一昨日のつづき
前々回、ポップスみたいなクラシックを聴いて、どうもしっくりこないのはなぜだろう? たとえばバイオリンをソフトに、というかポップスっぽくアレンジしたもの聴い場合──ということで、なぜクラシックイタチが「ヘン」と思うのかを、書き始めたところなのであった。
なぜって、そういうのにはだいたい、ドラムまたは打ち込みのリズムが入っているのである。まずこれが、どうも余計な感じがする。
なんでだろうねえ、とウチで話していたのだが──こういうギモンを呈し始めるのはだいたいクラシックイタチであって、ヒビキくんはそういうことは言わない。ヒビキはYoutubeで桑田さんの「Change the World」を聴いていておしまいのほうで、「あれ、今コードひとつ違った」などとおっしゃるのである──で、話は戻るのだが、要するにアンサンブルをやっている場合、演奏者はお互いの演奏を聴いて、自分の楽器を演奏しているわけである。
その時、自分の演奏には、他人の演奏のリズムが入っているし、リズムの人は、メロディに内在するリズムを音にしているのであって、演奏者はみんな音楽的な成分を共有しているはずなのだ。
ところがこういうクラシックのソリストを迎えて、というソフトクラシックは、ちょうどカラオケみたいにバッキングのトラックだけできていて、そこにふんわりと天使が舞い降りるようにバイオリンが流れるのである。(逆という場合もあるかもしれない)どういうレコーディングであってもよいのだが、バイオリンの歌いのなかに、バックに流れているリズムが「ない」。これがどうも別々のものみたいでヘンなのだ。
ジャズうさぎは、「歌を拡張したもののなかにリズムがあるはず」というのだが、どうだろう。
クラシックイタチはもっと極端に、リズムが根源的にあって、そこからメロディーが生まれてくるようなイメージがあるんだけどな。
とジャズうさぎは「メロディだけのものもあるでしょ、労働歌みたいに」と反証してくる。
そうなるとどっちでもいいような気がしてくる。メロディのこともあるし、リズムのこともある、というふうに。でもいずれにしてもそのふたつがある時は、それらが関係ねーになってるとヘンだ。そういう話になった。そういう音楽は、要するに、なんか白々しくて、ご都合主義的に聴こえるのである。