私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

クルドの女性たちは闘う

2020-08-19 23:17:39 | 日記・エッセイ・コラム

 8月15日は、我々にとっては終戦記念日ですが、クルド人たちにとっても、重要な記念日です。1984年8月15日は、クルド人に対するトルコ政府の民族浄化的弾圧政策に対して、クルディスタン労働者党(PKK)が武力抗争を開始した日なのだそうです。

 先日、松田博公さんから『女たちの中東 ロジャヴァの革命』(青土社、2020年3月)という本を恵与して頂きました。この書物の原典は2015年にドイツ語で出版され、その16ヶ月後に英語版ができました。その間にもロジャヴァをめぐる情勢は大きく進展し、英語版はそれを反映しています。主タイトルは「ロジャヴァの革命」となっていますが、山梨彰さんによる日本語版の主タイトルでは革命の中核が“女性問題”であることが明確に打ち出されています。これはロジャヴァで進行している革命についての最も重要なポイントです。

日本語版には松田博公さんによる「ネヴァー・エンディング・レヴォリューション」と題する31頁に及ぶ解説がついています。実は、英語版にはドイツ語原本の3人の著者によるイントロダクションがあり、その中には、16カ月間の「ロジャヴァ革命」をめぐる情勢の展開が解説されていますが、その情勢は、日本語版の出版時点ではさらに大きく変転していますので、アップデートが是非必要です。松田博公さんによる解説は、単なるアップデートを超えたとても有用で優れた内容のものですから、私のブログを通じて、ロジャバ革命(私は今までRojava をロジャバと仮名書きして来ました)に関心を持った読者は、是非とも松田博公さんの論考をお読みになって下さい。松田さん(そして、原著者、英訳者たち)の考え方と私のそれとの一番大きな違いは、約言すれば、現シリア大統領の評価にあります。おそらく、私のそれが、やや感傷的な一老人のwishful thinking に過ぎないということなのでしょうが、この問題は、機会があれば、改めて取り上げることにしましょう。

 私が今日取り上げたいには、1984年8月15日の武力闘争の始まりから、クルド人の女性たちの多数がこの戦闘に身を投じ、今日まで、命を懸けて勇敢に戦いを続けていることです。

山梨彰さんの訳文から引用させて戴きます:

「一九八四年八月一五日、クルディスタン労働者党はトルコ占領下の北部クルディスタンでトルコ政府に対するゲリラ闘争を開始した。何千人もの若いクルド人男女が、シリアを去ってクルディスタン労働者党のゲリラ軍に加入した。女性はこの最初の武装行動にも参加した。・・・」(訳書p91) 

 この文章を読みながら、私は、もう一冊、皆さんに紹介したい本を思い出しました。戸井十月著『カストロ、 銅像なき権力者』(新潮社、2003年)です。その213頁にあるカストロの言葉から引用します:

「日本はどうか知りませんが、キューバでは女性の活躍がめざましいんです。キューバでは三年の徴兵制度がありますが、女性は免除されています。そのせいもあるかもしれませんが、ともかく女性が優秀です。技術者も六五%が女性だし、医大生の三人に二人が女性です。

 女性はよく勉強するし、本質的に男より勇気があります。革命の時も、敵から奪った武器を優先的に女性に渡しました。どうして男より先に女に武器を渡すのだと怒る男たちもいましたが、私には、女性の方が勇敢に闘うことが分かっていました。彼女たちは、子供のために命を懸けて闘いました。男たちが逃げても女たちは逃げず、少人数でも進んで行きました。子供を守ろうとする母親の力に勝るものはないのです」

藤永茂(2020年8月19日)


今止めなければ、もう一つヒロシマがやって来る

2020-08-07 21:44:38 | 日記・エッセイ・コラム

 ジョン・ピルジャーの新しい発言(8月3日):

Another Hiroshima is coming — unless we stop it now

http://johnpilger.com/articles/another-hiroshima-is-coming-unless-we-stop-it-now

https://zcomm.org/znetarticle/another-hiroshima-is-coming-unless-we-stop-it-now/

を訳出します。

 新コロナ疫病の大蔓延で世界は大変なことになっています。いつの日か終息するでしょうが、その後の世界がどうなるか? 多分、私が死んだ後のことになるでしょうが、大いに気になります。亡くなった人々、後遺症に悩む人々、生活苦に追い込まれた人々には、申し訳ない言い草ですが、コロナ禍の後の世界が、その以前よりも住みやすい良い世界になる可能性が十分あるような予感がします。しかし、より良い世界がやって来る前に、核戦争が起これば、全てが無になります。

 以下、翻訳:

********************

私が1967年に初めてヒロシマに行った時、階段に写った影はまだあそこにあった。それは寛いだ人間の形のほとんど完全な型取りであった:脚を広げ、反り気味に、片手を腰に当てて、その女性は銀行が開くのを待っていた。

1945年8月6日の朝9時15分、彼女とその影は花崗岩の階段に焼き付けられた。

私は1時間以上もその影に目を凝らし、そのあと原爆生き残りの人々がまだ掘立小屋で生活していた川に歩いて降りて行った。

私はユキオという男の人に会ったが、その人の胸板には原爆が投下された時に着ていたシャツの柄が刻み込まれていた。彼は広島市を覆った巨大な閃光を“電気のショートみたいな青みがかった光”だったと言い、そのあと竜巻のような風が吹き、黒い雨が降ってきて、“私は地面に叩きつけられ、持っていた花の茎だけが残ったのに気が付いた。すべてがシンとして静かで、私が立ち上がってみると、裸の人々がいて、ただ無言、その何人かは皮膚も髪の毛もなかった。私はてっきり自分が死んだのだと思った。”

9年後、私はヒロシマに戻って彼を探したが、彼は白血病で死去していた。

“ヒロシマの廃墟には残存放射能なし”と1945年9月13日のニューヨークタイムズの第一面に出たが、これぞ、意図的に流された偽情報の古典例だ。“ファレル将軍は原爆が危険な停滞する放射性を生み出すことを断言的に否定した”とウィリアム・ローレンスは報道した。

たった一人の報道記者、オーストラリア人のウィルフレッド・バーチェットだけが“報道記者集団”をコントロールしていた連合占領軍当局に背いて、原爆投下直後の時期にヒロシマ入りの危険な旅を敢えて行なった。

“世界への警告として私はこれを書く”と、バーチェットは1945年9月5日のロンドン・デイリー・プレスで報じた。瓦礫の中に座り込み彼のベビー・ヘルメス・タイプライターを据えて、彼は、見た目は何らの負傷もないのに、“原子疫病”と彼の呼ぶ病で死んでいく人々で一杯になった病院病棟を描出した。

このため、彼は公認報道員資格を剥奪され、世間の嘲笑の的とされた。彼が真実を証言したことは決して許されることがなかった。

ヒロシマとナガサキの原爆爆撃は本質的な犯罪性を持った兵器の実戦使用に踏み切った計画的な大量虐殺だった。それは、嘘で固められて正当化されたが、それらの嘘八百は、新しい敵、新しい標的-中国に投げかけられている21世紀のアメリカの戦争宣伝の基盤を形成している。

ヒロシマ以来の75年間、もっともよく生き延びている虚偽は、原子爆弾は太平洋での戦争を終わらせ、人命を救うために投下された、という嘘だ。

1946年の合州国戦略爆撃概観文書は次のように結論した:“原爆攻撃なしでも、日本全土の制空権奪取は無条件降伏をもたらし、侵入作戦を不要のものにするに十分の圧力を日本に加え得たであろう。全ての事実の詳細な検討に基づき、生き残った日本の指導者たちの証言にも支えられて、概観文書の見解は次の通りである・・・日本は、原爆が投下されなくても、ロシアが[対日戦に]参戦しなくても、侵入作戦が立案あるいは考慮されなくても、降伏したであろう”。

ワシントンの国立公文書記録管理院には早くも1943年に日本が和平提案を幾度か行なった記録が残っている。しかし、提案は一つとして取り上げられなかった。1945年5月5日に東京のドイツ大使によって発信された電報が合州国に依って傍受されたが、それには“たとえ条件が厳しくとも降伏する”ことを含めて、日本が必死に和平を求めていたことが明らかに示されていた。だが、何もなされなかった。

アメリカ合州国陸軍長官ヘンリー・スティムソンはアメリカ空軍が日本を爆撃し過ぎてしまって、新しい兵器(原爆)の威力を示すことができなくなることを“恐れていた”と、大統領ハリー・トルーマンに告白した。スティムソンは、後日、“原爆を使わないで済むように降伏を実現する何の努力も行われず、真剣に考慮することもなされなかったこと”を認めた。

スティムソンの外交政策同僚たちは――冷戦企画者ジョージ・ケナンがいみじくも言い放ったように“我々の理想像に従って”形成中であった戦後世界を見据えながら――“これ見よがしに原爆を腰回りに構えてロシアを威嚇する”ことに明らかに熱を上げていた。原爆を製造したマンハッタン計画の長官レスリー・グローヴスは証言した:“私としては、ロシアは敵国であり、マンハッタン計画はこれを基礎基盤として遂行されたことに何の幻覚もありません”。

ヒロシマが消滅された翌日に大統領ハリー・トルーマンは“実験”の“圧倒的な成功”に満足の意向を表明した。

“実験”は戦争終結後も長く続けられた。1946年から1958年の間に、合州国は太平洋のマーシャル群島で67個の核爆弾を爆発させた:これは12年間、毎日ヒロシマ一つずつ以上、ということに相当する。

“実験”の人的、環境的影響結果は破局的だった。私が制作した記録映画『来るべき対中国戦争』の撮影中、私は小型飛行機をチャーターしてマーシャル群島のビキニ環礁に飛んだ。合州国が世界最初の水爆を爆発させたのは其処だ。土地は汚染で毒されたままである。私の靴にガイガーカウンターを当てると“危険”と出た。椰子の木々はこの世のものならぬ様相で立っていた。鳥は絶えていなかった。

私はジャングルを歩いて通り抜け、コンクリートのバンカーにたどり着いた。其処で、1954年3月1日の朝6時45分、ボタンが押された。既に昇っていた太陽がもう一つ昇り、環礁に囲まれた海に浮かぶ一つの島全体を蒸発させ、後には大きなブラックホールが残った。空から見るとそれは恐ろしい光景だった:美しい場所に口を開けた死の空虚。

死の灰は急速に、そして、“予期したかった具合に”広がった。公式のストーリーでは“風向きが突然変わった”ことになっている。それは、秘密文書や犠牲者たちの証言から明らかになったように、数多の嘘の最初のものであった。

水爆テストサイトの放射線観測を任ぜられたジーン・カーボウは“当局は死の灰が何処に行くかを知っていた。爆発が行われたその日にも、人々を立ち退かせる機会はまだあったのだが、人々は退去させられなかった;私も退去させられなかった・・・。合州国は放射能がどのような効果をもたらすかを調べるためのある程度の数のギネアピッグを必要としたのだ”。

ヒロシマと同様、マーシャル群島の秘密は多数の人間の生命についてのよく計画された実験であったのだ。これはプロジェクト4.1と呼ばれ、ネズミを使った科学的研究に始まって、やがて“核兵器の放射能に晒された人間”についての実験となった計画だった。

2015年に私が会ったマーシャル群島住民は――1960年代、70年代に私がインタビューしたヒロシマの生存者と同じく――色々な癌、多くは甲状腺癌を患った;数千人が既に死んでしまった。流産、死産はありふれている;生きて生まれた幼児たちもしばしばひどい奇形だった。

ビキニと違って、その近くのロンゲラップ環礁では水素爆弾テストの間、立ち退きは行われなかった。ビキニのちょうど風下にあったロンゲラップの空は暗くなり、雪片の様にも見える物が降ってきた。食料も水も汚染して;住民たちは癌の犠牲になった。状況は今もそのままである。

私は、ロンゲラップにいた子供の頃の写真を見せてくれたネルジェ・ジョセフに会った。彼女は顔面にひどい火傷を負い、髪毛はほとんど抜け落ちていた。“爆弾が爆発した日、私たちが泉で水浴びをしていたら、白い塵が空から降り始めました。手を伸ばしてその粉を取り、それを洗髪の石鹸に使ったのです。そしたら、数日後、髪毛が抜け落ち始めました”。

レモヨ・エイボンは“我々のある者はひどい体の痛みに苦しみ、また下痢に苦しむ者もいました。我々は恐怖に襲われ、この世の終わりに違いないと思いました”と語った。

私の記録映画の中に含めた合州国公式アーカイブの映画では、島民たちを“従順な野蛮人(amenable savages)”と呼んでいる。爆発のすぐ後に、アメリカ原子力委員会の職員が、ロンゲラップは“地球上で最も突出して汚染した場所である”として、さらに加えて、“汚染した環境で人々が生活する時、人体への取り込みの尺度が得られるのは興味があろう”と得意げに語る場面がある。

医学博士を含むアメリカの科学者たちはその“人体への取り込み度”を研究することで名声を築いた。記録映画のちらつく画面で、彼らは白衣をまとい、クリップボードに注意を払っている。島の住民が10代で死ぬと、その家族は死んだ若者を研究した科学者からのお悔やみのカードを受け取った。

私は世界中の5つの核の“爆心地”――日本、マーシャル群島、ネバダ、ポリネシア、そしてオーストラリアのマラリンガ――から報道した。この経験は、従軍記者としての私の経験をも凌駕して、強大国の冷酷非情さと非道徳性を私に教え込んだ;つまり、帝国主義的権力、そのシニシズムこそが人類の真の敵であると悟ったのだ。

この事は、私がオーストラリアの砂漠にあるマラリンガのタラナキ爆心地で映画撮影をしたときに、強烈に私を打ち据えた。皿状のクレーターの中に正四角錐台があり、それに次の様に文字が彫られていた:“英国の原子兵器がここで1957年10月9日試験爆発した”。クレーターの縁には次のサインがあった:

警告:放射能の危険

この地点の周り数百メートルの放射線量レベルは永久居住に安全と考えられるレベルを超えている。

目の届く限り、さらにそれを超えて、地面は放射線を浴びていた。生のプルトニウムが滑石粉のように散布されている:プルトニウムは人体にとても危険で、その三分の一ミリグラムが50%の癌発病率を与える。

この警告サイン見たかもしれないのはオーストラリア先住民たちだけであろうが、彼らにとって警告は無きに等しかった。公式の談話によると、もし彼らが幸運な場合には、“彼らはウサギの様に追い立てられた”そうである。

今日、前例のない宣伝キャンペーンが我々をウサギさながらに追い立てている。反ロシアのレトリックの奔流を急速に追い越している、連日の反中国レトリックの奔流の是非を、我々は問わないことになっている。中国となれば何でも悪であり、強い呪い、脅威である:武漢市・・・ファーウエイ。“我々”の最も嘲罵を浴びる指導者(トランプ)がそう言うとなると、これは混乱の極みだ。

このキャンペーンの現在の状態はトランプに始まったのではなく、2011年にオーストリアに飛んで、第二次世界大戦以来アジア太平洋地域最大のアメリカ海軍勢力増強を宣言したバラク・オバマに端を発したことである。突如として、中国は“脅威”となった。勿論、これはナンセンスだ。脅かされたのは、自国を、最も富裕な、最も成功した、最も“なくてはならぬ”国家だとする、挑戦を許さぬアメリカの狂人的自国像だった。

決して異論が出ないのは、弱い者いじめとしての米国のあっぱれな腕前だ――国連参加国の30以上が米国からの制裁に苦しみ、爆撃された無防御の国々、政府が転覆された国々、選挙干渉を受けた国々、天然資源が略された国々を通して滴る血の流れる道。

オバマの宣言は“アジアへの旋回軸”として知られるようになった。その主要な提唱者の一人は彼の国務長官ヒラリー・クリントンであり、ウィキリ―クスが明るみに出したように、彼女は太平洋を“アメリカ海”と呼び替えることを望んだ。

オバマは、冷戦終結以来のどの大統領にも増して、核弾頭への出費のスピードをあげた。B61モデル12として知られ、以前の副参謀長ジェームズ・カートライトによれば、それは“もっと小型で、その故、もっと使用を考えやすい”ものである。

標的は中国である。今日、400以上の米軍基地がミサイル、爆撃機、戦艦、核兵器を備えて、中国をほぼ完全に取り巻いている。オーストラリアから北に太平洋を通じて南東アジア、日本と韓国、それからユーラシアを横切ってアフガニスタンとインドへと、米軍基地の連なりは、ある米国戦略家が私に言ったように、“完璧な首絞め縄の輪を作り上げている”。

ベトナム以来、アメリカの戦争を計画してきたランド・コーポレーションによる論考の一つは、「中国との戦争:考え難きを通じて考える」と題されている。米国陸軍の委託による論考だが、著者たちはランド・コーポレーションの主任冷戦戦略家ハーマン・カーンの悪名高いキャッチフレーズ-“考え難きを考える(thinking the unthinkable)”を思い出させる。カーンの著作『水爆戦争』は“勝利の可能な”核戦争のための計画を練り上げたものであった。

カーンの終末論的な考え方は、トランプの国務長官であり、“終末の歓喜(rapture of the End)”を信じる福音教会狂信者のマイク・ポンペオによって、共有されている。彼は今生きている人間でおそらく最も危険な人物であろう。彼は誇らしげに語る:“私はCIAの長官だった。CIAは嘘をつき、騙し、盗んだ。それは訓練コースの全体を受講したたようなものだった”。ポンペオの執念は中国だ。

ポンペオの極端主義の終盤が英米メディアで話題に上がる事は滅多にない。そこでは、イラクについてそうであったように、中国についての神話や捏造話が当たり前のことだからだ。悪意に満ちた人種差別がこのプロパガンダの下敷きだ。中国人はたとえ色白でも“黄色”と分類されて、中国人だからという理由で、“排斥法律(exclusion act)”によって合州国への入国を拒否されていた唯一の人種グループである。大衆文化では、彼らを、不吉な、信用の置けない、“卑劣陰険な”、貧しく、病気持ちで、不道徳だと決め付けている。

ブレティンというオーストラリアの雑誌は、まるでアジア全体が重力によってオーストラリアという白人だけの植民地の上に落っこちて来るかのように、“黄禍”の恐怖を助長することに力を捧げてきた。

歴史家マーチン・パウワーが書いているが、中国の近代性、その非宗教的道徳性、そして、“ヨーロッパの面目を脅かす自由思想への中国の諸貢献を承認することになると、啓蒙思想論争における中国の役割を隠蔽することが必要になって来た・・・・。西欧の優越性の神話に対する中国の脅威は、何世紀もの間、中国が人種差別的攻撃の格好の標的になるよう仕向けて来たのだ”。

シドニー・モーニング・ヘラルド紙では疲れを知らぬ中国叩き屋のピーター・ハッチャーがオーストラリアでの中国の影響を広げる人々を“ネズミ、蝿、蚊、雀“として記述してきた。アメリカの民衆煽動家スティーブ・バノンをよく引用するハッチャーは、彼がどうやら通じているらしい現在の中国のエリートたちの “夢想”を解釈するのを好む。それらの夢は2千年前の“天からの負託”への憧れに鼓舞されている、とか何とか、話は嫌になる程続く。

この“負託”と闘うために、スコット・モリソンのオーストラリア政府は、中国が主要な交易相手とする地球上最も安定した国家の一つを、中国に対して発射できる何千億ドルものお値段のアメリカ製ミサイルの購入に踏み切らせてしまったのだ。

その波及効果はすでに見て取れる。歴史的にアジア人に対する激烈な人種差別の傷跡を持つ国で、中国系のオーストラリア人は物資配達員を保護する自衛団を作った。スマホのビデオでは顔面を殴られる物資配達員や、スーパーマーケットで虐待される中国人夫婦が示された。この4月から6月の間に、アジア人系オーストラリア人に対する四百に近い人種差別的攻撃があった。

“我々はあなたがたの敵ではないが、もし(西欧の)あなたがたが我々は敵だと決め付けるのであれば、我々は遅滞なく用意をしなければならない”と中国の高い地位の戦略家の一人は私に語った。

中国の兵器保有量はアメリカのそれに比べれば小さいが、急速に大きくなっている、特に船団を破壊するようにデザインされた海洋ミサイルの開発はそうだ。

“今回初めて、中国はその核ミサイルを高度警戒態勢に置き、攻撃の予告に対応して速やかに発射できるようにすることを討議している・・・。これは中国の政策の顕著で危険な変化だ”と「憂慮する科学者同盟」のグレゴリー・クラキは書いている。

ワシントンで私はジョージ・ワシントン大学の高名な国際問題の教授であるアミタイ・エツイオーニに会ったが、彼は、“中国に対する目をくらますような攻撃は、[中国によって]その核兵器を掴み出すための先制攻撃的試みとして誤って受け取られ、使うか、それとも、負けるか、の恐怖のジレンマに彼らを追い込み、それが核戦争に導くだろう”と書いている。

2012年、合州国は冷戦以来最大の軍事演習を、そのほとんどを高度の秘密裡に、行った。船舶と長距離爆撃機の大集団が“中国に対する空–海戦構想(Air-Sea Battle Concept for China)” - ASB -のリハーサルを行い、マラッカ海峡の航路を閉鎖し、石油、天然ガスやその他の中東とアフリカからの原料資源の中国への供給を断つ演習をした。

中国がヨーロッパへの古いシルクロードに沿って一帯一路構想を持ち出し、領有権の争われるサンゴ礁やスプラットリー諸島の入江に急いで戦略的滑走路を建設したりしたのも、こうした封鎖を恐れてのことであった。

上海で私は、北京のジャーナリストで小説家でもあるリジャ・ザングに会った。彼女はずけずけと物を言う一匹狼の新しい種族の典型だ。彼女のベストセラー本には『社会主義はすごい!』という皮肉なタイトルが付けてある。混沌として残酷な文化革命のただなかで成人した彼女はアメリカやヨーロッパを旅行し生活してきた。彼女は言う:“多くのアメリカ人は、中国人たちが自由なんぞ皆無のみすぼらしい抑圧された生活をしていると想像している。黄禍[という考え]から一度も離れたことがない・・・。5億人の人民が貧困から救い上げられたなどとは思いも及ばない。6億だと言う人もある”。

大規模貧困の克服という近代中国の叙事詩的業績と、中国人民の誇りと満足度(Pewのようなアメリカの世論調査会社によって厳しく測定された)は米欧では故意に知らされていないか、誤解されている。この事だけでも、米欧のジャーナリズムの情けない状態と誠実な報道の放棄についての一つの評価になる。

中国の抑圧的な暗黒面と我々が中国の“権威主義”と呼びたがるものは、ほとんどこれだけしか我々が見ることを許されていない、中国の外貌に過ぎない。それは、邪悪なスーパー悪漢フ・マンチュ博士の終わりのない物語を我々は聞かされ続けているようなものだ。そして、何故こんなことになっているのか、と我々が問いただす時は今だ:次のヒロシマを阻止するのが時間切れになる前に。(翻訳終わり)

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ジョン・ピルジャーというオーストラリア人は希有のジャーナリストです。上に訳出した文章を読んで、この人物に興味をお持ちになった方は、是非、『マイケルと読書と、、』と題する素晴らしいブログの読者になって下さい。まずは、ジョン・ピルジャーの「問題はトランプではない。我々自身だ」という、これまた、素晴らしく切れ味の良い論考が英語原文付きで訳出されていますので:

https://nikkidoku.exblog.jp/27460726/

これを読んでください。その中の、ピルジャーのオバマ批判だけでも一読の価値があります。

 

藤永茂(2020年8月6日、広島原爆の日)


涙の道(Trail of Tears)

2020-08-01 21:38:40 | 日記・エッセイ・コラム

 「涙の道」という言葉は、北米原住民の悲惨な歴史を学ぶ者の胸に必ず刻み込まれます。trail は、動詞では、「引きずる」ことを意味し、名詞では、「通った跡」、「踏みならされてできた道」を意味します。拙著『アメリカ・インディアン悲史』では「涙のふみわけ道」と訳しました。その第10章「涙のふみわけ道」には、本書で最多の50頁を費やして、この悲劇が詳しく綴られています。北米原住民の歴史についての著作は多数出版されていますので、これを機会にぜひ関心を持ってください。この歴史的事件の簡単なまとめは

https://ja.wikipedia.org/wiki/涙の道

にあります。

 米国の国土を東部と西部に縦割りにするように南北に流れる大河があります。ミシシッピー河です。先住民(いわゆるインディアン)はその大河の両岸の全土にわたって住んでいました。東海岸から大陸収奪を始めたアメリカ合州国の人間たちは、ミシシッピー河と大西洋の間の土地に大昔から住んでいた先住民たちを西の地平の遥かな奥、ミシシッピー河の向こう側に追いやってしまおうと考えました。先祖伝来の土地を離れたくないインディアンたちは懸命に抵抗しましたが、結局、ミシシッピー河の西側への移住を強制されてしまいます。1838年に時の大統領アンドリュー・ジャクソンが強行した一万数千人のチェロキー・インディアンの強制集団移住の1300キロの道行きがその代表的な惨劇「涙の道」です。この道行きだけで数千人が死にました。アンドリュー・ジャクソンは老若男女を問わぬ北米先住民大虐殺に血道をあげた極悪人、彼は、1833年、米国国会での一般教書演説で、以下のような演説を行っています:

「インディアン問題に関する私の確信はもはや揺るぎない。インディアン部族がわれわれの定住地に囲まれ、我々の市民と接触し共存するなど不可能だ。

やつらには知性も勤勉さも道義的習慣さえない。やつらには我々が望む方向へ変わろうという向上心すらないのだ。我々優秀な市民に囲まれていながら、なぜ自分たちが劣っているのか知ろうともせず、わきまえようともしないやつらは環境の力の前にやがて消滅しなければならないのは自然の理だ。

これまでのインディアンの運命がそうだったように、インディアンたちが消滅しなければならない事態が避けられない場合、彼らは我々白人の領土の外へ出ていくことが必要だ。その場合、我々が求める新しい関係に沿った政治体制を彼らが受け入れた場合のみ、これは可能となるのだ。」(下記から引用)

https://ja.wikipedia.org/wiki/アンドリュー・ジャクソン

 まともな米国史研究者ならば必ず目を通す古典名著があります。フランス人アレクシス・ド・トクヴィル(1805〜1859)の著作『アメリカのデモクラシー』です。邦訳には講談社版(井伊玄太郎訳)と岩波書店版(松本礼二訳)があります。私は、もう一つ別の拙著『アメリカン・ドリームという悪夢』で、トクヴィルのことを論じました。その第4章から少し長い引用をします:

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 このチェロキー・ネーション強制移住の惨劇は『アメリカのデモクラシー』の第二巻が出版された1840年の前年の出来事であったが、それへの言及はない。しかし、ジャクソン大統領が、1831年11月に、強引に実行に踏み切った「インディアン撤去令」の犠牲者たちの第一陣チョクトウ族が彼らの「涙のふみわけ道」をたどり行くさまを目撃して、次のように記録している。実は、アメリカ人の語彙に焼き付いている“Trail of Tears”という言葉は、チョク族の一酋長が“Trail of Tears and Death”と発言したのがその語源だという説が有力である。

 「1831年末に私はミシシッピー川の左岸でヨーロッパ人によってメンフィスと呼ばれている場所にいた。わたしがここにいた間に、チョクトウ族(ルイジアナ州のフランス人は彼等をシャクタ族とよんでいる)の多数の人々の群れがそこにやってきた。これらの未開人たちはその郷国を去って、アメリカ政府が彼等に約束した避難所を見つけるつもりで、ミシシッピ河の右岸を過ぎてゆこうとしていた。時は冬のさなかであった。そしてこの年の寒さは前古未曾有にきびしいものであった。雪は地上でかたく凍結していたし、河にはいくつもの大きな氷塊が漂流していた。インディアンたちは家族をつれていた。また彼等は自分たちの後には負傷者、病人、生まれたばかりの幼児や死にかかっている老人たちをひきつれていた。彼等はテントも荷馬車ももってはいなかったが、ただ幾らかの食料と武器とを携えていた。彼等が大河を渡ろうとして船に乗るのをわたしは見たが、その悲壮な光景はわたしにとってとても忘れられないであろう。この集団ではすすり泣きも苦情も全くきかれなかった。彼等は沈黙したままであった。彼等の不幸は古くからのものであったし、そして彼等はこれを矯正することのできないものと感じていた。インディアンたちは、彼等を運ぶべき船に全部のりこんでいた。彼等の犬は、岸辺にまだ残っていた。これらの動物が遂に永久に離れ去ろうとしていたその主人たちを見たとき、一斉に腹の底からおしだすような恐ろしい吠声をあげて同時にミシシッピ河の氷のような水の中にとびこみ、泳ぎながら主人たちのあとを追ったのである。(井伊訳、中巻317-318頁、少し改訳)

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 あくまでストイックなインディアンたちと、厳冬の大河の流れに身を投じ別離を拒否して追いすがる犬たち――その光景の中に立ちつくすトクヴィルの胸中にインディアンへの同情とジャクソン大統領に対する嫌悪があったと私は想像したくなります。トクヴィルが脚注の一つの中に、ジャクソンが発した歴史的名文句を記載しているのは、私の想像を裏付けているように見えます。それは1829年3月23日、ジャクソンが強制移住の対象であるクリーク族に宛てた書簡の一部です:

「偉大なるミシシッピ河の向こう側に、諸君の父である私が広大な国を諸君に受け取らせるために用意している。そこでは諸君の兄弟なる白人は諸君をわずらわしにはやってこない。白人は諸君の土地には何の権利も持っていない。諸君は、諸君と諸君の子供たちと共にそこで平和と豊かさのうちで、草が茂り、小川が流れている限り、生活することができるであろう。それらの土地は諸君に永久に属するであろう。」(井伊訳、中巻349-350頁、少し改訳)

“草が茂り、小川が流れている限り・・・(as long as the grass grows or the water runs ・・・)”、――このアンドリュー・ジャクソンの虚偽の約束の言葉は、今も、北米インディアンの脳裏に鳴り響き続けているに違いありません。

 ミシシッピ河の西に強制移住をさせられたインディアン諸部族の落ち着き先、永遠の平和を約束された土地は、現在のオクラホマ州、先述の通り、チョクトウ・インディアンの言葉でオクラは「人々」を、ホマは「赤い」を意味します。文字通りオクラホマは赤い肌の人々の土地、草が生え、水が流れる限り、インディアンたちが白人に煩わされることなく、平穏に暮らせる自由の天地として永遠に保証された筈でした。しかし、実際には何が起こったか?

 数千人の米国軍隊の監視の下、オクラホマに移住を強いられたチョクトウやチェロキーなどの諸部族がなんとか生活を再開してから20年もたたないうちに、白人たちはまたもや土足で乗り込んできました。1848年、カリフォルニアで金鉱が発見され、ゴールドラッシュの熱狂が始まり、大陸西部フロンティアへ東部の白人勢力がなだれ込みます。その象徴は「ランド・ラン(Land Run)」と呼ばれるオクラホマ入植の狂乱でした。米国政府はインディアンに与えた「永遠の楽園」の約束を破り、15ドルの入植手続き料さえ払えば、白人の誰にでもオクラホマ入植を認めることにしたのです。1889年4月22日正午、オクラホマの境界の指定の場所に馬に乗って集合した無数の入植希望者たちは、正午を告げる号砲を合図に、先を争ってオクラホマ州内になだれ込みます。分割の入植地の広さは65ヘクタール(65万平方メートル)、白人入植者たちは条件の良い土地の獲得を争って、砂塵を上げてひた走りに走ったのです。実況記録写真が残っています。その後も同様のランド・ランが4回行われて、赤人の土地オクラホマはカウボーイたちの蹂躙にすっかり委ねられてしまいました。

 米国20ドル紙幣の絵柄はアンドリュー・ジャクソンです。米国の南北戦争の南軍の将軍の銅像が引き倒されなければならないのであれば、20ドル紙幣の肖像も抹消変更されなければなりますまい。アンドリュー・ジャクソンこそ米国史上最も徹底して北米先住民のゼノサイドを推し進めた人物であったからです。しかし、米国という国家の問題は、いくつかの呼び名を変え、偶像を破壊すれば片付くものではありません。

 米国の本質を見据える良い方法の一つは北米先住民の歴史を知ることです。真実の北米インディアン史を書いた人は多数居ます。ジョン・アプトン・テレル(John Upton Terrell, 1900~1988) はその一人です。本物のカウボーイから身を起こし、やがて、北米インディアンについての物語や歴史の著者として有名になりました。その著作『西部勝ち取りについての真実(The Truth About The Winning of the West)』(1972年)には、

The inhumane treatment consciously inflicted upon the Indians by the United States, by both the Government and society in general, is unsurpassed in the annals of any major power which has overwhelmed a weaker and less advanced people.

「合州国によって、その政府と社会一般の両方によって、インディアンたちに意識的に加えられた非人道的な処遇は、強国がそれより弱く発達の遅れている人間集団を壊滅させた歴史的記録において、これを超えるものはない。」

とあります。 

 

藤永茂(2020年8月1日)