私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

憲法第9条をもう一度読む

2021-02-17 10:13:46 | 日記・エッセイ・コラム

 

池辺幸恵さんからイーメールの形で以下の記事を受け取りました。この記事をめぐる事情が私にはよくわかりませんが、池辺さんには、その昔、9.11の世界貿易センタービル崩壊の真相について私の迷妄をひらいて頂いて以来、何かと教えて頂いていますので、イーメールの内容をそのまま以下にコピーさせて頂きます。読んでいて、私の沖縄旅行の記憶が蘇りました。石垣市の公園に立つ大きな石碑「戦争の放棄」には次のように憲法第9条の文章が刻まれています:

戦争の放棄

「日本国憲法

第2章 戦争の放棄

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」

何と胸のすくような明快な宣言ではありませんか。この日ごろ、私はこの明快な言葉をすっかり忘れて暮らしていました。皆さんもしっかり思い出してください。

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石垣さん、池辺幸恵 平和のピアニストです。(一部bccにて重複失礼します)
  県外でなく、国外にしてほしいですね。^^

  先日、普天間基地を見下ろしながら、比嘉康文さんからいろいろ話をきいてきました。
  (5/16には普天間基地を囲む人間のクサリには内地からも沖縄に結集してください、後“沖縄の未来”を語り合う集会もあるらしいですが・・・わたしは仕事があって行けないけど)
 比嘉さんから聞いた話ですが、過去に普天間に赴任したトップの大佐たちのち8人が、それぞれに普天間は街の中にあって危険だから、なんとかすべきであるとの書面を提出しています。伊波市長さんから アメリカ議会でも、普天間・辺野古はアメリカの基地基準では認められない危険であるとの意見が出たと聞きました。だのに、日本政府はそのことにふれようともしないし、あまりに腰くだけだと・・・。
 
 当の日本政府やメディアが、アメリカで普天間と辺野古が基地として住民に危険であると言ってることにふれないで、基地は沖縄の辺野古しかないと連呼しているのはあまりにおかしいことです。
 日本はアメリカ軍のことです。アメリカにとっては占領下の日本がどうぞどうぞと用意してくれるんだから、いいだろうと、と支配者アメリカの傲慢さに這いつくばる日本政府が恥ずかしい限りです。一体日本に真の独立はあるのでしょうか、これからそれを勝ち取ってゆくべきです。かつては政治生命を賭けてもと岡田外相も言ってましたね、沖縄の人々はずっと生命を賭けてきているのに、日本の政治家は命をかけようともしないようです。

 日本にとってのこれからは、 基地は“縮少か撤去” しかないし、普天間も国外退去しかない、ことをはっきりとアメリカに伝えるべきでしょう。そして、普天間に残るというわずか数百人の海兵隊?は、既存の基地のいずれかに(キャンプハンセン)に吸収させたらいいでしょう。

 どうせそのほとんどは戦地に出払っていて、沖縄に駐留していないのですから。^^それにしてもキャンプコートニーをみれば、いかにも日本の税金でいたれりつくせりの遊興三昧ですから、とても沖縄から出て行こうという気にはならないでしょう、まったく。アメリカ軍大歓迎なのですか?????  これが戦争放棄の日本のすることでしょうか?????

   NHKニュースで、ようやく・・・普天間の8000人はグアム行きに決まっている。と言ってました。
   (日本は8500人、アメリカは8900人・・・ここにも誤差があります、というのも水増しの数でゴネ得ねらいです)残る数百人のために、辺野古の海を潰し、ジュゴンを殺すというのですか??
 そのアメリカにおもねるアホらしさかげんを政府は自覚し、隠しているすべてを明らかにすべきでしょう。

 バッファローとインディアン、黒人奴隷、広島・長崎、空襲、ベトナム・・・で、平気で大量殺戮をしてきたアメリカに、過去の罪業を多少とも詫びる心があるでしょうか。オバマの演説を聞くかぎりそれはみえません。

 もし、アメリカがオバマ大統領の選出で過去の贖罪の肩の荷がおりて、これまでにない民主主義が標榜できたとでも思っているとしたら、オバマとは、大半の傲慢で反省できない白人たちの免罪符を求める意識が作り出した幻影にすぎないのではないでしょうか。もちろん、死の商人たちのバックアップで出てきた人材ですから、見捨てられた黒人たちにハウスニグロと言われてきた、これまでも免罪符として登用されてきたカラードたちののうちの一人にすぎないといえるのです。

  わたしたちは、もうだまされない。
 池辺幸恵               http://yukichan.cc (ブログにアメリカが南米で、ハイチでしてきたことの報告をのせます)

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石垣島の石碑

戦争の放棄

日本国憲法

第2章 戦争の放棄

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない

 

藤永茂(2021年2月17日)」

 


ボリビアのクーデターとミャンマーのクーデター

2021-02-14 21:03:55 | 日記・エッセイ・コラム

 この十数年、老いの身の私が未来への希望の一つとして思いを入れてきたボリビアは、2019年11月、先住民出身大統領エボ・モラレスの率いる政府が武力的クーデターで倒され、米国に支持された女性上院議員ヘアニネ・アニェスが大きなキリスト教聖書を抱いて自らがボリビア大統領だと宣言して、独裁的政治が始まりました。それから何が起こったか、起こっているかについて、分かりやすい優れた内容の記事が、私が尊敬し常に愛読するブログ『マスコミに載らない海外記事』に翻訳掲載されました。ぜひ読んで下さい:

http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2021/02/post-57013d.html

この中にも書いてあるように、クーデターを実行した側の抑圧暴力は激しく、まず直後に抗議行動に出た民衆の9人が射殺され数十人が負傷しました。上の記事にもある通り、「少なくとも3ダースの反クーデター活動家、主に先住民が、一年にわたる独裁中に殺され」ました。

 多数の日本企業が進出しているミヤンマーに比べると、一般の日本人にとって南米の国ボリビアは遠い国かも知れません。しかし、クーデターを起こした軍事勢力側の暴力についての報道が、日本で、ミャンマーについてはこれほど喧しいのに、ボリビアについては殆ど何もマスコミ報道されていないのは何故でしょうか?『マスコミに載らない海外記事』の上掲の記事を読んで、よく考えてくださることを強く望みます。

 

藤永茂(2021年2月14日)


ベートーベン生誕(洗礼)250年記念行事と白人主義

2021-02-12 13:56:59 | 日記・エッセイ・コラム

 昨年はベートーベン生誕(洗礼)250年の年で日本でもあれこれ記念行事が行われました。私のベートーベンとの最初の出会いは旧制福岡高等学校2年生の18歳の時、1944年で、遅い出会いでした。家に蓄音機(妙な誤った呼び名です。レコードプレーヤーのことで、音楽が蓄めてあったのはレコードの方なのに)はありましたが、洋楽といえばドリープの「コッペリアワルツ」とかサラサーテの「チゴイネルワイゼン」とかシャリアピンの「ヴォルガの舟唄」とか、当時流行の洋楽通俗音楽のレコードに限られていて、ベートーベン、メンデルスゾーン、ショパンなど、当時の日本の古典音楽ファンに既によく親しまれていた名前は知りませんでした。

 幸いなことに、高等学校でできた親友が、家族ぐるみの古典音楽のファンで、そのお宅で、私は初めてベートーベンの第五交響曲を聴いたのです。いっぺんに好きになりました。出だしのダ、ダ、ダダーのところだけでなく曲全体が大好きになってしまったのです。そのあとは、友達のお宅に伺う度に第五を聴かせてくれと所望しました。その頃はSPレコードの時代で片面の収録時間は5分ぐらい、両面で約10分、よく憶えてはいませんが、第五交響曲一曲で4枚8面の長さだったろうと思います。その上、友人のお宅では竹の針を使っていて、レコードの一面ごとにカッターで針先を新しく切っていました。ベートーベンの第五交響曲を一回聴くだけでも大変な手数だったのです。とても気立ての良いその友人は、私にSPレコードを聴かせてやる分には何の苦情も漏らしませんでしたが、私が、第五ばかりを所望するので、とうとう痺れを切らして「他にもいい曲があるよ」と漏らしました。

戦争が終わって、米軍による占領時代が始まると、私はボイス・オブ・アメリカという宣伝ラジオ放送にしばしば耳を傾けるようになりました。英語はよく分からなくても音楽は聴けます。「ハイリゲンシュタットの遺書」と題する番組で、聴力を失いつつあった若いベートーベン(1770年12月生まれ)が、1802年10月6日の日付で弟に宛てて書いた遺書の英訳文をベートーベンの第二交響曲の第二楽章(ラルゲット)の音楽にのせて放送しました。第二交響曲は遺書を書く数ヶ月前に作曲されていました。遺書の和訳の一つは次の所で読めます:

http://www.kurumeshiminorchestra.jp/beethoven_heiligenstaedt.html

その終わりのところが、第二楽章を締めくくる美しい高揚部に乗せて語られていました:

「私の傍らに座っている人が遠くから聞こえてくる羊飼いの笛を聞くことができるのに私にはなにも聞こえないという場合、それがどんなに私にとって屈辱であったであろうか。
 そのような経験を繰り返すうちに私は殆ど将来に対する希望を失ってしまい自ら命を絶とうとするばかりのこともあった。そのような死から私を引き止めたのはただ芸術である。私は自分が果たすべきだと感じている総てのことを成し遂げないうちにこの世を去ってゆくことはできないのだ。」

 この放送を聴いた時の感銘は、今も、ベートーベンの第二交響曲の美しい第二楽章を聴くたびに蘇ります。それからほぼ75年間、私は絶えることなくベートーベンの音楽に親しんできました。私の終わりの時が近いせいか、この頃では、ベートーベンの晩年の弦楽4重奏曲(例えば作品131)やピアノソナタ(例えば作品111)に好んで聴き入るようになっています。バッハ、ハイドン、モーツアルト、ベートーベン、シューベルト、・・・、こうした名前に日々親しむ日本人は無数にいるに違いありません。私もその一人です。

 ですから、最近、「ことさらベートーベンを持ち上げるのは白人主義で許せない」という抗議の声が米国で上がっていると知って驚きました。初めに読んだのは次の記事です:

https://www.unz.com/article/triggered-by-beethoven-the-cultural-politics-of-racial-resentment/

この中には、例えば、

In a recent Vox podcast and article, musicologist Nate Sloan and songwriter Charlie Harding claim the opening bars of Beethoven’s Fifth Symphony (the famous da-da-da-DUM motif) should not be given their traditional interpretation — the sound of fate knocking on the door and Beethoven’s resilience in the face of encroaching deafness — but should be construed as the sound of the gate slamming shut on minorities, such as “women, LGBTQ+ people, people of color.” They assert (without evidence) that “wealthy white men” embraced the Fifth Symphony as a “symbol of their superiority and importance.” Black clarinetist Anthony McGill agrees, likening the inescapability of the Fifth Symphony to a “wall” between classical music and new, racially-diverse audiences.

といった文章もあります。また、

「Beethoven was undoubtedly an above-average composer ―― Let’s leave it at that. 」(ベートーベンは確かに平均以上の作曲家だった――それ以上は言わぬが花だ)といったタイトルのアカデミックな音楽理論論文も引用されています。

米国で大きな読者圏を持つ雑誌「ニューヨーカー」にも長い記事:

https://www.newyorker.com/magazine/2020/09/21/black-scholars-confront-white-supremacy-in-classical-music

が出ています。

 白人ベートーベンに対する黒人評論家の攻撃的評価の基調音は「ベートーベンは大した作曲家ではない。白人どもが無理に持ち上げているに過ぎない」といった過激なものです。黒人たちが、過去には奴隷として、現在も被差別者として、被ってきた苦難には言葉を超えたものがあり、私はそのことをよくわきまえているつもりです。彼らの何ともしようのない深い怨念に、私たちは出来る限りの理解を寄せなければなりません。

しかし、私は、バッハやシューベルトなど私が愛してやまない西洋古典音楽の作曲家を、そしてまた西洋古典音楽の世界を、これほどに貶め、攻撃する人々に、特にアカデミックな地位にある黒人や白人に、一種の困惑と重い悲しみを感じるのをどうすることも出来ません。

 

藤永茂(2021年2月12日)