ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

アラゴン王国と対峙した丘の上の城塞都市 … 観光バスでフランスをまわる6

2022年05月29日 | 西欧旅行…フランス紀行

(城塞の矢狭間から街の写真を撮る女性)

 20年ほども前、ヨーロッパ旅行をしていて気づいた。欧米人はカメラを持っていない。カメラを持ち歩き、行く先々で写真を撮っているのは日本人だけだ

 ところが2010年頃、様相が一変した。欧米人の旅行者の多くが、若い人からマダムたちまで、コンパクトカメラを持ち歩き写真を写すようになった。社会の変化というものは、突如、爆発的に起こるもののようだ。

 コンパクトカメラはすぐに廃れた。続いて、カメラ機能の付いた携帯電話、スマホやアイパッドに変わっていった。一眼レフを持ち歩く人もいる。

 私が一眼レフを持っているせいか、欧米人の若い旅行者から「写してください」とスマホやアイパッドを差し出されることがある。「向こうの景色をバックにして」。

 2人はまるでモデルのように上手にポーズをとる。日本人は自分を被写体にするのが苦手だ。

 ところが、私は「メカ」が苦手で、スマホやアイパットの撮影にも慣れていない。

 「そこに立つと逆光で、顔は暗くつぶれてしまいます」 ── でも、それを言葉でどう表現したらよいのか。ヨーロッパの透明感のある空気は物の陰影を際立たせる。私は渡されたスマホの露出調整の仕方がわからない。

 まあ、露出はあとで、本人がパソコンで調整することもできる。とにかくパチリと写して、お返しする。

   ★   ★   ★

<カルカソンヌの町の起源>

(以下の記述は、紅山雪夫氏の『フランスものしり紀行』及び『ヨーロッパものしり紀行─城と中世都市編』(新潮文庫)を参考にした)。

 今日のホテルは「城塞都市カルカソンヌ」の東側で、ナルボンヌ門まで歩いて5~6分という所にある。

 ホテルに荷物を置いて、早速、添乗員の引率のもと、見学に出た。

 現在のカルカソンヌ市は、町の西に鉄道駅があり、その近くには世界遺産のミディ運河の船着き場もある。もっとも、船着き場は今では観光船用だが。

  (ミディ運河)

 鉄道駅や運河の船着き場があったということは、この地が古くから今に到るまで、地中海と大西洋を結ぶ交通の要衝の地だったということだ。

 一方、町の東側にはオード川が流れ、川の向こうは丘陵になっている。

 その丘陵の上、オード川を見下ろす高台に、カルカソンヌの最初の町は築かれた。周りをぐるっと城壁に囲まれた城塞都市である。

 城壁の中の市街は、ラ・シテ(La Cite)と呼ばれた。パリの発祥の地であるシテ島のシテと同じで、英語ならCity。

 遥か昔、この丘の上には、ケルト人(ガリア人)の砦があったらしい。

 BC2世紀にローマ人が侵出してきて、堅固な城壁に囲まれた町を建設した。これが、カルカソンヌの起源である。今は世界遺産になっている。

 ローマは道なき道をやみくもに前進して、ただ野蛮に諸族を征服していったわけではない。ローマ軍は兵士であるとともに、土木・建築の専門家であり、技術者・職人集団だった。そして、戦略重視・兵站優先で、橋を架け、道を拡張・舗装しながら、軍を進めていった。

 平定した地域には、砦を築き、町を建設した。つまりは、文明化だ。

 (このあたりのことは、塩野七海『ローマ人の物語』に詳しい。)

 町(或いは砦)の建設にも、決められた定型があった。形は長方形で、必ず城壁で囲み、その周囲を堀で囲った。

 城門は東西南北に設け、4つの門は東西と南北を走る街道に通じる。その交差する所が町の中心広場で、地域の交易の場にもなった。町と町、砦と砦は街道網でつながれ、そして、全ての道はローマに通じる。

 ただし、町の形は長方形と言っても、土地の地形に合わせることは必要だ。

 カルカソンヌの丘の上の町も長方形ではない。長方形を基本にしたサツマイモのような、紅山雪夫氏の表現では、人間の耳のような形をしている。

 北、西、南側はオード川や谷になっているから、堀はない。広く、深い堀が掘られているのは、丘陵が延長している東側だけである。

      ★

<町の東側を守るナルボンヌ門>

 三方を谷に囲まれた丘陵の上の城塞都市カルカソンヌは、丘陵が東に延びているから、東側から攻められやすい。

  (ナルボンヌ門)

 そのため、東側の城門のナルボンヌ門の前には広く深い堀があった (今はかなり埋もれてしまった)。また、橋を渡った外城門の奥には、まるで一個の独立した城塞のような内城門があった (ピンクの屋根の塔あたり)。

 大阪の上町台地の北端に築かれた豊臣秀吉の大坂城は、北、東、西は海や川で囲まれているが、南は上町台地の続きで、こちらからは攻められやすい。それで、大坂冬の陣のとき、真田幸村は南側の城門の外に真田丸を築いて防衛に当たった。発想は同じ

 この城門を出ると、地中海岸の古都ナルボンヌへ向かうローマの街道があった。それで、ナルボンヌ門と名付けられている。

   堀の前、右わきの柱の像は、マリア像だ。どこか素朴でユーモラスなマリア像の下を通って、堀に架けられた橋を渡った。

 ただし、13世紀になると、ローマ時代の4つの城門のうちの北門と南門はふさがれた。町の北と南は谷だから交通量が少ない。それに、城塞の防衛力を強化するには、城門は少ない方が良い。ヨーロッパ中世には、ローマ帝国時代のような平和な世界は現れなかった。

       ★

<圧倒的な二重の城壁>

 (内城壁と外城壁の間のリスを歩く)

 圧倒的な景観である。見学する人間は、豆粒のように小さい。

 ラ・シテは二重の城壁に囲まれていた。ここは、二重の城壁の間の通路である。

 内城壁には29の塔、外城壁には17の塔が、城壁の防御力を強化した。

 塔にはピンクの尖がり屋根と青の尖がり屋根があって、その形と色がわずかにあたりの殺風景な景色に彩りを添えている。

 聳え建つ内城壁の高さには圧倒されるが、なんとローマ時代のものだ。(13世紀に補修されたとはいえ)。

 一方、13世紀には外城壁も築かれ、二重の城壁に囲まれた城塞になった。内城壁に比べて低く見えるが、外城壁の下は谷になっているから、城の外から眺めると、やはり高い。

 外城壁も、内城壁も、丘陵の斜面に造られたが、2つの城壁の間の斜面は平坦に整備して、通路(リス)を通している。リスによって守備兵は、敵が攻撃を集中した地点へ敏速に移動できた。

 リスを歩いて1周すれば、約1.2キロ。

 ドイツのロマンティック街道のローテンブルグも城壁の中の町だったが、まるで童話の世界のようだった。

 カルカソンヌはまさに要塞都市。辺境の地の荒涼とした風が吹き抜けるような感じがして、印象深かった。

       ★

<ラ・シテと大聖堂>

 ラ・シテは全域が「歴史的街並み保存地域」になっている。

     (ラ・シテの広場)

 中世のままの通りは狭く、石畳が敷かれている。そこに古びた家々が並び、表通りにはレストラン、カフェ、土産物店などが開いていた。

 帝国自由都市として、商工業者の町として発展していったローテンブルグのようなメルヘンチックな町ではない。町の規模も小さい。

 サン・ナゼール大聖堂があり、中へ入ってみた。

 身廊と側廊は11世紀のロマネスク様式で、袖廊と内陣は13~14世紀のゴシック様式とか。ステンドグラスが美しい。

(サン・ナゼール大聖堂の内陣とステンドグラス)

       ★

<カルカソンヌ伯の城>

   ラ・シテの中には、大聖堂のほかに城もある。城壁の中心は、当然、城である。この地の領主であったカルカソンヌ伯の城だったから「伯城」と呼ばれた。

 13世紀に、カルカソンヌの町も城もフランス王のものになったが、「伯城」という呼び方は変わらなかったそうだ。

 19世紀のドイツのノイシュヴァンシュタイン城のようなメルヘンチックな城ではない。実戦的で質朴な中世の城塞だ。

 面白いと思ったのは、城門の前に半円形の外郭(馬出し)があったこと。

   日本の戦国時代、城郭に馬出しをつくったのは真田家だ。城門を隠し、敵が城門を破ろうとしたときに邪魔になる。また、城内から騎馬隊が反撃に打って出る時にも、目隠しになる。

 伯城から内城壁の上を歩くことができた。オード川の向こうに広がる街並みが眺望できた。

 (カルカソンヌの街並)

 この丘の上の城塞都市ラ・シテにも人家が増えて、13世紀には川向こうの平地に第2の市街が造られ、商業や手工業の中心はそちらへ移った。現在、市役所も、鉄道駅も、運河の船着場も、そちらにある。

 13世紀には、新たに外城壁が築かれ、北と南の城門はふさがれ、防備が強化された。

 13世紀に何があったのか

 11世紀ごろから、南仏に、教皇や司教の贅沢で権威主義的なあり方に反発するカタリ派と呼ばれる教えが民衆の中に広まった。教皇はカタリ派の広がりを恐れて異端とし、12世紀の初め、フランス王の支援の下に十字軍を起こした。イスラム教に対してエルサレム奪還のために起こされた十字軍ではなく、南仏のキリスト教徒に向けられた十字軍である。歴史上、アルビジョア十字軍と呼ばれる。

 この地域の領主たちは、トゥールーズをはじめ、カルカソンヌの領主たちも、教皇の十字軍に反対してカタリ派の側で戦った。戦いは1209年に始まり1229年に終わる。この過程で、南仏諸侯は降伏し、或いは滅ぼされ、カルカソンヌもフランス王の支配地になった。そのあとも、カタリ派の民衆への弾圧は続き、14世紀にかけて、100万人の信者が殺されたという。

 外城壁の建設が始まったのは、アルビジョア十字軍の終わった後の1247年。完成したのは1285年である。

 南仏を制圧したフランス王は、アラゴン王国に備えたのだ。

 アラゴン王国は、のちにカスティーリア王国と合体してスペイン王国を形成するが、13世紀にその領土はピレネー山脈を越えて、現在のフランス領に入り込んでいた。

       ★

 城門はナルボンヌ門しかないと、添乗員は言う。

 そんなことはないと、自由時間に歩いて、ナルボンヌ門の反対側にオード門を見つけた。

  (オード門)

 城門を少し出た所から見ると、斜面の上に外城壁が築かれていることがわかる。外城壁の後ろに内城壁がある。その間が通路(リス)になっていて、リスを歩いていると分岐があり、オード門の方へ進むことができた。

 オード門はオード川へ下る坂道に通じている城門で、橋を渡れば13世紀の市街地になる。

 写真の左手の城のような建物が「伯城」。

       ★

<ライトアップされたカルカソンヌ>

 夜、ホテルを出て、ライトアップされたナルボンヌ門を撮影している人を撮影した。景色の中に人が点景として存在すると、写真が生きる。

 こうして見ると、ナルボンヌ門は、一個の城のように大きくて堅固だ。

  (ナルボンヌ門)

 さらにラ・シテの中を歩いて、オード門の外に出て、伯城を撮影した。

   (オード門)

 いい写真が撮れて、満足した。

 旅行社のツアーに入ると、ふつう、ホテルは旧市街から遠く離れた何もない場所になる。夜、外に出ても、コンビニやガソリンスタンドがあるだけだ。

 しかし、ヨーロッパの旧市街や景勝地は、夜景も素晴らしい。夜景も旅の一部である。

 今日は、世界遺産から歩いて数分のホテルで、ラッキーだった。

 

 

 

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「風立ちぬ、いざ、生きめやも」 … 観光バスでフランスをまわる5

2022年05月22日 | 西欧旅行…フランス紀行

     (モンペリエのトラム)

     ★   ★   ★

<モンペリエの街のトラム>

 ガールの水道橋を見学した後、バスはプロヴァンス地方に別れを告げ、モンペリエという町まで走って、昼食をとった。

 広場の片側の、木陰にテラス席がある、南欧らしい風情のレストランだった。

 この町は大学町で、モンペリエ大学があり、卒業生にフランスを代表する詩人、ポール・ヴァレリーがいる。2つの大戦の時代を生きた文学者だ。生涯、「狭き門」の作者アンドレ・ジイドと親友だった。

 古風な街並みの中を、面白いデザインのトラムが走っていた。

 ヨーロッパのトラムは車体がスマートで、ステップが地面に近く、乗り心地もなめらかである。

      ★

<世界一高い吊り橋>

 昼食後、カルカッソンヌへ向かう途中、バスは中央山塊の方へ迂回し、ミヨー大橋を渡った。

 「世界一高い吊り橋」ということで、CMにも取り上げられているそうだ。

  (車窓から/ミヨー大橋)

 さすがフランス。デザインが美しく、オシャレだ。車窓から仰ぐと、高さに圧倒される。

 だが、設計者はイギリス人だ。

 橋を渡り終えた所に日本でいう道の駅があり、深い峡谷に架かる橋の全景を眺めることができた。

 だが、バスの車窓から見た高度感や視覚的な美しさに及ばない。

 朝霧(雲海)の中の大橋は幻想的だという。なるほど、さもありなん。CMに使われているのはその映像らしい。

 しかし、フランスの皆さん。十津川村の谷瀬の吊り橋も、渡るときのスリル感、横からの眺望、いずれもなかなかですぞ!! ただし、徒歩でしか渡れませんが。

 ミヨー大橋は、自然を超越した、神のごとき人間の手による巨大な人工美。

 八瀬の吊り橋は、神々の宿る大自然にとけこみ、その一部と化した橋である。

       ★

<ラングドック地方へ>

 フランスの地中海側を、東から西へと3等分すると、第1日目は、一番東側のイタリアとの国境に近い紺碧のコート・ダジュールを観光した。

 第2日目と3日目の午前は、ローヌ川の水運によって古代ローマ時代から開けたプロヴァンスの町や遺跡を訪ねた。

 そして、第3日目の午後は、3等分した一番西側、スペイン国境に近いラングドックと呼ばれる地方へ。

 地図でフランスの全土を俯瞰的に見ると、南西部がくびれて地中海と大西洋が接近している。くびれた部分の南西部にピレネー山脈が横たわり、その向こう側はイベリア半島で、再び大きな広がりとなる。

 くびれ部分のピレネー山脈よりこちら側は平地で、大西洋と地中海という2つの海の間を隔てる山脈がない。そのため、古代ローマ街道の時代から、現代の高速道路や新幹線に到るまで、交通の要衝となってきた。

 そのくびれの地中海側と少し内陸部に入った地域がラングドックである。

 フランスを良く知る人は、パリはフランスではないと言う。

 本当のフランスを知りたければ、プロヴァンスや、ラングドックや、オーヴェルニュや、ブルゴーニュ地方を歩けと。

 ラングドックは、岩肌の山と、緑の起伏が波打つ豊饒な地である。

 すでに先史時代、洞窟から鹿の絵が発見されている。ピレネー一帯には巨石文化やケルトの遺物が残される。

 プロヴァンスとともに、フランスで最も早くローマ化された地域であり、また、キリスト教が最も早く伝わってきた地域でもある。

 中世には地中海の光に満ちたおおらかで情熱的な文化があり、ロマネスクの土着的なにおいのする教会が建てられた。しかし一方では、禁欲主義のカタリ派の教えが広がって、教皇は異端として十字軍を差し向け、多くの人々が弾圧され殺された。

      ★

<3千㌔の航路を短縮したミディ運河>

 カルカッソンヌの町の中のホテルに荷物を置き、カルカッソンヌの城壁の中を見学した後(次回のブログ)、鉄道駅近くのレストランで晩飯を食べた。

 レストランの近くにミディ運河があった。世界遺産である。

 (ミディ運河)

 この運河は、地中海から、カルカッソンヌを経てトゥールーズに到る240キロの大運河である。トゥールーズの先は、ピレネー山脈に端を発すガロンヌ川が、トゥールーズ、ボルドーを経て、大西洋に流れ出る。

 この運河がない時代、大西洋側のボルドーを出港した船は、遥々とイベリア半島を回って、ジブラルタル海峡で高い通行税を払い、やっと地中海へ入ってきた。17世紀、ルイ14世の時代に建設されたこの運河のお陰で、ボルドーのワインを運ぶのに3000キロの航路が短縮されたという。

 鉄道ができて輸送ルートとしての役目を終え、今は運河クルーズで、人気の観光資源になっているそうだ。

 途中、閘門(オウモン)(ロック)で水位を上げ下げし、船を上下させる個所もある。両側には、建設時に4万5千本の樹木が植えられ、林や森となって、水沿いのウォーキングも楽しめるそうだ。森の中を行く船の写真を見ると、絵のように美しい。

  (ミディ運河)

       ★

<ポール・ヴァレリーの詩>

 ミディ運河の地中海側の出口は、セートという漁村だ。詩人ポール・ヴァレリーの故郷である。

饗庭孝男『フランス四季暦』から

 「モンペリエから海沿いに南下すると、セートという漁港がある。海にそそぐ(ミディ)運河の両側から山手にかけて家がならんでいるが、それ自体、何の変哲もない町だ。もっとも、海にのぞんだレストランでとった魚料理は抜群においしかった。

 しかし、この小さな町も、詩人ポール・ヴァレリーの名前によって日本や外国にまで知られている。海を見下ろすサン・クレールの丘に、彼の詩『海辺の墓地』で有名になった墓地がある。樹々と墓石のあいだから見える海が詩人に喚起したものは、思考が渦巻き、沈潜してゆく『死』への想念と、その内的な劇の果てに、風が立って生きようとつとめる『生』への強い意志であったことはいうまでもない。

  風が立つ、生きようとつとめなければならない

   (La vent se leve, il faut tenter de vivre)

という一句には、キリスト教的な『永遠』の生の幻をすて、『自然』の『永遠』のリズムにみずからを同化させようとした詩人の決意がみなぎっている」。

 堀辰雄の小説『風たちぬ』の冒頭部に、上記の詩が引用されている。

 「そのとき不意に、どこからともなく風が立った。私たちの頭の上では、木の葉の間からちらっと覗いている藍色が伸びたり縮んだりした。それとほとんど同時に、草むらの中に何かがばったりと倒れる物音を私たちは耳にした。それは私たちがそこに置きっぱなししてあった絵が、画架と共に、倒れた音らしかった。……

      風立ちぬ、いざ、生きめやも。」 

(宮崎駿『風たちぬ』のポスター)

 

 

 

 

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須賀敦子のポン・デュ・ガール (プロヴァンス2)… 観光バスでフランスをまわる4

2022年05月14日 | 西欧旅行…フランス紀行

  (アヴィニョンの教皇宮殿)

      ★

<教皇庁が置かれたアヴィニョン>

 「フランスの美しい村」のゴルドから約40キロ。

 アルル同様、アヴィニョンもローヌ川の水運で発展した町だ。ただ、ローマ時代の遺跡はあまり残っていない。

 ここは、昔、世界史で勉強した「アヴィニョンの幽囚」で有名な中世の町である。

 「幽囚」とはいえ、教皇さまは、中世において「神の代理人」。

 ヨーロッパ世界に広がるカソリック教界の全組織を統治し、上は王侯貴族から下は商工業者やその使用人まで、この世の全ての神の子羊たちから徴収した巨万の財を運用する。当然、日々、典礼祭祀を執り行い、また、時に世俗の王侯貴族と激しい権力闘争も戦う。

 そのためには、上から下、さらにその下まで、それぞれの分野に精通し経験を積んだ膨大な数の人材を必要とした。

 教皇がローマからアヴィニョンへ引っ越せば、当然、上は枢機卿以下の官僚組織、下は日々のお召し物を用意したり、料理を作ったりするシモジモまで、オール「教皇庁」で引っ越さねばならない。その数は7千人とも言われ、ローヌ川の水運で開けた町を再開発しても、道路の幅は狭くて入りくみ、上下水道も不十分で、邸や家屋は言うまでもなく、何もかもが収まりきらなかった。それでも、再開発によって古代ローマの跡はなくなり、中世の町になっていった。

 とはいえ、 …… 遥々と日本からやって来て、ローヌ川を隔てて望む教皇宮殿の姿は、「幽囚」などという言葉にそぐわない雄姿に見えた。

 日本で幽囚などと聞くと、城下の端の林の中の隠居小屋暮らしのイメージだ。

   (法王庁宮殿)

 手前の低い連なりは旧市街を囲む城壁で ── 「低い」と言っても、観光バスの大きさと比べると聳え建つ城壁だが ── その上に連なる巨大堅固な城塞風建造物が教皇宮殿である。

 教皇「座」がアヴィニョンにあったのは1309年~1377年の期間。この間の7人の教皇はすべてフランス人。この時代、フランス王の力が強かった。「幽閉」されていたわけではない。ただ、実質、フランス王の目の届く所に置かれた。それは、神の代理人を自称するカソリック教会の側からみたら、屈辱の期間だった。教皇座は、使徒ペテロが殉教したローマに置かれなければならない。

  (宮殿内の見学へ)

 アヴィニョンのガイドの案内で、宮殿の内部も見学した。

 欧米人の観光客が多く、写真を撮ろうとしても人の姿に邪魔されてうまく撮れなかった。だが、とにかく内部も外観の印象と同じで、分厚い石の壁に囲まれた大広間や教皇の礼拝堂などの空間は、広く、高く、厳(イカ)つく、威圧的だった。

 それにしても、この冷え冷えとした印象は何だろうと思っていたら、ガイドの説明があった。かつて壁面を飾っていたフレスコ画、タペスリー、絵画などの豪華な内装、宗教的彫刻・彫像の数々、椅子やテーブルやその他教皇の調度品などは、フランス革命のときに革命派の民衆によって破壊・略奪されてしまったという。だから、寒々として、殺風景な、がらんどうの空間なのだ。世界史で勉強したフランス革命の美しいイメージとは違い、「民衆」とか、自由、平等、博愛などという理念の衝動にかられた「革命」という行動は、時に恐ろしいものなのだと思った。

 その後、一部は牢獄や兵舎として使われたというが、今は無宗教の国営ミュージアムとして、世界文化遺産に登録されている。

 教皇宮殿を出てローヌ川の岸辺に立つと、サン・ベネゼ橋が見えた。「アヴィニョンの橋」で知られている。

 「アヴィニョンの橋の上で、踊ろよ、踊ろよ

  アヴィニョンの橋の上で、踊ろよみんな輪になって

 (アヴィニョンの橋)

 この橋は、1190年にローヌ川の川中島をまたいで架けられた。

 当時としては大変な大工事だった。完成したとき、21の橋脚と22のアーチがあり、全長は900mだった。しかし、1669年の大洪水で流されて、4つのアーチのみが残った。

 橋のたもとには、サン・二コラ礼拝堂が建っている。

 二コラは一介の羊飼いだったが、ある日、天使のお告げを受けて、ここに橋を架けるように大司教さま以下、町の有力者たちを説得した。のちに、天使のお告げを受けた人ということで、聖人に叙せられ、サン・二コラと呼ばれた。

  (サン・ベネゼ橋の先端)

 「橋の上からは、ローヌ川、ドンの岩山、法王宮、そしてアヴィニョンの町の眺めがよい」と紅山雪夫の『フランスものしり紀行』にある。

 橋の上に観光客の姿が小さく見えた。こうして見れば、大きな橋なのだ。

 日が傾いて、やや赤みを帯びた空気に透明感があり、ローヌ川の向こうに望む教皇宮殿は印象的だった。

 ヨーロッパに来ていつも感じるのだが、光と陰の差が強い。空気が澄んでいる。日本のように空気が水分を含んでいないのだ。黄昏から夜にかけて、深い紺青になっていく空の色は本当に美しい。

 その代わり、おぼろ月や、陽炎や、秋の霧の風情はない。

    ★   ★   ★

<ガール川に架かるローマの水道橋> 

 2010年10月8日  晴れ 午後 曇り

 今日は8時半出発だから、ゆっくりだ。にもかかわらず、6時に部屋の電話が鳴って、何事かと驚いた。添乗員が間違ってモーニング・コールをかけたそうだ。

 今日は、アヴィニョンのホテルを出発して、世界遺産のボン・デュ・ガールへ。プロヴァンス地方の最後の見学地だ。

 午後は、南仏をさらに西へと走り、スペインとの国境のピレネー山脈も近いカルカッソンヌへ。城壁に囲まれた中世の町を見学する。

 (ブログのこの回はポン・デュ・ガールまでとし、カルカッソンヌは次回のブログに回します)。

        ★

 ポン・デュ・ガール。

 「ガール」はガール川。ローヌ川に流れ込む支流。

 「ポン」は橋。ただし、この橋は、人や馬車も通れるが、架橋の主目的は水道橋。

 ニームという町は、フランスのローマ時代に建設された町の中でも最古とされる。にもかかわらず、保存状態の良い古代闘技場をはじめ、多くのローマ遺跡が残るそうだ。ただし、今回、ニームは見学しない。

 そのニームの町に水を供給するため、ローマ人は長さ50㎞の導水路を建設した。

 途中、ガール川の深い渓谷を越えるために、水道橋が架けられた。紀元前19年のことである。

 12世紀に架けられたアヴィニョンのサン・ベネゼ橋は17世紀に崩れたが、1100年も前に架けられたポン・デュ・ガールは今もそのまま遺っている。

    (ガール川に架かるローマの水道橋)

 以下、引用文は、須賀敦子『時のかけらたち』(青土社) 所収の「ガールの水道橋」から。

 「この橋が、ふくよかな女神をたたえるためでも、まして同時代人たちが愛したウェルギリウスやホラティウスの詩に対抗するためにでもなく、水を通す、という単純で日常的な用途のために築かれた事実が、私の心を捉えた。

 当時、5万の人口に賑わっていたとはいえ、広大なローマ帝国にとってのニームは、やはりひとつの『地方』都市にすぎなかったはずだ。

 その都市に水を引いて、市民ひとりにつき1日400リットルからの水を供給するという構想、いや、ローマ帝国の都市には水が流れ溢れていなければならないという『思想』のために、この橋は構築されたのだ。

 コロッセオやパンテオンのような記念碑的な建造物の才能には感嘆しても、それまで道路や橋などについては、単なる土木工事と、なにやらみくびっていた私は、どうやら回心を迫られているようであった」。

 上の写真に見るように、ポン・デュ・ガールはアーチの列を3層に積み重ねた形になっている。

 一番上が導水路。水面からの高さは49m、川底の基礎からの高さは52mで、現代の13階建てのビルより高いという。長さは275m。

 下段は人や馬が通る橋を兼ねている。長さは142m。

 私たちも歩いてみた。

 (下段の橋を歩く)

 中段、下段に使われている石材の中でも最も大きな石は、1個の重さが約6㌧もあるそうだ。 

 (川に映る橋脚)

 「水道を敷設するのがむしょうに好きな皇帝といえば、ふつう初代のアウグストゥスを指すが、構築の企画、施工に直接かかわったのは、『クラトール・アクアールム』、水道管理局といった役所を開発した、アウグストゥス皇帝の女婿、アグリッパのはずだった。

 ローマのパンテオンを最初に建立したのと同じ人物である」。

 導水路の全長50㌔には、途中、岩山をくり抜いたトンネルもある。

 導水路には、全て石造りの蓋がしてあり、清掃を行うための縦穴まで掘ってあった。ローマ人はいつもメンテナンスのことを考えて建設する。

 山の泉とニームの町との間は50㌔だが、高低差は17mしかない。平均すれば1㌔当たり34㎝である。どのような方法で勾配を計測しながら大工事を進めていったのか。とにかく水は滔々と流れてニームの町まで運ばれた。ローマ人の技術力はすごい。

 「雨の多い季節に(川の)流れが深く激しくなる部分はアーチを広く取り、浅瀬には小さいアーチに造られているという。この変化は、工事を軽減する目的でえらばれたのかもしれないが、ローマの構築者たちは、全体の印象をかろやかに仕上げるという美学的な要素をすでに意識していたにちがいない。

 私の疑問への答えが否定的な場合、すなわち、橋を構築したひとたちが美学を意識していなかったとすると、若いころどこかで読んだ、もうひとつの厳粛で基本的な概念が浮上する。すなわち、ぎりぎりまで計算しつくされた構造は、心を打つような造形と必然的に合致するはずだという考えだ」。

    (水道橋)

      ★

<須賀敦子の世界> 

 「昼間だと、あの上を渡れます。ジャックがいった。いいのよ、わたらなくても、このままで。これまで見た、いちばん美しいものみたいな気がするわ。ジャックが頬をあからめたのが、月の光でわかった。もういちど、彼がいった。あなたをここに連れてきて、よかった」。

 引用してきた須賀敦子の短編「ガールの水道橋」は、旅行案内でも、紀行文でもない。彼女の作品には、文学の話や紀行などもあるが、なつかしい思い出の人々のことを書いたものも多い。彼女の作品のファンは、そういうものを読んで感動した人たちだ。…… 若くして病死したイタリア人の夫の思い出。夫の従弟や叔父さんのこと。二人に共通の友人、知人のこと。自分の父のこと ……。いずれも、須賀敦子にとってなつかしく、いとしい人たちだ。

  (水道橋の橋脚)

 この「ガールの水道橋」は、ジャックというフランス人の青年の思い出を書いている。

 彼は、南仏の小さな町の職人の息子として生まれた。義務教育を終えると、当時はフランスでもドイツでもそうだったが、父は息子が自分と同じように職人としての技術を身に付けるため徒弟生活に入るものと思っていた。だが、ジャックは父の意に反して、文学を学ぶためにエクス・アン・プロヴァンスの普通科リセに進学し、さらに大学に進む。もちろん、自分で生活費を稼がなければならなかったから、卒業するのに人より多くの年月を要した。

 卒業してパリに出るが、彼の夢にかなうような就職先は見つからなかった。

 「私」が彼と出会ったのは、東京の外国語学校(専門学校)の講師として働いていたときだった。授業を終えたある晩、同僚教員のジャックから晩飯に誘われた。

 それから月に1、2度、夜の授業を終えたあと、近くの食堂で晩飯を共にするようになった。彼は、10歳も年上の「私」に、とりとめもなく話をした。生い立ちのこと、故郷の両親のこと、今、同棲している美人の日本人女性のこと、文学のこと、旅行のこと、夢のこと。 …… 彼は文学青年で、「私」から見れば地に足がついていないように見えた。やがて、美人の彼女とも、愛し合っているのに口喧嘩ばかりするようになり、そういう愚痴もとりとめもなく聴かされた。「私」は二人のことに介入したくなかったから、ただ聴き役だった。

 そして、ある年度末、彼は突然決断してフランスへ帰った。もちろん、彼女との関係も清算して。

 ところが、故郷の南仏には帰らず、パリで生活した。「私」が仕事でフランスに行くことになったとき、会いたいというのでパリの地下鉄の駅で落ち合った。そして、彼の「下宿」に案内され、東京で別れて以来の話を聴かされた。倉庫の一室のような部屋での孤独な暮らしは貧しく、幸せとは縁遠いように思えた。

 時がたち、また「私」が仕事で南仏に行くと聞いて、ホテルに訪ねて行くという連絡があった。そのとき、彼は、故郷に近い南仏の町で教職に就いていた。

 再会したとき、彼はうれしそうに「今度、結婚することになりました」と言った。「私」は彼が長い旅の末に、やっと居場所にたどり着いたのだと感じた。

 彼は、その夜、あなたに見せたいものがある、と言った。

 そして、彼に連れられてきたのが、ここである。

 月光に照らされた「ガールの水道橋」。「私」は息をのむほど感動した。

 「昼間だと、あの上を渡れます。ジャックがいった」。

 今までさんざん愚痴を聴いてくれた「私」に対する、ジャックの心のこもった感謝の贈り物なのだと思ったから、「私」も答えた。「これまで見た、いちばん美しいものみたいな気がするわ」。

 「ジャックが頬をあからめたのが、月の光でわかった。もういちど、彼がいった。あなたをここに連れてきて、よかった」。

 …… 須賀敦子が描く人は、名もない、そして、なつかしい思い出の人である。

 この小品は、ジャックの「あなたをここに連れてきて、よかった」という言葉の紹介の後、その数行あと、突然、次のような叙述で終わる。

 「ジャックの妻からの電話で、彼が重い病気で急逝したという報せがとどいたのは、それから2年後の、つめたい冬の夜だった。ふたりのあいだには、男の子が生まれたばかりだった」。

 人はまよいながらも、けなげに生きる。そして、多くの場合、何も話さず、まわりの一人一人にわずかな思い出だけを残して死んでいく。

 ジャックの両親や、妻や、その他の誰かよりも、自分がジャックのことを深く知っているわけではない。しかし、自分だけが知っているジャックもある。

 ジャックのことを書いたのは、「私」の弔辞かもしれない、と思った。ジャックの美しい贈り物のことは、自分が語らなければ、誰も知らないのだから。

 やはり、教会の鐘の音ような弔辞だと思った。

      ★

 この作品紹介には、私の勝手な「読み」が入っていると思います。興味のある方は、作品そのものをお読みください。

 さて、フランスのバスの旅から、すっかり離れてしまった。もう脱線はやめて、このあと南仏を西へ西へと走り、カルカッソンヌに到る。

 

 

 

 

 

     

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プロヴァンス(1) <アルルとゴルド> … 観光バスでフランスをまわる3

2022年05月08日 | 西欧旅行…フランス紀行

    (天空の村・ゴルド)

<プロヴァンスとは>

 フランスの地図を広げて見る。広大な平野が広がるが、南部に山塊がある。

 山塊の東部はスイスから延びてきたアルプス山脈で、アルプス山脈が切れると、その西には中央山塊がでんと控えている。

 パリから飛行機に乗ってフランスの平野の上を遥々と飛び、やがてアルプス山脈にさしかかって、白い峰々の聳える山脈の上空を越える。越えるとすぐに地中海の青い海。そこが、イタリアとの国境に近いコート・ダジュールである。

 フランス南部の山塊の、東がアルプス山脈で西が中央山塊。その間は峡谷となり、 ── 調度、南仏の東西の真ん中あたりになるが ──  その峡谷をローヌ川が流れて、地中海に注いでいる。

 この河川は、スイスのローヌ氷河に発し、レマン湖を東から西へ抜けて、さらに西へ流れ、フランス第3の都市・リヨン付近でソーヌ川を合わせる。そこから流れを南に向けて、最後はアルル付近で三角州をつくりながら、地中海に流れ込んでいる。

 プロヴァンスとは、行政的にはフランスの地中海沿岸部の東半分、即ち、ローヌ川を境とする東の地域を指す。従って、コート・ダジュールもその範囲に入る。

 しかし、プロヴァンスという言葉には、遥かに遠い昔から開けた地というイメージがある。歴史的には北のパリなどよりずっと早くから文明の光があった地だ。南仏でも、ローヌ川の河口付近。フランスの地中海沿岸部を3等分したら、その中央部あたりを指す。

 プロヴァンスについて、饗庭孝男『フランス四季暦』(東京書籍)の中で、このように書いている。

 「1年をとおして250日余が晴天のこの地中海沿岸は、 …… 時に氷雨が降る暗い北のパリとくらべて、すでに3月の中ごろから、杏や桜の花が、防風用の糸杉やオリーブの樹にかこまれた赤褐色の農家のまわりで咲き、春の趣を見せてくれる。…… 」。

 「この地方は、地中海に沿って、東から古代文化がいち早く伝えられたところである。またフランスのキリスト教化の出発点でもあった。

   アルル、ニーム、アヴィニヨン、それにサン・レミ等、どこを歩いても古代遺跡を目にすることができる。

 紀元前600年ごろに、すでにギリシャ人はマッサリア (フランス第2の都市・マルセイユ) に都市をつくっている。やがてそれをカルタゴ人が攻めて60余年を統治し、紀元前218年には (カルタゴの) ハンニバルが (ローマを攻略しようと) プロヴァンスをとおってアルプスに達した。

 のちにケルトの支配する内陸部をローマ軍が攻めて追い払い、1世紀の終わりには、ローマのアウグスト皇帝がこの地方を統一し、ローマ文化が具体的な建物となって、この光にみちた野にあらわれてくる。

 本来、プロヴァンスという名前は、プロヴィンキア・ローマ (ローマの属州) に由来する」。

    ★   ★   ★

<セザンヌの山>

2010年10月7日㈭ 晴

 朝食を食べ、荷造りもして、バスに乗り込み、7時45分に出発した。あわただしい

 今日は、ニースのホテルを出発して、アルルゴルドアヴィ二ョンを見学し、宿泊地はアヴィニョン。(今回のブログ ― 第3回はゴルドまで)。

 ニースからアルルまでは250キロ、3時間半のバス旅だ。

   バスの中で眠る人が多いが、私は車窓風景を眺めて飽きない。その土地の風土を感じることが好きだ。バスの車窓の高さがちょうど良い。乗用車では、たとえベンツであろうと、こうはいかない。

 バスはプロヴァンス地方に入り、エクス・アン・プロヴァンスという町の近くを走る。

 ローカルな都市だが、プロヴァンス地方の政治や学問の中心都市だ。大学町でもある。

 私の好きな画家の一人・セザンヌ(1839~1906)は、この緑豊かな町に生まれ育ち、若い頃の一時期パリに出たが、都会の水になじめず、すぐに故郷に帰って、この町の身近な自然や静物を描き続けた。よく、キャンバスと椅子を背負ってサント・ヴィクトワール山が見える野に行き、三角錐の岩塊を繰り返し描き続けた。

 車窓から、サント・ヴィクトワール山に連なる岩塊が見えた。白い石灰質の岩山で、日本の山とは趣が違う。

 (車窓から/セザンヌの山塊)

 この町で、セザンヌは、子ども時代にエミール・ゾラと仲良しだった。成人して、二人は喧嘩別れしたと思われていたが、手紙が発見されている。偉大な画家と文豪は、晩年まで、お互いに敬愛の情をもち続けていた。

      ★ 

<古代ローマが残るアルルの町>

 アルルは、地中海からローヌ川を20キロほど遡った河港として発展した町だ。

 ガリア(フランス)の内陸部に通じるローヌ川の水運と、地中海の水運が、アルルによって結ばれていた。

 さらに、ローマから南フランスを経てイベリア半島に達する、アウレリア街道の要衝でもあった。全ての道はローマに通じる。

 AD1世紀には、初代皇帝アウグストゥスが、交易港の町だったアルルを、ローマの都市らしく整備した。

 この町の円形闘技場は、ローマのコロッセオより100年ほども古く、保存状態の良さでは3指に入るという。

 周囲の外壁は2層(もとは3層だった)の60のアーチからなり、収容人員は2万6千人。 

  (円形闘技場の外壁)

 今も、夏の夜、オペラやコンサートなどのイベント会場として使われている。残念ながら、このツアーは入場観光しない。

 この旅の前、イタリア紀行で、ローマのコロッセウムの迫力ある外観を眺め、中に入ってその構造や柱やアーチなどの圧倒的な存在感を目にしていたから、良しとしよう。

 すぐそばにアウグストゥス時代の古代劇場もあったが、ここも素通りした。

 レピュブリック広場はこの街の中心。真ん中に記念塔が建ち、市庁舎やサン・トロフィーム大聖堂がある。

 (レピュブリック広場)

 サン・トロフィーム大聖堂は、南仏を代表するロマネスク大聖堂の一つだが、やはり素通りだった。

※ その後、2015年の「陽春のブルゴーニュ・ロマネスクの旅」で、ブルゴーニュ地方のロマネスク大聖堂をめぐった。

 アルルはまた、画家ゴッホ(1853~1890)が才能を花開かせた地でもある。

 「北方に生まれたゴッホが、このプロヴァンス地方の光に惹かれたのも無理はない。1年余の短いアルル滞在にもかかわらず、彼が多くの作品を描いたのも、この光にみちた風物のせいだろう」(饗庭孝男『フランス四季暦』) 

 ゴッホが右耳を切って入院した市立病院の跡地は、今、「エスバス・ヴァン・ゴッホ」という施設になっている。ゴッホ時代の病院の復元された庭だけ見た。

 さらに、ゴッホの絵に描かれた「跳ね橋」のレプリカを見学した。

 跳ね橋よりも、その先にあった古代ローマの運河の方に興趣があった。

   (ローマ時代の運河)

 アルルから地中海へと流れるローヌ川の下流は、流れが激しく船の航行に難儀した。そこで、BC1世紀の初め、共和制時代のローマの実力者マリウスが運河を掘った。2千年も前の運河である。19世紀のゴッホの時代、運河はまだ使われおり、ゴッホの描いた跳ね橋はこの運河に架かっていたものだ。

      ★

<「フランスで最も美しい村」のゴルド>

 アヴィニョンへ行く途中、「フランスで最も美しい村」に選ばれたゴルドに寄った。

 「美しい村」は、最近、日本のツアー会社も注目し、フランス・ツアーに組み込まれるようになった。

 その立候補条件は、人口2千人以下、2つ以上の遺跡・遺産があり、開発を制限して景観を保護し、村の議会が登録を承認していること。いかにもヨーロッパらしい取り組みだ。観光ばかりでなく、そういう村で暮らしたいと、大都会から転居してくる人たちもいる。

 ゴルドは「天空の城」と言われる。家々は、岩山の山頂から山麓へとへばりつくように建てられている。

 (天空の城のようなゴルド)

 遠い昔、最初にケルト人がこの岩山に城塞の村を築いた。

 その後、この村もローマのプロヴァンス(属領)となり、山頂部にはローマ神殿が建てられた。

 ローマが滅亡し、ローマ化されたガリア人の住む南仏にもゲルマン人(フランク族)が侵攻してくる。そして、侵入者も含めて、人々の中にキリスト教が広がると、ゴルドの山頂のローマ神殿は、修道院に変えられた。

 だが、中世前期の西ヨーロッパ社会の統治機能は虚弱で、ゴルドにもアラブの海賊が侵攻して、村も山頂部の修道院も略奪・破壊された。北アフリカの海賊は、地中海を越え、ローヌ川を遡って、この岩山の上の村まで襲っていたのだ。

(メインストリートの正面は城)

 しかし、中世も11世紀になると、山頂部には城が築かれ、村にも防衛設備ができていく。

 14世紀の百年戦争の時期には、岩山の麓を囲う城壁も築かれた。

 今、山頂部にある城は、16世紀のルネッサンス期のものだそうだ。

 一般の家々は、平たい石を積み重ね漆喰で固めた壁でできている。

  (ゴルドの小道)

 昨日も、今日も、暑い

 出発前にネットで調べたフランス各地の気温は日本よりかなり低く、添乗員からも寒さ対策が必要との電話連絡があった。

 だが、大陸の気候の変化は激しい。長袖シャツの袖を肘の上まで捲り上げているが、歩いていても、体に汗がにじみ出てくる。

 ゴルドの村の麓近くまで歩いて下りたとき、木綿の手作り工房を営む家があった。そこで白木綿の半袖シャツを買い、包装は断って、その場で着た。

 袖が長袖か半袖かの違いだけのようだが、半袖シャツがこんなに爽やかで快適だとは思わなかった。

 化繊ではなく、木綿にこだわって工房を営むところも、「美しい村」らしくて良い。

 (この日は、このあと、アヴィニョンへ。続く)

 

 

 

 

 

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紺碧のコート・ダジュール … 観光バスでフランスをまわる2

2022年05月01日 | 西欧旅行…フランス紀行

 (ニースの青い海)

    日本は四囲を海に囲まれた島国だが、フランスは大陸の国である。それでも、国土の北西側は (イギリス海峡を含む) 大西洋に臨み、南(東)側は地中海だ。

 このツアーは、地中海沿岸のコート・ダジュールからスタートして、北はイギリス海峡に臨むモン・サン・ミッシェルまで行き、ゴールはパリ。正味6日間のバスの旅である。

 スタートのコート・ダジュールは、南フランスの地中海沿岸部のうち、イタリアとの国境に近い、東部の海岸線を言う。

 19世紀になって、雨の少ない温暖な気候と青い海が、北欧やスラブ圏の国々、英国、オランダ、ドイツやフランスの北部の人々の憧憬の地となり、貴族や富豪が別荘を構えるようになった。

 やがて超高級ホテルやレストランも進出して、国際的なリゾート地へと変貌していった。

 日本語では「紺碧海岸」と言われる。

   ★   ★   ★

<旅先のホテル>

 2010年10月6日

   昨日の朝、関空を出発し、フランクフルト経由で、夕刻、ニースに着いた。

 ニースは高級リゾートのイメージがあるが、宿泊したのは高級ホテルではない。ごく安いツアーだから、ホテルも三流である。

 私のヨーロッパの旅は、リッチなホテルに泊まったり、星付きレストランで食事をしたり、ブランド品を買ったりすることとは無縁である。ホテルは静かであれば、狭くて古い、ヨーロッパらしい一室で充分である。欲を言えば、旧市街の中のホテルでも、田舎であっても、窓からその土地らしい眺望が少しでもあれば、最高である。

 ただ、このホテルのバスタオルの饐(ス)えたような臭いには閉口した。

 相当に使い込んだものらしく、布地は肌が痛いほどにざらざらしているが、洗いざらしで清潔そうに思えた。もしかしたら環境に配慮した自然洗剤の臭いなのかもしれない。そう思って、我慢した。

      ★

<国際映画祭の町・カンヌ>

 。8時半、観光バスに乗り込んだ。昨夕、空港に迎えに来たのと同じバスだが、今日からの6日間、7日目のパリの空港まで、ずっとこのバスに乗るのかもしれない。

 関空から同行の中年の女性添乗員のほか、現地女性ガイドも同乗した。

 今日は、ニースから西へ走ってカンヌを見学し、ニースに引き返してニースを観光。午後は東へ走ってモナコを見学し、再びニースのこのホテルへ帰って連泊する。

 10月初旬の地中海の陽光は爽やかで、バスは所々で海を望みながら快調に走って、50分ばかりでカンヌに到着した。

 バスを降り、ガイドに引率されて、クロワゼット大通りを歩く。海岸沿いのプロムナードで、カンヌの目抜き通りだそうだ。

 片側の建物は超高級ホテル、高級レストラン、ブティック。海側はプライベート・ビーチだという。ただ、季節外れなのか、人々の朝がおそいのか、人は少なかった。

 午前の透明な光の中、そういう高級リゾートの街路を、観光バスを降りた30人ほどの日本人がぞろぞろと歩いて行く。歩きながら、団体で見学するような場所ではないのではないか、という多少の違和感を感じた。

 クロワゼット大通りの西端の建物が、カンヌ国際映画祭の会場のパレ・デ・フェスティバル。外見はちょっとオシャレだが、まあ普通の現代建築で、玄関ホールは2階にあり、そこからプロムナード前の広場へ「大階段」が降りてくる。

 カンヌ映画祭の日、この階段には赤い絨毯が敷かれ、世界の大スターたちが、或いはモーニング姿で、或いは華麗なロングドレスを引きながら、優雅に上がっていき、また、降りてくる …… のだそうだ。

 5月の映画祭の開催期間、この小さなカンヌの町は世界からやってきたスターや映画関係者やメディア関係者らでいっぱいになり、ホテルもなかなか取れないとか。

 …… などと説明されても、クローズされた現代風の建物を外から眺めるだけである。わざわざ見学に来る価値があるのだろうかと思った。

 旅が終わって帰国してから少し調べてみた。

 カンヌ映画祭の特徴は、その期間、見本市も同時に開催されること。つまり、映画のコンクールだけでなく、世界の映画のスーパーマーケットになるのだ。

 世界から1千社近い企業や数千人のプロデューサーが集まってくる。コンクールに参加した映画ばかりでなく、まだ構想段階で日の目を見ていない映画まで、誰が監督で、主演は誰で、あらすじはなどということがプレゼン・PRされ、大量のおカネが動き、資本が投じられる。優雅に見えるが、その裏はまさに市場経済の投資の場となる。

 資本主義の発祥の地はヨーロッパ。ファッションでも、観光でも、スポーツでも、映画・芸術でも、建築でも、カジノでも、自動車産業でも、現代の環境問題にかかわる産業に到るまで、いろいろ大がかりな「しかけ」がつくられ、投資の大渦が作られる。そういう一面ももつのが、ヨーロッパの今に至る歴史である。

 カンヌは、19世紀まで陽光きらめく普通の漁村だったそうだ。まさに新興の開発都市である。

 映画『太陽がいっぱい』の若き日のアラン・ドロンが演じたような、欲望がぎらぎらした青年の姿もあったに違いない。  

 シーズン・オフの映画祭の会場よりも、どこか、もっとコート・ダジュールらしい風景・景観、人々の営みと歴史を感じさせるところへ案内してほしい。そう思ったのは、多分、私だけではないだろう。

 せめて記念にと、1枚だけ、旧港のヨットハーバーの写真を撮った。

  (旧港のヨットハーバー)

      ★

<コート・ダジュールの中心都市・ニース>

 ニースに戻り、ニースの海岸から離れた山の手側にあるシャガール美術館へ行った。今日一日の見学で一番良かったのは、ここ

 彼は晩年をコート・ダジュールで過ごした。

 「シャガールは<光>に惹かれて『コート・ダジュール』へ来たのであろう。彼の心のなかで、スラブの深い靄が少しずつ<光>に透かされ、晴れてきたにちがいない」。(饗庭孝男『フランス四季歴』)

 「スラブの深い靄」と、南仏の「光」…。

 ステンドグラスの青が美しい。シャガールの青は地中海の青だ。 

 (シャガールのステンドグラス)

 (シャガールの絵)

 ヨーロッパの美術館は、フラッシュを発光させなければ、ルーブルの「モナ・リザ」でさえ自由に写真撮影できる。

 そのあと、バスに乗って、古代ローマの遺跡が少し残るシミエ地区を通った。

 素通りしただけだが、実は港としてのニースの歴史は古い。BC5世紀ごろに、ギリシャ人によって建設された。

 フェニキア人やギリシャ人は航海術に長け、紀元前の地中海の各地に港湾都市を築いた。その代表がフェニキア人のカルタゴだった。

 その後、この地はBC2世紀にローマが支配した。

 ローマはカルタゴを滅ぼして、地中海を「ローマの海」にしたが、もともとは陸の民である。ローマが進出するところ、舗装道路は延び、町が造られ、交易が進み、「面」としてのパクスロマーナが広がっていった。

 ローマ滅亡後の5世紀以降の地中海世界については、塩野七海の『ローマ亡き後の地中海世界』に詳しい。

 サウジアラビアに起こったイスラムは、地中海の北アフリカ側を席巻し、イベリア半島まで進出した。イタリアやフランスの地中海沿岸部は、長い歳月、海賊に荒らされ続けた。海賊を恐れ、人の住む村や教会は「鷹の巣」と呼ばれる断崖の丘の上に築かれた。

 19世紀になって、青い海と温暖な気候を求めて、大英帝国の貴族や金持ちがニースにやってきた。

 今のニースの中心は、3.5キロの海岸沿いの「プロムナード・デ・ザングレ」だが、「イギリス人の散歩道」の意である。超一流ホテルやプライベート・ビーチが並んで、第二次世界大戦まではヨーロッパの王侯貴族の社交場だったそうだ。

 昼食は、旧市街のレストランでとった。

 旧市街のあたりは、毎朝立つという市、レストラン、海岸でのんびりする観光客も、庶民的に見えた。

  (ニースの海)

       ★

<世界で2番目に小さな国・モナコ>

 そのあと、モナコへ向かった。

 モナコと言えば、私の世代にとって、ハリウッド女優のグレース・ケリーが王妃として嫁いだ国である。それ以外のことは知らなかった。

   ニースから観光バスで30分少々。イタリア国境まで30キロという所に位置する。

 モナコ公国の面積は2平方㎞。バチカン市国に次ぐ小国とか。しかも、海岸から数百メートルの背後にフランス国境の山が迫っている。

 ジェノヴァの貴族グリマルディ家が、13世紀末以来、支配してきた。今は立憲君主制だが、君主(元首)の権限は強い。

 もともと領土と言っても岩山ばかりの所だった。19世紀にカジノを導入して以来、高級リゾートへと発展していった。

 所得税はなく、消費税のみ。タックス・ヘイブンの国で、そのため国民の人口よりも外国人の居住者が多い。居住者は億万長者のセレブばかりだ。彼らの落とすおカネのお陰で、一人当たりの国民所得は世界一というのだから驚く。

      ★

 大公宮殿は、波打ち寄せる岩礁の岬の上に建っている。

 (大公宮殿)

 岩に打ち寄せる波と宮殿の壁がマッチングして見飽きなかった。

 宮殿前広場では、折しも衛兵交替が行われていた。

 

   (儀仗兵の交替)

 モナコの公用語はフランス語。通貨はユーロ。防衛もフランスに依存する。

 軍隊は大公の警護や儀仗を行う1中隊のみ。

 その分、住民の数に比して警察官の数が多く、治安は極めて良い。治安が良いから、世界のセレブが居住する。

 大公宮殿に隣接して、美しい大聖堂があった。金箔のビザンチン風ドームが美しい。

 (モナコの大聖堂)

 大公宮殿や大聖堂のある岬の岩山から、パノラマのような眺望があった。

 開発され尽くされている。モナコの人口密度は世界有数だとか。国民の数より外国人の居住者が多く、地価は高い。我々庶民がここに住みたいと思っても、買える価格ではない。

 ストリート・サーキットの「モナコグランプリ」も、この街で開催される。カジノもサーキットも、モナコの映画祭と同じように、「しかけ」である。

  (モナコの全景)

 今や、モナコ大公は、封建領主というより、きわめて有能な資本家・投資家である。

 モナコからニースへの帰路。絶景ポイントに寄るという口実で、崖の上の小さな町・エズの村に近い香水店に寄った。他にも観光バスが停まっていて、広い店内は客で賑わっていた。ここにもおカネが落ちる「しかけ」がある。

 バスの車内で、現地ガイドの女性(フランス人)がお勧めの商品を2、3品、熱心に言葉巧みに紹介していたから、おばさまたちはほとんど全員が幾つも買いこんでいた。

 まだ、旅の初日ですぞ!!

   国内・国外を問わず、この当時の団体ツアーではよく見かけた光景で、店からのリベートがガイドの懐に入る仕組みになっているのだろう。

 そのあと、ニースの海辺のレストランで夕食をとって、夜、ホテルに帰った。

      ★

 今日は3つの町を回ったが、コート・ダジュールはやはりリゾート地だと思った。

 観光バスで乗り付けて、集団でぞろぞろ歩き、また次へ移動するというような所ではない。2、3日でも滞在して、のんびりと紺碧の海を眺めて過ごすとか、列車や路線バスに乗って小さな町 ─ 例えば、まだ漁村の名残りをとどめる町だとか、地中海を見下ろす崖の上の村だとか、晩年のマティスが造ったロザリオ礼拝堂のある町だとか ─ を訪ねたりするのがふさわしい。

 またいつか来ることがあれば、今度はそういう旅にしたいと思った。                                                               

 

 

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