いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

ねこやなぎ

2005年02月13日 18時24分15秒 | その他



ねこやなぎ

昨日、土曜日は、晴れ。きれいな青空。

すこし遠い街、と言っても車で15分、そこに行く途中に大型書店が複数ある、の本屋に行く。その書店はこの地域のA書店チェーンのひとつではあるが、そして大型店舗ではないが、なぜか思想書が充実している。岩波とみすずの思想書の新刊はほぼある。そこで、『ハイデガーとナチス』などを買う



◆ハイデガーとナチスのことは、以前から知られてはいたが、1990年代に入りその「共犯」性の暴露が進展したらしい。おいらは、この件、まとまったものものは初めて。これまでの、おいらの理解は、大恐慌あとのドイツ、さらには敗戦ドイツで、共産主義かファシズムかの究極の選択があった状況での選択だろう、というもの。だから、ハイデガーの思想そのものとナチスの思想の関係については知らなかった。

◆ハイデガー=非合理;ナチス=非合理;故に共犯の基盤があった;というのはまぬけだろう。ハイデガーを読んで感じることは、その模式的・図式的論述である。ハイデガーは、意外にも、いや意外でもないか、通俗的である。

ハイデガーがフライブルグ大学総長の時の演説も、なんか通俗。

その(わが総統の高く聳え立つ意志)忠実な随伴者となるということは、ドイツ国民が再び労働民族として、その有機的統一、その簡素な威厳、その真の力を見い出し、しかも労働国家として、独力でその永続と偉大さを獲得しようとする意志をもつことを意味する。この前例がない意志の人に、われらが総統アドルフ・ヒトラーに---「勝利万歳!」を三唱

 これって、共産主義の演説でも通用するよね。

◆ハイデガーがナチスに加担したとか、ハイデガーの思考にはナチズムや全体主義に抵抗を供給できるとか、いう視点は、おいらには、よく理解できない。 ハイデガーだって、読書・思索・執筆の退屈しのぎにちょっと体を動かしに、外に出ただけかもしれない。でも、そのことは悪質であるかもしれない。なぜなら、その行動と自分の思想の関連を十分説明していないから。これなら、イデオロギーをはっきり表明している現代米国のネオコンの方がわかりやすい。

◆細見和之の解説で、ハイデガーの思想の「知と非知(=故郷で「学問」なぞ無縁でひたむきな親・祖父母の生き方)とのパッケージ」を指摘している。これはいわば「庶民と知識人のユートピア」である。さらには、開戦時の高村光太郎の詞を思い出す。とつぜん、父母・祖先がわが前に、と歌うのである。

■追記:非知で思い出したが、以前のCM。賃金労働者が満員電車電車とおりすぎる駅のホームで、パンとびん入り牛乳をほおばりながら、娘のために(白黒写真のイメージで出していた)、一生懸命はたらくCM。そのCMソングが、♪~ファイト!たたかうものをたたかわないものが嘲うだろう!♪~というナカジマミユキの曲。このCMが喚起すべきと、資本の手先でしかありえない、CM製作者が狙ったもの。






 


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