上の写真は、JR「南千住駅」と地下鉄日比谷線「南千住駅」の西側を走る旧日光街道。
看板下部に「コツ通り商店街」とある。
あなたは「コツ通り」の「コツ」とは何だと思いますか。
「コツコツ努力する」、「ハイヒールの音がコツコツと夜道に響いた」のコツではなさそうだ。
コツと発音する漢字としては、忽然や祖忽の「忽」と「骨」がある。
「通り」を形容するのには「骨」の方がいいようだが、「骨通り」なんてあるのだろうか。
しかも商店街の通りの名前なのです。
でも、こんなヒントを聞けば納得するかもしれません。
「南千住駅」の旧日光街道の反対側は、江戸時代の仕置場(処刑場)跡地で、どこを掘っても人骨が出てくるという噂がある。
人骨が出るのは噂ではなく事実ですから、「骨通り」説はますます有力視されるのですが、荒川区の教育委員会の文化財担当官はこれを真っ向から否定します。
仕置場は、小塚原(こつかっぱら)にありました。
その頭の二文字をとっての「コツ通り」であるというのが、彼らの見解です。
何故なら、と担当官はその理由を述べます。
仕置場がここに設置される200年も前から、この地は「小塚原」と呼ばれていて、「骨」とは全く無縁だったというのです。
あなたは、これで納得しましたか。
でも、と私は思うのです。
「こつかっぱら」を略して「コツ」というのは、日本語の感覚としてちょっと変ではないか。
「コツカ」なら分かるけれど、「コツ」と呼ぶのには抵抗があるのです。
人骨だらけだから「コツ通り」、この方が自然だと思うのですが、どうでしょうか。
ここで、まず、仕置場とはどんな所か説明しておきましょう。
仕置場は、町奉行所による刑罰の執行場所であり、牢死、死罪、行き倒れなどの埋葬地でした。
また、試し切りや解剖の場でもあり、徳川家の馬の埋葬地でもありました。
次は、文化年間、コツ通りから仕置場を見た人の文章です。
「刑罪場あり。方三、四拾間。平原只草茫々として、路傍には死刑のものの捨札横たわり、西の方にハ、牛馬の死骸にや、数千の烏むらがりて、啄(ついばみ)喰らふその容体(ありさま)嘆息するに堪えたり」。(捨札とは、罪状書のこと)
左隅に首切り地蔵、中央左、獄門台の首、右ページ左下、捨札、右の小屋は小屋。
下の写真は、小塚原仕置場跡地を俯瞰したもの。
電車が通過中の線路がJR常磐線。
下部の高架線は地下鉄日比谷線で高架の下はJR貨物線です。
JR常磐線上部の墓地が回向院、常磐線と日比谷線の間が延命寺の境内と墓地。
撮影した場所は都営アパートの10階からですが、小塚原仕置場は、このアパートの敷地から回向院までの範囲に広がっていました。
都営アパートは926,928番に建っている
その広さ2000坪、間口60間(110m)、奥行き30間(55m)でした。
俯瞰写真右側の茶色のビルに面しているのが、旧日光街道、問題のコツ通りです。
回向院から貨物線の下まで、仕置場はコツ通りに面していました。
獄門台の晒し首は、見せしめの為ですから、道路から見えなければ意味がなかったのです。
茶色のビルの手前の白い建物が延命寺、その前で背中を見せて座しているのが、小塚原仕置場のシンボル首切り地蔵です。
小塚原仕置場のいかなる絵図にも、首切り地蔵は必ず描かれています。
『安政戊午頃痢流行記』 左下隅に首切り地蔵の左半身が見える。
ただし、場所が今とは違います。
もともとは、写真下部のJR貨物線の線路上にありました。
線路敷設の邪魔になると言う事で、現在地に引っ越してきました。
明治時代のことです。
常磐線、貨物線敷設時の人骨出土は、想像するだにすさまじい光景だったに違いありません。
埋葬された死体は年に約1000体。
その220年間分ですから、厖大な量です。
磔、獄門の場合は三日晒の上、「取捨」(死体に土をかける)されましたが、これだと犬が掘り起こすので、実際には4尺(1.2m)ほど掘り下げて埋葬していました。
それでも3,4年で一巡して、前の遺体の上に埋めなければならなかったといいます。
線路工事で掘り起こして出るのは、大量の骨とほんの少しばかりの土でした。
昭和30年代にも、同じ光景が繰り広げられました。
国鉄南千住駅の高架化と地下鉄日比谷線の開通、その工事の度ごとに骨が一杯掘出されました。
上は『日本行刑史(滝川政次郎)』掲載の写真。
延命寺の首切り地蔵の前に人骨が山のように積まれています。
昭和35年6月撮影とキャプションにあります。
昭和40年代には、魔の踏切の立体交差、コツ通りの貨物線下トンネル化、道路の拡張化などで、また、どっと骨が出ます。
道路拡張で回向院も境内を削られ、昭和49年改築現ビルが落成しますが、その際、削られた場所から樽詰の頭蓋骨が200ほど出ています。
改築された現回向院とその前のコツ通り
人骨出土騒ぎは、平成になっても続きます。
平成10年(1998)からの常磐新線つくばエキスプレス工事は地下トンネルでしたから、出るわ出るわ。
荒川区の小塚原刑場跡地発掘調査速報によれば、約130㎡の現場から出た頭蓋骨は200点、四肢骨1700点。
『杉田玄白と小塚原の仕置場』(荒川区教育委員会)より
棺や早桶に納められているものは皆無で、そのまま土に埋められている遺体ばかりだったそうです。
以上は、「コツ通り」の「コツ」は人骨説、の補強例でした。
話変わって、下の2枚の写真、どこが違うかすぐ分かりますか。
「コツ通り」から延命寺境内を撮ったもの。
左が2012年5月25日、右は2012年8月23日の撮影です。
そうです、左の写真には首切り地蔵のお姿がありません。
実は、去年の3.11東日本大震災で、お地蔵さんの左腕が落下、胴体部分がずれるという憂慮すべき事態が発生しました。
余震があれば崩落の危険もあったのです。
崩落の危険を避けるために、寺では、お地蔵さんを一度解体し、改めて復元する道を選びました。
クレーンで吊り下げられる地蔵の頭
そして、2012年8月23日、首切り地蔵は無事復元されました。
復元された首切り地蔵(2012.8.23)
解体して分かったことがあります。
首切り地蔵は、これまで、27個のブロックの組み合わせと言われてきましたが、本体25個、台座8個の石材ブロックからできていることが判明しました。
台座正面には、右から「天下泰平」、「奉納経」、「国土安泰」の文字が見られます。
「経」は「法華経」のこと。
日本全国66カ所を巡礼し、法華経を書写して奉納して建てられる石塔によく見られる銘文です。
実は、首切り地蔵の前には巨大な題目塔(元禄11年・1698造立)が立っています。
大正時代までここには法華庵というお堂がありました。
回向院の他に法華経信者が小塚原仕置場の無縁仏供養に関わっていたことになります。
それを裏付ける冊子もある。
『江戸繁昌記』(天保7年・1836)には「小塚原仕置場では、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経が競うように唱えられている」と紹介されています。
なお、『小塚原法華庵略縁記』によれば、法華庵は日蓮ゆかりの佐渡塚原根本三昧堂の写し霊場であるとのこと。
佐渡の二文字があれば、つい興奮してしまう私の悪い癖で、これは余計な寄り道、付け足しでした。
このブログのタイトルは「石仏散歩」ですから、石仏、石造物の紹介は欠かせません。
巨大な題目塔の後ろの馬頭観世音碑は、ちょっと風変わりな石碑です。
題目塔の裏の馬頭観世音碑
万延元年(1860)に村田清道という人が建立したものですが、裏面に「乗馬供養塔」とあります。
ブロック塀が背後にぴったりと立っていて、刻文を読むことが出来ないのは残念ですが、使役馬ではなく、乗馬であることが珍しい。
もう一つ珍しいのは、個人の持ち馬を葬り、供養していること。
江戸時代、死んだ牛馬は特定の捨て場に持ち込まれ、その埋葬処理などはが行いました。
彼らは皮を剥いで皮革に加工する権利を有していました。
小塚原に埋葬された牛馬も、例外なく、皮を剥がれていたことになります。
皮を剥がされずに埋葬されたのは、将軍家とその関連家の馬のみ。
その際、将軍家は金1000疋(2両2分)を穢多頭の弾左衛門に下賜したと言われています。
村田清道なる人物が将軍家と無関係だとするならば、いかなる事情でこうした例外的事例が生じたのか、さぞや巨額な裏金が動いたのではなかろうかと、これはゲスの勘ぐりでした。
あえて余計な話を付け加えれば、JRAの競走馬で墓標があるのは10頭に満たないでしょう。
みんな馬肉になってしまいます。
ダービー優勝馬でもこの宿命を免れません。
話を小塚原仕置場に戻しましょう。
処刑、埋葬が小塚原仕置場の主な役割ですが、試し切りの場所としても機能していました。
刀は武士の象徴です。
江戸期も後半になると装飾的存在になるのですが、それでも刀の価値は「切れること」にありました。
その判断は、実際に死体を切ることで下されました。
『徳川幕府刑事図譜』より様斬(ためしぎり)の図
試し切りには、刑死者の男の死体が用いられました。
土壇に置かれた首なし死体を試し切りしたのは、山田浅右衛門とその一門の者たち。
試し切りの後、刀は刀工のもとに戻されて、切断面に山田浅右衛門の名が刻まれ、品質を保証されることになります。
八代目山田浅右衛門山田源蔵の切断銘
人切り浅右衛門が昵懇にしていた武家に外務官僚川路左衛門尉聖謨がいます。
その川路が、嘉永6年(1853)、ロシアとの通商交渉の席上、ロシア使節団に日本刀一振りを贈答しました。
「此刀にて、ためしに人を切みるに、三人並べてこころよく胴切りにし、車骨を瓜の如くに切りたり」。
驚いたロシア人の「人を生きたまま切るのか」という質問に「刑人の屍を切る也。これをタメシと申候。かかる切るる刀さすは日本の常なり」と答えたと云います。『長崎物語(川路聖謨)』より
川路聖謨と聞けば、あの佐渡奉行の、と連想してしまう佐渡大好き人間である私の、つい余計な逸話の披露でした。
山田浅右衛門は士分ですらなく、浪人の身分でしたが、莫大な資産家でもありました。
浅右衛門之碑(「詳雲寺」豊島区西池袋)
その富は、家業である刀剣の鑑定と罪人の処刑だけでは達成できない巨額な金額だったと言われています。
物見高いは江戸町人、おいしい話は逃しません。
「朝右衛門きもをつぶして銭をとり」
「どろ坊の肝玉で喰ふ浅右衛門」
山田家には、胆蔵(きもぐら)があり、大甕には人間の脳みそが詰まっている、また張り巡らされた綱には一寸ばかりの茄子の如き人の肝がつり下げられている、と云う噂が流れていました。
それは噂ではなく、事実でした。
しかも「山田丸」、「浅右衛門丸」、「人丹」などと称して山田家から売り出されていた薬は、とんでもない高値でした。
人間の胆嚢が原料の人胆丸
薬の原料である人間のパーツは独占的に、しかも無料で入手できるのですから、笑いが止まらない。
死体を切るという怪しげな所業をしながら抜け目なく財を成す、人々に揶揄られても仕方ないでしょう。
最後に回向院。
小塚原回向院
小塚原仕置場での刑死者を供養するため、寛文7年(1667)、両国回向院の別院として建てられました。
仕置場の北に位置します。
コツ通りからビル寺院の、1階吹き抜け参道兼駐車場を過ぎると墓域にぶつかります。
墓域は2分されていて、左は一般、右が史跡エリアとなっています。
史跡エリアには、安政の大獄、桜田門外の変、外国公使襲撃などで刑死した幕末の志士88基の墓碑や鼠小僧次郎吉や高橋お伝などの著名悪党の墓が並んでいますが、数が多いので、あえてパス、2点の石碑だけ取り上げます。
左 志士の墓 右 盗賊等の墓
一つは首塚。
首塚(別名 供養塔)
史跡エリアの右の通路の左側におわす観音様ですが、別名「供養塔」と呼ばれてきました。
刻文は「為前亡後滅等往詣楽邦也」、「為殃罰殺害諸無魂離苦得楽也」。
『橋本佐内と小塚原の仕置場』のコラム執筆者亀川泰照氏はこれを「生きとし生けるもの、あるいは悪鬼・夜叉といった人にあらざる存在に至るまで、全て極楽浄土へ往生させ、また悪報や禍により亡くなった諸々の魂を苦しみから解放し往生を得る」と読んで、この碑は無縁の霊を供養する目的で建てられた首塚であると断定しています。
小塚原仕置場の雑務を取り仕切っていたのが、非差別民のであったため、刻文の「」の二文字をこれと関連付けて「合葬墓」と誤って解釈されたのではないかというのです。
もう一つは「千人塚」。
千人塚
回向院には『千人髑髏回向誌』が残されています。
商人がスポンサーになって千人塚を建て、無縁の供養をした記録です。
「笹乃雪喜三郎」とありますが、これは今も根岸に店を構える豆腐専門店「笹乃雪」のことでしょうか。
千人塚はその昔、何基もあったそうですが、今は回向院の一般墓地の南側に1基残っているだけです。
そして、回向院といえば、観臓記念碑。
観臓記念碑
小塚原仕置場が近代医学の原点であったことを物語るモニュメント。
碑文の書き出しはこうです。
「蘭学を生んだ解体の記念に
1771年・明和8年3月4日に杉田玄白・前野良沢・中川淳庵等がここへ腑分けを見に来た。それまでにも解体を見た人はあったが、玄白等はオランダ語の解剖書ターヘル・アナトミアを持ってきて、その図を実物とひきくらべ、その正確なのに驚いた」。
3人は日本医学の為に日本語訳の刊行を決意し、苦心の末、3年後の安永3年に『解体新書』を発刊するのです。
重要なポイントは2点。
解剖された遺体は刑死者のものであったこと。
だから小塚原仕置場で実施されたのでした。
もう1点は、杉田玄白等は腑分けを「見た」のであって、「した」のではないこと。
実際に解剖に当たったのは、90歳の老人でした。
しかも老人は、非差別民のという身分でした。
当時、腑分けの経験があるのはだけだったのです。
『蘭学事始』で杉田玄白は、老人が「若きより腑分けハ度々手にかけ、数人を解たり」と語ったと回顧しています。
杉田玄白の墓(「栄閑院」港区愛宕)
そして、老人は次々と臓器を指し示し、これまで「腑分けの度に医師かたに品々をさし示したれとも誰一人某は何、此れは何々なりと疑われた方はなかった」と云ったとも書き記しています。
この時点ではの老人の方が医者よりも正確な人体の知識があったわけで、この言葉は幕府の医師批判にもなりうる、と『杉田玄白と小塚原の仕置場』の執筆者は指摘するのです。
明治12年(1879)、小塚原仕置場は刑罰執行の場としての機能を終えます。
刑死者の埋葬地としての機能も雑司ヶ谷墓地への移転で完全に停止しました。
機能停止までの間の変化としては、まず、明治7年に、仕置場が高さ6尺の塀で囲われたことをあげなければなりません。
その背景には、法思想の変遷がありました。
獄門・晒し首は、死後なお見せしめの辱めを与える刑でしたから、それまでの仕置場に遮蔽物はありません。
刑の執行で罪は消滅するという近代法の思想が、塀を構築させたのです。
解剖の世界にも変化が生じました。
解剖の場所は仕置場から、医学教育の場へと移り、解剖は基礎医学の一分野として確立します。
解剖遺体も刑死者から献体へと移行してゆきます。
自らの意思で死後の献体を申し出た美幾(みき)女の墓が念速寺(文京区)にあります。
明治2年(1869)のことです。
遺体を傷つけることへの強い抵抗心が社会全般に行き渡っていた時代でした。
墓には「特志解剖第1号」とあります。
こうした歴史上の断片がモニュメントとして残っていることを見て、石造物の良さを改めて再確認するのです。
参考図書(というよりは丸写しネタ本)
『橋本佐内と小塚原の仕置場』(荒川区教育委員会2009)
『杉田玄白と小塚原の仕置場』(荒川区教育委員会2008)
『大江戸死体考』(氏家幹人 1999)
『日本行刑史』(滝川政次郎)
『甦る江戸』(江戸遺跡研究会)
『荒川区史跡散歩』(高田隆成)
『日光街道を歩く』(横山吉男)
『東京骨灰紀行』(小沢信夫)
このブログを見た友人から次のようなメールがありました。
「昨日、偶々俳句の「ごづ(牛頭)」という言葉を
広辞苑で引こうとしたら、その語はなかったのですが
「こつ」という語が目に入りました。
開いてみると、
こつ【小塚】
江戸千住の岡場所、小塚原の通称。伎、小
袖曽我薊色縫「三次がーの馴染は、二枚が
けの熱燗だな」とありました。
すでにご承知のことと思い、かつまた荒川区教委の
担当者の話にもあったのかもしれませんが、
偶然見つけたので念の為おしらせします」。
私の思い違いが明白なようですが、
間違いも、また愛嬌。
いつものことです。
本文を訂正することなく、そのままにしておきます。
間違いを指摘してくれた友人に感謝。(2012-09-13)
ゅ
なお、スサノオ神社の江戸時代の呼び名は牛頭天王社。個人的には小塚と牛頭をかけた通称かもしれないと思っています。
学生の提出したレポートの文献を調べているうちにここに行き着きました。丁寧にいろいろ書かれていてつい読みふけってしまいました。
ありがとうございました。
百歩譲って、過去に「ジンコツ通り」と呼ばれた史実があるなら、それの派生は考えられるけど、当然そんなものは無いわけで。
コツカバラ通りだから、コツ通り、が、どう考えても自然です。
とても興味深い、ディープなページでした。
子供に教えるときに使うかもしれませんが。
お骨(オコツ)、納骨(ノウコツ)
敬うときには骨に関しては音読みを使うのが多い気がします。
お寺さんによっては違うのかな?
焼いた骨をコツと呼ぶ、とすると埋葬だけだと当てはまらないし不思議ですね。
ちなみに読みやすいように覚えやすいように土地の名を利用して作られて移り変わってゆくのが通りの名だと思います。
奥州街道裏道が金曽木通りにそして金杉通りに変わるように。
上手く印象の良い当てはめる文字がくると良いですね。
霊感の強い人はぞくぞくしてしまいそうですね。
それ以来、人を連れて尾花に行く度に、回向院、延命寺、
を見学して江戸時代の歴史を説明してます。
コツは小塚が正しいのでしょうが、度重なる人骨の発見から、骨を連想させてしまうのは、普通の感覚だと思います。
そもそも「塚」とは死体を捨てる場所の事ですから小塚=骨は間違いではないのではないでしょうか。
江戸時代より前には、小さめの骨捨て場があった所だったのだろうと思います。
私が住んでる場所の近くには日本建国の前から神武天皇が、更には聖徳太子や楠木や夏の陣なと、歴史の中で何度も大きな戦の場になった場所があるのですが、地名は千塚と言いますし、耳塚なども保存されて残されていますので「塚」と聞いたら死体置き場というイメージしかありません。