私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

エリトリアが滅ぼされないように(2)

2012-05-30 11:22:08 | 日記・エッセイ・コラム
 前回に予告したトーマス・マウンテン氏のエリトリア弁護論の紹介を始めます。以前に(前回にも引用しましたが)、このマウンテンという人物について「この記事の著者は2006年以来エリトリアに住んでいる英国系白人の独立ジャーナリストで、現エリトリア政府に同情的姿勢を明白にしている人物ですが、独裁者Isaias Afwerkiの回し者ではないと私は判断しています。」と書きましたが、正直な所、はっきり確信できたわけではありません。極めて悲しい事ですが、今の世界での発言者で、何らかの意味での“回し者”でない人物はごく稀にしかいません。自ら進んで要求したのではないにしても、トーマス・マウンテンがエリトリア政府から何らかの金銭的サポートを得ている可能性はあります。しかし、ASMARINO INDEPENDENT という名の機関のサイトに出ている『Shame on Thomas C. Mountain』という毒々しい個人中傷文を読むと、
  http://www.asmarino.com/articles/637-shame-on-thomas-c-mountain
リビアの事がすぐに思い出され、同時に、エリトリアという若い(やっと21歳)の独立国が、間もなくリビアと同じように滅ぼされてしまうだろうという私の予感はより強められました。トーマス・マウンテンは今でもアフリカの独立国リビアを滅亡させた米欧とNATO に対する非難の声を挙げ続けています。この人物が与太者ジャーナリストであるかないかについて決定的な断定を下すことは私には出来ませんが、ASMARINO INDEPENDENTという機関は米欧から活動資金を貰っているに違いないと、この数年で鍛え上げて来たつもりの私のジャーナリスティックな直感は私に告げてくれます。
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『西欧スタイルの“デモクラシー”がアフリカを破壊している』
     トーマス・マウンテン

 西欧スタイルの“デモクラシー”がアフリカを破壊しつつある。アフリカの何処を見ても、選挙は暴力と流血に彩られている。“買収、不正、盗票”、これが肝心かなめの所だが、もしそれでうまく行かなければ、フランス軍か国連平和維持部隊を投入して、大統領官邸にロケット弾を打ち込んで力づくで乗っ取ってしまうというわけ。
 “デモクラシー”とは、もともと、国民がこうして欲しいを思う事をその国の統治政治家が実行することだ。国の統治者たちにして欲しいことは何かと聞かれれば、殆どすべてのアフリカ人たちは、
1) 十分な食糧
2) 清潔な飲料水
3) 屋根のある住居
4) アクセスが容易で安価な医療
5) 子供たちのための教育
と答えるだろう。草の根アフリカ人の欲しいものリストで選挙はずっと下のほうだ。
 食糧、水,住居、それに医療、一国の指導者がこれらの優先事項に十分の手配をしていれば、それはデモクラシーを実践していることであり、もしそうでなければ、その指導者が西欧の新植民地支配のお偉方からどんなにお褒めの言葉を頂こうと、デモクラシーは実践されていないことになる。
 ただ一国をのぞくアフリカのすべての国は西欧風選挙の罠に掛かっている。そして、一国を除くアフリカの全体が何らかの形で血を流し続けている。
 アフリカの国の殆どではないにしても、その多くが医療と教育の総出費よりも多くの金額を利息として西欧の銀行に支払っている。
 アフリカの国の殆どではないにしても、その多くが食糧の外国依存で苦しんでいる。自国民をまかなうに十分の食糧を自給できないのだ。
 アフリカの国の殆どではないにしても、その多くが経済的な破綻に瀕している。石油産出国のナイジェリアさえ、悪徳銀行から緊急融資を次から次へと貰いながらヨタヨタ歩きを続けている。
 アフリカのどこを見渡しても紛争と戦争ばかりで、どこを見ても西欧スタイルの選挙ばやりだ。
 その選挙は実にひどいものだから、大きな暴力騒ぎなしに選挙が行なわれると、たとえ現職の大統領しか候補者がいなかった場合でも、その選挙は“アフリカの民主主義の勝利”だと看做される(リベリアがその例)。
 第二次世界大戦後、西欧の植民地支配者たちは彼らの“所有地”を軍事的に占領し続けることが不可能なことを苦い経験を通して悟った。だから、彼らは、アフリカをコントロールするために新植民地政策を編み出して、それを実施するために、西欧スタイルの“デモクラシー”を使うことにしたのだ。
 伝統的には、アフリカ人たちは彼ら自身の形態の“デモクラシー”を実践していた。大抵の場合は、長老たちの協議会がすべての党派を説得して誰もが何かを得るような具合の合意に到達するようにしていた。それは西欧スタイルの選挙で生じるような“勝つか負けるか”の状況ではなかった。
 すべての党派が最終的な決定に従うことにしたのだから、すべての党派はその合意を尊重し実施に移す義務にしばられ、その結果、平和が保たれ、人々はお互いに折り合って生きて来た。
 国家的な決定については、王とか大酋長とかが種族や氏族の協議会に常に相談をした。多くの社会共同体には、それは村落の集合体で、しばしば酋長が居たが、それでも紛争の解決法には、殆どの場合、長老たちの仲介による合意が使われた。こうして平和が保たれ、社会共同体の団結が維持された。
 アフリカにおける西欧の“デモクラシー”はまるでそれと正反対の状況を生み出している。ケニヤでは、撤退する英帝国が権力の座に据えた少数民族キクユは、選挙に勝たなければならぬ。負けたら彼らより大きいライバルのルオ族にすべてを手渡す危険にさらされる。その結果は?これまでの選挙で数千人が死に、数万人が難民になった。次の選挙はなお悪いことになるかもしれない。
 コンゴは? エチオピアは? アフリカでの民主主義の成功物語である筈のあのセネガルでさえも街路に血が流れた。
 だがしかし、この混乱と危機の真っただ中に平和と安定の島が一つある。この一カ所、この国の人々、とりわけ今でもその70%を占める村落の人々は、「政治家が約束を守り続けた証拠は何処でも一目瞭然だ」と言うだろう。太陽光発電で作動する井戸、灌漑用の小型ダム、医療診療所と学校、すべては遠隔の村々にまで広がっている。HIV/エイズの感染者数の減少はアフリカではダントツの40%、マラリア死亡率は80%減少、これはマラリア病史では最大級の成功だ。出産時の母子の死亡率も、誰あろう世界銀行が“目覚ましい改善”と呼んでいるし、ミレニアム開発目標(Millennium Development Goals, MDGs)も着々と目標達成に向かっている。それに加えて、アフリカで一番の経済急成長の国なのだ。
 このアフリカの真の成功物語であり、そして選挙というもののない唯一の国、それがエリトリアである。         (次回に続く)
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 著者のマウンテン氏、ちょっと安っぽくはありますが中々の能筆家で、読ませます。選挙がないとは、厳しい独裁の下にあることを意味します。エリトリアの独裁者はイサイアス大統領(Isaias Afwerki)、前回に「エリトリアの独裁者イサイアス・アフェウェルキは、その独裁の熾烈さにおいて、ルワンダのポール・カガメとよく同列視されます。決定的な違いは、米欧にとって、カガメが飛び切りの優等生であるのに、アフェウェルキは言語道断の非行人物だということです。」と書きました。ルワンダの選挙は大統領候補者としてカガメだけが居るのと同等の選挙で、90%以上の得票で圧勝することが始めから分かっていました。ルワンダで“ デモクラシー”を装った2年前の大統領選挙で一人の有力な女性候補が立候補したのですが、たちまち逮捕されて現在も投獄されたままです。21年前の独立以来、米欧による残酷な制裁封鎖がなければ、エリトリアの国内政治状況は今と違った形態になっていたでしょう。キューバの場合と同じです。すぐに思い出されるのはアフリカの小国ブルキナ・ファッソとその指導者トーマス・サンカラです。サンカラは1983年に革命を成功させ、この国は実に瞠目に値する急ピッチの発展を遂げましたが、1987年にサンカラが暗殺され、5年間に展開された奇跡は夢のように消滅しました。エリトリアの独裁者イサイアス・アフェウェルキと彼のエリトリアも同じ運命を辿りそうで心配です。
 MDGs のデーター、これは国連の事業ですからネット上に詳しい統計資料が出ています。それらと照合するとマウンテン氏のエリトリア褒め上げは大筋で嘘ではありません。また、ロンドンで発行されているNew African Magazineという月間雑誌の2011年11月号の Isaias Afwerki の長いインタヴュー記事が出ています。反帝国主義的な立場を取る雑誌ですがエリトリア政府の回し者でないことは確かだと思われます。
http://natna.files.wordpress.com/2011/10/eritrea-pia-in-new-african-magazine-noveber-2011-issue.pdf
先入見を出来るだけ押さえて、まあこの記事を読んでみて下さい。イサイアスという男がただ者でないことは直ぐに分かります。

藤永 茂 (2012年5月30日)



エリトリアが滅ぼされないように(1)

2012-05-23 11:26:39 | 日記・エッセイ・コラム
 今週は『スパイク・リー、ボブ・ディラン、ジョン・バエーズ』というタイトルを予定していましたが、5月24日がアフリカの小国エリトリアの独立記念日だと知って、この注目に値する国について書くことにします。エリトリアについては、以前このブログで取り上げたことがありますが、5月18日の西日本新聞(夕刊)の『アフリカの光』という連続コラムに「人口は約540万人。独立の戦いのころから、女性も兵士として前線に立って来た。98年から2000年までは、エチオピアとの国境で戦いがあり、このときも多くの女性兵士が戦場にいた。・・・・・ 5月24日が独立記念日。この日は国じゅうで祝い、首都アスマラではパレードがある。・・・・・  みな平和を望んでいるにちがいない。」(写真と文・フォトジャーナリスト中野智明)とあり、剣付き小銃を肩にして行進する赤ベレーの女性兵士たちの写真が出ていました。この写真を見て、私は、路上で暴行を受けて惨たらしく殺されたカダフィのハーレムだったと喧伝されたリビアの元気な女性兵士たちの映像を直ぐに思い出しました。米欧はNATOと現地傭兵の暴力で、国家元首カダフィが自国民を虐殺しているからリビア国民を救って上げなければという何とも呆れた嘘を理由に、リビアという独立国をアッという間に破壊し、滅ぼしてしまいました。それから約半年、日本人の殆どはもうリビアのことなんか忘れてしまったことでしょう。ごく最近、英国のBBCのインターネットニュースで「リビアの若者たちも今はボシングジムでボクシングを楽しんでいる」という写真入りのニュースを目にしました。それによると、カダフィは「ボクシングはスポーツとして暴力的すぎる」としてリビアでは禁止していたのだそうです。プロのボクシングとかスペインの闘牛を、スペクテーター・スポーツとして、残酷すぎると考える人があっても不思議ではありません。でも、あの残忍な独裁者がそんなことを言っていたなんて意外だと思う人は多いでしょう。私はそうは思いません。米欧のマスコミが悪意を持って描きつづけたカダフィ像が偏っていただけのことです。
 リビアの一般庶民の生活が社会統計的パラメーターで見てどの様なものであったかは、私にとって大変気にかかることですので、今でもあれこれ調べを続けていますが、一般庶民の生活的見地からは、カダフィ統治下のリビアがアフリカの60近くある独立国中で飛び抜けて良好な国家であったことは否定できない所です。南アフリカかセネガルあたりが一番じゃない?とお考えの人は両国の内情を再チェックしてください。
 5月18日の西日本新聞(夕刊)の記事を読んで、エリトリアのことが又とても心配になってきました。この記事では触れられていませんが、この1月にエリトリアと国境を接するエチオピア北部でヨーロッパからの観光客5人がエチオピアの反政府分子によって殺害されたことに端を発して、3月15日、エチオピア軍がエリトリア国内に十数キロ侵攻しました。エリトリアがエチオピア国内の反政府勢力を支持しているというのがその理由でした。エチオピア政府は米国政府のコントロールの下にあり、無人攻撃機の基地も提供しています。いつエリトリアがリビアと同じ運命を押し付けられるかも知れません。
 このブログの2011年12月7日の記事『アウンサンスーチー:桜井元さんへのお答え』の一部を再録させて頂きます。:

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 この日頃、私の心を痛めているのは、北アフリカの人口5百万の小国エリトリア(Eritrea)の命運です。もう程なくこの黒人小国は米欧によって粉砕抹殺されてしまうでしょう。今度も表向きはUNとNATOと現地代理戦傭兵隊によってエリトリア人が凶暴な独裁者から救われ、“民主”政権が樹立されることになりましょう。これだけは間違いのないところですが、皆さんが、この国が瓦解してしまう前に、この国の国民生活についての幾つかの基本的事実を知ることがどんなに困難かを実地に経験して頂きたいと、私は強く願います。そのため少しばかり実地の案内をします。
(1) http://kaze.shinshomap.info/series/rights/10.html
 人間を傷つけるな!  土井香苗    10/01/31
 第10回 エリトリア人弁護士から見た“世界最悪”の独裁政権国家
 戦争や虐殺など世界各地で今日もなおつづく人権蹂躙の実情に対して監視の目を光らせる国際NGOヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)。2009年春開設したHRW東京オフィスの土井香苗ディレクターが問題の実態を語る。
 「北朝鮮よりも“人権”のない国?」
<藤永註>この記事によると、絶望的な独裁制の下でエリトリア国民は塗炭の苦しみにあると思われます。
(2) http://std-lab.typepad.jp/yamada/2008/09/stop-aids-0d48.html
山田耕平の「愛」がエイズを止める!!(第6弾)
~エリトリア自転車&STOP AIDツアー
<藤永註>ところがこちらの記事は次のように始まります。:
「ただいまエリトリアから帰国しました!
多くの人たちにですが、どうだった?って聞かれましたが、まずお伝えしたいのは、アフリカでこんなに治安も良く、安全な国があったとは思わなかったということです。
アフリカの多くの国では、首都を夜歩くなんて自殺行為に等しいのが現実ですが、エリトリアの首都アスマラは本当に治安が良く、安全でした。また首都アスマラはゴミもほとんど落ちておらず非常に綺麗で、またイタリア植民地時代のコロニアルな雰囲気の建物が残っていて、素晴らしい町並みです。」
この文章を読みながら、私はリビアの首都トリポリについても似たような印象を伝えた記事を思い出していました。
(3) http://www.moj.go.jp/content/000056397.pdf
出身国情報レポート「エリトリア」  2010年6月
 <藤永註>この50頁にわたるpdfは米英側のほぼオフィシャルなエリトリアの誹謗文献の典型であろうと私は判断します。この書き物の内容は(1)の国際NGOヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)の報告に依存して大きくいると思われます。
(4) http://blackagendareport.com/content/eritrea-island-food-africa’s-horn-hunger
Eritrea: An Island of Food in Africa’s Horn of Hunger
by Thomas C. Mountain 08/10/2011
Drought kills, but spiraling food prices can also bring hunger. While Ethiopia exported food for cash as drought and famine loomed, Eritrea is like “an island the size of Britain where affordable bread is there for all and slowly but steadily, life gets better.” Meanwhile, in Ethiopia, “basics like wheat, barley, sorghum and chick peas become so expensive malnutrition rates for children spike.” Naturally, Ethiopia is a U.S. client state, while Eritrea is on the American hit list.
<藤永註>この記事の著者は2006年以来エリトリアに住んでいる英国系白人の独立ジャーナリストで、現エリトリア政府に同情的姿勢を明白にしている人物ですが、独裁者Isaias Afwerkiの回し者ではないと私は判断しています。参考までにこの記事の終りの部分をコピーして訳出します。:
■ Life expectancy in Ethiopia is falling, maybe plunging is a better word, while even the World Bank uses words like “dramatic” to describe the improvements in life expectancy in Eritrea. Eritrea is one of the very few countries in the world that will meet the Millennium Development Goals (MDG), especially in the area of health for its children, malaria mortality prevention and reduction of AIDS.
Hillary Clinton may call Eritrea a dictatorship and Ethiopia a democracy but if one measures human rights by access to clean drinking water, food, shelter and medical care rather than stuffed ballot boxes and fixed elections, then the descriptions would have to be reversed.
The Horn of Africa may be the Horn of Hunger for millions but in the midst of all the drought, starvation and suffering there lives and grows an island of food security, little Eritrea and its 5 million people.
Unfortunately, none of this may be enough to prevent the UN inSecurity Council from passing even tougher sanctions against Eritrea in an attempt to damage the Eritrean economy and, inevitably, hurt the Eritrea people. This is all done, once again, in the name of fighting the War on Terror, or more accurately, the War on the Somali people. (エチオピアの平均寿命は降下している、いや急落していると言った方が良いが、その一方で、(すぐ隣りの)エリトリアでは、世界銀行ですらが“劇的に”という表現を使うほど、平均寿命が延びているのだ。エリトリアは(国連の)ミレニアム開発目標(MDG)で、特に児童の健康、マラリアによる死亡防止、エイズの感染減少の分野で、目標の達成が期待されるごく少数の国家の一つである。ヒラリー・クリントンは、エリトリアは独裁国家、エチオピアは民主国家と言うだろうが、もし、人権というものを、インチキ投票箱,お手盛り選挙ではなく、クリーンな飲料水、食べ物、住まい、保健医療が得られるかどうかで測るならば、エリトリアが民主国で、エチオピアが独裁国ということになるだろう。アフリカの角(アフリカ大陸の右肩の地域)は何百万かの人々にとって空腹の角とも言えようが、この旱魃と飢餓と受難のただ中で、小さなエリトリアとその5百万人の国民は、食糧不安のない孤島として、生活し、成長している。- 以下略 -)■
 これを読みながら、私の想いは又しても今回NATOによって“民主化”されない前のリビアに立ち返ります。エリトリアでは毎年国際的な自転車レースが行なわれています。今年の国外からの参加者の数人が上掲の(2)の山田耕平氏のエリトリア描写と殆どそっくりの観察を報告しています。また、エリトリアが国連のミレニアム開発目標に関して優れた成果をあげていることはネット上に沢山の公式データがあります。リビアの場合にも国連がその国民生活の質の良さを確認するデータを発表していたことはこのブログでも報告したことがありました。もう間もなく、この小国は大国のエゴイズムによって粉砕され、私は「エリトリア挽歌」を書く羽目になるのでしょう。
 エリトリアの独裁者イサイアス・アフェウェルキは、その独裁の熾烈さにおいて、ルワンダのポール・カガメとよく同列視されます。決定的な違いは、米欧にとって、カガメが飛び切りの優等生であるのに、アフェウェルキは言語道断の非行人物だということです。アウンサンスーチーとアリスティドとの相対地位とも通じている所があるかも知れません。(2011年12月7日)
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 われわれ一般庶民にとって大変困るのは、土井香苗/外務省さんとMountain/山田耕平さんとで、エリトリアの見方がまるっきり反対だということです。
真相は何処あたりにあるのか? JICA (国際協力事業団)のエリトリア担当の方々か、あるいは、外務省の方でも、職業的に危険のないやり方で何とはなしに有りのままのエリトリアの現実の状態を我々に教えて頂くわけにはいかないものでしょうか?
 Mountain さんは、5月の始めに、またエリトリアに焦点を当てて、アフリカの“民主化”に関する痛烈な米欧批判の論考を発表しました。次回に紹介します。  (http://www.intrepidreport.com/archives/5765)


藤永 茂 (2012年5月23日)



沖縄の黒豚アグーの話

2012-05-16 09:54:44 | 日記・エッセイ・コラム
 白鳥紀一さん、唐木田健一さん、大橋晴夫さんのお三方が何処かで歓談をされた折に、ハイチの黒豚のことを書いた私のブログ記事が話題にあがり、それが機縁で大橋晴夫さんから興味深いお話を伺うことが出来ました。沖縄のアグー豚をなるだけ多くの人々に知って貰い、食べてもらいたいと思いますので、ここに紹介させていただきます。 (藤永 茂)

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ハイチの黒豚で思い起こした三つの話    大橋晴夫      

 ハイチの黒豚の記事(2012.03.28.および2012.04.04)を読んで思い起こしたのは、高校生の手により復活したと聞く沖縄の黒豚の話でした。廻りまわって紹介してほしいとのご依頼ですが、資料もなく、見たことも味わったこともない黒豚のことを、私が書くのは出しゃばり過ぎと感じました。沖縄在住の友人にブロク「私の闇の奥」を紹介し、ハイチの黒豚に関する記事を読んでもらい、出来たら沖縄の黒豚について紹介記事を書いて欲しいと依頼しました。
依頼を終えて寝そべっていると、黒豚とは直接は関係しないが、どうやら結びつく二つの事が浮かんできました。ひとつは原発・増殖炉のこと、いまひとつは窒素固定のバクテリアの話。この三題話なら私が書くことも許される、そう思って筆をとります。

ひとつめは「おまつり」と題する詩で、詩集「報告」1992年に収め、詩集「きみたちはどうしているのか」2008年に再録したもののことです。とかげのしっぽのように足をもぐと足が生えてきて、手をもぐと手が生えてくる豚の物語です。
「おまつり」
川のむこうでは
おはやしの練習がはじまったようだ
たいこの音にみちびかれて
しの笛がうたいはじめた
母さんはにわとりをさばいている
おはやしの練習もだが
ひさしぶりのごちそうに
お勝手を離れられないぼくだ
にらのように とかげのように
切っても 切っても
あとからあとから生えてくる
そんな肉があったらいいのに
そしたら毎日ごちそうが食べられるのに
足をもぐと足が生えてきて
手をもぐと手が生えてきて
しりの肉も はらの肉も
上手に取るともとに戻って
そんな豚がいて
むかしはそんな豚がいて
むかしはずいぶんとぜいたくをしたものさ
おまけにその豚は
エサがほとんどいらないんだ
水とちょっとの砂糖と酒かす
でもね
その豚一週間に一回
ものすごいうんこをするんだ
それはそれはすごいやつでね
いつまでたっても湯気出していて
いつまでたってもにおいがして
風下に立つと
人も馬もきぜつしてしまうほどなんだ
すごいやつだった
となりの村じゃ
その豚を三頭も飼ったもんだから
とうとう人が住めなくなってね
そうなんだ
おまつりになるとにわとりをバラして
みんなでごちそうを食べるのは
どうか豚さま安らかにって
おはやしは
うんこに聞かせるものなんだ
鳥居の奥のやしろには
おじいさんたちが掘った
大きな大きな穴があって
豚のうんこが埋めてあるのさ

ふたつめはハイチの黒豚の記事(2012.03.28.および2012.04.04)から思い起こした沖縄の黒豚の話です。記憶を確認するために調べていたら「美ら島物語」に出会いました。以下は美ら島物語www.churashima.net/shima/okinawa/e_20040428/02.htmlの記事をほぼ丸写しにしたものです。

琉球王朝時代から戦前まで、当たり前のように飼育され、食されていた琉球在来黒豚アグーですが、戦争と豚コレラのせいで、その数は激減しました。他方、戦後、物資食料の乏しくなった沖縄を救おうと、ハワイの沖縄県人会は350匹の白豚を沖縄に送り、赤肉の多さ、出産数の多さ、発育の早さなどでアグーに勝っていたため、養豚農家は喜んで白豚を飼育し始めました。そして、いつの間にか在来種アグーは養豚農家の豚舎から姿を消して、名護博物館が在来家畜の展示飼育を手掛けることになり、当時の館長島袋正敏さんが、在来豚アグーはどうなっているかと調べてみたところ、なんと全県に18頭しか残っていなかったのです。養豚農家が趣味で飼っていたり、親戚で食べるためのものとして、飼育しているものでした。生育速度が遅く、脂身が多いアグーは、豚肉商品としての価値が低く、また生育日数が長い分、えさ代も膨らむ。そのため養豚農家は見向きもしなかった。そんな中、アグーの復活に手を上げたのが北部農林高校の一人の先生だった。島豚アグーについていろいろと調べてみると、驚きの分析結果が出た。コレステロールが外来種の1/4・ビタミンB1(チアミン)が豊富・うま味成分のグルタミン酸が多く含まれている ・柔らかくておいしい・肉の色沢が良い・臭みがなく、あくが出ない・油が香ばしいなどなど。しかも、アグーは病気に強く粗食にも耐える豚。時を同じく畜産試験場でもアグーの研究を重ねていた。ただし数が少なすぎて、原種のみでの交配は難しく、戻し交配が行われた。そして1995年、在来豚アグーに限りなく近い黒い豚が蘇った。アグーが蘇ったにもかかわらず、その後も畜産農家はアグーの飼育にまだまだ消極的である。現代の養豚では、コストと利益が合わない。白豚をセリに出すと3万円の値がつくときに、アグーは8千円にしかならない。いい豚だというのはわかったけれど、豚肉の品質評価と価格は赤肉の比率で決まる。しばらくは、研究者同士での意見交換の域を越えない時代が続いたが、2000年に県立北部農林高校や、今帰仁村内にある沖縄県畜産試験場などの専門機関の連携により「琉球在来豚アグー保存会」が発足し、在来種保存に向けての機運が高まった。アグーは、白豚の基準で勝負せずに、沖縄の在来豚アグーとしてのブランドを確立し、肉の栄養価を表に出して勝負すれば、高値で売ることも十分に可能であろうなどと、前向きな意見も出始めている。
以上は美ら島物語www.churashima.net/shima/okinawa/e_20040428/02.htmlの記事をほぼ丸写しにしたものです。繰り返しておきます。

みっつめは「粗食にも耐える豚」に対する妄想です。豚や牛などは体内の尿素から腸内細菌によってアンモニアを作り、それをさらに蛋白質に作りかえているとききますが、体内のアンモニアから蛋白質を合成するだけでなく、豆類の窒素固定菌のように、空中の窒素を固定する腸内細菌も黒豚は利用しているのかもしれないというものです。ちなみに空中の窒素を固定する能力はシロアリから人間にいたるまで持っていて、豚腹はパプア・ニューギニアの少数民族であるパプア高地人がお祭りの夜に貴重な豚を殺して食べるとしばしば発症する病気です。パプア高地人は空中の窒素を固定する腸内細菌を持っていて、それが原因となっての発症のようです。
http://homepage3.nifty.com/adeno1/sci/bio.htm :腸能力の謎を探る

 私の三題話は以上です。ハイチの黒豚の話を読んで、沖縄における高校生の手による復活を伝えたく思いました。同様のことはハイチでも期待されるでしょう。混血していても戻すことが出来るかもしれない。もし、まったく残されていなかったなら、沖縄からハイチへ送り届けたい。いつか沖縄の高校生が送り届けるだろう。そんな思いがこみ上げてきました。しかし、私が書くまでもないと思い、一度はお断りしました。もっと適した方がおられると思うからです。わたしの貧しさを示すだけですが、ひとつめとみっつめを加えて三題話とさせていただきました。
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以上が大橋晴夫さんのお話です。

藤永 茂 (2012年5月16日)



『波浮の港』とベートーベンの作品131

2012-05-09 08:54:25 | 日記・エッセイ・コラム
 目が疲れてくると、スタックスのイヤースピーカーというものを頭につけて、目を閉じて、音楽を聴くことがよくあります。先頃、奇妙なことが起りましたので、その話をします。
 音楽やその他のことで、メールを通して、いろいろ良いことを教えて下さる方が居ます。Sさんとしておきましょう。しばらく前のことですが、藤原義江の唱う『波浮の港』を添付したメールを頂きました。藤原義江は日本のオペラ界の草分けで、私の年代の人間には懐かしい名前です。『波浮の港』の録音を含めてネット上に沢山出ています。Sさんがメールで送ってくださった藤原義江の『波浮の港』には名状しがたい美しさがあり、つい何度も繰り返して聴き入りました。はじめは、テクニカルには少し破綻があるのでは、と思ったりもしましたが、二度,三度と聴き入るうちに、これが『波浮の港』という唄なのだ、これが歌曲を唱うということなのだ、と分かって来ました。ほかの世界的に有名なオペラ歌手に較べれば、この人は大した歌手ではないと私が思っていた藤原義江は、ある歌の調べに乗れば、すごい歌が唱える人だったのかも、と思えてきました。Sさんは解説的な人ではありませんから、「まあこれを聴いてごらん。芸術というのはこんなものだ」という意味をこの歌唱にこめて教えてくださったのではないかと忖度しています。パヴァロッティやドミンゴやカレーラスならば、『波浮の港』を、発声法的な破綻もなく、朗々と美しく甘美に唱い上げたことでしょう。しかし、はたしてこの藤原義江を超えることが出来るか? 藤原義江は、自分の声を我々に聴かせることは忘れて、何か別のものを我々に聞かせようとしていたのです。
 アンジェラ・ゲオルギュー(Angela Gheorghiu)というルーマニア生れの美人ソプラノ歌手がいます。十数年前、私がカナダでしきりとCDを買っていた頃にも既に大変な人気でしたが、その頃、この人気絶頂の歌姫が世界各国のポピュラー名歌を歌ったCDが発売されました。グラモフォン誌などでも絶賛されていたのに引っかかって、つい買ってしまいましたが、そのなかに日本の歌からの選択として『川の流れのように』がありました。私のガッカリ感は、期待して聴き始めたこともあって、ことさらに大きくふくれ上がり、あらためて、美空ひばりの偉大さを思い知った次第でした。歌は美貌と美声だけでは唱えません。ゲオルギューにはこの歌の心が唱えなかったのです。彼女のCDは誰かにやってしまって日本には持って帰っていません。彼女がオバマ大統領の御前でパフォーマンスをしたというニュースを何処かで見たような気がします。
 私には一つ楽曲を決めて、しばらくの間、演奏者を変えながら、数日間にわたって聴き続けるという癖があります。演奏者を比較するという批評的な気持からではなく、そうすることでその一つの音楽をより良く聴くことが出来るような気がするだけのことです。このところハマッテいるのは、ベートーベンの弦楽四重奏曲嬰ハ短調(作品131)です。Melvin Berger という人の書いたガイド本によると、ベートーベンは、友人のKarl Holz に、16曲ある自作の弦楽四重奏曲のうちで一番気に入っているのはこの曲だと言ったそうです。ホルツによれば、ベートーベンを心から慕っていたシューベルトはこの曲を聴いてひどく興奮して泣き出したので、どうなるのかと気が気でなかったそうです。曲の出だしからバイオリンの奏でる緩徐な調べを一旦聴いたら、耳にこびり付いて離れません。ワグナーが“the most melancholic sentiment in music”を表していると言ったとも書いてあります。
 私はまずズスケ弦楽四重奏団の演奏から聴き始めました。この人たちの演奏は地味で真っ当で大好きなのですが、ズスケの次に、ヴェーグ弦楽四重奏団の演奏を聴き始めた時に実に奇妙なことが起りました。事もあろうに、突然、藤原義江の『波浮の港』がシャンドル・ヴェーグのバイオリンに重なって耳の中で鳴り出したのです。ガイド本には「個人的な嘆きや悲しみを超えた静謐な調べ」とあります。野口雨情/中山晋平/藤原義江の童謡的な感傷がベートーベンの至高の調べに重なることが許されるのでしょうか。問題は、頭の中で日本の歌謡曲と西欧の古典音楽の名曲がこんがらがる私にあるのでしょうが、それでも何だか嬉しくなりました。本当の芸術というものはこんなものかも、という想いがちらついたからでしょう。
 ヴェーグの次にアルバンベルクに移ってみましたが、そこにはもう『波浮の港』はありませんでした。澱みのない美しすぎるほどに見事な弦楽四重奏の演奏があるだけでした。もう一つ、ベートーベンの弦楽四重奏曲嬰ハ短調(作品131)に関する演奏で私が大切に持っているCDがあります。ウィーン・フィルの弦楽奏者たちによる集団演奏で指揮者はレナード・バーンスタイン、楽器の数を増しただけで、譜面は一切変更されてないそうです。一糸乱れぬその弦楽集団演奏はウィーン・フィルだからこそ可能だったとライナーノートに書いてあります。それは素晴らしい演奏であり、音楽ですが、『波浮の港』が重なって聞こえてくることはありませんでした。
 1996年出版の拙著『ロバート・オッペンハイマー  愚者としての科学者』(朝日選書)の本文を私は次のように結びました。
■ 最後はG ・ケナンの弔辞であった。
「大規模破壊兵器の開発の脅威が指し示す終末的破滅を回避するために、これほど熱情的に身を挺した人物は他にいなかった。・・・・ 彼の戦いは終った。・・・・」
ジュリアード弦楽四重奏団が演奏するベートーベンの弦楽四重奏曲嬰ハ短調(作品131)が告別式の最後を飾った。バークレー時代からオッペンハイマーが愛してやまぬ曲であった。■
ジュリアード弦楽四重奏団の演奏も聴いてみたくなったので注文しようかと思っています。


藤永 茂 (2012年5月9日)




イマキュレー・イリバギザ著『生かされて。』

2012-05-02 08:39:38 | 日記・エッセイ・コラム
 このブログでルワンダのことを何度も論じて来ましたが、炯々たる眼光をお持ちの一読者から、1994年の大虐殺に関する本として大変広く読まれている『生かされて。』への言及がないのは、故意か、あるいは、無知からか、というお尋ねを頂きました。
 アリソン・デフォルジュという高名な人権擁護運動家がHuman Rights Watchというこれまた良く知られたNGO組織の報告書として出版した『Leave None to Tell the Story』があります。ルワンダ大虐殺の凄まじさを捉えた、まことに巧みなタイトルですが、それが示唆するほど内容は扇情的でも操作的でもなく一読に値します。このデフォルジュの報告書のタイトルにぴたりと呼応する『Left to Tell』というタイトルは出来過ぎた感じで、はじめから胡散臭さを嗅ぎ付けた私は読むに値しない本だろうと考えたのでした。知ってはいたが無視した、というのがお尋ねへの答です。
 しかし、今度読んでみて驚きました。驚いたというより、とても憂鬱になりました。これはひどい本です。キリスト教がアメリカ人の精神生活にとってこれほどまでに惨憺たる、あるいは恐るべきものとなっているとは思っていませんでした。本書は、クリスチャン女性の神への祈りとそれに対する神の応答の物語という体裁をとっています。しかし、こんなものが真のキリスト教における祈りの物語である筈はなく、あってはなりません。本当の立派なクリスチャンの人々が、しっかりと声を挙げてこのエセ宗教書を批判してくれることを私は祈ってやみません。私はキリスト教徒ではありませんが、幸いなことに、実人生でも、読書を通じても、尊敬に値するキリスト教信者に出会うことが出来ました。実の人生では、一人は理論物理学者(日本人)、もう一人はカナダで知己を得た比較宗教学者(日本人)です。書物を通じては、アッシジの聖フランシス、それとカトリック修道士トマス・マートン(Thomas Merton, 1915-1968) です。マートンが生きていたら、はっきりした言葉で『生かされて。』を叱ってくれただろうと思います。アメリカの書籍の市場には、この人生を成功裡に生きるにはどういう心理的道具立てで進めばよいか、というHOW TOもののジャンルがあります。『生かされて。』は商業的にはこのジャンルに属し、その著者は見事な成功者の実例であり、それにあやかりたいと思う無数のアメリカ人が居るということでしょう。
 私の見るところ、『生かされて。』の中に、どうやら本物のクリスチャンではないかと思われる立派な人物が登場します。プロテスタント教会の牧師でフツ人(イマキュレー・イリバギザはツチ人)のムリンジという男性で、イリバギザたち7人のツチ人女性を、自分の命をかけて、自宅のトイレにかくまって救ってやった人です。『生かされて。』の「あとがき」にムリンジ牧師の名前がないのは一体どういうことでしょうか。彼のようなキリスト教徒はツチ人にもフツ人にも居て、あの大虐殺の間もその後にも、この人智の理解を超える恐るべき事件の意味について、苦しい沈黙の祈りの中で神の御旨をひたすら問い続けているであろうと私は想像します。
 『生かされて。』は、アフリカ中部(大事な部分はコンゴ、特にコンゴ東部とそれに隣接するルワンダ、ウガンダ地域)に関する本としてはトップの売れ方をしているようですが、1994年の大虐殺を含めて、過去20年間にこの地方で何が起きたか、何が進行しているかを学ぶには有害無益な書物です。もし近似的にでも真実を知りたければ、せめてアリソン・デフォルジュ( Alison Des Forges ) の『Leave None to Tell the Story』を覗いてみて下さい。
ここ
アリソン・デフォルジュ女史は、2009年2月12日、ニューワークからバッファローに向かう搭乗旅客機が墜落して亡くなりました。はじめ彼女はツチ人のカガメ大統領のルワンダ政府の大のお気に入りでしたが、1994年の大虐殺中にもその後にもツチ人だけでなくフツ人も多数殺されていることを公言するようなった彼女はカガメの逆鱗に触れ、2008年にはルワンダへの入国が出来なくなっていました。英国のガーディアン紙の死亡記事(2009年2月18日)の中に、Human Rights Watch の副理事 Carroll Bogert が、死の直前のアリソン・デフォルジュ女史について語った言葉が記録されています。:
■ Her work on the abuses being committed by the Rwandan government today made her something of a skunk at a global garden party. (今のルワンダ政府が犯している悪業に関する彼女の研究は、世界中のガーデンパーティで彼女をスカンクのような存在にしてしまった。)■
スカンクは北米にいるイタチ科の小さい動物で、私もカナダで出会ったことがあります。護身用にすごい悪臭を放ちます。車でうっかりスカンクを轢き殺すと車体にスカンクの臭いがこびりついて大苦労します。1994年のルワンダ大虐殺の詳細を、その直後から、詳しく世界に報じたことで、デフォルジュは人権擁護の女神(あるいは大姐御)的存在として持ち上げられた時期がありました。欧米の政治的ハイソサイエティのガーデンパーティには他のセレブリティに伍する客として迎えられたことでしょう。しかし、一旦カガメのルワンダ政府批判を口にする誤りを犯すやいなや、そのサークルでは‘鼻つまみ’の除け者になり、20年間も親しんだルワンダに足を踏み込むことも禁じられてしまいました。いまこのサークルのガーデンパーティのダーリングはイマキュレー・イリバギザなのでしょう。
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 アマゾン・アメリカの『Left to Tell』の読者書評を見ると、5★(473)、4★(35)、3★(9)、2★(8)、1★(5)となっています。一つ星の評の一つにとても意地の悪いのがありますので、座興としてコピーします。英語を読むのが苦にならない方はお読み下さい。:
■ Things don't add up (どうも辻褄が合わないな)
From the first page, there's something phony about this book, but it's hard to pin down. I have no doubt that Immaculee lost her entire family, and I'm very sorry for what happened to her and her people. I believe the basic facts of the story, because I remember news accounts of the time, but some of Immaculee's details sound fake. Eight women hiding in a bathroom three feet by four feet, (with a toilet taking up some of the room,) and the minister throws in a mattress for them? At one point in the story, she says there were 40 to 50 killers in the room next to her. How could she possibly have known how many there were? She's a tall woman weighing 115 pounds at the beginning of the story, (hard enough to believe in itself,) then she loses 50 pounds over the next three months, getting down to 65 pounds, and the night they are let out of the bathroom, she runs to safety? How could she even walk? By the way, how could she know she weighed 65 pounds, when she lived in very primitive conditions for the next several weeks. But it's not just the strange and contradictory details, but the whole tone of the book that seems fake. I notice on her web site that she has a full speaking schedule, she makes numerous media appearances, and that she recently signed a movie contract. Since the book was written twelve years after the war, maybe she had gotten into the habit of making a good story even better. Too bad. The simple truth would have had a deeper impact.

藤永 茂 (2012年5月2日)