私の闇の奥

藤永茂訳コンラッド著『闇の奥』の解説から始まりました

Settler Colonialism(セトラー・コロニアリズム)(2)

2018-06-18 22:52:50 | 日記・エッセイ・コラム
 ウィキペディアに
**********
大航海時代(だいこうかいじだい)は、15世紀半ばから17世紀半ばまで続いた、ヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代。主にポルトガルとスペインにより行われた。
「大航海時代」の名称は、1963年岩波書店にて「大航海時代叢書」を企画していた際、それまでの「地理上の発見」、「大発見時代」(Age of Discovery / Age of Exploration)といったヨーロッパ人の立場からの見方による名称に対し、新しい視角を持ちたいとの希求から、増田義郎により命名された。
**********
とあります。増田氏によれば、大航海時代の始まりは1415年、終わりは1648年とされています。この提案は世界史の時代区分として、学問的に、十分の意義を持っているのでしょうが、ポルトガルによる北アフリカへの侵略(1415年)に始まる、ヨーロッパによる非ヨーロッパ世界の侵略と植民地化、それによる非ヨーロッパ世界の住民の大苦難時代は、この600年を通じて切れ目なく今日まで続いています。1492年、コロンブスがカリブ海の島に到着して、インドに着いたと思いこみ、周辺の先住民をインディアンと呼んだことはよく知られています。コロンブスを暖かく迎え入れた先住民たちについて、「健やかな体つきで良い奴隷として使えそう」であり、「物の所有という概念が希薄であり、彼らの持ち物を所望すれば、気前よく呉れる」といった感想を残しています。「コロンブスの卵」の話は有名ですが、おそらく作り話と思われますし、私たちがコロンブスについて覚えておかねばならないことは、口にするのもおぞましい先住民大虐殺の実行者であったという事実です。1493年、17隻の大船団を組んで二度目の大航海を敢行しますが、それには植民地の設立のための多数の軍人と入植者が乗船していました。コロンブスの軍隊がおこなった先住民の大虐殺は、その徹底した残忍性において特筆すべきものがありました。ヨーロッパから持ち込まれた伝染病や飢饉の影響も重なって、コロンブスの到着後の半世紀間に中南部アメリカの先住民の9割以上が殺され、その総数は数千万にも及ぶと推定されます。俄かには信じがたい、世界史上最大の大虐殺です。コロンブスが始めた先住民虐殺の残虐性の伝統は南北アメリカ大陸の侵略に受け継がれ、特に、やがてアメリカ合衆国となる地域ではその東部から始まって大陸西岸の“インディアン”の絶滅に至るまで継続します。このブログの前回で紹介したアーシュラ・K・ル=グウィンの語り口を拝借すれば、アメリカ大陸インディアン撲滅の『ホロコースト』は、ユダヤ人大量殺戮が実行されたナチ・ホロコーストを、その規模において、一桁上回るものであったのです。
 一方、アフリカ大陸を侵略支配したヨーロッパ勢力は、アメリカ“新大陸”植民地化の労働力需要に見合う奴隷狩りを行ってアフリカ大陸の有能者人口を奴隷として大規模に“新大陸”に送り込み、また南アフリカの地域にはセトラー植民地を開きます。しかし、ここに一見奇妙な事実があります。大航海時代の始まり(1415年)からヨーロッパは猛然とアフリカ大陸に襲い掛かったにもかかわらず、19世紀の終わりの時点まで、アフリカ大陸の大部分がまだヨーロッパ諸国の領土にはなっていなかったのです。この史実については拙著『闇の奥の奥』に詳しく説明しましたので興味のある方は読んでください。ここでは「2 黒人奴隷の悲史」の冒頭の部分を引用します:
**********
 すでに15世紀に始まったヨーロッパの海外大侵略(彼らはこれを大航海時代と呼ぶ)とアフリカ大陸の歴史に疎い私たちは、20世紀にあと一息という時点で、ヨーロッパのすぐ南に位置するアフリカ大陸の80%の土地がヨーロッパ諸国の領有下ではなく、先住民の手に残されたままであったと聞けば、奇異な感じを持つだろう。
 コロンブスがアメリカを“発見”したのは1492年、ポルトガルのカブラルがブラジルを“発見”したのは1500年、アメリカ独立宣言は1776年、1861年にはアメリカの内戦(南北戦争)が始まり、1863年にはリンカーンが黒人奴隷の解放を宣言する。これはレオポルド二世即位の直前である。その350年間に約1000万人アフリカ黒人が奴隷として大西洋を渡り、交易商品として、“新大陸”に送り込まれ、ほぼ同人数がアフリカから狩り出されて輸送される途中で無残な死を遂げたと推定されている。史上最大の人間集団強制移動、大量虐殺の悲劇である・・・・
**********
大西洋をまたぐ奴隷交易が終焉に向かったのは、荒っぽく言えば、利益をあげる効率が下落したからであり、リンカーンの黒人奴隷解放にしても国家経済的なものが最大の理由でした。
 アフリカ大陸本土の本格的収奪の開始のシンボルは、ドイツ首相ビスマルクの提唱で開かれたアフリカ分割に関するベルリン会議です。参加した国は、当時アフリカに野心を持っていた、イギリス・ドイツ・オーストリア・ベルギー・デンマーク・スペイン・アメリカ・フランス・イタリア・オランダ・ポルトガル・ロシア・スウェーデン・オスマン帝国の14カ国、アフリカからの参加は全くありませんでした。全くもって、ひどい話です。会議は1884年11月から1885年2月末にかけて行われ、ベルギーのレオポルド二世にコンゴの支配を許すか否かが中心的な議題になりました。Scramble for Africaという言葉で知られることになったこのベルリン会議で承認されたレオポルド二世の私有コンゴ植民地で何が起こったかが拙著『闇の奥の奥』の主題です。また、このブログでも2007年から2008年にかけてこの問題を論じました。レオポルド二世のコンゴで彼の過酷な政策の犠牲になった黒人の死者数は少なくとも6〜700万人に及ぶと考えられます。1千万という数字も挙げられます(例えば、Noam Chomskyの『YEAR 501』のp20)。
 第二次世界大戦後、アフリカ全土に脱植民地の動きが高まり、レオポルド二世のコンゴも、1960年6月30日、コンゴ共和国として独立を果たしますが、初代首相として選出されたパトリス・ルムンバは、米国CIA(当時の長官はアレン・ダレス)に操られたコンゴ国軍参謀長モブツ・セセ・セコのクーデターの犠牲となり、1961年1月17日に暗殺されました。享年35歳。それからの30数年は、東西冷戦たけなわの時期でもあり、アフリカの反共の護符として独裁者モブツは、ニクソン、レーガン、ブッシュ(父)大統領の“友情”をほしいままにし、その間、米欧の鉱業資本はコンゴの豊富な鉱物資源を貪欲に収奪したのでしたが、1991年のソ連解体後は、無用厄介の長物となり、「第一次コンゴ戦争」と呼ばれる内戦で政権の座を追われてモロッコに亡命、死歿。しかし、その後も「第二次コンゴ戦争」と呼ばれる国内の混乱が続き、失われた人命は合計すると優に7百万に達すると思われます。しかも、コンゴの住民たちの苦難は今も続いています。これは「内戦」ではありません。外から仕組まれた戦争です。世界の産業資本がコンゴの驚くべき豊かさの鉱物資源をほしいままに収奪するためには、しっかりとまとまった独立国コンゴ共和国など存在しない方が良いのです。パトリス・ルムンバの遺体は硫酸で溶解されてしまったとされていますが、彼の魂は冥界でのたうち回っているに違いありません。
 筆が走りすぎてしまいました。これまでコンゴの人々が蒙ってきた「ショアー」、「ホロコースト」、「 ナクバ」のことを考えると、つい、私は興奮してしまうのです。拙著『闇の奥の奥』のp230に、私は、「過去五世紀に渡ってアフリカの黒人の上に際限なく積み上げられてきた「重荷」の総重量に比較すれば、アウシュヴィッツもヒロシマ・ナガサキも物の数ではない。死者の数で計っているのではない。罪業の重さ、罪業の深さで計っているのである」と書きました。次回はセトラー・コロニアリズムの主題に戻ります。

藤永茂(2018年6月18日)

妊娠女性に対する差別

2018-06-17 21:36:41 | 日記・エッセイ・コラム
 いま、Settler Colonialism(セトラー・コロニアリズム)(2)を書き上げようと努力しています。
 時間は無慈悲に過ぎて行きますが、気になるニュースがいろいろ目につきます。例えば、今日のニューヨーク・タイムズのネット版にアメリカの大企業でも妊娠女性に対する差別がしきりに行われていることが報じられています:

https://www.nytimes.com/interactive/2018/06/15/business/pregnancy-discrimination.html?emc=edit_th_180617&nl=todaysheadlines&nlid=681465930617

何とかして、今の世の中の仕組みを変えなければなりません。

藤永茂(2018年6月17日)

Settler Colonialism(セトラー・コロニアリズム)(1)

2018-06-02 23:40:56 | 日記・エッセイ・コラム
 殖民植民地主義と訳出されるのが普通のようですが、殖民と植民はもともと同じ意味の言葉です。一つの人間集団が自己の領土を確立しようとすると、その土地に以前から住んでいる人間集団(先住民)があれば、先住民を制圧しなければなりません。英国の植民地を例にすれば、米国やオーストラリアでは、多数の英国人が植民されて、その地での国家主権の確立は先住民の大量殺戮(ジェノサイド)によって行われ、政治的に無力化された残余の先住民に対しては残酷な同化政策が実施されました。英国によるインドの植民地化では、インドの全人口に対してジェノサイドを行うのは不可能でしたから、英国が現地行政機構を掌握して植民地を統治支配しました。インドは単に「コロニー」であり、米国やオーストラリアはセトラー・コロニーということになります。日本について言えば、朝鮮半島や台湾はコロニー、北海道はセトラー・コロニーということです。
 1961年、米国でTheodora Kroeber 著の『ISHI IN TWO WORLDS A Biography of the Last Wild Indian in North America』という本が出版されました。1911年8月29日の早朝、カリフォルニアのある畜殺場の柵囲いに中で犬に追い詰められた一人の男が発見されました。「イシ」は彼が属したと推定された先住民ヤヒ族の言葉で「人」を意味します。元々の名前は不明です。ヤヒ族インディアンは全員絶滅されたと思われていたのですが、一人だけ生き残りが発見されたということでした。この野生のインディアン「イシ」の良き友人となり、その記録を残したのは人類学者アルフレッド・クローバーでシオドーラ・クローバーの夫です。イシは“白人の伝染病”結核に感染して1916年に亡くなりましたが、アルフレッドはイシについて執筆しようとせず、妻のシオドーラが夫の残した資料にもとづいてイシの物語を出版したのは、夫が1960年に死亡した後のことでした。現在、入手しやすい日本語訳書は行方昭夫訳の『イシ 北米最後の野生インディアン』(岩波現代文庫)ですが、この訳書にはSF作家として高名なアーシュラ・K・ル=グウィンの筆になる注目すべき序文がついています。このKはクローバーのKで、彼女の父はアルフレッド、母はシオドーラです。序文の一部を引用させてもらいます:
「私の父で人類学者のアルフレッド・クローバーは、イシをもっとも親しく知っていた人物の一人であったけれども、イシの物語を執筆するのを望まなかった。その理由はよくは知らない。父が私たち子供にイシの話をしたという記憶はない。・・・どうして父がイシのことを口にしなかったか、私には想像がつくような気がする。一番大きな理由は心の痛みであろう。1900年にカリフォルニアにやってきた父は、無数のインディアンの部族や個人が破滅させられるのを目撃せねばならなかったに違いない。カリフォルニア原住民の言語、暮らし方、知恵などについての情報を、大量殺戮が完了する以前に、少しでも多く蒐集するというのが、何年にもわたる父の仕事であり、このため父は殺戮の目撃者となったのだ。ナチによるユダヤ人大量殺戮に等しいインディアン撲滅の生き残りであるイシは、父の親しい友人かつ教師になった。それなのに、それから僅か5年後に結核——これまた白人からの死の贈り物である——で死亡する。どれほどの悲しみや怒りや責任感に父は悩んでいたことだろう! イシの遺体を解剖するという話があった時、父が「科学研究のためとかいう話が出たら、科学なんか犬にでも食われろ、と私の代わりに言ってやりなさい。われわれは自分らの友人の味方でありたいと思います」と記したことで、父の苦悩は明白に理解できる。」(引用終わり)
 ここで、アーシュラ・K・ル=グウィンは「ナチによるユダヤ人大量殺戮に等しいインディアン撲滅」とはっきり言い切ります。そうです、パレスチナの土地で、ユダヤ人はセトラー・コロニアリズムを実行しているのです。それを達成するには、一人でも多くの原住民パレスチナ人を殺さなければなりません。できれば、カリフォルニアの白人たちが成し遂げたように原住民を皆殺しにしたいのです。これがパレスチナ問題の核心です。私たちは、その事態の進行を、西部劇映画ではなく、リアルタイムで見ているのです。
 米国がガザ地区でイスラエルのやっている大量虐殺を非難しない、いや、出来ないのは、自分が同じ罪業をなすことで国の繁栄を勝ち取ってきたからです。
 「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」とは、アドルノの有名な言葉です。私は、この軽薄な発言を嫌悪しますが、もしそうであるならば、米国の国民詩人ホイットマンはあのような詩の数々を書くべきではなかったのです。アドルノの発言についてはまた取り上げるつもりです。


藤永茂(2018年6月2日)