石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

6 投げ込み寺(浄閑寺)

2011-06-12 15:41:31 | 寺院

前回、江戸四宿の投げ込み寺について書き始めた。

板橋宿、千住宿の投げ込み寺にある遊女の墓をとり上げた。

その関連で、藤沢宿の遊女の墓にも触れた。

再び、江戸に戻って、次の順番は内藤新宿。

だが、その前にどうしても寄り道しなければならない寺がある。

三ノ輪の「浄閑寺」だ。

「浄閑寺」は、吉原の遊女の遺体の投げ込み寺として有名である。

     浄閑寺(荒川区南千住2)

 

「哀れな娼婦が白骨のゆくえを知らうと思ふ人あらば

哀れな娼婦が悲しき運命の最期を弔はんと欲する人あらば

乞ふ吉原の花散る大門を出て

五十軒をすぎ 土手八丁

その堤を左へとたどりたどって行き給へよ」(永井荷風)

 

「浄閑寺」の開基は、明暦元年(1655)。

その2年後の明暦3年、吉原が日本橋から引っ越してきた。

      江戸名所 吉原桜之図 (広重)

吉原の周りは寺町だった。

他に寺はあるのに、なぜ、「浄閑寺」が投げ込み寺となったのか。

傾城高尾の墓がある土手の道哲「西方寺」では、なぜ、いけないのか。

どうやら山谷堀・日本堤の外に「浄閑寺」があったことが関係あるらしい。

  名所江戸百景の内日本堤

遊女の遺体は、牛馬、犬猫の死体と同じ扱いだった。

人間として弔うと祟るから畜生にして葬る、という理屈である。

不浄なものを捨てるには、江戸の外で。

「浄閑寺」は、その条件にぴったりだった。

 

「浄閑寺」は「ついている」寺である。

明暦の大火、安政の大地震、大正の関東大震災、昭和の東京大空襲、いずれの火災にも焼け残った。

東京広しといえども、「浄閑寺」を除いてこれほどラッキーな場所はない。

安政の大地震では、命を落とした吉原の遊女1000人余りが「浄閑寺」に持ち込まれた。

関東大震災でも、逃げ遅れた遊女たちが吉原の弁天池に飛び込んで、みんな死んだ。

池は死体で盛り上がっていた、と伝えられる。

その大量の遺体も、骨灰として「浄閑寺」に葬られている。

 弁天池の死体 とうよこ沿線フィルムライブラリーより

 

本堂に向かって左側と背後が、「浄閑寺」の墓地。

狭小な墓地に特有なコンパクトな設計は、東上野や元浅草、深川の寺町の墓地と共通している。

関東大震災後改築した墓地だが、佇まいにどこか江戸や明治の雰囲気がある。

          浄閑寺墓地               新吉原総霊塔

投げ込み寺の証は、新吉原総霊塔にはめ込まれた川柳。

「生まれては苦界 死しては浄閑寺 花酔」。

総霊塔の壁の一部に明かりとりがあり、中の骨壷が見える。

ぎっしりと隙間なく詰め込んであるようだ。

  「生まれては苦界 死しては浄閑寺 花酔」

    明かりとりから見える骨壺

墓地の一角に美形の聖観音立像。

寛文七年だから、「浄閑寺」開基12年後の造立ということになる。

    寛文七年の聖観音菩薩

約340年もの間、25000人もの遊女たちの、怨嗟の声なき声を聞いてきた菩薩ならば、もっと厳しいお顔であってもいいのに、そう思ってしまうほど、おだやかに微笑む観音さまなのです。

 

新吉原総霊塔に背を向ければ、そこは永井荷風の碑。

   永井荷風の詩碑 奥は畳紙(たとう)を型どった筆塚

荷風本人は「余死するの時、後人もし余が墓など建てむと思はば、この浄閑寺の塋域娼妓の墓乱れ倒れたる間を選びて一片の石を建てよ」と『断腸亭日乗』に書き残したが、墓は雑司ヶ谷霊園の永井家墓域にあるので、後人がここに建てたのは碑。

碑に刻まれているのは『偏奇館吟草』の詩。

「われは明治のならずや。

その文化歴史となりて葬られし時

わが青春の夢もまた消えにけり。

(中略)

われは明治の兒ならずや

去りし明治の兒ならずや」

明治の文化の喪失を激しく悲嘆している詩なのだ。

碑を見て、一瞬、荷風にしてはモダンだなと思った。

詩を読んで、その思いは更に強まった。

もっとレトロであってほしい。

明治を感じさせてほしい、とこれは僕の感想です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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