ドナウ川の白い雲

ヨーロッパの旅の思い出、国内旅行で感じたこと、読んだ本の感想、日々の所感や意見など。

遥かなる歴史の旅・トルコ (その2) … トルコ紀行(ダイジェスト版②)

2018年10月23日 | 西欧旅行…トルコ紀行

    ( カッパドキア地方の村 )

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 遥かなるカッパドキア >

 11世紀後半、衰退するビザンチン帝国のアナトリア地方に、イスラム化したテュルク系遊牧民(テュルク語を話す中央アジアの遊牧民)が侵入し、支配するようになる。やがて彼らは、ルーム・セルジューク朝を打ち立てた。大セルジューク朝の地方政権で、ルームはローマ。都をコンヤに置いた。

 カッパドキアに行く途中、コンヤを見学し、一泊した。草原の風のなかから興った文化も宗教も素朴で、イスラム教・メヴレヴィ教団の祖メヴラーナの遺した書や遺品には、村夫子風情を感じた。

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 旅の6日目。トルコツアーで人気のカッパドキアに入る。

 アナトリア地方の中央部にあたり、山岳・高原地帯で、夏と冬の寒暖差が大きい内陸型気候。そこに大奇岩地帯が広がっている。

 カッパドキアのこの景観は、エルジェス山(3916m)やハサン山(3268m)の噴火によって噴出された火山灰や熔岩が、地学的な年月を経て凝灰岩や熔岩層となり、洪水、風、雨、雪などによって浸食・風化されて、固い凝灰岩のみが奇怪な形象として残ったものである。

 そこに、4世紀ごろから12、13世紀ごろにかけて、迫害を避けて逃げ込み、洞窟教会や洞窟住居をつくって暮らしたキリスト教の修道士や信徒たちがいた。

 彼らが残した遺跡を含めて、この大奇岩地帯はユネスコ文化遺産に登録されている。

 カッパドキア地方の人間の歴史は、様々な民族が交差したトルコの歴史そのものである。

 中央アナトリアに本拠を置いたBC15~12世紀のヒッタイト王国は、人類史上初めて鉄で武装した国である。

 BC6世紀には、東方に興ったペルシャの1州となった。

 アレキサンダー大王の東征のあと、独立王国も建てられたが、AD17年にはローマ帝国の属州として併合される。ローマの分裂後は、東ローマ帝国領となった。

 4世紀の初期キリスト教の時代、迫害を逃れて地下洞窟に人が隠れ住むようになる。

 その後、キリスト教は国教化されるが、11世紀の後半、東ローマ帝国がセルジューク朝との戦いに敗れ、イスラム教徒の遊牧民が多数入ってきてアナトリアを支配するようになると、それから13世紀にかけて、再びキリスト教徒たちがこの荒涼とした大奇岩地帯に逃げ込んで暮らした。

 現在のカッパドキア地方には大小の町や村が点在しているが、荒涼とした土壌の上、冬は寒さが厳しく、夏は乾燥して、農業には向かない。わずかにワイン用のブドウ栽培が行われるだけ。

 収入源はもっぱら牧畜、そして、羊毛を使った絨毯づくり。トルコと言えば絨毯だが、カッパドキアはその本場である。

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アザーンの声で目を覚ます >

 旅の8日目。カッパドキアを出て、サフランボルに着く。

 その翌朝、午前3時半ごろ、突然、ホテルの部屋の外から、マイクを通した大音声が聞こえて、目が覚めた。独特の抑揚は、近くのモスクが祈りの時間を知らせるアザーンだ。

 イスラム教の祈りの時間は日に5回。最初の祈りの時間は夜が明ける時刻だから、いくら何でもまだ早い!!

 今はラマダーンだ。この1か月間、夜明けから日没まで、絶食しなければならない。だから、早く起きて、暗いうちに朝食を済ませ、そのあとモスクに来て、夜明けの祈りをせよ、というのだろうか

 それにしても、傍若無人。住宅街で、こんな時間にこんな音を出せば、日本では許してもらえないだろう。1年に1度の除夜の鐘さえ、うるさいと文句を言うクレーマー住民がいる。

 一度目覚めると、もう眠れない。

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ボスポラス海峡に臨むテラスで >

 旅の9日目。サフランボルを出て、この旅の出発地であり目的地でもあるイスタンブールに午後おそく着く。トルコを半周して、走行距離は約3500キロ。

 久しぶりの和食に感動した。

 夕刻、散歩に出て、ボスポラス海峡に臨むテラス席でトルココーヒーを飲む。コクがあって美味。

 行き交う船や対岸のアジア側の街を眺めて、しばらくは時の流れに身を任せた。トルコ旅行に来た目的が、この時間に果たされたと感じた。

 波の上に、ブルーモスク、聖ソフィア、トプカピ宮殿が並んで見える。

夢枕獏『シナン』から

 「イスタンブール ── コンスタンティノープルは、このボスポラス海峡のヨーロッパ側を中心にして、アジア側にもまたがって発展してきた都市である。

 古代シルクロードの東の端に、人口100万人の都長安があるなら、西への入口にこのコンスタンチノープルがあったのである。

 東と西の文化、人種、宗教、文物がこの街で混然として一体になっていた。

 混沌(カオス)の都市である」。

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あこがれの聖(アヤ)ソフィアで >

 旅の10日目は、旧市街を見学して回った。

 新市街と旧市街の間に金角湾がある。金角湾に架かる橋がガラタ橋。

 橋の上に立てば、旧市街の景色を一望できるから、世界からやって来た観光客でいつも賑わっている。東方からの旅人には言うまでもないが、西洋からの旅人にとってもやはりエキゾチックな風景であろう。

 橋の上に並んで、日がな一日、釣り糸を垂らすおじさんたちも、イスタンブールの風物詩の一つだ。

 金角湾越しに眺める旧市街の景色のなかでひときわ存在感を示しているのは、オスマン帝国最高の建築家とされるシナンの建てたスレイマニエ・ジャーミー。あそこに行きたいが、ツアーの行程表には入っていない。

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夢枕獏『シナン』から

 『聖(アヤ)ソフィアこそ、人が造り出した、最も神がよく見える場所なのだよ』『本当に?』 

  『見れば、その瞬間に、それがわかる』

  『見れば?』 『ああ』。

 だが、聖ソフィアは、21世紀の観光客の目にはガランとして、空虚で、感動はうすかった。ここでは、誰も、神を見ることはないだろう。

 理由は、ここが、「アヤソフィア博物館」になっているからだ。

 例えば、上賀茂神社にしろ清水寺にしろ、国内ばかりか今や世界からやってくる観光客で賑わっているが、しかし、そういう日常性の世界とは別の世界で、神官や僧侶による生きた宗教活動や修行が日々行われ、また、訪れた以上はきちんと手を合わせる多くの名もない日本人の姿があるから、今も日本の文化の一つとして生きているのである。それを見て、見よう見まねであっても作法どおりに参拝する西洋人も多い。

 文化というものの「幹」は、過去から連続する「人々」の日々の生の営み、願い、祈りである。その幹から、枝が出て、花が咲く。「幹」が死んで、押し花を見ても、感銘は薄い。

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 「神を何かに似せるとしたら、それは、宇宙に似せなければならない」…… というシナンの、或いは夢枕獏の想像するシナンの思想は、一神教というより、汎神論に近い。

 そこまで考えを進めるなら、もう一歩進めて ──

 本当は巨大な大聖堂も、大モスクも、大寺院も必要ないのではないか。どうして、そこに神がいるというのだろう??

 山、霧、風、岩、滝、樹木、そして岬 …… そこに神の存在を感じる人に、神はこたえる。

 古神道の心である。本来、社(建物)は必要としない。

 注連縄で囲って、ここは聖なる空間とした境内には、太古の杜(森)がある。杜は自然。その気に包まれ、人は神を感じる。神社の杜は、神々の気配で満ち、宇宙につながっている。

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ボスボラス海峡クルーズ >

 旅の最終日。第11日目の午前中は、ボスポラス海峡クルーズ。

 新市街のはずれのオシャレな地域・オルタキョイの桟橋から船は出港した。

 オルタキョイ・メジディエ・ジャーミィは、19世紀にバロック様式の影響を受けて造られた。白い瀟洒なモスクがボスポラス海峡に臨んで、一幅の絵になっている。

 19世紀のモスクは、15~16世紀のモスクの権威主義的な大きさや重々しさがなく、まるでこの界隈のプリンセスのようだ。 

 

  クルーズ船が出港すると、海上から眺めるオルタキョイ・ジャーミィは物語の中の絵のように美しい。風景の中のモスクの美しさを初めて知る。 

 黒海の方向へ遡った船は、ルーメリ・ヒサールを越えた先の地点でUターンする。ボスポラス海峡30キロの半分あたりの地点だ。これが一般的なボスポラス海峡クルーズのコース。

 

 このまま進めば黒海へ到達する。1日1本だけ、黒海の入口まで行く遊覧船がある。もし個人旅行で来ていれば、往復6時間ののんびりした船旅ができた。

 かつてヴェネツィアの商船は、イスタンブールをさらに遡って、ボスポラス海峡を抜けて黒海に出、黒海各地の港に寄って貿易をした。黒海の各港も定期でやってくるヴェネツィア商船を待っていた。

 ここまで来た以上、黒海の入口まで行ってみたい。

 そこは、人間の目にはただ茫々と広がる大海だろうが、それでも船からその光景を眺めてみたい、と思った。旅は、時々、心を残して終わる。

 宿泊したリッツカールトンが見え、手前にはサッカー場があり、汀にはドルマバフチェ・ジャーミィが佇んで、風情がある。

 金角湾のガラタ橋からUターンして、出港桟橋のオルタキョイへ向かった。

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旅の終わりに >

 この旅で良かったところは??と、問われれば、一番はボスポラス海峡クルーズと答えるだろう。汀のカフェで飲んだトルココーヒーも、美味しかった。

 セーヌ川の遊覧船から、いくつもの橋をくぐりながら見上げたパリの街並みは、端正で、気品があって、しかも哀愁があった。今はもう流行らないが、パリにはシャンソンがよく似合う。

 ヴェネツィアのサンタルチア駅から水上バスに乗ってホテルへ向かったとき、まるで劇場のように海の上に展開する水の都の華麗さに感動した。ハトの群がるサンマルコ広場の楽団の演奏も心楽しかった。

 岸辺のすべての建物が海峡に向かって微笑んでいるようなボスポラス海峡クルーズも、人生を楽しくさせてくれるひとときの旅だった。

 パリのセーヌ川も、ヴェネツィアの運河も、イスタンブールのボスポラス海峡も、歴史と豊かな水のある街並みは印象的である。

 ボスポラス海峡以外で良かったのは??

   旅の初めに見て回ったエーゲ海地方の古代都市遺跡も印象的だった。真っ青に晴れ渡った空と、その下に眠る遺跡。崩れた遺跡の石の間には赤い野の花が咲いていた。

 それらは、明らかに、セルジューク朝、オスマン朝、そして、現代のトルコとは異質の文明である。

 だが、それはそれとして、この旅で心を残した風景もある。

 他えば、オスマン帝国の大軍を防いだテオドシウスの城壁の跡は見ていない。そのどこか、1枚で良いから写真に収めたかった。

 イスタンブールにあるシナン作の2、3のモスクを訪ねたかった。

 黒海の出口まで、ボスポラス海峡を遡りたい。

 聖ソフィアは、もう一度、個人で、ゆっくりと見学したい。

 夕日が沈むころ、ガラタ橋から旧市街を眺めてみたい。

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 観光バスに乗って、朝から日が暮れるまで、あれもこれもと駆け足で見て回る。そういう旅は感動が薄い。

 旅の楽しみは、あれもこれもと見て回るのではなく、日常性を脱し、新鮮な目でものを見、感じるところにある。途中、漂泊感を感じたら、旅らしい旅である。

 「歳月は人を深くする。旅もまた、人を深くする」。(夢枕獏『シナン』から)

 

 

 

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遥かなる歴史の旅・トルコ(その1) … トルコ紀行(ダイジェスト版①)

2018年10月20日 | 西欧旅行…トルコ紀行

 ( ダータネルス海峡からエーゲ海を望む )

ダータネルス海峡を渡ってエーゲ海地方へ

   トルコ共和国は中東の国々の一つに分類されるが、国土の北の一部はヨーロッパにある。

 アジア側とヨーロッパ側との境には、黒海、トルコの内海といわれるマルマラ海、そして二つの海峡がある。

 ボスポラス海峡は、黒海の西南端から流れ出る。「流れ出る」というのはおかしいが、黒海にはドナウ川をはじめ大河が流れ込んでいるから、黒海から地中海(エーゲ海)へ向けて、川のような流れがあるらしい。

 ボスポラス海峡はマルマラ海の東に流れ込み、マルマラ海の西から再びダータネルス海峡となってエーゲ海に出る。

 古来から、ボスポラス海峡→マルマラ海→ダータネルス海峡が、アジアとヨーロッパを分ける境とされてきた。

 旅の2日目の朝、ヨーロッパとアジアにまたがる大都市イスタンブールの郊外のホテルを出て、マルマラ海の北岸、続いてダータネルス海峡の北岸(ヨーロッパ側)をひたすら走った。そして、もうすぐ大地が終わってエーゲ海になるという手前でフェリーに乗った。バスごと乗船したが、要するにダータネルス海峡をアジア側に渡る渡し船である。

 船上から望むと、対岸のアジア側の街は遠くに見えるが、来し方のマルマラ海の方も、反対のエーゲ海の方も、ただ茫々と広がる海だった。

 狭い海峡だから、約1時間で対岸に着く。

 対岸へ渡ると、南へ南へと、エーゲ海地方を南下する。ここは、ヨーロッパ文明の発祥の地である。陽光輝く太陽の下、これから3日間は古代都市遺跡をめぐる旅となる。

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今は何もない廃墟のトロイ >

 そのとっかかりはダータネルス海峡がエーゲ海に出たすぐの地。古代海上交通の要衝の地に、遥かに遠い昔に栄えて滅びたトロイの遺跡がある。

  ( トロイの城塞の廃墟 )

 シュリーマン(1822~1890)がトロイの発掘をして、すでに相当の歳月が過ぎた。

 シュリーマンの死後も引き継がれている発掘調査によると、トロイには9層にも渡る遺跡が重なっていた。

 シュリーマンが「ついに発見した」と思って発掘したのはその第2層で、「BC2500年~BC2200年ごろのトロイ」だった。

 彼が目ざしていた「ホメロスのトロイ」は第7層のもので、BC1200年代のものだった。その第7層は、2層まで掘り進める過程で、シュリーマンによって破壊されてしまっていた。シュリーマンの想像をも超える茫々たる人間の歴史である。

 発掘された「トロイの財宝」はシュリーマンによって持ち出され、今、ここで見ることができるのはトロイの城塞の廃墟の一部だけである。

 古びた瓦礫の石の間に赤い野の花が咲いていた。

 それでも、ここがあの「トロイのヘレン」のトロイかと、歴史のかなたに思いを馳せることはできた。

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古代都市遺跡エフェソスを歩く >

 旅の3日目は、ヘレニズム時代~ローマ時代の遺跡であるベルガマを見学し、午後は同じ時代に栄えたエーゲ海地方の最大の古代都市遺跡エフェソスへ行く。

 エフェソスの遺跡に入る前に、その郊外の山中に、「聖母マリアの家」を訪ねた。 

 エーゲ海沿岸の地は早くからキリスト教が伝えられ、使徒時代のキリスト教会の動向を知るうえで必須の地である。そのなかでも、古代都市エフェソスは、12弟子の一人である使徒ヨハネが担当した教区とされる。イエスに最も愛された弟子ヨハネのそばには、イオスの母マリアもいたはず、…  と福音書からは読み取れる。

 バチカンから贈られた「聖夜」の像の横の石段を上がれば、聖母マリアが晩年を過ごしたという小さな石造りの家があって、「聖地」の一つに指定されている。

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  ( エフェソスの都市遺跡 )

 石造りの建物の廃墟が並ぶクレテス通りを下っていく。やがて、ケルスス図書館の廃墟に出会った。

 ローマ帝国のアジア州の執政官だったケルススの死後、その息子が父の墓室の上に記念に築いた図書館だという。12000冊の蔵書があり、当時、アレキサンドリア、ベルガモンと並ぶ3大図書館の1つとされた。

 「廃墟の美」という言葉がある。壮麗な古代建築が今は廃墟となって、古びた大理石のやわらかい色合いと、その陰影が、圧倒的に迫ってくる。

 正面の大理石の柱の間に、知恵、運命、学問、美徳を象徴する女性像が置かれて、美しい。

 図書館からまた少し歩くと、古代の大劇場があった。

 直径154m、高さ38mで、2万4千人を収容できた。演劇の上演のほか、全市民集会にも利用されたらしい。

 エーゲ海の青空の下、しばらく石の席に座り、古代の夢でも見ていたい気分だった。

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古代都市アフロディシアスを歩く >

 旅の4日目に訪ねたアフロディシアスも、BC2世紀~AD6世紀に栄えた古代都市だ。名のとおり愛と美の女神アフロディーテ(ヴィーナス)に捧げられた町である。

 遺跡は広々とした野っ原の中にあった。昨日のエフェソス遺跡のように古代都市遺跡として凝縮しておらず、広々として、のどかで、気持ちが良い。

 今日もエーゲ海地方は晴天で、湿度は低いが、日差しは日本の真夏のようだ。さえぎる木陰も建物もない。

 昔、このあたりには壮麗なアフロディーテ神殿があった。今は、神殿の庭の入口の門・テトラビロンが残るのみ。

   気持のよい野原の小道をたどって行くと、野の花が咲く草むらのそこここに遺跡や遺構が残っている。まだまだ発掘中で、いつまでかかるか、わからないという。

 やがて、古代の競技場の遺跡に出た。ローマ式のスタジアムである。長さ262m、幅59m、3万人の観客を収容する階段状の客席が残っている。

 現代のローマにもフォロ・ロマーノの向こう側に広大な馬蹄形の競技場が残っていて、映画『ベン・ハー』を思わせるが、この競技場のように客席まできちんと残っているのは珍しいそうだ。

 競技場を飾っていた数々の彫像も付属の博物館にあり、整備し直せば古代ローマ式スタジアムが再現できるほどに、全体の保存状態は良いそうだ。

 ただし、再現するより、今のままの方がいい。再現したら、ディズニーランドか、ハリウッド映画のセットのようになってしまう。それは興覚めだ。 

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トルコの田園風景 >

 3日間、エーゲ海地方のヘレニズム時代からローマ時代の遺跡を見て回った。基盤が遊牧民文化である現代のトルコ共和国とは、直接にはつながらない文化である。現実世界とはかけ離れた、遠い古代都市の廃墟を見てまわって、堪能した。エーゲ海地方の青空も、古代遺跡も、心に残った。

 旅の5日目。エーゲ海地方を後にして、豊かなアナトリア地方の高速道路を、東へ東へと、丘を越え野を越えて走った。

 トルコの国土について触れる。

 最盛期のオスマン帝国(スレイマン大帝時代)の領土は、昔日の東ローマ帝国の領土に重なるほどに広がっていた。

 その後、第2次ウイーン包囲の大敗北の後、ハプスブルグに押し戻され、ロシアに圧迫され、第一次世界大戦において決定的な敗戦国となり、その都度、領土を失っていった。

 それでも、今、日本の国土の約2倍の広さがある。

 現在のトルコ共和国は、イスタンブールを中心とした小さなヨーロッパ側と、その南に広がる広大なアジア側に分けられる。

 トルコの国土の大部分を占めるアジア側は、東西に長い四角形の形をしたアナトリア半島である。古くは「アジア」と呼ばれていたが、アジアはさらに東へと広大な大地が広がることがわかり、「小アジア」と呼ばれるようになった。

 「アナトリア」とも呼ばれるが、これは、東ローマ帝国時代に、エーゲ海に面した西岸地方に軍管区が置かれ、「アナトリコン」と名付けられたことに由来する。「アナトリコン」とは、日出る所という意味だそうだ。

 このアナトリア半島は、北を黒海とマルマラ海(二つの海峡によって結ばれている)、西をエーゲ海、南西は地中海に囲まれていて、地続きは南東と東だけである。 

 これを更に分ければ、6つの地域になる。

 ①エーゲ海地方と、その南の②地中海地方は、風土も文明も想像がつく。ヨーロッパ的だ。

 それに、③中央アナトリア地方、④イラク、シリアと国境を接する南東アナトリア地方、⑤ジョージア(グルジア)、アルメニア、イランと国境を接する東アナトリア地方、⑥緑豊かな黒海の南岸地方 となる。

 このツアーは、①→③→⑥の一部、そしてイスタンブールを回る。④⑤、特に④は、外務省が危険レベル4(退去してください)や3(渡航はやめてください)としている地域を含んで、ふつう、旅行社の企画するツアーは行かない。

 イスタンブールも安全というわけではない。レベル1(十分注意してください)である。日本のツアーは、レベル1なら、注意しながら行く。

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 車窓の景色は豊かな田園風景で、緑が目にやわらかく、見飽きることがない。 

 ケシの花畑がある。一面に白いケシの花が咲く光景は清楚で、ピンクの花の咲くケシ畑はロマンチックである。

 途中の休憩では、蜂蜜入りのヤギのヨーグルトを食べてみた。チャイとよく合って、とても美味であった。

(「遥かなる歴史の旅・トルコ(その2)」に続く)

 

 

 

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ボスポラス海峡とトプカビ宮殿 … トルコ紀行(最終回)

2018年09月27日 | 西欧旅行…トルコ紀行

  ( 船上からオルタキョイ・ジャーミィ )

第11、12日目 5月23日、24日

 今日の午前中は、ボスポラス海峡クルーズ。昼食後は、トプカビ宮殿を見学する。

 そのあとは、イスタンブール空港へ行き、21時20分発の大韓航空に搭乗して、ソウル経由で帰国する。 

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オシャレな街オルタキョイ

 このツアーの「ボスポラス海峡クルーズ」は、オルタキョイの桟橋から出港する。ツアー専用の貸切クルーズ船だ。

 出港の時間まで、しばらくオルタキョイを散策した。

 ボスポラス海峡に架けられた橋がある。その名も、ボスポラス大橋。

   オルタキョイは、ボスポラス大橋のヨーロッパ側(新市街)のたもとにある街の名である。

  ( ボスポラス大橋・対岸はアジア側 )

 旧市街の歴史地区を観光し、金角湾に架かるガラタ橋を渡って新市街に入ると、街は現代的なブランドショッピング街になる。観光客がたくさん歩くのは、この辺りまで。

 オルタキョイは、そういう華やかな地域を少しはずれて、小さなショップやカフェが並び、若者たちが集まってくる、ちょっとオシャレなエリアである。

 この街のシンボルは、オルタキョイ・メジディエ・ジャーミィ。白い瀟洒なモスクがボスポラス海峡に臨んで、一幅の絵になっている。

  ( オルタキョイ・ジャーミィ )

 ドルマバフチェ宮殿と同じ建築家の設計で、19世紀の中頃に完成した新しいモスクである。西欧的な美意識を取り入れたバロック様式で、この街のオシャレな雰囲気もこのモスクのたたずまいがあってのことだろう。 

  ( モスクの入口 )

 時間があるので、モスクに入ってみた。モスクの中は絨毯が敷かれているから、靴を脱ぎビニール袋に入れる。女性はスカーフが必需品だ。トルコ旅行も最終日になると、モスクに入るのも、見よう見まねで慣れたものだ。

    ( モスクの中 )

   ( 天井のドーム )

 伽藍の中は、正面にメッカの方向を示すミフラーブがある。

 19世紀のモスクは、15~16世紀のモスクの権威主義的な重々しさがなく、華やかで、かつ、軽やかである。         

         ★

ボスポラス海峡クルーズを楽しむ >

 集合時間になり、クルーズ船に乗り込んだ。

 ボスポラス海峡は、黒海とマルマラ海とを結んで、およそ30キロ。地元の各社が競う「ボスポラス海峡クルーズ」は、どれも30キロの半分の辺りで折り返す。船内放送のガイドがあれば、往きはヨーロッパ側、復路はアジア側の説明になる。

 黒海には、ドナウ川やドニエプル川などの大河が流れ込むから、黒海からマルマラ海へ向けて、ボスポラス海峡には川のような流れがあるそうだ。

 マルマラ海に出る直前、ヨーロッパ側に金角湾が入り込み、大都イスタンブールがある。

 マルマラ海は大きな湖のような内海で、そこからまたダータネルス海峡を経て、地中海の出口であるエーゲ海に出る。

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 クルーズ船が出港すると、海上から眺めるオルタキョイ・ジャーミィは、物語の中の絵のように美しい。風景の中のモスクの美しさを初めて知る。 

  ( 美しいオルタキョイ・ジャーミィ )

 船中では、次々に目に映じて移りゆく景色を、ガイドのDさんが船内放送を使って、ほぼ完璧な日本語で、拍手を送りたくなるほど簡潔かつあざやかに説明してくれる。

 船は、オルタキョイの桟橋から北へ進み、黒海の方向へ向かって遡っている。折り返して反対方向へ向かえば、金角湾のあるイスタンブールの中心街である。

 このあたりの水辺には、世界的に著名な企業オーナーなどのお金持ちの別荘が建っている。「お金持ちになった気分で、どの別荘を買おうかな、などと考えながら眺めるのも楽しいですよ。私はいつもそうしています(笑)」とDさん。

 …… 豪華な大邸宅は管理も大変。私は自分で掃除機をかけられるこの程度で十分です。

  ( 小ぶりの別荘 )

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 やがて、ルーメリ・ヒサールが見えてきた。

 

   ( ルーメリ・ヒサール )

 メフメット2世が、コンスタンチノープルへの攻撃に先立って、ボスポラス海峡を制するためにヨーロッパ側に造らせた城塞だ。万が一、ビザンチン帝国を助けようと西欧の軍船が大挙してやってきて、ボスポラス海峡を自由に遡ったら、オスマン側もたちまち危機に陥る。        

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 ルーメリ・ヒサールを越えた先の地点で、船はUターンした。

 ボスポラス海峡30キロの半分あたりの地点でUターンするのが、ボスポラス海峡クルーズのコースだ。

 

   ( このまま進めば黒海へ )

 もし個人旅行で来れば、1日1本だけ、黒海の入口まで行くコースがあって、一日のんびり船旅ができる。

 既に、中世の時代から、ヴェネツィアの商船は、イスタンブールからさらに遡って、黒海各地の港に寄る定期航路を確立していた。

 黒海の入口まで行ってみたい。

 黒海の入口まで行っても、人の目に見えるのは、太平洋と同じただ茫々と広がる大海だろうが、それでも船からその光景を眺めてみたいと思う。

 昔、雪の秋田で列車を降りた時、「白鳥」のテールランプを見送りながら、たとえ夜汽車で景色は見えなくても青森まで行ってみたいと、心を残した。旅は、時々、心を残して終わる。        

         ★

 アナドル・ヒサールは、メフメット2世以前から、アジア側にあった要塞である。メフメット2世は、その対岸のヨーロッパ側にも、ルーメリ・ヒサールを造らせた。ここは、海峡が最も狭まった地点である。

 今は、古城は脇役で、瀟洒な別荘が景色の主役である。

   ( アナドル・ヒサール )

 Uターンして引き返し、出発地のオルタキョイを通り過ぎると、 ドルマバフチェ宮殿が見えてくる。

  ( ドルマバフチェ宮殿 )

 この白い大理石の宮殿は、トプカピ宮殿があまりにも時代おくれになったとして、1853年に新たに建てられたスルタンの新宮殿である。

 確かに、トプカピ宮殿は、ハーレムの印象も、殺された妃や王子の血の匂いも、そこを取り仕切る黒人宦官たちのイメージも、すべてが暗くて、魑魅魍魎の非近代的な世界だ。

 モデルになったのは、ヴェルサイユ宮殿やハプスブルグのシェーンブルン宮殿だろうか。たたずまいが似ている。

 今は、多くの観光客でにぎわうイスタンブールの観光名所の一つである。

 私は過去にヴェルサイユ宮殿もシェーンブルン宮殿も見学する機会があったが、専制君主の「豪華絢爛」を見ても、「文化」や美しさは感じなかった。なにしろ、4畳半の簡素な茶室の竹筒に生けられた1輪の椿を美しいと感じる室町将軍の民族的・文化的末裔であるから。

 この宮殿のあるあたりは、メフメット2世がコンスタンチノープルを攻めた時、封鎖された金角湾に軍船を入れるため、70艘もの軍船を陸揚げした所だ。ここで陸揚げし、牛と人力で丘を越えて、金角湾に浮かべて見せた。守るビザンチン側に圧倒的なパワーを見せつけたのだ。

 宮殿のすぐ先に、宿泊したリッツカールトンが見えてくる。汀には、小ぶりのドルマバフチェ・ジャーミィが佇んで風情がある。18世紀、19世紀に建てられたモスクは、いかにも瀟洒で、風景にアクセントを与えて、美しい。一昨日の夕、その横のテラスでトルココーヒーを飲んだ。

  ( リッツカールトンとモスク )

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 やがて、金角湾とガラタ橋が見えてきた。

 レストランが並ぶガラタ橋の向こうに、シナン作のスレイマニエ・ジャーミィが印象的である。

  ( ガラタ橋とスレイマニエ・ジャーミィ )

 続いて、聖(アヤ)ソフィアも姿を見せる。

   ( 聖ソフィア )

 下の写真のこんもりした丘は、その昔、アクロポリスの丘だった。コンスタンチノープルを陥落させた後、メフメット2世はこの海を見下ろす丘に宮殿を建てた。トプカピ宮殿である。見えている塔は、宮殿のシンボル「正義の塔」(別の名は「ハーレムの塔」)。

 

  ( トプカビ宮殿の丘と「正義の塔」 )

 下の写真は、旧市街とは反対方向の新市街。ガラタの塔が見える。

 

    ( ガラタ橋と新市街 )

 出発点のオルタキョイに引き返して、クルーズは終わった。

 この旅で一番良かったところは??と、問われれば、ボスポラス海峡クルーズと答えるだろう。一昨日の夕、ドルマバフチェ・ジャーミィのそばの汀のカフェで飲んだトルココーヒーも、美味しかった。

 パリのセーヌ川を行き来する遊覧船に乗って、次々と橋をくぐりながら見上げたパリの街並みは、ただただ美しく、気品があって、しかも哀愁があり、感動したものだ。

 ヴェネツィアのサンタルチア駅から水上バスに乗ってホテルへ向かう時、まるで劇場のように展開する海の都の華麗さに、ただ圧倒され、感動しながら眺めたこともあった。

 岸辺のすべての建物が海峡に向かって微笑んでいるようなボスポラス海峡クルーズも、人生を楽しくさせてくれるひとときの旅だった。

 ヴェネツィアの運河も、パリのセーヌ川も、イスタンブールのボスポラス海峡も、歴史と豊かな水のある街並みは印象的である。

          ★

< 「愛と欲望の」トプカビ宮殿 >

 昼食後、トプカピ宮殿を見学した。

 19世紀にドルマバフチェ宮殿へ移るまで、15世紀から歴代スルタンの宮殿だった。ハーレムが有名だが、江戸城が大奥だけでないのと同様、ここは行政府でもあり、のちには帝国議会もあった。行政官養成の学校や、病院や、兵器庫や、貨幣鋳造所などもあり、常時、4、5千人の人々が暮らしていたという。

 宮殿の入口は、聖(アヤ)ソフィアのすぐ横である。

 下の写真の左側は聖ソフィアのミナレット、写真中央に「アフメット3世の泉」があり、右側の城壁と城門がトプカピ宮殿である。

   ( 宮殿の城門の前 )

 第一の門は、「皇帝の門」と呼ばれる。

    ( 「皇帝の門」 )

 「皇帝の門」を入ると、「第一の庭園」。ここには病院や兵器庫、それに、スルタンも食したパンの製造所などもあった。

 

   ( 第一庭園 )

 中門は、「儀礼の門」と呼ばれる。とんがり帽子の二つの塔の間に城門がある。スルタン以外は、ここで下馬した。

 さすがに観光客が多い。

 

    ( 儀礼の門 )

 中門を入ると、第二の庭園。「帝国議会の庭」とも呼ばれた。

 通常でも護衛の兵士は5000人にいた。特別の儀式のときには1万人が庭に整列したという。

 庭園の南側に長々と続く建物は厨房。

 反対側の北東の角には「正義の塔」が建つ。塔のそばにハーレムの入口があるから、「ハーレムの塔」とも呼ばれた。ボスポラス海峡クルーズの船上からも見えたが、イスタンブールのどこからでも見える。

   その下に、帝国議会の建物。その横に「宝物庫」の建物がある。

 

  ( 正義の塔 )

   ( 元宝物庫 )

 メフメット2世(在位1451~81)が、この丘に宮殿を造ったときには、宮殿内にハーレムはつくらず、妻妾たちはそれ以前に使っていた宮殿に残した。

 3代後のスレイマン大帝(1520~66)が初めて寵姫ロクセラーナをトプカピ宮殿に住まわせた。

 さらに2代後のムラト3世(在位1574~95)の時にハーレムができ上った。

 およそ300人くらいの若い美女たちがいたという。スレイマンの寵姫ロクセラーナもそうだが、奴隷として売られていた女性も多い。専制君主の意を受けてハーレムを取り仕切ったのは黒人宦官長と黒人宦官たち。女たちの中で権勢があったのはスルタンの母親だった。

 スルタンが即位したとき、スルタンになれなかった兄弟たちはみな殺された。のちに改善されて、それぞれ、生涯、一室に閉じ込められた。その「鳥かご」と呼ばれた部屋も残っている。子を産まなかった女たちはもちろん、「鳥かご」の母親たちも、新スルタンが即位すれば完全に用なしである。

 つまり、ここに集められた美女たちは一種の奴隷状態で、江戸城大奥のように、身分高く、多くの女性にかしずかれる奥方などではない。

 司馬遼太郎は、中国にあって日本になかったものは、宦官と科挙の試験制度だと言い、なくて良かったと書いている。その二つは、つまりはアジア的専制君主制の支えである。

 この旅行に出る前、BS放送で、トルコテレビ制作のドラマ『オスマン帝国外伝 ─ 愛と欲望のハレム』が放映されていた。1回見て、辟易となり、撤退した。一種の「大奥もの」である。ガイドのDさんによると、トルコでは放送の時間になると町が静かになったという。世界でも8億人が熱狂したそうだ。日本でいえば、ラジオ時代なら「君の名は」、テレビ時代に入ってなら「おしん」だろうか。Dさんが、「日本でも放映されましたが、ご覧になりましたか?」と聞くと、おばさんたちが多数手を挙げた。日本でも、世界でも、おばさんたちは「大奥もの」が大好きなのだ。

 そのドラマの主人公は、ロクセラーナ。スレイマン大帝がロクセラーナをトプカビ宮殿に入れたのは、ロクセラーナの要求もあったろうが、西欧式の一夫一婦制を考えたからである。スレイマンには、そういう啓蒙君主的一面もあった。

 だが、少年時代から兄弟のようにスレイマンを愛し仕えてくれた名宰相イブラヒムを暗殺したのも、イブラヒムをはじめ多くの人々から次期皇帝として嘱望されていた王子(ロクセラーナの子ではない)を殺害したのも、ロクセラーナがスレイマン大帝を口説いて、そうさせたのだ。

 このあたりの経緯は夢枕獏の『シナン』にも出てくる。宰相イブラヒムに従っていたシナンの親友も、この時、殺された。 

 バカな息子であっても、息子がスルタンにならなければ、息子も自分も未来がないのだから、賢いロクセラーナとしては悪女になるしかない。スレイマン死後は、スルタンとなった息子を助けて、密室から宰相たちの会議を盗聴し、陰から政治を動かした。いずれにしろ、どろどろした陰湿な話で、こういうドラマを毎週見ていたら、私は鬱になる。

 さて、宮殿内もハーレムの中もいろいろ見て回ったが、どの部屋も観光客でいっぱいで、写真を撮ろうと思っても、天井ばかり写る。説明にも興味がわかない。

 それでも、スルタンがくつろいだ一番豪華な「皇帝の間」は、ばっちり写真に収めた。シャッターチャンスを待っていたら、置いて行かれそうになった。ここは初めてきた者にとってかなり迷路なのだ。

  

   ( 皇帝の間 )

 「寵姫たちの居住区」は、アパートメントという感じである。

 

  ( 寵姫たちの居住区 )

 観光客の女性たちが庭のベンチに座って談笑しているのを見て、寵姫たちもこのようにしてひと時を過ごしていたかもしれないと、つい想像してしまい、あわててその想念を振り払った。失礼しました。

 宮殿の一番北の端は、ボスポラス海峡やマルマラ海が見下ろせるテラスになっていて、当時も、美しい景色を見ながら食事をしたらしい。トプカピ宮殿で最も明るく、美しい場所だった。

 

  ( 宮殿のテラスから )

        ★

 旅の終わりに >

 旅の終わりに、旧市街のスルタンアフメット地区を見下ろせるセブンホテルの屋上レストランに連れていってもらった。ワインを飲みながら、すぐ間近に、聖ソフィア、ブルーモスク、そしてボスポラス海峡、マルマラ海の景色を楽しんだ。

   ( 聖ソフィア )

      ★   ★   ★

 その夜、21時20分発の大韓航空でソウルへ向かった。

 飛行機が飛び立つと同時に、突然、風邪の症状が一気に出た。そういえば、旅の途中、ガイドのDさんも、一行の中のご主人も、体調を崩して辛そうだった。1人のご主人は、イスタンブールの1日、観光をせず、ホテルの1室で静養された。多分、一行の中には、風邪の潜伏期間という人がもっといるに違いない。

 機内では、葛根湯を飲み、テレビも見ず、本も開かず、ひたすら目を閉じて一夜を明かした。

 翌13時25分にソウル着。15時20分にソウル発。関空着は17時10分。なかなか便利な便である。

  

 

 

 

 

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スルタンアフメット地区をめぐる … トルコ紀行(15)

2018年09月20日 | 西欧旅行…トルコ紀行

       ( スルタンアフメット・ジャーミー )

< ブルーではない「ブルーモスク」 >

 聖(アヤ)ソフィアを出ると樹木の茂る広場があり、広場をはさんで、聖(アヤ)ソフィアと対峙するように「ブルーモスク」が建っている。

 「ブルーモスク」は通称で、正式名称は「スルタンアフメット・ジャーミー」 。

 「スルタンアフメット地区」という名称も、このモスクの名からきている。

 スルタンアフメット地区は、観光でイスタンブールを訪れたら誰もがやってくる一画で、南から北へと、ブルーモスク、聖(アヤ)ソフィア、トプカビ宮殿が並んでいる。広大な敷地をもつトプカビ宮殿の丘の向こうは、金角湾とボスポラス海峡とマルマラ海が合流する海だ。

 スルタンアフメット・ジャーミーは、スレイマン大帝の4代後のアフメット1世の命により、シナンの弟子のメフメット・アーが1616年に建てたモスクである。ミナレットが6本もあることで、目立っている。

 今も現役のモスクだから、見学者は1日5回のお祈りの時間を避けて見学することになる。

    ( ブルーモスクの入口 )

 モスクの前の女性たちはスカーフ姿だが、非イスラム圏からやって来た観光客である。

 「ブルーモスク」は、ドームの直径が27.5m、高さは43mである。6本もミナレットを建てているが、聖(アヤ)ソフィアにも、シナンのモスクにも及ばない。

  ( メッカの方向を示すミフラーブ )

 このモスクについて、『地球の歩き方』や、ネットの旅行社のHPの記事でも、例えば「内壁を飾る2万枚以上のイズニックタイルは青を主体とした非常に美しいもので、… ブルーモスクの愛称で親しまれている」(『地球』)と説明されている。

 「陽春のスペイン旅行」(2013年ブログ)で、イスラム文化の繊細優美さに感動した経験があったから、今回のツアーで期待していた見学先の一つだったが、実際に見た「ブルーモスク」は、「美しいブルーのモスク」というイメージではなかった。

 どうやら一時期、内装を青を基調に塗り替えた時期があったが、その後オリジナルに近い色に戻され、特に青の印象はないというのが真実らしい。

 言葉とは不思議なもので、「ブルーモスク」が独り歩きし、ガイドブックまでもが洗脳されている。だから、そういうガイドブックの予備知識をもって訪れた観光客のなかには、先入観が頭の中で固定化して、「ブルーのモスク」を見たというイメージをもつて帰る人もいるのではなかろうか。

 

             ( 壁面 )

        ( ドーム )

映画の撮影にも使われた「地下宮殿」 >

 次に、スルタンアフメット地区の「地下宮殿」へ行った。歩いてすぐだ。

 「地下宮殿」などと言うから何のことかと思ったが、4世紀のコンスタンティヌス大帝によって造られ、6世紀のユスティニアヌス大帝のときに改造・修復された(のではないかと言われる)巨大な貯水プールのことである。「イェレバタン地下貯水池」。

 イスタンブールをバスで走っているときに、車窓風景としてでも見ることができたらと期待し、結局、今回の旅では見ることができなかったローマ時代の遺跡が二つある。

 一つは、テオドシウスの城壁。

 マルマラ海と金角湾に挟まれた陸側を防禦し、メフメット2世率いる15万の軍勢の猛攻に耐えた6.5キロに及ぶ城壁である。所々寸断されているが、今も、遺跡として残り、修復されて城壁の上まで上ることができる箇所もあるらしい。

 もし、個人旅行で来ていたら、半日は、その城壁に沿って歩いただろう。

 もう一つは、コンスタンティヌス大帝が、この町をローマに代わる東方の都として大改造したとき、その一環として建設が始められ、次のヴァレンス帝のAD378年に完成した水道橋である。

 水の確保は、為政者の重要な仕事である。コンスタンチノープルの20キロ先の森の水源から水路を造り、市街地の1キロほどは巨大な水道橋を建設して水を通した。石積みの水道橋は、今もイスタンブールの旧市街の真ん中あたり、現代の幹線道路の遥か頭上に架かっている。

 水道橋を通って送られた水は、今、「地下宮殿」と呼ばれるようになった巨大な貯水プールへ導かれた。16世紀のコンスタンティノープル陥落以後も修復して利用され、すぐ先のトプカビ宮殿を潤おしていた。

 地下貯水池の面積は143m×66m、高さは9m。28本の大理石の円柱が12列並んで天井を支える、まさに宮殿のような地下建造物で、ローマの土木・建築力というのは、本当にすごい。

 ( 地下宮殿の円柱群 )

 柱の土台の2か所はメドゥーサの巨大な首だ。一つは逆さを向き、もう一つは横向き。

 

 ( メドゥーサの首 )

 メドゥーサはギリシャ神話に登場する怪物。メドゥーサの目を見ると、石になってしまう。伝説によれば、半神の英雄ペルセウスによって退治され、首を切り落とされた。

 巨石に彫られた首は、この貯水池の泥に沈んでいた。発見されたのは1984年である。

 メドゥーサを柱の土台にした意味は、特にないと思う。コンスタンティヌス大帝は、信仰の自由を謳ってキリスト教を公認し、実はコンスタンティノープルを、異教的なローマに代わるキリスト教の新しい都にしようとした。だから、都の建設に当たっては、この町や周辺の町にあったギリシャやローマの神殿や神像なども取り壊して、石材としてこのように無造作に使用したのだ。キリスト教が皇帝権力を取り込んで、異教・異文化への迫害をする時代にさしかかってきていたのである。

 「地下宮殿」がまだ一般公開されていなかった頃、映画007シリーズの傑作と言われる『ロシアより愛をこめて』の撮影現場に使われたそうだ。昔、その映画は見たが、ここが登場する場面はまったく覚えていない。ツタヤで借りてもう一度、見てみよう。

 もう一つある。トム・ハンクス主演の映画『インフェルノ』。「インフェルノ」とは地獄編の意。『ダ・ヴィンチコード』『天使と悪魔』に続く3部作の3作目である。

 ここを4日間借切って、クライマックスの場面が撮影されたそうだ。もちろん、アクション場面は別の場所にセットが組み立てられた。『インフェルノ』には、聖ソフィアやグランドバザールも、少し登場するそうだ。

        ★

かつて東西貿易で賑わったグランドバザール >

 少し歩くと、グランドバザールがある。

 この町には、コンスタンチノープル時代から、東西交易によって、多くの商品と財が集まってきた。

 その繁栄の象徴が、中東で最大と言われるこの屋根付き市場。かつては奴隷も、宝石も、あらゆるものが取引された。

 イスラム世界では、中近世になっても、奴隷はいた。地中海沿岸のヨーロッパ側の町は、アフリカからやってくる強力なイスラムの海賊集団に絶えず襲われた。彼らは物を奪い、人(キリスト教徒)をさらっていく。人は奴隷として売買され、働かされた。(参考 : 塩野七生『ローマ亡きあとの地中海世界 上、下』)

 グランドバザールには、21の門があり、今も4400軒の店が入っているとか。

 21の門の1番は、ヌネオスマニエ門。立派な紋章で飾られている。

     ( ヌネオスマニエ門 )

 『地球の歩き方』になかなかの名言があった。今は、「買い物をする所というより、存在そのものが見どころとなっている」。

 金、銀、宝石、時計、アンティークなどの装飾品、絨毯、革製品、陶器、銅器、布地など、あらゆるものが売られているが、ここで買い物する気はない。歩いていると、日本語で盛んに呼びかけてくる。チャイニーズか日本人かとたずねてくるのは、最近はここも中国人観光客が席巻しているのだろう。

 ( グランドバザール )

 メインの通りを往復した後、近くのモスクに入ってみた。

 ヌネオスマニエ・ジャーミーだ。『地球の歩き方』によれば1755年に完成とあるから、比較的新しいモスクである。

      ( ヌネオスマニエ・ジャーミー ) 

 18世紀のオスマン帝国では、ヨーロッパ建築の影響を受け、バロック様式やロココ様式が流行ったそうだ。このモスクもバロック様式だという。確かにブルーモスクとは、随分、趣が違う。ブルーモスクは贅を尽くした権威主義で、こちらは軽やかで装飾的だ。

 以上で、今日の見学は終わった。

     ★   ★   ★ 

 明日は、遊覧船に乗ってボスポラス海峡を海から見学する。そのあとは、トプカビ宮殿へ。

 そして、イスタンブール発の夜行便で帰国の途につく。今夜が最後の夜だ。

 ホテルの窓から写した写真を2枚。

    ( ボスポラス海峡 )

 

   ( 遠く、マルマラ海 )

 

 

 

 

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シナンとともに、聖(アヤ)ソフィアを見学する … トルコ紀行(14)

2018年09月13日 | 西欧旅行…トルコ紀行

              ( セブンホテルの屋上レストランから )

 建築家シナンは、カッパドキアの村のキリスト教徒の家に生まれた。考えることが好きで、しばしば大人を困らせる質問をする子だったらしい。噂を聞いた神父のヨーゼフが、その子を一度連れてきなさいと父親に言う。以下、神父とシナン少年の会話である。

 「『神は、この世界に遍在し、預言者の肉に降り、広大なる大地や天の裡(ウチ)にも住まわれている。しかし、稀に、神は、人がその手によって造り上げたものの裡にも降りてくることがある … 』。神父は言った。

 『人が造ったもの?』 『ああ──』

  『神父さまは、それをごらんになったことがあるのですか?』 『ある。一度だけな』

  『どこで?』 『イスタンブールだ』

  『イスタンブール?』 『そこに建つ、聖ソフィアだ』。

   うっとりと、夢見るような口調で、ヨーゼフは言った。『今でこそ、イスラムのジャーミーになっているが、もともとは、あれは我らキリスト教徒が1000年の昔に建てたものなのだ』

  『1000年……』。それは、なんと遥かな時間であったろうか。

 『聖ソフィアこそ、人が造り出した、最も神がよく見える場所なのだよ』

  『本当に?』 『見れば、その瞬間に、それがわかる』

  『見れば?』 『ああ』。

 しかし、アウルナスから、イスタンブールまでは、遥かな距離があった」。

     ★   ★   ★

聖ソフィアを、シナンとともに > 

 その日の午後、この旅のハイライトと言っていい聖(アヤ)ソフィアにやってきた。

 だが …… 。

 長くあこがれを抱き、遥々とここまでやってきたにもかかわらず、見学しながら、あまり感銘を受けていない自分を感じていた。こんなものなのか … 。

 その印象を一言でいえば、ガランとしているのである。聖堂内には人種も民族も異なる観光客が多数いるにもかかわらず、その聖なる建物の中はあっけらかんとしていた。

   やがて、それは仕方のないことなのだと思えてきた。感動しないのは、私の感性のせいではない。

 その理由の一つは、あまりに古くなり、しかもトルコは地震大国で、さすがの聖ソフィアも自ら立つことが難しくなってきているのだ。自立できなくなったこの貴重な人類の文化遺産を、巨大な鉄骨の骨組みが、床から高い天井まで、大きな面積を占めて支えている。堂宇全体の写真は撮れないぐらいに、殺風景に。

 …… しかし、それは仕方がないことだ。実はこれまで、この聖堂は、オスマン時代は言うまでもなく、すでにビザンチン時代から何度も修復工事がなされ、あのシナンもその工事に参加したことがあり、そういう努力によって何とか今に伝えられているのである。研究が進んで、いつかもっとスマートな維持の方法が見つかるかもしれないが、今は、こうして支えるしかないのだ。

 もう一つ、ガランとていると感じる、もっと大きな理由がある。

 この建造物の現在の正式名称は、「アヤソフィア博物館」である。

 聖(アヤ)ソフィアは、2度焼失し、2度目の焼失の後のAD537年、ユスティニアヌス大帝の命により、今まで誰も目にしたことがない奇跡のような大聖堂が建立された。そして、その後1000年の間、ビザンチン帝国のキリスト教の中心となった。

  AD1453年、コンスタンチノープル陥落のその日に、コンスタンチノープルに入城したメフメット2世は、略奪・破壊しようとする兵士たちの前で、聖ソフィアをイスラム教のモスクに改修すると宣言した。彼は聖ソフィアを破壊から守ったのである。以後、アヤソフィア・ジャーミーとして、オスマン帝国における最も格式の高いモスクの一つとされ、500年近くが過ぎていった。

  AD1935年、トルコ共和国の初代大統領ケマル・アタチュルクは、アヤソフィア・ジャーミーを、キリスト教の聖堂でもなく、イスラム教のモスクでもない、無宗教の「アヤソフィア博物館」として公開した。

 イスラム時代に伽藍の中に設置されたメッカの方向を示すミフラーブも、聖堂を囲むイスラム式の4本のミナレット(尖塔)も、文化遺産としてそのまま残されたが、イスラム教徒の祈りのために敷かれていた床のカーペットは取り除かれ、また、壁の漆喰が除去されてキリスト教のモザイク画が姿を現した。

 アタチュルクが、トルコ共和国を非宗教化(世俗化)し、近代化する一環として、「アヤソフィア・ジャーミー」を「アヤソフィア博物館」にしたのは、偉大な政治的改革の必然であったろう。

 だが、それはそれとして ……

 西欧でも、今は博物館となり、学芸員が管理する元「聖堂」は幾らでもある。そういう博物館となった「聖堂」に入場料を払って見学しても、生きて呼吸していない施設は、ただ無機質で、ガランとしているのである。

 例えば、春日大社にしろ清水寺にしろ、国内や世界からやってきた観光客でどんなにあふれていようと、そういう日常性の世界とは別の世界で、神官や僧侶による生きた宗教活動や修行が日々行われ、また、訪れた以上はきちんと手を合わせる名もなき日本人の多くの姿があるから、今も日本の文化として生きているのである。だからこそ、それぞれの社寺において、見よう見まねで作法どおりに参拝する西洋人も多い。それは、「人々」への敬意からである。

 文化というものの「幹」は、そこで生きてきた「人々」や、或いは今も生きている「人々」の日々の暮らしと願いと祈りである。その幹から、枝が出て、花が咲く。「幹」が死んで、今は枯れて押し花にした花を見せられても、感銘は薄い。

 「アヤソフィア博物館」がガランとしている理由は、そういうことである。

 だから、ここでは相当の想像力をもって見学することが求められる。

 そこで、生きた祈りの場であった15~16世紀の「アヤソフィア・ジャーミー」の時代にまで遡り、夢枕獏の『シナン』とともに、或いは、初めて胸ときめかせてアヤソフィアを訪れた若き日のシナンとともに、この聖なる宗教施設を見学することとしたい。

 以下、引用は全て夢枕獏『シナン』からである。

          ★

聖(アヤ)ソフィアの建造 >

   夢枕獏は『シナン』のなかで、聖(アヤ)ソフィアについてこのように説明している。

  「イスタンブールに、聖(アヤ)ソフィアと呼ばれる巨大な石の建造物がある。

 西暦537年、つまりシナンの時代よりも1000年以上も昔、イスタンブールがコンスタンチノープルと呼ばれていた頃、ビザンチン帝国の皇帝ユスティニアヌス1世によって造営された、ギリシア正教会の最も重要な聖堂である。

 建物の上部に、半球状のドームが被(カブ)さり、その直径は、およそ31~32m。およそ、というのは、余りにも長い歴史の中で、建物に歪みが生じ、一部の方向に直径が広がってしまったからだ。

 ドームの内側の頂点にあたるところまで、床からの高さが56m。

 奇跡のような巨大建造物である」。

 「この古い、偉大なる建築物は、1999年におこったトルコ地震で、近代的な建物が多く倒壊したにもかかわらず、壊れずに残った」。

 「この聖(アヤ)ソフィア建設にたずさわった建築家はふたりいる。

 トラレスのアンテミウス。

 ミレトスのイシドロス。

 この2名が、聖(アヤ)ソフィア建設の責任者として、ユスティニアヌスより任命されたのである」。

  「聖(アヤ)ソフィアは、このふたりが心血を注いだ傑作であった。

 ユスティニアヌスが命じた、『方形の建物の上に、ドームを載せよ』という難題を、英知(ソフィア)によって解決したのである。

 それまで、…… 聖堂は長方形 ── 横より縦が長いバシリカが一般的で、後部(※奥の祭壇部分)が円形に張り出していた。 

 この方形の教会の上に、ローマ神殿パンテオンの円形のドームを載せて、まったく新しい権力の象徴を大地の上に組み上げようとしたのである」。

 「当時、最大のドームは、その直径だけで言うのなら、ハドリアヌス皇帝が2世紀に建てさせたパンテオンが一番であった。ドームの内径、およそ43m。

 しかし、これは、方形の建物の上に、柱によって支えられている球ではない。地面から直接たちあげられた壁によって支えられているのである。柱によって、宙に持ち上げられた半球 ── そういうイメージではない。

 そうでないと、それだけ巨大なドームは支えられないのである。壁の厚さだけでも、およそ6m。これだけのものによって、ドームを支えないと、ドームは崩れてしまう。

 ユスティニアヌスが命じた、方形の建物の上に半円球のドームを載せるというのは、それまでとはまったく違う発想と技術が必要であったのである」。

 「天才数学者が選ばれたのである。アンテミウスと、イシドロスは、これを解決した」。

          ★

   以下は、今から500年以上も前、まだ建築家の卵に過ぎなかったシナンが、初めてイスタンブールにやってきて、アヤソフィア・ジャーミーを訪問した時のことである。

シナン、聖(アヤ)ソフィアの前に立つ >

    ( 聖ソフィア )

 「この積み上げられた石の量感は、まさしく山であった。その山の量感が、そこに立った瞬間、シナンに襲いかかってきたのである」。

 「シナンは、感嘆の声を心の中で洩らしている。

 これほど圧倒的な量感を持った巨大なものを、千年も前に、人間が作ったということが信じられなかった。いったいどのような力がこれを作るのか。どのような精神と技が、このようなことを可能にするのか」。

  ( 羊の浮彫 )

 聖ソフィアの庭先に無造作に置かれている石も、ビザンチン時代のものであろう。キリスト教徒を表す羊の群れが浮き彫りにされている。  

        ★

シナン、聖(アヤ)ソフィアの中に入る >

 「ゆっくりと、分厚く重い木製の扉を押し開けて中に入ってゆく。

 中は、薄暗かった。ひんやりとした空気が、シナンを包んだ。石の床。石の壁。石の柱。そういうものに囲まれた回廊であった。

 天井はアーチ状になっていて、その半球は聖母マリアや、キリストの絵がモザイクで描かれていた。シナンにとっては、おなじみのイコンである。色彩が美しい」。

 「不思議な感覚をシナンは味わっている。シナンは、ひんやりした大気を呼吸しながら、石畳の床を踏んで歩いていった。

 回廊の内側が、ドームの空間である」。

    ( 聖ソフィアの伽藍 ) 

 「外からこの建物を眺めた時、確かに大きく感じたが、それは、これほどの大きさであったか。

 この内部の空間の方が、数倍、数十倍も巨大なように思えた。

 まるで、宇宙そのものの内部にいるような気が、シナンはしていた。何もない空間 ──

 たとえば真上の天を見上げている時、その天の大きさはわからない。しかし、このようにして囲うことによって、初めて空間の巨大さというものは見えてくるのか。

 とてつもない肉体的な衝撃をシナンは味わっていた。

   自分は今、神の中にいる。シナンはそれを実感した」。

     ( 聖ソフィアのドーム )

 「しかし、どうしてドームであったのか。

 どうして、巨大な丸天井を聖堂の上部にかぶせねばならなかったのか。

 ただ収容人員を多くするだけの建物であれば、形を方形にして、柱を多く使用すれば、いくらでも巨大なものができたはずである。

 どうして、支えのない半球を、人々の頭の上に戴こうとしたのか。

 ドームの屋根は、古代ローマの時代から神殿や教会の屋根に使用されてきている。

 その半球の意味するものは、神である。

 人々は、神の象徴的意味、表現として神殿の天井に半球を使用してきたのである」。

         ★

聖ソフィア内のモザイク画のこと >

再び『シナン』から。

 「1453年に、オスマントルコによってコンスタンチノープルが陥落した時、このキリスト教の聖堂は、イスラムのモスクに改修されている。

 本来であれば、聖母マリアやキリストの肖像は消されるところなのだが、オスマントルコはそれをしなかった。

 ただ、多くの絵の上から漆喰を塗って、イコンをその下に封じ込めた。しかし、漆喰を塗りきれなかった場所や、塗ってもそれが剥がれ落ちて、下の絵が見える壁や天井もあったのである。

 もともと、イスラムのモスクの壁や天井に描かれる絵は、幾何学模様か、植物や文字をデザインしたものばかりである。人間や動物などの姿が描かれることはない」。

 「それが、この聖ソフィアの天井や壁には、神の子の姿が残っている。

 モザイク画のあまりのみごとさに、これを消すのをためらったのではないかと言われている」。

         ★

 下の絵は、10世紀初頭の作と推定されているモザイク画。皇帝専用の入口の上に描かれている。

 キリストを礼拝しているのは皇帝。キリストの両横には聖母と大天使ミカエルが配されている。

  ( キリストと皇帝 )

 次の絵は、10世紀後半の作とされる。南入り口の扉の上のモザイク画。

 AD330年、コンスタンチヌス大帝はビザンチウムと呼ばれていた町をローマに代わる首都に造り替え、名をコンスタンティノープルと改めた。絵の右の人物はコンスタンチヌス大帝で、聖母子に、都コンスタンチノープルを贈っている。

 左側の人物はユスティニアヌス大帝。聖(アヤ)ソフィアを献上している。

(聖母子、ユスティニアヌス1世とコンスタンティヌス1世) 

   ( デイシス)

 上の絵は、1260年ごろの作で、2階の廊下にある。絵の3分の2は失われているが、ビザンチン美術の最高傑作とされる。

 デイシス(請願図)は、聖母マリアと洗礼者ヨハネが、人間の罪の許しを請うて、玉座に座るキリストに請願するという、東方教会でよく見られる様式。 

   この絵の失われた箇所について、オスマン帝国或いはイスラム教徒が削ぎ取ったと想像する人は多いかもしれない。私も実はそうであった。しかし、欠落の要因はよくわからないが、少なくともオスマン帝国(イスラム教徒)の意図的な行為ではない。1543年、メフメット2世はここをモスクとすると決めたが、キリスト教のモザイク画が存在するのは困る。それでも、彼らはそれらを削り取ることはせず、上から漆喰を塗ることによって、絵を残したのである。

 問題は、今、残っているモザイク画が10世紀以後のものであることだ。

 ユスティニアヌス大帝が聖(アヤ)ソフィアを造ったのはAD537年、6世紀である。今まで誰も目にしたことがない奇跡のような大聖堂が建立されたとき、その壁に美しい壁画が描かれなかったはずはない。ユスティニアヌス大帝の時代は、ビザンチン時代の最盛期だったから、ビザンチン美術を代表するような絵画や彫刻があったはずである。それらは、どうなったのか??

 実は、それらを破壊したのは、ほかならぬキリスト教の側であった。

 私は昨年から、NHK文化センターで、「バチカン物語」というヨーロッパ宗教文化史の講義を聴きに行っている。その時々に、例えば「ローマからゲルマンへの旅」といった副題が付く。

 タイミングがたいへん良かった。開講された時期がもっと早かったら、夜空に遠く輝く知識の星たちを見上げながら、消化不良で目を回していただろう。多くの旅をし、また、断片的にいろんな本を読み、それらが積みあがった時にこの講座にめぐり合って、本を読んでなお腑に落ちなかった知識が「腑に落ちる」という経験をしている。「知る」ことは「わかる」ことだ。「わかる」ということは楽しい。その道一筋の大学の先生の研究の深さはやはりすごい。まれには、それは違うでしょう??と思うこともあるが、いつも静かに聴いている。

 以下は、先日、その講座で聴いた内容である。

 610年ごろ、預言者ムハンマドがおこしたイスラム教は、わずか100年の間にアラビア半島を出て、ササン朝ペルシャを滅ぼし、エジプト、北アフリカを征服。さらにジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島の西ゴード王国を滅ぼした。西方でこれに対峙したのはフランク王国であり、東方で国境を接したのは、ユスティニアヌス大帝没後、弱体化していくビザンチン帝国だった。

 ビザンチン帝国は、イスラム勢力の軍事的圧迫に加えて、宗教的挑戦も受けた。「イスラム教徒とキリスト教徒はともに旧約聖書を経典として、同じ神を崇めている。神は預言者モーゼを通して、神を象って偶像を造ったり、拝んだりしてはならないと戒めた。にもかかわらず、おまえたちキリスト教徒は、人間の描いた神の像を拝んでいる。十戒の第二条に背いているではないか?!!」。

 726年、ビザンチン帝国皇帝レオ3世は、全ての聖像を破壊する法令を出した。以後、東方教会に「聖像破壊運動(イコノクラスム)」の嵐が吹き荒れる。それより以前のイエスやマリアの彫像は破壊され、絵は削ぎ落とされた。この運動は8世紀を通じて行われ、9世紀の中ほどになって、平面的なイコンのみは許されるようになった。

 宗教(イデオロギー)の純化(原理主義)運動はおそろしい。

 ゆえに、今、6~9世紀のビザンチン美術は、ビザンチン帝国内には残っていない。

 唯一残っているのは、西方・カソリック圏であるイタリアのラヴェンナという小さな町だけである。

 ラヴェンナは、イタリア半島の北部、長靴の付け根近くにある町で、西ローマ帝国がその晩期に、都をローマからラヴェンナに移した。やがて西ローマ帝国が滅びて、イタリア半島に東ゴード王国(宗教はキリスト教)ができてからも、都であり続けた。

 6世紀、ユスティニアヌス大帝は東ローマ帝国から遠征し、破竹の勢いで、かつての西ローマ帝国領の相当部分を回復した。イタリア半島では東ゴード王国を倒し、西方の管理のためにラヴェンナに総督府を置いた。こうして、ラヴェンナにビザンチン様式の美術が登場するのである。

 ユスティニアヌスの没後、ビザンチン帝国の支配力は再び衰え、イタリア半島の中心も再びローマに戻ると、ラヴェンナは歴史からすっかり取り残された。

 歴史から取り残されたラヴェンナには、カソリックの本拠地ローマでさえもう見ることができない初期キリスト教時代の聖堂建築が残り、さらに6世紀のビザンチン美術が残ったのである。

 ポンペイは死んだ化石だが、ラヴェンナは生きた化石と言われる。

 例えば、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の内陣の壁には、左側に「皇帝ユスティニアヌスとその廷臣たち」、右側に「皇后テオドラと女官たちと廷臣たち」のモザイク画が色鮮やかに残っている。

 もう15年近く前だが、ここを訪れたことがある。初めてこのモザイク画を目にした時、聖堂の内陣という聖なる場所に、イエスやマリアの絵とともに皇帝と廷臣の絵や、さらに皇后と女官たちの絵があることに驚いた。あの世は神が、この世は自分が治める、という皇帝ユスティニアヌスの自信・自負心の表れだろうか。

 「皇后テオドラと女官たちと廷臣たち」の中で、きつい顔の皇后テオドラの隣の隣の女性がとても美しいと思って印象に残った。

 今回、講義で、テオドラのすぐ横はユスティニアヌス皇帝のナンバーワンの武官の奥方、さらにその隣の、私が美しいと感動した女性は、その奥方の娘であると教えられた。指が隣の女性に触れているのは、母と娘であることを表しているのだそうだ。

 (「皇妃テオドーラと女官たち廷臣たち」部分 )

 こういうことは、旅行のガイドブックには書いてないし、生半可な本を読んでも書いてない。

 それにしても、全員、正面を向いた素朴な感じの絵だが、黄金色をはじめ色彩が美しく、装飾的で、かえって現代の絵画に近いと思った。

         ★

シナンの神 >

 初めて聖(アヤ)ソフィアを訪れたとき、若きシナンは大きな感銘を受けながらも、なぜか物足りなかった。歳月を経る中で、その理由がシナンの中で次第に鮮明になってくる。キリスト教徒の聖堂がもつ限界 ── 聖堂の中は、人間である芸術家たちが技を競った偶像で満たされている。このような聖堂の中に、神がいるはずがない ……。ここでは、神を感じることはできない。

 「キリスト教の神であろうと、イスラムの神であろうと、シナンにはもうどちらでもよかった。

 その神を、どのような名で呼んでもよい ──

 シナンは、すでに、その認識に達している」。

 「神に固有の名を与えるのは、ある意味ではそれは、神を偶像化することではないかとシナンは思っている。

 神を、この世に現すには、偶像化はふさわしくない。

 どのような姿に似ていてもいけない。それが、人の姿であろうと、動物の姿であろうと、植物の姿であろうと」。 

 「神を何かに似せるとしたら、それは、宇宙に似せなければならない。…… その宇宙の形状は ── 球である。…… そして、その神に意志があるのなら、それは ── 光である」。

        ★

 「シナンが80歳の時に、工事は始められ、それから7年後、シナンが87歳の時に、セリミエ・ジャーミーは完成した。

 ドームの直径は、32m。聖ソフィアのドームの、大きい方の直径と同じ大きさであった。もともとの直径31mよりは大きい」。

 「人の気配は、その建物にはなかった。あるのは、空間と、そこに溢れる光。

 そして、数学。

 そして、美。

 そして ── 日中、どの方向からも、ドームの内部には陽光が差し込み、その光が内部を満たした。

 イスラム世界における、ドーム形式のモスクは、その巨大さにおいても、芸術性においても、ここにその頂点を得たのである」。 

             ★   ★   ★

聖(アヤ)ソフィアを見学して >

 「神を何かに似せるとしたら、それは、宇宙に似せなければならない」…… というシナンの、或いは夢枕獏の想像するシナンの宗教観は、一神教というより、汎神論に近い。日本人の神に近づいている。

 そこまで考えを進めるなら、もう一歩進めて。

 本当は巨大な大聖堂も、大モスクも、大寺院も必要ないのではないか。それは所詮、人間のつくったもの。神はそこにはいらっしゃらぬ。

 山、霧、風、岩、滝、樹木、そして岬 …… そこに神の存在を感じる人に、神はこたえる。

 日本の神道は建物の中に入って礼拝しない。本来、社は必要とせず、聖なる空間の杜(森)の気に包まれて、神々を感じる。

 神社の杜(森)は、神々の気配。杜は宇宙につながっている。

 四畳半の茶室に空いた小さな窓に映る樹木の影から、日本人は天地宇宙を想像する。

          ★

 ただし、世界には、いろんな暮らし・文化・宗教があって、そこが面白い。

 だから旅もするし、本も読む。

 困るのは、唯我独尊の思想。自己を絶対視する宗教。いろいろあっていい。 

 

 

 

 

 

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イスタンブールの旧市街散策へ … トルコ紀行(13)

2018年09月08日 | 西欧旅行…トルコ紀行

  ( 金角湾とスレイマニエ・ジャーミー ) 

第10日目 5月22日

 今日は、イスタンブールの旧市街の中心部、スルタンアフメット地区を見学する。

 朝はゆっくりと10時にホテルを出発した。

 新市街にあるホテルからバスに乗って、旧市街の入り口であるガラタ橋まで行く。そこからは徒歩で、橋を渡って旧市街へ入る。

         ★

ガラタ橋から往時の古戦場・金閣湾を望む > 

 イスタンブールの人口は約1300万人。

 町の中心部のヨーロッパ側は、ボスポラス海峡から入り込んだ金角湾によって、旧市街と新市街に分かれている。ガラタ橋は、この二つの街を結んで、金角湾に架けられた橋である。

 橋の上に立つと旧市街の景色を一望できるから、世界からやって来た観光客でいつも賑わっている。

 金角湾は、ボスポラス海峡がマルマラ海と合流する直前で、その西岸がヨーロッパ側に入り込んで、旧市街と新市街を分けているが、イスタンブールの市街はボスポラス海峡の対岸のアジア側にも広がっている。

 一つの町に、ヨーロッパとアジアがある都市は、他にはない。

 下の写真の手前の海が金角湾、そこに半島のように、右からヨーロッパ側の旧市街が突き出している。半島の向こう側の海はボスポラス海峡。その向こうに横たわるのがアジア側である。

   ( 右の半島がヨーロッパ側、その向こうがアジア側 )

 1452年、ビザンチン帝国を倒してコンスタンチノープルを手中にしようと決意したメフメット2世は、まずルーメリ・ヒサールを築いてボスポラス海峡を制圧した。これに対して、ビザンチン側はボスポラス海峡から入り込む金角湾の入り口を巨大な鎖で封鎖して、金角湾への敵の軍船の侵入を防いだ。今の旧市街側が「城」とすれば、城を守る巨大な「堀」が金角湾で、その堀への軍船の侵入を封じたのである。

 コンスタンチノープルの町は、三角形の二辺を金角湾とマルマラ海によって囲まれているから、金角湾への侵入を防いだら、主戦場となるのは唯一の陸側、テオドシウス城壁であった。

 だが、戦いが始まって、攻めあぐねると、20歳を過ぎたばかりのメフメット2世は、多数の軍船を山越えさせて金角湾に浮かべるという奇跡の大作戦をやってのけたのである。

 この圧倒的なパワーを目にしたビザンチン側の衝撃は大きかったが、もともと遊牧民族だったオスマン側は海戦に自信がなく、少数のヴェネツィア軍船を恐れて金角湾の片側に終結したままだった。ビザンチン側の手薄な兵力をさらに金角湾側に分散させるとともに、心理的な圧迫を図った作戦で、主戦場は最後までテオドシウス城壁の長い戦線だった。

 だが、テオドシウス城壁が破られ、敵軍が潮のごとく押し寄せて、もはやこれまでと、撤退を余儀なくされた生き残りの将兵たちは、金角湾に待ち受けていたヴェネツィアの船に乗り込めるだけ乗り込んで、マルマラ海からエーゲ海へと脱出したのである。

 時代を経て、現代の金角湾は、何十艘もの軍船が浮かんで対峙した緊迫の戦場は今はなく、湾側からの攻撃に備えて城壁の上から見下ろす守備兵の姿も城壁さえもなく、西洋的で、しかしエキゾチックな雰囲気も多分にある、平和でのどかな湾に、多くの遊覧船や豪華客船が浮かんでいる。

  ( 金角湾に臨むビザンチン側の城壁の跡 )

 日がな一日、橋の上から釣り糸を垂らす大勢のおじさんたちも、イスタンブールの一つの風物詩となっている。

 その向こうに見えるのは新市街で、かつて物見の塔であり、今も観光客の展望台であるガラタの塔が近代建築の上に聳えている。

    ( 魚釣りのおじさんたち )

 橋は二層になっており、下はレストラン街。鯖サンドが名物だ。

   ( 二層になった橋 )

 橋の上から、モスクの見える旧市街の眺めをしばらく堪能する。太陽が沈む時間が良いと、いろんなものに書いてある。旅人の時間である。

        ★

建築家シナンのこと >

 金角湾越しに眺める旧市街の景色のなかで、ひときわ存在感を示しているのはスレイマニエ・ジャーミーである。

      ( スレイマニエ・ジャーミー )

 当「トルコ紀行」の第2回で、夢枕獏の『シナン』という本のことを少し紹介した。

 スレイマニエ・ジャーミー (モスク) を建造したのが、この小説の主人公ミマール・シナン(1488~1588)である。

 聖(アヤ)ソフィアを超えるジャーミー (モスク)を建造したいというのは、オスマン帝国の歴代のスルタンの悲願であった。シナンは、その願いをついに実現した偉大な建築家である。あのミケランジェロやガリレオ・ガレリイとほぼ同時代の人であった。

夢枕獏『シナン』から

 「 … オスマントルコは、ヨーロッパとアジアに覇を唱え、巨大な帝国を築いてゆくのだが、コンスタンチノープル陥落以来、キリスト教国から、120年余りも言われ続けてきたことがあった。

 曰く ── 『野蛮人』。

 『トルコ人は、他人が築き上げたものを奪うことはできるが、文化的には極めて劣っている。それが証拠に、聖ソフィアより巨大な聖堂を、彼らは建てることができないではないか』

 聖ソフィアよりも大きなモスクを建てること ──

 これが、オスマントルコ帝国の歴代の王(スルタン)の夢となった」。

 「これを、コンスタンチノープルが陥落してから122年後、ミマール・シナンという天才建築家が成し遂げてしまうのである。

 トルコのエディルネに建てられたモスク、ラリミエ・ジャミーがそれである。ドームの直径32m」。

 ラリミエ・ジャミーの建造を始めた時、シナンは既に80歳だった。エディルネは、トルコ共和国の最北部、今はギリシャとの国境に近い古都である。

 ここ、イスタンブールのスレイマニエ・ジャーミーは、オスマン帝国の最盛期を現出したスレイマン大帝の命によって、シナンが69歳のときに完成した。今でも、イスタンブールで最も壮麗なモスクと言われる。

 「中央ドームの直径は、26m。聖ソフィアに比べれば、5m小さいが、それでも、それまでオスマントルコが産んだドームの中では最大のものとなった」。

 モスクの裏の緑に包まれた庭にはシナン制作によるスレイマン大帝の霊廟もあるそうだ。シナン自身の墓もあるらしい。

 このツアーは(どのツアーもそうだが)、スレイマニエ・ジャーミーに行かない。シナンの最高傑作であるエディルネのラリミエ・ジャミーにも行かない。要するに、大手のツアー各社の企画はマンネリで、画一的で、「従来どおり」で、不勉強なのだ。

         ★

もとは香辛料や薬草専門の市場だったエジプシャンバザール > 

 ガラタ橋を旧市街側へ渡ると、橋のたもと近くにエジプシャンバザールがある。イスタンブールで2番目に大きい屋根付きの市場だ。

 

    ( エジプシャンバザール )

 すぐそばにあるモスク、イェニ・ジャーミーを運営するための事業の一環として建造されたという。

 もともとは、オスマン帝国の支配下にあったエジプトなど北アフリカからの香辛料と薬草専門の市場だった。

 今は、香辛料やハーブの店もあるが、貴金属店、さまざまな食料品の店、日常雑貨の店などが並び、世界から訪れる観光客をねらったちょっとした土産物になりそうな物も売っている。ガイドのDさんは、最近は商品の品質が悪いからと、あまり勧めない。手作りのタイルを売る店など1、2軒だけ紹介した。

   ( イェニ・ジャーミー )

 エジプシャンバザールを出て、鳩の舞うイェニ・ジャーミーの前の広場を通り、スルケジ駅舎へ行く。

         ★

オリエント急行の終着駅だったスルケジ駅舎 >

 ここはかつてオリエント急行の終点の駅だった。

 オリエント急行は、19世紀の末に、パリとイスタンブールを結ぶ国際寝台列車として営業が始まった。パリ ─ ストラスブール ─ ミュンヘン ─ ウィーン ─ ブタペスト ─ ベオグラード ─ ソフィア  ─ イスタンブールを結ぶ。

 魅力的な鉄道コースだが、今は世の中が進歩し、航空機網も整備され、「オリエント急行」を名乗っているのは、様々な観光用の列車である。

   ( スルケジ駅のホーム )

 オリエント急行に関する展示室があり、クラッシックな駅舎が公開され、ホームの一部がレストランになっている。

   ( スルケジ駅の待合室 )

   ( レストランのテラス席 )

 ここで我々も昼食をとり、午後は、このツアーのハイライトである聖(アヤ)ソフィアへ向かった。

 

 

 

 

 

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イスタンブールまで … トルコ紀行(12)

2018年09月01日 | 西欧旅行…トルコ紀行

第8日目 5月20日 時に小雨

 8時にカッパドキアのホテルを出発した。今日は、黒海地方へ向けて450キロ、7時間半の長いバスの旅である。

 目指すのは、サフランボルという世界遺産の小さな町。

 最近は世界遺産も増えてきて、わざわざ1日をかけて移動し、1泊してまで行かなくても、という見学地もある。私としては、イスタンブールへ直行してほしいのだが、仕方がない。

 それでも、異郷の風景を眺めながら、バスや鈍行列車に乗って旅をするのは好きである。

 途中、トルコの首都アンカラで昼食休憩がある。その前に「カマン・カレホユック考古学博物館」に寄る。

         ★

カマン・カレホユック考古学博物館のこと >

   ここは、日本の中近東文化センターによって、1986年以来発掘調査が続けられている遺跡である。

 2008年に、世界最古の鋼が発見された

 2010年に、日本の資金で、発掘品を展示するための考古学博物館が建設・開館された。

 こんもりした緑の丘が、発掘調査されている遺跡の丘だ。そこが考古学博物館の施設にもなっている。

 

  ( 考古学博物館のある遺跡の丘 )

 玄関の両サイドには、発掘された動物の石像が置かれている。まさに狛犬の風情。

   ( 考古学博物館の玄関 )

 玄関を入ると、中央に発掘現場の丘の模型が置かれていた。 

  もらったパンフレットによると、丘は径280m、高さ16mとある。ごく小さな丘で、卑弥呼の墓と言われる箸墓程度の大きさである。

 だが、この小さな面積の丘に、遥かなる人類の歴史が残されていた。

 その一番上の層は、AD15世紀~18世紀のオスマン帝国時代の遺跡。

 そこから、一気に、遥かに、時代は遡って、第2の層は、BC400年~BC1200年の鉄器時代の遺跡。ちなみに、トロイ戦争はBC1200年ごろのこととされる。

 第3層は、~BC1900年の中・後期の青銅器時代の遺跡。

 そして、第4層は、~BC2300年の前期青銅器時代である。

 しかも、その下には新石器時代の遺跡があると考えられており、今も発掘が進められている。

 青銅器時代の長さに驚く。

 日本では、青銅器時代はあっという間で、新石器時代(縄文土器の時代)から、わずかに銅剣・銅矛の時代があって、ほとんど一気に鉄器時代へ入るという感があるが、それは、このように遥かに先を行っていた地域の文明がゆっくりと時間をかけて伝播していき、日本に入るときには、青銅器と鉄器がほとんど相次いで入ってきたからだろう。

         ★

 発掘現場と博物館は野の中にある。カマン・カレはもともと、シルクロードの道筋であった。

 

  ( 考古学博物館の丘からの眺め )

ガイドのDさんの話]

 ここカマン・カレは、シルクロードの道筋にあり、遥か遠くインドにもつながる文明の交流点だった。

 現在のトルコ、或いはアナトリアは、38もの人種・民族が混じり合っていると言われる文明の交差点。「純粋なトルコ人」などいません。

 トルコ系の民族、いわゆるテュルク系遊牧民族と言われる人々の、今につながる国は、ウズベキスタン、カザフスタン、タジキスタンなど、「… スタン」という名の付いた国々です。

 ふーむ。そういうことか…。 

 

(ヒッタイト時代の水差し)

 (ヒッタイト時代の印象 )

 考古学博物館の横に日本庭園があるというので、行ってしばらく散策した。正式名は「三笠宮殿下記念公園」。

   ( 日本庭園 )

 気の遠くなるような人類史の発掘調査に情熱を燃やし、この異郷の地で半生を生きる日本人たちもいる。

       ★

< 黒海地方の町サフランボルへ > 

 第一次世界大戦のとき、オスマン帝国はドイツに付いて戦い、敗戦国となった。その結果、オスマン帝国時代に膨張した領土を戦勝国によって切り取られ、戦勝国の植民地にされかけた。

 そのような状況下の1923年、ムスタファ・ケマルがオスマン帝国を倒して、トルコ共和国を成立させた。そして、初代大統領となり、トルコの民主化と近代化を推し進めていった。

 アンカラは共和国時代になってからの首都である。新しい町だから観光の対象もなく、政治と大学だけの静かな街 … なのだそうだ。

 アンカラで昼食をとって、出発した。

  ( アンカラの街の広場 )

 朝、アナトリア半島の中央部のカッパドキアを出発し、アンカラで昼食後、アナトリアの北部、黒海に近いサフランボルまで、さらに3時間半のバス旅だった。

 それでも、あきることもなく、窓外の景色を見て過ごした。トルコは緑が豊かで、日本とも、ヨーロッパとも違っていて、しかし、ヨーロッパにはかなり近い景色で、興趣があった。 

  ( 車窓の景色 )

 夕方、サフランボルのホテルに到着した。

 サフランボルの観光は翌朝の予定である。 

      ★   ★   ★

 

第9日目 5月21日 

アザーンの声で目が覚める >

 午前3時半ごろ、突然、ホテルの外から、マイクを通した大きな声が聞こえてきて、目が覚めた。独特の抑揚から、近くのモスクが祈りの時間を知らせるアザーンだとすぐにわかった。モスクの神職の神(アッラー)への祈りの言葉が大音量で流されるのだ。それにしても、まことに傍若無人な宗教である。

 イスラム教の祈りの時間は日に5回。最初の祈りの時間は、夜明けの時刻のはずだから、いくら何でも、まだ早い!!

 今はラマダーンだから、いつもより早く起きて、暗いうちに朝食を済ませ、そのあとモスクに来て、夜明けの祈りをせよ、というのだろうか

   そういうことだろうと、確信した。

 ラマダーンの1か月間は、日の出から日の入りまでの14時間ほど断食しなければならない。水も飲んではいけないのだから、きつい。タバコは言うまでもない。空気以外は、摂取してはいけない。こうして、貧しい人の気持ちに思いを致し、施しの心をもつのである。

 トルコ人のガイドのDさんは、ラマダーン期間中だが、バス旅のトイレ休憩の時、離れて一人でタバコを吸っている。(私はマホメットと違って、タバコにも寛容だ)。

 私がマホメットなら、もう一度地上に顕現して、「訂正 水は飲んでもよい。OKだ 熱中症にならないようにネ」と言うだろう。

 ユダヤ教の神殿で人々に対して「戒律(律法)を守れ」と上から目線で説くラビたちを、イエスは、「偽善者」と批判した。善行をなして自分を「善なる存在」とする人間こそ、神から最も遠い存在なのだ。人間の性(サガ)、業(ゴウ)、原罪、悲しみは、表面的に戒律を守ったり、施しをしたからと言って、克服できるものではないとイエスは考える。この点において、イエスの人間観は深い。宗教は、自己を悲しい存在と自覚する人に寄り添う。文学は、悲しい存在のもつ人間の美しさ、いとおしさを描く。

 ラビたちは、「貧しい者に施しをせよ」と教える。だが、全財産を施したら自分も立ち行かなくなるし、家族も養えない。それでは意味がない。ゆえに、「施しは、持てる財産の5分の1を超えないようにせよ」と言った。20%を超えない範囲の寄付で天国に行けるのなら、大金持ちほど天国にいきやすい。

 イエスは、「金持ちが神の国に入るのは、針の穴にラクダを通すより難しい」と言った。

 もちろん、現代の税制は、大金持ちに対してそんなに甘くない。ヨーロッパでは、貧しくても20%の消費税は納める。

 脱線ついでに、最近読んだ本からもう一つ。

 キリスト教国、例えば、数百年の戦いを経てイスラム教徒をイベリア半島から追い落としたスペインは、イスラム教徒やユダヤ教徒を徹底的に弾圧した。キリスト教に改宗しても、本物の信仰かどうかを試し、疑わしい者は国外追放したり、処刑した。純化主義はおそろしい。

 一方、イスラム教の国は、侵略して支配下に置いた元キリスト教国のキリスト教徒に対して、改宗を求めなかった。それで、イスラム教はキリスト教より寛容だと言う人もいる。だが、塩野七生は『ローマ亡き後の地中海世界』で、このように言っている。イスラム法には「税」という観念がない。マホメットの時代は、富める者が貧しい者に施しをすれば、世の中は成り立っていた。しかし、中世・近世になり、国家ができれば、国家としての財政も必要になってくる。富める者の寄付は、所詮、自分の気休め程度だ。そこで、どうしたか?? 支配地域を広げ、被支配住民であるキリスト教徒やユダヤ教徒から税を搾取したのだ。もちろん、彼らにイスラム教に改宗されたら困るのである。決して人権尊重の観点から、信仰の自由を認めたわけではない。

         ★

サフランボルを散策して >

 サフランボルは、黒海から50キロほど内陸に入った、人口5万人ほどの小さな町だ。かつては交易の要路として栄えた町らしい。

 土塀に木の窓枠の民家が残る街として、世界遺産になった。100年~200年前の民家だから、そう珍しくはない。

 内部を公開している民家を見学し、そのあと、しばらく街の中を散策した。

         ★ 

イスタンブールへ向かう >

 サフランボルからイスタンブールまで410キロ、4時間半の距離だ。

   トルコの黒海地方は、黒海の南側に広がる地味豊かな平野である。そこを、西へ西へと走る。すると、やがてマルマラ海に出る。マルマラ海に出れば、イスタンブールはもう目と鼻の先だ。マルマラ海がボスポラス海峡と出会う所がイスタンブールだ。

         ★

 バスは、マルマラ海の付け根のイズミット湾に差しかかった。

 イズミットは、古代にはニコメディアと呼ばれ、ローマ帝国の東の都であった時期もある。

 イスタンブールとは古来から海上交通で結ばれ、今は高速道路でも結ばれて、一つの大きな経済圏に発展している。

    ( イズミットを走る )

辻邦生『遥かなる旅への追想』から

 「トルコの地中海沿いには、私が『背教者ユリアヌス』を書いていた頃、たえず思い描いたコンスタンティノポリス、ニコメディアなどの町々がある。コンスタンティヌス大帝の名にちなんだこの古代都市の姿を現代のイスタンブールから想像することは難しいが、同じように幼いユリアヌスが育ったニコメディアの姿を現代のイズミットから思い浮かべることも難しかった。いずれも古代遺跡がほとんと失われているからであった」。

    ( マルマラ海 )

 バスは、地図の上で、北の黒海と南のマルマラ海とに挟まれた細長い陸地の、マルマラ海沿いを走っている。

 沿岸一帯は大港湾都市の趣がある。海沿いに大きな工場があり、クレーンが動き、貨物船が浮かび、山側には赤い屋根のマンション群が立ち並んで、その間を無数の車が行き来する高速道路が貫き、実に活気にあふれている。

 バスは、渋滞に入ることもなく、やがてイスタンブールの近郊に差しかかった。 

 

   (イスタンブール近郊)

   ( マンション群 )

 イズミットからイスタンブールのマルマラ海沿岸は、新しく発展しようとする国のものすごいエネルギーにあふれていた。日本やヨーロッパがすでに失ったエネルギーである。

         ★ 

夕刻のスタンブール >

 今夜と明日と、2泊するのは「リッツカールトン」。高級ホテルだ。新市街にあるのっぽビルである。

 そのホテルの一番庶民的な部屋 … だとは思うが、窓からの展望は良い。何よりも、ボスポラス海峡とその対岸が見える。

 夕食は、新市街の和食料理店だった。

 本当に久しぶりに、味噌汁と、握り寿司と、天ぷら。感動した。

 一旦、ホテルに戻ってから、海のほうへ、ぶらぶらと坂道を下りて行ったみた。

 10分ほど歩くと、ボスポラス海峡に臨み、モスクが建ってエキゾチックな趣もあるテラスに着いた。

 テラスにカフェがあったので、海を眺めながら、トルココーヒーを飲んだ。トルココーヒーは深みがあり、美味であった。

   ( ボスポラス海峡に臨むカフェ )

    ( 対岸のアジア側 )

   行き交う船や対岸のアジア側の街を眺めて、しばらくは時の流れに身を任せた。イスタンブールに来た目的が、この時間に果たされたと感じた。

夢枕獏『シナン』から

 「イスタンブール ── コンスタンティノープルは、このボスポラス海峡のヨーロッパ側を中心にして、アジア側にもまたがって発展してきた都市である。

 古代シルクロードの東の端に、人口100万人の都長安があるなら、西への入口にこのコンスタンチノープルがあったのである。

 東と西の文化、人種、宗教、文物がこの街で混然として一体になっていた。

 混沌(カオス)の都市である」。

  ( ボスポラス海峡はマルマラ海に出る )

   ( ブルーモスク遠景 )

 下の写真ののっぽビルが、リッツカールトン。ホテルの部屋の窓の下は、サッカーのイノニュ・スタジアムだった。

 トルコリーグで13回優勝という名門チームの「ガラタ・サライ」に、あの長友佑都がいる。

  ( リッツカールトンとイノニュ・スタジアム )

 2日ほど前のバスの中で、ガイドのDさんが、長友選手の「ガラタ・サライ」の優勝が決まったと言っていた。今夜、ラマダーンの断食の時間が過ぎると、イスタンブールは深夜まで大騒ぎでしょう、と。

         

 

 

 

 

 

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カッパドキアで奇岩・奇勝を見る② … トルコ紀行(11)

2018年08月23日 | 西欧旅行…トルコ紀行

     ( カッパドキアの自然 )

< 辻邦生『遥かなる旅への追憶』(新潮社) から >

 「… 私は予想もしなかった景観に息を呑んだ。

 それはエクリアス山をはじめとする火山の熔岩で作られた広大な台地が、風雨によって浸食されてできた奇怪な風景であった。台地はまるでテーブルのように平らで、その端はいきなり切り立っている。谷は月世界のように乾き、たけのこ状の岩、きのこ状の岩がひしめき合っている。そして断崖といわず、突出した岩といわず、そこら一面に、無数の穴が黒く点々と穿たれているのである。

 この穴の一つ一つがかつて修道士たちが住んだ洞窟修道院の跡なのであった。洞窟修道院のなかには一人用の小さな穴から、洞窟建築とは思えない堂々とした規模の、壁画、天井画で飾られた教会まで、さまざまである」。

 カッパドキアのことは、上の辻邦生の短い文章に尽きている。あとは写真を掲載するだけでいい。       

      ★   ★   ★

第7日目 5月19日時に小雨 

 今日は一日、カッパドキアめぐりをして、夜はベリーダンスショーを見に行くことになっている。

< 「三姉妹の岩」 >

 最初に向かったのが、「三姉妹の岩」。

 バスの中で、昨日の「ラクダ岩」と同類だろうと思っていたが、やはりそうだった。

 

     ( 三姉妹の岩 )

 これなら、昨日、私が名付けた「3人のプリンセス」の方が、それらしく見える。

 真ん中の小さい岩に、人工的な穴が開いている。ここにも人が住んだのだろうか??

  ( 遥かなるカッパドキア )

 「3姉妹の岩」よりも、その背景にある広大なカッパドキアの光景の方が感動的だった。

 真ん中あたり、そして、その右上にも人の集落が見える。

 遥かなるカッパドキアである …。

         ★ 

閑話 … トルコ絨毯と中国という国のこ >

   次にトルコ絨毯の店に寄った。

 旅の初めに手織りの高級スカーフ店、次に高級トルコ石店、続いてファッションショー付きの高級皮革製品の店、そして、高級トルコ絨毯の店である。

 ここも大型店舗で、部屋が幾つもあり、そこへ客を個別に入れて、絨毯を広げ説明・販売する。

 一行はまず大きな部屋に通された。そして、支配人クラスと思われる長身のトルコ紳士が登場して、店員たちに次々絨毯を広げさせながら、久米宏ばりの達者な早口の日本語で、しかも随所で笑いを取りながら、トルコ絨毯の特色、織り手の技や根気、政府によってきちんと決められた価格体系などを説明する。まさにプロフェショナルでした。

 トルコ絨毯の美しく繊細なデザイン性、色合いの可憐さ・上品さは、素人目にも、日頃目にしているわが家のそれより相当に美しく、小さいものなら1枚買っても … などと思ってしまうが、なにしろ高い。ヘレケなら、玄関マットクラスでも何十万円だ。

 ( 高級絨毯の美しく繊細な文様 )

 値段は、簡単に言えば目の細かさ、即ち1㎠に結び目が幾つあるかによって決まるらしい。そのきめ細かさが、トルコ絨毯の特色だ。言い換えれば、それを織るのにどれくらいの時間を要するかによって価格が決まる。仮に熟練の職人が1か月間専念して織った絨毯が20万円だとすれば、それは日本の大卒初任給と同程度で、高いとは言いにくい。

 トルコ絨毯の最高級品は「ヘレケ」と言う商品らしい。ヘレケという小さな村で織られている絨毯である。絨毯の隅に、「ヘレケ」の文字が刺繍されている。昔のオスマン帝国の王宮をはじめ、現代の世界の王室や大統領府で使われているそうだ。

 バスの中で、ガイドのDさんから聞いた話。

 絨毯づくりをしている中国の村が、村の名を「ヘレケ」と変え、絨毯に「ヘレケ」の文字を入れて、世界に売り出した。もちろん、プロが見れば偽ブランドとすぐにわかるのだが、「ヘレケ」という名を見せ、価格を言えば、飛ぶように売れた。本物の「ヘレケ」の売り上げは落ち、在庫だけが増えていく。値引きしても、費やした労力を考えれば限界がある。競争にならない。

 この事件は、トルコの大統領が中国に乗り込み、国家主席と直接に談判して、解決したという。

 いかにも中国らしい話である。

 最近も、「中国精華大学から米企業・政府にハッキングの試み」という報道があった。(ロイター  2018、8、16) 。この手の話は枚挙にいとまがない。

 もし米中戦わば、── アメリカの戦闘機群は、なぜか同じ性能をもつ中国戦闘機群と戦わなければならないだろうと、ピーター・ナヴァロは『米中もし戦わば』の中で書いている。そうなれば、今、「世界の工場」は中国である。かつて日本軍がアメリカの生産力と物量の前に圧倒されたように、今度はアメリカが中国の物量に圧倒されるかもしれない、とナヴァロ博士は書いている。

 話が大きく逸れた。もとに戻りましょう。

         ★

< 地下都市カイマクル >

 絨毯の店から、またバスに乗って向かったのはカイマクル。

 ここは、洞窟がアリの巣のように枝分かれしながら、下へ下へと延びている地下都市だ。

 ガイドの後ろに付いて、かがんで前進したり、靴とお尻で滑って下の空間へ移動したり、見学にも体力がいる。

 あちこちに明かりがあるが、もともとは光の入らない闇の中だった。闇の中ではたちまち方向感覚を失う。

 地下都市の発祥や歴史については謎が多いそうだ。一説では、BC400ごろの記録にも登場するとか??

 礼拝堂、学校の教室、寝室、厨房、食料庫、井戸などもあり、大規模な共同生活が営まれていたことは間違いない。2万人が暮らしていたとも言われる。

 地下4階まで見学可能だというが、しんどいから、そこそこで切り上げた。

   ( 横の穴 )

     ( 下りの穴 )

            ★

< ウチヒサール >

 次はウチヒサール。ウチヒサールとは、尖った砦の意。巨大な一枚岩の城塞である。

 ( ウチヒサール )

 無数の穴が開いていて、この岩山にも相当の人数の人々が暮らしていたことがわかる。

   今はその穴がハトの巣になっているのだそうだ。ブドウ畑の肥料として、ハトのフンを利用しているとか。

  ( トルコの国旗 )

 ガイドのDさんの話では、ローマの見張りの塔だった?? ── 今はトルコの国旗が翻っている。

   あの天辺に、銀色の兜をかぶり、赤いマントを翻したローマ兵が立っていたら、なかなかカッコいい。

 城塞の内部の住居跡を見ながら、天辺まで20分くらいで上がることができるそうだ。頂上からのギヨレメ・パノラマは絶景だという。わがツアーは、年齢層が高いから、そこまでムリはしない。

 「死ぬまでに行きたい世界の名城25」のうちの一つ。

 ついでながら、25のうちの一つは、日本の姫路城である。

        ★

< ギヨレメ・パノラマ >

 「ウチヒサールの頂上に上がらなくても、展望台はありますから」と、ガイドのDさん。

 バスで少し行くと、昨日行ったギヨレメ一帯を見渡せる展望台に着いた。

    ( ギヨレメ・パノラマ )

   うーん。こういう場所は、ツアーでなく、個人の旅で、遥々と、多少の苦労をしながら来るべきですね。きっと感動することでしょう。そのためには、カッパドキアへの相当の思い入れが必要かな … 。

         ★

< ローズバレー >

 この日の最後の見学地は、ピンクの岩の峡谷である。現地の看板の英語表示には、「レッドバレー」と書かれていた。

 このあたりも、7世紀の彫刻や11世紀のフレスコ画が残る岩窟聖堂があるそうだ。

 しかし、何といってもここは夕景スポットとして有名である。ピンクから赤、そして紫色に変化していく一日の終わりは、カッパドキアで最高のビューポイントとされている。

 夕刻には少し早かったが、それでもなかなかの景観であった。遥かなるカッパドキアである。

 

   ( ローズバレー )

     ★   ★   ★

ベリーダンスショー >

 早めにホテルに帰って、夜、ベリーダンスショーを見に行った。

 トルコツアーに入ると、カッパドキアか、イスタンブールか、どちらかで見ることになる。だが、ネットでいろんな人のトルコ旅行の書き込みを読んでも、評判はあまり良くない。

 たくさんの観光バスがやって来て、建物の中のホールで、飲み物を飲みながら見物する。 

 テーブル席で囲まれた広い空間で、若い男女のグループが次々登場して、郷土ダンスらしき舞踊をするが、率直に言って、日本の中学・高校の文化祭の、クラス参加の出し物程度の演技である。

  ベリーダンサーは1人だけ。踊り手としてそれなりにプロフェショナルだとは思うが、2、3曲踊ると、あとは観客の中から男性を引っ張り出し、一緒に踊らせて、笑いを取る。スペインで見たフラメンコショーなどと比べると、観客を思わず惹きつける何か … 多分、culture性に欠けていると思う。夜、バスに乗ってわざわざ見に来るほどのショーではないと、私も多くの書き込みに共感した。

         ★

 明後日の午後にイスタンブールに着くまで、明日からは実質的に移動日だ。イスタンブールが近づくことだけが楽しみである。 

 

 

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カッパドキアで奇岩・奇勝を見る ① … トルコ紀行(10)

2018年08月18日 | 西欧旅行…トルコ紀行

  岩窟教会のフレスコ画。上は、天使がマリアに受胎告知する場面。下は、弟の死を嘆き悲しむ姉たちのもとへやって来たイエスが、死んだラザロを復活させる場面。

     ★   ★   ★         

民家の岩窟住居を訪問する >

 カッパドキア観光の初めに、今も残る岩窟住居の民家を訪問した。

 時代が下がると、もう信仰とは関係なく、親子代々、岩窟住居を住みかとして暮らす人々がいて、村を形成していた。

 ところが、近年、政府の観光行政によって立ち退きを要求され、今ではもう5家族しか残っていないそうだ。

 そうした1軒を、ガイドのDさんの案内で訪問した。

 大地からにょきっと生えたような、とんがり帽子型の巨岩。巨岩といっても、カッパドキアの数々の巨岩・奇岩の群れと比べれば、ごく小さな岩の塊で、庶民の家族が暮らす一戸建て住宅の大きさと言ってよい。

  ( 今も人の住む岩窟住居 )

 そのとんがり帽子岩の裾の部分に沿って地面から付けられた石段を上がり、ぽっかりと穿たれた戸口から入った。

 屋内は外見から見る以上に広い。きちんと整えられた居間に招じ入れられた。

 写真撮影は禁止なので写真はない。

 30名を超える一行がムリせず床に座ることができる広さだ。床にはカッパドキア地方の名産品である良質の絨毯が敷かれて、石の冷たさはない。窓も穿たれていて、明るい。

 奥さんと娘さんがお茶をふるまってくれ、しばらくの時間、会話した。

 他にも2、3の部屋があるそうだから、家の中は一般的な住居とあまり変わらないように思える。

 見学を終え、外に出て、あたりを見渡すと、よく似たとんがり帽子の岩が数多く地面から生えていて、戸口や窓と思われる穴が開いている。だが、人は住んでいないようだった。

 観光という観点なら、単なる地学的な景観より、人の暮らしと、文化と、歴史が感じられる方が一層興味を引くようにも思う。先ほどの奥さんに、家族の歴史を聞いてみたいような気がした。

 しかし、上下水道やトイレや、そのほか現代文明にかかわること、そこから波及する景観保護のことまで、外国人観光客にはわからないもろもろの問題もあるのだろう …… と思う。

         ★

ギヨレメ野外博物館やゼルベの谷などを見学する >

 民家からバスで移動し、「ギヨレメ野外博物館」へ向かった。

 ギヨレメは町の名だが、付近一帯の奇岩・奇勝地帯と、フレスコ画も残る30もの岩窟教会の遺跡を併せて、町の名をとって「ギヨレメ野外博物館」として保護されている。カッパドキアを代表する自然・文化遺産だ。

 ここの岩山は、先ほどの民家のかわいいとんがり帽子のような岩とは異なり、もっと巨大な岩塊で、思い思いにという風にいくつも穴が穿たれ、ぽっかりと開いた暗い穴と穴とを石段がつなぎ、また、内部でつながっているのだろうか、ずいぶん高い所にも穴が開けられている。ここは一戸建てではなく、マンションなのだ。

     ( 岩窟住居の跡 )

 さらにギヨレメを有名にしたのは、5世紀ごろから数世紀にもわたって、迫害を逃れ定住した修道士やキリスト教徒たちによって穿たれた、30余りの岩窟教会があり、その内部には12~13世紀に描かれたとされるフレスコ画が残っていることだ。

 そのうちの見学できる2、3をのぞいた。

 見学が許された範囲のフレスコ画は稚拙なものが多いように思ったが、下の写真は、光が入らなかったため特に保存状態がよい「暗闇の教会」の入口に掲示されていたパネル写真である。これらは完成度が高く、特に色彩感が素晴らしいと思った。

   ( パネル写真 )

 その一部を拡大してみた。冒頭の写真も、このパネルの拡大写真である。

 左の絵は最後の晩餐。右は磔刑図。磔刑図は、イエスの足元の両脇に、母マリアと弟子ヨハネが描かれている。これは磔刑図の決まりである。

         ★

 また、バスで移動して、「ゼルベの谷」へ向かった。

 ガイドのDさんの話。

 カッパドキア地方には大小の町や村が点在しているが、荒涼とした土壌、冬は寒さが厳しく、夏は乾燥する高原気候のため、農業に向きません。ワイン用のブドウ栽培がわずかに行われているだけ。

 収入源はもっぱら牧畜。そして、羊毛を使った絨毯づくりです。トルコと言えば絨毯だが、カッパドキアがその本場です。

  ( 荒涼とした大地 )

   ( 村里の風景 )

         ★

 ゼルベの谷に広がる奇岩・奇勝地帯と、そこに残された遺跡は、ゼルべ野外博物館として保護されている。

 ここの岩は、どこもかしこも巨大なキノコお化けだ。

 9世紀~13世紀に多くのキリスト教徒が定住した。そのため、岩窟教会や地下住居の跡が無数にあり、現代になっても、つい30年ほど前までは小さな一つの村落を形成していたそうだ。

 

   ( ゼルべの谷 )

   谷の中の小道を散策して歩いた。

 その後また、バスに乗って移動する。

 

         ★

 眺望の良い所にバスが停まった。今日の最後の見学は、「ラクダ岩」。

 パーキングがなく、道路の端にバスは停まる。他の観光バスもやって来るから、バスはまさに崖っぷちに詰めて、身を寄せ合って駐車する。

 バスから降りて、見渡せば、遠くまで奇岩が並ぶ目の前に、ラクダらしき岩があった。これを見るために、わざわざここに立ち寄ったのか!!。

 観光地の岩に名を付けるのは、日本人も得意とするところ。何でもない岩が、名を付けられて、名勝になる。

 まわりの奇岩の群れを眺めていたら、あった!! 「3人のプリンセスたち」。命名者は私。ラクダより良いのではないか??

                ★

ゼルベの谷で『カッパドキア・プロジェクションマッピング』を鑑賞する >

 1日の見学を終え、ホテルへ。

 バスを降り、少し歩いて到着した今夜の宿は、洞窟ホテル。明日も1日、カッパドキア見学だから、このホテルに2泊する。

   大きな岩場を穿って部屋が造られている。入口の部屋には広いバスタブもある。その奥に寝室。トルコに来て泊まったホテルの中では一番ゆったりした部屋だった。ただし、入口の横以外に、窓がない。

 その夜は、バスに乗って、もう一度ゼルベの谷へ行き、『カッパドキア・プロジェクションマッピング』を鑑賞した。

 とっぷりと日の暮れた真っ暗な山の中の道を、ドライバーは車のライトの光だけで走った。

 そして、丘の急斜面に設えられたずり落ちそうな席に座り、谷の向こうの巨岩の壁面に映し出される映像を鑑賞する。

 内容は、アナトリア地方の最初の統一国家ヒッタイト王国から始まるトルコの歴史である。劇画風で、なかなかの迫力だった。

          ★

 この夜は、おそくなった。

 半数の人たちは、明日の早朝、オプション参加で、気球に乗りに行く。

 朝日が昇る上空から、カッパドキアの奇岩・奇勝を眺めたら、きっと素晴らしいだろうと思う。

 私は … あれもこれもと欲張るあわただしい旅は嫌なので、ゆっくり起きる。

 参加しない方を選んだ大半の人は、数年前、カッパドキアで起きた気球落下事故が頭にあったからだと思う。素早く飛び降りた運転士は助かったが、観光客に死者が出た。実際、このツアーの添乗員氏は、ツアー会社は一切責任を負えません、と言った。熱心に勧めたのは現地ガイドのDさんである。Dさんはトルコ人として、もう一度、カッパドキア観光を隆盛にし、ここで働いている人たちを応援したいのだ。

 私が参加しなかったのは、あれもこれもと自分の目を楽しませるだけの、あわただしい旅を好まないからである。

 私は、ヨーロッパの歴史と、その歴史をつくってきた人々のものの見方、感じ方、考え方、ライフスタイル ── 一言で言えば文化 ── に興味があって旅をしてきた。そして、その挙句、「元ヨーロッパ」であったトルコにまで足を延ばしている。

 だから、アナトリアの歴史や人々の営みを規定した、カッパドキアの風土には興味を抱いた。「こんな荒涼とした大地にも人々は住み、独特の歴史と文化をつくってきたのだ!!」と。

 だが、風土と自然とは違う。自然そのもの、自然としての奇岩・奇勝・絶景に、私は興味がわかない。

 妙な格好をした岩を見ても、ほとんどなんの感動もおきないのである。威張って言っているのではない。私の見ている世界の範囲と限界を述べているのである。私の旅は、何でも見てやろう、という旅ではない。

 

 

 

 

 

 

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カッパドキアへ … トルコ紀行(9)

2018年08月14日 | 西欧旅行…トルコ紀行

   ( キャラバン・サライの門 )

第6日目 5月18日 

 今朝はゆっくりと、9時に出発する。朝、荷造りをしてバスに乗り込むには、9時より早いと、あわただしい。9時より遅いと、気分がダレる。もちろん、団体行動だから、そういうことは人前で言わない。

 今日は、コンヤから北東へ進路を取り、カッパドキアまで250キロ、約3時間のバスの旅だ。

 陽光輝く明るいエーゲ海地方から、だんだんとアナトリア(小アジア)の奥深くへ入っていくという感がある。

          ★

キャラバン・サライを経て、カッパドキアへ >

 コンヤから1時間半ほど、スルタン・ハンという町のキャラバン・サライ(隊商宿)に寄った。

 もちろん、これまでのヨーロッパの旅で、キャラバン・サライ(隊商宿)を見たことはない。トルコでは各地に残っていて、その中でもスルタン・ハンは交易の重要な中継地だったから、この地のキャラバン・サライは最大規模なのだそうだ。セルジューク時代の13世紀の建造である。

    ( キャラバン・サライの城壁 )

 「城塞」と言ってよいほどの、高く、頑丈な城壁に囲まれ、装飾が施された門があった。盗賊集団に襲撃される心配もあって、堅固に造られている。 

 城壁の中は、庭と回廊があって、宿泊用の部屋が並ぶ。石造りの個室だから、牢獄のように堅固で殺風景な感もあるが、当時は家具・調度品も置かれていたのだろう。そのほか、食堂、ハマム(公衆浴場)、礼拝堂、ラクダを休ませる場所などもあったそうだ。 

   ( 城壁内の回廊 )

 ガイドのDさんの話では、隊商の一行は、夏は1日40キロ、冬は20~30キロのペースで歩いたそうだ。唐の長安から東ローマ帝国のコンスタンチノープルまでの間、その土地土地の特色ある商品が買われ、運ばれて、別の地域で売られた。商品は、隊商たちによって、いくつもの民族を越え、価値を高めながら、遥々と旅をした。

 シルクロードの終着点のコンスタンノーブルや黒海沿岸の港には、ヴェネツィアやジェノヴァの商船が盛んに入港し、遥々と陸路を運ばれてきた商品を、海上ルートでヨーロッパに運んで巨利を得た。

 今は豊かなアナトリアの高速道路を、丘を越え野を越えて、バスは走る。

 このあたり、車が少ないせいか、道路の真ん中、追い越し車線の上を堂々と走るトラックもいる。日本のパトカーは神出鬼没だが、トルコのパトカーは現れそうにない。

  ( 丘を越え、野を越えて )

 町に入り、信号で停まると、停車した車の間を、パンを売るおじさんがやって来た。美味しそうだ。

   ( パンを売るおじさん )

 トルコでよく見られる光景というわけではない。たまたま目に入って、シャッターをきった。 

 トルコも、ヨーロッパ圏も、肉料理や野菜サラダなどより、パンが美味しい、と思う。栄養の偏りを気にしなくてよいなら、1日3回、パンとワインでよいくらいだ。

 ただ、この日レストランで昼食に食べたマスは美味しかった。シンプルに塩で焼いただけだが、塩加減といい、パリパリのほっこり感といい、最高だった。私だけではない。一行の皆さん、感激していた。久しぶりに日本の焼き魚の味だ。(ヨーロッパのツアーに入ると、1回は「マス料理」が出るが、日本人には不人気だ)。

   車窓に、ハサン山が見えた。標高3268m。「トルコ富士です」とガイドのDさん。ここはほとんどカッパドキアだ。

   ( 車窓からハサン山 )

 カッパドキア地方には、標高3916mのエルジェス山という名峰もある。この「トルコ紀行」の第1回に紹介した偉大な建築家シナンの生まれ故郷はそのあたりとか。

 やがて、カッパドキアらしい風景が、突然、現れた。

        ★

 カッパドキアのこと >

 カッパドキアが行政上どの範囲を指すかは、時代によって大きく変遷したらしい。が、そういう難しいことは置いといて …

 現在のトルコは、まずイスタンブールを中心とした小さなヨーロッパ側と、広大なアジア(アナトリア)側に分けられる。

 広い方のアナトリア地方を更に分ければ、6つの地域になる。

 エーゲ海地方と、その南の地中海地方は、風土も文明も想像がつく。ヨーロッパ的だ。

 それ以外は、中央アナトリア地方、イラク、シリアと国境を接する南東アナトリア地方、ジョージア(グルジア)、アルメニア、イランと国境を接する東アナトリア地方、緑豊かな黒海地方 となる。

 そのなかで、我々外国人観光客が思い描くカッパドキアは、中央アナトリア地方だ。

 山岳・高原地帯で、夏と冬の寒暖差が激しい内陸型気候。そこに大奇岩地帯が広がっている。

 カッパドキアのこの景観は、エルジェス山やハサン山の噴火によって噴出された火山灰や熔岩が、地学的な年月を経て、凝灰岩や熔岩層となり、洪水、風、雨、雪などによって浸食・風化されて、固い凝灰岩のみが奇怪な形象として残ったものである。

 この地には、4世紀ごろから12、13世紀にかけ、迫害を避けてこの大奇岩地帯に逃げ込み、洞窟教会や住居をつくって暮らしたキリスト教の修道士や信徒たちがいた。

 彼らが残した遺跡を含め、この大奇岩地帯が、ユネスコ文化遺産に「ギヨレメ国立公園とカッパドキアの岩石遺跡群」として登録されている。

 カッパドキア地方の人間の歴史は、驚くほどに遡る。それは、様々な民族が交差したトルコの歴史そのものである。

 トルコにできた最初の王国は、BC15~12世紀のヒッタイト王国で、カッパドキアはその中心であった。人類史上初めて鉄で武装した集団である。

 BC6世紀には、東方で興ったペルシャの1州となった。

 アレキサンダー大王の東征のあと、独立王国も建てられたが、AD17年にはローマ帝国の属州として併合される。州都はカエサリア(現カイセリ)だった。

 ローマの分裂後は、東ローマ帝国領となる。

 岩窟に人が住み始めたのは4世紀ごろで、初期キリスト教の時代に、迫害を逃れて地下洞窟に隠れ住んだのが始まりだ。

 なお、4世紀のカッパドキアからは、キリスト教界では著名な3人の神学者が出ている。彼らはアリウス派を異端とする論陣を張って、キリスト教神学に名を残した。

 1071年、東ローマ帝国がセルジューク朝との戦いに敗れ、イスラム教徒の遊牧民が多数入ってきて、アナトリアを支配した。

 こういう状況を背景にして、この時代から13世紀にかけても、この荒涼とした大奇岩地帯に逃げ込んでキリスト教信仰を守ろうとした人々がいた。彼らは数多くの洞窟住居や洞窟教会を造ったから、その跡が多数残っている。

 このあと、そして明日1日もかけて、カッパドキアを観光した。

 

 

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ローマ帝国の温泉保養地パムッカレ、そしてセルジューク時代の都コンヤへ … トルコ紀行(8)

2018年08月07日 | 西欧旅行…トルコ紀行

  ( パムッカレからの遠望 )

第5日目 5月17日  一時小雨

 今日は早起きして、7時30分にバスでホテルを出発する。

 昨日行く予定だったパムッカレの石灰棚とヒエラポリス遺跡を見学し、そのあと6時間のバス移動で、コンヤを目指す。

         ★

石灰棚の温泉と廃墟のヒエラポリス  

 パムッカレとは、「綿の宮殿」という意味らしい。麓から見ると、真っ白い雪の山のように見える。

     ( 純白の石灰棚 )

 雨水が地下水となり地熱で温められて、温泉水として湧き出、台地の東側の山肌を流れ落ちる。長い年月をかけて、温泉水中に含まれる炭酸カルシウム(石灰)が沈殿し、純白の棚田の景観を作り出したのだ。棚のプールは100以上あるという。台地上の古代都市ヒエラポリス遺跡を併せて、世界遺産だ。

 石灰棚のある台地の上からは、トルコらしい美しい景観が望まれた。 

  ( 石灰棚の上からの景観 )

 以前は石灰棚で入浴できたが、今は温泉が涸れつつあること、それに景観保護の観点からも禁止され、一部で足湯ができるだけ。

   ( 足 湯 )

 ガイドのDさん「希望の方は足湯に行ってください。でも、とても滑りやすいから、気を付けてください」。

 世界遺産の足湯から帰ってきた一人のご主人「気を付けても、必ず滑ります!!(笑)」。

         ★

 石灰棚は、広々とした台地の東端の急斜面にあるが、ヒエラポリスは、その台地上に、ベルガモン王国の時代に建設された町だ。

 その後、ローマ帝国の温泉保養地として栄えた。

 ローマは行く先々で、道路を整備し、町を建設して、町には必ず劇場や大浴場を造ったから、その地に温泉が湧いていれば大喜びだ。

 

   ( 遺 跡 )

 ローマ帝国時代のAD2世紀に造られた劇場が、ヒエラポリス遺跡の目玉である。野の花の咲く野の向こうに見える。  

   ( 劇場の遺跡 )

 古代都市ヒエラポリスは度重なる地震で崩れていったが、ローマ時代の遺跡が底に沈んだ透明度の高い温水プールがある。入浴可能だが、湯の温度は35度とやや低め。

  ( ローの時代の遺跡の沈んだ温泉 )

 遺跡の上を、パラグライダーが、一機、二機、三機、飛んで行った。

      ( 遺跡の上を飛ぶ )

         ★

コンヤ向けて400キロ >

 この何日か、ヘレニズム時代からローマ時代の数々の遺跡を見て回った。現代のトルコとは直接つながらない、遠い遠い時代の都市の廃墟を見てまわり、堪能した。エーゲ海地方の青空も、古代遺跡も、心に残った。

 これからバスは東へ東へと走る。

 トルコの国土の大部分を占めるアジア側は、東西に長い四角形の形をした半島である。北は海峡によって結ばれた黒海とマルマラ海、西はエーゲ海、南西は地中海に囲まれていて、地続きは南東と東側だけである。この大きな半島を、古くから人々は「小アジア」とも「アナトリア(半島)」とも言ってきた。

 古くは「アジア」と呼ばれていたが、アジアはさらに東へと広大な大地が広がることを知り、「小アジア」と呼ばれるようになった。

 「アナトリア」は、東ローマ帝国時代、エーゲ海に面した西岸地方に軍管区を置き、「アナトリコン」と名付けたことに由来するらしい。「アナトリコン」とは、日出る所という意味だとか。

 その横長の四角形の南部を、東から西へトロス山脈が走っている。トロス山脈が地中海に切れ落ちた先がロードス島である。ヨハネ騎士団が立て籠もり、オスマン帝国最盛期のスレイマン大帝の大軍と戦った島だ。

 トロス山脈に沿って東へ400キロほど行くと、セルジューク時代(11世紀後半~13世紀前半)の都コンヤがある。今日は午後おそくコンヤに着き、コンヤ見学後、宿泊する。

        ★

トルコのイスラム教のこと >

 長いバス旅の中で、ガイドのDさんの話。

〇 日本人のお客様から、現在のトルコの大統領(エルドアン大統領)について、Dさんはどう思うかと、意見或いは感想をよく聞かれる。私は、政治の話はしたくないし、しないようにしている。また、日本の首相の安倍さんについて話しかけてくるお客様もいる。私は、今の日本の政治についてある程度知っているけれど、私はトルコ人で、かつ、日本人のお客様を相手にしている。安倍さんについて意見や感想を求められても困る。

 結局、一人一人がよく考えて、しっかり投票する、それ以外にないと思う。トルコ人も、選挙が近づくと、あちこちで熱心に語り合っている。それが大事だと思う。

〇 トルコを知ってもらうために、トルコの宗教の話をします。

 1923年にオスマン帝国が滅亡し、アタチュルク大統領の下に共和制の国になった。そのとき、明確に政教分離の原則が打ち立てられました。その点、他のイスラム圏の国々とは趣を異にすると思います。

 国民の9割は、自分の宗教を聞かれたらイスラム教と答えるでしょうが、今、イスラム圏以外の世界がイメージするイスラム教徒とは違うと思います。例えば、よく言われる一夫多妻制も、トルコでは禁止されています。

 イスラム教はスンニ派とシーア派に分かれて今も激しく争っていますが、トルコでは宗派の違いもありません。大なり小なりイスラム教を信じているという人々も、そういうこととは関係なく、もっと素朴に信じているのです。

〇 イスラム教では5つの戒律が言われます。まず、アッラーを唯一の神とし、マホメットを最高の預言者と認めることです。トルコ人の多くは、漠然と、神はアッラー、マホメットは偉い預言者と思っています。

〇 1日5回、身を清め、祈ること。これはなかなかそうはいきません。

〇 3つ目はラマダーンの断食です。今年は、昨日、5月16日から始まりました。1か月間、日の出から日の入りまで断食するのです。これは、貧しい人や飢えた人への思いを忘れないという趣旨で行われるもので、トルコ人は比較的よく守っています。この間、喧嘩やいさかいも避けます。トルコ人は、他者に対して優しいと私は思います。西欧社会と比べたら、トルコで物乞いの人の姿を見ることはほとんどないと思います。隣人に対する相互扶助の精神があるからです。

〇 4つめは、ラマダンと精神は同じですが、貧しい人に寄付や施しをすることです。

〇 5つ目はメッカへの巡礼ですが、総じていえば、現在のトルコのイスラム教は、ジハードなどのエキセントリックな要素はなく、他者を思い、他者とともに生きていくという心を大切にする教えになっていると思います。  

        ★

 窓の景色は豊かな田園風景で、緑が目にやわらかく、飽きることがない。 

 ケシの花畑がある。一面に白いケシの花が咲く光景は清楚で、ピンクの花の咲くケシ畑はロマンチックである。

 途中の休憩では、蜂蜜入りのヤギのヨーグルトを食べてみた。チャイとよく合って、とても美味であった。

        ★

 コンヤを首都としたセルジューク朝について >

 旅に出る前に勉強しても、あまり頭に入らない。旅を終え、机に向かって、見てきたものについて、あれは何だったのだろうと調べていくと、よくわかる。ブログに書こうと思って勉強すると、もっとよくわかる。

 さて、中央アジアを中心に、モンゴル高原からシベリア、やがてはアナトリア半島にいたる広大な地域に広がって、テュルク語を母語とし、遊牧の生活をしていた人々をテュルク系民族というそうだ。中国史に登場する狄(テキ。「夷狄」という言葉がある)や突厥(トッケツ)も、この民族のことらしい。

 彼らのうち、10世紀後半に、イスラム教(スンニ派)に改宗してムスリムとなった部族をトゥルクマーンという。

 その中のセルジューク家に率いられた勢力が強大になり、11世紀~12世紀に、現在のイラン、イラク、トルクメニスタンを中心とした地に建国したのがセルジューク朝(1038年~1157年)である。宗主は初めてスルタンの称号を使った。

 私たちが学校で習ったのはセルジュークトルコ。今は、セルジューク朝或いはセルジューク帝国。セルジューク帝国の中には、多くの地方政権が存在していた。

 その中で、今も国として存立しているのは、その最西端にあったトルコのみである。もちろん、今はセルジュークではない。

 1071年、セルジューク朝は東ローマ帝国との戦いに勝利し、負けた東ローマ帝国のアナトリア方面の防衛が手薄になった。そこへ、セルジューク朝の支配を好まないトゥルクマーンやトゥルク系の人々が多数流入し、アナトリアのテュルク化(トルコ化)が進んだ。

 さらに、セルジューク朝は、アナトリア地方にセルジューク系の地方政権をつくることを支援し、その結果、1077年に誕生したのがルーム・セルジューク朝(1077年~1308年)である。

 「ルーム」はローマの意味で、東ローマ帝国領であったアナトリアの地を指す言葉として、イスラム教徒の間で使われていたらしい。

 以後、ギリシャ正教徒であった住民たちは、領主となったトゥルクマーンの支配下に置かれ、テュルク語が浸透していき、アナトリアのトルコ化が進んだ。ただし、ギリシャ系の人々は被支配民ではあるが、キリスト教からの改宗を強制されることはなかった。

 行政の分野では、トルコ系以外に、在地のギリシャ系住民やモンゴル軍に追われて逃げてきたイラン系の人間も広く登用されたようだ。(これらの点では、後に興るオスマン朝も同じである)。

 1096年の第1回十字軍、1189年の第3回十字軍の時には、首都コンヤを占領されるという危機もあった。

 セルジューク朝(大セルジューク朝)は衰退し、1157年には滅亡するが、ルーム・セルジューク朝は黒海や地中海貿易を始め、12世紀後半に最盛期を迎えた。

 しかし、13世紀に圧倒的なモンゴルの支配下に置かれ、やがて消滅した。

         ★  

コンヤの宗教文化を見学する >

 ルーム・セルジューク朝の時代、アナトリア地方の各都市にモスクやイスラム教の学院が建設され、アナトリアのイスラム化が進んだ。

 ただ、遊牧民のイスラム教はシャーマニズムに近いものもあり、修行僧や長老たちの影響下に置かれ、神秘主義の宗教家も現れた。その代表が、メヴレヴィー教団の祖であるメヴラーナ・ジャラール・ウッディーン・ルーミーである。観光の世界では、コンヤというと、メヴレヴィー教団の円舞である。

 滞在した時間が少なかったから、よくわからなかったが、今のコンヤは、ルーム・セルジューク朝時代の都というより、トルコの中で比較的に宗教色の強い、或いは、宗教色の残る町、という特色をもっているように感じた。

 街の中心近くにアラアッディンの丘があり、公園になっていて、アラアッディン・ジャーミィ(ジャーミィはモスクのこと)と、メヴラーナ博物館がある。このツアーに限らず、日本のツアーのコンヤの見学先はこの二つである。

 アラアッディン・ジャーミィは、ルーム・セルジューク朝の最盛期の1221年に完成されたモスクだ。

  ( アラアッディン・ジャーミィ )

   スペインのコルドバのメスキータのような、簡素だが壮麗なイスラム教寺院が頭にあったが、外観も中も、平凡だった。大広間も簡素で、畳の代わりに絨毯が敷いてある道場である。(コルドバのメスキータについては、当ブログ「陽春のスペイン紀行」の4「イスラム時代の古都の風情を残すコルドバ」を参照)。

 それが本来の宗教施設のあり方で、キリスト教の大聖堂のような建物の方がおかしいのかもしれない。

        ★

 メヴラーナ博物館は、イスラム教神秘主義の創始者メヴラーナ・ジェラールッディン・ルミーの霊廟。

 緑色のタイルで覆われた円錐形の屋根を持つ建物が霊廟である。

 そのほか、モスク、僧院、修行場などもある。

   ( メヴラーナ博物館 )

 この教団は、ぐるぐると旋回する円舞によって一種の陶酔状態になるという怪しげな修行で有名だ。そういう神秘主義のため、1925年、オスマン帝国が打倒され、トルコ共和国が生まれた時、アタチュルク大統領によって、修行場は閉鎖され、教団も解散させられた。そして、2年後に、霊廟は博物館となり、文化財として一般公開された。

 霊廟に入ると、金刺繍のカバーがかけられた棺が並び、その中央がメヴラーナの棺だという。しかし、それがいつの時代のどこの国のものであろうと、私は人の棺を見学したいとは思わない。

 ただここで聞いた創始者メヴラーナの言葉の2、3は、怪しげな宗教の割には、古老の箴言のように晴朗で、含蓄があり、味わい深いと思った。それに、どの部屋も、キリスト教会や仏教寺院のように薄暗くないのも、良い。

 他の部屋には、メヴラーナの身の回りの品や、セルジューク時代の工芸品、書物、韻文の書などが陳列されていた。

         ★

 アラアッディンの丘を出て、バスが待つパーキングの方へ、公園沿いのトラムが走る道を歩いていると、公園の丘から盛んに手を振る少年たちの姿が見えた。サッカーをして遊んでいた少年たちだが、先ほどここへ来る時にも手を振っていた。手を振り返すと、喜んで、さらに手を振ってくれる。

 ガイドのDさん「トルコの子どもたちは日本人が好きなんです。小学校の教科書にも両国友情のエピソードが載っていますから」。

    ( 手を振る少年たち )

 翌日、カッバドキアに向かうバスの中で、最近、映画『海難1890』にもなった話、以前、NHKの『プロジェクトX』で放映されたビデオを見た。

 この、両国を結ぶ2つのエピソードは、当ブログの「国内旅行…紀伊・熊野へ」(2012、9)2の「樫野崎(カシノザキ)灯台、そしてトルコとの友情」に詳しく書いているので、ご存知ない方はぜひ読んでください。

 少なくとも、これからトルコ旅行に出かけるという方は、その前に。NHKの『プロジェクトX』が忖度して描かなかったことも、少し突っ込んで書いています。

  ( コンヤの街を走るトラム )

 

 

 

 

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のどかな古代の競技場跡に立つ… トルコ紀行(7)

2018年07月31日 | 西欧旅行…トルコ紀行

          ( 神殿の入口の門・テトラビロン )

第4日目 5月16日  

   昨日、バスの中で、ガイドのDさんが、明日の日中は35度を超える暑さになるようですよ、と言った。

 今朝も晴れだ。それでも、白い雲を見るのは久しぶりのような気がする。

 今日から、エーゲ海を離れて、東へ東へと走る。今夜のホテルは185キロ先のパムッカレだ。

ファッションショーを見る >

 バスに乗ってしばらく走り、出発してまだ何も観光していないのに、早くも革製品の高級品店でショッピング・タイムとなる。

 お買い物の前に、まず全員でファッションショーを見学した。

 音楽に乗って、姿の良いお兄さんやお姉さんが颯爽と歩く。なかなか楽しい。

 途中、わがツアー一行の中から、男性モデルに指名された「美女」3人も舞台にあがり、レザージャケットを着て、男性モデルにエスコートされ花道をカッコよく歩いた。若いイケメンにサポートされて、関西のおばさまらしく、楽しんでいらっしゃった。

 ( ファッションショー )

 昼食後は、昨年、世界遺産に登録されたばかりのアフロディシアス遺跡へと向かう。

          ★

トルコの土産屋のこと >

 近年、ヨーロッパのどこを旅行しても、中国人観光客でいっぱいだ。

 評判はあまり良くない。

 ヨーロッパでは(トルコでも)、国のガイド試験をパスして正規のガイドと認められたプロでないと、その町の文化財(自然遺産も含む)について、団体旅行者に説明してはいけないことになっている。日本人の添乗員が、自分の一面的な知識ややり方で説明したり、ガイドをすることは許されないのだ。本当は、大勢の外国人観光客が来るようになった日本でも、早くこの制度を取り入れるべきだと思う。

 2015年の秋、スロベニア、クロアチアなどアドリア海を巡るツアーに参加したとき、行く先々の町で、現地ガイドたちは一様に、「今日は日本人の案内でうれしい」と言った。最近増える一方の中国人観光客は、「傍若無人に大声でしゃべって、ガイドの説明を聞かない。注意したことを守ろうとしない。グループがすぐばらばらになって、自分勝手に行動し、点呼のとき探しに行かねばならない。気を付けていないと、貴重な文化遺産・自然遺産を傷つけたり、持って帰ろうとする」というのである。プロのガイド資格を持つ以上、責任も伴い、特に中国人観光客を相手にするときは神経をすり減らすようだ。

 さて、話を今回のトルコツアーに戻して、以下は、ガイドのDさんのバスの中での話である。

 近年、トルコは経済的に随分苦しい時期を過ごしてきた。私の父も、自分の半生のなかで、こんなに苦しい時期はなかったと言っている。トルコは200万人の難民を受入れようとした。ヨーロッパが受け入れているのは若い労働者だけだが、トルコは困っている人々を助けたいと思って取り組んだから、女性も老人も受け入れた。そこへ500万人が押し寄せた。経済は窮迫し、治安が悪くなった。テロ事件も起きた。これまでトルコに一番たくさん観光に来てくれたアメリカ人、その次のヨーロッパ人、その次の日本人も、パタッと来なくなってしまった。

 苦しい歳月だったが、今、やっと、曙光が見えたと私たちは期待している。回復への第一歩を踏み出したと、感じている。

 ただそういう苦しい時も、中国人だけは少しも減らなかった。来続けてくれた。

 それはとてもありがたいのだが、中国人観光客は、行く先々で、買い物のときに値切る。高価な物だけでなく、わずか千円のお菓子も値切って半値にさせる。トルコの観光地の小さな店はどこも閑古鳥が鳴いて苦しかったから、半分に値を下げても売った。それでは儲からないから、品質を落とした。

 例えばよくお土産にされるロクムというトルコの伝統的な菓子がある。日本の柚餅子(ユベシ)に似た菓子で、蜂蜜が使われている。ところが、今は、品質を下げ、砂糖や甘味料で甘くしている。それはもうトルコの伝統的な菓子のロクムではない。似て非なる菓子だ。中国人は、それをお土産に買って帰る。私たちが行く、行く先々の土産店や露店の多くは、哀しいことに、今、そういう商品を売っている。

 トルコ政府からガイドの資格を得、今もトルコ政府の研修を受けている私たちは、日本人にそういう物を買ってほしくない。本物の伝統的なロクムを買って帰ってほしいと思っている。ですから、私は本物のロクムを売る店に案内する。少し高いが、できたらそこで買ってください。

            ★

古代都市アフロディシアスを見学する >

 アフロディシアスはBC2世紀~AD6世紀に栄えた古代都市である。名前のとおり、愛と美の女神アフロディーテ(ヴィーナス)に捧げられた町だ。

 近隣に大理石の採掘場があったため、アフロディーテを祀る神殿、浴場、競技場なども、大理石の彫刻やレリーフで飾られた。

 ローマ時代も晩期になると、キリスト教が勢力を増し国教化して、アフロディーテ神殿はキリスト教の教会に変えられ、町の名も変えられた。

 7世紀の2度の大地震で大きな被害を受け、12世紀のセルジュークトルコの侵略によって衰退した。

 この都市遺跡の簡単な歴史である。

          ★

 遺跡は、広々とした野っ原の中にある。

 昨日のエフェソス遺跡のように古代都市遺跡として凝縮しておらず、広々とのどかで、気持ちが良い。

 ただし、今日もエーゲ海地方は晴天で、湿度は低いが、日差しは日本の真夏の日差しだ。さえぎる木陰も建物もない。

 青空の下、かつてこの辺りにあった壮麗なアフロディーテ神殿は跡形もなく、神殿の庭の入口の門として行事の時に使われたというテトラビロンだけが残っていた。(冒頭の写真も)。

           ( テトラビロン )

   テトラビロンから気持のよい野の中の小道をたどって行く。花の咲く草むらの中のそこここに、遺跡や遺構が残っていた。まだまだ発掘中で、いつまでかかるか、わからないという。

  ( 遺跡の小道 )

 やがて、古代の競技場の遺跡に出た。

 AD1~2世紀に造られたローマ式のスタジアムである。

 長さ262m、幅59m、3万人の観客を収容する階段状の客席が残っている。

 現代のローマにも、フォロ・ロマーノの向こうに広大な競技場が残っていて、映画『ベン・ハー』を思わせるが、この競技場のように客席まできちんと残っているのは珍しいそうだ。

 競技場を飾っていた数々の彫像も付属の博物館にあり、整備し直せばローマ式スタジアムが再現できるほど、全体の保存状態は良い。

  ( 保存状態がいいローマ式競技場 )

 ただし、再現するより、今のままの方がいい。再現したら、ディズニーランドか、ハリウッド映画のセットのようになってしまう。それは興覚めだ。 

 遺跡の入口近くに戻り、「アフロディスィアス博物館」に入館した。 

 アフロディスィアスで発掘された彫像やレリーフや石棺などが数多く陳列されていた。

 残念ながら教養不足で、一つ一つの像の意味は分からない。下の写真は、人間に火を与えてゼウスの怒りを買い、山頂に鎖でつながれたプロメテウスの像だろう。

  ( アフロディスィアス博物館 )

                      ★

 議事堂や劇場の遺跡の見学は割愛した。さらに、このあと、パムッカレに行き、ヒエラポリス遺跡と石灰棚を見学する予定であったが、それらの見学も明日に延期した。ツアー一行の一人の女性が熱中症で体調を崩したのだ。他人ごとではないと感じた人も多いに違いない。

 バスはパムッカレのホテルに直行した。

  ( 車窓風景 : モスク )

 ホテルの医者に診てもらい、病院に運ばれたが、翌日以後はまったく元気に観光された。

 このホテルには石灰棚があり、温泉水が流れていて、水着を着て温泉に入ることができる。旅行の出発前に、温泉に入りたい人は水着を持ってくるようにと言われていたが、温泉なら日本の方が良いに決まっていると思って、要するに面倒くさいので、持ってこなかった。

 それでも、久しぶりにホテルでゆっくりできて、良かった。

 

 

 

 

 

 

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世界最大級の古代都市遺跡エフェソスを巡る … トルコ紀行(6)

2018年07月26日 | 西欧旅行…トルコ紀行

  (古代世界で三大図書館の1つとされたケルスス図書館の遺跡)

5月15日 午後  バスは走る

 昼食後、トルコ石のショップへ寄った。買うつもりはなかったが、退屈なので「ショーケース・ショップ」をする。これはエレガントだ、と思うトルコ石の指輪の値段を店員に聞いてみたら、日本円で60万円だった。そうでしょう。良い物を見る鑑識眼はある。

 それにしても、トルコツアーに入れば土産物店に連れていかれるのは仕方がないと思っていたが、ガイドのDさんが連れて行く店は高級品店ばかりだ。

 エフェソスへ、バスで2時間半。

 途中、人口360万。トルコ第3の都市イズミールを通った。

 日本の都市と違って、なお伸びていこうとする大都市のエネルギーを感じる。

  ( 車窓風景 : 現在のイズミールの町 )

 トルコでは、住んでみたい町のナンバーワンだとか。海に近く、明るく、暮らしやすい。国立大学が2つもあり、若者の街でもある。周辺のエーゲ海岸は古くからリゾートとして開発され、ヨーロッパからも人々が大勢やってくる。ベルガモンやエフェソスの遺跡観光の拠点としても人気がある。

   ( 車窓風景 : エーゲ海に臨むリゾート )

   「イズミールはトルコの経済発展を象徴するような活気ある港湾都市だが、何とこれが古代都市スミルナの現代の姿なのであった」(辻邦生)

 古代に栄え、今は廃墟になった都市が多いが、例外もある。    

        ★

 トルコの高速道路沿いは、花が絶えない。

 そうでなければ、豊かな田園地帯だ。

 この季節、ピンクの花をつけた灌木をよく見かけた。夾竹桃に似ているが、そばで見ると違う。

  ( 車窓風景 : 快適な高速道路を走る )

        ★

< 「聖母マリアの家」へ

   見学の都合上、まず、「聖母マリアの家」へ向かった。

 「要らん(イラン)」という言葉がある。私的には、今回のトルコツアーは、「要らん」所に、ぎょうさん寄る。しかし、仕方ない。個人旅行では、トルコはちょっと無理なのだから。

 「聖母マリアの家」も、本当は私にとっては「要らん所」だ。

 イエスの母マリアは、イエスの死後、どこで暮らし、どこで没したのか。古来から、キリスト教会にとって、強い関心事だった。

 新約聖書を子細に読めば、1世紀の使徒たちを中心としたキリスト教会の動向はある程度推論でき、伝説上からも、母マリアが余生を送った地はエフェソス、或いはその周辺ではないかと言われてきた。

 そして … 、ここからが私が後ろを向きたくなるところなのだが、18世紀末に、一人のドイツ人の尼僧が、自分では全く行ったこともないトルコのエフェソスの近く、サモス島を見下ろす丘の上の小さな石造りの家に、聖母マリアが最後の日々を暮らしている幻を見た、と言ったのだ。

 聖母マリアが現れたとか、聖母マリアの顕現した泉の水で病気が癒されたという話は、ヨーロッパのカソリック圏にはあちこちにあり、今も多くの信者が押し寄せている。まあ、それはそれでいい。

 ただ、そういう、いかにも素朴で、ある意味、なまなましい宗教上の場に、日本の観光ツアー(日本だけではないが)が名所見物の一環として立ち寄るということに、私には抵抗がある。アンタッチャブル、そっとしておきなさい、と言いたくなる。

 さて、ドイツ人の尼僧の話の続きだが、19世紀に彼女の言葉(証言)を頼りに探索が行われた。そして、19世紀末、これから見学する建物の下に、1世紀と4世紀の建物の壁の跡、そして7世紀に聖堂として建て替えられた跡が発見されたのだ。

 もちろん、1世紀のものが重要で、そのあと、1度建て直され、さらに言い伝えられて、7世紀に聖母マリアを記念する聖堂になったというのである。

 しかし、それだけで、そこが母マリアが暮らした跡であるというには、根拠が薄弱である。まちがいないことは、そこにローマ時代の石壁が残っていた、さらに7世紀の聖堂があったということだけである。

 今ある「聖母マリアの家」は、18世紀の尼僧の証言を基に、1951年に再現された小さな石造りの建物である。ローマ教皇も訪れ、教皇の代理が毎年、表敬訪問し、今は信者たちの巡礼の地となっている。

 ── だが、と思い直す。現代に生きる「聖母マリア信仰」を思うから抵抗がある。

 史実として、人間イエスには当然母がいて、その母マリアが多分、使徒ヨハネとともに、つまりこの辺りで、余生を送っただろうということに異を唱えるつもりはない。

 これまで20年もヨーロッパの歴史と文化をめぐる旅を続けてきたが、ヨーロッパ文明と、古代、中世のキリスト教世界との対立葛藤、ダイナミズムは、ヨーロッパ文明を理解するうえで避けて通ることはできず、また興趣尽きないものがあった。

 特にここエーゲ海沿岸の地は早くにキリスト教が伝えられ、初期のキリスト教会の動向を知るうえで必須の地である。なかんずく古代都市エフェソスは、12弟子の一人である使徒ヨハネが担当した教区と言われる。そこに、おそらく、母マリアもいた。

 それなら、その時代の息吹を少しでも感じ取るために、「要らん」は棚上げしよう、と考え直した。

        ★

 その場所は、エフェソス遺跡から7キロほど離れた、人家もない山中である。バスは、「聖母マリアの家」を訪れる人々のためにわざわざ造られたと思われる山中の道路を、カーブを繰り返しながら高度を上げていった。

 駐車場から徒歩でさらに行くと、開けた明るい空間に小さな小屋があった。近くには、病が治るという聖水が湧いている。小屋には父ヨセフと母マリアと、生まれたばかりのイエス。バチカンが贈呈したそうだ。

 その横の石段を上がると、「聖母マリアの家」だ。

 

  ( 聖母マリアとイエス )

        ★

使徒ヨハネと聖母マリアのことなど >

 世界地図帳の中東の地図を開いて見る。

 トルコは四角形をしており、東西に長い。

 東西に長いその北側は、ヨーロッパ(中欧、東欧)。

 東西に長いその南側は、地中海が西側の半分を占め、地中海の東側は、紛争の国、シリアとイラク。

 シリアのすぐ南に、イスラエルとヨルダンがある。

 現在のトルコ共和国の苦しさは、その地政学上の位置にあると言えるが、それはさておき、イスラエルは、もちろんキリスト教の発祥の地だ。そして、(トルコの)エーゲ海沿岸部には近いのだ。

 西暦1世紀のころのトルコ、シリア、イスラエル、ヨルダン、そして地中海の南側へ回ってアフリカ北岸も全て、ローマの支配下にあり、平和で、繁栄していた。人々が信じる宗教については、非人道的な(例えば、人間を生贄にするといった)もの以外は、全て互いに認め合い尊重しあう世界であった。

 このようなローマ世界の片隅のイスラエルのベツレヘムにイエスは生まれ、そして、エルサレムで処刑された。

 使徒をはじめ、イエスの教えを信じた人々は、以後、ローマ世界の各地に散らばって宣教を始める。

 各地と言っても、向かうのは自ずから都市部になる。エルサレムを追われた弟子たちが布教に行くとしたら、まずは繁栄するエーゲ海沿岸部の都市である。

 当時、ローマ帝国のアジア州の首府であったエフェソスは、早くにキリスト教が入ってきた。おそらくエフェソスを中心とする一帯の教区を管轄していたのは、新約聖書の記事の断片から推測して、使徒ヨハネである。

 もっとも、他者の信じる神を尊重するローマ世界の人々の中で、神は一人、あなた方が信じているのは邪教であり、祈っているのは悪魔であるとするキリスト教のことである。彼らが布教を行えば、おのずから衝突が起きる。自分の妻や子弟や召使が、いつの間にかこの秘密めいた、偏狭な宗教に取り込まれるというのは、許せることではない。ところが、自らの神を絶対とするこのグループは、批判しても妨害しても、布教をやめようとしないのである。市民と元老院の承認によって就任したローマ皇帝も、市民の訴えは無視できない。

 キリスト教の側からいえば、それは迫害ということになる。使徒をはじめ、多くのキリスト教徒が殉教した。だが、迫害を力にして、彼らはローマ世界のなかに浸透していったのである。奴隷の中にも、市民の中にも、貴族の中にも。

                         ★

 さて、使徒ヨハネであるが、新約聖書のヨハネ伝に、イエスが十字架上で命を引き取る直前のこととして、次のような記述がある。

 「(十字架上の)イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、ご覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です』。そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」。

 ガリラヤ湖のそばで、最初にイエスの弟子になった4人のうちの1人がヨハネである。12使徒の中で一番年下で、イエスが最も愛した弟子とされる。

 11人の使徒のうち、殉教しなかったのはヨハネだけである。それは、母を託したイエス(神)の意思だったのかもしれない??

 さて、使徒ヨハネはエーゲ海の島・パトモス島に流刑され、そこで「ヨハネの黙示録」を書いたとされる。やがて流刑から解放され、エフェソスで教えを説き、また、そこで「ヨハネによる福音書」を書いたとされる。エフェソスには、伝ヨハネの墓もある。

 また、母マリアにも、エフェソスで余生を送ったという伝説がある。エフェソスは、古くから聖母マリアに対する信心が厚かったところでもある。ただし、墓はない。「聖母マリアの被昇天」。カソリックでは、マリアは今は天上のイエスの横にいることになっている。

 ともかく、繁栄する古代都市エフェソスから7キロの山の中にひっそりと暮らせば、迫害を避け、安全だったろう。ヨハネの弟子や信者たちが訪ねて、必要なものを運んだに違いない。そして、マリアから生前のイエスの話を聴くことができた。

  ( 「聖母マリアの家」 ) 

 小さな石造りの建物があった。さすがに、西欧系の見学者或いは信者が多く、少し行列に並んで、中に入った。

 今日も30度を超す快晴で、内部に入ると暗かった。

 室内は撮影禁止。

 バチカンから贈られたという聖母マリアの金色の立像があった。バチカンが造った現代のマリアは、さすがに美しく、気品があった。

         ★

< 世界最大級の古代都市遺跡エフェソスを歩く >

 再びバスに乗って山を下り、世界最大級の古代都市遺跡エフェソスへ向かう。

 現代のエフェソスは、アヤスルクという小さな村の一部に過ぎない。

 アヤスルクの丘は、BC1000年ごろには、聖地として崇められていたという。やがてそこにアルテミス神殿が建てられた。

 アルテミスという女神については、調べてみたが、私にはよくわからなかった。ギリシャ系の神々ではなく、元はこの地にいた先住民の女神だった、という説は本当だろうと思う。日本でも、縄文の神が弥生人に引き継がれ、祀られている。とにかく、古代都市エフェソスと言えば、アルテミス信仰だった。

 アルテミス神殿は地震などで崩壊するたびに再建されたらしい。最後に再建されたローマ時代の神殿は、あのアテネのパンテノン神殿がすっぽり入るぐらい巨大だったという。

 それより前のBC300年ごろ、アレキサンダー大王によって、当地の海岸部に港が築かれる。その港はやがてエーゲ海随一の貿易港として発展した。その過程で、エフェソスの中心もアヤスルクの丘から沿岸部に移動した。

 BC133年には共和政ローマの支配下に入ったが、エフェソスは「アジア属州」の首府として発展し続け、ローマ帝国の東地中海交易の中心となった。

         ★

 バスを降り、いよいよ世界最大級と言われる古代遺跡の中に入って行く。

 まず目に入ったのは、オデオン(音楽堂)。

 収容人数は1400人で、当時は木製の屋根があったそうだ。コンサートだけでなく、市民の代表者による議会も、ここで開催された。座席の下半分が大理石で造られているのも、そのためである。

 

    ( オデオン )

         ★

 クレテス通りの沿道には、石造りの建物の廃墟が並んでいる。

 ガイドのDさんが、所々で、ここは〇〇神殿とか、門の石像彫刻は▽▽神とか、個人邸宅の床のモザイク画が残っているなどと説明してくれるが、これだけ多いと、その一つ一つはどうでもよいと思ってしまう。

  ( クレテス通り )

         ★

 Dさんの話によると、道端に置かれているニケのレリーフは、もともと近くのヘラクレス門のアーチとして飾られていた。ニケは勝利の女神。

     ( ニケのレリーフ )

 スポーツシューズで有名なナイキの創業者はこの像を見て感動した。しかし、この像をそのまま使うわけにはいかないので、そのごく一部をデザイン化して、会社のロゴマークとした。

 さて、どの部分でしょう??

 Dさんの話も、創業者がこの像に感動した云々は、本当かどうか?? ただ、ナイキという社名がニケ(Nike)の英語読みであること、ロゴマークがこのレリーフからきていることは間違いない。

         ★

 正面玄関の遺構が最もよく残っているのは、AD2世紀の皇帝ハドリアヌスに捧げられた神殿。奥の方のアーチに彫られているレリーフはメドゥーサの像。

   ( ハドリアヌス神殿 )

 ハドリアヌス神殿の近くには、娼館ではないかと言われる建物があり、また、細い道を入ると古代の公衆トイレもあった。下を流れが通って水洗式になっているが、個室にはなっていない。友人同士、おしゃべりしながら用を足したそうだ。

         ★

 数ある遺跡の中でも最も印象的だったのは、クレテス通りからマーブル通り(大理石造りの通り)への曲がり角にあるケルスス図書館の遺跡である。

 「廃墟の美」という言葉がある。廃墟となった壮大な古代建築の、古びた大理石の色合いと、その陰影が、圧倒的に迫ってきた。

     ( ケルスス図書館 )

   1塔は古び、1塔は遥かな昔に倒壊して、今は礎石が残るのみ。その礎石の柱の穴に雨水がたまり、もう1塔の姿を映して趣深い、と何かに書かれていた。それを読んだことのある人々は、寺を訪れると、柱穴の水に映る塔をさがしたものだ。近年、多くの尽力によって、目も鮮やかな朱塗りの塔が再建され、元のように2塔になった。それはそれで良かったが … 失われたものにも味わいはあった。日本の大和路の話である。

 さて、この大図書館は、ローマ帝国アジア州の執政官だったケルススの死後、その息子が父の墓室の上に記念に築いたものだという。12000冊の蔵書があり、当時、アレキサンドリア、ベルガモンと並ぶ3大図書館の1つとされた。

 正面の大理石の柱の間に、知恵、運命、学問、美徳を象徴する女性像が置かれて、美しい。

 ( どこの国の女性でしょう?? )

         ★ 

 もう一つ、心に残る遺跡があった。

 古代の大劇場である。

 演劇の上演のほか、全市民集会にも利用されたらしい。直径154m、高さ38mで、2万4千人を収容できた。

 青空の下、しばらく石の席に座り、古代の夢でも見ていたい気分だった。

 

      ( 大劇場 )

         ★

アルテミス神殿と聖ヨハネ教会のこと >

 「エフェソス見学の最後に、とてもいい撮影スポットに案内します。夕方になり、光線の加減もちょうど良いと思います」と、ガイドのDさん。バスで少し移動した。

 バスを降りると、1本の円柱が建つ湿地で、ガチョウ??の群れが餌をさがしているばかりだ。

    ( アルテミス神殿の跡 )

 ここはかつてエフェソスのシンボルであったアルテミスの大神殿があった跡である。7回破壊され、7回再建されたというが、今は柱が1本残るのみ。

 世界初の総大理石造りで、アテネのパルテノン神殿がすっぽり入るぐらいの壮大なものであったと聞いても、想像することもできない。

 大神殿は、AD3世紀に、大地震とゴード族の侵略によって破壊され、それ以後は修理もままならなかったそうだ。

 やがてキリスト教がローマ帝国内に勢力を拡大して、国教化していく。これまでのギリシャ・ローマの神殿は異教のシンボルとして破壊され、或いはキリスト教教会に変えられ、アルテミス大神殿の遺構も他の建築の石材として奪われて、荒れるに任された。

 だが、と、ガイドのDさんが言う。

 手前に古代のアルテミス神殿の名残をとどめる円柱があります。

 その向こうの右手には、かつて使徒ヨハネが晩年を過ごし、6世紀に、東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスが教会に代えた聖ヨハネ教会の遺構が見えます。そこにはヨハネの墓もあります。

 また、その左手には、14世紀に建てられたイスラム教のイーサーベイ・ジヤーミィ(モスク)があります。当時を代表する美しいモスクです。

 3つの歴史的な遺産が一つの絵として納められる。これがトルコです。(なお、奥にある大きな建造物は要塞の跡)。

  ( 3つの遺跡が共存している )

 キリスト教を国教化したテオドシウス大帝の死後、ローマ帝国は2つに分けられたが、コンスタンティノープルを首都とする東ローマ帝国の下でも、エフェソスはなお健在であった。依然としてアジア属州の首府であり、また、国教化したキリスト教の主教座も置かれて、東方教会の中心の1つであった。AD431年のエフェソス公会議は有名である。

 だが、7世紀になると、2世紀ごろから進んでいたエフェソスの港の沈降が顕著になり、経済活動はすっかり衰える。そして、エフェソスの中心はもとのアヤソルクの丘の方に戻った。

 7世紀初めにアラビア半島で起こったイスラム教は燎原の火のごとくに勢力を拡張し、東ローマ帝国に侵攻した。8世紀に至り、東ローマ帝国はエフェソスを放棄する。港が完全に埋まったのも、そのころだったという。

         ★ 

 今夜の宿のあるクシャダスは、トルコのエーゲ海有数のリゾート地。

 もちろん、泊まったのは高級リゾートホテルではない。それでもなかなかオシャレなホテルだった。食事はもうひとつであったが。 

    ( ホテルは海に臨む )

 

 

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古代都市ベルガモン遺跡を見学する … トルコ紀行(5)

2018年07月19日 | 西欧旅行…トルコ紀行

     ( アクロポリスの青い空 )

   エーゲ海の青い空を背景に建つトラヤヌス神殿の廃墟は、この旅の中でも最も印象に残った風景の一つであった。

     ★   ★   ★ 

第3日目 5月15日 午前 

 朝、アイワルクのホテルを出発し、バスで1時間のベルガモン遺跡へ向かう。

 午後は、ベルガモンからバスで2時間半のエフェソスの遺跡を見学する予定だ。

< 古代都市ベルガモンのこと

   ベルガモン王国は、アレキサンダー大王(BC356~BC323)の死後に生まれたギリシャ系ヘレニズム諸国の一つ。王国となったのは紀元前の241年。古代都市ベルガモンを都とし、エフェソスがその外港だった。

 BC129年、王国は共和政時代のローマに吸収合併され、ローマの属州の一つとなった。「アジア属州」である。ただし、その中心都市として、古代都市ベルガモンもエフェソスも繁栄を続けた。

 古代都市ベルガモンの繁栄はAD3世紀ごろまで続くが、ローマ帝国の弱体化とともに衰退し、やがて異民族の侵略にさらされて、歴史の中に消えていった。

   19世紀にドイツ人によってその遺跡が発見され、本格的に発掘されるまで、この古代都市は眠り続けた。

 古代都市ベルガモンの遺跡はエーゲ海から内陸部へ25キロほど入ったところにあり、広々とした野の中に散在している。

 今回、バスやロープウエイで移動し、そのうちの2か所を見学した。一つは古代の総合医療センターの跡とされるアスクレピオン、もう一つは古代都市ベルガモンの中心・アクロポリスの丘の遺跡である。

         ★

< 古代の総合医療センター・アスクレピオン

 アスクレピオンは、医術の神「アスクレピオス」を祀る神殿を中心にした古代の総合医療センターのことである。BC4世紀からAD4世紀に渡ってこの地で活動した。古代のことであるから呪術的な要素を多分に含んでいるのはやむをえないが、当時しとしては最先端の病院施設の跡である。

         ★

 バスを降り、アスクレピオンへの入口までやって来ると、突然、野っ原の中に、崩れた大理石の列柱が現れた。

 この通りは、古代、「聖なる道」と呼ばれ、アスクレピオンに通じる道路であった。馬車の通る石畳の車道と、列柱をはさんでその横に石畳の歩道がある。我々ツアーの一行は、何故ということもなく、或いは、日本人らしくと言うべきか、全員が古代の歩道の方を歩いた。

 朝まだ早いせいか、若者グループや家族づれの西欧系の観光客はまばらだった。

   ( 石畳の車道の横に歩道もある )

 「聖なる道」の先には、大理石で造られた長い地下道(トンネル)があった。

 古代には、足元を細いせせらぎが流れ、古代人はその水音に耳を澄ませながら、暗い地下道の中を神殿の方へと誘われていった。一種の心理療法的効果をねらったのかも知れない。

   ( 地下道の跡 )

 地下道を抜けると、広場に出た。

         ★

 広場の入口にヘビの彫刻を施した円柱があった。脱皮するヘビは、再生のシンボルと考えられていたという。

   ( ヘビのレリーフの円柱 )

 広場の中央付近に聖なる泉の跡があったが、今は涸れている。当時はここで身を浄めた。

 広場の周辺には、神殿、医療施設、宿泊施設のほか、医学書を集めた図書館などもあったそうだが、今は礎石と列柱が残るのみ。宿泊施設に泊まって、その夜見た夢を参考に治療法が決められたという。

   ( アスクレピオンの広場周辺 )

         ★

 遺跡の石の間に、赤い野の花が咲いていた。

 

     ( 廃墟の野の花 )

辻邦生遥かなる旅への追想』から

 「私がより強く心をときめかしたのは、ベルガモの遺跡で、野生の、一重の赤いアネモネの花を見つけたときである」。

若山牧水の歌 

 「かたはらに 秋草の花 語るらく

   滅びしものは なつかしきかな」

         ★

 広場の横には劇場があった。古代ギリシャ・ローマ時代の円形劇場としては小ぶりだか、ここでは音楽療法も試みられていたそうだ。

      ( 劇場 )

         ★

 こればかりの遺跡であるが、興趣があった。

 最初の、列柱の連なる「聖なる道」の入口に戻り、バスで野の道をアクロポリスへと移動する。

     ( バスで移動する )

        ★

< アクロポリスの丘の遺跡 >

 アクロポリスの丘に上がるロープウエイ乗り場まで、直線距離にすると2キロ少々だが、バスは15分ほどかけて、野や丘の道を通って移動した。5月とはいえ炎天下の下、遺跡の中をかなり歩く上に、この距離を徒歩で行くのは大変である。だから、個人、グループで訪れる場合は、タクシーをチャーターするようだ。

   アクロポリスの遺跡は標高335mの丘に上にある。

     ( アクロポリスの丘からの眺望 )

 アクロポリスとは、その都市のシンボルとなる神殿が建てられた丘のことである。有事の際には市民こぞってここにたて籠もる。当然、城壁もあり、防備の用意もある丘である。

 かつてシチリア旅行したとき、海を見下ろすアクロポリスの丘の廃墟を幾つか見学して感動した。( ブログ「シチリアへの旅」の7、8、11 )

 だが、ベルガモンはエーゲ海から25キロほど内陸に入った所に栄えた都市で、眼下に海を見下ろすことはない。

        ★

 アクロポリスの丘には、図書館の跡、トラヤヌス神殿、劇場、ゼウスの大神殿の跡などがある。

 ペルガモン王国が当時の地中海世界で屈指の文化水準に到達していたことを示すのは、かつてこの丘に存在した図書館である。エジプトのアレクサンドリアの図書館に次ぐ20万巻の蔵書を誇っていた。

 書物を編むためにはパピルスが必要であったが、エジプトのプトレマイオス朝が品不足を理由に輸出を禁止した。そこで、ベルガモン王国は羊皮紙を発明した。以後、良質の羊皮紙の産地としても有名になった。

 ただし、図書館があった場所も、今は何もない廃墟である。

 

   ( 図書館の跡 )

辻邦生遥かなる旅への追想』から

 「この春、訪ねたトルコの地中海側のベルガモ、スミルナ、エフェソスなど古代都市の名は『ヨハネ黙示録』の中にアジアにある7つの教会の所在地として出てくる。古代都市スミルナは現在は広大な港湾都市イズミールとして発展しているが、ほかの都市はほとんど昔日の面影はなく、小さな村落のそばに打ち棄てられた廃墟の石だけが青草のなかに散在している。

 たとえばベルガモのアクロポリスの丘には見事なディオニュソス劇場と並んで図書館跡があるが、かつて20万冊の本を集めた図書館を偲ばせるものはどこにもない」。

        ★

 トラヤヌス神殿は、ローマ皇帝で5賢帝の一人であったハドリアノスが、同じく5賢帝と称せられる前帝トラヤヌスのために建てた神殿である。

 だが、すでに2千年近い時間を経て、今は石積みの土台部分と石柱の一部を遺すのみ。

 5月とはいえ30度を超えるエーゲ海地方の真っ青な空をバックに、大理石の柱と台座の白がコントラストを成して、この旅の中でも最も印象に残った光景の一つであった(冒頭の写真)。

 

 ( トラヤヌス神殿の遺跡 )

        ★

 アクロポリスの遺跡に残る劇場はかなりの急斜面に造られていた。これほどの急斜面の古代劇場は珍しいという。眺望が良いのは言うまでもないが、ここき音響効果もまた非常に良いそうだ。

 観覧席は82段あり、約1万人が座ることができたという。

  ( 劇場の遺構 )

 劇場の東にはアテナ神殿があった。有名な「瀕死のガリア人」などの彫刻群で飾られていたというが、今は、何もない。

        ★

   劇場の南には、BC180~170年ごろに建てられたゼウスの大神殿があった。ヘレニズム美術を代表する建造物である。だが、今はわずかに基礎壇が残っているだけで、その壮麗さを想像することもできない。

 大神殿の祭壇は、コの字型の列柱式回廊と、大階段と、台座で構成され、台座を囲む大理石の壁は、神々と巨人との戦いを描いたレリーフで飾られていた。そのレリーフは、高さ2.3m、延長すると何と113mになるそうだ。

 19世紀にドイツ人考古学者によって発掘され、レリーフで飾られた大理石群などすべてが船でベルリンに運び出された。

 今はベルリンのベルガモ博物館の中に、2200年前の巨大な神殿が復元され、展示されている。ベルリンに行って見学するものと言えば、「ベルリンの壁」と、日本人なら森鴎外の「舞姫」に登場するウンター・デン・リンデン通り、あとはこのベルガモ博物館である。

 これら古代ギリシャ・ローマ系の遺跡や出土した美術品が誰のものか、或いは、どこの国の所属とすべきかということについて、私には明快な答えはない。

 トルコは当然、ドイツを非難する。

 ドイツに言わせれば、西欧諸国の中でも遅れて出発した我々は、大英博物館やルーブル美術館の真似をしただけだと言うかもしれない。

 それに、19世紀当時のオスマン帝国に、古代ギリシャ・ローマの遺跡を人類の遺産として大切にしようという意思があったとは到底思えない、と言うだろう。我々は「人類の貴重な宝」だと知っていたから、破壊されないようにドイツに持ちかえり、しかもそれを当時のままに蘇らせたのだと。

 そもそも、これらの遺跡は、確かにオスマン帝国領にあったが、オスマン帝国が当地に侵略してくる以前は、そこは東ローマ帝国(ビザンチン帝国)であり、民族で言えば古代からギリシャ系の人々が暮らし、文明を築いてきた歴史がある。

 だがしかし、と、今のトルコ共和国は言うであろう。トルコ国民は多くのギリシャ系の人々を含む多様性をもった共和国であり、歴史も文化も、ギリシャ的要素を含んでいるのだと。

          ★

 参考までに、前掲の松谷浩尚『イスタンブールを愛した人々』から要約・引用する。

 「トルコ人の多くは伝統的にドイツに親近感を抱いている。今日のトルコにとって政治・経済・文化などあらゆる分野でもっとも緊密な関係にあるのはドイツである。ドイツには多くのトルコ人出稼ぎ労働者とその家族が住んでおり、その数は200万人とも300万人ともいわれる。ドイツも国際社会において、他のいずれの諸国よりも、トルコに対しては好意的な態度を示してきている」。(注: ただし、ごく最近のトルコについて言えば、エルドアン大統領はかつての敵対国ロシアに接近し、一方で、非EU・非NATO=非ドイツ的態度をとりはじめている)。 

 「しかしながら、オスマン帝国末期にトルコ各地の古代遺跡から発掘された財宝や古美術品などを国外に持ち出したドイツには手厳しい批判がある」。

 「ベルガマの遺跡を見たければ、トルコではなくベルリンのベルガマ 美術館に行くべきだという人さえいる」。

 「ベルガマから発掘された彫刻や古美術品などのめぼしい出土品はすべてドイツへ運び出されたのだ」。

 「ベルガマだけでなく、トロイの出土品も不法に国外に持ち出された」。

 「トルコは過去の苦い経験から『怨念』ともいえるほど、古美術品の流失を防ぐことに躍起になっている」。

 同書によれば、かつて日本人女性の旅行者が、トルコの空港のセキュリティ・チェックのとき逮捕された。地方都市の土産物店で買った青銅製品を持っていたためである。警察は地元の博物館の研究員に鑑定を依頼した。その結果、青銅製品は骨董美術品とされた。こうして彼女は起訴され、無罪の判決を勝ち取るまでいやというほどの苦渋を味わった。

  「この事件から十数年過ぎた現在でも、在トルコ日本国大使館は『犯意の有無やその値段など問うところではないので、どんなことがあっても古美術品とおぼしき物品には手を出してはいけない』と注意を呼びかけているぐらいである」。

 (この日の午後は次回へ)

 

 

 

 

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ダータネルス海峡を渡ってトロイ遺跡へ … トルコ紀行(4)

2018年07月08日 | 西欧旅行…トルコ紀行

( ダータネルス海峡を渡るフェリーからエーゲ海を望む )

第2日目 ( 5月14日 )  トロイへ

   昨夜はイスタンブール市内に入らず、空港に近いホテルに泊まった。

 今朝は7時半にバスに乗って出発。

   終日、バスの旅で、エーゲ海に臨むリゾートの町アイワルクまで走る。

 途中の観光はトロイの遺跡だけだ。

 トロイ遺跡は、観光客の目を喜ばすほどのものが残っていないから、イスタンブールから飛行機で一気にイズミールまで飛んでしまうツアーも多い。だが、見るほどのものはなくても、ここがあのトロイの跡だと思って、その場所に立ってみるだけでも興趣がある。

 それに、今日のもう一つの楽しみは、ダータネルス海峡をフェリーで渡ることだ。ダータネルス海峡も、目に映じるのは茫洋とした単なる海かもしれないが、しばしば歴史の舞台に登場する海峡を目にする機会は捨てがたい。

 とは言え、イスタンブールからトロイまで330キロもある。休憩時間や昼食時間は別にして、正味5時間半かかる。さらにトロイからアイワルクまで150キロ。2時間半。8時間もバスの中だ。

 これがトルコ旅行。覚悟がいる。

          ★

マルマラ海の北岸を走る >

 昨夕、イスタンブールの空港に、トルコ人の女性ガイド・Dさんがツアー一行を迎えに来てくれた。これから旅行中ずっと、この人がガイドをしてくれる。トルコの名門大学・アンカラ大学の日本語学科卒。達者な日本語で、トルコ政府の通訳として何度も日本を訪れていて、日本通だ。ガイドとしての説明もしっかりしていて、トルコの歴史と文化を日本人に伝えたいという熱を感じる。今まで経験したツアーの中で、一番中身のあるガイドだ。もちろん、トルコ政府のガイド資格を持っている。

 バスはイスタンブール郊外の市街地を出て、田園地帯に入った。左手にマルマラ海を見ながら、その北岸(ヨーロッパ側)を西へ西へと走る。

 豊かな田園地帯だ。

   ヨーロッパでも、作物を育てるのは不向きだと思われる石ころだらけの土壌の土地や、いかにも荒涼とした土地もあるが、トルコは緑に恵まれた豊かな農業国のようだ。

    ( 車窓風景 : 耕作地が広がる )

[ ガイドの話 ] マルマラ海には2つの島があり、そのうちの1つは古来から有名な大理石の産地だった。大理石のことをギリシャ語でmarmarosという。マルマラ海の名は、これに由来する。大理石の海だ。

 湖のように四面を大地に囲まれた、トルコの内海である。東西に長く、280キロ。その東の端にイスタンブールがあり、そこからさらに東は、ボスポラス海峡によって黒海につながっている。

 マルマラ海の西の端はダータネルス海峡につながり、海峡を抜けるとエーゲ海に入る。そのエーゲ海側に、古代都市のトロイはあった。やはり海上交通の要衝の地である。

 イスタンブールからマルマラ海に沿う280キロはなかなかの距離で、途中、2度トイレ休憩。その一度はトルコの名品であるカシミア製品の店で、ショッピングの時間も入れた長い休憩時間だった。その休憩の間にトルコのお茶、「チャイ」を飲んでみた。見た感じ、紅茶に似ているが、紅茶よりコクがあって、結構イケると思った。

 2度目の休憩の後、バスの車窓にダータネルス海峡が見えてきた。 

          ★

ダータネルス海峡を渡る >

  ( 車窓風景 : ダータネルス海峡 )

 ボスポラス海峡の長さは30キロ。最も幅の狭い箇所は、0.8キロ。

 ダータネルス海峡の長さは60キロ。最も狭い箇所は1.2キロ。

 海峡沿いに、バスは走った。

 やがて、海峡が終わり、トルコの大地も尽きて、エーゲ海が開けるという所に港があり、そこからバスごとフェリーに乗船した。

 

    ( 港で釣りをする人 ) 

 マルマラ海もエーゲ海も、地図上ではごく小さな海に過ぎないが、実際に 船上から望むと、やって来たマルマラ海の方を見ても茫々と海は広がり、反対側のエーゲ海も海峡が大きく開いて、遥かである。(冒頭の写真)。

 1時間足らずで、遠くに見えていた対岸・アジア側の町が近づいてきた。

 

   ( ダータネルス海峡のアジア側 )

          ★

トロイの遺跡 >

 西へ西へと走ってトルコの大地が終わった所から、今度はエーゲ海の東岸に沿って、南へ南へと南下する。

 アジア側と言っても、かつてエーゲ海の沿岸は古代ギリシャ、ローマ文明が花開いた地である。

 トルコ旅行の最初の3日間は、エーゲ海に沿って、ヨーロッパ文明の発祥の地の跡を巡る旅である。

 途中、レストランに寄って昼食をとり、トロイに着いたのはすでに午後3時だった。

         ★

  ( トロイ遺跡の入口に設置された「木馬」 )

 シュリーマンは、19世紀(1822~1890)の人である。実業家として成功し、財を成した後、子どものころに聞いたホメロスの叙事詩『イーリアス』の物語が忘れられず、41歳の時に、伝説のトロイの発掘を志した。

 すでに、専門家によるトロイ探しは行われていたようだが、彼が偉かったのは、『イーリアス』を徹底的に読み込み、現地を実地に歩いて、ヒサルルックの丘こそその場所だと見当をつけたことにある。それからあとは、豊富な財力を使って発掘調査を進め、ついに「トロイの財宝」を発見するに至る。

 彼は、これこそホメロスが描いた「トロイ戦争」のトロイに違いないと確信した。だが、その後も専門家による本格的な発掘調査は継続され、その結果、トロイ遺跡には9層に渡る都市遺跡が重なっていること、シュリーマンが発掘したのはその第2層で、BC2500年~BC2200年ごろの「トロイ」であること、彼が目ざした「ホメロスのトロイ」はBC1200年代のもので、9層のうちの第7層であったことが、彼の死後に確認された。

 しかも、シュリーマンの乱暴な発掘作業によって、第7層は壊されていた。このことを非難する専門家もいるが、当時の考古学の発掘作業そのものが今のレベルから言うとかなり未熟だったから、仕方がなかったという意見もある。

 では、シュリーマンの発掘した「BC2500年~BC2200年ごろのトロイ」は、全く見当違いの0点だったのかというと、そうとも言い切れない。

 ホメロスはBC800年ごろの人で、トロイ戦争からすでに400年の歳月が過ぎていた。ホメロスは、シュリーマンが少年時代に『イーリアス』に感動したように、伝えられていたトロイの伝説を聞いて、胸をときめかしたのだ。そして、成人して、自分の文学的才能を大いに発揮し、少年時代に聞いた伝説を素材にして、それに生き生きと肉付けをし、一編の優れた叙事詩として完成させたのである。

 では、少年時代にホメロスが聞き、後に『イーリアス』になった「伝説」の中身はどういうものだったのだろう??

 そもそも伝説・伝承というものは、長い歳月をかけ、幾世代の人々の口伝えで、雪だるまのように膨らんできたものだ。元の核となる話に、それぞれの時代の話が混同して膨らみ、さらに、こうあってほしいという人々の願いも加えられる。ホメロスが少年時代に聞いた伝承も、そのようにして形成されたものであろう。

 とすれば、『イーリアス』の原型となった伝承は、BC1200年代の「トロイ戦争」の伝承が核となっているのだろうが、より古い時代、例えばBC2500年~BC2200年ごろの「トロイ」のことを伝える伝承も、BC1200年より後のBC800年ごろまでに起こった事実も付け加えられ、雪だるまのようにふくらんだ伝承であったと考えるべきである。

 3女神が「誰が一番美しいか」と争った話は、BC2500年~BC2200年ごろにはすでに生まれていた話かもしれないし、知恵の将軍オデッセウスの木馬は、BC1000年ごろに形成された伝承かもしれない。

 そのように考えれば、シュリーマンが発掘した「トロイ」は、BC1200年代の「トロイ戦争のときのトロイ」ではないかもしれないが、「『イーリアス』のトロイ」でないとは、一概には言えないということである。

 とにかく、ヒサルルックの丘に「トロイ伝説」の遺構があると考え、事実、「トロイの伝説」を発見したのはシュリーマンなのだから。

 いずれにしろ、遥かな歴史の彼方のことである。

         ★

 発掘され、我々が今、目にすることができるのは、城塞の城壁の一部だけ。古びた石の間から赤い野の花が咲いていた。

 この城塞の周辺部に都市があったかどうかも、まだわかっていない。そこまで発掘の手がまわっていない。今、残っている城壁は、第6層のものである。

    ( 城壁の跡 )

      ( エーゲ海を望む )

 遺跡の端に立つと、畑の広がりの先に、エーゲ海が見えた。

 トロイを攻めるギリシャの軍船が帆を連ねた当時の海は、この城塞にもっと近かったとされる。それはそうだろう。

        ★ 

 さて、シュリーマンの発掘した「トロイの財宝」は、今、どこにあるのか??

   松谷浩尚『イスタンブールを愛した人々 ── エピソードで綴る激動のトルコ』(中公新書)によると、シュリーマンは、発掘した「トロイの財宝」を、トルコ政府との協定を破って秘かに持ち出し、アテネの自邸に展示した。

 当然、トルコ政府をはじめ各方面から批判を浴びた。

 その後、彼はそれをすべて、ドイツに寄贈した。「財宝」はベルリンの博物館に展示された。

 第二次世界大戦のとき、ベルリンは激しい空爆と、さらにソヴィエト軍の侵攻によって破壊され、その混乱の中で、「トロイの財宝」は行方不明になった。焼失してしまったとも考えられた。

 ソヴィエトの崩壊後、モスクワのプーシキン美術館の地下倉庫に「トロイの財宝」が眠っていることが判明した。

 今、「トロイの財宝」は、プーシキン美術館で公開展示されている。

 そして、トルコ、ドイツ、ロシアが、それぞれ自国に所有権があると主張し、決着はついていない。

 シュリーマンは、伝記上の人物として、世界の人々に尊敬されているが、「トルコでは最も人気のない外国人の一人である」(同書)。

 もちろん、われらのガイドのDさんは、トルコに返還すべきだと、強い口調で主張した。

         ★

 1時間ほど、トロイ遺跡を見て、またバスに乗り2時間30分。午後7時過ぎに、海岸のそばのリゾート風のホテルに着いた。

 朝、7時半に出て、12時間。そのほとんどがバスの中だった。

 

 

 

 

 

 

 

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