石仏散歩

現代人の多くに無視される石仏たち。その石仏を愛でる少数派の、これは独り言です。

5 投げ込み寺(板橋宿、千住宿、藤沢宿)

2011-06-02 09:07:17 | 寺院

かつて「投げ込み寺」と呼ばれる寺があった。

江戸時代のことである。

「投げ込まれる」のは、遺体。

遊女の遺体だった。

遺体は筵に巻かれ、銭200文を付けて、寺に持ち込まれた。

江戸に「投げ込み寺」は、4カ寺あった。

あるいは、4カ寺しかないというべきか。

場所が限定されているからである。

品川、千住、板橋、内藤新宿の4か所。

いずれも街道の初宿である。

僕の住まいは板橋だから、まず、身近な所から始めようか。

板橋宿の「投げ込み寺」は「文殊院」。

          文殊院(板橋区仲宿)

「文殊院」は板橋宿の中ほど、仲宿にある。

道をはさんで向かい側は、宿本陣。

「文殊院」は、本陣飯田家の菩提寺でもあった。

天保年間(1830-44)、板橋宿には54軒の旅籠屋があった。

その約半数は飯盛り女を抱えていたと言われている。

宿場に遊女は付きものだった。

しかし、吉原以外の岡場所を幕府は厳しく取り締まってきた。

宿場振興のカンフル剤は遊女にありと公認の嘆願が相次いだ。

結局、享保3年(1718)、旅籠1軒に二人の飯盛り女を置くことを、幕府は許可することになる。

      東海道中栗毛野次馬 原の驛 (落合芳幾画 仮名垣魯文記)

      部屋の中から誘う飯盛女と街頭で呼び掛ける留女(とめおんな)

 

安永3年(1772)には、飯盛り女の総数も制限されて、品川宿は400人、板橋、千住は150人の飯盛り女と定められた。

飯盛り女とは字義通り給仕女であるが、春もひさいだ。

飯盛女とは、遊女であり、娼妓だった。

借金のかたとして、幼女の時に、旅籠屋=妓楼に引き取られ、15,6歳になると売春を強要された。

客がとれなければ、食事を抜かれ、折檻された。

丸裸で梁へ釣り上げ、打ちのめされた。

心身を病んでも看病されず、多くは早死した。

首をくくり、身を投げ、心の臓を突くなど自殺も絶えなかった。

30歳を迎えられれば、長生きだとされた。

死んでも身柄の引き取り手は現れない。

墓を造ることなどとんでもないことだった。

妓楼の抱え主は、遺体を筵に包み、200文を付けて「文殊院」に投げ込んだ。

 

その「文殊院」に、実は、「遊女の墓」がある。

板橋宿の観光コースの立ち寄りポイントとして、今や有名だが、逆にいえば、それだけ稀有な墓だということになる。

なぜ、稀有かと言えば、亡八と称された楼主が抱えの遊女の墓を建てたからである。

亡八とは「礼・義・廉・直・孝・悌・忠・信」の八徳を忘れた者。

忘八が亡八になった。

人面獣心の輩だとそしられた。

遊女の墓は、その人面獣心に仏ごころを見るから、珍しがられたのである。

墓地に入る。

標識に従って行くと「遊女の墓」に着く。

                               遊女の墓

墓地の奥左に円頭形角柱墓塔が立っている。

二重の上の台座には、横に「盛元」の文字。

妓楼の店名だ。

並んで小型の櫛形角柱墓が立ち、その前に左を向いて2基の墓が並んでいる。

「遊女の墓」と墨書する御影石には、「薄倖の美女の献身と悼み、平尾宿大盛川楼主建之 正面家族側面遊女」のやや感傷的な説明文が。

墓碑の正面の戒名の位号は、居士、大姉。

       墓正面の戒名         墓側面の戒名          

側面は信女だから、こちらが遊女の戒名と思われる。

時代は、文化から嘉永年間。

この信女の位号は、隣の櫛形角柱墓標とその手前の角柱墓標も同じで、これらも遊女の墓ではなかろうか。

    墓地の右側に立つ墓石

明治5年の「娼妓解放令」の別名は「牛馬解き放ち令」。

娼妓は牛馬と同じ扱いだった。

当然、人格、人権などはない。

死んでも物扱いだった。

だから戒名のついた遊女の墓は、極めて珍しいことになる。

 

その珍しい墓は、千住宿にもある。

千住宿には、投げ込み寺は二か所あった。

その一つ「金蔵寺(こんぞうじ)」の参道左側には2基の供養塔が立っている。

  金蔵寺(足立区千住2丁目) 左、遊女の墓   右、飢饉餓死者の墓

向かって左は「南無阿弥陀仏」、右は「無縁塔」とある。

その間に地蔵菩薩立像。

左の「南無阿弥陀仏」塔は、遊女の墓。

     大国屋の遊女の戒名        童女、童子が並ぶ碑面

台石に妓楼名とその遊女の戒名が並んでいる。

大半は「信女」だが、「童女」や「童子」もある。

「童女」は遊女見習いの禿(かむろ)だろうが、「童子」はどういう男の子か。

遊女が生んだ子供だろうか。

ちなみに右の「無縁塔」は、天保8年(1837)の大飢饉の餓死者の供養塔。

千住宿の死者827人というから大惨事であった。

 

もう一か所の投げ込み寺「不動院」の無縁塔は、遊女の合祀墓。

  不動院(足立区千住1丁目)         遊女の墓・無縁塔

台石には、設立世話人として、各妓楼とその主人名が記されている。

    妓楼とその主人名を刻んだ台石

天保14年(1843)の『日光道中宿村大概帳』によれば、千住宿の旅籠屋は62軒、うち飯盛旅籠は47軒であった。

飯盛旅籠からは冥加金が上納されていた。

公儀の目は、従って、妓楼の不正よりも娼遊女の逃亡などに向けられていた。

こうした楼主と官憲との密接な関係は、遊郭がなくなる昭和10年代まで続いた。

千住遊郭の表と裏には交番があったが、遊女たちの逃亡監視が主たる任務であったと言われている。

 

ところで、「遊女の墓」と言えば、藤沢市の遊女の墓を無視するわけにはゆかないだろう。

なんと43人もの遊女の墓が一か所にある。

場所は、遊行寺から西へ3-400メートルの地点にある浄土真宗「永勝寺」。

山門をくぐるとすぐ左手に、その「遊女の墓」はある。

墓域の奥、一段高く聳えるのが、妓楼「小松屋」の主人とその家族の墓。

 

   鳳谷山永勝寺      遊女の墓 奥の墓標は小松屋源蔵とその家族

台石に大きく「小松屋源蔵」と刻んである。

その前の広場のような墓域の縁に沿って並んでいるのが「小松屋」の遊女たちの墓。

墓の数は39基。

そこに48人の法名が記されている。

男女の内訳は、女43人、男5人。

 台石に小松屋源蔵          墓域を取り囲む遊女の墓

墓の正面に、法名と没年月日。

側面に施主、小松屋源蔵と遊女の俗名が刻まれている。

   遊女の墓の正面            遊女の墓側面

「永勝寺」から国道に出て右折、かつての藤沢宿の中ごろに「小松屋」なるラーメン屋があるが、あれが小松屋源蔵の子孫の店と紹介するブログがある。

「遊女の墓」には、藤沢市教育委員会の説明板が立っている。

「小松屋の抱えた飯盛女の墓は39基あり、内38基が宝暦11年(1761)から享和元年(1801)まで、小松屋の墓域に建てられている。このように供養されたものは少なく、借金のかたなど苦界の中で身を沈めたものが多い中、小松屋の温情がしのばれる」(藤沢市教育委員会) 

飯盛女=遊女・娼妓の墓を建てた旅籠屋=妓楼の主人は、ほぼ皆無に近かった。

それだけに小松屋源蔵の「温情」が際立つのだが、「温情」として偲んでいていいものだろうか。

説明板によれば、墓は18世紀後半の40年間に建てられている。

一方、女の法名は43人。

つまり、小松屋では1年に一人強の割合で遊女が死んでいたことになる。

お上からのお達しでは、一軒の旅籠屋に許された飯盛女は二人まで。

小松屋では、毎年、抱えの遊女の半分が死んでいったのだろうか。

お達しなどくそくらえ、違法、脱法行為は当たり前の時代だった。

小松屋に10人の遊女がいてもおかしくない。

それでも死亡率10%。

異常に高い数字である。

彼女たちの死んだ歳を考えれば、なおさらのことだ。

二十歳代の若死が多かったと言われている。

同業者の誰もしないことを小松屋源蔵はした。

死んだ遊女の墓を建てた。

その「温情」が偲ばれるというのなら、同時に遊女を若死にさせたあこぎな源蔵の「薄情さ」にも思いを致すべきだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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