私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

サンカラとブルキナ・ファッソ(3)

2012-08-01 09:18:36 | 日記・エッセイ・コラム
 前回に続いて、6月20日にPambazuka News というウェブサイトに出た Amber Murrey という人の次の記事の抄訳を試みます。

『革命と女性の解放:サンカラの講演についての省察、25年後(The revolution and the emancipation of women: A reflection on Sankara’s speech, 25 years later)』
http://www.pambazuka.org/en/category/features/83074

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歴史的背景
(藤永註)この部分は、前々回のこのブログに掲載させて頂いた吉田太郎さんのトーマス・サンカラ物語を読んで頂いた方がはるかに良いので訳出はしません。
ただ、サンカラの暗殺がブルキナ・ファッソの旧支配層の意向だけで行なわれたのではなく、国外からの関与があったのは動かせないところで、それを反映して、2008年4月、国連の人権委員会は、サンカラの遺族を支持する人権団体の度重なる要請を拒否して、サンカラの暗殺についての報告を出さない決定をして、今日に及んでいることを付記しておきます。事情の詳細は下のトマ・サンカラ・ウェブサトにあります。
http://thomassankara.net/spip.php?article876&lang=en
(註終り)
サンカラとジェンダー
 1987年3月8日、「国際女性の日」を祝うために、首都ワガドゥグゥに集まった数千人の女性集会での講演でトマ・サンカラは革命指導者として独特な態度をとり、女性抑圧の問題を微に入り細にわたって取り上げた。彼は女性抑圧の歴史的起源とその抑圧の行為が彼の時代にまで続いてきた有様を説いた。以下は彼の言葉である。:

‘自由と言う爽快な生気に鼓吹されて、昨日までは辱められ罪人扱いされてきたブルキナの男たちは、名誉と威厳というこの世で最も貴重な刻印を受けたのだ。この瞬間から、幸福は手に届くものになった。毎日、我々はその幸福に向かって邁進している。この闘争の最初の果実に酔いしれ、それそのものが我々の既に成し遂げた偉大な前進の証しになっている。しかし、男たちのこの自己中心の幸福は幻覚である。決定的に欠落しているものがある:女性たちだ。彼女たちは、これまで、この喜ばしい行列行進から除外されている。革命が約束したものは男性たちには既に現実になっている。しかし、女性たちにとっては未だ風説に過ぎない。そして、しかも、わが革命が本物かどうかとその将来は女性にかかっているのである。我々の決定的な部分が今のような隷属状態?あれこれの搾取のシステムによって課せられた隷属状態に留めおかれている限り、決定的あるいは永続的なものは我が国で何も達成され得ないということだ。今日のブルキナ社会において女性問題を提起することは、彼女らが一千年にわたって隷属させられて来た奴隷システムの廃止を提起することを意味する。その第一歩は、このシステムがどのように作動するのか、そのあらゆる巧妙さを含めて把握し、その上で、女性の全面開放に導く行動計画を考え出すことだ。我々は、今日のブルキナの女性のための闘争が、世界中のすべての女性の闘争の一部であり、さらにそれを超えて、我がアフリカ大陸の全面的再興のための闘争の一部であることを理解しなければならない。女性の状態は、したがって、ここかしこを問わず、あらゆる所で、人類の問題の中心に位置するのである。’

 彼の言葉は、女性の戦いに対する深甚な理解と行動の上の連帯を表している。それを、彼は、すべての人間にかかわる戦いとして提起しているのである。彼は、アフリカ女性の抑圧の根源を、ヨーロッパの植民地政策の歴史的プロセスと資本主義的搾取の下での不平等な社会関係にあると考える。最も特筆すべきは、革命運動への女性たちの平等な動員参加の重要性を彼が強調したことである。彼は、ブルキナの女性たちを、消極的な犠牲者としてではなく、尊敬される平等な参加者として、国家の革命とその福祉安寧のための革命運動への参加に駆り立てた。彼は、アフリカの社会でアフリカの女性が中心的地位を占めるべきことを自ら進んで承認し、他のブルキナの男性たちにもそうすることを要求した。

 カメルーンの反植民地主義的歴史家であるモンゴ・ベティのインタビューで、サンカラは言った:‘我々は男性と女性の平等のために戦っている¬¬?機械的な数の上での平等ではなくて、法の前で、特に賃金労働に関連して、女性を男性と平等にしようとしているのだ。女性の解放には、女性が教育を受けることと経済的な力を得ることが必要である。そうして初めて、女性が、すべてのレベルで、男性と同じ足場に立ち、同じ責任、同じ権利と義務を背負って働ける。・・・’この事は、革命政府は多数の女性を擁していたが、政府行政での女性代表の数字上の増加がそのまま男女平等の指標になるとは、サンカラは考えていなかったことを意味している。彼は、心の底から、草の根の組織化の大切さを信じ、その変化は人民そのもののエネルギーと行動から立ち上げるべきものと信じていた。
 彼は姉妹たちにお互いにもっといたわり合い、相手を裁くよりも、よりよく理解するように励ました。彼は女性に結婚するように圧力をかけることに疑問を呈し、独身でいるより結婚することがより自然ということはないと言った。彼は、資本主義システムの抑圧的な男女差別性を批判した。そのシステムでは女性(とりわけ養育すべき子供を持った女性)が理想的な労働力を形成する。何故なら、家族を養う必要が彼女らを搾取的な労働慣行に従順で支配され易いようにするからだ。サンカラはこのシステムを‘暴力のサイクル’と名づけて、男性と女性が平等の権利を享受できる新しい社会を建設することによってのみ、不平等は根絶できると強調した。労働の権利と生産の手段においての男女公平に彼が焦点を置いたことは、彼がブルキナの家庭主婦たちと力を合わせて設立した「団結の日」に象徴されていた。その日には、男たちが家庭の主婦の役を担い、市場に買い物に出かけ、家族の農地で働き、家庭内の仕事の責任をとることになっていた。
(藤永註)このAmber Murrey の論考はまだ続きますが、抄訳はここで終ります。
上の、最後の部分は、前に申しましたように、YouTube の映画『トマ・サンカラ 清廉の士 その1』のの8:40 から 12:30 あたりまでの4分間をご覧になると、サンカラの肉声とブルキナの女性たちの反応に接することが出来ます。
 「革命政府は多数の女性を擁していたが、政府行政での女性代表の数字上の増加がそのまま男女平等の指標になるとは、サンカラは考えていなかった」ことは大変重要なポイントです。サンカラの洞察の正しさは、現在のアメリカの権力層の最高層に組み込まれた多数の才女たちの垂れ流す害毒を見ていると、痛いほど良く分かります。
 1997年マドレーヌ・オールブライト(白人女性)は米国最初の女性国務長官(第65代目)になりましたが、そのあと、コリン.パウエル(黒人男性軍人)、コンドリーザ・ライス(黒人女性)、ヒラリー・クリントン(白人女性)と続き、この15年間、白人男性は一度もこの顕職についていません。ちょうど今から一年ほど前、このブログの『現代アメリカの五人の悪女』(1)で、 「ここでの悪女は"bad girls"ではなく"evil women"です。"bad girls"と言う言葉が含みうる愛嬌など微塵もありません。多くの無辜の人々を死出の旅に送っている魔女たちです。マドレーヌ・オールブライト,サマンサ・パワー、ヒラリー・クリントン,コンドリーザ・ライス,スーザン・ライスの五人、はじめの三人は白人、あとの二人は黒人です。」と書きました。それからの一年間、ヒラリー・クリントン、サマンサ・パワー、それに米国国連大使の黒人猛女スーザン・ライスは、“人道主義的介入”という稀代の欺瞞の旗のもとで、アフリカと中東の無数の女性たちを殺戮し、悲惨のただ中に追い落として来ました。彼女らの罪状を示す資料が私の手許に山積しつつあります。しかし、その紹介は別の機会に行ないましょう。今日は、日本中がオリンピックという製造された狂気(manufactured madness)に見舞われている時にふさわしく、オリンピック開会式の演出を話題にしましょう。
 各国選手団の入場行進のNHKの実況放送の中で、今度のオリンピックは204の参加国すべての選手団が女性選手を含むという画期的な大会であることが強調されて、サウジ・アラビアの選手団の中の二人の女性選手の顔が大写しになりました。私は即座にその蔭にある作為を感じ取りましたが、そのあとで、米欧のメディアがこれを称賛して“女性の権利のための画期的事件”と報じていることを知り、更には、もっと深い裏の話にも行き当たりました。カナダのグローバル・リサーチという非営利の研究報道機関のウェブサイトから得た情報です。
http://www.globalresearch.ca/index.php?context=va&aid=32092
それによると、サウジ・アラビア国内では女性のスポーツ活動ははっきりと禁止されていて、女性が使えるスポーツ施設もスポーツ団体もなく、今度参加した二人の女性(一人は柔道、もう一人は陸上)は共に、国外で訓練を受けたのだそうです。しかも、このサウジ・アラビアからの女性選手二人と、カタールからの女性選手三人は,他の一万人を超える参加者すべてに課せられた選考基準の枠の外からの参加だそうです。ここまで聞かされると、私の鈍い鼻も、嗅ぎ付けないわけには参りません。専制政体保持のためには自国民を虐殺して顧みないと米国や英国が宣伝してやまないシリアは、10人の選手の4人が女性、そのシリアを潰した次の目標であるイランは53人の選手のうち8人が女性です。サウジ・アラビアとカタールは、アフリカ大陸で最も高い女性解放度を誇っていたカダフィのリビアを壊滅させた米欧に進んで軍事協力をしたアラブの国です。この二国は、現在も、シリアをリビアと同じ運命に追い込むための米欧の“人道主義的介入戦争”に全面的に協力しています。その最中のオリンピック、ここでサウジ・アラビアとカタールの国内での女性抑圧が選手団入場行進で世界中の目にあらわになってはまずいと、ヒラリー・クリントンやサマンサ・パワーあたりが先手を打ったとしても私は驚きません。いや、いかにもありそうな配慮です。ただ、すべてが演出、すべてがプロパガンダ、すべてがマニピュレーション(人心操作)の世の中であるにしても、これ位の見え透いた小細工で世界に充ち満ちた億万の愚民たちを欺き通せると考える米欧の傲慢不遜さには我慢がなりません。
 オリンピックの演出といえば、ひとつ読者にお願いがあります。五輪旗を運ぶ6人の中にダニエル・バレンボイムを見てびっくりした私でしたが、私の耳には、NHKの解説者が「イスラエルの音楽指揮者ダニエル・バレンボイム」と言ったように聞こえました。少なくとも「イスラエルの・・・」とは確かに聞こえたように思ったので、つねづね音楽界の最近事情を追っていない私は、「まさかバレンボイムがメータの後釜に?」と愕然としてインターネットを覗きに走り、そんなニュースはないことを確かめて胸を撫でおろしました。バレンボイムはアルゼンチンの国籍もイスラエルの国籍も持っているようですから、彼をイスラエル人と紹介しても間違いではありませんが、それでは五輪旗を持った理由が分からなくなってしまいます。NHKの解説者があの朝何と言ったのか、もしはっきりご存じの方がおいででしたら、ご教示いただければ幸甚です。
 サンカラの話を終る前にもう一言。上掲のYouTube の映画『トマ・サンカラ 清廉の士』の中に注目すべき人物が登場しています:Jean Ziegler (ジャン・ジグレール),大柄の白人のお爺さんです。ほんの5年ほど前にこの人の著書『世界の半分が飢えるのはなぜ?』(たかおまゆみ訳/勝俣誠監訳)を読んでいましたのに、すっかり忘れていました。情けないことですが、ここまでボケが進みました。この本の最終部の4章にサンカラのことが見事に描かれています。この優れた本をもっと早い機会に紹介すべきでした。機会があれば是非お読み下さい。

藤永 茂 (2012年8月1日)



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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
> 世界の半分が飢えるのはなぜか? (はぐれ雲)
2012-08-01 15:27:50
> 世界の半分が飢えるのはなぜか?

そして若き日のジグレールとチェが交わした会話の鮮やかさにも、私は涙がちょちょぎれてしまうのです。
はじめまして。 (jk31513)
2012-08-02 22:27:20
はじめまして。
いつも勉強させていただいております。ありがとうございます。

早速ですが、ダニエル・バレンボイムさんは「イスラエルの指揮者」とだけ紹介されています。
それ以外の言及はありませんでした。

NHKはせめて「イスラエルとパレスチナの平和に尽力... (藤永 茂)
2012-08-05 20:26:45
NHKはせめて「イスラエルとパレスチナの平和に尽力する指揮者ダニエル・ダレンボイム」と解説してほしかったと思います。「イスラエルの指揮者」という説明だけだったとバレンボイムが聞いたら、さぞかし驚き且つ立腹することでしょう。この説明がNHKの作為ではなく、単なるエラーだったとしたら、是非、エラー訂正とその謝罪を行なってもらいたいものです。

藤永 茂
今日の夜、帰宅途中の車中でプロムス2012で演奏さ... (海坊主)
2012-08-24 22:57:57
今日の夜、帰宅途中の車中でプロムス2012で演奏されたベートーヴェン交響曲第9番の終楽章を運良く聴くことが出来ました。ダニエル・バレンボイム指揮ウェストーイースタン ディバインオケの演奏でした。言うまでもなくウェストーイースタン ディバインはバレンボイムとE.W.サイードが創設した中近東の若者で構成されるオーケストラです。彼らの演奏は豪華な独唱者に気後れすることなく立派で躍動感に満ちていました。久しぶりに第9に感涙してしまいました。
このコンサートはロンドンオリンピックの開会式に先立って行われたものでしたが、演奏後のスピーチがさらに感動的だったとようです。NHK FMで聴いた話では、運転中のためほとんど憶えていませんが、東エルサレムに行く予定だったがそれが叶わなかったこと、人々は皆平等であること、などを話したようです。

イクバル・アフマド、E.W.サイード、ハワード・ジンが去ったこの世界でバレンボイムは彼しか出来ないことを必死にやっている、と思います。彼は音楽家ですが政治家以上の政治的活動に邁進しているようにも思います。政治の専門家でなければ政治に関わってはいけない、とする昨今の風潮に惑わされないように心がけたいです。

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