ、イエスの教えを信じた人々は、以後、ローマ世界の各地に散らばって宣教を始める。

 各地と言っても、向かうのは自ずから都市部になる。エルサレムを追われた弟子たちが布教に行くとしたら、まずは繁栄するエーゲ海沿岸部の都市である。

 当時、ローマ帝国のアジア州の首府であったエフェソスは、早くにキリスト教が入ってきた。おそらくエフェソスを中心とする一帯の教区を管轄していたのは、新約聖書の記事の断片から推測して、使徒ヨハネである。

 もっとも、他者の信じる神を尊重するローマ世界の人々の中で、神は一人、あなた方が信じているのは邪教であり、祈っているのは悪魔であるとするキリスト教のことである。彼らが布教を行えば、おのずから衝突が起きる。自分の妻や子弟や召使が、いつの間にかこの秘密めいた、偏狭な宗教に取り込まれるというのは、許せることではない。ところが、自らの神を絶対とするこのグループは、批判しても妨害しても、布教をやめようとしないのである。市民と元老院の承認によって就任したローマ皇帝も、市民の訴えは無視できない。

 キリスト教の側からいえば、それは迫害ということになる。使徒をはじめ、多くのキリスト教徒が殉教した。だが、迫害を力にして、彼らはローマ世界のなかに浸透していったのである。奴隷の中にも、市民の中にも、貴族の中にも。

                         ★

 さて、使徒ヨハネであるが、新約聖書のヨハネ伝に、イエスが十字架上で命を引き取る直前のこととして、次のような記述がある。

 「(十字架上の)イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です』。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」。

 ガリラヤ湖のそばで、最初にイエスの弟子になった4人のうちの1人がヨハネである。12使徒の中で一番年下で、イエスが最も愛した弟子とされる。

 11人の使徒のうち、殉教しなかったのはヨハネだけである。それは、母を託したイエス(神)の意思だったのかもしれない??

 さて、使徒ヨハネはエーゲ海の島・パトモス島に流刑され、そこで「ヨハネの黙示録」を書いたとされる。やがて流刑から解放され、エフェソスで教えを説き、また、そこで「ヨハネによる福音書」を書いたとされる。エフェソスには、伝ヨハネの墓もある。

 また、母マリアにも、エフェソスで余生を送ったという伝説がある。エフェソスは、古くから聖母マリアに対する信心が厚かったところでもある。ただし、墓はない。「聖母マリアの被昇天」。カソリックでは、マリアは今は天上のイエスの横にいることになっている。

 ともかく、繁栄する古代都市エフェソスから7キロの山の中にひっそりと暮らせば、迫害を避け、安全だったろう。ヨハネの弟子や信者たちが訪ねて、必要なものを運んだに違いない。そして、マリアから生前のイエスの話を聴くことができた。

  ( 「聖母マリアの家」 ) 

 小さな石造りの建物があった。さすがに、西欧系の見学者或いは信者が多く、少し行列に並んで、中に入った。

 今日も30度を超す快晴で、内部に入ると暗かった。

 室内は撮影禁止。

 バチカンから贈られたという聖母マリアの金色の立像があった。バチカンが造った現代のマリアは、さすがに美しく、気品があった。

         ★

< 世界最大級の古代都市遺跡エフェソスを歩く >

 再びバスに乗って山を下り、世界最大級の古代都市遺跡エフェソスへ向かう。

 現代のエフェソスは、アヤスルクという小さな村の一部に過ぎない。

 アヤスルクの丘は、BC1000年ごろには、聖地として崇められていたという。やがてそこにアルテミス神殿が建てられた。

 アルテミスという女神については、調べてみたが、私にはよくわからなかった。ギリシャ系の神々ではなく、元はこの地にいた先住民の女神だった、という説は本当だろうと思う。日本でも、縄文の神が弥生人に引き継がれ、祀られている。とにかく、古代都市エフェソスと言えば、アルテミス信仰だった。

 アルテミス神殿は地震などで崩壊するたびに再建されたらしい。最後に再建されたローマ時代の神殿は、あのアテネのパンテノン神殿がすっぽり入るぐらい巨大だったという。

 それより前のBC300年ごろ、アレキサンダー大王によって、当地の海岸部に港が築かれる。その港はやがてエーゲ海随一の貿易港として発展した。その過程で、エフェソスの中心もアヤスルクの丘から沿岸部に移動した。

 BC133年には共和政ローマの支配下に入ったが、エフェソスは「アジア属州」の首府として発展し続け、ローマ帝国の東地中海交易の中心となった。

         ★

 バスを降り、いよいよ世界最大級と言われる古代遺跡の中に入って行く。

 まず目に入ったのは、オデオン(音楽堂)。

 収容人数は1400人で、当時は木製の屋根があったそうだ。コンサートだけでなく、市民の代表者による議会も、ここで開催された。座席の下半分が大理石で造られているのも、そのためである。

 

    ( オデオン )

         ★

 クレテス通りの沿道には、石造りの建物の廃墟が並んでいる。

 ガイドのDさんが、所々で、ここは〇〇神殿とか、門の石像彫刻は▽▽神とか、個人邸宅の床のモザイク画が残っているなどと説明してくれるが、これだけ多いと、その一つ一つはどうでもよいと思ってしまう。

  ( クレテス通り )

         ★

 Dさんの話によると、道端に置かれているニケのレリーフは、もともと近くのヘラクレス門のアーチとして飾られていた。ニケは勝利の女神。

     ( ニケのレリーフ )

 スポーツシューズで有名なナイキの創業者はこの像を見て感動した。しかし、この像をそのまま使うわけにはいかないので、そのごく一部をデザイン化して、会社のロゴマークとした。

 さて、どの部分でしょう??

 Dさんの話も、創業者がこの像に感動した云々は、本当かどうか?? ただ、ナイキという社名がニケ(Nike)の英語読みであること、ロゴマークがこのレリーフからきていることは間違いない。

         ★

 正面玄関の遺構が最もよく残っているのは、AD2世紀の皇帝ハドリアヌスに捧げられた神殿。奥の方のアーチに彫られているレリーフはメドゥーサの像。

   ( ハドリアヌス神殿 )

 ハドリアヌス神殿の近くには、娼館ではないかと言われる建物があり、また、細い道を入ると古代の公衆トイレもあった。下を流れが通って水洗式になっているが、個室にはなっていない。友人同士、おしゃべりしながら用を足したそうだ。

         ★

 数ある遺跡の中でも最も印象的だったのは、クレテス通りからマーブル通り(大理石造りの通り)への曲がり角にあるケルスス図書館の遺跡である。

 「廃墟の美」という言葉がある。廃墟となった壮大な古代建築の、古びた大理石の色合いと、その陰影が、圧倒的に迫ってきた。

     ( ケルスス図書館 )

   1塔は古び、1塔は遥かな昔に倒壊して、今は礎石が残るのみ。その礎石の柱の穴に雨水がたまり、もう1塔の姿を映して趣深い、と何かに書かれていた。それを読んだことのある人々は、寺を訪れると、柱穴の水に映る塔をさがしたものだ。近年、多くの尽力によって、目も鮮やかな朱塗りの塔が再建され、元のように2塔になった。それはそれで良かったが … 失われたものにも味わいはあった。日本の大和路の話である。

 さて、この大図書館は、ローマ帝国アジア州の執政官だったケルススの死後、その息子が父の墓室の上に記念に築いたものだという。12000冊の蔵書があり、当時、アレキサンドリア、ベルガモンと並ぶ3大図書館の1つとされた。

 正面の大理石の柱の間に、知恵、運命、学問、美徳を象徴する女性像が置かれて、美しい。

 ( どこの国の女性でしょう?? )

         ★ 

 もう一つ、心に残る遺跡があった。

 古代の大劇場である。

 演劇の上演のほか、全市民集会にも利用されたらしい。直径154m、高さ38mで、2万4千人を収容できた。

 青空の下、しばらく石の席に座り、古代の夢でも見ていたい気分だった。

 

      ( 大劇場 )

         ★

アルテミス神殿と聖ヨハネ教会のこと >

 「エフェソス見学の最後に、とてもいい撮影スポットに案内します。夕方になり、光線の加減もちょうど良いと思います」と、ガイドのDさん。バスで少し移動した。

 バスを降りると、1本の円柱が建つ湿地で、ガチョウ??の群れが餌をさがしているばかりだ。

    ( アルテミス神殿の跡 )

 ここはかつてエフェソスのシンボルであったアルテミスの大神殿があった跡である。7回破壊され、7回再建されたというが、今は柱が1本残るのみ。

 世界初の総大理石造りで、アテネのパルテノン神殿がすっぽり入るぐらいの壮大なものであったと聞いても、想像することもできない。

 大神殿は、AD3世紀に、大地震とゴード族の侵略によって破壊され、それ以後は修理もままならなかったそうだ。

 やがてキリスト教がローマ帝国内に勢力を拡大して、国教化していく。これまでのギリシャ・ローマの神殿は異教のシンボルとして破壊され、或いはキリスト教教会に変えられ、アルテミス大神殿の遺構も他の建築の石材として奪われて、荒れるに任された。

 だが、と、ガイドのDさんが言う。

 手前に古代のアルテミス神殿の名残をとどめる円柱があります。

 その向こうの右手には、かつて使徒ヨハネが晩年を過ごし、6世紀に、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスが教会に代えた聖ヨハネ教会の遺構が見えます。そこにはヨハネの墓もあります。

 また、その左手には、14世紀に建てられたイスラム教のイーサーベイ・ジヤーミィ(モスク)があります。当時を代表する美しいモスクです。

 3つの歴史的な遺産が一つの絵として納められる。これがトルコです。(なお、奥にある大きな建造物は要塞の跡)。

  ( 3つの遺跡が共存している )

 キリスト教を国教化したテオドシウス大帝の死後、ローマ帝国は2つに分けられたが、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国の下でも、エフェソスはなお健在であった。依然としてアジア属州の首府であり、また、国教化したキリスト教の主教座も置かれて、東方教会の中心の1つであった。AD431年のエフェソス公会議は有名である。

 だが、7世紀になると、2世紀ごろから進んでいたエフェソスの港の沈降が顕著になり、経済活動はすっかり衰える。そして、エフェソスの中心はもとのアヤソルクの丘の方に戻った。

 7世紀初めにアラビア半島で起こったイスラム教は燎原の火のごとくに勢力を拡張し、東ローマ帝国に侵攻した。8世紀に至り、東ローマ帝国はエフェソスを放棄する。港が完全に埋まったのも、そのころだったという。

         ★ 

 今夜の宿のあるクシャダスは、トルコのエーゲ海有数のリゾート地。

 もちろん、泊まったのは高級リゾートホテルではない。それでもなかなかオシャレなホテルだった。食事はもうひとつであったが。 

    ( ホテルは海に臨む )

 

 

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古代都市ベルガモン遺跡を見学する … トルコ紀行(5)

2018年07月19日 | 西欧旅行…トルコ紀行

     ( アクロポリスの青い空 )

   エーゲ海の青い空を背景に建つトラヤヌス神殿の廃墟は、この旅の中でも最も印象に残った風景の一つであった。

     ★   ★   ★ 

第3日目 5月15日 午前 

 朝、アイワルクのホテルを出発し、バスで1時間のベルガモン遺跡へ向かう。

 午後は、ベルガモンからバスで2時間半のエフェソスの遺跡を見学する予定だ。

< 古代都市ベルガモンのこと

   ベルガモン王国は、アレキサンダー大王(BC356~BC323)の死後に生まれたギリシャ系ヘレニズム諸国の一つ。王国となったのは紀元前の241年。古代都市ベルガモンを都とし、エフェソスがその外港だった。

 BC129年、王国は共和政時代のローマに吸収合併され、ローマの属州の一つとなった。「アジア属州」である。ただし、その中心都市として、古代都市ベルガモンもエフェソスも繁栄を続けた。

 古代都市ベルガモンの繁栄はAD3世紀ごろまで続くが、ローマ帝国の弱体化とともに衰退し、やがて異民族の侵略にさらされて、歴史の中に消えていった。

   19世紀にドイツ人によってその遺跡が発見され、本格的に発掘されるまで、この古代都市は眠り続けた。

 古代都市ベルガモンの遺跡はエーゲ海から内陸部へ25キロほど入ったところにあり、広々とした野の中に散在している。

 今回、バスやロープウエイで移動し、そのうちの2か所を見学した。一つは古代の総合医療センターの跡とされるアスクレピオン、もう一つは古代都市ベルガモンの中心・アクロポリスの丘の遺跡である。

         ★

< 古代の総合医療センター・アスクレピオン

 アスクレピオンは、医術の神「アスクレピオス」を祀る神殿を中心にした古代の総合医療センターのことである。BC4世紀からAD4世紀に渡ってこの地で活動した。古代のことであるから呪術的な要素を多分に含んでいるのはやむをえないが、当時しとしては最先端の病院施設の跡である。

         ★

 バスを降り、アスクレピオンへの入口までやって来ると、突然、野っ原の中に、崩れた大理石の列柱が現れた。

 この通りは、古代、「聖なる道」と呼ばれ、アスクレピオンに通じる道路であった。馬車の通る石畳の車道と、列柱をはさんでその横に石畳の歩道がある。我々ツアーの一行は、何故ということもなく、或いは、日本人らしくと言うべきか、全員が古代の歩道の方を歩いた。

 朝まだ早いせいか、若者グループや家族づれの西欧系の観光客はまばらだった。

   ( 石畳の車道の横に歩道もある )

 「聖なる道」の先には、大理石で造られた長い地下道(トンネル)があった。

 古代には、足元を細いせせらぎが流れ、古代人はその水音に耳を澄ませながら、暗い地下道の中を神殿の方へと誘われていった。一種の心理療法的効果をねらったのかも知れない。

   ( 地下道の跡 )

 地下道を抜けると、広場に出た。

         ★

 広場の入口にヘビの彫刻を施した円柱があった。脱皮するヘビは、再生のシンボルと考えられていたという。

   ( ヘビのレリーフの円柱 )

 広場の中央付近に聖なる泉の跡があったが、今は涸れている。当時はここで身を浄めた。

 広場の周辺には、神殿、医療施設、宿泊施設のほか、医学書を集めた図書館などもあったそうだが、今は礎石と列柱が残るのみ。宿泊施設に泊まって、その夜見た夢を参考に治療法が決められたという。

   ( アスクレピオンの広場周辺 )

         ★

 遺跡の石の間に、赤い野の花が咲いていた。

 

     ( 廃墟の野の花 )

辻邦生遥かなる旅への追想』から

 「私がより強く心をときめかしたのは、ベルガモの遺跡で、野生の、一重の赤いアネモネの花を見つけたときである」。

若山牧水の歌 

 「かたはらに 秋草の花 語るらく

   滅びしものは なつかしきかな」

         ★

 広場の横には劇場があった。古代ギリシャ・ローマ時代の円形劇場としては小ぶりだか、ここでは音楽療法も試みられていたそうだ。

      ( 劇場 )

         ★

 こればかりの遺跡であるが、興趣があった。

 最初の、列柱の連なる「聖なる道」の入口に戻り、バスで野の道をアクロポリスへと移動する。

     ( バスで移動する )

        ★

< アクロポリスの丘の遺跡 >

 アクロポリスの丘に上がるロープウエイ乗り場まで、直線距離にすると2キロ少々だが、バスは15分ほどかけて、野や丘の道を通って移動した。5月とはいえ炎天下の下、遺跡の中をかなり歩く上に、この距離を徒歩で行くのは大変である。だから、個人、グループで訪れる場合は、タクシーをチャーターするようだ。

   アクロポリスの遺跡は標高335mの丘に上にある。

     ( アクロポリスの丘からの眺望 )

 アクロポリスとは、その都市のシンボルとなる神殿が建てられた丘のことである。有事の際には市民こぞってここにたて籠もる。当然、城壁もあり、防備の用意もある丘である。

 かつてシチリア旅行したとき、海を見下ろすアクロポリスの丘の廃墟を幾つか見学して感動した。( ブログ「シチリアへの旅」の7、8、11 )

 だが、ベルガモンはエーゲ海から25キロほど内陸に入った所に栄えた都市で、眼下に海を見下ろすことはない。

        ★

 アクロポリスの丘には、図書館の跡、トラヤヌス神殿、劇場、ゼウスの大神殿の跡などがある。

 ペルガモン王国が当時の地中海世界で屈指の文化水準に到達していたことを示すのは、かつてこの丘に存在した図書館である。エジプトのアレクサンドリアの図書館に次ぐ20万巻の蔵書を誇っていた。

 書物を編むためにはパピルスが必要であったが、エジプトのプトレマイオス朝が品不足を理由に輸出を禁止した。そこで、ベルガモン王国は羊皮紙を発明した。以後、良質の羊皮紙の産地としても有名になった。

 ただし、図書館があった場所も、今は何もない廃墟である。

 

   ( 図書館の跡 )

辻邦生遥かなる旅への追想』から

 「この春、訪ねたトルコの地中海側のベルガモ、スミルナ、エフェソスなど古代都市の名は『ヨハネ黙示録』の中にアジアにある7つの教会の所在地として出てくる。古代都市スミルナは現在は広大な港湾都市イズミールとして発展しているが、ほかの都市はほとんど昔日の面影はなく、小さな村落のそばに打ち棄てられた廃墟の石だけが青草のなかに散在している。

 たとえばベルガモのアクロポリスの丘には見事なディオニュソス劇場と並んで図書館跡があるが、かつて20万冊の本を集めた図書館を偲ばせるものはどこにもない」。

        ★

 トラヤヌス神殿は、ローマ皇帝で5賢帝の一人であったハドリアノスが、同じく5賢帝と称せられる前帝トラヤヌスのために建てた神殿である。

 だが、すでに2千年近い時間を経て、今は石積みの土台部分と石柱の一部を遺すのみ。

 5月とはいえ30度を超えるエーゲ海地方の真っ青な空をバックに、大理石の柱と台座の白がコントラストを成して、この旅の中でも最も印象に残った光景の一つであった(冒頭の写真)。

 

 ( トラヤヌス神殿の遺跡 )

        ★

 アクロポリスの遺跡に残る劇場はかなりの急斜面に造られていた。これほどの急斜面の古代劇場は珍しいという。眺望が良いのは言うまでもないが、ここき音響効果もまた非常に良いそうだ。

 観覧席は82段あり、約1万人が座ることができたという。

  ( 劇場の遺構 )

 劇場の東にはアテナ神殿があった。有名な「瀕死のガリア人」などの彫刻群で飾られていたというが、今は、何もない。

        ★

   劇場の南には、BC180~170年ごろに建てられたゼウスの大神殿があった。ヘレニズム美術を代表する建造物である。だが、今はわずかに基礎壇が残っているだけで、その壮麗さを想像することもできない。

 大神殿の祭壇は、コの字型の列柱式回廊と、大階段と、台座で構成され、台座を囲む大理石の壁は、神々と巨人との戦いを描いたレリーフで飾られていた。そのレリーフは、高さ2.3m、延長すると何と113mになるそうだ。

 19世紀にドイツ人考古学者によって発掘され、レリーフで飾られた大理石群などすべてが船でベルリンに運び出された。

 今はベルリンのベルガモ博物館の中に、2200年前の巨大な神殿が復元され、展示されている。ベルリンに行って見学するものと言えば、「ベルリンの壁」と、日本人なら森鴎外の「舞姫」に登場するウンター・デン・リンデン通り、あとはこのベルガモ博物館である。

 これら古代ギリシャ・ローマ系の遺跡や出土した美術品が誰のものか、或いは、どこの国の所属とすべきかということについて、私には明快な答えはない。

 トルコは当然、ドイツを非難する。

 ドイツに言わせれば、西欧諸国の中でも遅れて出発した我々は、大英博物館やルーブル美術館の真似をしただけだと言うかもしれない。

 それに、19世紀当時のオスマン帝国に、古代ギリシャ・ローマの遺跡を人類の遺産として大切にしようという意思があったとは到底思えない、と言うだろう。我々は「人類の貴重な宝」だと知っていたから、破壊されないようにドイツに持ちかえり、しかもそれを当時のままに蘇らせたのだと。

 そもそも、これらの遺跡は、確かにオスマン帝国領にあったが、オスマン帝国が当地に侵略してくる以前は、そこは東ローマ帝国(ビザンチン帝国)であり、民族で言えば古代からギリシャ系の人々が暮らし、文明を築いてきた歴史がある。

 だがしかし、と、今のトルコ共和国は言うであろう。トルコ国民は多くのギリシャ系の人々を含む多様性をもった共和国であり、歴史も文化も、ギリシャ的要素を含んでいるのだと。

          ★

 参考までに、前掲の松谷浩尚『イスタンブールを愛した人々』から要約・引用する。

 「トルコ人の多くは伝統的にドイツに親近感を抱いている。今日のトルコにとって政治・経済・文化などあらゆる分野でもっとも緊密な関係にあるのはドイツである。ドイツには多くのトルコ人出稼ぎ労働者とその家族が住んでおり、その数は200万人とも300万人ともいわれる。ドイツも国際社会において、他のいずれの諸国よりも、トルコに対しては好意的な態度を示してきている」。(注: ただし、ごく最近のトルコについて言えば、エルドアン大統領はかつての敵対国ロシアに接近し、一方で、非EU・非NATO=非ドイツ的態度をとりはじめている)。 

 「しかしながら、オスマン帝国末期にトルコ各地の古代遺跡から発掘された財宝や古美術品などを国外に持ち出したドイツには手厳しい批判がある」。

 「ベルガマの遺跡を見たければ、トルコではなくベルリンのベルガマ 美術館に行くべきだという人さえいる」。

 「ベルガマから発掘された彫刻や古美術品などのめぼしい出土品はすべてドイツへ運び出されたのだ」。

 「ベルガマだけでなく、トロイの出土品も不法に国外に持ち出された」。

 「トルコは過去の苦い経験から『怨念』ともいえるほど、古美術品の流失を防ぐことに躍起になっている」。

 同書によれば、かつて日本人女性の旅行者が、トルコの空港のセキュリティ・チェックのとき逮捕された。地方都市の土産物店で買った青銅製品を持っていたためである。警察は地元の博物館の研究員に鑑定を依頼した。その結果、青銅製品は骨董美術品とされた。こうして彼女は起訴され、無罪の判決を勝ち取るまでいやというほどの苦渋を味わった。

  「この事件から十数年過ぎた現在でも、在トルコ日本国大使館は『犯意の有無やその値段など問うところではないので、どんなことがあっても古美術品とおぼしき物品には手を出してはいけない』と注意を呼びかけているぐらいである」。

 (この日の午後は次回へ)

 

 

 

 

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ダータネルス海峡を渡ってトロイ遺跡へ … トルコ紀行(4)

2018年07月08日 | 西欧旅行…トルコ紀行

( ダータネルス海峡を渡るフェリーからエーゲ海を望む )

第2日目 ( 5月14日 )  トロイへ

   昨夜はイスタンブール市内に入らず、空港に近いホテルに泊まった。

 今朝は7時半にバスに乗って出発。

   終日、バスの旅で、エーゲ海に臨むリゾートの町アイワルクまで走る。

 途中の観光はトロイの遺跡だけだ。

 トロイ遺跡は、観光客の目を喜ばすほどのものが残っていないから、イスタンブールから飛行機で一気にイズミールまで飛んでしまうツアーも多い。だが、見るほどのものはなくても、ここがあのトロイの跡だと思って、その場所に立ってみるだけでも興趣がある。

 それに、今日のもう一つの楽しみは、ダータネルス海峡をフェリーで渡ることだ。ダータネルス海峡も、目に映じるのは茫洋とした単なる海かもしれないが、しばしば歴史の舞台に登場する海峡を目にする機会は捨てがたい。

 とは言え、イスタンブールからトロイまで330キロもある。休憩時間や昼食時間は別にして、正味5時間半かかる。さらにトロイからアイワルクまで150キロ。2時間半。8時間もバスの中だ。

 これがトルコ旅行。覚悟がいる。

          ★

マルマラ海の北岸を走る >

 昨夕、イスタンブールの空港に、トルコ人の女性ガイド・Dさんがツアー一行を迎えに来てくれた。これから旅行中ずっと、この人がガイドをしてくれる。トルコの名門大学・アンカラ大学の日本語学科卒。達者な日本語で、トルコ政府の通訳として何度も日本を訪れていて、日本通だ。ガイドとしての説明もしっかりしていて、トルコの歴史と文化を日本人に伝えたいという熱を感じる。今まで経験したツアーの中で、一番中身のあるガイドだ。もちろん、トルコ政府のガイド資格を持っている。

 バスはイスタンブール郊外の市街地を出て、田園地帯に入った。左手にマルマラ海を見ながら、その北岸(ヨーロッパ側)を西へ西へと走る。

 豊かな田園地帯だ。

   ヨーロッパでも、作物を育てるのは不向きだと思われる石ころだらけの土壌の土地や、いかにも荒涼とした土地もあるが、トルコは緑に恵まれた豊かな農業国のようだ。

    ( 車窓風景 : 耕作地が広がる )

[ ガイドの話 ] マルマラ海には2つの島があり、そのうちの1つは古来から有名な大理石の産地だった。大理石のことをギリシャ語でmarmarosという。マルマラ海の名は、これに由来する。大理石の海だ。

 湖のように四面を大地に囲まれた、トルコの内海である。東西に長く、280キロ。その東の端にイスタンブールがあり、そこからさらに東は、ボスポラス海峡によって黒海につながっている。

 マルマラ海の西の端はダータネルス海峡につながり、海峡を抜けるとエーゲ海に入る。そのエーゲ海側に、古代都市のトロイはあった。やはり海上交通の要衝の地である。

 イスタンブールからマルマラ海に沿う280キロはなかなかの距離で、途中、2度トイレ休憩。その一度はトルコの名品であるカシミア製品の店で、ショッピングの時間も入れた長い休憩時間だった。その休憩の間にトルコのお茶、「チャイ」を飲んでみた。見た感じ、紅茶に似ているが、紅茶よりコクがあって、結構イケると思った。

 2度目の休憩の後、バスの車窓にダータネルス海峡が見えてきた。 

          ★

ダータネルス海峡を渡る >

  ( 車窓風景 : ダータネルス海峡 )

 ボスポラス海峡の長さは30キロ。最も幅の狭い箇所は、0.8キロ。

 ダータネルス海峡の長さは60キロ。最も狭い箇所は1.2キロ。

 海峡沿いに、バスは走った。

 やがて、海峡が終わり、トルコの大地も尽きて、エーゲ海が開けるという所に港があり、そこからバスごとフェリーに乗船した。

 

    ( 港で釣りをする人 ) 

 マルマラ海もエーゲ海も、地図上ではごく小さな海に過ぎないが、実際に 船上から望むと、やって来たマルマラ海の方を見ても茫々と海は広がり、反対側のエーゲ海も海峡が大きく開いて、遥かである。(冒頭の写真)。

 1時間足らずで、遠くに見えていた対岸・アジア側の町が近づいてきた。

 

   ( ダータネルス海峡のアジア側 )

          ★

トロイの遺跡 >

 西へ西へと走ってトルコの大地が終わった所から、今度はエーゲ海の東岸に沿って、南へ南へと南下する。

 アジア側と言っても、かつてエーゲ海の沿岸は古代ギリシャ、ローマ文明が花開いた地である。

 トルコ旅行の最初の3日間は、エーゲ海に沿って、ヨーロッパ文明の発祥の地の跡を巡る旅である。

 途中、レストランに寄って昼食をとり、トロイに着いたのはすでに午後3時だった。

         ★

  ( トロイ遺跡の入口に設置された「木馬」 )

 シュリーマンは、19世紀(1822~1890)の人である。実業家として成功し、財を成した後、子どものころに聞いたホメロスの叙事詩『イーリアス』の物語が忘れられず、41歳の時に、伝説のトロイの発掘を志した。

 すでに、専門家によるトロイ探しは行われていたようだが、彼が偉かったのは、『イーリアス』を徹底的に読み込み、現地を実地に歩いて、ヒサルルックの丘こそその場所だと見当をつけたことにある。それからあとは、豊富な財力を使って発掘調査を進め、ついに「トロイの財宝」を発見するに至る。

 彼は、これこそホメロスが描いた「トロイ戦争」のトロイに違いないと確信した。だが、その後も専門家による本格的な発掘調査は継続され、その結果、トロイ遺跡には9層に渡る都市遺跡が重なっていること、シュリーマンが発掘したのはその第2層で、BC2500年~BC2200年ごろの「トロイ」であること、彼が目ざした「ホメロスのトロイ」はBC1200年代のもので、9層のうちの第7層であったことが、彼の死後に確認された。

 しかも、シュリーマンの乱暴な発掘作業によって、第7層は壊されていた。このことを非難する専門家もいるが、当時の考古学の発掘作業そのものが今のレベルから言うとかなり未熟だったから、仕方がなかったという意見もある。

 では、シュリーマンの発掘した「BC2500年~BC2200年ごろのトロイ」は、全く見当違いの0点だったのかというと、そうとも言い切れない。

 ホメロスはBC800年ごろの人で、トロイ戦争からすでに400年の歳月が過ぎていた。ホメロスは、シュリーマンが少年時代に『イーリアス』に感動したように、伝えられていたトロイの伝説を聞いて、胸をときめかしたのだ。そして、成人して、自分の文学的才能を大いに発揮し、少年時代に聞いた伝説を素材にして、それに生き生きと肉付けをし、一編の優れた叙事詩として完成させたのである。

 では、少年時代にホメロスが聞き、後に『イーリアス』になった「伝説」の中身はどういうものだったのだろう??

 そもそも伝説・伝承というものは、長い歳月をかけ、幾世代の人々の口伝えで、雪だるまのように膨らんできたものだ。元の核となる話に、それぞれの時代の話が混同して膨らみ、さらに、こうあってほしいという人々の願いも加えられる。ホメロスが少年時代に聞いた伝承も、そのようにして形成されたものであろう。

 とすれば、『イーリアス』の原型となった伝承は、BC1200年代の「トロイ戦争」の伝承が核となっているのだろうが、より古い時代、例えばBC2500年~BC2200年ごろの「トロイ」のことを伝える伝承も、BC1200年より後のBC800年ごろまでに起こった事実も付け加えられ、雪だるまのようにふくらんだ伝承であったと考えるべきである。

 3女神が「誰が一番美しいか」と争った話は、BC2500年~BC2200年ごろにはすでに生まれていた話かもしれないし、知恵の将軍オデッセウスの木馬は、BC1000年ごろに形成された伝承かもしれない。

 そのように考えれば、シュリーマンが発掘した「トロイ」は、BC1200年代の「トロイ戦争のときのトロイ」ではないかもしれないが、「『イーリアス』のトロイ」でないとは、一概には言えないということである。

 とにかく、ヒサルルックの丘に「トロイ伝説」の遺構があると考え、事実、「トロイの伝説」を発見したのはシュリーマンなのだから。

 いずれにしろ、遥かな歴史の彼方のことである。

         ★

 発掘され、我々が今、目にすることができるのは、城塞の城壁の一部だけ。古びた石の間から赤い野の花が咲いていた。

 この城塞の周辺部に都市があったかどうかも、まだわかっていない。そこまで発掘の手がまわっていない。今、残っている城壁は、第6層のものである。

    ( 城壁の跡 )

      ( エーゲ海を望む )

 遺跡の端に立つと、畑の広がりの先に、エーゲ海が見えた。

 トロイを攻めるギリシャの軍船が帆を連ねた当時の海は、この城塞にもっと近かったとされる。それはそうだろう。

        ★ 

 さて、シュリーマンの発掘した「トロイの財宝」は、今、どこにあるのか??

   松谷浩尚『イスタンブールを愛した人々 ── エピソードで綴る激動のトルコ』(中公新書)によると、シュリーマンは、発掘した「トロイの財宝」を、トルコ政府との協定を破って秘かに持ち出し、アテネの自邸に展示した。

 当然、トルコ政府をはじめ各方面から批判を浴びた。

 その後、彼はそれをすべて、ドイツに寄贈した。「財宝」はベルリンの博物館に展示された。

 第二次世界大戦のとき、ベルリンは激しい空爆と、さらにソヴィエト軍の侵攻によって破壊され、その混乱の中で、「トロイの財宝」は行方不明になった。焼失してしまったとも考えられた。

 ソヴィエトの崩壊後、モスクワのプーシキン美術館の地下倉庫に「トロイの財宝」が眠っていることが判明した。

 今、「トロイの財宝」は、プーシキン美術館で公開展示されている。

 そして、トルコ、ドイツ、ロシアが、それぞれ自国に所有権があると主張し、決着はついていない。

 シュリーマンは、伝記上の人物として、世界の人々に尊敬されているが、「トルコでは最も人気のない外国人の一人である」(同書)。

 もちろん、われらのガイドのDさんは、トルコに返還すべきだと、強い口調で主張した。

         ★

 1時間ほど、トロイ遺跡を見て、またバスに乗り2時間30分。午後7時過ぎに、海岸のそばのリゾート風のホテルに着いた。

 朝、7時半に出て、12時間。そのほとんどがバスの中だった。

 

 

 

 

 

 

 

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上空からカスピ海、そして黒海を見る … トルコ紀行(3)

2018年07月02日 | 西欧旅行…トルコ紀行

 第1日目 ( 2018年5月13日 )  トルコへ

 

大韓航空に乗って >

 いよいよイスタンブールへ。

 関空9時30分発の大韓航空に搭乗し、ソウルで乗り継ぐ。

 いくつかあるトルコ行きのツアーのほとんどが、中東系の航空会社を使っている。

 今回、このツアーを選んだ理由の一つは、イスタンブールへの往復が大韓航空だから。

 中東系の飛行機でイスタンブールへ行く場合、往・復ともに深夜便になる。往復とも、というのはしんどい。

 しかも、乗り継ぎが大変なのだ。中東の、例えば、ドバイ空港のロビーで、夜明け前の数時間を過ごさねばならない。空港ロビーの椅子で仮眠をとるのは、若いバックパッカーの世界だ。

 さらに、中東系の飛行機だと、午前中にイスタンブールに着いて、寝不足のまま観光バスに乗って、2日目の活動が始まる。元気な現役で休暇のとりにくい人には効率的だが、私の年齢ではそういう旅はできたら避けたい。

 大韓航空は、朝、関空を出発して、仁川(インチョン)空港で2時間の乗り継ぎ、その日のうちに(現地時間19時40分に) イスタンブールの空港に着く。だから、第1日目は、ホテルで寝ることができる。

 帰国便は夜行便だが、深夜に見知らぬ空港で、長時間、乗り換えのための時間を過ごすということはなく、イスタンブールから一気に飛んで、翌日の午後にソウルに着く。そして、夕方には関空に到着する。

 もう一つ、大韓航空利用のツアーを選んだ小さな理由がある。

 これまでヨーロッパ行きの航空機の旅を数多く経験したが、まず日本から北へ北へと航路を取り、あとは西へ西へ、延々とシベリアの凍土の上を飛ぶ。

 一方、イスタンブールへ向かう場合は、中東系の飛行機であろうと、大韓航空であろうと、北上せず、ひたすら西へ西へと飛ぶ。だから、昼間の飛行機であれば、地図の上だけで知る本もののカスピ海や黒海を、上空から見ることができる … かもしれない。眼下に雲がなければの話だが。これはちょっとときめく!!

 ただし、大韓航空に安心して搭乗するわけではない。最近、またまた、一族支配によるトラブルが報道された。仮にどんなに勉強がよくできて優秀な大学を出ていても (そうなのかどうかは知らないが)、ちやほやされて育った若い娘に、いきなり大組織のリーダーが務まるわけがない。

 とにかく、機長以下従業員のモラール(志気)の低下が心配だ。何しろ航空機は、ちょっとしたミスで大惨事になる。

 

         ★

仁川(インチョン)空港でWi-fi 通信に成功 > 

  大韓航空の客室乗務員は、韓国ドラマの宮廷女官の髪型を取り入れて統一し、中には宮廷ドラマから抜け出たような愛くるしい女性もいた。

 乗り換えのため、仁川(インチョン)空港で、セキュリティ・フロアーに入る。そのとき、わがツアー一行のおっちゃん、おばちゃんたちは、私も含めて、慣れない自動チェックイン機の操作に手こずった。搭乗券を機械にかざすだけなのだが、なかなか上手くいかない。若い女性の空港係員がいらつき、まるで出来の悪い子どもに対するような態度で叱りとばされた。

 近代的な機械を導入しても、未だに李氏朝鮮時代の、「官は上、民は下」という「お上」意識が根強いようだ。

 そもそも、チケットをかざすだけなのになかなか上手くいかないのは、機械の性能に問題があると考えるべきで、もしコツを必要とするなら、それは機械の形をした「道具」に過ぎない。

         ★

 仁川空港で、Wi-fiを使ってインターネットを見ることに成功。

    ( 仁川空港ロビー )

 事前にもらったツアーの案内に、旅行中ずっと利用する観光バスの中で、Wi-fiが利用できると書いてあった。海外でWi-fiを使ったことがなかったから、旅に出る前、使い方を研究した。

 広いトルコをずっとバスで移動する。1日のほとんどがバスの中と言っていい。そのバスの中で、自分のスマホを操作して、無料で、トルコの天気予報も、日本のニュースも見ることができ、通信もできると思うと、閉塞した世界から解放されて外界に出たような気分になった。

 翌日のバスの中では、添乗員のI氏から、もし万が一はぐれた場合にと、I氏の携帯電話の番号も教えてもらった。これも、ありがたい。

 最近のツアーでは、ガイドレシーバーを持たされて、ガイドの説明をイヤホーンで聞く。お陰で、各国の観光客で賑わう観光地の雑踏の中でも、全員がはっきりと説明を聞きとることができるようになった。ところが、説明を聞きながら写真撮影に熱中して、ふと周りを見ると、声はすれども、ガイドも一行の皆さんも移動して、見当たらない!! ということがあった。声は、そばにいるように聞こえるのだが。これは慌てる。そういうことが、何度かあった。

         ★

眼下にカスピ海、そして黒海を見る >

 ソウルを13時40分発。西へ西へと、12時間の飛行だ。

 途中、体がだるく、胸に圧迫感があり、脈拍を測ってみたら、ふだんと違う。運動した後でもないのに、こんなに脈拍が上がるのは初めてだ。それで、本も読まず、映画も見ず、できるだけ安静にして過ごした。

         ★

 飛行機は、厚い雲海の上の、強い光にあふれた青空のなかを飛んでいることが多い。窓から外を見ると、飛行機の下には白い雲海が様々な形を描きながらどこまでも広がっていて、大地の様子は見えない。

 それでも、雲海がなくなって、地表の上空を、遥かに高く、ゆっくりと移動しているときもある。

 中国の北部からモンゴルに入って、さらに西へ西へと飛ぶ。

 やがてカザフスタンへ。

 … 旅行に出るときには、いつもコンパクトな世界地図帳を持っている。地図上の自分の位置を確かめながら時を過ごして、無聊の慰めとする。

 緑のない、荒涼とした、砂漠のような大地の上を、延々と飛んできた。

 長い時間が過ぎ、やがて、アラル海からカスピ海に差し掛かる。このあたり、雲海はまったくない。

 スカイブルーの水と、砂糖菓子のように白い世界が広がった。今までの荒涼とした大地と比べて、美しい。実際に、そこに行けば、やはり荒涼とした死の世界かも知れないが、上空から見る世界は、本当に綺麗だ。

 何だろう?? 塩だろうか⁇

 帰国してから、すこし調べてみた。

 調べたが、よくわからない。しかし、なかなか興味深いものがあったので、少し書きとめておく。

 太古、2つの大陸があり、大陸と大陸の間に大海があった。その海は、チラス海と名付けられている。

 550万年前、大陸移動により、その海は陸地の中に閉じ込められた。その名残が、地中海、黒海、カスピ海、アラル海などである。  

 黒海は海だ。ボスポラス海峡、マルマラ海、そしてダータネルス海峡を通って、地中海、大西洋につながっている。

 一方、カスピ海やアラル海は湖だ。ただ、昔、海であった名残をとどめて、塩湖である。

 アラル海は世界第4位の大きな湖だった(日本の東北地方ぐらい)が、1950年ごろからソヴィエット政府によって始められた「科学的」な自然改造計画によって、半世紀で1/5に縮小した(福島県ぐらい)。その過程で、塩分濃度が異常に濃くなり、魚の棲まない湖になって、このあたりの中心的な産業であった漁業と魚肉の加工業は壊滅した。干上がった湖底からは砂嵐が舞い上がり、緑も消え、生態系が破壊されて、砂漠化した。人間の健康への被害も生じている。「20世紀最大の環境破壊」と言われているらしい。

 カスピ海は世界最大の湖で、我が国の国土面積よりわずかに狭い。塩分濃度は、大河ヴォルガ川が流れ込む北部で薄く、流入河川の少ない南部で濃いが、平均すると海水の1/3である。

 運河で黒海とつながり、また、他の河川や運河を経由して、ヨーロッパの北海まで貨物船は行く。

 カスピ海の東のカザフスタン側には、白い岩山と白い奇岩の大地が広がっている。

 これは、太古の海・チラス海で発生した円石藻という植物プランクトンが大量に海底に蓄積した後、隆起して、雨や風の侵食を受け、白い岩の層となったものだ。この白い岩の層は白亜(チョーク)と呼ばれる。「白亜紀」の白亜だ。

 その続きになるカスピ海の東海岸付近は、荒涼として干上がり、塩で覆われている。春になり、その干上がった塩湖に雨が降り、薄く水が張ると、湖は鏡のように空の青を写して、美しいそうだ。

 上の飛行機からの写真が、そういう現象による景色を空から写し撮ったものかどうかは、わからない。

 日本の小さな旅行社が、この白亜の山や奇岩、そしてそれに続く鏡のような塩湖を見る旅行を企画している。やがて、南米のウユニ塩湖のように、観光化されるのかもしれない。しかし、今は、ガイド付きの「冒険旅行」に近い。

         ★

 カスピ海を過ぎると、ジョージアという緑豊かな国の上空となり、やがて黒海が見えてきた。

 黒海の周辺は、1万m近い上空からも、緑が豊かであることがわかる。黒海の北側はウクライナだ。学校で、穀倉地帯と習った。

 トルコはジョージアの西、黒海の南岸から南に広がる国だ。

 飛行機は南岸沿いに、イスタンブールへ向かって飛んだ。トルコも緑豊かな国らしい。

 

 ※ 飛行機の窓が強い紫外線除けのガラスのため、かなり青っぽく写っている。

 

 

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