はんどろやノート

ラクガキでもしますか。

夢見るジョンジョロリン

2009年01月07日 | おんがく
 
  [夢見るジョンジョロリン]

 今日は日曜で、何をしようか、せっかくの休みなのに~

 猫の毛でもむしろうか、やることがないから~

 ジョンジョロリン、ジョンジョロリン、明るい日本はここにある ♪



 これが、僕のはじめて買ったLPレコード。(前に『ホング・コングの逆襲』ではないかと思うと書いたけど、実家で確認したら、『セロリ・パセリ』でした。)  実家から持ってきたのはいいけど、でも、こちらにはレコードプレイヤーがないので、聴けません。
 僕はまた、『所ジョージのオールナイト・ニッポン』を1回分録音した120分テープもあるけど、これもテープデッキがないので聴けません。残念。

 所さんの『オールナイト・ニッポン』は、すごい早口(今の所さんの3倍くらいの速度)で喋るので、最初は「あいつ、うるさいだけ!」と思っていた。ところが、よく聴いてみると面白いので、毎回テープに録って聴くようになった。
 あの超早口の喋りは、自分の一週間の遊びをぜんぶ喋りたくてしかたがない、1時間や2時間では喋り足りない、というふうだった。所さんは、たとえば、バイクに偽装した自転車を実際に作り、一方通行の道路を逆走する、そして警官が止めに来たら、「自転車だよ~ん」と警官を驚かす、そんなことを(話の上でのことではなく)本当にやっていたのだ。 __なんという元気な人だ! あのころの所ジョージは、「あいつは、TVでは面白くないけど、楽屋ではメチャクチャ面白い」と、他の芸能人がよく言っていた。 「ツッパリバカ」というコーナーが人気で、他に「王さんコーナー」、「桜井の父」などがあった。
 そのラジオ番組は予告なしに3月、突然、終了した。 所さんは、終了の3分前になって「今日で所さんのオールナイト・ニッポンは終わりです。」といった。それでも少し時間が余って、「だから~、所さんは、この番組が好きだったんだよ~!」とテレながら何度かくり返して、そして本当に『所ジョージのオールナイト・ニッポン』は終わった。 僕は、ああ…もうあのうるさくて面白い喋りは聴けないんだ、と思った。
 所ジョージはその日の番組終了後、泣いたそうだ。ずっと後で僕は知った。それは数年前のこと、『宮川賢のバツラジ』を聴いていたら、宮川さんがそのように言っていたのである。 宮川さんは、あの時期の(つまり30年ほど前の)「深夜ラジオ黄金期」にやっぱりAMラジオを毎夜聴いていて、それでラジオ・パーソナリティに憧れてラジオの世界に入ってきた人なのだ。 所さんのその話は、ラジオ界の小さな伝説として残っていたのだろう。
 このアルバム『セロリ・パセリ』の中に『春二番』という曲も入っているが、これが『所ジョージのオールナイト・ニッポン』のエンディング曲だった。


   [春二番]

 か~どの~ 小池さんに、お嫁さんが来て~

 あ~いさ~つ廻りで~ 家にもやって来た~

 つ~まらない物ですけど~ 受け取って下さい~

 つ~まらない物では~ 受け取れません~ ♪


   心の片隅が~ ひ~ね~くれ~て~

   ついでに頭の片隅が~ …   


 4年ほど前に、『坂崎幸之助のオールナイト・ニッポン』の最終回に、所ジョージがゲストで出て喋っていたのを、僕は偶然にも聴くことができて、嬉しかった。
 アルフィーの坂崎幸之助は、所ジョージの『オールナイト・ニッポン』のパートナーだった。 たとえば面白くないハガキを読んでしまったとき、アリス(谷村新司らがいた三人組のバンド)のものまねをして、二人でギターを弾いてこう歌う。

  アツく~涙が出るよな~
  シラけた~ はがき~ ♪


 
  ↑
 そしてこれは山崎ハコのアルバム。妹のものだが、勝手にもらってきた。
 山崎ハコは、所ジョージの番組のうしろ『オールナイト・ニッポン第2部』をやっていた。喋る速度が超スローで、所さんとは対照的で、それがおかしかった。
 山崎ハコは、あの当時、いまにも死んでしまいそうな風貌のキャラ(身体も弱いし歌が暗い)だったが、じつは今も健在だ。一昨年、ラジオで新曲(『BEETLE』)が流れているのを聴いた。
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クレイジーキャッツ

2008年10月26日 | おんがく
 歌・植木等、コーラス・ハナ肇とクレイジーキャッツ
   『アッと驚く為五郎

 これが、僕が初めて買ったシングルレコードです。


 ハナ肇とクレイジーキャッツ
   メンバーは、
   ハナ肇、植木等、谷啓、犬塚弘、安田伸、石橋エータロー、桜井センリ


 僕の父はどういう人かとひと言でいえば、「壊れかけのラジオ大好き!」という人。
 父は、東京に出張がある時に必ず立ち寄る場所がありました。それが、秋葉原です。ですから、僕は、東京になど行った事もない子供時代から「秋葉原」とい地名を知っておりました。父は、「電気部品」が大好きなのです。今でも『ラジオライフ』という雑誌を隅々まで読んでいます。もちろん若い時はラジオは作っていましたし、真空管のテレビなら修理できます。アマチュア無線もできます。東京出張など数年に一度でしたから、ここがチャンスと秋葉原へ行くのです。秋葉原電気街を歩いて、雑誌でしか見たことのない電気部品、雑誌でさえ見たことのないような電気部品を探して、ウキウキわくわくするのです。
 「壊れかけの電化製品」は大好物。 どこが悪いかよっしゃワシが治して進ぜよう。
 そんな人ですから、オーディオ関係もとくいです。僕の父は、直径20センチ以上もあるリール(それだけつまり旧式であるということ)のリール式テープレコーダーを持っていましたし、レコードプレーヤーもありました。星飛雄馬の父一徹がちゃぶ台ひっくりかえしていたあの時代ですよ。(もちろん僕ん家にもまるいちゃぶ台はありました。) 僕は一人でテープレコーダー(これは小型のやつでしたが)で遊んでいて、そのテープを切ってしまったことがあります。だまってそのままこっそり元の位置にそのテレコを返したのですが、その後何事も起こらずふしぎだなあ、と思っていて、もっと後になってそのテープレコーダーをまた使ってみたら、切れたはずのテープがつながっていてビックリでした。さらに後で知りましたが、切れたテープをきれいにつなぐ技術があるんですね。(ただし接合部は完全には元に戻らない)
 レコードプレーヤーは2つありました。そのうちの1つは父が作ったものでした。もちろんレコードも沢山ありました。ただし、ほとんどは演歌でした。彼のオーディオ好きは、7、8割は、(ソフトよりも)ハード面にその興味の比重があったわけです。 「浪曲」が好きでしたから、浪曲師から歌手になった三波春夫が特に好みだったようです。もしもウチにビートルズのアルバムが1つでも置いてあったなら、あるいは僕のそれからの音楽的生活は、今より華やかなものにふくらんだような気がするのですが。
 父母が子供向けに用意したレコードもいっぱいありました。童謡『おさるのかごや』『七つの子』などです。僕はたっぷりそれを聴きましたが、小学生になってさらに段々と成長してきた息子娘に聞かせるには、それらのレコードの歌は幼すぎると、父は思ったかもしれません。(僕はなにも不満に思っていなかったのですが。音楽に鈍感なんですね。) でも父は、何を子供たちに買って聞かせたらよいかまったくわからなかったのだと思います。 

 その父がある日、「好きなレコードを買ってやる。自分らで買ってこい。」と言ったのです。
 僕と妹は、母にお金をもらって、レコードを買いに行きました。僕の田舎には、電気器具などを売っている雑貨屋があって、そこでレコードも売っていました。しかしそういう店ですから、レコードの品数は少なく、選ぶものも限られます。その中から好きなものを選ぶのです。
 妹は、ピンキーとキラーズ恋の季節』を選びました。当時大ヒット中の曲でした。(わ~すれられないの~ あ~のひとがすきよ~♪)
 そして僕は、『アッと驚く為五郎』。


 僕は今日まで、この曲を歌っていたのはハナ肇だと思っていましたが、それはカン違いで、歌っていたのは(『スーダラ節』でもお馴染みの)植木等でしたね。「アッと驚く、タメゴ~ロオ~、なに!」とハナ肇がなんども叫ぶし、ジャケットも「為五郎」であるハナ肇が中心なので、そう思い込んだのでしょうね。このレコード、あるいは田舎の実家にまだあるかもしれません。

 子供時代の懐かしいものや、おもしろいギャグや、そういうものをいちいち採り上げていてはキリがない。ですから、この「僕が初めて買ったレコード」の話も書く予定ではなかったのですが、「クレイジーキャッツ」→「猫」ということに気づいて、急遽採り上げました。僕が初めて買ってもらった本が『びりっかすのこねこ』で、初めて買った漫画単行本がニャンコ先生のでてくる『いなかっぺ大将』、そしてここに「クレイジーキャッツ」…。僕の子供時代に、これほどまで「猫」との関わりがあったとは… ブログをやっていなかったら気づかなかったことです。
 「クレイジーキャッツ」から、子どもの僕は英語の「クレイジー」と「キャット」を知りました。


 ハナ肇(はじめ)は、調べてみると、豊島区長崎の生まれなんですって。これは以前書いたことがあるけど、トキワ荘があって、もっと前(ハナ肇が生まれた大戦前)には「池袋モンパルナス」と呼ばれ、芸術家が集まった地域。
 クレイジーキャッツのメンバーとと僕の父とは、ほぼ同世代になります。


 『アッと驚く為五郎』の「為五郎」は、TVの中のキャラですが、その頃アメリカを中心に世界で流行っていた「ヒッピー」をイメージしたものですね。 戦争いやだ、平和がいいよ、愛だよ、働きたくねえよ、なあみんな…、てな感じ。
 今の僕はこの「為五郎」の格好から、「広島太郎」を連想するのです。
 「広島太郎」というのは、広島市にいた人なら皆知っている昔いた人物で、いまの言葉でいえばホームレスなのですが、身体に色々なもの(腕時計とかぬいぐるみとか紐とか)を身に着けて鮮やかな衣装の目立つ人で、本通りという広島の中心部をよく歩いていましたから、それでたいていの人は知っていました。今はいないので伝説のようになっていますが、伝説ではなく実際にいた人物です。僕が印象に残っているのは、映画館でこれから映画が始まるという時に、からんからんと紐に空き缶をつけて身体にぶら下げたものも鳴らしながら、彼、広島太郎氏が入って来たことです。あの映画は何だったか、思い出せません。
 「広島太郎」のあの格好は、今になって思えば、あれは、シャーマンの特徴を具えていますね。シャーマンって身体に金属をジャラジャラと巻きつけるんですって。ヘビメタの人の金属趣味も同じようなルーツではないでしょうか。卑弥呼やアマノウズメも金属じゃらじゃらさせて踊ったのでは? 広島太郎氏、なにを考えてああいうふうに生きていたのでしょうか。だれか調査して本にしてくれないものか。
 「広島太郎はしんでしまった」ということになっていたらしいのですが、また最近では「それはウソ、ほんとうは生きている」という話もあるそうです。


 クレイジーキャッツのメンバーの谷啓(たにけい)は「ガチョーン」のギャグで有名ですが、彼は大の猫好きでもあるようです。
 ところで、僕が買った初めてのレコードアルバムはといえば、これが、所ジョージなのです。それが何だったか手元にないのではっきりしないのですが、たぶん、『ホング・コングの逆襲』だったと思います。 (実家に帰った時にさがしてみよう。)
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アは「亜細亜」の亜

2008年10月23日 | おんがく
 ヨウちゃんのお父さんは船乗りです。海に憧れて船乗りになったお父さんが、その息子のヨウちゃんに太平洋の「洋」の字をつけた__そのことは前々回記事「エドガー・アラン・ポー」に書きました。
 そのヨウちゃんには妹がいます。アコちゃんです。
 彼女のことを今回は書こうと思います。 じつは、アコちゃんのことはずっと前に一度このブログ記事に書いたことがあるのですが。(それはあとでまた採り上げます。)


 まず、RCサクセションの話から。(ミヤシロウの次はキヨシローってわけで。)

 前回は、僕の「初めてのコンサート体験」がぴんからトリオであることを発表した。それは、タコに誘われて(海のタコではないぞ)行ったわけで、チケットもタダである。タダだから行ったようなもので。
 では、僕がいちばん初めに自分でチケットを購入して行った音楽コンサートは、なにか? それは、
 RCサクセション、なのだ。
 これ、ずいぶん自慢になる気がするな。(アア、行っといてヨカッタ。) RCサクセションは古いロックバンドで、そうボーカル忌野清志朗、ギター仲井戸麗市の、『雨上がりの夜空に』がヒットして… あ、説明はいらないね。

 当時、ちょうどRCサクセションの出世作『雨上がりの夜空に』がヒットし始めた頃で、でもヒットし始めたとはいえ、ラジオでもほとんどまだ流れていなかった。当時はラジオでも、日本のフォーク(ニューミュージック)と、洋楽(DISCOが流行っていた)が多かったと思う。
 だから僕は、ラジオ(AM)を毎日よく聞いていたが、「RCサクセション」というバンドの曲を一度さえ聞いたことがなかったのだ。『雨上がりの夜空に』もまだ知らない。 なのでファンだったというわけでもないし、誰かに誘われたわけでもなく… それでいて、RCサクセションのコンサートに行こうと思ったのだ。

 その理由をひと言でいえば、カンである。 それ以外に、理由はない。

 キッカケは雑誌で、『週刊プレイボーイ』だったと思う。喫茶店かラーメン屋かなんかの食堂でその雑誌を見たのだが、2ページの見開き写真で、そのバンドのコンサートが話題を呼んでいると紹介されていたのである。その記事には『雨上がりの夜空に』という曲が人気急上昇、ライブはもっと凄い、というようなことが書いてあった。
 「行きたい」 と、瞬間、僕は感じたのだ。
 「よし、行こう」と決めて、僕はチケットの購入方法を調べてみた。この当時、携帯電話などもちろんないし、学生の(固定)電話の所持率は1割にもまったく及ばないものであったから、音楽コンサートチケットは電話予約なども受けていなかった。(場合によってはあったかもしれないが。) なので、チケットは、プレイガイド等に直接買いに行く、それが普通であった。
 その時僕は広島で一人暮らしをしていたのだが、タウン誌で調べるとうまいぐあいにRCサクセションのコンサートが数ヶ月後に広島で開かれるとわかった。そのチケットは「本通り」という場所の音楽店で発売されるということも。
 チケット発売の初日、僕は1時間半ほど前(朝7時半くらいだったと記憶している)、広島本通りのそのチケット売り場に行った。RCサクセションの人気度が僕自身、よくわからなかったのだけれど、行ってみると3、4人の「先客」がまだ開かないシャッターの前に並んでいた。ええ、3人か、4人…そんなものだった。僕はかれらとそこに並び、シャーターが開くのを待った。
 僕は最前列の席のチケットを一枚買った。
 (RCサクセションのチケットが、しかもその最前列の席が、ほんの1時間早く並ぶだけで取れた__というその事実から、まだ彼らの人気が「爆発前」だったというのがわかるだろう。)

 そのチケットを買って、コンサートの日までの間に、RCサクセションの名前をラジオで何度か聞くようになった。『雨上がりの夜空に』がラジオから流れてきた。
 ああ、こんな曲だったか! いい! おもしろい曲だ!
 自分のカンが間違っていなかったと嬉しくなって、僕はそのコンサートが楽しみになってきた。他にはどんな曲があるのだろう。


 さあ、当日です。 場所は広島見真講堂(けんしんこうどう)。

 僕は最前列の自分の席に座っていた。 するとその時、
 「○○○さん!」
と呼ぶ声が。 どういうことだ?
 それは僕の名前だ。僕の名前を(苗字でなく名前を)呼ぶのは、だれ?
 「えっ」と振り向くと、 そこにいたのはアコちゃんだった。 幼馴染のアコちゃん。ヨウちゃんの妹の…、小学生の時にはよく遊んだ。あの頃の田舎の小学生はみんな一緒になって遊んだものだ。

 「やあ…。」
 このブログをまめに読んでいる人は知っているはずだ、10代後半になって僕がほとんどしゃべらなくなっていったということを。反応もにぶい男だった。(でも内心はこの奇遇を驚いていたさ。そりゃそうさ。)
 僕はアコちゃんが高校卒業後広島に出てきていることも知らなかったし、それにこんなところで会うなんて!
 アコちゃんは僕に聞いた。「この席、どうやって取ったの?」
 僕は上に書いたようなことをモゴモゴと説明した。 で、会話はそれで終わり。(←笑)

 さあ、コンサートがはじまった!
 「イエーイ!」という清志郎の声。 いっせいに皆立ち上がり始めた。
 「イエーイ!」 「イエーイ!
 「イエーイ!」 「イエーイ!
 一曲目は『よォーこそ』。 メンバーを紹介する曲だ。 ベースの音がかっこいい!
 「けんしんこうどうに、よォーこそォ!

 「愛し合ってるかァ~い!

 RCサクセションが、清志郎の「愛し合ってるか~い」の叫びと共に、どんどんメディアで採り上げられるようになったのは、その後のことだ。
 広島見真講堂は、今はもうないそうだ。



 アコちゃんのこと。 アコちゃんは、ヨウちゃんの妹で、お父さんは船乗りで、ふだんお父さんは家にいなくて、その家には大きななつめの木がある。 僕とヨウちゃんは友達だし、アコちゃんは僕の妹と友達だし、家は近いし、小学校の時にはずいぶん一緒に遊んだし、中学になっても時々は遊んだように思う。
 でも僕が高校生になったあとは、ヨウちゃんともアコちゃんとも全然話したことがなかった。アコちゃんは2コ下で、家は近所で同じ高校へ通っていたのだけど…なぜか一度も接点がなかったのだった。一年間は毎日同じ時刻の列車に乗っていたんだけれどね。まあ、僕は、「超無愛想な男」になっていたから…。 きれいになって女として意識した、なんてこともない。いや、実際アコちゃんはきれいになっていたけどね。体型がすらっして色白で。 アコちゃんは、えくぼがかわいいんですよ。それは子供のときからだけど。
 そのアコちゃんと、RCサクセションの広島でのコンサートで、出会ったんだから。 そりゃ、ちょっと、「サプライズ!」 です。
 振り返っておもしろいのは、「そのあとに何もない」ということ。僕らしいなあ、と思うのですが。ふつうそういうことがあったら、コンサートの後で話すとか、住所を聞く(電話はもっていない)とかすると思うのだけど、挨拶もせずに帰っている。まあ、コンサートの後に姿が見つからなかったということだと思うけど。記憶に残ってないのでよくわからないが、とにかく、それっきり。


 さて、このアコちゃんのこと、以前も一度ブログに書いている。 (→これ
 印象的な記憶なのだ。
 二人であそんでいて、僕の父が写真現像のための「暗室」として使っていた部屋に入ったら、ボロい木製の扉が開かなくなって、二人で怖くなって泣き叫んだこと。そして、アコちゃんが「○○○さん、泣かないで」と言ってその扉を押したら、それまで開かなかった扉が急に開いたこと。闇の世界から解放されて外の空気を吸って、ホッとして、それからアコちゃんの家に行ったこと。アコちゃんが擦りむいた脚に「赤チン」を塗っていたこと。
 それらのことを僕はよく憶えている。あれはいくつくらいのことだったろう。小学校2、3年生くらいか…。
 あのときのアコちゃんの「○○○さん、泣かないで」の言葉、あれは、「開かないドア」を開けるための、とくべつな魔法の呪文だったのではないか… そんなことを思ってしまう。


 そのRCサクセションライブで会って、それ以来、アコちゃんとは一度も話をしていない。
 ただ、姿は一度見ている。 ずっと後…、アコちゃんのお父さんの葬式のときに。

 僕がある仕事を辞めて2ヶ月の間実家にいた時に、ヨウちゃんとアコちゃんのお父さんが亡くなったという知らせが入った。あの船乗りだったお父さんが亡くなったと。もう船乗りの仕事も定年を迎えてやめて家にいるということだったが…。
 葬式の手伝いにうちの父が行かなければいけないのだが、たまたま別の人の葬式と重なってしまった。そこにさらにたまたま僕がいたので、僕がその葬式の手伝いに行くことになった。
 その日は、雪が一晩で30センチほども降った日の朝で、「こんなに降ったのは20年ぶりぐらいではないか」などと皆が言っていた。僕らの仕事は、葬式を行うのために、雪を除雪して道を開けたり、受付のテントをつくったりといった屋外の準備である。その仕事自体は2時間ほどで終わった。
 慰問客がぽつぽつとやって来ていた。ある女性が雪道をやってきて、アコちゃんを呼んでほしいという。ヨウちゃんもアコちゃんも実家を出て、どこか都会で働いていた。どちらも結婚していないという。その日には、すでにアコちゃんは帰ってきていて家の中にいたようだ。

 アコちゃんが家から出てきた。訪れた女性が「アコちゃーん!」と声をかけると、アコちゃんの顔が崩れ泣き出した。二人は抱き合って、そのまましずかに泣いていた…。
 そのときに僕がどんなことを思ったか、記憶に残っていない。
 (泣かないで、アコちゃん)と僕は心の中で励ました。 …そういうことにしておこう。


 アコちゃんのお父さんは船乗りで、海と外国に憧れていたようで、それで…
 アコちゃんの「ア」は、「亜細亜(アジア)」からとった、「」 なのである。



 僕はその船乗りのお父さんからもっと話を聞けばよかったなあと思います。外国のことや海のことや…
 アコちゃんとも、もっと話をすればよかったなあ、と。 (でもねえ、あの時は、何も話すことなかったんだよ…) 

 RCサクセションライブでのあの偶然はなんだろう…と時々僕はおもうのである。単なる偶然だよ、と言われれば反論もない。ただ、そういう偶然があったおかげで、その瞬間の言葉や映像が刻まれる…そのことに何か意味がありそうな気が僕はしている。

 忌野清志郎のライブ…、行きたいねー。

 寝ころんでたのさ 屋上で  ♪ ♪     ♪



 ここまでは昨日書いた。あとは絵をつけて__という予定でいた。
 今日は昔読んだことのある大原まり子のSF短編『銀河ネットワークで歌をうたったクジラ』を再読。その小説とは関連がなさそうだが(‘歌’と‘爺さん’が思い出さのせたのかもしれない)、その後に、ふいに、アコちゃんとのエピソードを一つ思い出したのである。折角なので付け加えておくことにした。
 こんな話だ。

 アコちゃんは、近所の、墓石づくりのお爺さんと仲良くなった。
 その爺さんの仕事場には墓石の原石である花崗岩(御影石)がごろごろしていて、小屋があって、それがその爺さんの仕事場だった。その小屋は、半分が仕事場、あと半分が小さな畳の部屋、それに簡易な便所がつくってあった。花崗岩を注文に応じて切り、削り、磨く。すると表面はつるつるになる。そして「○○家の墓」というような文字を彫って墨を入れる。その作業を、お爺さんは一人で全部やっていた。
 アコちゃんは、いつのまにかそのお爺さんと仲良くなって、僕の妹もそのうちに一緒にお爺さんの仕事場に行くようになった。つられて僕も行った。
 墓石づくりの作業は屋外でおこなうのだが、僕が面白かったのは、お爺さんの屋内での作業だった。そこには、轟々と燃える火があり、そこで爺さんは、鉄を打っていたのだ。鉄を火に入れ、真っ赤になった鉄(作業の道具)を、カンカンと打ちすえるのだ。僕はそれまで、その爺さんが、小屋の中でそんなことをしているとは知らなかった。僕は黙って、その打たれる鉄の道具をずっと見ていた。
 仕事が終わると、爺さんは畳のある部屋で、酒を飲んだ。その部屋はすごく狭かったがこたつもあった。お爺さんには家族があって住む家は別にあるのだが。
 部屋の中を見上げると、紙が張ってあってなにか書いてある。それを僕が声に出して読もうとするがよめない漢字がある…。 「炭坑節(たんこうぶし)よ。」とアコちゃん。そしてアコちゃんはお爺さんに「バイオリン弾いて。」といった。お爺さんはバイオリンを弾き、アコちゃんは爺さんと、炭坑節を歌いはじめた。僕の妹も。そして、僕も。

 月が~ 出た 出た~
 月が~ 出た~
 あんまり~ えんとつ~が~ たかい~ので~
 さ~ぞ~や~ お月さん 煙たかろ
 さのよいよい ♪

 碁石と碁盤もあった。それを使って僕らは「はさみ将棋」をした。将棋の盤とちがってマス目が多い。 アコちゃんは「はさみ将棋」が強かった。僕はまったく勝てなかった。 こんなはずはない、と思ったが、やっぱりアコちゃんが勝つ。
 駒(碁石)をナナメに並べる__それがアコちゃんとくいの戦法だった。
 ずっとあとで僕なりに研究したが、どうやらその戦法は、「はさみ将棋」における最強の戦法で、これに勝てる方法は存在しない、というのが僕の出した結論だった。 思えば、アコちゃんは、お爺さんにその無敵の「必勝戦法」を伝授され、鍛えられていたのだった。
 「ずるいよ、アコちゃん。 それじゃあ、ぜったい勝てないよ…。」 あとで僕はそう思ったのだった。 
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宮 史郎

2008年10月21日 | おんがく
 今日は、タコ、というあだ名のともだちに登場してもらいます。
 子供時代のある日、タコちゃんが、「コンサートに行かないか」と僕を誘いました。

 タコの家は薬局屋だった。「○○堂」というような名のよくある小さな薬局なのだ。 (タコはよく僕に、「薬局というのは儲かる」と言っていた。)
 そのタコの家のお母さんが、和服を買ってその時にコンサートのチケットを二枚もらった。自分は行けないので、息子のタコに、だれか友達と行ってきたら、と言ったのだ。それでタコは僕を誘ったというわけ。せっかく誘われたのだし、と僕は行くことにした。
 その日、タコの家(薬局)に行くと、お母さんが、これを飲みなさいと栄養ドリンクをくれた。僕は栄養ドリンクを初めて飲んだ。 二人で列車に乗って、街の「市民ホール」へ。

 そのコンサートというのが、ぴんからトリオ

 というわけで、僕が、生まれて最初に行った音楽コンサートというのが、ぴんからトリオコンサートなのである。
   …これは、子供時代の音楽体験として幸福だったのか、どうなのか

 当時、ぴんからトリオの『女のみち』が大ヒット。加藤茶のおまわりさんが「あなたァ~のため~にィ~♪」と歌っていたあの曲である。 「まもォりィ~とおォしたおんなァ~の~みさァ~お~♪」 って、それ、子供が聞く歌か!?
 調べてみるとこの曲はなかなかすごい。 「2年連続オリコン年間シングルチャート第1位」という記録で、これは今も破られていない。そりゃそうだな、2年も同じ曲が第1位なんて今後もちょっと考えられない。
 「ぴんからトリオ」 (「宮史郎とぴんからトリオ」が正式名称のようだ)は、その後一人抜けて、「ぴんから兄弟」になり、さらに「宮史郎」になった。
 この記事を書くにあたって、漫画『編集王』(土田世紀作)を何冊か持っていたような気がして探してみたのだが、なかった。 この漫画の中に、宮史郎をモデルにしたキャラが出ていたが、それがなかなかいい味なのである。 残念だが紹介できない。

 このコンサートへ行ったことは、なんとなくだが、誰にもしゃべる機会がなく、30年以上心に潜めて私はここまで生きてきた(笑)。 話せてすっきりしたぜ。



 ところで、昨日僕は書店で『チャップリン自伝』を少し立ち読みした。
 それに書いてあったのだが、漱石がロンドンへ行った前年の1899年、ロンドンで「口ひげ」が大流行し始めたのだという。
 なるほど、夏目漱石の「口ひげ」は、ロンドンの流行の影響なのか! (日本のあの時代の「口ひげ率」はどれくらいなのだろう? 明治天皇もそうだった。)
 そうだ、チャップリンも「口ひげ」だ。もっとも、漱石が留学した時、チャップリンは11歳なので、ひげはまだないのだが。 その数年後、イギリスで『シャーロックホームズ』が舞台で演じられることになった時に、チャップリンは14歳で役をもらって… というようなことがその本『チャップリン自伝』に書かれていた。

 宮史郎-夏目漱石-チャップリン
    … 「口ひげ」で結んでみた。 (あっ、加藤茶のひげダンスもあった)


 タコちゃんはどうしているだろう。 「口ひげ」はやしているだろうか?



  ↑
 これが前回記事で話したジュール・ベルヌの『二十世紀のパリ』。図書館で借りてきた。
 1863年に、「1960年のパリ」を描いた未来小説。つまり100年後に、機械文明が発展したパリでの未来の生活がどのようになっているかを想像して書いたもの。ちょっと力が入りすぎたところがあって内容が重く、そのせいか、ボツになった。そのまま陽の目をみなかった。
 面白いのは、それが1991年になって出てきたことだ。彼の描いた「1960年のパリ」が、「100年後の未来」から、「過去」へと変わった後に発見されて初めて読まれるという、この不思議さ!
 1989年ヴェルヌのひ孫が引越しのため家財を運ぶ際に、先祖伝来の金庫を運ぶのに困った。その金庫は、ブロンズ製で重さ900キロもあったという。しかも鋼鉄とコンクリートで装甲されていた。 ひ孫氏は、これを破壊して(←どうやって?)、中身を見ないまま袋に詰めこんだ。その2年後になって、それを整理しているときに、この『二十世紀のパリ』の原稿を発見したのだという。
 おもしろいなあ! 
 100年後の未来… あなた、想像できます?



◇竜王戦(七番勝負)
  渡辺 明 0-1 羽生善治

◇女流王位戦(五番勝負)
  石橋幸緒 2-0 清水市代
コメント (4)
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僕は君の涙

2008年03月27日 | おんがく
 Perfume(パフューム)を聴きながら書いています。  …ウソです(笑)。 でもあの彼女達、まったく心には沁み込んでこないのに、それなのに妙に記憶に残る歌をうたうと三人組だなあ、と気になってはいます。男が読んではいけない少女漫画に触れたような感覚。「テクノポップ」なんすか、これ。

 ラジオから流れてきた『星つむぎの歌』という平原綾香の曲をもう一度聴きたくなったので彼女のベストアルバムをレンタルしてきて聴いています。いい曲ですね。東京は春から夏にかけての、星が見えにくい季節になりましたが。
 平原綾香さんは『Jupiter』が有名ですね。僕はあの歌声と曲は好きなんですけど歌詞がどうも心にフィットしない。まあそれはいいとして、あれは、クラシックのホルスト『惑星』の曲ですね。今確認してみましたら、その曲をホルスト(イギリス人)が作曲したのは1914年。英国が第一次世界大戦に突入した年です。その組曲の中で「Jupiter(木星)」は「快楽をもたらすもの」という意味なんですって。
 じつは僕は『惑星』のこの部分を若いときになぜだかよく口ずさんでいたんです。歌詞はありませんからハミングで。

  んーんーんー んんんんんんんんんんーんーんーんー んんーん♪

 僕はクラシックはほとんど聴かなかったのですが、たぶん、富田勲のシンセサイザーの曲を聴いていて、その影響ですね、『惑星』をハミングしていたのは。富田勲さんは、沢山の有名な曲がありますが、TVの『ジャングル大帝』の曲が馴染み深い。

  あー あー    あー あー ♪


 僕は10年くらい前、NHK「みんなの歌」で流れていた太田裕美さんの『僕は君の涙』を聴いて、その曲がとても好きになりました。
 その頃の僕は実家にいて、働く以外はめし食って詰将棋をつくって眠って、あとは川を眺めていました。いつも目の前で鶺鴒(セキレイ)が2、3羽シッポをピコピコ動かしながら川にすむ虫を探していました。セキレイって飛ぶときはばたばたと一生懸命はばたくんですが、そのわりにうまく飛べていないようにみえる。かれらは、夫婦だったのか、きょうだいだったのかわかりませんが、ずいぶん仲が良さそうに見えました。
 そんなときに聴いた『僕は君の涙』は、こんな内容の曲です。

 小さな女の子がいます。そのコが泣いて、涙がこぼれ落ちます。落ちたその涙のつぶである「僕」は雨とともに川に流れ、川下へと旅をして行きます。やがて海に出ます。それから水蒸気になって空にのぼり雲になります。雲は風にのって山のほうまで運ばれ、そこで雨となって大地に降ります。雨は大地の渇きを潤してさまざまなものを洗い流します。そして「僕」は、大地の中にすいこまれ葡萄の木の根に吸い上げられて、やがてブドウの実となります。ブドウの実はワインに変わり、あの「女の子」のもとへ。「女の子」は成長して大人の女性となっていました。そこでも泣いていた彼女は、ワインを飲んで元気に。そして「女の子」は、結婚しお母さんになり…。

 そんな話です。僕はこの話のように、川の水が流れて海へ出て、やがて山に戻ってくる… そういう話が、どうも、すきなのです。(彼女の中に入った「僕」は、その後、オシッコに…。いけません、そんなこと考えちゃいけません!)
 この曲はたしか太田さんの作詞作曲だったと思います。太田裕美さんは「酒豪としても有名である」とWikipediaにありました。太田さん、ワインの飲みすぎにご注意を。(スマン、よけいなお世話じゃ。)


 ところで、東京では、意外なほどウグイスの声をよく聴きます。去年、僕は20回以上は聴いています。こんなにもウグイスが鳴くのはおかしいと思い、「そういうグッズ」(ウグイスの鳴き声が流れてくる機械)が販売されていて地味に流行っているのでは、と疑いはじめていたところでした。
 2週間前、今年最初のウグイスの声を聴きました。ずいぶん近いように思われたので、よし、ほんもののウグイスかどうか確かめてやろうと思い、声の出所をさがしました。すると…
 居たのです。木の枝をちょこちょこと飛び移っているウグイスが。ええ、電気ウグイスではありませんでした。(すまん、ウグイス。うたぐって悪かった。)
 しかし、そうすると、このウグイスたちは、鳴かない季節もやはり東京に住んでいるのです。どんなふうに暮らしているのでしょうね。
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出陣じゃよ。

2006年09月02日 | おんがく
8月が1000もあるような白い白い午後
逃げ水を追いかけて走る夏の子どもたち~ ♪

          さあきょうがお歌の本番ですよ。
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つんでれ喫茶かあ

2006年09月01日 | おんがく
「M君。」
「はい」
「ラジオ聴く?」
「ラジオですかー?」
「うん」
「聴かないですねー。」
「全然?」
「ええ」
「へえー」
「ラジオかあ、聴かないなー。」
「テレビは? あ、“下北沢サンデーズ”観てない?」
「観てないです。」
「おれたまに見るんだよね。下北の知ってる店を上戸彩が歩いてたりして、あ、この間はDORAMAっていうレンタル屋が出てたよ。」
「ああ。」
「上戸彩ってなんかサワヤカだよなー。」
「ですねー」
「M君、テレビ番組で毎週見てるってやつ、ない?」
「うーん、とくにないですねえ。」
「ないのかあ…」
「このまえ深夜に“黒い太陽”ってドラマがあったんですよ。あれ面白かったんで、観ようと思っていたんですけど。」
「へえ、どんなドラマ?」
「キャバクラのドラマでした。主役は永井ナントカっていう…」
「永井…あっ、もと仮面ライダーの人?」
「あ、たぶん、そうです。」
「キャバクラいったことは?」
「ないですねー」
「おれもないんだけど、酒のめないからなー、やっぱメイド喫茶かなー。」
「メイド喫茶友達と行こうって言ってるんですけどねー。でも高いらしいですよ。」
「高いって言ったってそりゃコーヒー代と思うからで、キャバクラいけば1万とかかかるんだから。」
「あ、そうですねえ。」
「だけどメイド喫茶のあの黒いファッションは好きじゃないけどね。」
「ご主人様とか言うんでしょ?」
「うん」
「おかえりなさい、とか」
「らしいねえ。」
「つんでれ喫茶もあるらしいですよ。」
「ええ、ほんと。」
「あるって聞きました。」
「ずっとつんつんしてるわけだ… それで、いつ、でれでれするんかなー?」
「帰りぎわじゃないですか?」
「帰りぎわかあ!」
「帰りぎわでしょう!」
            こんな感じでライブに向けて準備中
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いかすぜOK

2006年08月30日 | おんがく
「ハイロウズの“いかすぜOK”って曲なんだけど。どう、M君、やる?」
「あ、いいですけど。」
「よし。じゃあ、これMD。練習してきて」


「M君。」
「はい。」
「坊主にしない?」
「坊主ですかー?」
「うん、坊主。どう? できない?」
「あ、いいですけど。」
「いいの?」
「はい、いいですよ。」
「よし、じゃあM君、本番は坊主ね。」


「M君。」
「はい。」
「本番では顔にペインティングしよう。いい?」
「あ、いいですけど。」
「これ買ってきたんだけど、メガネとって。」


「M君。」
「はい。」
「歌の振り付け考えてきたんだけど。いい? こうやって、こう…。はい、やってみて。」
「こうですか。」
「おお、おもしろい! でも、M君、恥ずかしくない? できる?」
「ええ、だいじょうぶですよー。」
「あ、そう…。」
「…」
「じゃあ、これでいこう! よし、それ、練習してきて。」
「はい。」
「あのー、M君。」
「なんですか」
「おれは坊主にはしないから。」
「え、しないんですか。」
「うん。別キャラでいくから。…いい?」
「あ、いいですけど。」
「… 。」
                      そんな感じで準備進行中。
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朝6時

2006年08月29日 | おんがく
うたの「振り」を考える。ひとの目なんか気にしちゃいられません。(人間はけっこう無視してくれるんですけど、猫にじっと見られていた。)
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忌野清志郎

2006年08月26日 | おんがく
もしもオイラが  えらくなーたら
えらくないやーつとは  つきあいたくない

たとえそいつが  古い友達でも
えらくないやーつとは  つきあいたくない

オイラが昔  世話になったやーつでも
いくらいいやつでも  つきあいたくない

だけどそいつが  アレをもっていたら
オレは差別しない  Oh つ・き・あ・い・た・い

Oh つ・き・あ・い・た・い  Oh つ・き・あ・い・た・い
とても つ・き・あ・い・た・い  Oh つ・き・あ・い・た・い


って歌を練習しています。来週、本番です。清志郎さんの「つ・き・あ・い・た・い」って曲で、正しくはRCサクセッションの曲です。
 「サヨナラCOLOR」って映画をレンタルVでみていたらキヨシローが出ていました。(「妖怪大戦争」にも出ていますね。) 「死」を味付けに使ったはなしが多すぎるなあ…。
 忌野清志郎ただいまコウトウガンと闘い中。いいかんじらしいです。
 10月にはニューアルバムも出ます。
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死んだはずだよお富さん

2006年08月07日 | おんがく
 いきなくろべいみかさのまーつに
 あでなすがたのあらいがみー
 しんだはずだよおとみさんー♪

 まんが『夕凪の街 桜の国』にも出てくる昭和29年の流行歌です。歌っているのは春日八郎で、このレコード、僕の父も持っていて、僕の耳にもすりこまれています。
 で、ぼくはこれ、「松… あらいがみ… 死んだはずだよお富さん? …ああ、松の木のところにお富さんがユウレイになって出る歌かあ。」とずっと思っていました。しかしユウレイのでる歌にしちゃあ曲調がえらい明るい。これはどういうセンスなんだろう…?
 ある日その疑問を父にぶつけてみた。すると父、
「そりゃあちがう。あれは、ある男とお富さんが心中をはかって、それでも男は生き残って、お富さんのほうは死んだと聞かされていたのに、黒塀とりっぱな松の屋敷できれいな着物を着ているお富さんを見た。それで『死んだはずじゃなかったのか!?』という話じゃ。」
 なるほど! そういう話だったのな。心中ねえ…。あっそれで

 いきていたとはおしゃかさまでも
 しらぬほとけのおとみさんー♪        (→「お富さん」を聴けます

ってつづくのな。ん? でもそれでなんであんなに明るい曲なんだろ…??        
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8・3ライブ

2006年08月04日 | おんがく
きのうの箱崎恭子ライブの感想です。
音楽の感想を絵にするなんて、、、気分はカンディンスキー
みどりのところが「しろつめくさ」で。   …言っちゃだめじゃん。
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岩戸を開けて

2006年07月17日 | おんがく
 ああ、そう、こんな感じ!
 7・13の代々木のライブはこんな感じの、楽しい、いきおいのあるライブでした!
 そのライブについて、おもいっきり主観的な、長たらしい感想文を書いてみようと思います。

 きのう、日曜日は横浜に出かけていく予定だったが、やめた。どこにも行きたくない気分だったから。どうも、胸がウズウズするのだ。
 このウズウズは土曜日もあった。金曜日にも。
 あのライブのせいではないか、と思うのだ。木曜日の。

 「箱崎恭子の本体は歌声そのものではないか」

というのが最近僕がうちたてた仮説である。(仮説ですよ、もちろん)
 彼女の歌声は、聴き手のこころの「すきま」をみつけてもぐりこんでくる。そういう才能があると思う。だれのこころでも、というわけではないようだ。もぐりたくなるような、居心地の良さそうな「すきま」をさがして、入りこむ。「すきま」を持っていないひとにはもぐれないし、いやがる人もいるだろう、そういう人は避けて。相手が怒らないように、そーっと入って遊んでゆく。やさしい声で、すねたこどもをあやすように。
 ストリートで彼女の歌を聴いて、僕はそんなふうに感じていた。

 ところが7・13ライブではそれを感じなかった。そういうタイプのライブには思えなかった。(それよりも、楽しさ、いきおい。) 

 理由のひとつに「音量」があると思う。
 ライブハウスの音は自然界の音よりもたいてい大きい。大きな音を聴くと身体はその瞬間、きゅっと緊張する。それは音楽の好き嫌いは関係なく、生理的現象だ。身体が緊張するということは、ドアを閉じて外からの侵入を拒むということだ。
 だから大概の音楽は、実は、こころの真ん中の、やわらかいところには届いていないのではないかと思う。たとえば大音響の中のロックコンサート、あれは「こころの真ん中」を絶対に壊れないように安全にガードしておいて、そのうえで「そこ以外の全身」を使って飛び跳ねてコーフンしているのではないだろうか。「こころを開放したフリ」をして楽しんでいるのではないだろうか。

 音響の問題がなかったとする。だとしても、あのライブでは箱崎恭子の音楽は僕のこころに入ってこようとしなかった、そういう歌い方ではなかった、とも思うのである。(彼女の意図はわからないが。)
 僕はこんな風に思ったのだ。
 大きな音が鳴る。僕のこころの真ん中のやわらかなものは、びっくりしてドアを閉める。それでも、僕のドアには(なぜか)「すきま」がある。ストリートのときは彼女の歌声は、僕の胸の「すきま」をみつけてしのびこんできた。でも、ライブハウスではそうしてこない。

 「私と遊びたいんでしょう。なら、ドアを開けて出ておいでよ。外は楽しいよ!」

 そんな風に聴こえたのである。
 でも、僕の、ずっと長いあいだ閉じたドアは、重い。
 岩戸だ。すぐには開かない。
 「歌声」となって空間を飛び回る彼女を、たのしそうだな、と岩戸のすきまからこっそりながめていた、そんな絵がうかんでくる。
 そして今、そのライブを思い出しつつ、そんな重いドアを、何かが中から開けようとしてウズウズしているのである。僕が岩戸を開けて、中からこころが飛び出したら、どうなるのだろう? 彼女の本体が「歌声」だとしたら、僕はなにになるのだろうか。

 次は、8・3か…。
コメント (2)
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7・13ライブ

2006年07月14日 | おんがく
きのうの箱崎恭子ライブの(ライブレポートというより)「感想文」のようなものを書きたいのですが、ちょっとまってくだされ。絵もできれば描き直したい。(なにかがちがう!)

キヨシロー、それから今村昌平の記事も、かきたい。
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うたごえ

2006年07月13日 | おんがく
 光のない場所で絵を描くことはできない。
 でも、「歌声」とういのは、そんな光のないところにも届くちからがあるらしい。

 ある場所で去年、歌っている女のコがいた。
 ぼくは、ちょっと聴いてみよう、とおもった。そのコのオリジナル曲はすこし悲しげな歌におもえた。だけども、一度聴いただけではわからない。来週も唄いに来るのか。それならまた聴いてみよう。
 だけどこのコもいつまでもここで歌っているわけではないだろう。いつか、ここには来なくなる。そのときに、「あのコはどんな歌を唄っていたのだろう…もっとよく聴いてみればよかったな」とオレは思うのかな。この場所を通るたびにそんなふうにさみしく感じる自分を想像したら、それはいやだな、とおもった。だからこのコが唄いに来るあいだはしっかり聴いておこう、と決めた。
 そうやって毎週聴いていると、同じ曲を歌っても、いろいろと違って聴こえた。悲しげにおもえた曲が力強くおもえてきた。彼女の変化もしれないし、ぼくの心もようのせいかもしれない。体調や、人の流れや、天候にも関係あっただろう。ハプニングもあった。一回一回のその変化が楽しかった。
 いま、彼女はこの場所で歌うことをやめた。
 そしてぼくはその場所を歩くとき心のなかでにんまりする。

 そのコはこれからはライブハウスで歌うことになりました。それでぼくはいまからそのライブハウスに彼女の歌声を聴きに行きます。ひさびさです。
コメント (4)
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