ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

長浜の町のこと…琵琶湖周遊の旅(3)

2020年12月30日 | 国内旅行…琵琶湖周遊の旅

  (「三谷旅館」に泊まりました)

     ★   ★   ★

 「波のまにまに漂えば/赤い泊火(トマリビ)懐かしみ/行方定めぬ波枕/今日は今津か長浜か

 琵琶湖周遊の歌の一節だが、なんか演歌にもなりそう

 今夜は、その長浜に泊まる。

 宿にチェックインした後、街の中を少し歩いてみた。今はコロナで閑散としているが、ヨーロッパの旧市街のように良い感じで、ぶらぶら歩いていて楽しい。

 高度経済成長の時代、日本の中小都市はJRのどの町で降りても「銀座通り」と称する商店街があり、食堂、パチンコ店、飲み屋があって、その町らしい個性的な表情がなく、駅前の土産物屋の商品も商品名を替えただけで全国画一的だった。それも今はシャッター街だ。

 長浜は、ステンドグラスづくりを体験できる黒壁ガラス館があり、黒壁スクエアがある。曳山子ども歌舞伎の博物館もある。思わず入りたくなるようなオシャレなカフェやレストラン、さらに和菓子屋、洋菓子屋、お餅屋、地酒屋、履物屋、着物屋、布工房、蜂蜜屋、古書店、紙屋、そして旅館など、バラエティに富んだ店が軒を連ね、小さな流れや橋も景観として取り込んで、伝統と気品を感じさせる。

 全国から何万人もの人が集まる、曳山子ども歌舞伎や長浜盆梅展などのイベントもある。

 こういう町づくりは、国の補助ばかり期待する町と違って、町衆とでもいうべき人々が皆で知恵と力を合わせて取り組んだ結果であろう。

 遠い昔に遡れば、難攻不落の小谷城を落とした信長は、この戦いで功のあった羽柴秀吉に湖北12万石を与えた。

 初めて大名となった秀吉は、山城の小谷城を捨てた。そして、北国街道と、湖上交易の要衝の地として、湖岸に長浜という新しい城下町をつくった。長浜は、秀吉の7年間で基礎がつくられた町である。

 例えば街区は、戦国風の鍵型道ではなく、碁盤目状になっている。楽市楽座がしかれ、町衆の自治が重んじられ、進取の気風が培われた。秀吉が柴田勝家と雌雄を決した賤が岳の戦いには、長浜の若者たちが町を挙げて秀吉側に付いて戦った。

 曳山祭りの山車は、町内ごとにあって豪華絢爛、その上で子ども歌舞伎が演じられる。この山車も、秀吉が男子誕生の折に「内祝い」として長浜に贈った砂金を元手として造られた。

  (曳山子ども歌舞伎)

 石田三成も大谷吉継も北近江の人である。関が原は、近江の将兵が西軍の中心として戦った戦いだった。

 たが、徳川の時代になっても変わりはなかった。

 司馬遼太郎は『街道をゆく24』の中で、

 「三成の旧領を相続して佐和山城に入った(井伊)直政は、石田時代の法や慣習を尊重しただけでなく、戦国期に敗れて民間に落魄している佐々木氏(京極氏)や浅井氏の遺臣をよび、近江の国風について深く聴くところがあった。

 さらに家臣団に対し、『関が原合戦に関することを語るな』と、命じた。語れば、三成の悪口になり、三成をひそかに慕っているかもしれない民間の感情を傷つけることにもなる。関が原合戦の西軍の中核部隊は近江衆であった」。

 中世的権威というものは、全国の守護大名にしろ、京の貴族や京都・奈良の大寺にしろ、民にとっては遠い存在だった。彼らは民を上から目線でしか見なかった。民衆の暮らしを思う武家の頭領とか、施しをする大寺の僧侶というのは、現代の価値観で歴史を語る大河ドラマのフィクションに過ぎない。(奈良時代の行基も、鎌倉時代の親鸞も、正規の僧侶ではない)。

 領国を真剣に「経営」するようになったのは、戦国大名が登場してからである。秀吉も、石田三成も、井伊直政も、家康も、隣国に打ち勝つ大名になるには、まずはわが領国を豊かにし、経済力を養わねばならないことを知っていた。だから、時に領民の目の位置に降りてきて、領民の思いを慮ることができる。そういう人間でなければ成功はおぼつかない。

 「戦国時代」という言葉から、日本史を習う日本の生徒たちは、戦争ばかりの絶望的な時代と誤解するだろう。しかし、この時代は、日本の社会が中世的制約を壊し、大きく近世へ向かって前進した時代である。…… と、私は理解している。

       ★

 長浜の商店街には、いろんな案内があった。

 (街角の「うだつ」の説明看板)

   (うだつのある家)

 美味しそうな鯖寿司を作っている店があって、明日の昼飯用に買った。日持ちするように包んでくれた。

 翌日、琵琶湖の北岸で食べたが、久しぶりの絶品の鯖寿司だった。

 泊まった宿は町屋風で、部屋は狭かったが、夕食の料理も美味しく、申し訳ないぐらい安かった。お蔭さまで節約してしまった。

 (三谷旅館)

 宿の主人のお子はもう成人だが、小学生の頃、曳山子ども歌舞伎で活躍した。役者には小学生の男子しかなれない。アルバムや新聞の切り抜きを見せていただいたが、山車はもとより豪華絢爛。衣装は親もちだと思うが、こちらも本格的。ビデオを見ると、演技も相当に本格的。立ち姿そのものが、腰が据わって様になっていた。

 「明日はどちらの方へ?? 高月とか、木之本も良い所ですよ」。「確か十一面観音のお寺がありますね」「そうです。小説にも描かれています」「…… 井上靖でしたね。題は…??」。「『星と祭』」「あっ、そうでした」。

 若い日に読んだことがある。琵琶湖でボートが転覆して遺体も上がらなかった女子大生の父親が、湖北の十一面観音を巡る話だった。

 どうして琵琶湖でボートが転覆するのか、若い男女がなぜ岸まで泳ぎ着かなかったのか、読みながらそこが理解できなかったが、今日の竹生島行きの船の揺れは激しかった。まるで、時化の日の大海原の波だった。

 「昔、日帰りでしたが、路線バスと徒歩で渡岸寺の十一面観音など2、3を拝観して回ったことがあります。でも、今回は車で琵琶湖を一周しようと思っています。明日は、北岸をぐるっと回り、琵琶湖の西側を南下して石山まで走りたいと思っています」。

 旅から帰って、ネットを見ていたとき、長浜の有志たちが井上靖の『星と祭』の復刻をしたという記事を見つけ、なるほどと思った。あの宿のご主人も何がしかかかわっていたに違いないと思った。

   ★   ★   ★

 今年一年間、当ブログを読んでいただきありがとうございました。

  諸事情に幻となる春の旅 (読売俳壇から)

 本当に思いもしなかった大変な一年間でした。

 しかも、いつまで続くかわかりません。

 でも、笑顔で新しい年を迎えましょう。不安→怒り→攻撃ではなく、笑顔です。

 来年もよろしくお願いします

 

 

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神の住む島・竹生島へ … 琵琶湖周遊の旅(2)

2020年12月27日 | 国内旅行…琵琶湖周遊の旅

  (竹生島)

 「琵琶湖と称するようになったのは、それより (注: 「淡海」に「近江」の字を当てた頃より) 後のことで、竹生島に弁才天を祀ったために、琵琶を連想したのではなかろうか。そう思ってみれば、琵琶の形に似なくもないが、『さざなみ』という枕詞に、琵琶の音色を感じ、そこから弁才天が誕生したと考えた方が、古代人にはふさわしい。」(白洲正子『近江山河抄』)。

 「琵琶の形に似なくもない」と言っているのは、何が、「琵琶の形に似なくもない」というのだろう??

 琵琶湖のことだろうか?? それとも、竹生島??

 日本語はまことに難しい。

 それよりも、「『さざなみ』という枕詞に、琵琶の音色を感じ、そこから弁才天が誕生した」のではないかという筆者の発想は美しい。

 「さざなみ」は、古くは「ささなみで、古語辞典に、風のために立つこまやかな波のこと。そこから、①地名。近江の琵琶湖西南部沿岸地方の古名。②「さざなみの」で「大津」「志賀」「比良山」「なみ」「よる」などにかかる枕詞、とある。

   ★   ★   ★

 上の写真の竹生島の後ろに霞んで見えるのは、明日、車で行く琵琶湖の北岸、葛籠尾(ツヅラオ)崎のあたり。琵琶湖の周囲でも、最も静かなあたりだ。すぐ近くに菅浦という小さな港があり、竹生島との距離が最も近く、約2キロ。

 白洲正子の『かくれ里』から

 「遠くから眺めると、その形には古墳の手本になったようなものがあり、水に浮いている所も、二つの丘にわかれている所も、前方後円墳そのままである。神が住む島を聖地として、理想的な奥津城とみたのは、少しも不自然な考え方ではない」。

 「仏教が入って来て、そこに観音浄土を想像したのも、自然の成行きであったろう。逆に言えば、古墳時代の文化が根を降ろしていたから、仏教を無理なく吸収することができたので、竹生島の美しい姿自体が一つの歴史であり、神仏混淆の表徴であったといえる」。

  (竹生島港が見える)

 ウイキペディアによると、この島の周囲は約2㎞。標高197m。島全体が花崗岩の一枚岩で、切り立った岩壁で囲まれている。島周辺の湖底は深く、西側付近の最深部は104mある。

 港は、島の南側に1カ所だけ。港の近くに、寺、神社、数軒の土産物店がある。寺も神社も店舗の関係者も全て島外から通っており、夜間は無人の島となる。

 人が往来するのは島の南の港付近に限られ、他はカワウのコロニーになっているという。

      ★

 桟橋に降りると、いきなり立派な歌碑があった。

 「瑠璃(ルリ)の花園 珊瑚(サンゴ)の宮/古い伝えの竹生島/仏のみ手に抱かれて/眠れ乙女子やすらけく」。そもそもは旧制三高のボート部の歌。

 下船した人々らと桟橋から山の方へ歩き、入山料を払ってパンフレットをいただく。

 そこから急峻な石段が上へ延びていて、パンフレットには「祈りの石段」としるされている。「数多くの巡礼者や参拝者が、祈りを捧げながら165段の石段を上ったことから名付けられました」。

  

 (祈りの石段)

 「祈りの石段」より「165段の石段」の方がインパクトがある。「島全体が花崗岩の一枚岩で、切り立った岩壁で囲まれている」というのだから、致し方ない。

 石段の1段1段が高く、足腰にこたえる。若い学生たちはひょいひょいと上がって行くが、年配の人も多く、上りの人も降りてくる人も、1段、また1段だ。立ち止まると、急な石段の途中は高度恐怖症にとって、ちょっとこわい。

      ★

 上りつめた所に宝厳寺本堂があった。弁才天堂とも言われ、本尊は弁才天。

   (本堂)

 弁才天の「天」は、如来や菩薩より格下の仏で、風神・雷神や四天王、阿修羅など、仏教を守護する役割をもつ。もとは古代インドの神々だったが、仏教に取り入れられた。

 「悟り」とか「極楽」とは縁の遠い私は、「像」として、如来、菩薩よりもこちらの方が好き。

 弁才天はもと聖なる河の化身。水の女神。バチをもって演奏する音楽神の形をとることが多い。日本では七福神となり、また、本地垂迹では宗像三神の市杵嶋姫(イチキシマヒメ)と同一視される。宗像三神は古代海人族・宗像氏の海の女神。(当ブログ「国内旅行…玄界灘の旅」参照)

 水の女神、音楽の女神は、琵琶湖にふさわしい。

 江の島、宮島と並ぶ「三弁才天」のうち、竹生島の弁才天が最も古いそうだ。

       ★

 やや離れて三重塔があり、三重塔から石段を下ると、唐門に出た。

    (左上に三重塔、右下に唐門)

   唐門は桃山風の豪華な門。秀吉の大坂城の堀に架けられた極楽橋の一部だったが、豊臣秀頼がここに寄贈・移築した。大坂城は大坂夏の陣で焼けてしまい、今、唯一の大坂城の遺構となって国宝である。

 唐門を入ると観音堂。那智の青岸渡寺にはじまる西国33カ所の観音信仰霊場めぐりの、ここは第30番目の札所とか。

 観音堂から続く舟廊下は、秀吉の御座船の骨組みを利用した廊下と言われ、急斜面に掛けられているので、外から見ると舞台造りになっている。

  (舟廊下)

  (舞台造り)

       ★

 舟廊下を通過すると視界が開けて明るくなり、目の前に都久夫須麻神社がある。ツクブスマ神社。竹生島の信仰のもともとの神さまだ。

 この建物も、秀吉が帝を迎えるために伏見城内に造った御殿を寄進したもので、桃山文化を代表する国宝建築だそう。

  (都久夫須麻神社)

 白洲正子『近江山河抄』から。

 「竹生島はいつも女性にたとえられるのは、その姿が優しいだけでなく、母なる湖を象徴したからであろう。祀られているのも、ツクブスマという女神で、あきらかに北国の訛りがある」。

 「はじめは浅井(アザイ)比咩(ヒメ)を祀ったといい、その方が古いように思われる。現在その名は浅井郡として残っており、この地方の生え抜きの地主神であった」。

   「浅井比咩がツクブスマとなり、観世音と混淆して弁才天に変身したのが、竹生島の歴史であり、私たちの祖先が経て来た信仰のパターンでもある」。

 新しく入って来た仏教も、この列島の中で年月を経てゆっくりと融和していき、日本の文化として溶けていった。明か暗か、白か黒か、善か悪か、神か悪魔か、そういう二元論的な文明は、この国の風土になじまない。  

 竜神拝所があり、テラスから学生たちのグループがかわらけ投げをしていた。2枚のかわらけに名前と願い事を書いて投げる。

  (かわらけ投げの鳥居)

 うまく眼下の鳥居をくぐると、願いがかなうとか。しかし、かわらけは、なかなか思うように飛ばない。「おっ、野球部!」と言われたおとなしそうな学生が、見事に鳥居をくぐらせた。さすが

       ★

 これで一巡した。さっきの舞台造りの横を通って石段を降りて行き、桟橋へ向かう。

 (桟橋を見下ろす)

 桟橋で少し待っていると、帰りの船がやって来た。

 来るときほど風は強くなく、波もおだやかで、早くも傾いた秋の日ざしがやわらかく心地良かった。

 「竹生島へ渡り、お参りをすませたが、島というものは外から見るに限る。そういう印象を受けて帰って来た。観光地として俗化したこともあろう。が、それは島のロマンティシズムがもつ宿命的な弱味かもしれない。大崎の港に帰りついて、ふり返った時の竹生島は、ふたたび美しさをとり戻し、その女性的な姿に、女神を見た人々の、優しい心根が思いやられた」(白洲正子『西国巡礼』)。

 まあ、そういうことなのだが、それでも、一度は上陸してみたかった。ロマンティストだから、満足です

 白洲正子は、竹生島の弁才天を思いつつ、こんなことも書いている。

 「湖北には大音(オオト)という村があって、楽器の糸のために、原蚕糸を作っているが、静かな村の中で糸織りの音に耳を澄ましていると、琵琶の調べが聞こえてくるような気がする」(『近江山河抄』)。

 白洲正子がこれを書いたのは昭和40年代だから、もうそういう王朝の世界のような淋しげで趣のある産業はないだろうと思いつつ調べたら、今も1軒だけ健在だった。

 数軒あった同業者は新素材の製品に押され、何よりも後継者がいなくて廃業してしまった。今も残る1軒は、和楽器弦メーカー「丸三ハシモト」株式会社。住所は長浜市木之本町大音である。

 滋賀県のホームページには、「未来に響く伝統の音色 ─ 近江の楽器糸」として紹介されている。絹糸から350種以上の楽器糸を製造し、「長年培われた技と手仕事により紡ぎ出される高品質の弦は、深みのある余韻と妙なる音色を生み出し」て、国内のみならず中国の二胡や西洋音楽のヴァイオリンの弦など世界から注目を集めているそうだ。テレビでも紹介されたとか。もちろん、後継者も育っている

 先日も、ユネスコ文化遺産に8種類の匠の技が登録されたことが報道された。

 年を取ってくると、人生というものの見方も変わってくる。

 日本の子どもたちよ。都会の大学を目指すばかりが人生ではない。大企業に就職するとか、プロのサッカー選手を目指すとか、そういう人生が「勝者」の道だと思ったら、まちがいだ。ケーキ屋さんだとか、ペット医だとか、小奇麗な表面だけ見て、あこがれてはいけない。例えば、地方に長年継承されてきた希少の技がある。それを受け継ぐチャンスがあるなら、逃してはいけない。人生、苦労は多い。仕事も厳しいものだ。同じなら、苦労のし甲斐のある人生を選択しよう。

 

 

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近つ淡海(アワウミ)の国へ … 琵琶湖周遊の旅(1)

2020年12月20日 | 国内旅行…琵琶湖周遊の旅

    (白鬚神社の鳥居)

<はじめに>

  2010年の旅「早春のイタリア紀行」を連載中ですが、少し脱線して、2020年の旅のことを、忘れないうちに書いておきたいと思います。このブログを続けて読んでいただいている方々には、誠に勝手で申し訳ありません

 この秋、「琵琶湖周遊の旅」に出かけました。

 車の旅です。

 コロナ下ではありましたが、渺渺たる琵琶湖の広がりを思えば …… 観光客の人ごみさえうまく避ければ、コロナ・ウイルスはいないでしょう。

 少し心配したのは宿です。それで、旅行社の企画するツアーやグループ・団体客が泊まらないような、部屋数が10部屋もない、だが、評判の良い、小さな日本風旅館をネットで時間をかけて探しました。コロナ下の今、どこも部屋数の半分しか客を入れませんし、ましてウイーク・デイですから大丈夫でしょう。実際、宿泊した3軒ともわずか2組の客でした。コロナで廃業してほしくない良心的な宿に少しでもエールをおくれたらという、そういう思いも抱いての旅でした。

    ★   ★   ★

<近江の国と琵琶湖>

 近江を愛した作家・文学者は多い。白洲正子も、司馬遼太郎も、近江紀行を書いている。もっと昔に遡れば松尾芭蕉。

 司馬遼太郎の『街道をゆく24 近江散歩』から。

 「芭蕉には、近江でつくった句が多い。そのなかでも、句としてもっとも大きさを感じさせるのは、『猿蓑』にある一句である。

  行く春を近江の人とおしみける」

 「行く春は近江の人と惜しまねば、句のむこうの景観のひろやかさや晩春の駘蕩(タイトウ)たる気分があらわれ出て来ない。湖水がしきりに蒸発して春霞がたち、湖東の野は菜の花などに彩られつつはるかにひろがり、三方の山脈(ヤマナミ)はすべて遠霞みにけむって視野をさまたげることがない。芭蕉においては、春と近江の人情とがあう。こまやかで物やわらかく、春の気が凝って人に化(ナ)ったようでさえある。この句を味わうには『近江』を他の国名に変えてみればわかる。句として成りたたなくなるのである」。

 春の近江の印象を一言で言い表せば、やはり「駘蕩」という語が的確なのでしょう。

 それにしても、近江の人の気風を「春の気が凝って人に化(ナ)ったよう」ととらえる司馬遼太郎の表現力に敬服です。

 ただし、わが旅は秋、10月。秋の琵琶湖もなかなかのものでした。

 次に、近江の地理と歴史をひょいっと一筆でとらえた白洲正子の文章(『近江山河抄』)。

 「近江は約6分の1が湖水で占められ、古くは『淡海(アワウミ)の国』といった。遠江の浜名湖を『遠つ淡海』と呼んだのに対して、都に近い琵琶湖は『近つ淡海』といい、近江の字を当てたのは、元明天皇の頃と聞く」。

 元明天皇(女帝)は在位707年~715年。藤原に宮があった時代で、和同開珎が世に出た時の帝である。

 それにしても、印象として、近江の国は琵琶湖が3分の1以上も占めているような気がしていたが、地面が6分の5もあったのだ!!

      ★

<「琵琶湖周遊の旅」のこと>

 さて、私の旅。車で高速道路を走り、長浜で一般道に入って、長浜港へ。

 琵琶湖汽船の乗り場で、竹生島行き12時50分発の往復チケットを買う。帰りは竹生島港発14時40分。

 長浜と竹生島の往復ではなく、竹生島からさらに対岸の今津に渡る便もある。そうしたいところだが、車を置いて行くわけにはいかない。

 出航時間まで間があった。

 付近にレストランはない。船乗り場でコンビニの場所を教えてもらい、昼食のおにぎりを買いに行く。歩くには少々遠かった。聞いた相手が元気そうな若い女性だったから致し方ない。

 湖水を見ながらおにぎりを食べた。

 向かいの突堤には魚釣りを楽しむ人たちがいた。

  (長浜港の突堤)

 長年、大阪で働き、奈良に住んだから、琵琶湖周辺にも何度か来た。

 最初は東京の学生だった頃。クラスの仲間と2週間かけて飛鳥、奈良、京都を回り、そのとき比叡山延暦寺にも足を延ばした。

 大阪に職を得て、友に誘われ山登りを始めた。湖西線に乗り、さらに路線バスに乗って、寒々とした山の麓の登山口から比良山を見上げたとき、比良は上から迫ってくるように急峻で、なるほどこれは里山ではない。登山者の山だと思った。谷筋の樹間を登って行くと、途中から雪の山道となり、尾根が近づくにつれ積雪は深くなった。ボタン雪ではない。しんと静まり返った山の中、登山靴で粉雪を踏みしめるぎゅっぎゅっという音だけが聞こえ、冬山の世界に魅了された。雪庇にズボッと足を踏み込み、バランスをくずすこともあった。

 中年になり、車で尾上温泉あたりまで遠出して、湖上に遊ぶ野鳥や夕焼けの竹生島を撮影した。長浜の街に立ち寄って街を少し散策したのもこの頃である。高度経済成長の時代、観光地と言えば演歌が流れ、安っぽい食べ物屋や土産物店が並ぶ時代だったが、この街は歴史と文化を大切にしたオシャレな街づくりに取り組んでいるという印象をもった。

 しかしこの年齢まで、琵琶湖周辺に宿をとって、琵琶湖の風景や歴史の跡を味わう旅をしたことはない。

 竹生島に上陸したことも、国宝の彦根城の天守に昇ったこともない。「さざなみの志賀の都ぞいざさらば」と歌われる天智天皇の大津の宮跡も知らない。

 ということで、今回は途中3泊して、琵琶湖を周遊することにした。

 ただし、ゆっくり家を出発して、最終日は早く帰宅する。宿の朝は遅く出て、次の宿には早く入る。車の運転はスピードを押さえ、奈良県民として、滋賀県警に点数を稼がせないよう、のんびりと走る。

 計画を立てながら、これはムリだなと思った。多分、カットする所が多く、もう一度出かけることになるだろう。特に2日目は、北岸から西岸を回り、石山まで。走行距離も長く、見学したい所は多く、カット、カットで車を走らせることになるだろう。しかし、近いのだから、また出かければいい。旅はゆっくりだ。

       ★

<船上から見る伊吹山>

   (竹生島行き)

 船が出航してまもなく、長浜の街の向こうに大きな山容が見えた。あれは伊吹山だ。

   ホテルだろうか、湖畔の鉄筋コンクリートの建物が景観を壊している。琵琶湖の広がりの向こうに伊吹山、というせっかくの景観だが、遠景で写すしかない。ズームアップすれば、主役はホテルになる。  

  (伊吹山)

 伊吹山について、司馬遼太郎は『街道をゆく24 近江散歩』の中でこのように書いている。

 「 … 岩肌を盛りあげたこの名山は、地球の重量をおもわせるようにおもおもしい。その姿を見るだびに、私の中に住む古代人は、つい神だと思ってしまう。

 南近江の象徴的な神聖山が三上(ミカミ)山であり、湖西の名山が比良であるとすれば、伊吹は北近江のひとびとの心を何千年も鎮めつづけてきた象徴といっていい」。

 だがこれは、長浜付近からの眺めではない。

 私も学生時代、東京・大阪間の帰省の行き帰り、いつも東海道線の車窓から伊吹山を見て、「でかい」と感じた。

 そのあたりのことは、深田久弥の『日本百名山』に書かれている。

 「東海道全線中これほど山の近くを走る所はなく、その中で私のいつもみとれるのは伊吹山の姿であった。それはボリュームのある山容で、すぐ目の前に大きくそびえている」。

 「米原から北陸線に入って長浜のあたりでは、もっと余裕をもってこの山を仰ぐことが出来る。のどかな近江野を通るごとに、藤村の詩『晩春の別離』の一節が私の口に浮かんでくる。

 『懐(オモ)へば琵琶の湖の/岸の光にまようとき/東伊吹の山高く/西には比叡比良の峰』」。

 引用されている若き日の島崎藤村の詩はまだ幼く、ご当地ソングのようであるのが微笑ましい。

 深田久弥は続けて、伊吹山にスキー場ができ、さらに山麓にセメント工場が建ったことを、「山の美観を傷つける、甚だ眼障りな物」と批判。

 だが、人の少ない春の季節にこの山を登って頂上に立つと、近江の野、鈴鹿、比良の山々、さらに遠く雪の白山までの眺望があり、「うららかな静かな山頂で過ごした1時間は、まさにこの世の極楽であった」と書いている。

 このセメント工場については、司馬遼太郎も、先の伊吹山の叙述のあと、怒りをもろに表出している。

 それはともかく、白洲正子は『近江山河抄』の中で、「近江風土記逸文」の話を紹介する。

 「伊吹山の神の名を、霜速比古(ヒコ)という。その娘の須佐志比女(ヒメ)と、姪の浅井比女が、ある時背くらべをした。ところが浅井岳は一夜のうちに大きくなったので、怒った夷服(イブキ)岳は、刀を抜いて浅井岳の頭を切り、湖中に落とした。その頭はやがて島となり、竹生島と呼ばれるようになったという」。

 伊吹山はなかなか激しい。あのヤマトタケルも、この山の神と戦おうとして山中で氷雨に遭い、疲労困憊する。ふるさとの大和を目指して、杖を突き、足を引きづるようにして歩くが、鈴鹿の麓あたりまで来て息絶える。そして、一羽の白鳥になって大和へ向かって飛んでいったという。

 伊吹山の標高は1377m。浅井岳は現代の地図にはなく、金糞岳のことらしい。伊吹山の北西にあり、標高1317m。県下で2番目に高い山。竹生島を乗せると、伊吹山より少し高くなる。

   「伊吹山と竹生島が、東西に相対し、そのまん中を姉川が悠々と流れて行く様は、古代の神話を絵にしたような景色である」。

 白洲正子の近江紀行は、寺や神社を行脚し、古代を思い、遠い日本人の文化や心に思いを馳せる旅である。描かれる近江の景観も美しい。

 『近江山河抄』が出版されたのは昭和49年(1974年)である。

 それに対して、司馬遼太郎の『街道をゆく 近江散歩、奈良散歩』が刊行されたのは10年後の昭和59年(1984年)。ちょうど日本の高度経済成長が沸点に達してバブル期に入った頃である。

 この頃の日本は、土地が高騰し、地上げ屋が徘徊し、山が壊され、神社やお寺の鎮守の杜まで買い荒らされて、鉄筋コンクリートの建物が建てられた。

 国民的作家は、この紀行の中で、近江の駘蕩とした風土や浅井長政、石田三成、徳川家康、井伊直政ら戦国武将の気質や生き方を生き生きと語る。だが、時に、近江の自然がこわされ、汚されているのを目にして、怒りを表出せずにはいられないでいる。

 司馬遼太郎より若い世代ではあるが、高度経済成長からバブルの時代を私も生きた。だから、思いを同じくする。あの時代、日本人はみなぎらぎらと脂ぎって、厚顔無恥になっていた。

 日本が貧しい国にはなってほしくない。だが、再びあのような品のない国にも戻ってほしくない。山々や、谷々や、森や、田畑や、海、そしてそこに育まれてきた人々の文化を、どう守り、いっそう美しく豊かにしていくか。それが第一命題である。

 司馬さんは、この紀行から十年ほどたった1996年に逝く。日本の未来を心配しながら。

      ★ 

 船室は「密」というほどではないが、老若男女の観光客でそれなりに座席はうまっていた。

 40分ぐらいなら、船上の甲板の上で、湖水を囲む近江の景色を見ていた方が楽しい。風も爽やかだった。

 20分もたった頃、船員が上がって来て、波が大きくなり、飛沫が甲板まで飛んできて濡れるから、船室に降りた方がいいと言った。

 高をくくっていたら、良いお天気なのに、本当に時化のように大波がきて、船が上下に大きく揺れ、大量の飛沫が飛んできて、あわてて船室へ降りた。

 しばらくして、波もおちつき、もう一度甲板に上がると、竹生島が近づいていた。

   (竹生島)

 

    

 

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雪のヴェネツィア … 早春のイタリア紀行(8)

2020年12月06日 | 西欧旅行…早春のイタリアの旅

<雪のヴェネツィア> 

 2010年3月10日。

   今日はヴェネツィアから特急列車でフィレンツェへ移動する。フィレンツェでは2泊し、今日の午後と明日1日を見学にあてている。

 昨夜、夜半、眠りながら窓を打つ突風の音を聞いた。

 朝、ホテルをチェック・アウトし、玄関を出て、驚いた。雪!! 積雪だ。

 10センチ以上も雪が積もっていた。

 雪道をスーツケースを引いて歩く。とりあえず水上バスの「カ・ドーロ」駅へ。水上バスは動いているだろうか??

 見上げると、雪はまだ降り続け、無数の雪片が建物の間の空から舞い降りてくる。寒い。

 水上バスが乗客を乗せて霧の中から現れ、ほっとした。… しかし安心はできない。フィレンツェ行きの特急列車は、大幅に遅れるかも …。

 水上バスのテラスに出て、寒風の吹く中、写真を撮った。

  (水上バスから雪の大運河を撮影)

 風は冷たく、雪が舞い、手が凍えた。欧米人の乗客は誰も写真を撮ろうとしない。だが、ヴェネツィアの大運河と雪の組合せは、めったにないシャッターチャンスだ。

 大運河に臨む「サンタ・ルチア」駅の前も、一面の雪景色だった。

 

  (雪の「サンタ・ルチア」駅前)

 ヨーロッパの鉄道駅はホームが横にずらっと並び、自由に入ることができる。改札は車内で行われる。

 終着駅「サンタ・ルチア」駅のホームは10列近くもあるだろうか。何本かの列車が雪に濡れて停まっていた。

 フィレンツェ、ローマ方面に行く特急はどのホームから出発するのだろう??

 電光掲示板の表示に注意した。

 フィレンツェ行きはなかなか表示されない。雪のため遅れているのだろう。気になって、ホームを歩き、停車している列車の行き先を確認して回った。

 時間になっても、何の表示も出ない。飛行機なら「delay」の表示ぐらい出るところだ。

 切符売り場に行って聞くと、もう出発したと言う。ええっ!!

 日本で購入した電子チケットを見せると、これは正規料金だから、少しの手数料で1時間後の列車に乗ることができると言う。

 旅は、いろいろ起きる。それでも、時間どおりに出発しているなら、何よりだ。最低、今日中にフィレンツェの宿に着ければいい。

 1時間後の列車でフィレンツェに向かった。イタリア鉄道の誇る特急は、2時間でフィレンツェに着く。

   ★   ★   ★

   「早春のイタリア紀行」と題しながら、ここまでずっと「ヴェネツィア紀行」だった。今思えば、「ヴェネツィア紀行」としてまとめるべきだった。しかし、書いているなかで、話が広がっていくこともある。

 最後に、ヴェネツィアを愛した3人の文学者・作家の文章を紹介して、この拙いヴェネツィア紀行の掉尾としたい。

<饗庭孝男 … 空と水の間に>

 「かつてこの町に来たクロード・モネはもっと早く来るべきだと嘆いたという。反映と動き、空と水の間にあるこの「印象派」そのもののような町にいれば、モネならずとも、この美しい幻惑と影深い魅力に心を奪われるに違いない」(『ヨーロッパの四季』東京書籍)。

       ★

<須賀敦子 … 街自体が「劇場」>

 「年月とともに、私は、ヴェネツィアという島=町が、それまで私が訪れたヨーロッパの他のどの都市とも基本的に異質であると思うようになっていた。そして、その原因の一つとして私が確信するようになったのが、この都市自体に組み込まれた演劇性だったのである。ヴェネツィアという島全体が、絶えず興行中の一つの大きな演劇空間に他ならないのだ。16世紀に生きたコルナーロはヴェネツィアに大劇場を設置することを夢見たが、近代にいたって外に向かって成長することをしなくなったヴェネツィアは、自分自身を劇場化し、虚構化してしまったのではないだろうか。サン・マルコ寺院のきらびやかなモザイク、夕陽に輝く潟のさざ波、橋のたもとで囀るようにしゃべる女たち、リアルト橋の上で澱んだ水を眺める若い男女たち、これらはみな世界劇場の舞台装置なのではないか。ヴェネツィアを訪れる観光客は、サンタ・ルチアの終着駅に着いたとたんに、この芝居に組み込まれてしまう。自分たちは見物しているつもりでも、実は彼らはヴェネツィアに見られているのかもしれない。かつて、私がヴェネツィアのほんとうの顔を求めたのは、誤りだった。仮面こそ、この町にふさわしい、ほんとうの顔なのだ」(『ミラノ 霧の風景』白水社から)。

 ヴェネツィアはそれ自体が「劇場」だとはよく言われる。

 ヴェネツィアが本格的に妖艶な美女に変身していったのは、16世紀以後である。

 それまでのヴェネツィアは … やはり、勇壮な海洋都市国家だったと言っていい。フィレンツェなどと違って、共同体としてのまとまり、「意思」があった。

 しかし、大航海時代が始まると、地中海貿易では食っていけなくなる。ポルトガルやスペインが、続いてオランダやイギリスが、新大陸へと帆船を乗り出して行ったのだ。

 元老院はヴェネツィアの将来について、知恵をしぼった。例えば、技術と技術者を呼び込み、ものづくりをはじめてみた。今も土産物として売られるヴェネツィアン・グラスはその名残りである。織物業などにも取り組んだが、結局、ヨーロッパの他の地方の安い労働力に勝てなかった。有り余る労働力があるわけではない。

 ヴェネツィアで培われたヴェネツィアの資源、魅力・売りは何か??

 貴族、市民が一体となって取り組んだのが観光業だった。

 所有する商船や軍船、それに船乗りとしてやってきた経験・知識・技術を活用して、警護付きの聖地エルサレム巡礼ツアーを企画したのだ。これは相当にヒットした。ヨーロッパ世界も少し裕福になっていたから、異なる世界を見たいという旅への欲求があった。それに加えて、12世紀以来の巡礼願望 …… 教皇庁はエルサレムに巡礼すればこれまでの全ての罪が免罪されるとしていた(それ以後の罪は、また、別ですぞ!! )。イスラム圏も、十字軍ではなく、カネを落としてくれる観光客なら一応の安全は保障してくれる。旅行業の元祖はヴェネツィアなのだ。ツアーに参加するために、多くのヨーロッパ人がヴェネツィアを訪れるようになった。とりわけ多かったのは英国人だったようだ。

 当然のことながら、お客さまに、もっと長くヴェネツィアに滞在し、もっとヴェネツィアにおカネを落としてもらいたい。

 幸いなことに、教皇庁の免罪条件には「対象」(聖地・聖遺物)ごとのランク付けがあって、免罪の点数が決められていた。現代のミシュランのランク付けのようなものだ。サン・マルコ寺院の聖マルコの遺骸への参拝は相当に点数が高く、参拝すれば何年分かの罪が帳消しになる。自分の死後、天国に近づくのだ。その他にも、ヴェネツィアの街角ごとに建つ古いキリスト教聖堂には、海外雄飛の過程で集められた聖遺物がある。ペテロが処刑されたときの十字架の木材の破片とか、マグダラのマリアのドレスの切れ端とか … 。それらを巡れば、こつこつと免罪点を稼ぐことができる。それに、たいていの聖堂にはルネッサンス以後の巨匠の描いた素晴らしい宗教画もある。

 ヴェネツィアは、ヴェネツィアの街巡りの魅力をアピールしたのだ。例えば観光客・巡礼の中で貴族やお金持ちと見るや、ヴェネツィア貴族や豪商たちが私邸を宿舎として提供し、接待し、自ら街をガイドするというふうに、街を挙げて取り組んだ。

 建築家を招いて、改めて都市美を造りだしていった。街そのものを華麗にドラマティックに装っていったのだ。

 それに加え、種々のカーニバル、仮面舞踏会、カジノ、オペラ、そして高級コールガールも生み出していった。こうしてヴェネツィアは、仮面の似合う、どこか謎めいた、耽美的で、妖艶な美女に変貌していったのだ。(この項は塩野七生『海の都の物語』を参照した)。

        ★

<饗庭孝男 … 「仮面」の街>

 「夜、サン・マルコ広場の、たとえばカフェ『クァードリ』にすわり、陽気に盛り上がるバンドの音楽を聴いているとき、私の脳裡をかすめるのは、ヴェネツィアのこのような歴史である。かつて中世の頃、この壮麗な古代的広場で、遠く黒海沿岸から連れられてきた奴隷市が開かれていたのであった。ビザンチンの禁欲的な書割りの中で、嘆かわしい売買が公然と行われていたのである。この町はローマ教皇の命に背いてキリスト教徒の奴隷も売り、禁じられていたイスラムとの交易にも精を出した。ヴェネツィア自身が「仮面」だったのである。しかも街角によく見かける聖母マリア像への崇拝とそれは決して矛盾することもなく存在していた」(『ヨーロッパの四季』から)。

 饗庭孝男氏はここで、現代の価値観でヴェネツィアの歴史を裁いているわけではない。背徳的なものも含んだヴェネツィアという街の耽美的な世界に思いをめぐらせているのだ。

 ヴェネツィアにまだ活力があったころ、彼らが運ぶ商品の一つに奴隷もいた。西ヨーロッパ世界では、スラブ系の若い女性の美しさは神秘的だった。

 ローマ教皇は、キリスト教徒を奴隷売買してはいけないと言い、また、ヴェネツィアがイスラム教徒と交易することを非難した。

 そして、西ヨーロッパ世界に十字軍の結成を呼びかけた。聖地エルサレムを奪還せよ、かの地に行き異教徒を殺し、異教徒から奪い、異教徒を犯せ。そう神は望んでおられる。

 啓蒙的な皇帝フリードリッヒ2世は、やはり啓蒙的なスルタンと交渉し握手して、1滴の血も流さずエルサレムを(平和裏に)「奪還」し凱旋した。現代でもできないことをやってのけたのだが、ローマ教皇はフリードリッヒ2世をキリスト教から破門した。なぜ異教徒の血を1滴も流さず帰って来たのかと。

 巨悪は、仮面など必要とせず、「正義」を振りかざす。

 7つの海に乗り出した英国商人は、部族抗争を繰り返すアフリカに武器を運んで売り、部族戦争の結果生じた大量の捕虜を買い取った。大量の奴隷たちが新大陸へ運ばれて売られ、奴隷たちの過酷な労働によって綿花畑が経営された。彼らの過酷な労働なくして、今のアメリカ合衆国の繁栄はなかったとも言える。

 人は誰しも罪深い存在だから「仮面」なしでは生きられない。だが、巨悪は、仮面など必要としない。 

       ★

<須賀敦子 … 冬のヴェネツィアの女たち>

  先のブログに、12月の終わりのヴェネツィアの旅のことを書いた。

 時差で眠れず早く目が覚め、朝食には早すぎ、小さなホテルの1階の窓から、カーテン越しにホテルの前の小さな広場を眺めていた。すると、高い所に鳩が巣を作る向かいの古い教会の壁の横から、1人、2人と、人が出てきた。あんな所に路地があるんだと初めて気づいた。男も女も一様に急ぎ足で、観光客とは違う雰囲気があった。その光景が不思議に今も脳裏に残っている。

 次は、ヴェネツィアを描いた須賀敦子の文章の中でも、いちばん好きな文章である。

 「ある年の12月、もう年の暮れも近いころにある会合があって、ヴェネツィアを訪れた。観光客のいない季節のヴェネツィアははじめてだった。参加者は朝8時半に会場に着くように指示されていた。8時すぎ、ホテルを出たところで、私は不思議な光景に出くわした。それはとりわけ底冷えのする朝で、凍りつくような空気の中に濃い霧がしっとりと立ち込め、つい目の前の家具店のショーウィンドウが、霧の中で見え隠れしていた。だが、私を驚かせたのは霧ではなかった。

 ホテルと隣の建物の間には、人と人がやっと擦れ違うことのできるくらいの狭い路地があって、それを通り抜けると、大運河の水上バスの船着場に出るはずだった。その路地に入ろうとしたとき、向こうから誰か人が出てきた。一人、また一人、それは、出勤途上の男女らしく、みな、せわしげにホテルの前の広場を過ぎていった。私を驚かせたのは、その一群の中の女たちが、一様に口を閉ざして、視線を石畳に落として、足早に歩いていたことだ。夏の日に耳をくすぐったあの甲高い笑いさざめきは、もう、どこにもなかった。そして、その服装。大半が、黒、あるいは濃い緑色の裾の長いマントを着て、膝までのブーツを履いていた。私は数年前のルチッラ(須賀の女友だち。ヴェネツィア出身)の服装を思い出した。あのとき、少々芝居がかっていると思った彼女の服装は、ヴェネツィアの女たちが、この冷たい冬の気候から身を守るために考え出した武装だったのだ。芝居の季節はとっくに過ぎていたが、彼女たちは、登場人物であることを忘れず、しゃんと背筋をのばして、ひとりひとりが、それぞれ振り当たられた舞台の場所をめざすかのように、黙々と足早に歩き去っていった。それは、なぜか心を打たれる光景だった。冬のヴェネツィアの女たちに魅せられて、私は立ちつくした」(ミラノ 霧の風景』から)。

        ★

<塩野七生 …  ヴェネツィア共和国の終焉>

 最後に、わが愛するヴェネツィア共和国の終焉についても書いておきたい。

 国民一人一人が国家というものを軽んじていると、国家といえども次第に衰えていき、ある日、突然、終焉がやって来る。その結果、自分が「世界市民」などという美しいものになれるわけではない、ということをぜひ知っておきたい。

 国力衰えた末期のヴェネツィア共和国は、かつての経済力のみか、貴族も市民も気概を失って、陸軍を維持することができず、非武装・非同盟政策を取っていた。それでも、海賊対策として、海軍は残していた。(海賊はこの時代にも活躍していた。英国海軍の源が海賊だったとはよく言われることである。)。

 フランスの若い将軍であったナポレオンが大軍を率いて、ヴェネツィアの本土側領土を横切って敗走するオーストリア軍を追ってやってきた。

 だが、「自国内でのオーストリア、フランス両軍の勝手な振舞いに対するに、ヴェネツィアは、言葉しか持っていなかった」。

 ヴェネツィアの元老院は、老練な貴族外交官を使者としてナポレオンのもとに送ったが、年下のナポレオンによって鼻で冷淡にあしらわれただけだった。

   「彼の説明する非武装中立は、法を尊重してくれる相手とでなくては成り立たない」のだった。

 それは、今も、南シナ海において、フィリピンやヴェトナムの海域を力で占拠していく中国の振舞いを見ればわかることだ。かねてからオーストラリアにも浸透して行っている。オバマは言葉で非難しただけだった。軍事費を膨張させる中国に対して、オバマの8年間はひたすら軍事予算を削る8年間だった。中国の防衛線は、台湾の東の太平洋上である。その意思は固い。

 ヴェネツィア議会は右往左往しながら、一度は再軍備を決議したのだ。

 「だが、遅すぎたのである。金も兵も集めることができても、それを駆使するに足る数の人間が不足していた。100年の平安は、ヴェネツィア共和国から、そのようなことのできる人間を、知らず知らずの間に、駆逐していたのである」。

 徴税をし、徴兵をして、さて、どこを防衛線として断固、戦い抜くのか?? もちろん、大軍を相手にこちらから挑む必要はない。ここは守り抜くぞという戦略と態度が大切なのだ。古来、潟がヴェネツィアの自然の城壁だった。茫々と広がる潟の中の本島に閉じこもれば、フランス海軍に対して、ヴェネツィアはまだ死闘を繰り広げることができる。その覚悟を示すことが必要だった。

 だが、この時代、ヴェネツィアは本土側にも領土を広げ、元老院議員(貴族)たちは本土に農園をもつ領主になっていた。

 どこを死守するのか、ヴェネツィアはその防衛線すら一致点を見いだせなかった。

 果敢に決断し、断固とした戦略を立て、全軍を団結させて戦い抜く、肝のすわった層としてのリーダーたちが、この時代のヴェネツィアにはいなかったのだ。

 ヴェネツィアが右往左往しているうちに、遂にナポレオンは宣戦布告を発してきた。

 慌てふためきただ追い詰められた共和国評議会は降伏する。降伏を決定するため、最後の議会がドゥカーレ宮殿で開かれた。

 塩野七生の『海の都の物語』は、そのときの一つのエピソードを紹介している。

 「聖マルコの船着場では、抗戦するなら給料なしでも参加すると申し出たにもかかわらず、故国へ帰るように言い渡されたスキアヴォーニたち(ヴェネツィア船に雇われていたアドリア海沿岸の船乗りたち)が、用意された船に乗り始めていた。

 会議場では、無抵抗で降伏するヴェネツィア共和国の、自国の市民に対する布告文の是非が評決中であった。その時、時ならぬ銃砲の音がひびいた。議員たちは肝をつぶし、われ先にと逃げようとした。フランス軍の来襲かと思ったのである。数名の議員の、『惨めな振舞いは、いい加減にされたがよかろう!!』の声に、やむをえず自席にもどったものの、鉄砲の音が、去り行く船上に整列したスキアヴォーニたちが、別名をスキアヴォーニの岸とも呼ばれる聖マルコの船着場にひるがえるヴェネツィア共和国の国旗に向かって、最後の礼砲を撃ったものであるとわかるまでは、安心しきれなかったのである。

 投票の結果は、賛成512、反対20、不明5である。

   ヴェネツィア共和国は、これで死んだ」。

 「1797年5月16日、4千のフランス兵、ヴェネツィアに進駐。一度たりとも武装した外国兵を入れたことのなかったヴェネツィア(本島)に上陸したフランス軍は、聖マルコ広場の中央に、『自由、平等、博愛』と記した札を立てることを命じた。フランス占領のはじまりである。

 同1797年10月18日、カンポ・フォルミオの条約によって、ヴェネツィア共和国領は、オーストリアとフランスの間で分割され、本土の大部分とギリシアの島々はフランスに、本土の一部とヴェネツィアの町、そして、イストリア、ダルマツィア地方は、オーストリア帝国領下に入る。

 翌19日、去るフランス軍に代わって、オーストリア軍進駐。

 1805年12月26日、皇帝ナポレオン、ヴぅネツィアを、自分の支配下のイタリア王国の一部に編入。

 1814年5月30日、ナポレオンの失脚により、ヴェネツィア、再びオーストリアの占領下に入る。

 1866年8月26日、オーストリア、ヴェネツィアをフランスに譲渡。

 同1866年10月4日、統一されたイタリアに編入」。(『海の都の物語』から)。

 「非武装・非同盟」などというと美しく聞こえるが、いざというとき、それがいかに醜く悲惨なものであるかを、塩野七生のヴェネツィア800年の物語は、最後に教えてくれる。

 

 ※ 以上で、ヴェネツィアの話は終わりとします。

 

 

 

 

 

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