私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

核戦争を阻止しなければ

2018-04-09 19:54:41 | 日記・エッセイ・コラム
 全面的核戦争の危険が今日ほど高まったことはこれまでなかったと思います。何としても核世界戦争を阻止しなければなりません。私は2010年の春にこのブログの『核抑止と核廃絶』と題する一連の記事((1)〜(6))で核抑止と核廃絶という二つの考え方(理念、思想)の根本的な違いについて論じました。核廃絶の考えは「核兵器は絶対悪である」という思想に基づいています。この立場は湯川秀樹、朝永振一郎、豊田利幸などの日本の物理学者たちによって強く唱えられました。アインシュタインやバートランド・ラッセルのような人たちも同様の考えを持っていたと思われます。しかし、レオ・シラードと彼に同調した人々は、核兵器を絶対悪として退けるかわりに、核抑止という政治的イデオロギーを全面的に推進して、そのもとで核兵器と共に生きることを、今日まで、我々に強制し続けることになりました。「核抑止」という悪魔的なイデオロギーを世界に広めたことによって、「ヒロシマ」と「アウシュヴィッツ」の区別が導き入れられることになったといってもよいのです。その責任をレオ・シラードたちは背負わなければなりません。
 2016年4月19日付のブログ『核廃絶は政治を超える』

https://blog.goo.ne.jp/goo1818sigeru/e/2b5a235ccfe0381efff9c46b06941419

の中で私は次のように書きました:
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私見ですが、広島も長崎も、オバマ大統領を進んで招致すべきではありません。たとえ彼が何らかのギミックで広島、長崎で原爆犠牲者慰霊のポーズをとったにしても、彼の脳裏に政治的な計算以外のものがあるはずがありません。彼には慰霊の資格がありません。「米国大統領の来訪そのものが、世界の反核運動の促進に、ひいては核廃絶に役立つ」という考えがあるとすれば、私はそれにも反対します。核廃絶を政治の場の問題として考えていては、核廃絶は達成できないでしょう。
 核問題は文明の問題、我々の大部分がその中で息づいている文明の問題です。理論物理学者ロバート・オッペンハイマーが嘆いたように、「核軍備をゲーム理論的な勝ち負けの問題としてしか考えない文明」の問題であります。この問題を考える度に想起するのは故鎌田定夫氏(1929~2002)の「原爆体験の人類的思想化を」(『ヒロシマ・ナガサキ通信』122号)と題する一文です。その数行を引用します:
「あの戦争と原爆によって真に魂の危機を体験したか否か。真に死者と被爆者の立場に立ってあの悲劇を受けとめ、思想化し得たか否か、その根本が問われているのだ。日本人として、あるいはアメリカ人としての総括、思想化に止まらない。まさに人類的な総括、真に深い人間的な立場に立つ『ヒロシマ・ナガサキ』の世界化、人類的思想形成への実践がいま要求されていると言わねばならない。」
これに関して、以前、私は次のように書いたことがあります:
「原爆地獄の劫火の中で被爆者が立ち会った筆舌に尽しがたい表象は人間性の深淵に盤居する絶対悪の現前したものではなかったか。鎌田定夫氏の「原爆体験の人類的思想化を」という問いかけを心に思い浮かべる度に、この絶対悪を断固として拒否し、その廃絶を目指すことが、この問いかけに答えることではないかという想いが、私の心の中で、募って来ています。」
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 それに続いて5月17日には『一方的核軍備廃絶(Unilateral Nuclear Disarmament)』

https://blog.goo.ne.jp/goo1818sigeru/e/fc781368fba5c297afda10882461d037

で、
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 オバマ大統領の広島訪問という、実に忌々しい政治的見世物を炯炯たる眼光で見据える日本の若者たちの中から、真に揺るぎない核廃絶の思想を確立する大思想家が出現してくれることを、私は願ってやみません。アドルノ、ベンヤミン、アレント、などなどを超える広さと深さを備えた敢然たる思想家でなければなりません。
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と記しました。しかし、私が披瀝した念願は未だに叶えられていません。核廃絶の思想、核兵器が絶対的な悪であるという想いが全世界の人々に共有されることを妨げている大きな政治的力の一つは、ヒトラーによるユダヤ人の受難こそが比較を絶した「絶対悪」の顕現であるというシオニズムの主張の執拗さにあると私は考えます。シオニストによれば、ユダヤ人の受難だけが、大文字のSHOAH、大文字のHOLOCAUSTであり、他の諸々の大虐殺は、コンゴであれ、ヒロシマ・ナガサキであれ、全て小文字の「ショアー」、小文字の「ホロコースト」です。日本人を含めて、世界中の知識人たちはユダヤ人の受難を“記憶されえぬもの 語りえぬもの”として語りがちですが、そうした知的な深刻ぶりを排除した場所で、私たちは絶対悪について記憶し、語ることができます。アウシュヴィッツについても、ヒロシマ・ナガサキについても、コンゴについても、私たちにその気さえあれば、十分明確に記憶し、十分明確に語ることができます。
 このまま、世界の政治状況が推移すれば、核戦争は必至と思われます。この事態の深刻さを、荒野で、しきりに叫び続けている米国の賢者Paul Craig Robertsの勇気ある発言の数々をブログ『マスコミに載らない海外記事』は逐一翻訳紹介してくれています。実にありがたいことです。しかし、私としては、若い世代の日本人の論者たちからの直接の強力な発言を期待してやみません。

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藤永茂(2018年4月9日)