M馬日記(元、日曜レーサー)

塩噴きじいさんの独り言
※2011年11月をもって一時停止
 (再開未定)

【映画鑑賞】『ジョニーは戦場に行った』 2/2

2016年09月15日 | Weblog
反戦映画といのは上辺だけの評価で、この映画は
「人間とはなんだろう?」という問いかけが主題になっているよう
に思います。それは監督自身が赤狩りにあい社会的に抹殺されてし
まってもなお、信念を曲げずに、偽名でアカデミー脚本賞を受賞
したことからもわかるような気がします。


ただの『肉塊』とせず、それに性器をつけることで、これは人間の
物語であることを強烈に印象付けます。そして人間とは姿かたちでは
なく、お互いに理解し認め合い交流する社会的な生物であることを
伝えます。そして人間の尊厳は「自由であること」を監督自身を彼に
だぶらせて訴えたいのではないでしょうか?

自殺する自由さえも奪われた彼は果たして今も「人間」と言えるのか。
グロテスクな肉塊でしかないが人間である生物と接するとき、社会は
どうしたらいいのか。彼の希望を叶えればいいのか?そうすれば殺人
を犯すことになる。人として人に接するとはどおいうことなのか。
どうしたらいいのか?

こんなことを考えていると「ミリオンダラーベイビー」を思い出しま
した。イーストウッドもまた「人の人としての尊厳」をあの映画に託
したのですよね。ひょっとしたらこの映画のリメイクをしたのかも知
れないなぁ~と思ってしまいました。


そしてこの映画の肝と私が思うのは、偉い人が彼の希望を聞いたとき
(彼に意志があるとわかり驚愕して、彼の姿を憐れんで)に、同行して
いる軍属の神父に向かって「彼に言葉を」と言うのですが、神父は無言
のまま。それを「それでもあなたは神父なのか」と偉い人がなじるのです。

神父はこう言います。
「彼は神が創造したものではない。造ったのは軍だ。そんな彼に神が
かける(かけることができる)言葉はない。」(こんな趣旨のこと)。

そう、
彼はすでに神に見捨てられた存在になっているのです(ちなみにアメリカ
は1ドル札に「In God We Trust」と書いてある通り神に見捨てられる
ということはアメリカ合衆国に見捨てられたという意味でもあるのです)。
映画ではわかりませんが、彼が熱心なカトリック信者だったのなら、これ
こそ絶望です。が、さらに残酷なのは彼はこの神父の言葉さえ聞くことが
できません。祈ることはできるのですがその祈りは神にも合衆国にも届か
ないのです。

それでも彼は「人間」なのです。
でも、彼には自分の意志で生きる自由も死ぬ自由もないのです。
死んでも神のもとに召されることも叶わないのです。

そんな彼に看護婦の彼女だけは「無償の愛」「人間愛」というか、同情心?
で応えようとしますが、軍という名の「社会」はそれすら許しません。
なぜなのでしょうか?見世物にすれば軍が批判され反戦世論が高まります。
ですが、このまま人知れず殺してしまえば闇に葬ることができるのです。
でもなぜ?なぜそうしないのか。

あなたはそばに「殺してくれ。」と懇願する人がいたらどうしますか?
その人に待っているのはもはや絶望しかなく、この先何十年も虚無の時間
の中をただ生きていかねばならないのです。その苦悩までをも表現したの
がイーストウッド。

この映画は最後を観客に委ねます。
そして映画の最後に流れるエンドロールには「戦争で死ぬものは英雄だ」
という戦争賛美(というか戦死者にはそう言って報いるしかないですよ。
でないと、本人も残された家族も浮かばれません)ともとれる字幕で終わり
ます。祖国のために死んだ人間は英雄になる。

では、彼は?


火垂るの墓はとても悲しい映画ですが、死んだあと絶対に天国にいったと
観客は思うことが出来ます。そおいう救いがあります。でもこの映画には
絶望しかありません。とても重たい、二度と見たいと思えない映画でした。


そうそう、71年の作品ですので、彼の映像は顔にはガーゼ。身体はシーツ
で隠されているだけなので、観客はその姿を手術をした軍医の術中の会話で
想像することになります。いわゆる「見えない恐怖」というやつですね。

彼の姿もまた観客に委ねられているのです。
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