ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

ボスポラス海峡とトプカビ宮殿 … トルコ紀行(最終回)

2018年09月27日 | 西欧旅行…トルコ紀行

  ( 船上からオルタキョイ・ジャーミィ )

第11、12日目 5月23日、24日

 今日の午前中は、ボスポラス海峡クルーズ。昼食後は、トプカビ宮殿を見学する。

 そのあとは、イスタンブール空港へ行き、21時20分発の大韓航空に搭乗して、ソウル経由で帰国する。 

         ★

オシャレな街オルタキョイ

 このツアーの「ボスポラス海峡クルーズ」は、オルタキョイの桟橋から出港する。ツアー専用の貸切クルーズ船だ。

 出港の時間まで、しばらくオルタキョイを散策した。

 ボスポラス海峡に架けられた橋がある。その名も、ボスポラス大橋。

   オルタキョイは、ボスポラス大橋のヨーロッパ側(新市街)のたもとにある街の名である。

  ( ボスポラス大橋・対岸はアジア側 )

 旧市街の歴史地区を観光し、金角湾に架かるガラタ橋を渡って新市街に入ると、街は現代的なブランドショッピング街になる。観光客がたくさん歩くのは、この辺りまで。

 オルタキョイは、そういう華やかな地域を少しはずれて、小さなショップやカフェが並び、若者たちが集まってくる、ちょっとオシャレなエリアである。

 この街のシンボルは、オルタキョイ・メジディエ・ジャーミィ。白い瀟洒なモスクがボスポラス海峡に臨んで、一幅の絵になっている。

  ( オルタキョイ・ジャーミィ )

 ドルマバフチェ宮殿と同じ建築家の設計で、19世紀の中頃に完成した新しいモスクである。西欧的な美意識を取り入れたバロック様式で、この街のオシャレな雰囲気もこのモスクのたたずまいがあってのことだろう。 

  ( モスクの入口 )

 時間があるので、モスクに入ってみた。モスクの中は絨毯が敷かれているから、靴を脱ぎビニール袋に入れる。女性はスカーフが必需品だ。トルコ旅行も最終日になると、モスクに入るのも、見よう見まねで慣れたものだ。

    ( モスクの中 )

   ( 天井のドーム )

 伽藍の中は、正面にメッカの方向を示すミフラーブがある。

 19世紀のモスクは、15~16世紀のモスクの権威主義的な重々しさがなく、華やかで、かつ、軽やかである。         

         ★

ボスポラス海峡クルーズを楽しむ >

 集合時間になり、クルーズ船に乗り込んだ。

 ボスポラス海峡は、黒海とマルマラ海とを結んで、およそ30キロ。地元の各社が競う「ボスポラス海峡クルーズ」は、どれも30キロの半分の辺りで折り返す。船内放送のガイドがあれば、往きはヨーロッパ側、復路はアジア側の説明になる。

 黒海には、ドナウ川やドニエプル川などの大河が流れ込むから、黒海からマルマラ海へ向けて、ボスポラス海峡には川のような流れがあるそうだ。

 マルマラ海に出る直前、ヨーロッパ側に金角湾が入り込み、大都イスタンブールがある。

 マルマラ海は大きな湖のような内海で、そこからまたダータネルス海峡を経て、地中海の出口であるエーゲ海に出る。

         ★

 クルーズ船が出港すると、海上から眺めるオルタキョイ・ジャーミィは、物語の中の絵のように美しい。風景の中のモスクの美しさを初めて知る。 

  ( 美しいオルタキョイ・ジャーミィ )

 船中では、次々に目に映じて移りゆく景色を、ガイドのDさんが船内放送を使って、ほぼ完璧な日本語で、拍手を送りたくなるほど簡潔かつあざやかに説明してくれる。

 船は、オルタキョイの桟橋から北へ進み、黒海の方向へ向かって遡っている。折り返して反対方向へ向かえば、金角湾のあるイスタンブールの中心街である。

 このあたりの水辺には、世界的に著名な企業オーナーなどのお金持ちの別荘が建っている。「お金持ちになった気分で、どの別荘を買おうかな、などと考えながら眺めるのも楽しいですよ。私はいつもそうしています(笑)」とDさん。

 …… 豪華な大邸宅は管理も大変。私は自分で掃除機をかけられるこの程度で十分です。

  ( 小ぶりの別荘 )

        ★

 やがて、ルーメリ・ヒサールが見えてきた。

 

   ( ルーメリ・ヒサール )

 メフメット2世が、コンスタンチノープルへの攻撃に先立って、ボスポラス海峡を制するためにヨーロッパ側に造らせた城塞だ。万が一、ビザンチン帝国を助けようと西欧の軍船が大挙してやってきて、ボスポラス海峡を自由に遡ったら、オスマン側もたちまち危機に陥る。        

         ★

 ルーメリ・ヒサールを越えた先の地点で、船はUターンした。

 ボスポラス海峡30キロの半分あたりの地点でUターンするのが、ボスポラス海峡クルーズのコースだ。

 

   ( このまま進めば黒海へ )

 もし個人旅行で来れば、1日1本だけ、黒海の入口まで行くコースがあって、一日のんびり船旅ができる。

 既に、中世の時代から、ヴェネツィアの商船は、イスタンブールからさらに遡って、黒海各地の港に寄る定期航路を確立していた。

 黒海の入口まで行ってみたい。

 黒海の入口まで行っても、人の目に見えるのは、太平洋と同じただ茫々と広がる大海だろうが、それでも船からその光景を眺めてみたいと思う。

 昔、雪の秋田で列車を降りた時、「白鳥」のテールランプを見送りながら、たとえ夜汽車で景色は見えなくても青森まで行ってみたいと、心を残した。旅は、時々、心を残して終わる。        

         ★

 アナドル・ヒサールは、メフメット2世以前から、アジア側にあった要塞である。メフメット2世は、その対岸のヨーロッパ側にも、ルーメリ・ヒサールを造らせた。ここは、海峡が最も狭まった地点である。

 今は、古城は脇役で、瀟洒な別荘が景色の主役である。

   ( アナドル・ヒサール )

 Uターンして引き返し、出発地のオルタキョイを通り過ぎると、 ドルマバフチェ宮殿が見えてくる。

  ( ドルマバフチェ宮殿 )

 この白い大理石の宮殿は、トプカピ宮殿があまりにも時代おくれになったとして、1853年に新たに建てられたスルタンの新宮殿である。

 確かに、トプカピ宮殿は、ハーレムの印象も、殺された妃や王子の血の匂いも、そこを取り仕切る黒人宦官たちのイメージも、すべてが暗くて、魑魅魍魎の非近代的な世界だ。

 モデルになったのは、ヴェルサイユ宮殿やハプスブルグのシェーンブルン宮殿だろうか。たたずまいが似ている。

 今は、多くの観光客でにぎわうイスタンブールの観光名所の一つである。

 私は過去にヴェルサイユ宮殿もシェーンブルン宮殿も見学する機会があったが、専制君主の「豪華絢爛」を見ても、「文化」や美しさは感じなかった。なにしろ、4畳半の簡素な茶室の竹筒に生けられた1輪の椿を美しいと感じる室町将軍の民族的・文化的末裔であるから。

 この宮殿のあるあたりは、メフメット2世がコンスタンチノープルを攻めた時、封鎖された金角湾に軍船を入れるため、70艘もの軍船を陸揚げした所だ。ここで陸揚げし、牛と人力で丘を越えて、金角湾に浮かべて見せた。守るビザンチン側に圧倒的なパワーを見せつけたのだ。

 宮殿のすぐ先に、宿泊したリッツカールトンが見えてくる。汀には、小ぶりのドルマバフチェ・ジャーミィが佇んで風情がある。18世紀、19世紀に建てられたモスクは、いかにも瀟洒で、風景にアクセントを与えて、美しい。一昨日の夕、その横のテラスでトルココーヒーを飲んだ。

  ( リッツカールトンとモスク )

        ★

 やがて、金角湾とガラタ橋が見えてきた。

 レストランが並ぶガラタ橋の向こうに、シナン作のスレイマニエ・ジャーミィが印象的である。

  ( ガラタ橋とスレイマニエ・ジャーミィ )

 続いて、聖(アヤ)ソフィアも姿を見せる。

   ( 聖ソフィア )

 下の写真のこんもりした丘は、その昔、アクロポリスの丘だった。コンスタンチノープルを陥落させた後、メフメット2世はこの海を見下ろす丘に宮殿を建てた。トプカピ宮殿である。見えている塔は、宮殿のシンボル「正義の塔」(別の名は「ハーレムの塔」)。

 

  ( トプカビ宮殿の丘と「正義の塔」 )

 下の写真は、旧市街とは反対方向の新市街。ガラタの塔が見える。

 

    ( ガラタ橋と新市街 )

 出発点のオルタキョイに引き返して、クルーズは終わった。

 この旅で一番良かったところは??と、問われれば、ボスポラス海峡クルーズと答えるだろう。一昨日の夕、ドルマバフチェ・ジャーミィのそばの汀のカフェで飲んだトルココーヒーも、美味しかった。

 パリのセーヌ川を行き来する遊覧船に乗って、次々と橋をくぐりながら見上げたパリの街並みは、ただただ美しく、気品があって、しかも哀愁があり、感動したものだ。

 ヴェネツィアのサンタルチア駅から水上バスに乗ってホテルへ向かう時、まるで劇場のように展開する海の都の華麗さに、ただ圧倒され、感動しながら眺めたこともあった。

 岸辺のすべての建物が海峡に向かって微笑んでいるようなボスポラス海峡クルーズも、人生を楽しくさせてくれるひとときの旅だった。

 ヴェネツィアの運河も、パリのセーヌ川も、イスタンブールのボスポラス海峡も、歴史と豊かな水のある街並みは印象的である。

          ★

< 「愛と欲望の」トプカビ宮殿 >

 昼食後、トプカピ宮殿を見学した。

 19世紀にドルマバフチェ宮殿へ移るまで、15世紀から歴代スルタンの宮殿だった。ハーレムが有名だが、江戸城が大奥だけでないのと同様、ここは行政府でもあり、のちには帝国議会もあった。行政官養成の学校や、病院や、兵器庫や、貨幣鋳造所などもあり、常時、4、5千人の人々が暮らしていたという。

 宮殿の入口は、聖(アヤ)ソフィアのすぐ横である。

 下の写真の左側は聖ソフィアのミナレット、写真中央に「アフメット3世の泉」があり、右側の城壁と城門がトプカピ宮殿である。

   ( 宮殿の城門の前 )

 第一の門は、「皇帝の門」と呼ばれる。

    ( 「皇帝の門」 )

 「皇帝の門」を入ると、「第一の庭園」。ここには病院や兵器庫、それに、スルタンも食したパンの製造所などもあった。

 

   ( 第一庭園 )

 中門は、「儀礼の門」と呼ばれる。とんがり帽子の二つの塔の間に城門がある。スルタン以外は、ここで下馬した。

 さすがに観光客が多い。

 

    ( 儀礼の門 )

 中門を入ると、第二の庭園。「帝国議会の庭」とも呼ばれた。

 通常でも護衛の兵士は5000人にいた。特別の儀式のときには1万人が庭に整列したという。

 庭園の南側に長々と続く建物は厨房。

 反対側の北東の角には「正義の塔」が建つ。塔のそばにハーレムの入口があるから、「ハーレムの塔」とも呼ばれた。ボスポラス海峡クルーズの船上からも見えたが、イスタンブールのどこからでも見える。

   その下に、帝国議会の建物。その横に「宝物庫」の建物がある。

 

  ( 正義の塔 )

   ( 元宝物庫 )

 メフメット2世(在位1451~81)が、この丘に宮殿を造ったときには、宮殿内にハーレムはつくらず、妻妾たちはそれ以前に使っていた宮殿に残した。

 3代後のスレイマン大帝(1520~66)が初めて寵姫ロクセラーナをトプカピ宮殿に住まわせた。

 さらに2代後のムラト3世(在位1574~95)の時にハーレムができ上った。

 およそ300人くらいの若い美女たちがいたという。スレイマンの寵姫ロクセラーナもそうだが、奴隷として売られていた女性も多い。専制君主の意を受けてハーレムを取り仕切ったのは黒人宦官長と黒人宦官たち。女たちの中で権勢があったのはスルタンの母親だった。

 スルタンが即位したとき、スルタンになれなかった兄弟たちはみな殺された。のちに改善されて、それぞれ、生涯、一室に閉じ込められた。その「鳥かご」と呼ばれた部屋も残っている。子を産まなかった女たちはもちろん、「鳥かご」の母親たちも、新スルタンが即位すれば完全に用なしである。

 つまり、ここに集められた美女たちは一種の奴隷状態で、江戸城大奥のように、身分高く、多くの女性にかしずかれる奥方などではない。

 司馬遼太郎は、中国にあって日本になかったものは、宦官と科挙の試験制度だと言い、なくて良かったと書いている。その二つは、つまりはアジア的専制君主制の支えである。

 この旅行に出る前、BS放送で、トルコテレビ制作のドラマ『オスマン帝国外伝 ─ 愛と欲望のハレム』が放映されていた。1回見て、辟易となり、撤退した。一種の「大奥もの」である。ガイドのDさんによると、トルコでは放送の時間になると町が静かになったという。世界でも8億人が熱狂したそうだ。日本でいえば、ラジオ時代なら「君の名は」、テレビ時代に入ってなら「おしん」だろうか。Dさんが、「日本でも放映されましたが、ご覧になりましたか?」と聞くと、おばさんたちが多数手を挙げた。日本でも、世界でも、おばさんたちは「大奥もの」が大好きなのだ。

 そのドラマの主人公は、ロクセラーナ。スレイマン大帝がロクセラーナをトプカビ宮殿に入れたのは、ロクセラーナの要求もあったろうが、西欧式の一夫一婦制を考えたからである。スレイマンには、そういう啓蒙君主的一面もあった。

 だが、少年時代から兄弟のようにスレイマンを愛し仕えてくれた名宰相イブラヒムを暗殺したのも、イブラヒムをはじめ多くの人々から次期皇帝として嘱望されていた王子(ロクセラーナの子ではない)を殺害したのも、ロクセラーナがスレイマン大帝を口説いて、そうさせたのだ。

 このあたりの経緯は夢枕獏の『シナン』にも出てくる。宰相イブラヒムに従っていたシナンの親友も、この時、殺された。 

 バカな息子であっても、息子がスルタンにならなければ、息子も自分も未来がないのだから、賢いロクセラーナとしては悪女になるしかない。スレイマン死後は、スルタンとなった息子を助けて、密室から宰相たちの会議を盗聴し、陰から政治を動かした。いずれにしろ、どろどろした陰湿な話で、こういうドラマを毎週見ていたら、私は鬱になる。

 さて、宮殿内もハーレムの中もいろいろ見て回ったが、どの部屋も観光客でいっぱいで、写真を撮ろうと思っても、天井ばかり写る。説明にも興味がわかない。

 それでも、スルタンがくつろいだ一番豪華な「皇帝の間」は、ばっちり写真に収めた。シャッターチャンスを待っていたら、置いて行かれそうになった。ここは初めてきた者にとってかなり迷路なのだ。

  

   ( 皇帝の間 )

 「寵姫たちの居住区」は、アパートメントという感じである。

 

  ( 寵姫たちの居住区 )

 観光客の女性たちが庭のベンチに座って談笑しているのを見て、寵姫たちもこのようにしてひと時を過ごしていたかもしれないと、つい想像してしまい、あわててその想念を振り払った。失礼しました。

 宮殿の一番北の端は、ボスポラス海峡やマルマラ海が見下ろせるテラスになっていて、当時も、美しい景色を見ながら食事をしたらしい。トプカピ宮殿で最も明るく、美しい場所だった。

 

  ( 宮殿のテラスから )

        ★

 旅の終わりに >

 旅の終わりに、旧市街のスルタンアフメット地区を見下ろせるセブンホテルの屋上レストランに連れていってもらった。ワインを飲みながら、すぐ間近に、聖ソフィア、ブルーモスク、そしてボスポラス海峡、マルマラ海の景色を楽しんだ。

   ( 聖ソフィア )

      ★   ★   ★

 その夜、21時20分発の大韓航空でソウルへ向かった。

 飛行機が飛び立つと同時に、突然、風邪の症状が一気に出た。そういえば、旅の途中、ガイドのDさんも、一行の中のご主人も、体調を崩して辛そうだった。1人のご主人は、イスタンブールの1日、観光をせず、ホテルの1室で静養された。多分、一行の中には、風邪の潜伏期間という人がもっといるに違いない。

 機内では、葛根湯を飲み、テレビも見ず、本も開かず、ひたすら目を閉じて一夜を明かした。

 翌13時25分にソウル着。15時20分にソウル発。関空着は17時10分。なかなか便利な便である。

  

 

 

 

 

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スルタンアフメット地区をめぐる … トルコ紀行(15)

2018年09月20日 | 西欧旅行…トルコ紀行

       ( スルタンアフメット・ジャーミー )

< ブルーではない「ブルーモスク」 >

 聖(アヤ)ソフィアを出ると樹木の茂る広場があり、広場をはさんで、聖(アヤ)ソフィアと対峙するように「ブルーモスク」が建っている。

 「ブルーモスク」は通称で、正式名称は「スルタンアフメット・ジャーミー」 。

 「スルタンアフメット地区」という名称も、このモスクの名からきている。

 スルタンアフメット地区は、観光でイスタンブールを訪れたら誰もがやってくる一画で、南から北へと、ブルーモスク、聖(アヤ)ソフィア、トプカビ宮殿が並んでいる。広大な敷地をもつトプカビ宮殿の丘の向こうは、金角湾とボスポラス海峡とマルマラ海が合流する海だ。

 スルタンアフメット・ジャーミーは、スレイマン大帝の4代後のアフメット1世の命により、シナンの弟子のメフメット・アーが1616年に建てたモスクである。ミナレットが6本もあることで、目立っている。

 今も現役のモスクだから、見学者は1日5回のお祈りの時間を避けて見学することになる。

    ( ブルーモスクの入口 )

 モスクの前の女性たちはスカーフ姿だが、非イスラム圏からやって来た観光客である。

 「ブルーモスク」は、ドームの直径が27.5m、高さは43mである。6本もミナレットを建てているが、聖(アヤ)ソフィアにも、シナンのモスクにも及ばない。

  ( メッカの方向を示すミフラーブ )

 このモスクについて、『地球の歩き方』や、ネットの旅行社のHPの記事でも、例えば「内壁を飾る2万枚以上のイズニックタイルは青を主体とした非常に美しいもので、… ブルーモスクの愛称で親しまれている」(『地球』)と説明されている。

 「陽春のスペイン旅行」(2013年ブログ)で、イスラム文化の繊細優美さに感動した経験があったから、今回のツアーで期待していた見学先の一つだったが、実際に見た「ブルーモスク」は、「美しいブルーのモスク」というイメージではなかった。

 どうやら一時期、内装を青を基調に塗り替えた時期があったが、その後オリジナルに近い色に戻され、特に青の印象はないというのが真実らしい。

 言葉とは不思議なもので、「ブルーモスク」が独り歩きし、ガイドブックまでもが洗脳されている。だから、そういうガイドブックの予備知識をもって訪れた観光客のなかには、先入観が頭の中で固定化して、「ブルーのモスク」を見たというイメージをもつて帰る人もいるのではなかろうか。

 

             ( 壁面 )

        ( ドーム )

映画の撮影にも使われた「地下宮殿」 >

 次に、スルタンアフメット地区の「地下宮殿」へ行った。歩いてすぐだ。

 「地下宮殿」などと言うから何のことかと思ったが、4世紀のコンスタンティヌス大帝によって造られ、6世紀のユスティニアヌス大帝のときに改造・修復された(のではないかと言われる)巨大な貯水プールのことである。「イェレバタン地下貯水池」。

 イスタンブールをバスで走っているときに、車窓風景としてでも見ることができたらと期待し、結局、今回の旅では見ることができなかったローマ時代の遺跡が二つある。

 一つは、テオドシウスの城壁。

 マルマラ海と金角湾に挟まれた陸側を防禦し、メフメット2世率いる15万の軍勢の猛攻に耐えた6.5キロに及ぶ城壁である。所々寸断されているが、今も、遺跡として残り、修復されて城壁の上まで上ることができる箇所もあるらしい。

 もし、個人旅行で来ていたら、半日は、その城壁に沿って歩いただろう。

 もう一つは、コンスタンティヌス大帝が、この町をローマに代わる東方の都として大改造したとき、その一環として建設が始められ、次のヴァレンス帝のAD378年に完成した水道橋である。

 水の確保は、為政者の重要な仕事である。コンスタンチノープルの20キロ先の森の水源から水路を造り、市街地の1キロほどは巨大な水道橋を建設して水を通した。石積みの水道橋は、今もイスタンブールの旧市街の真ん中あたり、現代の幹線道路の遥か頭上に架かっている。

 水道橋を通って送られた水は、今、「地下宮殿」と呼ばれるようになった巨大な貯水プールへ導かれた。16世紀のコンスタンティノープル陥落以後も修復して利用され、すぐ先のトプカビ宮殿を潤おしていた。

 地下貯水池の面積は143m×66m、高さは9m。28本の大理石の円柱が12列並んで天井を支える、まさに宮殿のような地下建造物で、ローマの土木・建築力というのは、本当にすごい。

 ( 地下宮殿の円柱群 )

 柱の土台の2か所はメドゥーサの巨大な首だ。一つは逆さを向き、もう一つは横向き。

 

 ( メドゥーサの首 )

 メドゥーサはギリシャ神話に登場する怪物。メドゥーサの目を見ると、石になってしまう。伝説によれば、半神の英雄ペルセウスによって退治され、首を切り落とされた。

 巨石に彫られた首は、この貯水池の泥に沈んでいた。発見されたのは1984年である。

 メドゥーサを柱の土台にした意味は、特にないと思う。コンスタンティヌス大帝は、信仰の自由を謳ってキリスト教を公認し、実はコンスタンティノープルを、異教的なローマに代わるキリスト教の新しい都にしようとした。だから、都の建設に当たっては、この町や周辺の町にあったギリシャやローマの神殿や神像なども取り壊して、石材としてこのように無造作に使用したのだ。キリスト教が皇帝権力を取り込んで、異教・異文化への迫害をする時代にさしかかってきていたのである。

 「地下宮殿」がまだ一般公開されていなかった頃、映画007シリーズの傑作と言われる『ロシアより愛をこめて』の撮影現場に使われたそうだ。昔、その映画は見たが、ここが登場する場面はまったく覚えていない。ツタヤで借りてもう一度、見てみよう。

 もう一つある。トム・ハンクス主演の映画『インフェルノ』。「インフェルノ」とは地獄編の意。『ダ・ヴィンチコード』『天使と悪魔』に続く3部作の3作目である。

 ここを4日間借切って、クライマックスの場面が撮影されたそうだ。もちろん、アクション場面は別の場所にセットが組み立てられた。『インフェルノ』には、聖ソフィアやグランドバザールも、少し登場するそうだ。

        ★

かつて東西貿易で賑わったグランドバザール >

 少し歩くと、グランドバザールがある。

 この町には、コンスタンチノープル時代から、東西交易によって、多くの商品と財が集まってきた。

 その繁栄の象徴が、中東で最大と言われるこの屋根付き市場。かつては奴隷も、宝石も、あらゆるものが取引された。

 イスラム世界では、中近世になっても、奴隷はいた。地中海沿岸のヨーロッパ側の町は、アフリカからやってくる強力なイスラムの海賊集団に絶えず襲われた。彼らは物を奪い、人(キリスト教徒)をさらっていく。人は奴隷として売買され、働かされた。(参考 : 塩野七生『ローマ亡きあとの地中海世界 上、下』)

 グランドバザールには、21の門があり、今も4400軒の店が入っているとか。

 21の門の1番は、ヌネオスマニエ門。立派な紋章で飾られている。

     ( ヌネオスマニエ門 )

 『地球の歩き方』になかなかの名言があった。今は、「買い物をする所というより、存在そのものが見どころとなっている」。

 金、銀、宝石、時計、アンティークなどの装飾品、絨毯、革製品、陶器、銅器、布地など、あらゆるものが売られているが、ここで買い物する気はない。歩いていると、日本語で盛んに呼びかけてくる。チャイニーズか日本人かとたずねてくるのは、最近はここも中国人観光客が席巻しているのだろう。

 ( グランドバザール )

 メインの通りを往復した後、近くのモスクに入ってみた。

 ヌネオスマニエ・ジャーミーだ。『地球の歩き方』によれば1755年に完成とあるから、比較的新しいモスクである。

      ( ヌネオスマニエ・ジャーミー ) 

 18世紀のオスマン帝国では、ヨーロッパ建築の影響を受け、バロック様式やロココ様式が流行ったそうだ。このモスクもバロック様式だという。確かにブルーモスクとは、随分、趣が違う。ブルーモスクは贅を尽くした権威主義で、こちらは軽やかで装飾的だ。

 以上で、今日の見学は終わった。

     ★   ★   ★ 

 明日は、遊覧船に乗ってボスポラス海峡を海から見学する。そのあとは、トプカビ宮殿へ。

 そして、イスタンブール発の夜行便で帰国の途につく。今夜が最後の夜だ。

 ホテルの窓から写した写真を2枚。

    ( ボスポラス海峡 )

 

   ( 遠く、マルマラ海 )

 

 

 

 

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シナンとともに、聖(アヤ)ソフィアを見学する … トルコ紀行(14)

2018年09月13日 | 西欧旅行…トルコ紀行

              ( セブンホテルの屋上レストランから )

 建築家シナンは、カッパドキアの村のキリスト教徒の家に生まれた。考えることが好きで、しばしば大人を困らせる質問をする子だったらしい。噂を聞いた神父のヨーゼフが、その子を一度連れてきなさいと父親に言う。以下、神父とシナン少年の会話である。

 「『神は、この世界に遍在し、預言者の肉に降り、広大なる大地や天の裡(ウチ)にも住まわれている。しかし、稀に、神は、人がその手によって造り上げたものの裡にも降りてくることがある … 』。神父は言った。

 『人が造ったもの?』 『ああ──』

  『神父さまは、それをごらんになったことがあるのですか?』 『ある。一度だけな』

  『どこで?』 『イスタンブールだ』

  『イスタンブール?』 『そこに建つ、聖ソフィアだ』。

   うっとりと、夢見るような口調で、ヨーゼフは言った。『今でこそ、イスラムのジャーミーになっているが、もともとは、あれは我らキリスト教徒が1000年の昔に建てたものなのだ』

  『1000年……』。それは、なんと遥かな時間であったろうか。

 『聖ソフィアこそ、人が造り出した、最も神がよく見える場所なのだよ』

  『本当に?』 『見れば、その瞬間に、それがわかる』

  『見れば?』 『ああ』。

 しかし、アウルナスから、イスタンブールまでは、遥かな距離があった」。

     ★   ★   ★

聖ソフィアを、シナンとともに > 

 その日の午後、この旅のハイライトと言っていい聖(アヤ)ソフィアにやってきた。

 だが …… 。

 長くあこがれを抱き、遥々とここまでやってきたにもかかわらず、見学しながら、あまり感銘を受けていない自分を感じていた。こんなものなのか … 。

 その印象を一言でいえば、ガランとしているのである。聖堂内には人種も民族も異なる観光客が多数いるにもかかわらず、その聖なる建物の中はあっけらかんとしていた。

   やがて、それは仕方のないことなのだと思えてきた。感動しないのは、私の感性のせいではない。

 その理由の一つは、あまりに古くなり、しかもトルコは地震大国で、さすがの聖ソフィアも自ら立つことが難しくなってきているのだ。自立できなくなったこの貴重な人類の文化遺産を、巨大な鉄骨の骨組みが、床から高い天井まで、大きな面積を占めて支えている。堂宇全体の写真は撮れないぐらいに、殺風景に。

 …… しかし、それは仕方がないことだ。実はこれまで、この聖堂は、オスマン時代は言うまでもなく、すでにビザンチン時代から何度も修復工事がなされ、あのシナンもその工事に参加したことがあり、そういう努力によって何とか今に伝えられているのである。研究が進んで、いつかもっとスマートな維持の方法が見つかるかもしれないが、今は、こうして支えるしかないのだ。

 もう一つ、ガランとていると感じる、もっと大きな理由がある。

 この建造物の現在の正式名称は、「アヤソフィア博物館」である。

 聖(アヤ)ソフィアは、2度焼失し、2度目の焼失の後のAD537年、ユスティニアヌス大帝の命により、今まで誰も目にしたことがない奇跡のような大聖堂が建立された。そして、その後1000年の間、ビザンチン帝国のキリスト教の中心となった。

  AD1453年、コンスタンチノープル陥落のその日に、コンスタンチノープルに入城したメフメット2世は、略奪・破壊しようとする兵士たちの前で、聖ソフィアをイスラム教のモスクに改修すると宣言した。彼は聖ソフィアを破壊から守ったのである。以後、アヤソフィア・ジャーミーとして、オスマン帝国における最も格式の高いモスクの一つとされ、500年近くが過ぎていった。

  AD1935年、トルコ共和国の初代大統領ケマル・アタチュルクは、アヤソフィア・ジャーミーを、キリスト教の聖堂でもなく、イスラム教のモスクでもない、無宗教の「アヤソフィア博物館」として公開した。

 イスラム時代に伽藍の中に設置されたメッカの方向を示すミフラーブも、聖堂を囲むイスラム式の4本のミナレット(尖塔)も、文化遺産としてそのまま残されたが、イスラム教徒の祈りのために敷かれていた床のカーペットは取り除かれ、また、壁の漆喰が除去されてキリスト教のモザイク画が姿を現した。

 アタチュルクが、トルコ共和国を非宗教化(世俗化)し、近代化する一環として、「アヤソフィア・ジャーミー」を「アヤソフィア博物館」にしたのは、偉大な政治的改革の必然であったろう。

 だが、それはそれとして ……

 西欧でも、今は博物館となり、学芸員が管理する元「聖堂」は幾らでもある。そういう博物館となった「聖堂」に入場料を払って見学しても、生きて呼吸していない施設は、ただ無機質で、ガランとしているのである。

 例えば、春日大社にしろ清水寺にしろ、国内や世界からやってきた観光客でどんなにあふれていようと、そういう日常性の世界とは別の世界で、神官や僧侶による生きた宗教活動や修行が日々行われ、また、訪れた以上はきちんと手を合わせる名もなき日本人の多くの姿があるから、今も日本の文化として生きているのである。だからこそ、それぞれの社寺において、見よう見まねで作法どおりに参拝する西洋人も多い。それは、「人々」への敬意からである。

 文化というものの「幹」は、そこで生きてきた「人々」や、或いは今も生きている「人々」の日々の暮らしと願いと祈りである。その幹から、枝が出て、花が咲く。「幹」が死んで、今は枯れて押し花にした花を見せられても、感銘は薄い。

 「アヤソフィア博物館」がガランとしている理由は、そういうことである。

 だから、ここでは相当の想像力をもって見学することが求められる。

 そこで、生きた祈りの場であった15~16世紀の「アヤソフィア・ジャーミー」の時代にまで遡り、夢枕獏の『シナン』とともに、或いは、初めて胸ときめかせてアヤソフィアを訪れた若き日のシナンとともに、この聖なる宗教施設を見学することとしたい。

 以下、引用は全て夢枕獏『シナン』からである。

          ★

聖(アヤ)ソフィアの建造 >

   夢枕獏は『シナン』のなかで、聖(アヤ)ソフィアについてこのように説明している。

  「イスタンブールに、聖(アヤ)ソフィアと呼ばれる巨大な石の建造物がある。

 西暦537年、つまりシナンの時代よりも1000年以上も昔、イスタンブールがコンスタンチノープルと呼ばれていた頃、ビザンチン帝国の皇帝ユスティニアヌス1世によって造営された、ギリシア正教会の最も重要な聖堂である。

 建物の上部に、半球状のドームが被(カブ)さり、その直径は、およそ31~32m。およそ、というのは、余りにも長い歴史の中で、建物に歪みが生じ、一部の方向に直径が広がってしまったからだ。

 ドームの内側の頂点にあたるところまで、床からの高さが56m。

 奇跡のような巨大建造物である」。

 「この古い、偉大なる建築物は、1999年におこったトルコ地震で、近代的な建物が多く倒壊したにもかかわらず、壊れずに残った」。

 「この聖(アヤ)ソフィア建設にたずさわった建築家はふたりいる。

 トラレスのアンテミウス。

 ミレトスのイシドロス。

 この2名が、聖(アヤ)ソフィア建設の責任者として、ユスティニアヌスより任命されたのである」。

  「聖(アヤ)ソフィアは、このふたりが心血を注いだ傑作であった。

 ユスティニアヌスが命じた、『方形の建物の上に、ドームを載せよ』という難題を、英知(ソフィア)によって解決したのである。

 それまで、…… 聖堂は長方形 ── 横より縦が長いバシリカが一般的で、後部(※奥の祭壇部分)が円形に張り出していた。 

 この方形の教会の上に、ローマ神殿パンテオンの円形のドームを載せて、まったく新しい権力の象徴を大地の上に組み上げようとしたのである」。

 「当時、最大のドームは、その直径だけで言うのなら、ハドリアヌス皇帝が2世紀に建てさせたパンテオンが一番であった。ドームの内径、およそ43m。

 しかし、これは、方形の建物の上に、柱によって支えられている球ではない。地面から直接たちあげられた壁によって支えられているのである。柱によって、宙に持ち上げられた半球 ── そういうイメージではない。

 そうでないと、それだけ巨大なドームは支えられないのである。壁の厚さだけでも、およそ6m。これだけのものによって、ドームを支えないと、ドームは崩れてしまう。

 ユスティニアヌスが命じた、方形の建物の上に半円球のドームを載せるというのは、それまでとはまったく違う発想と技術が必要であったのである」。

 「天才数学者が選ばれたのである。アンテミウスと、イシドロスは、これを解決した」。

          ★

   以下は、今から500年以上も前、まだ建築家の卵に過ぎなかったシナンが、初めてイスタンブールにやってきて、アヤソフィア・ジャーミーを訪問した時のことである。

シナン、聖(アヤ)ソフィアの前に立つ >

    ( 聖ソフィア )

 「この積み上げられた石の量感は、まさしく山であった。その山の量感が、そこに立った瞬間、シナンに襲いかかってきたのである」。

 「シナンは、感嘆の声を心の中で洩らしている。

 これほど圧倒的な量感を持った巨大なものを、千年も前に、人間が作ったということが信じられなかった。いったいどのような力がこれを作るのか。どのような精神と技が、このようなことを可能にするのか」。

  ( 羊の浮彫 )

 聖ソフィアの庭先に無造作に置かれている石も、ビザンチン時代のものであろう。キリスト教徒を表す羊の群れが浮き彫りにされている。  

        ★

シナン、聖(アヤ)ソフィアの中に入る >

 「ゆっくりと、分厚く重い木製の扉を押し開けて中に入ってゆく。

 中は、薄暗かった。ひんやりとした空気が、シナンを包んだ。石の床。石の壁。石の柱。そういうものに囲まれた回廊であった。

 天井はアーチ状になっていて、その半球は聖母マリアや、キリストの絵がモザイクで描かれていた。シナンにとっては、おなじみのイコンである。色彩が美しい」。

 「不思議な感覚をシナンは味わっている。シナンは、ひんやりした大気を呼吸しながら、石畳の床を踏んで歩いていった。

 回廊の内側が、ドームの空間である」。

    ( 聖ソフィアの伽藍 ) 

 「外からこの建物を眺めた時、確かに大きく感じたが、それは、これほどの大きさであったか。

 この内部の空間の方が、数倍、数十倍も巨大なように思えた。

 まるで、宇宙そのものの内部にいるような気が、シナンはしていた。何もない空間 ──

 たとえば真上の天を見上げている時、その天の大きさはわからない。しかし、このようにして囲うことによって、初めて空間の巨大さというものは見えてくるのか。

 とてつもない肉体的な衝撃をシナンは味わっていた。

   自分は今、神の中にいる。シナンはそれを実感した」。

     ( 聖ソフィアのドーム )

 「しかし、どうしてドームであったのか。

 どうして、巨大な丸天井を聖堂の上部にかぶせねばならなかったのか。

 ただ収容人員を多くするだけの建物であれば、形を方形にして、柱を多く使用すれば、いくらでも巨大なものができたはずである。

 どうして、支えのない半球を、人々の頭の上に戴こうとしたのか。

 ドームの屋根は、古代ローマの時代から神殿や教会の屋根に使用されてきている。

 その半球の意味するものは、神である。

 人々は、神の象徴的意味、表現として神殿の天井に半球を使用してきたのである」。

         ★

聖ソフィア内のモザイク画のこと >

再び『シナン』から。

 「1453年に、オスマントルコによってコンスタンチノープルが陥落した時、このキリスト教の聖堂は、イスラムのモスクに改修されている。

 本来であれば、聖母マリアやキリストの肖像は消されるところなのだが、オスマントルコはそれをしなかった。

 ただ、多くの絵の上から漆喰を塗って、イコンをその下に封じ込めた。しかし、漆喰を塗りきれなかった場所や、塗ってもそれが剥がれ落ちて、下の絵が見える壁や天井もあったのである。

 もともと、イスラムのモスクの壁や天井に描かれる絵は、幾何学模様か、植物や文字をデザインしたものばかりである。人間や動物などの姿が描かれることはない」。

 「それが、この聖ソフィアの天井や壁には、神の子の姿が残っている。

 モザイク画のあまりのみごとさに、これを消すのをためらったのではないかと言われている」。

         ★

 下の絵は、10世紀初頭の作と推定されているモザイク画。皇帝専用の入口の上に描かれている。

 キリストを礼拝しているのは皇帝。キリストの両横には聖母と大天使ミカエルが配されている。

  ( キリストと皇帝 )

 次の絵は、10世紀後半の作とされる。南入り口の扉の上のモザイク画。

 AD330年、コンスタンチヌス大帝はビザンチウムと呼ばれていた町をローマに代わる首都に造り替え、名をコンスタンティノープルと改めた。絵の右の人物はコンスタンチヌス大帝で、聖母子に、都コンスタンチノープルを贈っている。

 左側の人物はユスティニアヌス大帝。聖(アヤ)ソフィアを献上している。

(聖母子、ユスティニアヌス1世とコンスタンティヌス1世) 

   ( デイシス)

 上の絵は、1260年ごろの作で、2階の廊下にある。絵の3分の2は失われているが、ビザンチン美術の最高傑作とされる。

 デイシス(請願図)は、聖母マリアと洗礼者ヨハネが、人間の罪の許しを請うて、玉座に座るキリストに請願するという、東方教会でよく見られる様式。 

   この絵の失われた箇所について、オスマン帝国或いはイスラム教徒が削ぎ取ったと想像する人は多いかもしれない。私も実はそうであった。しかし、欠落の要因はよくわからないが、少なくともオスマン帝国(イスラム教徒)の意図的な行為ではない。1543年、メフメット2世はここをモスクとすると決めたが、キリスト教のモザイク画が存在するのは困る。それでも、彼らはそれらを削り取ることはせず、上から漆喰を塗ることによって、絵を残したのである。

 問題は、今、残っているモザイク画が10世紀以後のものであることだ。

 ユスティニアヌス大帝が聖(アヤ)ソフィアを造ったのはAD537年、6世紀である。今まで誰も目にしたことがない奇跡のような大聖堂が建立されたとき、その壁に美しい壁画が描かれなかったはずはない。ユスティニアヌス大帝の時代は、ビザンチン時代の最盛期だったから、ビザンチン美術を代表するような絵画や彫刻があったはずである。それらは、どうなったのか??

 実は、それらを破壊したのは、ほかならぬキリスト教の側であった。

 私は昨年から、NHK文化センターで、「バチカン物語」というヨーロッパ宗教文化史の講義を聴きに行っている。その時々に、例えば「ローマからゲルマンへの旅」といった副題が付く。

 タイミングがたいへん良かった。開講された時期がもっと早かったら、夜空に遠く輝く知識の星たちを見上げながら、消化不良で目を回していただろう。多くの旅をし、また、断片的にいろんな本を読み、それらが積みあがった時にこの講座にめぐり合って、本を読んでなお腑に落ちなかった知識が「腑に落ちる」という経験をしている。「知る」ことは「わかる」ことだ。「わかる」ということは楽しい。その道一筋の大学の先生の研究の深さはやはりすごい。まれには、それは違うでしょう??と思うこともあるが、いつも静かに聴いている。

 以下は、先日、その講座で聴いた内容である。

 610年ごろ、預言者ムハンマドがおこしたイスラム教は、わずか100年の間にアラビア半島を出て、ササン朝ペルシャを滅ぼし、エジプト、北アフリカを征服。さらにジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島の西ゴード王国を滅ぼした。西方でこれに対峙したのはフランク王国であり、東方で国境を接したのは、ユスティニアヌス大帝没後、弱体化していくビザンチン帝国だった。

 ビザンチン帝国は、イスラム勢力の軍事的圧迫に加えて、宗教的挑戦も受けた。「イスラム教徒とキリスト教徒はともに旧約聖書を経典として、同じ神を崇めている。神は預言者モーゼを通して、神を象って偶像を造ったり、拝んだりしてはならないと戒めた。にもかかわらず、おまえたちキリスト教徒は、人間の描いた神の像を拝んでいる。十戒の第二条に背いているではないか?!!」。

 726年、ビザンチン帝国皇帝レオ3世は、全ての聖像を破壊する法令を出した。以後、東方教会に「聖像破壊運動(イコノクラスム)」の嵐が吹き荒れる。それより以前のイエスやマリアの彫像は破壊され、絵は削ぎ落とされた。この運動は8世紀を通じて行われ、9世紀の中ほどになって、平面的なイコンのみは許されるようになった。

 宗教(イデオロギー)の純化(原理主義)運動はおそろしい。

 ゆえに、今、6~9世紀のビザンチン美術は、ビザンチン帝国内には残っていない。

 唯一残っているのは、西方・カソリック圏であるイタリアのラヴェンナという小さな町だけである。

 ラヴェンナは、イタリア半島の北部、長靴の付け根近くにある町で、西ローマ帝国がその晩期に、都をローマからラヴェンナに移した。やがて西ローマ帝国が滅びて、イタリア半島に東ゴード王国(宗教はキリスト教)ができてからも、都であり続けた。

 6世紀、ユスティニアヌス大帝は東ローマ帝国から遠征し、破竹の勢いで、かつての西ローマ帝国領の相当部分を回復した。イタリア半島では東ゴード王国を倒し、西方の管理のためにラヴェンナに総督府を置いた。こうして、ラヴェンナにビザンチン様式の美術が登場するのである。

 ユスティニアヌスの没後、ビザンチン帝国の支配力は再び衰え、イタリア半島の中心も再びローマに戻ると、ラヴェンナは歴史からすっかり取り残された。

 歴史から取り残されたラヴェンナには、カソリックの本拠地ローマでさえもう見ることができない初期キリスト教時代の聖堂建築が残り、さらに6世紀のビザンチン美術が残ったのである。

 ポンペイは死んだ化石だが、ラヴェンナは生きた化石と言われる。

 例えば、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の内陣の壁には、左側に「皇帝ユスティニアヌスとその廷臣たち」、右側に「皇后テオドラと女官たちと廷臣たち」のモザイク画が色鮮やかに残っている。

 もう15年近く前だが、ここを訪れたことがある。初めてこのモザイク画を目にした時、聖堂の内陣という聖なる場所に、イエスやマリアの絵とともに皇帝と廷臣の絵や、さらに皇后と女官たちの絵があることに驚いた。あの世は神が、この世は自分が治める、という皇帝ユスティニアヌスの自信・自負心の表れだろうか。

 「皇后テオドラと女官たちと廷臣たち」の中で、きつい顔の皇后テオドラの隣の隣の女性がとても美しいと思って印象に残った。

 今回、講義で、テオドラのすぐ横はユスティニアヌス皇帝のナンバーワンの武官の奥方、さらにその隣の、私が美しいと感動した女性は、その奥方の娘であると教えられた。指が隣の女性に触れているのは、母と娘であることを表しているのだそうだ。

 (「皇妃テオドーラと女官たち廷臣たち」部分 )

 こういうことは、旅行のガイドブックには書いてないし、生半可な本を読んでも書いてない。

 それにしても、全員、正面を向いた素朴な感じの絵だが、黄金色をはじめ色彩が美しく、装飾的で、かえって現代の絵画に近いと思った。

         ★

シナンの神 >

 初めて聖(アヤ)ソフィアを訪れたとき、若きシナンは大きな感銘を受けながらも、なぜか物足りなかった。歳月を経る中で、その理由がシナンの中で次第に鮮明になってくる。キリスト教徒の聖堂がもつ限界 ── 聖堂の中は、人間である芸術家たちが技を競った偶像で満たされている。このような聖堂の中に、神がいるはずがない ……。ここでは、神を感じることはできない。

 「キリスト教の神であろうと、イスラムの神であろうと、シナンにはもうどちらでもよかった。

 その神を、どのような名で呼んでもよい ──

 シナンは、すでに、その認識に達している」。

 「神に固有の名を与えるのは、ある意味ではそれは、神を偶像化することではないかとシナンは思っている。

 神を、この世に現すには、偶像化はふさわしくない。

 どのような姿に似ていてもいけない。それが、人の姿であろうと、動物の姿であろうと、植物の姿であろうと」。 

 「神を何かに似せるとしたら、それは、宇宙に似せなければならない。…… その宇宙の形状は ── 球である。…… そして、その神に意志があるのなら、それは ── 光である」。

        ★

 「シナンが80歳の時に、工事は始められ、それから7年後、シナンが87歳の時に、セリミエ・ジャーミーは完成した。

 ドームの直径は、32m。聖ソフィアのドームの、大きい方の直径と同じ大きさであった。もともとの直径31mよりは大きい」。

 「人の気配は、その建物にはなかった。あるのは、空間と、そこに溢れる光。

 そして、数学。

 そして、美。

 そして ── 日中、どの方向からも、ドームの内部には陽光が差し込み、その光が内部を満たした。

 イスラム世界における、ドーム形式のモスクは、その巨大さにおいても、芸術性においても、ここにその頂点を得たのである」。 

             ★   ★   ★

聖(アヤ)ソフィアを見学して >

 「神を何かに似せるとしたら、それは、宇宙に似せなければならない」…… というシナンの、或いは夢枕獏の想像するシナンの宗教観は、一神教というより、汎神論に近い。日本人の神に近づいている。

 そこまで考えを進めるなら、もう一歩進めて。

 本当は巨大な大聖堂も、大モスクも、大寺院も必要ないのではないか。それは所詮、人間のつくったもの。神はそこにはいらっしゃらぬ。

 山、霧、風、岩、滝、樹木、そして岬 …… そこに神の存在を感じる人に、神はこたえる。

 日本の神道は建物の中に入って礼拝しない。本来、社は必要とせず、聖なる空間の杜(森)の気に包まれて、神々を感じる。

 神社の杜(森)は、神々の気配。杜は宇宙につながっている。

 四畳半の茶室に空いた小さな窓に映る樹木の影から、日本人は天地宇宙を想像する。

          ★

 ただし、世界には、いろんな暮らし・文化・宗教があって、そこが面白い。

 だから旅もするし、本も読む。

 困るのは、唯我独尊の思想。自己を絶対視する宗教。いろいろあっていい。 

 

 

 

 

 

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イスタンブールの旧市街散策へ … トルコ紀行(13)

2018年09月08日 | 西欧旅行…トルコ紀行

  ( 金角湾とスレイマニエ・ジャーミー ) 

第10日目 5月22日

 今日は、イスタンブールの旧市街の中心部、スルタンアフメット地区を見学する。

 朝はゆっくりと10時にホテルを出発した。

 新市街にあるホテルからバスに乗って、旧市街の入り口であるガラタ橋まで行く。そこからは徒歩で、橋を渡って旧市街へ入る。

         ★

ガラタ橋から往時の古戦場・金閣湾を望む > 

 イスタンブールの人口は約1300万人。

 町の中心部のヨーロッパ側は、ボスポラス海峡から入り込んだ金角湾によって、旧市街と新市街に分かれている。ガラタ橋は、この二つの街を結んで、金角湾に架けられた橋である。

 橋の上に立つと旧市街の景色を一望できるから、世界からやって来た観光客でいつも賑わっている。

 金角湾は、ボスポラス海峡がマルマラ海と合流する直前で、その西岸がヨーロッパ側に入り込んで、旧市街と新市街を分けているが、イスタンブールの市街はボスポラス海峡の対岸のアジア側にも広がっている。

 一つの町に、ヨーロッパとアジアがある都市は、他にはない。

 下の写真の手前の海が金角湾、そこに半島のように、右からヨーロッパ側の旧市街が突き出している。半島の向こう側の海はボスポラス海峡。その向こうに横たわるのがアジア側である。

   ( 右の半島がヨーロッパ側、その向こうがアジア側 )

 1452年、ビザンチン帝国を倒してコンスタンチノープルを手中にしようと決意したメフメット2世は、まずルーメリ・ヒサールを築いてボスポラス海峡を制圧した。これに対して、ビザンチン側はボスポラス海峡から入り込む金角湾の入り口を巨大な鎖で封鎖して、金角湾への敵の軍船の侵入を防いだ。今の旧市街側が「城」とすれば、城を守る巨大な「堀」が金角湾で、その堀への軍船の侵入を封じたのである。

 コンスタンチノープルの町は、三角形の二辺を金角湾とマルマラ海によって囲まれているから、金角湾への侵入を防いだら、主戦場となるのは唯一の陸側、テオドシウス城壁であった。

 だが、戦いが始まって、攻めあぐねると、20歳を過ぎたばかりのメフメット2世は、多数の軍船を山越えさせて金角湾に浮かべるという奇跡の大作戦をやってのけたのである。

 この圧倒的なパワーを目にしたビザンチン側の衝撃は大きかったが、もともと遊牧民族だったオスマン側は海戦に自信がなく、少数のヴェネツィア軍船を恐れて金角湾の片側に終結したままだった。ビザンチン側の手薄な兵力をさらに金角湾側に分散させるとともに、心理的な圧迫を図った作戦で、主戦場は最後までテオドシウス城壁の長い戦線だった。

 だが、テオドシウス城壁が破られ、敵軍が潮のごとく押し寄せて、もはやこれまでと、撤退を余儀なくされた生き残りの将兵たちは、金角湾に待ち受けていたヴェネツィアの船に乗り込めるだけ乗り込んで、マルマラ海からエーゲ海へと脱出したのである。

 時代を経て、現代の金角湾は、何十艘もの軍船が浮かんで対峙した緊迫の戦場は今はなく、湾側からの攻撃に備えて城壁の上から見下ろす守備兵の姿も城壁さえもなく、西洋的で、しかしエキゾチックな雰囲気も多分にある、平和でのどかな湾に、多くの遊覧船や豪華客船が浮かんでいる。

  ( 金角湾に臨むビザンチン側の城壁の跡 )

 日がな一日、橋の上から釣り糸を垂らす大勢のおじさんたちも、イスタンブールの一つの風物詩となっている。

 その向こうに見えるのは新市街で、かつて物見の塔であり、今も観光客の展望台であるガラタの塔が近代建築の上に聳えている。

    ( 魚釣りのおじさんたち )

 橋は二層になっており、下はレストラン街。鯖サンドが名物だ。

   ( 二層になった橋 )

 橋の上から、モスクの見える旧市街の眺めをしばらく堪能する。太陽が沈む時間が良いと、いろんなものに書いてある。旅人の時間である。

        ★

建築家シナンのこと >

 金角湾越しに眺める旧市街の景色のなかで、ひときわ存在感を示しているのはスレイマニエ・ジャーミーである。

      ( スレイマニエ・ジャーミー )

 当「トルコ紀行」の第2回で、夢枕獏の『シナン』という本のことを少し紹介した。

 スレイマニエ・ジャーミー (モスク) を建造したのが、この小説の主人公ミマール・シナン(1488~1588)である。

 聖(アヤ)ソフィアを超えるジャーミー (モスク)を建造したいというのは、オスマン帝国の歴代のスルタンの悲願であった。シナンは、その願いをついに実現した偉大な建築家である。あのミケランジェロやガリレオ・ガレリイとほぼ同時代の人であった。

夢枕獏『シナン』から

 「 … オスマントルコは、ヨーロッパとアジアに覇を唱え、巨大な帝国を築いてゆくのだが、コンスタンチノープル陥落以来、キリスト教国から、120年余りも言われ続けてきたことがあった。

 曰く ── 『野蛮人』。

 『トルコ人は、他人が築き上げたものを奪うことはできるが、文化的には極めて劣っている。それが証拠に、聖ソフィアより巨大な聖堂を、彼らは建てることができないではないか』

 聖ソフィアよりも大きなモスクを建てること ──

 これが、オスマントルコ帝国の歴代の王(スルタン)の夢となった」。

 「これを、コンスタンチノープルが陥落してから122年後、ミマール・シナンという天才建築家が成し遂げてしまうのである。

 トルコのエディルネに建てられたモスク、ラリミエ・ジャミーがそれである。ドームの直径32m」。

 ラリミエ・ジャミーの建造を始めた時、シナンは既に80歳だった。エディルネは、トルコ共和国の最北部、今はギリシャとの国境に近い古都である。

 ここ、イスタンブールのスレイマニエ・ジャーミーは、オスマン帝国の最盛期を現出したスレイマン大帝の命によって、シナンが69歳のときに完成した。今でも、イスタンブールで最も壮麗なモスクと言われる。

 「中央ドームの直径は、26m。聖ソフィアに比べれば、5m小さいが、それでも、それまでオスマントルコが産んだドームの中では最大のものとなった」。

 モスクの裏の緑に包まれた庭にはシナン制作によるスレイマン大帝の霊廟もあるそうだ。シナン自身の墓もあるらしい。

 このツアーは(どのツアーもそうだが)、スレイマニエ・ジャーミーに行かない。シナンの最高傑作であるエディルネのラリミエ・ジャミーにも行かない。要するに、大手のツアー各社の企画はマンネリで、画一的で、「従来どおり」で、不勉強なのだ。

         ★

もとは香辛料や薬草専門の市場だったエジプシャンバザール > 

 ガラタ橋を旧市街側へ渡ると、橋のたもと近くにエジプシャンバザールがある。イスタンブールで2番目に大きい屋根付きの市場だ。

 

    ( エジプシャンバザール )

 すぐそばにあるモスク、イェニ・ジャーミーを運営するための事業の一環として建造されたという。

 もともとは、オスマン帝国の支配下にあったエジプトなど北アフリカからの香辛料と薬草専門の市場だった。

 今は、香辛料やハーブの店もあるが、貴金属店、さまざまな食料品の店、日常雑貨の店などが並び、世界から訪れる観光客をねらったちょっとした土産物になりそうな物も売っている。ガイドのDさんは、最近は商品の品質が悪いからと、あまり勧めない。手作りのタイルを売る店など1、2軒だけ紹介した。

   ( イェニ・ジャーミー )

 エジプシャンバザールを出て、鳩の舞うイェニ・ジャーミーの前の広場を通り、スルケジ駅舎へ行く。

         ★

オリエント急行の終着駅だったスルケジ駅舎 >

 ここはかつてオリエント急行の終点の駅だった。

 オリエント急行は、19世紀の末に、パリとイスタンブールを結ぶ国際寝台列車として営業が始まった。パリ ─ ストラスブール ─ ミュンヘン ─ ウィーン ─ ブタペスト ─ ベオグラード ─ ソフィア  ─ イスタンブールを結ぶ。

 魅力的な鉄道コースだが、今は世の中が進歩し、航空機網も整備され、「オリエント急行」を名乗っているのは、様々な観光用の列車である。

   ( スルケジ駅のホーム )

 オリエント急行に関する展示室があり、クラッシックな駅舎が公開され、ホームの一部がレストランになっている。

   ( スルケジ駅の待合室 )

   ( レストランのテラス席 )

 ここで我々も昼食をとり、午後は、このツアーのハイライトである聖(アヤ)ソフィアへ向かった。

 

 

 

 

 

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イスタンブールまで … トルコ紀行(12)

2018年09月01日 | 西欧旅行…トルコ紀行

第8日目 5月20日 時に小雨

 8時にカッパドキアのホテルを出発した。今日は、黒海地方へ向けて450キロ、7時間半の長いバスの旅である。

 目指すのは、サフランボルという世界遺産の小さな町。

 最近は世界遺産も増えてきて、わざわざ1日をかけて移動し、1泊してまで行かなくても、という見学地もある。私としては、イスタンブールへ直行してほしいのだが、仕方がない。

 それでも、異郷の風景を眺めながら、バスや鈍行列車に乗って旅をするのは好きである。

 途中、トルコの首都アンカラで昼食休憩がある。その前に「カマン・カレホユック考古学博物館」に寄る。

         ★

カマン・カレホユック考古学博物館のこと >

   ここは、日本の中近東文化センターによって、1986年以来発掘調査が続けられている遺跡である。

 2008年に、世界最古の鋼が発見された

 2010年に、日本の資金で、発掘品を展示するための考古学博物館が建設・開館された。

 こんもりした緑の丘が、発掘調査されている遺跡の丘だ。そこが考古学博物館の施設にもなっている。

 

  ( 考古学博物館のある遺跡の丘 )

 玄関の両サイドには、発掘された動物の石像が置かれている。まさに狛犬の風情。

   ( 考古学博物館の玄関 )

 玄関を入ると、中央に発掘現場の丘の模型が置かれていた。 

  もらったパンフレットによると、丘は径280m、高さ16mとある。ごく小さな丘で、卑弥呼の墓と言われる箸墓程度の大きさである。

 だが、この小さな面積の丘に、遥かなる人類の歴史が残されていた。

 その一番上の層は、AD15世紀~18世紀のオスマン帝国時代の遺跡。

 そこから、一気に、遥かに、時代は遡って、第2の層は、BC400年~BC1200年の鉄器時代の遺跡。ちなみに、トロイ戦争はBC1200年ごろのこととされる。

 第3層は、~BC1900年の中・後期の青銅器時代の遺跡。

 そして、第4層は、~BC2300年の前期青銅器時代である。

 しかも、その下には新石器時代の遺跡があると考えられており、今も発掘が進められている。

 青銅器時代の長さに驚く。

 日本では、青銅器時代はあっという間で、新石器時代(縄文土器の時代)から、わずかに銅剣・銅矛の時代があって、ほとんど一気に鉄器時代へ入るという感があるが、それは、このように遥かに先を行っていた地域の文明がゆっくりと時間をかけて伝播していき、日本に入るときには、青銅器と鉄器がほとんど相次いで入ってきたからだろう。

         ★

 発掘現場と博物館は野の中にある。カマン・カレはもともと、シルクロードの道筋であった。

 

  ( 考古学博物館の丘からの眺め )

ガイドのDさんの話]

 ここカマン・カレは、シルクロードの道筋にあり、遥か遠くインドにもつながる文明の交流点だった。

 現在のトルコ、或いはアナトリアは、38もの人種・民族が混じり合っていると言われる文明の交差点。「純粋なトルコ人」などいません。

 トルコ系の民族、いわゆるテュルク系遊牧民族と言われる人々の、今につながる国は、ウズベキスタン、カザフスタン、タジキスタンなど、「… スタン」という名の付いた国々です。

 ふーむ。そういうことか…。 

 

(ヒッタイト時代の水差し)

 (ヒッタイト時代の印象 )

 考古学博物館の横に日本庭園があるというので、行ってしばらく散策した。正式名は「三笠宮殿下記念公園」。

   ( 日本庭園 )

 気の遠くなるような人類史の発掘調査に情熱を燃やし、この異郷の地で半生を生きる日本人たちもいる。

       ★

< 黒海地方の町サフランボルへ > 

 第一次世界大戦のとき、オスマン帝国はドイツに付いて戦い、敗戦国となった。その結果、オスマン帝国時代に膨張した領土を戦勝国によって切り取られ、戦勝国の植民地にされかけた。

 そのような状況下の1923年、ムスタファ・ケマルがオスマン帝国を倒して、トルコ共和国を成立させた。そして、初代大統領となり、トルコの民主化と近代化を推し進めていった。

 アンカラは共和国時代になってからの首都である。新しい町だから観光の対象もなく、政治と大学だけの静かな街 … なのだそうだ。

 アンカラで昼食をとって、出発した。

  ( アンカラの街の広場 )

 朝、アナトリア半島の中央部のカッパドキアを出発し、アンカラで昼食後、アナトリアの北部、黒海に近いサフランボルまで、さらに3時間半のバス旅だった。

 それでも、あきることもなく、窓外の景色を見て過ごした。トルコは緑が豊かで、日本とも、ヨーロッパとも違っていて、しかし、ヨーロッパにはかなり近い景色で、興趣があった。 

  ( 車窓の景色 )

 夕方、サフランボルのホテルに到着した。

 サフランボルの観光は翌朝の予定である。 

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第9日目 5月21日 

アザーンの声で目が覚める >

 午前3時半ごろ、突然、ホテルの外から、マイクを通した大きな声が聞こえてきて、目が覚めた。独特の抑揚から、近くのモスクが祈りの時間を知らせるアザーンだとすぐにわかった。モスクの神職の神(アッラー)への祈りの言葉が大音量で流されるのだ。それにしても、まことに傍若無人な宗教である。

 イスラム教の祈りの時間は日に5回。最初の祈りの時間は、夜明けの時刻のはずだから、いくら何でも、まだ早い!!

 今はラマダーンだから、いつもより早く起きて、暗いうちに朝食を済ませ、そのあとモスクに来て、夜明けの祈りをせよ、というのだろうか

   そういうことだろうと、確信した。

 ラマダーンの1か月間は、日の出から日の入りまでの14時間ほど断食しなければならない。水も飲んではいけないのだから、きつい。タバコは言うまでもない。空気以外は、摂取してはいけない。こうして、貧しい人の気持ちに思いを致し、施しの心をもつのである。

 トルコ人のガイドのDさんは、ラマダーン期間中だが、バス旅のトイレ休憩の時、離れて一人でタバコを吸っている。(私はマホメットと違って、タバコにも寛容だ)。

 私がマホメットなら、もう一度地上に顕現して、「訂正 水は飲んでもよい。OKだ 熱中症にならないようにネ」と言うだろう。

 ユダヤ教の神殿で人々に対して「戒律(律法)を守れ」と上から目線で説くラビたちを、イエスは、「偽善者」と批判した。善行をなして自分を「善なる存在」とする人間こそ、神から最も遠い存在なのだ。人間の性(サガ)、業(ゴウ)、原罪、悲しみは、表面的に戒律を守ったり、施しをしたからと言って、克服できるものではないとイエスは考える。この点において、イエスの人間観は深い。宗教は、自己を悲しい存在と自覚する人に寄り添う。文学は、悲しい存在のもつ人間の美しさ、いとおしさを描く。

 ラビたちは、「貧しい者に施しをせよ」と教える。だが、全財産を施したら自分も立ち行かなくなるし、家族も養えない。それでは意味がない。ゆえに、「施しは、持てる財産の5分の1を超えないようにせよ」と言った。20%を超えない範囲の寄付で天国に行けるのなら、大金持ちほど天国にいきやすい。

 イエスは、「金持ちが神の国に入るのは、針の穴にラクダを通すより難しい」と言った。

 もちろん、現代の税制は、大金持ちに対してそんなに甘くない。ヨーロッパでは、貧しくても20%の消費税は納める。

 脱線ついでに、最近読んだ本からもう一つ。

 キリスト教国、例えば、数百年の戦いを経てイスラム教徒をイベリア半島から追い落としたスペインは、イスラム教徒やユダヤ教徒を徹底的に弾圧した。キリスト教に改宗しても、本物の信仰かどうかを試し、疑わしい者は国外追放したり、処刑した。純化主義はおそろしい。

 一方、イスラム教の国は、侵略して支配下に置いた元キリスト教国のキリスト教徒に対して、改宗を求めなかった。それで、イスラム教はキリスト教より寛容だと言う人もいる。だが、塩野七生は『ローマ亡き後の地中海世界』で、このように言っている。イスラム法には「税」という観念がない。マホメットの時代は、富める者が貧しい者に施しをすれば、世の中は成り立っていた。しかし、中世・近世になり、国家ができれば、国家としての財政も必要になってくる。富める者の寄付は、所詮、自分の気休め程度だ。そこで、どうしたか?? 支配地域を広げ、被支配住民であるキリスト教徒やユダヤ教徒から税を搾取したのだ。もちろん、彼らにイスラム教に改宗されたら困るのである。決して人権尊重の観点から、信仰の自由を認めたわけではない。

         ★

サフランボルを散策して >

 サフランボルは、黒海から50キロほど内陸に入った、人口5万人ほどの小さな町だ。かつては交易の要路として栄えた町らしい。

 土塀に木の窓枠の民家が残る街として、世界遺産になった。100年~200年前の民家だから、そう珍しくはない。

 内部を公開している民家を見学し、そのあと、しばらく街の中を散策した。

         ★ 

イスタンブールへ向かう >

 サフランボルからイスタンブールまで410キロ、4時間半の距離だ。

   トルコの黒海地方は、黒海の南側に広がる地味豊かな平野である。そこを、西へ西へと走る。すると、やがてマルマラ海に出る。マルマラ海に出れば、イスタンブールはもう目と鼻の先だ。マルマラ海がボスポラス海峡と出会う所がイスタンブールだ。

         ★

 バスは、マルマラ海の付け根のイズミット湾に差しかかった。

 イズミットは、古代にはニコメディアと呼ばれ、ローマ帝国の東の都であった時期もある。

 イスタンブールとは古来から海上交通で結ばれ、今は高速道路でも結ばれて、一つの大きな経済圏に発展している。

    ( イズミットを走る )

辻邦生『遥かなる旅への追想』から

 「トルコの地中海沿いには、私が『背教者ユリアヌス』を書いていた頃、たえず思い描いたコンスタンティノポリス、ニコメディアなどの町々がある。コンスタンティヌス大帝の名にちなんだこの古代都市の姿を現代のイスタンブールから想像することは難しいが、同じように幼いユリアヌスが育ったニコメディアの姿を現代のイズミットから思い浮かべることも難しかった。いずれも古代遺跡がほとんと失われているからであった」。

    ( マルマラ海 )

 バスは、地図の上で、北の黒海と南のマルマラ海とに挟まれた細長い陸地の、マルマラ海沿いを走っている。

 沿岸一帯は大港湾都市の趣がある。海沿いに大きな工場があり、クレーンが動き、貨物船が浮かび、山側には赤い屋根のマンション群が立ち並んで、その間を無数の車が行き来する高速道路が貫き、実に活気にあふれている。

 バスは、渋滞に入ることもなく、やがてイスタンブールの近郊に差しかかった。 

 

   (イスタンブール近郊)

   ( マンション群 )

 イズミットからイスタンブールのマルマラ海沿岸は、新しく発展しようとする国のものすごいエネルギーにあふれていた。日本やヨーロッパがすでに失ったエネルギーである。

         ★ 

夕刻のスタンブール >

 今夜と明日と、2泊するのは「リッツカールトン」。高級ホテルだ。新市街にあるのっぽビルである。

 そのホテルの一番庶民的な部屋 … だとは思うが、窓からの展望は良い。何よりも、ボスポラス海峡とその対岸が見える。

 夕食は、新市街の和食料理店だった。

 本当に久しぶりに、味噌汁と、握り寿司と、天ぷら。感動した。

 一旦、ホテルに戻ってから、海のほうへ、ぶらぶらと坂道を下りて行ったみた。

 10分ほど歩くと、ボスポラス海峡に臨み、モスクが建ってエキゾチックな趣もあるテラスに着いた。

 テラスにカフェがあったので、海を眺めながら、トルココーヒーを飲んだ。トルココーヒーは深みがあり、美味であった。

   ( ボスポラス海峡に臨むカフェ )

    ( 対岸のアジア側 )

   行き交う船や対岸のアジア側の街を眺めて、しばらくは時の流れに身を任せた。イスタンブールに来た目的が、この時間に果たされたと感じた。

夢枕獏『シナン』から

 「イスタンブール ── コンスタンティノープルは、このボスポラス海峡のヨーロッパ側を中心にして、アジア側にもまたがって発展してきた都市である。

 古代シルクロードの東の端に、人口100万人の都長安があるなら、西への入口にこのコンスタンチノープルがあったのである。

 東と西の文化、人種、宗教、文物がこの街で混然として一体になっていた。

 混沌(カオス)の都市である」。

  ( ボスポラス海峡はマルマラ海に出る )

   ( ブルーモスク遠景 )

 下の写真ののっぽビルが、リッツカールトン。ホテルの部屋の窓の下は、サッカーのイノニュ・スタジアムだった。

 トルコリーグで13回優勝という名門チームの「ガラタ・サライ」に、あの長友佑都がいる。

  ( リッツカールトンとイノニュ・スタジアム )

 2日ほど前のバスの中で、ガイドのDさんが、長友選手の「ガラタ・サライ」の優勝が決まったと言っていた。今夜、ラマダーンの断食の時間が過ぎると、イスタンブールは深夜まで大騒ぎでしょう、と。

         

 

 

 

 

 

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